最終決戦・純血の王
「……ずるい」
背後から、小さな声が聞こえた。
私は、思わず振り返った。
「……ミア?」
そこには、王家の命令によって動きを封じられたミアがいた。
その赤い瞳は、じっとエドモンドを見つめている。
「……ずるいよ」
ミアが、もう一度呟いた。
「エドモンド様だけ、ルシアの血を飲んだなんて……」
私は、思わず傷ついた腕を押さえた。
「……ミア」
「私の方が、ずっと前から欲しかったのに」
その声には、隠しきれない嫉妬が滲んでいた。
「何度もお願いしたのに、ルシアは一度も飲ませてくれなかった」
ミアは、ゆっくりと私へ視線を向けた。
「なのに、エドモンド様には飲ませたんだね」
「……違うよ」
私は、首を横に振った。
「勝手に舐められたの。私、嫌だって言ったよ」
「……じゃあ」
ミアが、不思議そうに首を傾げる。
「私も勝手に飲めばよかったんだね!」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
何度も伝えた。
痛いことも、怖いことも。
もう血を飲まれたくないことも。
けれど、ミアには何一つ伝わっていなかった。
「……ミア」
「ねえ、ルシア」
ミアは、嬉しそうに笑った。
「エドモンド様があんなに喜んでたんだから、やっぱりすっごく美味しいんでしょう?」
「……」
「前より甘いのかな?私も飲みたいなぁ」
その赤い瞳が、異様に輝いている。
「もう一度だけでいいの。あの味を思い出したいの」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……嫌だよ」
ミアの笑顔が消えた。
「……また、それ?」
「何度聞かれても、答えは変わらないよ」
「……治るんだからいいじゃん、意地悪」
ミアが、唇を尖らせた。
「ルシアって、ヴァンパイアになってから冷たくなったよね」
「……え?」
「昔はもっと優しかったのに。私のお願い、何でも聞いてくれたじゃん」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
「……私は、昔から嫌なことは嫌だったよ」
「……」
「ただ、ミアに嫌われたくなくて、我慢していただけなの」
ミアが、少しだけ目を見開いた。
「……我慢?」
「うん」
私は、まっすぐミアを見つめた。
「でも、もう我慢しないよ」
その言葉に、ミアの表情が歪んだ。
「……何それ」
小さな声だった。
「じゃあ、私たち、本当に終わりなの?」
私は、少しだけ目を伏せた。
昔のミアを思い出す。
一緒に笑っていた日々。
楽しかった思い出。
けれど、それだけでは、もう友達ではいられない。
「……うん」
私は、静かに頷いた。
「もう、終わりだよ」
ミアは、しばらく黙っていた。
そして。
「……嫌だ」
その赤い瞳が、ゆっくりと細められる。
「絶対に、諦めないから」
私は、何も答えなかった。
これ以上、何を言っても届かない。
そう分かってしまったから。
◇
「……ははは」
エドモンドの笑い声が、大広間へ響いた。
私は、思わず顔を上げた。
エドモンドは、床へ押さえつけられたまま、楽しそうに笑っていた。
「実に面白いね」
その赤い瞳が、ミアへ向けられる。
「君は、そんなにもルシアの血が欲しいのかい?」
ミアの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
迷いのない返事だった。
「世界で一番欲しいです!」
「そうか」
エドモンドは、満足そうに微笑んだ。
「私も同じだよ」
その言葉に、ミアは嬉しそうに笑った。
「ですよね! エドモンド様なら分かってくれると思ってました!」
「もちろんさ」
エドモンドの赤い瞳が、妖しく輝く。
「君の気持ちは、よく分かるよ」
私は、嫌な予感がした。
お兄様も、僅かに眉を寄せる。
「……エドモンド」
「何だい、ゼノン?」
「余計なことを考えない方がいいよ」
エドモンドは、小さく笑った。
「余計なこと?」
そして、ゆっくりとミアへ視線を戻した。
「私はただ、彼女の願いを叶えてあげたいだけだよ」
「……え?」
ミアが、目を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ」
エドモンドは、優しく微笑んだ。
「君が私に協力してくれるなら、ルシアの血を飲ませてあげよう」
その瞬間。
ミアの表情が、歓喜に染まった。
「本当に!?」
「もちろん」
「やったぁ!」
ミアは、嬉しそうに笑った。
「何でもします! 何をすればいいんですか!?」
私は、思わず叫んだ。
「ミア! 駄目!」
けれど、ミアは私を見なかった。
その赤い瞳は、エドモンドだけを見つめていた。
「……何でも、かい?」
エドモンドが、ゆっくりと笑みを深める。
「はい!」
「そうか。それは助かるよ」
その瞬間。
エドモンドの身体から、黒い霧が溢れ出した。
お兄様の王家の命令によって、身体は動かせない。
けれど、すでに生み出されていた黒い霧は、床を這うように広がっていく。
「……っ!」
お兄様の表情が変わった。
「ルシア、下がって!」
「……え?」
次の瞬間。
黒い霧が、ミアの足元へ到達した。
「……あれ?」
ミアが、不思議そうに首を傾げる。
「エドモンド様?」
黒い霧が、彼女の足首へ絡みついた。
そして、ゆっくりと身体を這い上がっていく。
「……何、これ?」
「大丈夫だよ」
エドモンドは、穏やかに微笑んだ。
「少しだけ、君の力を借りるんだ」
「……力?」
「ああ。君はルシアの血が欲しいんだろう?」
「はい!」
「ならば、その願いをもっと強くしてあげよう」
その瞬間。
――ズズズズ……!
