最終決戦・血塗られた再会
その夜。
ヴァルディエ家の屋敷には、いつものように賑やかな声が響いていた。
「だから! 俺の勝ちだって!」
「いやいや、まだ終わってねえだろ!」
居間の中央では、クレイドとクロードさんがカードゲームをしている。
クロードさんは相変わらず大袈裟な身振りで騒ぎ、クレイドは呆れた顔で言い返していた。
「お前、さっきから負けそうになるとルール変えてんじゃねえか!」
「臨機応変って言ってくれよ!」
「ただの反則だろ!」
私は思わず笑ってしまった。
隣ではお兄様が本を読んでいる。
足元にはルナ。
その向こうでは、ガルとレオが仲良く丸くなっていた。
少し離れた場所では、セドリックさんとラビが警備記録を確認している。
アルとノエルさんは、先ほど巡回から戻ってきたばかりだった。
「……異常なし」
ノエルさんが静かに報告する。
「北側も問題なかった」
アルが頷いた。
「じゃあ、次は俺とラビだな」
セドリックさんが立ち上がる。
「叔父さん、よろしくねぇ」
「だからその呼び方やめろって」
ラビが笑った。
そんな何気ないやり取りを聞きながら、私はお兄様の肩へ少しだけ寄りかかった。
「……お兄様」
「なあに?」
「みんなで暮らすの、楽しいね」
お兄様は本から顔を上げ、優しく微笑んだ。
「そうだね」
「ずっと、こんな毎日が続けばいいのに」
「……うん」
お兄様の手が、私の頭を撫でる。
「僕も、そう思うよ」
そのときだった。
ルナが、突然顔を上げた。
続いて、ガルとレオも立ち上がる。
三匹の狼が、一斉に窓の外へ視線を向けた。
「……ルナ?」
私が名前を呼んでも、ルナは動かなかった。
耳を立て、低く唸っている。
お兄様が本を閉じた。
「……来たね」
その声に、居間の空気が変わった。
セドリックさんが顔を上げる。
「何人だ?」
「かなりの数。それに……」
お兄様の赤い瞳が、鋭く細められる。
「エドモンドもいる」
その瞬間。
――ドォンッ!!
屋敷の正門から、凄まじい爆発音が響いた。
窓ガラスが激しく震える。
「きゃっ!」
私は思わず身を竦めた。
「正門が襲撃されています!」
廊下から警備兵の叫び声が聞こえた。
アルが立ち上がる。
「全員、配置につけ!」
ノエルさんも静かに立ち上がった。
「……了解」
セドリックさんがラビを見る。
「行くぞ!」
「はーい!」
クロードさんはカードを机へ放り投げた。
「ったく! せっかく勝てそうだったのに!」
「負けてただろ!」
クレイドが言い返す。
けれど、その手にはすでに剣が握られていた。
お兄様が私の手を取る。
「ルシア」
「……うん」
「僕から離れないで」
私は頷いた。
怖くないわけではない。
けれど、もう逃げるだけの自分ではいたくなかった。
「……お兄様」
「何?」
「私も戦うよ」
お兄様は、しばらく私を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「分かってる。でも、無茶はしないでね」
「うん!」
ルナが私の隣へ並ぶ。
ガルとレオも、低く唸りながら扉へ向かった。
十二年前から続く因縁。
その決着をつける夜が、ついに始まった。
◇
正門では、黒い外套を着た男たちが次々と敷地へ侵入していた。
「門を守れ!」
「これ以上、通すな!」
警備兵たちが応戦する。
けれど、敵の数は多かった。
そのとき、地面が大きく震えた。
――ゴゴゴゴゴ……!
