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最終決戦・十二年の因縁



 十二年前。


 私は、何もできなかった。


 お父さまとお母さまに守られ、何が起きているのかも分からないまま、すべてを失った。


 けれど、今は違う。


 私には、自分の意思がある。


 大切な人たちを守るための力がある。


 そして、何より。


 もう二度と、あの男に大切なものを奪わせたくなかった。


「……お兄様」


「なあに、ルシア?」


「私、もう逃げないよ」


 お兄様は、私を見つめた。


 そして、優しく微笑んだ。


「うん。分かってるよ」


 その手が、私の頬へそっと触れる。


「でも、忘れないでね。僕たちは一緒に戦うんだ。君が一人で頑張る必要はないから」


「……うん!」


 私は、しっかりと頷いた。


 そのときだった。




 ――バキィンッ!!




 大広間の天井から、鋭い黒槍が降り注いだ。


「ルシア、上!」


「……っ!」


 私は、咄嗟に両手を掲げた。


 透明な膜が、私たちの頭上へ広がる。

  



 ――ガガガガッ!!




 無数の黒槍が膜へ激突した。


 けれど、今度はただ受け止めるだけではない。


 私は、指先に意識を集中させた。


 反射。


 お兄様と何度も練習してきた、私の異能。


 相手の力を受け止め、その向きを変える。


「……返す!」




 ――バァンッ!!




 透明な膜が、眩い光を放った。


 黒槍が一斉に跳ね返り、エドモンドへ向かって飛んでいく。


「……おや?」


 エドモンドが、僅かに目を見開いた。


 けれど、彼の周囲に黒い霧が集まり、巨大な盾を形成する。




 ――ガァンッ!!




 黒槍が盾へ激突した。


 激しい衝撃が、大広間を揺らす。


「……なるほど」


 エドモンドは、楽しそうに笑った。


「先ほどより、ずっと上手くなっているね」


 私は、荒い息を整えながら答えた。


「……お兄様に、たくさん教えてもらったから!」


「それは素晴らしい」


 エドモンドの赤い瞳が、妖しく輝く。


「では、これはどうかな?」


 次の瞬間。


 床を覆っていた黒い霧が、無数の細い刃へ変化した。


 それらは私たちを囲むように浮かび上がり、一斉に襲いかかってきた。


「……っ!」


 私は、反射を発動しようとした。


 けれど。


「ルシア、右側だけお願い」


 お兄様の声が響いた。


「……え?」


「全部を一人で防ごうとしなくていいよ」


 その言葉に、私は頷いた。


「……うん!」


 私は右側へ向けて透明な膜を広げた。


 同時に、お兄様が左手を掲げる。




 ――ドォンッ!!




 左側から迫っていた黒い刃が、凄まじい重圧によって床へ叩き落とされた。


 右側では、私の反射が刃を弾き返していく。


 


 ――キィンッ! キィンッ!!



 金属がぶつかり合うような音が、次々と響いた。


「……やった!」


 思わず声が弾んだ。


 けれど、お兄様はエドモンドから視線を逸らさなかった。


「ルシア、まだだよ」


「……っ!」


 その瞬間。


 砕け散ったはずの黒い刃が、床の上で再び霧へ戻った。


 そして、無数の黒い腕となって伸び上がる。


「……しつこい!」


 私は、咄嗟に後ろへ飛び退いた。


 ルナが私の前へ飛び出し、鋭い牙で黒い腕へ噛みつく。




 ――バキィンッ!!




 黒い腕が砕け散った。


「ルナ!」


 白狼が、私を守るように立ちはだかる。


 その向こうでは、ガルとレオが次々と黒い霧を引き裂いていた。


「……ふふ」


 エドモンドが、楽しそうに笑った。


「素晴らしい連携だね」


 その赤い瞳が、お兄様へ向けられる。


「けれど、ゼノン」


「……何?」


「君は、いつまで私を押さえつけていられるのかな?」


 その言葉に、お兄様の表情が僅かに変わった。


 私は、思わずお兄様を見つめた。


「……お兄様?」


「大丈夫だよ」


 お兄様は、いつものように微笑んだ。


 けれど。


 その額には、僅かに汗が滲んでいた。


 王家の命令。


 重圧。


 影狼。


 三つの力を同時に使い続けることは、お兄様にとっても決して簡単なことではないのだ。


 エドモンドは、そのことに気づいていた。


「……そうか」


 彼は、ゆっくりと笑みを深めた。


「やはり、君にも限界はあるんだね」


「……当然だよ」


 お兄様は、静かに答えた。


「僕だって、無限に力を使えるわけじゃないから」


「ならば、いつかは命令が解ける」


「……そうだね」


 お兄様は、あっさりと頷いた。


「でも、その前に終わらせればいいだけでしょう?」


 その瞬間。


 お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝いた。


「――ガル、レオ」


 二匹の黒狼が、一斉に顔を上げる。


「行っておいで」




 ――ダンッ!!



 ガルとレオが、同時に地面を蹴った。


 漆黒の身体が、黒い霧の中を駆け抜ける。


 エドモンドが、僅かに目を細めた。


「……おや?」


 黒い霧が、二匹を捕らえようと伸びる。


 けれど。

 



 ――バキィンッ!!



 ガルが、その霧を噛み砕いた。


 続いてレオが、エドモンドの背後へ回り込む。


「……っ!」


 エドモンドの表情が変わった。


 その瞬間。


「――アルベルト!」


 お兄様の声が響いた。


「おう!」


 アルベルトが、地面を蹴った。


 銀色の剣が、月明かりを受けて輝く。


 狙いは、エドモンドの胸元。


 けれど。


「……甘いね」


 エドモンドが、ゆっくりと笑った。


 その足元から、黒い霧が爆発するように噴き出す。




 ――ドォォンッ!!



「……っ!」


 アルベルトが、咄嗟に剣を構え直した。


 けれど、黒い霧の勢いは凄まじかった。


「くそっ……!」


 その身体が、後方へ押し戻される。


「アルベルト!」


 私は、思わず叫んだ。


 そして、両手を前へ突き出した。


「――反射!」


 透明な膜が、アルベルトの前へ広がる。


 ――ガァンッ!!