黒い霧が、ミアの身体へ吸い込まれていった。
「……っ!?」
ミアの身体が、大きく震えた。
「な……に……これ……!?」
その赤い瞳が、さらに濃い深紅へ変わっていく。
「……エドモンド様……?」
ミアが、苦しそうに胸を押さえた。
「……痛い……!」
私は、思わず一歩踏み出した。
「ミア!」
けれど、お兄様が私の腕を掴んだ。
「……ルシア、待って」
「でも!」
「危険だよ」
その声は、真剣だった。
私は、唇を噛んだ。
ミアは、何度も私を傷つけた。
私の血を欲しがり、嫌だと言ってもやめてくれなかった。
けれど。
目の前で苦しんでいる彼女を、放っておくことなんてできなかった。
「……お兄様」
「……分かってる」
お兄様は、静かに頷いた。
「でも、君が近づく必要はないよ」
その赤い瞳が、鋭く輝く。
「――ミア。動くな」
王家の命令。
ミアの身体が、ぴたりと止まった。
けれど。
「……あ……ああっ……!」
苦しそうな声は、止まらなかった。
黒い霧が、彼女の身体を覆っていく。
エドモンドが、楽しそうに笑った。
「素晴らしい……!」
その声には、隠しきれない歓喜が滲んでいた。
「やはり、欲望というものは美しいね」
「……エドモンド!」
私は、思わず叫んだ。
「ミアに何をしているの!?」
「少し、手を貸してもらっているだけだよ」
エドモンドは、何でもないことのように答えた。
「彼女は、ルシアの血を欲しがっていた。だから、その欲望を強めてあげたんだ」
「……そんな!」
ミアの身体が、激しく震える。
「……痛い……!」
その声に、胸が締めつけられた。
「やめて! ミアを離して!」
エドモンドは、不思議そうに首を傾げた。
「おや?」
その赤い瞳が、私へ向けられる。
「君を傷つけた子なのに、助けたいのかい?」
「……っ!」
「何度も血を奪おうとしたんだろう?」
私は、唇を噛んだ。
確かに、そうだ。
ミアは、私を傷つけた。
怖い思いも、たくさんした。
もう友達には戻れない。
けれど。
「……それでも」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「こんなことをさせて理由にはならないよ!」
エドモンドは、しばらく私を見つめていた。
そして、笑った。
「……ああ」
その表情が、恍惚としたものへ変わる。
「本当に、ロザリアによく似ている」
私は、息を呑んだ。
「君の母親も、そうだった」
エドモンドは、懐かしそうに微笑んだ。
「自分を傷つけた者でさえ、見捨てようとしなかった」
その言葉に、胸が熱くなった。
お母さま。
私の知らない、お母さま。
「……でもね、ルシア」
エドモンドの笑みが、ゆっくりと深くなる。
「その優しさが、命取りになるんだよ」
次の瞬間。
――ドォォンッ!!
ミアの身体から、黒い霧が爆発するように噴き出した。
「きゃあっ!」
私は、思わず顔を庇った。
お兄様が、私を抱き寄せる。
「ルシア!」
黒い霧が、大広間全体へ広がっていく。
その中心で、ミアがゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳。
鋭い牙。
そして、全身から溢れる異様な力。
「……ルシア」
ミアが、小さく呟いた。
その声は、先ほどまでとは違っていた。
低く、掠れた声。
「……血……」
私は、思わず一歩下がった。
「……ミア?」
ミアは、ゆっくりと笑った。
「……ルシアの血……」
その赤い瞳が、私を捉える。
「……ちょうだい」
お兄様が、すぐに片手を上げた。
「――動くな」
王家の命令。
ミアの身体が、一瞬だけ硬直する。
けれど。
――バキィンッ!!