正門の内側から、巨大な土の壁が立ち上がる。
「なっ……!?」
侵入しようとしていた男たちが足を止めた。
その壁の上に、一人の青年が立っていた。
ノエル・アシュフォード。
「……通さない」
静かな声だった。
けれど、その赤い瞳には強い決意が宿っている。
ノエルが片手を下ろすと、地面から複数の土柱が伸び、男たちの足元を囲んだ。
「……捕まえた」
その背後からアルが姿を現す。
「よくやった」
アルが手を上げると、空気中の水分が凍りつき、無数の氷槍が形成された。
「武器を捨てろ」
男たちが剣を構える。
アルの指先が動いた。
氷槍が一斉に放たれ、男たちの武器を弾き飛ばす。
「ぐっ……!」
さらに地面へ広がった氷が、敵の足を固定した。
ノエルが手を握る。
土の柱が繋がり、巨大な檻となった。
「……確保」
アルが頷く。
「ああ。次だ」
別の方向から敵が押し寄せてくる。
ノエルは再び地面へ手を向け、厚い土壁を作り出した。
警備兵たちを守るその壁の上に、アルが氷槍を並べて敵の進路を塞ぐ。
二人の異能は、見事に噛み合っていた。
◇
東側の庭園。
「叔父さん、右!」
ラビの声が響く。
「分かってる!」
セドリックさんが片手を振った。
鋭い風が吹き荒れ、敵の身体を吹き飛ばす。
「ぐあっ!」
その背後から、別の男が短剣を振り上げた。
けれど。
――パンッ!
乾いた銃声が響く。
男の手から短剣が弾き飛ばされた。
「はい、残念!」
ラビの姿は見えない。
透明化。
敵が慌てて周囲を見回す。
「どこだ!?」
「こっちだよー」
再び銃声。
男が体勢を崩した瞬間、セドリックさんの風がその身体を地面へ押さえつけた。
「よし、一人確保!」
ラビが姿を現す。
「さすが叔父さん!」
「お前もな!」
二人は短く笑い合った。
けれど、すぐに次の敵へ視線を向けた。
◇
西側の通路。
「おらっ!」
クレイドが剣を振り下ろした。
敵の武器が弾かれ、金属音が響く。
その隣では、クロードさんが炎を操っていた。
「いやぁ、せっかくの夜なのに!」
赤い炎が地面を這うように広がる。
「女の子と遊ぶ予定だったんだけどなぁ!」
「お前、戦ってるときくらい黙れねえのかよ!」
クレイドが叫ぶ。
「無理!」
「即答すんな!」
クロードさんが指を鳴らした。
炎が敵の足元で弾け、男たちが後退する。
その隙にクレイドが踏み込み、剣の柄で一人を殴り倒した。
「ナイス!」
「お前もな!」
二人は背中合わせに立った。
普段は喧嘩ばかりしている。
けれど、戦いとなれば話は別だった。
◇
その頃。
屋敷の大広間では、私はお兄様と並んで立っていた。
外からは、激しい戦闘音が聞こえてくる。
ルナが私の隣で低く唸っていた。
「……お兄様」
「なあに?」
「エドモンド、どこにいるのかな」
お兄様は、静かに周囲を見渡した。
「もう近くにいるよ」
第三十九章 最終決戦・血塗られた再会(続き)
その言葉が終わるより早く、大広間の扉がゆっくりと開いた。
「やあ」
聞き覚えのある声。
私は、思わず息を呑んだ。
そこには、黒い外套を纏った男が立っていた。
艶やかな黒髪。
深紅の瞳。
そして、穏やかな笑顔。
エドモンド・ヴァルディエ。
「久しぶりだね、ゼノン」
男は楽しそうに微笑んだ。
「そして……ルシア」
その赤い瞳が、私へ向けられる。
「迎えに来たよ。約束どおりにね」
背筋が冷たくなった。
お兄様が、私の前へ立つ。
「……エドモンド」
その声は、驚くほど冷たかった。
「よく、ここまで来られたね」
エドモンドは小さく笑った。
「そんな怖い顔をしないでおくれ。家族の再会じゃないか」
「……家族?」
お兄様の赤い瞳が、鋭く細められた。
「ああ。同じヴァルディエの血を引いているだろう?」
私は、拳を握り締めた。
「……あなたなんか、家族じゃない」
エドモンドが私を見る。
「うん?」
