夢世38 夕焼けの決断
「お母さん、具合はどう?」
優と恵が、いつものように病室の一番奥にある母親のベッドに向かうと、仕切られたカーテンを開けながら声を掛けた。
するとそこには、ベッドの上で上体を起こして話し込む母親と、その脇に立つ同世代の女性の姿があった。
見知らぬその女性は、茶髪のショートヘアで、ボロボロのダメージジーンズを履いて、少し毛羽だった白いポロシャツといった格好だった。背はきっと……母親より少し低いだろう。
「お! きみが優君で、そっちが恵ちゃんか。よろしくー」
その女性は、眩しさを感じるほど明るい笑顔で、優と恵に挨拶をした。太めの眉が印象的だ。
「……」
優と恵は、挨拶を躊躇した。警戒心を過敏にさせた環境が、すぐに他人を受け入れる気にさせない。
「優! 恵! 挨拶はどうしたの?」
優と恵の母親が、今まで見せてきた人品から想像出来ないほどの強い口調で、二人を叱った。
「こ、こんにちは」
優と恵は、母親に怒られたのが久しぶりのようで、びっくりしながら挨拶を返した。
「栞、良いのよ。急に知らないおばさんが現れたら、誰だって警戒するわよ。ねー」
そう言うと、その女性は二人に歩み寄り、優と恵の頭を両手でワシャワシャと撫でた。
「私の名前は小畑楓。貴方達のお母さんとは、中学からの付き合いよ。もう何年になるのかしら……。まあ、そんなことどうでも良いけど、最近連絡取れなかったから、調べて来ちゃったの」
楓と名乗る女性が、栞さんを睨む。
「だから何度もごめんって言ってるじゃない! ね! ね!」
栞さんは苦笑いしながら、何度も手の平を合わせ謝る。謝りながらも、その表情には喜びの色が窺える。きっと、旧友に会えて元気をもらえたのだろう。
恵の顔を見ると、母親の喜びが感じ取れたようで、自然と笑顔となっていた。
「ん? 二人とも良い笑顔、できるじゃない! 人間、笑った方が得だよ」
どうやら優もつられて笑顔になっていたようだ。楓さんは弾けるように笑うと、二人の頭をまたワシャワシャと撫でる。
それを見た栞さんが目を細めている。
楓さんを中心に、柔らかな光が広がり、再び春が舞い降りて来たかのようだった。
四人は、栞さんと楓さんの学生時代の思い出話で盛り上がり、束の間の安息に身を委ねた。
母の旧友によりもたらされた幸せな時間が、心を暖め、縮こまっていた好奇心を解放する。
優と恵は、母親と楓さんの次の話を待ちきれず、知らず知らずのうちに前のめりの体勢となっていた。
「優! その怪我、どうしたの?」
前のめりとなったことにより、露わになった優の胸元を見て、栞の顔が一瞬にして強張る。
「ああ……これ? ……学校で友達と鬼ごっこをして遊んでたら、他の子とぶつかっちゃったんだ。……参っちゃったよ。ぶつかった子、僕より小さな女の子でさ。すごく泣いちゃって……。保健室まで連れて行ったんだけど、おでこがちょっと赤くなってるだけなのに、なかなか泣き止んでくれなくて……」
優は慌てて胸元を隠し、その場を取り繕うように、大げさに身振り手振りを加えて、ベラベラと話し出した。
「……そう。優も、その子の怪我も、たいしたこと無いのね?」
栞さんが心配そうに尋ねる。
「うん! 全然大丈夫。その子、泣き止んでからは怪我のことなんか忘れて、元気いっぱいお喋りしてから、教室に戻って行ったから……」
優は、ため息混じりに答えた。
「元気に外で遊ぶのは良いけど、ちゃんと周りを見ながら遊ぶのよ」
栞さんがワザと厳しい目付きで優を見る。
「うん! 分かった、気をつけるよ。……それより、さっきのお母さん達の話の続きを聞かせてよ、お願い!」
優は楽しい時間を早く取り戻そうと、話を急かす。
「もう、優ったら……」