彼女を覆っていた黒い霧が、激しく弾けた。
「……っ!?」
お兄様の表情が、僅かに変わった。
「……なるほど」
その赤い瞳が、鋭く細められる。
「ミア自身は命令に従っている。でも、エドモンドの異能が身体を動かしているんだね」
エドモンドが、楽しそうに笑った。
「正解だよ、ゼノン」
その声が、大広間へ響く。
「さあ、ルシア」
黒い霧が、さらに濃くなる。
「君の大切だった親友を、どうするつもりだい?」
私は、ミアを見つめた。
その赤い瞳には、もう以前のような明るさはなかった。
ただ、私の血を求める欲望だけが、異様なほど強く輝いていた。
「……ルシア」
ミアが、ゆっくりと笑う。
「やっと……」
鋭い牙が、月明かりを受けて光った。
「やっと、飲める……!」
次の瞬間。
ミアの身体が、黒い霧に引かれるように動き出した。
――ダンッ!!
凄まじい速度で、私へ向かってくる。
「……っ!」
私は、咄嗟に反射を発動した。
透明な膜が、私の前へ広がる。
――ガァンッ!!
激しい衝撃が、膜を揺らした。
「……くっ!」
私は、歯を食いしばった。
膜の向こうには、ミアがいた。
その顔には、異様な笑みが浮かんでいる。
「……ルシア……!」
鋭い爪が、透明な膜へ食い込む。
「血……ちょうだい……!」
「……嫌だよ!」
私は、両手に力を込めた。
――バンッ!!
反射の力が、ミアの身体を弾き飛ばす。
「きゃあっ!」
そのまま床を滑り、柱へ激突した。
けれど、ミアはすぐに立ち上がった。
「……痛い……」
その赤い瞳が、私を見つめる。
そして、笑った。
「……でも、平気」
私は、息を呑んだ。
「ルシアの血を飲めば、きっと全部治るもん」
その言葉に、胸が冷たくなった。
ミア。
もう、やめて。
そう言いたかった。
けれど、何度伝えても届かなかった言葉を、もう一度繰り返すことはできなかった。
そのとき。
「――おいおい、何だよこの惨状は」
大広間の扉から、聞き覚えのある声が響いた。
私は、思わず振り返った。
「……アル?」
そこに立っていたのは、黒い外套を纏った一人の男。
アルベルト・グランヴェール。
六歳の頃から私を育ててくれた、大切な養父だった。
その手には、一本の剣が握られている。
アルベルトは、壊れた柱や床を見渡した。
「ったく……人んちの屋敷で派手に暴れやがって」
そして、私へ視線を向ける。
「ルシア!」
「……アル!」
「怪我してねえか?」
「……ちょっとだけ」
私は、傷ついた腕を見せた。
その瞬間。
アルベルトの表情が、変わった。
「……誰がやった」
低い声だった。
「……ミアが」
アルベルトの赤い瞳が、ミアへ向けられる。
「……ああ?」
ミアは、ゆっくりと顔を上げた。
「……邪魔……」
その声は、以前のミアからは想像もできないほど低く、掠れていた。
アルベルトは、そんなミアをしばらく見つめていた。
「……おいおい」
そして、呆れたように溜息を吐く。
「随分と変わり果てたじゃねえか」
ミアは、ゆっくりと顔を上げた。
深紅の瞳が、アルベルトを捉える。
「……どいて」
「あ?」
「……ルシアの血……飲みたいの……」
アルベルトの眉間に、深い皺が寄った。
「……はぁ?」
そして、私へ視線を向ける。
「おい、ルシア。こいつ、前からこんなんだったのか?」
「……ううん」
私は、小さく首を横に振った。
「エドモンドに、黒い霧を……」
「ああ?」
アルベルトが、エドモンドへ視線を向けた。
床へ押さえつけられたままのエドモンドは、相変わらず楽しそうに笑っている。
「……てめえか」
「やあ、アルベルト」
エドモンドが、穏やかに微笑んだ。
「久しぶりだね」
「……ああ」
アルベルトの声が、低くなる。