 黒い霧が、膜へ激突した。


 私は、歯を食いしばった。


「……っ!」


 重い。


 まるで巨大な岩を押し返そうとしているみたいだった。


 けれど、ここで諦めるわけにはいかない。


「……うりゃああ」


 負けてたまるか!


 私は、今まで出したことない声を出しながら、さらに力を込めた。


 ――バァンッ!!


 黒い霧が、勢いよく跳ね返った。


「……おっと!」


 アルベルトが、驚いたように目を見開いた。


 そして、にやりと笑う。


「やるじゃねえか、ルシア!」


「……えへへ!」


 思わず笑ってしまった。


 けれど、すぐに表情を引き締める。


 まだ、戦いは終わっていない。


 エドモンドは、床へ押さえつけられたまま、私たちを見つめていた。


 その笑顔は、少しずつ薄れていた。


「……なるほど」


 彼が、小さく呟いた。


「君たちは、本気で私を殺すつもりなんだね」


 お兄様が、静かに答える。


「最初から、そう言っているでしょう?」


「……そうだったね」


 エドモンドは、ゆっくりと目を細めた。


「では、私も少し本気を出すとしよう」


 その瞬間。




 ――ドクンッ!!



 大広間全体が、脈打つように震えた。


「……っ!?」


 私は、思わず息を呑んだ。


 床を覆っていた黒い霧が、一斉に動きを止める。


 そして。


 まるで生き物のように、ゆっくりと天井へ集まり始めた。


「……何?」


 私は、思わず呟いた。


 黒い霧が、巨大な塊へ変化していく。


 その中心には、赤い光が二つ。


 まるで、巨大な獣の瞳のようだった。


「……おいおい」


 アルベルトが、呆れたように笑った。


「今度は何を出すつもりだよ」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「少し、昔を思い出してもらおうと思ってね」


 その言葉に、お兄様の表情が変わった。


「……エドモンド」


「覚えているだろう?」


 エドモンドの赤い瞳が、妖しく輝く。


「十二年前、アルフォンスが最後に私へ放った攻撃を」


 その瞬間。


 お兄様の表情から、完全に笑みが消えた。


「……お前」


 低い声だった。


 私は、思わずお兄様を見つめた。


「……お兄様?」


 けれど、お兄様は答えなかった。


 ただ、天井に集まる黒い霧を睨みつけていた。


 エドモンドが、ゆっくりと笑った。


「彼は、実に見事だったよ」


 その声には、どこか懐かしむような響きがあった。


「私を倒すために、自分の命さえ惜しまなかった」


「……黙れ」


 お兄様の声が、低くなる。


「けれど、残念だったね」


 エドモンドは、楽しそうに続けた。


「結局、相打ち。彼は私を殺せなかった」


 その瞬間。




 ――ミシッ!!



 お兄様の足元の石床に、亀裂が走った。


「……黙れって、言ってるよね?」


 その赤い瞳が、恐ろしいほど冷たく輝いていた。


 私は、思わず息を呑んだ。


 お兄様が、こんなにも怒っている。


 それほどまでに、十二年前の出来事は深い傷を残しているのだ。


 エドモンドは、そんなお兄様を見て満足そうに微笑んだ。


「……そうだよ、ゼノン」


 その声が、ゆっくりと低くなる。


「もっと怒るといい」


 天井の黒い霧が、巨大な獣の姿へ変化していく。


 鋭い牙。


 長い爪。


 そして、燃えるような赤い瞳。


 それは、ガルとレオを遥かに上回る大きさだった。


「……っ!」


 私は、思わず後ずさった。


 ルナが、私の前で低く唸る。


 アルベルトが、剣を構え直した。


「……なるほどな」


 その赤い瞳が、鋭く細められる。


「こいつが、お前の切り札ってわけか」


 エドモンドは、楽しそうに笑った。


「さあ、どうだろうね」


 そして、私へ視線を向けた。


「ルシア」


「……何?」


「君のお父さんが、どれほど強かったのか」


 その口元が、ゆっくりと吊り上がる。


「少しだけ、教えてあげよう」


 次の瞬間。


 ――グオオオオオッ!!


 巨大な黒い獣が、凄まじい咆哮を上げた。


 大広間の窓ガラスが、一斉に砕け散る。


「きゃあっ!」


 私は、咄嗟に反射を発動した。


 透明な膜が、私とルナを包み込む。


 けれど、その衝撃は凄まじかった。


「……っ!」


 私は、必死に踏ん張った。


 お兄様が、私の前へ立つ。


「……ルシア」


「……お兄様!」


 その赤い瞳が、優しく私を見つめた。


「怖い?」


 私は、少しだけ迷った。


 けれど、ゆっくりと首を横に振った。


「……怖いけど、大丈夫」


 そして、しっかりと顔を上げる。


「だって、お兄様がいるから!」


 お兄様は、少しだけ目を見開いた。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……そっか」


 その手が、私の頭を優しく撫でる。


「じゃあ、僕も頑張らないとね」


 私は、力強く頷いた。


「……うん!」


 アルベルトが、隣で不敵に笑った。


「ったく。こんな状況で仲良くしてんじゃねえよ」


「……アルベルトもいるよ!」


 私が言うと、アルベルトは一瞬だけ目を丸くした。


 そして、にやりと笑った。


「……ああ、そうだったな」


 剣を肩へ担ぐ。


「なら、三人で片づけるか!」


 お兄様が、静かに頷いた。


「そうだね」


 その赤い瞳が、鋭く輝く。


「……ルシア」


「なあに?」


「僕たちの力を、合わせよう」


 私は、しっかりと頷いた。


「……うん!」


 巨大な黒い獣が、ゆっくりと私たちへ顔を向ける。


 その赤い瞳が、異様に輝いた。


 私は、両手を前へ突き出した。


 お兄様が、片手を上げる。


 アルベルトが、剣を構える。


 ルナ、ガル、レオ。


 三匹の狼が、私たちの前へ並んだ。


 十二年前に失われた家族。


 その悲しみを、もう二度と繰り返さないために。


 私たちは、巨大な黒い獣へ向かって、一斉に踏み出した。


 ――ドォォンッ!!


 巨大な黒い獣が、前脚を振り下ろした。


「……っ!」


 私は、咄嗟に反射を発動した。


 透明な膜が、私たちの前へ広がる。


 ――ガァァンッ!!


