70話 ただいま
「ただいま……フィー」
声は思っていたよりも小さかった。
長い間使っていなかったように喉がかすれていて、息と一緒にこぼれ落ちただけ。
それでも、フィーには届いたらしい。
「……え?」
泣き腫らした目が、大きく見開かれる。
私の手を握っていた小さな指が、ぴくりと震えた。
「アリーシャ……姉さま?」
「はい」
「今……声を……?」
「出したつもりなのですが、聞こえませんでしたか?」
「……」
フィーは、信じられないものを見るように、私の顔をじっと見つめている。
その後ろでは、アレックスも、ジークも、ネコも、お父さまもお母さまも動きを止めていた。
まるで時間が止まってしまったかのよう。
少し困る。
せっかく死後の世界から戻ってきたのに、誰も反応してくれない。
「フィー?」
「これは、夢なのでしょうか……?」
「夢ではありませんよ。ふふ、フィーは面白いことを言いますね」
「で、でも、アリーシャ姉さまは……」
フィーの視線が、私の胸元へ落ちた。
少し前まで動いていなかった胸……息をしていなかったことを思い出したらしく、顔が青くなる。
「フィー」
少し重い体を動かして、そっとフィーの頬に触れた。
「ほら、温かいでしょう? 夢ではありませんよ」
「……ぁ……」
「大丈夫、私は生きています。だって、約束しましたからね」
「うぅ……アリーシャ姉さま!!!」
「ふぎゅっ!?」
勢いよく抱きつかれた。
全身に力が入らない今の私には、なかなか強烈な突撃だ。
危うく、再び魂が抜けるところだった。
「フィ、フィー……もう少し、優しく……」
「ご、ごめんなさい!」
フィーは慌てて力を抜いたけど、でも、離れない。
「痛かったですか? 苦しいですか? また、どこか……」
「大丈夫です。少し驚いただけですよ」
「じゃあ……大丈夫、なんですか……?」
「えっと……はい、大丈夫ですよ」
正確に言うと、また世界の強制力が働く可能性があるため、絶対と言い切ることはできない。
ただ、そんなことを口にしても心配させるだけなので、これは秘密にしておこう。
「……本当に?」
「はい、本当ですよ」
「……アリーシャ姉様!」
フィーは、再び抱きついてきた。
ただ、先ほどよりもずっと優しくて。
壊れ物に触れるような抱擁だった。
「よかった……アリーシャ姉さま……本当に……」
「心配かけてごめんなさい」
「いえ、そんなことは……それよりも、私、ちゃんといい子にします」
「え?」
「もう、わがままを言いません。困らせたりもしません。もっと勉強もします。礼儀作法も、もっとがんばりますから……だから、だから……」
フィーの腕に力がこもる。
「もう、いなくならないでください……」
「……フィー……」
胸が痛んだ。
死んだ時とは違うもので、もっと鋭くてもっと苦しい痛み。
私は、この子になにを言わせているのだろう?
情けない。
胸の痛みの次は、自分に腹が立ってきた。
世界の強制力の心配はあるものの、今は忘れよう。
「フィー、大丈夫ですよ。私はもう、いなくなりません。ただ、フィーがいい子になるという約束は必要ありません」
「え? それは、でも……」
「むしろ、いい子になると私が困ります。もっと、わがままを言ってください。私を困らせてください。たくさん甘えてください」
「そんなことをしたら……」
「私は嬉しいですよ? ただし……」
大切なことを伝えるために、フィーの肩へ手を置く。
少しだけ体を離して、目を合わせた。
「これから、フィーが不安に思うことがあれば、私に話してください。いい子でいようとして一人で我慢しないでください」
「話しても……いいのですか?」
「もちろんです。姉妹ですから」
「アリーシャ姉さまに迷惑をかけても?」
「それは内容によりますね」
「えっ」
「たとえば、毎日一緒にお茶がしたい、というお願いなら大歓迎です。一日十回抱きしめてほしい、でも構いません」
「十回も……?」
「二十回でも」
「多いです……」
「では、百回」
「増えています!?」
ようやく、フィーの声にいつもの調子が戻った。
泣いていることに変わりはない。
でも、ほんの少しだけ笑顔になっていた。
よかった。
泣いていても、フィーは可愛い。
しかし、やはり笑っている方がもっと可愛い。
「それと、私も約束します」
「アリーシャ姉さまも?」
「はい。今後は、体調が悪い時に隠したり、一人で抱え込んだりしません」
今回、私は自分の体に異変が起きていることを知っていた。
それでも、大丈夫だと思い込もうとした。
破滅を恐れて、みんなに余計な心配をかけたくなくて……
結果として、なにも伝えることができないまま死んだ。
「なにかあった時は、フィーに話して、相談しますね」
「私で、いいんですか?」
「フィーがいいのです」
「……はいっ、がんばります!」
そう言って、フィーはにっこりと笑うのだった。