「十二年ぶりだな」
「相変わらず口が悪いね」
「てめえ相手に礼儀正しくする必要がどこにあんだよ」
アルベルトは、剣を肩へ担いだ。
「ったく。十二年も姿をくらましてたと思ったら、今度は人んちの娘を攫いに来たってか?」
「人んちの娘?」
エドモンドが、不思議そうに首を傾げた。
「ルシアは、ヴァルディエ家の純血種だよ」
「だから何だ?」
「君のような者が、父親を名乗るのはおかしいと思わないかい?」
アルベルトの表情から、笑みが消えた。
「……あ?」
「彼女は、君の血を引いているわけではないだろう?」
エドモンドは、楽しそうに続けた。
「本来なら、王家の一員として育てられるべき存在だった。君が父親のように振る舞う必要など――」
「……うるせえな」
アルベルトが、低く遮った。
「……何?」
「血が繋がってるかどうかなんざ、どうでもいいんだよ」
その赤い瞳が、鋭く細められる。
「六歳の頃から飯食わせて、服着せて、泣いたらあやして、熱出しゃ看病して……」
アルベルトは、私をちらりと見た。
「十二年間、俺が育てた娘なんだよ」
「……アルベルト」
「それを今さら、血が繋がってねえから父親じゃねえだと?」
アルベルトは、鼻で笑った。
「馬鹿も休み休み言え」
エドモンドの眉が、僅かに動いた。
「……随分と感情的だね」
「ああ、そうだよ」
アルベルトは、あっさりと認めた。
「俺はな、娘のことになると感情的になるんだわ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……アル」
私が名前を呼ぶと、アルベルトは少しだけ振り返った。
「ん?」
「……ありがとう」
アルベルトは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、呆れたように笑った。
「……ったく」
私の頭を、ぽんと撫でる。
「礼なんざいらねえよ」
その手は、昔と変わらず温かかった。
「親が子供を守んのは、当たり前だろ」
私は、涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
けれど、そのとき。
「……邪魔ぁぁぁっ!!」
ミアの叫び声が、大広間へ響いた。
――ダンッ!!
黒い霧に引かれるように、ミアの身体が床を蹴った。
その速度は、先ほどまでとは比べものにならなかった。
「……っ!」
私は、咄嗟に反射を発動しようとした。
けれど。
「――お前の相手は俺だっつってんだろ!」
アルベルトが、私の前へ飛び出した。
――ガキィンッ!!
鋭い爪と剣が、激しくぶつかり合う。
「……っ!」
ミアが、顔を歪めた。
「邪魔しないで!!」
「邪魔してんのはお前だろうが!」
アルベルトが、剣を押し返す。
――バンッ!!
ミアの身体が、勢いよく後方へ吹き飛ばされた。
けれど、空中で体勢を立て直し、そのまま壁を蹴る。
「……ルシア!!」
再び、私へ向かってくる。
「……っ!」
その瞬間。
アルベルトの姿が、視界から消えた。
「……え?」
次に姿を現したのは、ミアの背後だった。
「……遅えんだよ!」
――ドンッ!!
剣の柄が、ミアの背中へ叩き込まれる。
「きゃあっ!」
ミアの身体が、床へ叩きつけられた。
石床に亀裂が走る。
「……っ!」
ミアが、必死に身体を起こそうとする。
けれど、アルベルトはすぐにその腕を掴み、背中へ捻り上げた。
「……いったぁ!!」
「大人しくしろ!」
「離して!!」
「離したらルシアに飛びかかるだろうが!」
ミアが、激しく暴れる。
その身体から、黒い霧が噴き出した。
「……ちっ!」
アルベルトが、舌打ちする。
霧が彼の腕へ絡みつき、皮膚を切り裂いた。
――ザシュッ!!