 凄まじい衝撃が、全身へ伝わった。


「くっ……!」


 両足が、床を滑る。


 膜には、細かな亀裂が走っていた。


「ルシア!」


 お兄様が、すぐに片手を上げた。


 ――ドォンッ!!


 巨大な獣の前脚が、見えない重圧によって床へ叩きつけられる。


「……今だよ!」


「おう!」


 アルベルトが、地面を蹴った。


 銀色の剣が、月明かりを受けて輝く。


 ――ザシュッ!!


 獣の前脚が、深く切り裂かれた。


 けれど。


「……あ?」


 アルベルトが、僅かに眉を寄せた。


 切り裂かれた部分から黒い霧が溢れ出し、瞬く間に元の形へ戻っていく。


「……再生するのかよ!」


 エドモンドが、楽しそうに笑った。


「当然だろう? それは私の異能で作り出したものだからね」


「……面倒くせえな!」


 アルベルトが、舌打ちした。


 その瞬間。


 獣の巨大な尾が、横薙ぎに振るわれた。


「アルベルト!」


 私は、反射を発動しようとした。


 けれど。


 ――ガキィィンッ!!


 鋭い金属音が響いた。


「……え?」


 アルベルトの前に、一人の青年が立っていた。


 銀色の剣を両手で握り、巨大な尾を受け止めている。


「……っ、重てえな!!」


 聞き慣れた声。


 私は、思わず目を見開いた。


「……クレイド!?」


「おう!」


 クレイドが、歯を食いしばりながら答えた。


「ったく! ちょっと目ぇ離した隙に、何とんでもねえもんと戦ってんだよ!」


「クレイド!!」


 私は、思わず声を上げた。


 けれど、クレイドは振り返らなかった。


「喜ぶのは後にしろ!」


 そのまま剣を押し返す。


「――おらぁっ!!」


 ――バァンッ!!


 獣の尾が、大きく弾かれた。


 クレイドは素早く後方へ飛び退き、私たちの隣へ着地した。


「……ふぅ」


 そして、剣を肩へ担ぐ。


「危ねえ危ねえ。もうちょいで潰されるとこだったぜ」


「クレイド! 大丈夫!?」


「ああ。こんくらい余裕だ」


 そう言いながら、クレイドは私の頭を乱暴に撫でた。


「それより、お前は怪我してねえだろうな?」


「……ちょっとだけ」


「……あ?」


 クレイドの眉間に、深い皺が寄った。


「どこだよ」


「……腕」


 私は、すでに塞がりかけている傷を見せた。


 クレイドは、しばらくそれを見つめていた。


 そして。


「……誰にやられた」


「……ミア」


「……あいつかよ」


 クレイドが、低く舌打ちした。


「ったく、ろくなことしねえな」


「でも、もう大丈夫だよ!」


「大丈夫じゃねえだろ。怪我してんだからよ」


 そう言いながら、私の腕をそっと持ち上げる。


 その手つきは、驚くほど優しかった。


「……痛むか?」


「ううん。もう大体塞がったし平気!」


「……ならいいけどよ」


 クレイドは、小さく息を吐いた。


 その様子を見ていたアルベルトが、呆れたように笑う。


「お前、いつの間に来たんだよ」


「あ?」


 クレイドが顔を上げる。


「西側の敵、片づけてきたんだよ」


「全部か?」


「ああ。クロードが残りを見張ってる」


「……ほう」


 アルベルトが、感心したように眉を上げた。


「やるじゃねえか」


「誰に育てられたと思ってんだよ」


「俺だな」


「……そういうことだが、そこは否定しろよ!」


 思わず、私は笑ってしまった。


 こんな状況でも、二人はいつもどおりだ。


 けれど。


「……さて」


 クレイドが、ゆっくりと剣を構え直した。


 その赤い瞳が、巨大な黒い獣へ向けられる。


「で、あれをぶっ倒せばいいんだな?」


 お兄様が、小さく笑った。


「うん。ただ、普通に斬っても再生するみたいなんだ」


「……なるほどな」


 クレイドは、獣を見上げた。


「じゃあ、元を断つしかねえってことか」


 その言葉に、お兄様が頷く。


「そうだね」


 そして、エドモンドへ視線を向けた。


「彼の異能を止めれば、あの獣も消えるはずだよ」


「……なら話は早え」


 クレイドが、不敵に笑った。


「俺とアルベルトで道を作る。ゼノンはあいつを押さえとけ」


「……分かった」


「ルシア」


 クレイドが、私を振り返る。


「お前は、俺たちを援護してくれ」


「……うん!」


「ただし、無茶すんなよ」


「分かってる!」


「……ほんとかよ」


 クレイドが、疑わしそうに目を細めた。


「お前、昔っから無茶するからな」


「……そんなことないもん!」


「あるだろ!」


 アルベルトが、横から口を挟む。


「お前も人のこと言えねえけどな」


「……あ?」


「似た者同士だっつってんだよ」


「誰がだよ!」


 私は、思わず吹き出した。


「……ふふっ!」


 クレイドが、呆れたように私を見る。


「……何笑ってんだよ」


「だって、二人ともそっくりなんだもん!」


「似てねえ!」


「似てねえよ!」


 二人の声が、見事に重なった。


 私は、とうとう声を上げて笑ってしまった。


「……あははっ!」


 お兄様も、隣で楽しそうに微笑んでいる。


「……本当に仲がいいね」


「よくねえよ!」


 またしても、二人の声が重なった。


 けれど、その直後。


 ――グオオオオッ!!


 巨大な獣が、再び咆哮を上げた。


「……っ!」


 大広間の空気が、激しく震える。


 クレイドが、素早く剣を構え直した。


「……ったく」


 その赤い瞳が、鋭く細められる。


「空気読めねえ化け物だな!」


 ――ダンッ!!


 クレイドが、地面を蹴った。


 その後を追うように、アルベルトも駆け出す。


「おい、クレイド!」


「あ!?」


「足引っ張んじゃねえぞタコ!」


「誰がタコだ!そっちこそな!」


 二人が、同時に獣へ向かっていく。


 その動きは、驚くほど似ていた。


 踏み込むタイミング。


 剣を振るう角度。


 相手の動きを読む癖。


 長い年月を一緒に過ごしてきた二人だからこそできる連携だった。


 ――ザシュッ!!


