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夢世  作者: 花 圭介
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夢世37

「優君! ほら見て、飛行機! あんなに高いところ飛んでるよー。すごいねー」

 女性は、優の手を引きながら、もう片方の手で飛行機を指差した。

 そよそよと柔らかな風が、女性の頬を撫で、髪を踊らせる。

 生気に満ちた草花が、太陽に向かって背を伸ばし、輝いている。

 どこからか聞こえてくる小鳥の囀りが、耳を潤す。

 きっと、早春の公園を散歩しているのだろう。

「う、う、うんぎゃー! うんぎゃー! うわあぁーん!」

 長閑なひと時を切り裂く赤ん坊の泣き声が、女性の胸元から響き渡る。

「あらあら、恵ちゃん、どうしたのかしら? お腹空いたの?」

 女性は近くのベンチに腰を下ろすと、抱っこ紐を解き、赤ん坊におっぱいをあげてみる。

 優も女性にならって、同じベンチの横に、ちょこんと座る。

 赤ん坊は、おっぱいを銜えると、勢い良く吸い始め、大人しくなった。

「やっぱりお腹が空いてたのねー。気づかなくてごめんねー」

 女性は優しい眼差しで、赤ん坊をしばらく見つめた後、また優へと向き直った。

「優君、お母さん、今とても幸せよー。可愛いあなた達と、優しいお父さんがいてくれて……こんな時がいつまでも続いてくれればいいねー」

 女性は心底そう思っているのだろう、天に祈るように、青空に視線を移すと、ゆっくりと目を閉じた。


「優しくて綺麗なお母さんじゃない。何で家出なんかしたのかしら?」

 映像に夢中になっていた俺は、花純さんの感想で、優の記憶を覗いている現状に気付かされた。

「……そうですね。でもこの記憶は何年も前の記憶ですよね。恵がまだ赤ん坊ですし……。もっとあとの記憶が見たいですね」

 俺は、映像に見とれ、停滞気味だった思考を巡らすため、少し間を置いてから意見する。

「そうね、人生なんてどこでどうなるか分からないものね……。記憶を早送りすることはできないけど、別の記憶に飛ぶことはできるから、目当ての記憶に当たるまで、それを繰り返すしかないわね」

 花純さんはそう言うと、手の平サイズの黒い箱を取り出し、そこに並ぶボタンからひとつのボタンを押した。

 画面にノイズが走り、また中央から広がる花火に続き、新たな映像が展開される。


「優、恵、おばさん達はどう? 良くしてくれてる?」

 病院のベッド上で、絞り出すような声で、女性が優と恵に話しかけている。

 先程の記憶に出てきた女性だと気付くのに時間を要してしまうほど、女性の容姿は変わってしまっていた。

 頬はこけ、長く艶やかだった髪は失われ、左腕には点滴の管が刺さっている。

「……うん、大丈夫だよ。お母さんは気にしないで。早く良くなることだけ考えてよ」

 優が必死に声の震えをおさえている傍で、恵が涙を目いっぱいに溜め、何度も頷く。

「ごめんね、きっと良くなってみせるから……そうしたら、また家族3人であの公園に行こうね」

 女性はそう言うと、優と恵を手で招いた。

「約束だよ、お母さん!」

「お母さん!」

 優と恵は、勢い良く女性に駆け寄ると、しがみつくように抱きついた。

「うん、分かった。お母さん頑張るからね……」

 女性は、2人を精一杯の力で抱きしめる。

 いつまでも『こうしていたい』との3人の思いが重なり、この場だけが、時間に抗おうと、まるで静止画のようだった。

 だが、時の砂はいつでも、どんな時でも、正しく下方へと流れ、時を刻む……。

 永遠と思われる宇宙の理でさえその範疇にある。ましてやちっぽけな人間に与えられた時間など考えるまでもない。

 女性の腕から次第に力が抜けていく……。

「……お母さん、そろそろ横にならないと」

 それに気付いた優は、まだまだ抱き合っていたい気持ちを押し殺して、女性に声を掛けた。

「……そうね、ごめんね」

 女性は、透けてしまいそうなほど儚げに微笑む。

 恵は優の言葉で、これ以上母と触れ合ってはいられないことを感じ取ったが、離れられない。

「恵……」

 優が恵の顔に目をやると、恵は訴えかけるように上目遣いで見つめ返した。

 だが、優が揺るがず、恵を見つめ続けると、渋々女性から手を離した。

「……貴方、どうか私とこの子達が、いつまでも一緒にいられるよう、見守っていてください」

 優が振り返ると、女性がベッドの脇のチェストに飾られた写真を見つめ、呟いていた。

 そこには、頼りなさげだが、とても優しそうな男性の姿があった。

 きっと優と恵の父親なのだろう……。

 原因は分からないが、今までの会話から、父親はすでにこの世にはいないだろうことが推察される。

 人の幸せとは、こうも容易く、儚く崩れ去ってしまうものなのだろうか……。


「……神様が本当にいるのかどうか、疑いたくなるわね!」

 花純さんは目を潤ませながら、今の率直な気持ちを吐き出した。

「……」

 俺は何と答えたら良いか分からず、たたじっとモニターを見つめ続けた。

 花純さんは俺の顔を一瞥した後、またリモコンのボタンを押して、次の記憶へと切り替えた。

 花純さんは、別に俺から気の利いたコメントをもらいたくて、気持ちを口にしたのではないのだろう。ただ、苦々しい気持ちを吐き出したかっただけなのだろう。

 そして、俺の顔を見た時には、俺が同様の気持ちであることを読み取り、きっとほんの少しだが、心の痛みを和らげられたはずだ。

 下手な慰めの言葉を掛けるよりも、沈黙が何よりも有り難かったに違いない。

 沈黙は金、雄弁は銀という諺が、特に当てはまる場面であったのではなかろうか。


「こら! まだ掃除も終わってないのかい! 全く愚図だね! いつになったらテキパキやれるようになるんだい! こっちだってただ飯食わせてやるほど、お人好しじゃないんだよ! 住まわせてやってるんだから、それなりの仕事をしてもらわないと、割に合わないんだよ! 分かってんのかい!」

 そう怒鳴り終わると、人となりが人相にも滲み出ている女が、虫けらでも見るような蔑んだ目で、優を見た。そして、床に倒れるほどの力で、めいいっぱいの平手打ちを優の頬に叩きつけた。

「お兄ちゃん!」

 恵が慌てて優に駆け寄ってくる。

「何だい! お前もぶたれたいのかい!」

 大きく右手を振り上げながら、女が叫ぶ。

「すいません! すぐに終わらせます! もう少しだけ待って下さい!」

 優は右手で切れた唇の血を拭い、左手は恵を庇うために広げた。

 優の『恵には手を出させない』という強い意思が込められた瞳に気圧されたのだろう……。女は「しっかりやるんだよ!」と捨て台詞を残して去っていった。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 恵が優に震えながら声を掛ける。

「……大丈夫だよ、こんなのどうってことない。お母さんが元気になるまでの辛抱さ」

 優は自分に言い聞かせるように答える。


「なんだっ! あの女っ! 家を飛び出した理由がよく分かったよ!」

 花純さんは吐き捨てるように言葉を放った後、すぐさまリモコンのボタンを押して映像を切り替えた。

 俺も、知らず知らずのうちに怒りで両拳に力がこもっていた。

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