「……っ!」
赤い血が、床へ滴り落ちる。
「アルベルト!!」
私は、思わず叫んだ。
「騒ぐな、ルシア!」
アルベルトは、振り返らずに答えた。
「こんくらい、かすり傷だ!」
そして、ミアの腕をさらに強く押さえつける。
「……ったく!」
低く吐き捨てた。
「エドモンドの野郎、面倒なもん仕込みやがって……!」
ミアの身体が、びくりと震えた。
「……痛い……!」
「分かってるよ!」
アルベルトが、苛立ったように答える。
「だから暴れんなっつってんだろ!」
けれど、ミアは止まらなかった。
黒い霧が、さらに濃くなる。
その瞬間。
「……あ?」
アルベルトの表情が変わった。
ミアの背中から、黒い霧が細い糸のように伸びている。
その先は。
エドモンドへ繋がっていた。
「……なるほどな」
アルベルトが、低く呟いた。
「こいつを操ってんのは、てめえか」
エドモンドが、楽しそうに微笑んだ。
「気づいたかい?」
「……ああ」
アルベルトは、舌打ちした。
「随分と趣味の悪いことしてくれんな」
「彼女自身が望んだことだよ」
エドモンドは、何でもないことのように答えた。
「ルシアの血が欲しい。その欲望を、少し強めてあげただけさ」
「……少し?」
アルベルトが、呆れたように笑った。
「これのどこが少しなんだよ」
エドモンドは、肩を竦めようとした。
けれど、お兄様の王家の命令によって身体を動かすことはできない。
「彼女の欲望が、それだけ強かったということだろうね」
私は、ミアを見つめた。
ミアは、苦しそうに息を繰り返していた。
その赤い瞳には、涙が浮かんでいる。
「……ルシア……」
小さな声だった。
「……血……」
私は、胸が締めつけられた。
ミア。
昔の親友。
何度も私を傷つけた人。
けれど。
今、目の前で苦しんでいるのは、確かに私の知っているミアだった。
「……お兄様」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あの黒い糸を切れば、ミアは元に戻るのかな?」
お兄様が、エドモンドとミアを繋ぐ霧を見つめる。
「……可能性はあるね」
その赤い瞳が、鋭く細められた。
「ただ、普通に切っただけでは再生すると思う」
「……じゃあ」
「異能の繋がりそのものを断つ必要がある」
私は、少しだけ考えた。
そして、自分の両手を見つめた。
反射。
相手の攻撃を跳ね返す異能。
けれど、以前お兄様に教えてもらったことがある。
反射は、ただ攻撃を跳ね返すだけの力ではない。
力の流れを変えることもできる。
「……お兄様」
「なあに?」
「私、やってみたいことがあるの」
お兄様が、少しだけ目を見開いた。
「……何を?」
私は、ミアへ視線を向けた。
「あの黒い霧を、エドモンドへ跳ね返せないかな?」
お兄様は、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
その赤い瞳が、嬉しそうに細められる。
「いい考えだね」
「……本当?」
「うん。でも、かなり難しいよ」
私は、しっかりと頷いた。
「……やってみる!」
お兄様は、私の頭を優しく撫でた。
「分かった。僕が補助するよ」
「うん!」
そのとき。
「――おい、ゼノン!」
アルベルトが叫んだ。
「話まとまったんなら、さっさと頼む!」
ミアの身体から、さらに黒い霧が噴き出していた。
「こいつ、どんどん力強くなってやがる!」
お兄様が、片手を上げる。
「アルベルト。そのまま押さえていて」
「簡単に言うなっつの!」
アルベルトが、歯を食いしばる。
「こっちは必死なんだよ!」
けれど、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「……ま、任せとけ!」
私は、ゆっくりと両手を前へ突き出した。
透明な膜が、ミアの周囲へ広がる。
けれど、今回は彼女を閉じ込めるためではない。
黒い霧。
エドモンドとミアを繋ぐ、細い糸。
その流れを、見極める。
「……っ!」
私は、目を細めた。
黒い霧は、絶えずミアの身体へ流れ込んでいる。
そのたびに、彼女の身体が震え、赤い瞳が濃くなっていく。
「……見えた」
私は、小さく呟いた。
「……お兄様!」
お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝く。
「――エドモンド。異能を止めろ」
王家の命令。
その瞬間。
黒い霧の流れが、一瞬だけ止まった。
「……ぐっ!?」
エドモンドが、顔を歪める。
「……馬鹿な……!」
お兄様が、静かに微笑んだ。
「……今だよ、ルシア」
「うん!」
私は、両手を握り締めた。
透明な膜が、黒い糸を包み込む。
そして。
「――返して!!」
その瞬間。
――バァンッ!!
黒い霧が、逆流した。
「……なっ!?」
エドモンドの赤い瞳が、大きく見開かれる。
ミアへ送り込まれていた力が、すべてエドモンドへ跳ね返っていく。
「ぐあああっ!!」
凄まじい悲鳴が、大広間へ響き渡った。
黒い糸が、音を立てて砕け散る。
――パキィンッ!!