「お父さまとお母さまを殺して……お祖父さまとお祖母さままで、長い眠りにつかせて……!」
声が震える。
「絶対に、許さない!」
エドモンドは、何でもないことのように頷いた。
「そうだね。でも、もう終わったことだろう?」
その答えに、胸の奥が熱くなった。
けれど、怒りに任せてはいけない。
お兄様が教えてくれたことを思い出し、ゆっくりと息を吸う。
「……終わってないよ。私たちにとっては、まだ終わってない」
エドモンドは楽しそうに目を細めた。
「いいね。その目だよ、ルシア」
そして、ゆっくりと一歩踏み出す。
「ロザリアによく似ている。君の母親も、私を見るときはそんな目をしていた」
「……黙れ」
お兄様の声が低くなる。
足元から、黒い影が広がった。
ガルとレオ。
二匹の黒狼が、エドモンドへ牙を剥く。
「父上と母上の名前を、お前が口にするな」
エドモンドは二匹の狼を見て微笑んだ。
「アルフォンスの影狼か。懐かしいね」
「……そうだよ」
お兄様の赤い瞳が鋭く輝く。
「父上から受け継いだ、大切な力だからね」
その瞬間、大広間の空気が急激に重くなった。
重圧。
お兄様のもう一つの異能。
床が軋み、エドモンドの身体へ見えない圧力がのしかかる。
「……っ!」
エドモンドが僅かに膝を曲げた。
「ここで終わらせる」
お兄様が静かに告げた。
けれど、エドモンドは笑みを崩さなかった。
「随分と頼もしくなったね。あの小さかったゼノンが、ここまで成長するとは」
「……お前に褒められても嬉しくないよ」
「はは。冷たいね」
エドモンドが肩を竦める。
そのときだった。
「ルシアー!」
聞き覚えのある、明るい声。
私は、思わず振り返った。
エドモンドの背後から、一人の少女が姿を現した。
少し癖のある髪。
赤く染まった瞳。
そして、昔と変わらない笑顔。
「……ミア」
胸の奥が冷たくなった。
ミアは嬉しそうに両手を振った。
「久しぶりー! やっと会えたね!」
私は、思わず一歩下がった。
ルナが私の前へ出る。
白狼は低く唸り、ミアから視線を逸らさなかった。
「ルナも久しぶり! 相変わらず可愛いねぇ!」
私は、何も答えられなかった。
最後に会ったとき、私ははっきりと伝えた。
『もう、会いに来ないで』
『私は、ミアが怖いの』
それなのに、ミアは今も笑っている。
「ねえ、ルシア!」
ミアが両手を胸の前で合わせた。
「今日はね、プレゼントを持ってきたの!」
その手には、小さな箱。
薄い桃色のリボンが結ばれている。
「……プレゼント?」
「うん! 前に一緒に買い物したとき、可愛いって言ってた髪飾り!」
その言葉に、昔の記憶が蘇った。
王都の雑貨店。
並んでいた小さな髪飾り。
『これ、可愛い!』
『じゃあ、お揃いにしようよ!』
あの頃は、本当に楽しかった。
何でもないことで笑い合って、毎日一緒に過ごしていた。
ミアは、私にとって大切な親友だった。
けれど、今は違う。
「……ミア。どうして、ここに来たの?」
ミアはきょとんとした顔をした。
「え?」
そして、すぐに笑う。
「仲直りするためだよ!」
「……仲直り?」
「そう! これ、ルシアにあげる!」
ミアは箱を差し出した。
私は、しばらく箱を見つめた。
受け取るべきか迷ったけれど、そっと手を伸ばした。
「……ありがとう」
ミアの表情が、ぱっと明るくなる。
「やったぁ!」
そして、私の手を握ろうとした。
私は、思わず一歩下がった。
「……ミア。プレゼントは嬉しい。でも、だからって昔みたいに戻れるわけじゃないよ」
ミアの笑顔が、僅かに止まった。
「……え?」
「私、まだミアが怖いの。それに、もう血を飲ませるつもりもない」
ミアの瞳から、光が消えた。
「……血?」
「ミアが私に近づく理由は、それだけでしょう?」
ミアは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑う。