 アルベルトが、獣の右前脚を切り裂く。


 その瞬間、クレイドが左側へ回り込んだ。


「――おらっ!!」


 ――ガキィンッ!!


 クレイドの剣が、獣の爪を弾き飛ばす。


 獣が、苦しそうに咆哮を上げた。


 けれど、すぐに黒い霧が集まり、傷ついた部分を再生させていく。


「……くそっ!」


 クレイドが、舌打ちした。


「キリがねえな!」


「だから言っただろ!」


 アルベルトが叫ぶ。


「斬るだけじゃ駄目なんだよ!」


「分かってるっつの!」


 そのとき。


 お兄様が、静かに片手を上げた。


「……ルシア」


「なあに?」


「あの獣を、少しだけ引きつけられる?」


「……うん!」


 私は、しっかりと頷いた。


 そして、両手を前へ突き出す。


 透明な膜が、巨大な獣の前へ広がった。


「……こっち!」


 獣の赤い瞳が、私へ向けられる。


 次の瞬間。


 ――ドォンッ!!


 巨大な前脚が、膜へ叩きつけられた。


「……っ!」


 私は、歯を食いしばった。


 けれど、今度は反射しない。


 ただ、受け止める。


 獣の注意を、私へ向けるために。


「……ルシア!」


 クレイドが、叫んだ。


「無茶すんなっつっただろ!」


「……大丈夫!」


 私は、必死に答えた。


「お兄様を、信じてるから!」


 その瞬間。


 お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝いた。


「――今だよ」



 ――ドォォンッ!!



 凄まじい重圧が、巨大な獣の身体へ襲いかかった。


 獣の四肢が、床へ叩きつけられる。


「……グオオオッ!!」


 その巨体が、激しく暴れた。


 けれど、動けない。


 お兄様は、さらに片手を握り締めた。


「――潰れろ」



 ――バキィィンッ!!



 巨大な獣の身体に、無数の亀裂が走った。


 その隙に、ガルとレオが飛びかかる。


 二匹の黒狼が、獣の首元へ牙を突き立てた。



 ――ガァンッ!!



 黒い霧が、激しく弾ける。


「……っ!」


 エドモンドの表情が、初めて大きく歪んだ。


「……馬鹿な……!」


 その赤い瞳が、お兄様へ向けられる。


「私の異能を……!」


 お兄様は、静かに微笑んだ。


「……残念だったね」


 その声は、恐ろしいほど穏やかだった。


「僕たちは、一人じゃないんだよ」


 そして。


「――ルシア!」


「うん!」


 私は、両手を握り締めた。


 透明な膜が、巨大な獣を包み込む。


 獣の身体から、黒い霧が溢れ出す。


 けれど、その霧は外へ逃げられなかった。


「……っ!」


 私は、全身に力を込めた。


「……これで!」


 膜が、ゆっくりと収縮していく。


 黒い霧が、内側へ押し戻される。


 獣が、苦しそうに咆哮を上げた。


「……消えて!!」



 ――バァァンッ!!



 透明な膜が、一気に収縮した。


 その瞬間。



 ――パキィィンッ!!



 巨大な黒い獣が、音を立てて砕け散った。


 黒い霧が、大広間へ舞い上がる。


 けれど、今度は再生しなかった。


 お兄様の重圧によって、霧そのものが押し潰されていく。


 やがて。


 巨大な獣は、跡形もなく消え去った。


「……はぁ……はぁ……!」


 私は、その場に膝をついた。


 全身から、力が抜ける。


「……ルシア!」


 クレイドが、すぐに駆け寄ってきた。


「おい! 大丈夫か!?」


「……うん」


 私は、顔を上げた。


「ちょっと、疲れちゃっただけ……」


「……ったく!」


 クレイドが、深い溜息を吐く。


「だから無茶すんなって言っただろ!」


「……でも、倒せたよ?」


「そういう問題じゃねえ!」


 その声は、怒っているようで。


 けれど、どこか震えていた。


 私は、少しだけ目を見開いた。


「……クレイド?」


「……お前なぁ」


 クレイドは、私の前へしゃがみ込んだ。


 そして、乱暴に頭を撫でる。


「俺が、どんだけ心配したと思ってんだよ」


「……ごめんね」


「……ったく」


 クレイドは、小さく息を吐いた。


「……無事なら、それでいい」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 私は、そっと微笑んだ。


「……ありがとう、クレイド」


「……礼なんざいらねえよ」


 クレイドは、照れくさそうに顔を逸らした。


 その様子を見ていたアルベルトが、にやりと笑う。


「……お前、ほんっとルシアに甘いな」


「……あ!?」


 クレイドが、勢いよく振り返った。


「誰がだよ!」


「お前だよ」


「うるせえ!」


 私は、思わず笑ってしまった。


 けれど。


「……ははは」


 そのとき。


 大広間の奥から、低い笑い声が響いた。


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


 エドモンドだった。


 床へ押さえつけられたまま、彼は笑っていた。


 けれど。


 その表情には、先ほどまでの余裕がなかった。


「……素晴らしい」


 エドモンドが、小さく呟いた。


「本当に……素晴らしいよ」


 その赤い瞳が、私たちを見つめる。


「まさか、私の獣を消し去るとはね……」


 お兄様が、静かに歩き出した。


「……エドモンド」


「……何だい?」


「もう、終わりだよ」


 その声が、大広間へ響いた。


 エドモンドは、しばらくお兄様を見つめていた。


 そして。


「……そうかな?」


 ゆっくりと、笑みを浮かべた。


 その瞬間。



 ――ドクンッ!!



 再び、大広間の空気が震えた。


「……っ!?」


 私は、思わず息を呑んだ。


 けれど、今度は黒い霧ではなかった。


 床の下。


 屋敷の奥深くから。


 何かが、脈打つような音を立てていた。


「……何だ?」


 クレイドが、眉を寄せる。


 アルベルトも、険しい表情で周囲を見渡した。


「……おいおい」


 その赤い瞳が、鋭く細められる。


「まだ何か仕込んでやがんのか?」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「……保険だよ」


「……保険?」


 お兄様の表情が、変わった。


 エドモンドは、ゆっくりと目を細める。


「私はね、ゼノン」


 その声が、静かに響いた。


「十二年前の失敗から、学んだんだよ」


「……何?」


「どれほど強い力を持っていても、油断すれば足元を掬われる。だから今回は、万が一のことも考えて準備しておいたんだ」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「私が死ぬか、意識を失えば、屋敷中に仕込んだ異能が一斉に発動するようにね」


「……え?」


 私は、思わず息を呑んだ。


 屋敷中……?