その瞬間。
ミアの身体から、黒い霧が消えた。
「……あ……」
ミアが、小さく声を漏らす。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
その身体から、力が抜ける。
「……おっと!」
アルベルトが、慌てて抱き止めた。
「ったく、最後まで世話焼かせやがって」
ミアは、意識を失っていた。
けれど、苦しそうだった表情は、少しだけ穏やかになっていた。
「……ミア」
私は、思わず駆け寄ろうとした。
けれど、アルベルトが片手を上げる。
「来んなって」
「……でも!」
「生きてるよ」
アルベルトは、ミアの首元へ指を当てた。
「気絶してるだけだ」
私は、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
アルベルトは、呆れたように笑った。
「お前、ほんっとお人好しだな」
「……だって」
「分かってるよ」
アルベルトは、私の頭を軽く撫でた。
「昔の親友なんだろ?」
私は、小さく頷いた。
「……うん」
「だからって、もう信用すんなよ」
その声は、真剣だった。
「お前を傷つけた事実は、消えねえんだからな」
「……うん」
私は、もう一度頷いた。
アルベルトは、満足そうに笑った。
「よし」
そして、お兄様へ視線を向ける。
「ゼノン!」
「……うん?」
「こいつ、拘束頼む!」
お兄様が、静かに頷いた。
「分かった」
その足元から、黒い影が伸びる。
影はミアの身体を包み込み、手足を固定した。
ガルが、その隣へ座る。
「……これで大丈夫だよ」
お兄様が、優しく微笑んだ。
私は、小さく頷いた。
「……ありがとう」
◇
「……ははは」
そのとき。
エドモンドの笑い声が、大広間へ響いた。
私は、思わず振り返った。
「……エドモンド」
彼は、床へ押さえつけられたまま、楽しそうに笑っていた。
「素晴らしいね、ルシア」
その赤い瞳が、私へ向けられる。
「まさか、私の異能を逆流させるとは……」
お兄様が、冷たく睨みつけた。
「……まだ笑えるんだね」
「もちろんさ」
エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。
「これほど見事な異能を目の当たりにできたんだからね」
その赤い瞳が、異様なほど輝く。
「やはり、君は素晴らしいよ、ルシア」
私は、思わず一歩下がった。
「……嫌」
「純血種としての身体能力も、異能の強さも……実に素晴らしい」
エドモンドは、うっとりとした表情で私を見つめていた。
「それに、あの甘美な血……。あれほどのものは、長い年月を生きてきた私だが、初めて味わったよ」
「……」
「君を手に入れれば、ヴァルディエ王家はさらなる繁栄を遂げるだろうね」
私は、思わず眉を寄せた。
「……どうして?」
「うん?」
「どうして、そんなに私が欲しいの?」
エドモンドは、不思議そうに首を傾げた。
「今、説明しただろう?」
「……でも」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「私より強いヴァンパイアなんて、きっとたくさんいるよ」
お兄様だって、アルベルトだって。
私よりずっと強い。
それなのに、エドモンドは私ばかりを欲しがる。
「……私じゃなきゃ駄目なの?」
その問いに、エドモンドは小さく笑った。
「そうだね。君でなければ意味がない」
「……どうして?」
「君が、アルフォンスとロザリアの娘だからだよ」
私は、思わず息を呑んだ。
「……お父さまと、お母さまの?」
「ああ」
エドモンドは、楽しそうに頷いた。
「アルフォンスは、ヴァルディエ王家の中でも非常に優れた純血種だった。ロザリアもまた、素晴らしい力を持っていた」
その赤い瞳が、細められる。
「そんな二人の間に生まれた君が、弱いはずがないだろう?」
「……」
「そして、君は王家の直系だ。私が手に入れたいのは、君という存在そのものなんだよ」
私は、拳を握り締めた。
エドモンドにとって、私は一人の人間ではない。
王家の血を引く、価値のある存在。
それだけなのだ。
「……私は、あなたのものにはならないよ」
エドモンドが、僅かに目を細めた。
「……おや?」
「何度言われても、絶対に嫌!」
私は、はっきりと答えた。
「私には、大切な家族がいるの!」
その言葉に、お兄様が私を見つめた。
「……ルシア」
「お兄様も、アルベルトも、クレイドも……みんな、大切なの」
私は、エドモンドをまっすぐ見つめた。
「あなたのところへ行ったら、もうみんなと一緒にいられなくなるんでしょう?」
「……そうだね」
エドモンドは、あっさりと頷いた。
「君には、私のもとで暮らしてもらうつもりだからね」
「……だったら、絶対に行かない!」
エドモンドは、しばらく私を見つめていた。
やがて、残念そうに溜息を吐く。
「……困った子だね」
その声が、僅かに低くなった。
「君の意思など、最初から聞くつもりはないというのに」
その瞬間。
――ミシッ!!