栞さんが困った顔で呟く。
「良いじゃない、減るもんでも無いしさ。恵ちゃんも、まだ聞きたいよね」
そう言うと楓さんは、恵の鼻先を人差し指でちょんと触れた。
「うん!」
恵は大きく頷く。
「もう、仕方無いわね」
栞さんの表情は、言葉とは裏腹ににこやかな笑みを湛えていた。
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楽しい時が過ぎ、楓さんを含む三人が病室を後にすると、外にはもう、燃えるような赤い夕焼けが迫ってきていた。
優と恵の足取りは重く、顔もさっきまでとはまるで別人のように生気が感じられない。
優達に歩調を合わせ歩いていた楓さんが、そんな二人を見て、声を掛けた。
「貴方達の家って、こっちなの?」
「……僕達の家は、こっちにはありません」
優が下を向いたまま答える。
「……じゃあ、今どこに向かっているの?」
楓さんが訝しげに聞く。
「今は、おばさんの家に向かっています」
相変わらず、優は下を向いたままだ。
「……行きたく無いの?」
「……」
「優君、君が隠した胸の傷……。本当はどうやってできたの?」
「……」
「女の子の方はおでこが赤くなった程度なのに、優君の胸は青アザになってる。しかもそれが、いくつもあるよね」
「……」
「栞は、ちょっと間が抜けてるところがあるし、すぐ人の言うこと信じちゃうとこあるから、あの言い訳で隠せるかもしれないけど……」
「お母さんには内緒にして下さい! お願いします!」
優は楓さんの顔を見上げると、必死でお願いした。
「……内緒にして欲しかったら、その胸の傷ができた本当の理由を教えて」
楓さんは、優の正面に回り込み、優の瞳をじっと見つめ続けた。その表情には、理由を聞くまで絶対に優を逃さない、という強い意思が感じられた。
「……この怪我は」
優は話した。毎日のように伯母から折檻を受けていること。自分達の家があっても保護者が居なければ、そこから学校へ通えないこと。母が伯母に養育費としてお金を渡しているが、食事も満足に与えられていないことなど……。
「やっぱりね! だと思った!」
楓さんは怒りを吹き飛ばそうとしたのか、誰に向けてでも無く、その場で大きな声で叫んだ。
その声は、優達だけでなく、他の通行人も足を止めるほど大きな声だった。
優と恵もその行動に驚いて、ポカンと楓さんを見つめる。
「あ! ごめんね。急に大きな声、出しちゃって……」
楓さんは二人の視線に気付くと、恥ずかしそうに謝った。
そして、優と恵にこう切り出した。
「優君、恵ちゃん、栞が元気になるまで、私が貴方達の保護者になっても良いかな?」
楓さんのその表情には、決して冗談では無い、決意の気持ちが表れていた。寄せられた太い眉がそれを肯定している。
思いもよらない申し出に、優と恵は顔を見合わせる。
「本当に……良いんですか?」
優と恵は、何の得にもならない、いやむしろ面倒なことなのに、楓さんがわざわざ自分達の保護者になるなんて、どうしても信じられなかった。
「もちろん! ……ただ、さっきも話した通り、私は昔からずぼらで……未だに売れない貧乏絵描きやってるから、逆に苦労かけるかもしれないけど……。そこは大目に見てね」
楓さんは申し訳なさそうに顔を赤らめる。
「大丈夫です! 炊事、洗濯、掃除、僕らはひと通りできますから! 楓さんがどんなにズボラでも身の回りのお世話ぐらい問題無いです!」
優と恵が、鼻息を荒くしながら答える。
「ああ、ありがと。……なんかちょっと、この感じ……腑に落ちないけど。まあ、これからよろしく」
楓さんは、何とも言えない表情のまま挨拶した。
俺と花純さんは、堪えきれず、声をあげて笑った。