 その言葉の意味を理解した瞬間、背筋が冷たくなった。


「……お前」


 アルベルトの声が、低くなる。


「まさか、屋敷ごと吹き飛ばすつもりか?」


「正解だよ」


 エドモンドは、嬉しそうに頷いた。


「もっとも、ただ爆発するだけではないけれどね。屋敷の地下に仕込んだ霧が、建物の内部からすべてを破壊するんだ」


「……そんな!」


 私は、思わず周囲を見渡した。


 この屋敷には、まだたくさんの人がいる。


 外で戦っているアルやノエルさん。


 セドリックさんにラビ。


 クロードさんや警備兵たち。


 そして、屋敷で働く使用人たちも。


「……みんなが、危ない……!」


 エドモンドは、そんな私を見て楽しそうに笑った。


「そうだね。今すぐ逃げれば、何人かは助かるかもしれないよ」


「……っ!」


「けれど、ゼノン」


 その赤い瞳が、お兄様へ向けられる。


「君が私を殺せば、全員が死ぬ」


 お兄様は、何も答えなかった。


 ただ、静かにエドモンドを見つめていた。


「さあ、どうする?」


 エドモンドが、ゆっくりと笑みを深める。


「私を殺して、大切な仲間たちを失うか。それとも、私を生かしてルシアを差し出すか」


 その瞬間。


 ――ミシッ!!


 お兄様の足元に、亀裂が走った。


「……随分と、卑怯なことをするんだね」


 その声は、驚くほど冷たかった。


「卑怯?」


 エドモンドは、不思議そうに首を傾げた。


「勝つために手段を選ばないのは、当然だろう?」


「……そう」


 お兄様が、小さく息を吐いた。


「だったら、僕も手段を選ばないよ」


 その赤い瞳が、鮮やかに輝いた。


「――エドモンド。異能の発動を止めろ」


 王家の命令。


 ――ドォンッ!!


 エドモンドの身体が、さらに深く床へ押さえつけられた。


「……ぐっ!」


 けれど。


 ――ドクンッ!!


 床下から、再び不気味な音が響いた。


「……っ!?」


 私は、思わず足元を見つめた。


 止まっていない。


 お兄様の命令が効いていないの……?


「……なるほど」


 お兄様が、小さく呟いた。


 エドモンドは、苦しそうに顔を歪めながらも笑っていた。


「言っただろう? すでに仕込んであるんだよ」


「……そういうことか」


 お兄様の赤い瞳が、鋭く細められる。


「お前が今、直接操っているわけじゃないんだね」


「そのとおり」


 エドモンドは、満足そうに微笑んだ。


「私の意思とは関係なく、条件を満たせば発動する。君の命令で私を縛っても、仕掛けそのものは消えないんだ」


「……くそっ!」


 クレイドが、低く舌打ちした。


「だったら、仕掛けを壊しゃいいんだろ!」


「……簡単に言うね」


 エドモンドが、楽しそうに笑う。


「屋敷の地下だけでも、相当な数を仕込んであるんだよ?」


「だから何だよ!」


 クレイドが、剣を握り直した。


「全部ぶっ壊しゃ済む話だろうが!」


「はは。威勢がいいね」


 けれど、お兄様は静かに考え込んでいた。


 その赤い瞳が、床へ向けられる。


「……ルシア」


「なあに?」


「少し、手伝ってくれる?」


「……うん!」


 私は、すぐに頷いた。


 お兄様は、私の手を取った。


「地下から流れてくる力を感じられる?」


「……力?」


「うん。さっき、ミアを操っていた霧を逆流させたときみたいに」


 私は、ゆっくりと目を閉じた。


 床の下。


 そこから伝わってくる、奇妙な感覚。


 まるで、何本もの細い糸が、屋敷の隅々へ伸びているみたいだった。


「……あ」


 私は、小さく声を漏らした。


「……分かるかもしれない」


 お兄様が、優しく微笑んだ。


「本当?」


「うん。でも……」


 私は、眉を寄せた。


「すごく、たくさんあるよ」


「……そうだね」


 お兄様が、静かに頷く。


「だから、全部を一人で何とかしようとしなくていい」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「……お兄様?」