エドモンドの周囲の石床に、亀裂が走った。
「……いい加減にしろよ」
アルベルトだった。
その赤い瞳が、鋭く細められている。
「さっきから聞いてりゃ、好き勝手言いやがって」
エドモンドが、ゆっくりと視線を向けた。
「……何だい?」
「ルシアが嫌だっつってんだろ」
「それが?」
「……あ?」
アルベルトの眉間に、深い皺が寄った。
エドモンドは、何でもないことのように微笑んだ。
「彼女は、まだ十八歳だよ。自分の立場も、純血種としての価値も、十分には理解していない」
「……」
「ならば、年長者である私が導いてあげるのは当然だろう?」
アルベルトは、しばらく黙っていた。
そして。
「……はっ」
馬鹿にしたように笑った。
「年食ってりゃ偉いってか?」
「……何?」
「だったら、十二年前に六歳のガキ一人奪うために、家族皆殺しにしようとしたのは何なんだよ」
その声が、低くなる。
「年長者のすることが、それか?」
エドモンドの笑顔が、僅かに止まった。
「……アルベルト」
「都合のいいときだけ年長者面してんじゃねえよ」
アルベルトは、剣を握り直した。
「お前が欲しいのはルシアじゃねえ。自分の思い通りになる、力のある純血種だろうが」
エドモンドは、何も答えなかった。
「そんな奴に、娘を渡すわけねえだろ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……アル」
私が小さく名前を呼ぶと、アルベルトはちらりと振り返った。
「ん?」
「……ありがとう」
アルベルトは、少しだけ目を丸くした。
そして、呆れたように笑った。
「ったく。さっきから礼ばっか言いやがって」
その手が、私の頭をぽんと撫でる。
「お前は何も心配すんな」
「……うん」
「俺とゼノンが、きっちり片づけてやるからよ」
お兄様が、静かに頷いた。
「そうだね」
その赤い瞳が、エドモンドへ向けられる。
「……もう、終わりにしよう」
エドモンドは、小さく笑った。
「随分と急ぐんだね」
「これ以上、お前と話すことなんてないから」
お兄様の声は、驚くほど冷たかった。
「十二年前、お前は父上と母上、祖父母までも殺した」
その足元から、黒い影が静かに広がっていく。
ガルとレオが、ゆっくりと立ち上がった。
二匹の黒狼が、エドモンドを囲む。
「……そして今」
お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝いた。
「また、僕からルシアを奪おうとしている」
エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。
「当然だろう? 彼女は――」
「……黙って」
その瞬間。
――ドォンッ!!
エドモンドの身体へ、凄まじい重圧がかかった。
「……ぐっ!?」
石床が砕け散る。
エドモンドが、苦しそうに顔を歪めた。
「……ゼノン……!」
「お前が何を望んでいるのかなんて、もうどうでもいいよ」
お兄様が、ゆっくりと歩き出す。
「僕が望んでいるのは、たった一つだから」
その声が、低くなる。
「ルシアが、安心して笑っていられる未来だよ」
私は、思わず息を呑んだ。
「……お兄様」
お兄様は、私を振り返った。
先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、優しく微笑む。
「……ルシア」
「……なあに?」
「もう少しだけ、待っていてね」
その手が、私の頬へそっと触れた。
「今日で、全部終わらせるから」
私は、涙を堪えながら頷いた。
「……うん!」
お兄様は、満足そうに微笑んだ。
そして、再びエドモンドへ向き直った。
◇
「……さて」
アルベルトが、剣を肩へ担いだ。
「そろそろ、俺の出番かね」
お兄様が、ちらりと視線を向ける。
「……アルベルト」
「ん?」
「エドモンドの身体は、僕が押さえておくよ」
「……ああ」
アルベルトが、静かに頷いた。
「頼むぜ」
その表情から、いつもの気怠そうな雰囲気が消えた。
「……十二年」
アルベルトが、小さく呟いた。
私は、思わず顔を上げた。
「……アルベルト?」
「十二年だぜ、ルシア」
その赤い瞳が、私へ向けられる。
「お前を引き取ってから、もう十二年も経つんだな」
「……うん」
「早えもんだよなぁ」
アルベルトは、懐かしそうに笑った。
「最初は、あんなに小さかったのによ」
私は、少しだけ首を傾げた。
「……そんなに小さかった?」
「ああ。俺の膝にちょこんと座って、書類をぐちゃぐちゃにしてたくらいにはな」
「……えっ!?」
思わず声が出た。
「私、そんなことしてたの!?」
「してたしてた」
アルベルトが、楽しそうに笑う。
「しかも、俺が怒ると泣くんだよ。こっちが悪いことしたみてえにな」
「……ご、ごめんね」