「違うよ。仲直りしたいの」
「だったら、私の言うことを聞いて。もう私に近づかないで。私の血を欲しがらないで。今すぐ、ここから帰って」
ミアは目を瞬いた。
「……ルシアの言うことを聞けば、仲直りできる?」
「少なくとも、これ以上怖がらずに済むよ」
「じゃあ、何でもする!」
ミアは嬉しそうに笑った。
「ルシアの言う通りにするよ!」
そして、私へ一歩近づく。
「だから、仲直りしよ?」
ミアは、昔と変わらない笑顔を浮かべた。
「もうルシアが嫌がることはしないよ。勝手にお家に来たりしないし、ルシアが嫌だって言ったら、ちゃんとやめる!」
私は、少しだけ目を見開いた。
「……本当に?」
「うん!」
ミアは嬉しそうに頷いた。
「だからね、ルシア」
その赤い瞳が、私をまっすぐ見つめる。
「仲直りの印に、ちょっとだけ血を飲ませて?」
私は、言葉を失った。
「……え?」
「ほんの少しでいいの!」
ミアは両手を合わせた。
「一口だけ! そうしたら、ルシアの言うこと何でも聞くから!」
「……ミア」
「ね? お願い!」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……嫌だよ」
ミアの笑顔が止まった。
「……どうして?」
「私の血は、仲直りするためのご褒美じゃないよ」
「でも、私、ちゃんと謝ろうとしてるよ?」
「うん。でも……」
私は、ミアをまっすぐ見つめた。
「謝ってくれるなら、もう私を傷つけないでほしいの」
ミアは、不思議そうに首を傾げた。
「だから、傷つけないって言ってるじゃん!」
「血を飲むために噛みつくのも、私にとっては嫌なことなの」
「……えー?」
ミアが頬を膨らませた。
「でも、ヴァンパイアなんだから血を飲むのは普通でしょう?」
「普通でも、私は嫌なの」
「ルシアは純血種だから、すぐ治るじゃん!」
「そういうことじゃないよ!」
思わず声が大きくなった。
ミアは、驚いたように目を瞬いた。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……ミア。私は、あなたに血を飲まれるのが怖いの」
「……」
「前に、アルの家で何度もやめてってお願いしたでしょう?」
ミアは黙っていた。
「痛かったし、怖かった。それなのに、ミアは笑ってた」
「だって……」
ミアが小さく呟く。
「美味しかったんだもん」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
「……それが理由なの?」
「うん」
ミアは、何の迷いもなく頷いた。
「ルシアの血、すっごく美味しいんだよ?」
そして、嬉しそうに笑った。
「普通の血なんか、もう飲みたくないくらい!」
私は、思わず一歩下がった。
ミアは、そんな私を見て首を傾げる。
「ねえ、どうして逃げるの?」
「……怖いから」
「またそれ?」
ミアの声が、少しだけ低くなった。
「ルシアって、最近そればっかり」
「……ミア」
「私たち、親友だったじゃん」
ミアが一歩近づく。
「毎日一緒にいたじゃん。何でも話してたじゃん」
その表情が、少しずつ歪んでいく。
「なのに、血をちょっと飲ませてくれることもできないの?」
「……できない」
私は、はっきりと答えた。
ミアの笑顔が消えた。
「……そっか」
小さな声だった。
私は、少しだけ安心しかけた。
けれど。
「じゃあ、もういいや」
次の瞬間。
ミアの姿が、目の前から消えた。
「ルシア!」
お兄様の声が響く。
振り返るより早く、肩を掴まれた。
「……っ!」
ミアだった。
赤い瞳が、すぐ目の前にある。
「もう、お願いするのやめる!」
鋭い牙が、私の首筋へ迫った。
「ミア、やめて!」
私は、咄嗟に両手でミアの肩を押し返した。
その瞬間。
身体の奥から、強い力が溢れ出した。
――ドンッ!!