「僕たちには、仲間がいるでしょう?」


 お兄様は、そう言って微笑んだ。


 そして、アルベルトへ視線を向ける。


「アルベルト」


「あ?」


「みんなに連絡をお願いできる?」


「……ああ」


 アルベルトは、すぐに頷いた。


「任せとけ」


 そして、外套の内側から小さな通信機を取り出した。


「――こちらアルベルト。全員、聞こえるか!」


 少しの雑音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。


『はいはーい! 聞こえてますよー!』


 ラビだった。


『どうしたんですか、学園長?』


「屋敷の地下に、エドモンドの異能が仕込まれてる!」


『……え?』


「そいつが発動したら、屋敷ごと吹き飛ぶらしい」


『……うわぁ』


 ラビの声が、少しだけ低くなった。


『それ、結構まずいやつじゃないですか?』


「結構どころじゃねえよ!」


 アルベルトが、怒鳴った。


「だから、今すぐ地下の仕掛けを探せ!」


『了解でーす!』


 続いて、セドリックさんの声が聞こえた。


『こっちは東側の敵を片づけた。地下への通路を確認する』


「頼む!」


『ああ。ラビ、行くぞ!』


『はーい!』


 通信が切り替わる。


『こちらアル。正門の敵は、ほぼ制圧した』


 アルの声だった。


『何かあったのか?』


「屋敷の地下に仕掛けがある。ノエルと一緒に確認してくれ」


『了解した』


 続いて、ノエルさんの静かな声。


『……地下なら、僕が探せる』


「……あ?」


『地面の中に異物があれば、ある程度は分かる』


 その言葉に、アルベルトの表情が明るくなった。


「おお! そりゃ助かる!」


『……任せて』


 さらに、クロードさんの声が割り込んできた。


『ちょっとちょっと! 俺にも仕事ちょうだいよ!』


「お前は西側の警備を続けろ!」


『えー!? 俺だけ仲間外れ!?』


「違えよ! まだ敵が残ってんだろうが!」


『はいはい、分かりましたよー!』


 通信が切れた。


 アルベルトは、小さく息を吐いた。


「……よし」


 そして、エドモンドへ向き直る。


「残念だったな」


 エドモンドが、僅かに眉を寄せた。


「……何がだい?」


「お前が思ってるほど、こっちは無能じゃねえってことだよ」


 その言葉に、クレイドが不敵に笑った。


「そういうこった」


 私は、思わず微笑んだ。


 みんながいる。


 みんなが、私たちを助けようとしてくれている。


 だから。


 私も、頑張らなきゃ。


     ◇


 しばらくして。


 通信魔道具から、ノエルさんの声が響いた。


『……見つけた』


「……っ!」


 私は、思わず顔を上げた。


 アルベルトが、すぐに魔道具を握り直す。


「どこだ!?」


『地下の東側。壁の中に、黒い塊がある』


『こっちでも確認した』


 アルの声が続く。


『ただの霧じゃない。壁の内部に根を張るように広がっている』


「……根?」


 お兄様が、小さく呟いた。


 その赤い瞳が、エドモンドへ向けられる。


「……なるほどね」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「気づいたかい?」


「うん」


 お兄様は、静かに頷いた。


「屋敷全体を、一つの異能で繋いでいるんだね」


「……正解だよ」


 エドモンドが、嬉しそうに笑った。


「地下の中心にある核を通して、屋敷中へ力を流しているんだ」


「……核?」


 私は、思わず呟いた。


 お兄様が、私を見る。


「ルシア。さっき感じた糸を、もう一度探してみて」


「……うん!」


 私は、ゆっくりと目を閉じた。


 床の下から伝わってくる、無数の力の流れ。


 それらを、一つずつ辿っていく。


 東側。


 西側。


 正門。


 庭園。


 そして。


「……あ!」


 私は、目を開いた。


「お兄様!」


「なあに?」


「全部、同じところに繋がってる!」


 お兄様の赤い瞳が、嬉しそうに細められる。


「……やっぱりね」


 その瞬間。


 エドモンドの笑顔が、僅かに止まった。


「……ほう」


 私は、床を指さした。


「この大広間の、真下だよ!」


 アルベルトが、目を見開いた。


「……は?」


 そして、ゆっくりと足元を見る。


「……おいおい」


 その口元が、引きつった。


「よりによって、ここかよ!」


 クレイドが、剣を握り直した。


「……なら、床ぶっ壊すか?」


「待て待て!」


 アルベルトが、慌てて止める。


「下に何があるか分かんねえだろ!」


「じゃあ、どうすんだよ!」


「今考えてんだろうが!」


 二人が言い合う。


 けれど、お兄様は静かに微笑んでいた。


「……大丈夫だよ」


 その声に、私たちは顔を上げた。


「……お兄様?」


「核の場所が分かったなら、あとはそこへ流れる力を止めればいい」


 お兄様の赤い瞳が、私へ向けられる。


「ルシア」


「……うん!」


「さっき、ミアを助けたときのことを覚えてる?」


 私は、しっかりと頷いた。


「……うん!」


「同じことを、もう一度できるかな?」


 私は、少しだけ考えた。


 あのとき。


 エドモンドからミアへ流れていた力を、反射で逆流させた。


 今回は、もっと大きな力。


 屋敷全体へ広がる異能。


 簡単ではない。


 けれど。


「……やってみる!」


 私は、力強く頷いた。


 お兄様が、優しく微笑んだ。


「うん。僕も手伝うよ」


 そのとき。


「……ははは」


 エドモンドが、突然笑い始めた。


「……実に素晴らしい」


 その赤い瞳が、私へ向けられる。


「まさか、そこまで異能を使いこなせるとはね」


 けれど、その笑みがゆっくりと深くなる。


「……でも」


 その声が、低くなった。


「本当に、そんなことをしていいのかい?」


「……え?」


 私は、思わず首を傾げた。


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「核に流れる力を逆流させれば、確かに仕掛けは止まるかもしれない」


 その赤い瞳が、妖しく輝く。


「けれど、もし失敗すれば……」


 ――ドクンッ!!