「今さら謝んなって」
アルベルトは、苦笑した。
「ま、可愛かったけどな」
その言葉に、頬が熱くなった。
「……アルベルト」
「ん?」
「……今は?」
私が小さく尋ねると、アルベルトは目を丸くした。
そして。
「……ははっ!」
声を上げて笑った。
「何だよ、今も可愛いって言ってほしいのか?」
「……だって!」
私は、思わず頬を膨らませた。
お兄様が、隣で小さく笑う。
「……僕は、今のルシアも世界で一番可愛いと思ってるよ」
「……お兄様!」
その言葉に、さらに顔が熱くなった。
アルベルトは、呆れたように溜息を吐く。
「……ったく、お前は相変わらずだな、ゼノン」
「そうかな?」
「ああ。ルシアのことになると、ほんっと甘えな」
お兄様は、少しも否定しなかった。
「……だって、可愛いからね」
「……はいはい」
アルベルトは、面倒くさそうに手を振った。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
私は、思わず笑ってしまった。
こんな状況なのに。
目の前には、十二年前に家族を奪った男がいる。
屋敷の外では、今も仲間たちが戦っている。
それなのに。
お兄様とアルベルトがいるだけで、こんなにも安心できる。
私は、二人を見つめた。
血の繋がった、大切なお兄様。
血は繋がっていなくても、私を育ててくれた、大切なお父さん。
どちらも、私にとってかけがえのない家族だった。
「……ねえ、アルベルト」
「ん?」
「……私、幸せだよ」
アルベルトの表情が、僅かに変わった。
「……あ?」
「アルベルトの娘になれて、よかった」
その言葉に、アルベルトはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと目を細めた。
「……そっか」
小さな声だった。
「……なら、よかった」
その手が、私の頭を優しく撫でる。
「俺も、お前の親になれてよかったよ」
私は、堪えていた涙が溢れそうになった。
「……アルベルト」
「泣くなって」
アルベルトは、困ったように笑った。
「まだ終わってねえんだからよ」
「……うん!」
私は、慌てて涙を拭った。
アルベルトは、満足そうに頷いた。
「よし」
そして、ゆっくりとエドモンドへ向き直った。
「……さて」
その声が、低くなる。
「無駄話は、ここまでだ」
エドモンドは、床へ押さえつけられたまま、楽しそうに笑っていた。
「……実に感動的だね」
アルベルトの赤い瞳が、鋭く細められる。
「……あ?」
「血の繋がらない親子の絆。失われた家族への想い。そして、復讐……」
エドモンドは、小さく笑った。
「実に美しい」
けれど、その笑みが、ゆっくりと深くなる。
「……だが」
その赤い瞳が、私へ向けられた。
「それで、私に勝てると思っているのかい?」
その瞬間。
――ドクンッ!!
大広間の空気が、異様に震えた。
「……っ!?」
私は、思わず息を呑んだ。
エドモンドの身体から、黒い霧が激しく噴き出す。
その霧が、床を這い、壁を伝い、天井へと広がっていく。
「……くそっ!」
アルベルトが、剣を構え直した。
「まだ、こんだけ力残してやがんのか!」
お兄様の表情が、僅かに険しくなる。
「……なるほど」
その赤い瞳が、鋭く細められた。
「身体を封じても、異能そのものは完全には止められないんだね」
エドモンドは、楽しそうに笑った。
「そういうことさ」
その声が、大広間へ響いた。
「さあ、ゼノン」
黒い霧が、さらに濃くなる。
「本当の戦いを、始めようじゃないか」
その瞬間。
――ドォォンッ!!
黒い霧が、爆発するように広がった。
「きゃあっ!」
私は、咄嗟に反射を発動する。
透明な膜が、私の周囲へ広がった。
――ガァンッ!!
凄まじい衝撃が、膜を揺らす。
「……っ!」
私は、歯を食いしばった。
けれど、今度は耐えられた。
以前なら、簡単に押し破られていたかもしれない。
けれど。
私は、もうあの頃の私じゃない。
「……お兄様!」
私は、顔を上げた。
「私も、戦うよ!」
お兄様が、少しだけ目を見開いた。
そして、優しく微笑んだ。
「……うん」
その赤い瞳が、鮮やかに輝く。
「一緒に、終わらせよう」
アルベルトが、不敵に笑った。
「……はっ!」
剣を握り直す。
「いいねえ。そうこなくっちゃな!」
その声が、大広間へ響いた。
「十二年前の借り、きっちり返してやるよ!」
私は、ルナの頭をそっと撫でた。
「……ルナ」
白狼が、私を見上げる。
「もう少しだけ、頑張ろうね」
ルナは、力強く鼻を鳴らした。
お兄様の足元では、ガルとレオが低く唸っている。
三匹の狼が、私たちの隣へ並んだ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
エドモンドを、まっすぐ見つめる。