 床下から、再び不気味な音が響いた。


「……っ!」


 私は、思わず足元を見つめた。


「その瞬間、すべてが発動するかもしれないよ?」


 エドモンドは、嬉しそうに笑った。


「君の大切な家族も、仲間も……全員、死んでしまうかもしれない」


 私は、拳を握り締めた。


 怖い。


 失敗したら、みんなが危ない。


 けれど。


「……だったら」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「失敗しないように、頑張るだけだよ!」


 エドモンドが、僅かに目を見開いた。


「……おや?」


 私は、まっすぐ彼を見つめた。


「私、一人じゃないもん!」


 その言葉に、お兄様が優しく微笑んだ。


「……そうだね」


 アルベルトが、不敵に笑う。


「おう。俺たちもいるしな」


 クレイドも、剣を肩へ担いだ。


「ったく。やるしかねえだろ」


 私は、三人を見つめた。


 そして、しっかりと頷いた。


「……うん!」


 その瞬間。


 お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝いた。


「――始めようか」


 私は、ゆっくりと両手を床へ向けた。


 透明な膜が、足元へ広がっていく。


 床の下。


 無数の糸のように伸びる、エドモンドの異能。


 その流れを、一つずつ感じ取る。


「……っ!」


 私は、歯を食いしばった。


 今までとは、比べものにならないほど複雑だった。


 けれど、お兄様の手が、そっと私の肩へ置かれる。


「……大丈夫だよ、ルシア」


 その声が、優しく響いた。


「焦らなくていい。僕がついてるから」


「……うん!」


 私は、ゆっくりと息を吸った。


 そして。


「……見つけた」


 小さく呟いた。


 無数の糸が集まる、その中心。


 屋敷の真下にある、巨大な黒い核。


 私は、両手に力を込めた。


「……お兄様!」


「うん!」


 お兄様の赤い瞳が、鋭く輝く。


「――エドモンド。これ以上、力を流すな」


 王家の命令。


 その瞬間。


 床下から響いていた脈動が、僅かに弱まった。


「……ぐっ!?」


 エドモンドが、顔を歪める。


「……馬鹿な……!」


 けれど、完全には止まらない。


  核そのものは、すでに独立して動いている。


 お兄様の命令でエドモンドからの力を断っても、蓄えられた力までは消えないのだ。


「……お兄様!」


「うん。分かってるよ」


 お兄様は、私の肩に手を置いたまま、静かに答えた。


「ルシア。核へ流れ込む力を止めるんじゃなくて、核の中に溜まっている力を外へ逃がせる?」


「……外へ?」


「そう。ただし、一度に解放すると屋敷が壊れてしまう。少しずつ、僕の重圧で押さえながら消していこう」


 私は、足元へ視線を戻した。


 透明な膜の向こう。


 床下に広がる黒い力の流れが、少しずつ見えてくる。


「……やってみる!」


 私は、両手に力を込めた。


 透明な膜が、床を通り抜けるように地下へ広がっていく。


 その瞬間。


 ――ドクンッ!!


「……っ!」


 凄まじい衝撃が、両腕へ伝わった。


 思わず身体が後ろへ傾く。


「ルシア!」


 クレイドが、すぐに私の背中を支えてくれた。


「おい、大丈夫か!?」


「……うん!」


 私は、歯を食いしばった。


「まだ、できる!」


「……ったく!」


 クレイドは、私の背中から手を離さなかった。


「無茶すんなよ!」


「分かってる!」


 私は、もう一度意識を集中させた。


 核の中には、膨大な力が蓄えられている。


 それが、まるで心臓のように脈打っていた。


 私は、その表面へ透明な膜を広げる。


 そして、ほんの少しだけ力の向きを変えた。


 ――パキッ!


「……っ!?」


 床の一部に、小さな亀裂が走った。


 黒い霧が、そこから細く噴き出す。


「……出てきた!」


 私は、思わず声を上げた。


 けれど。


 ――バァンッ!!


 噴き出した霧が、突然鋭い刃へ変化した。


「ルシア、下がれ!」


 クレイドが、私の前へ飛び出す。


 ――ガキィンッ!!


 銀色の剣が、黒い刃を弾き飛ばした。


「……くそっ!」


 クレイドが、舌打ちする。


「こいつ、まだ攻撃してきやがる!」


 アルベルトも、すぐに剣を構えた。


「当たり前だろ! あの野郎の異能なんだからよ!」


「分かってるっつの!」


 二人が、私の前へ並んだ。


 その背中が、とても頼もしく見えた。


「ルシア!」


 アルベルトが、振り返らずに叫ぶ。


「お前は核に集中しろ!」


「……うん!」


「こっちは俺たちが何とかする!」


 クレイドも、不敵に笑った。


「余計なこと考えんな!」


 私は、しっかりと頷いた。


「……ありがとう!」


 そして、再び両手を床へ向けた。


     ◇


 その頃。


 屋敷の地下では、アルとノエルさんが黒い霧の広がる通路を進んでいた。


「……ここだ」


 ノエルさんが、静かに足を止める。


 目の前には、石造りの壁。


 その表面を、黒い筋が何本も這っていた。


「……随分と厄介なものを仕込まれたな」


 アルが、眉を寄せる。


 ノエルさんは、壁へ手を当てた。


「……中に、力が流れてる」


「止められるか?」


「……試す」


 ノエルさんの赤い瞳が、鋭く輝いた。


 ――ゴゴゴゴ……!


 壁の内部から、土が盛り上がる。


 黒い筋を囲むように、厚い土の層が形成された。


「……封じた」


 けれど。


 ――バキッ!!


 黒い筋が、土の隙間から伸び始める。


「……再生する」


 ノエルさんが、小さく呟いた。


 アルは、すぐに片手を上げた。


「なら、これでどうだ」


 ――パキパキパキッ!!


 壁の表面が、一瞬で凍りついた。


 黒い筋ごと、厚い氷が覆っていく。


 すると。


 先ほどまで激しく動いていた黒い筋が、僅かに動きを鈍らせた。


「……止まった?」


 ノエルさんが、目を細める。


「完全ではないが、動きは遅くなった」


 アルが頷いた。


「このまま押さえるぞ」


「……了解」


 二人は、同時に異能を強めた。


     ◇


 一方、地下の西側。


「いやぁ、これはまた……」


 ラビが、目の前の光景を見て苦笑した。


「随分と気持ち悪いことになってますねぇ」


 壁一面を、黒い霧が覆っていた。


 その霧は、まるで生き物のように蠢いている。


「感想はいいから、さっさと仕事しろ」


 セドリックさんが、呆れたように言った。


「はーい!」


 ラビは、銃を構える。 


 ――パンッ!!


 乾いた銃声。


 黒い霧の一部が弾け飛んだ。


 けれど、すぐに元へ戻ってしまう。


「……あれ?」


 ラビが、首を傾げた。


「効いてない?」


「そりゃそうだろ」


 セドリックさんが、片手を上げた。


「実体のない霧を撃っても意味ねえよ」


「えー、じゃあどうするんです?」


「こうするんだよ」


 その瞬間。


 ――ゴォォッ!!


 凄まじい風が、通路を吹き抜けた。


 黒い霧が、一斉に押し流される。


「おお!」


 ラビが、目を輝かせた。


「さすが叔父さん!」


「だから叔父さんって呼ぶな!」


 セドリックさんが、怒鳴る。


 けれど、その手は止まらなかった。


 風が渦を巻き、黒い霧を一か所へ集めていく。


「ラビ!」


「はいはーい!」


 ラビが、すぐに銃を構え直した。


「じゃあ、これでどうです?」


 ――パンッ!!


 今度は、霧の中心にある黒い塊を撃ち抜いた。


 ――パキィンッ!!


 塊が砕け散る。


 その瞬間、周囲の霧が一気に薄くなった。


「……お?」


 セドリックさんが、眉を上げる。


「やるじゃねえか」


「えへへ!」


 ラビが、嬉しそうに笑った。


「もっと褒めてもいいですよ?」


「調子乗んな」


「ひどーい!」


 けれど、二人はすぐに次の黒い塊へ向かった。


     ◇


 大広間。


「……っ!」


 私は、荒い息を繰り返していた。


 核の中に溜まった力は、少しずつ減っている。


 けれど、まだ多い。


 お兄様も、私の隣で重圧を使い続けていた。


「……ルシア」


「……なあに?」


「あと少しだよ」


 その声は、いつもと変わらず優しかった。


 けれど、額には汗が滲んでいる。


 お兄様だって、限界に近づいているんだ。


「……うん!」


 私は、両手にさらに力を込めた。


 そのとき。


 ――ザシュッ!!


「ぐあっ!」


 クレイドの声が響いた。


「クレイド!?」


 私は、思わず顔を上げた。


 黒い刃が、クレイドの肩を掠めていた。


 赤い血が、服を濡らしている。


「……っ!」


 胸が締めつけられた。


「クレイド!」


「こっち見んな!」


 クレイドが、怒鳴った。


「お前は自分の仕事しろ!」


「……でも!」


「俺を誰だと思ってんだよ!」


 その赤い瞳が、鋭く輝く。


「こんくらいで倒れるか!」


 アルベルトが、すぐにクレイドの隣へ並んだ。


「ったく、格好つけやがって」


「うるせえ!」


「肩、大丈夫か?」


「平気だ!」


「……そうかよ」


 アルベルトは、にやりと笑った。


「なら、もう少し働けるな」


「当たり前だろ!」


 二人は、再び黒い刃へ向かっていった。


 私は、唇を噛んだ。


 クレイドが、怪我をした。


 私を守るために。


 けれど、今ここで集中を切らしたら、もっとたくさんの人が危険になる。


 私は、ゆっくりと目を閉じた。


 そして、もう一度核へ意識を向けた。


「……絶対に」


 小さく呟く。


「絶対に、みんなを守るんだから……!」


 その瞬間。


 透明な膜が、さらに大きく広がった。


 核を包み込んでいた膜が、ゆっくりと収縮していく。


 黒い力が、内側で激しく暴れた。


 ――ドクンッ!!


「……っ!」


 私は、歯を食いしばった。


 けれど、今度は逃がさない。


「……お兄様!」


「うん!」


 お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝く。


「――押さえるよ」


 ――ドォンッ!!


 凄まじい重圧が、核へ集中した。


 黒い力が、内側へ押し込められていく。


 私は、その流れを慎重に変えた。


 少しずつ。


 少しずつ。


 核の中に溜まった力を、外へ逃がしていく。


 そのたびに、お兄様の重圧が霧を押し潰していった。


 やがて。


 ――パキッ……!


 核の表面に、小さな亀裂が走った。


「……っ!」


 私は、目を見開いた。


「お兄様!」


「……うん」


 お兄様が、静かに微笑んだ。


「もう少しだね」


 けれど、その瞬間。


「……はは」


 エドモンドが、小さく笑った。


「……本当に、壊すつもりなのかい?」


 私は、彼を見つめた。


「……うん!」


「……そうか」


 エドモンドは、ゆっくりと目を細めた。


「ならば、最後に一つだけ教えてあげよう」


「……何?」


 その赤い瞳が、妖しく輝いた。


「核が完全に壊れれば、私の命を守るものもなくなる」


 私は、息を呑んだ。


「……つまり」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「君たちは、本当に私を殺せるようになるんだよ」


 その言葉に、私は何も答えられなかった。


 殺す。


 その意味が、急に重く感じられた。


 けれど。


「……ルシア」


 お兄様が、優しく名前を呼んだ。


「君が、その役目を背負う必要はないよ」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「……お兄様」


「君は、みんなを守ってくれればいい」


 その赤い瞳が、優しく細められる。


「エドモンドとの決着は、僕がつけるから」


 私は、少しだけ迷った。


 そして、小さく頷いた。


「……うん」


 お兄様は、満足そうに微笑んだ。


「ありがとう」


 私は、もう一度核へ意識を集中させた。


 これが、最後。


 この仕掛けさえ壊せば、みんなを守れる。


「……いくよ!」


 私は、両手に力を込めた。


 透明な膜が、核を強く包み込む。


 お兄様の重圧が、その内側へ集中した。


 ――ミシミシミシッ!!


 黒い核に、無数の亀裂が走る。


「……っ!」


 私は、歯を食いしばった。


「……お願い!」


 その瞬間。


 ――パキィィンッ!!


 核が、音を立てて砕け散った。


 黒い力が、一斉に溢れ出す。


「……っ!?」


 私は、咄嗟に両手を広げた。


「――反射!!」


 透明な膜が、溢れ出した力を包み込む。


 同時に、お兄様が片手を握り締めた。


「――消えろ」


 ――ドォォンッ!!


 凄まじい重圧が、黒い力を押し潰した。


 大広間全体が、激しく震える。


 天井から、細かな破片が降り注いだ。


「ルシア!」


 クレイドが、私の前へ飛び出した。


 アルベルトも、すぐに隣へ並ぶ。


 二人が、落下してくる瓦礫を剣で弾き飛ばしていく。


 ――ガキィンッ!!


 ――バキィンッ!!


 私は、必死に膜を維持した。


 そして。


 ――パァンッ!!


 最後の黒い霧が、音を立てて消滅した。


 その瞬間。


 大広間に、静寂が訪れた。


「……え?」


 私は、ゆっくりと目を開いた。


 床下から響いていた、不気味な脈動。


 それが、完全に止まっていた。


「……お兄様?」


 お兄様は、しばらく目を閉じていた。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……うん」


 その赤い瞳が、私を見つめる。


「終わったよ、ルシア」


「……本当?」


「うん。もう、屋敷が壊れることはない」


 私は、思わず両手を胸の前で握り締めた。


「……やった……!」


 その瞬間。


 全身から、力が抜けた。


「……あ」


 視界が、ぐらりと揺れる。


 ――ふらっ。


「……ルシア!?」


 お兄様が、すぐに私を抱き止めてくれた。


「……お兄様……」


「……頑張ったね」


 その声が、とても優しかった。


「本当に、よく頑張ったよ」


 私は、安心して微笑んだ。


「……えへへ」


 けれど、もう立っていられなかった。


 お兄様の腕の中で、ゆっくりと目を閉じる。


「……ちょっとだけ、休んでもいい?」


「もちろん」


 お兄様が、私の頭を優しく撫でた。


「ゆっくり休んで」


 その声を聞きながら、私は小さく頷いた。


 

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