「きゃあっ!」
ミアの身体が、大きく吹き飛ばされた。
そのまま大広間の壁へ激突する。
――ガンッ!
石壁に亀裂が走り、細かな破片が床へ落ちた。
「……っ!」
私は、荒い息を繰り返していた。
自分の両手を見つめる。
今のは、異能ではない。
純血種のヴァンパイアが持つ、圧倒的な身体能力。
以前の私なら、ミアに掴まれた瞬間、何もできなかった。
けれど、今は違う。
「……ルシア」
お兄様が、私の肩へ手を置いた。
「大丈夫?」
「……うん」
私は、小さく頷いた。
「大丈夫だよ」
お兄様は、少しだけ安心したように息を吐いた。
けれど、その赤い瞳はミアから離れなかった。
「……もう、十分だよ」
その声は、静かだった。
けれど、明確な怒りが滲んでいた。
◇
「……いったぁ……」
壁際から、ミアの声が聞こえた。
私は、顔を上げた。
ミアは、ゆっくりと身体を起こしていた。
頬には傷があり、口元から血が流れている。
けれど、その傷は、みるみるうちに塞がっていった。
「……すごい」
ミアが呟いた。
その赤い瞳が、嬉しそうに輝く。
「すごいよ、ルシア!」
私は、思わず息を呑んだ。
「やっぱり純血種って、全然違うんだね!」
ミアは、楽しそうに笑った。
「こんなに強くなってるなんて、知らなかった!」
「……ミア」
「それに、傷だってすぐ治るんでしょう?」
ミアは、外套の内側へ手を伸ばした。
取り出したのは、細身の刃物だった。
「じゃあ、これくらい平気だよね!」
私は、目を見開いた。
「……やめて!」
けれど、ミアは止まらなかった。
刃物を握り締め、私へ向かって駆けてくる。
その顔には、怒りと興奮が入り混じっていた。
「ルシアが悪いんだよ!」
ミアが叫ぶ。
「ちょっと飲ませてくれれば、こんなことしなくて済むのに!」
刃物が、私の腕へ向かって振り下ろされた。
私は、咄嗟に右手を上げる。
透明な膜が、目の前に広がった。
反射。
――キィンッ!!
刃物が膜へ触れた瞬間、その力が跳ね返った。
「きゃっ!」
ミアの腕が弾かれ、刃物が宙を舞う。
けれど、その切っ先が、私の腕を僅かに掠めた。
「……っ!」
鋭い痛み。
赤い血が、腕を伝って流れ始める。
私は、思わず傷口を押さえた。
「ルシア!」
お兄様が駆け寄る。
「怪我したの!?」
「……少しだけだよ」
私は答えた。
けれど、血は思った以上に流れていた。
指の隙間から、ぽたぽたと床へ落ちていく。
その赤い滴を見た瞬間。
ミアの表情が変わった。
「……あ」
その赤い瞳が、私の腕へ釘づけになる。
「……血」
ミアが、ゆっくりと唇を舐めた。
「ルシアの血……!」
私は、思わず後ずさった。
「……ミア」
「ねえ、ルシア!」
ミアは、嬉しそうに笑った。
「もう傷ついちゃったんだから、飲ませてよ!」
「……嫌!」
「もったいないじゃん!」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
ミアは、私が傷ついたことを心配していない。
ただ、流れている血を欲しがっている。
「……もう、やめて」
私は、小さく呟いた。
けれど、ミアは再び近づこうとした。
「……もう、やめて」
私は、小さく呟いた。
けれど、ミアは聞いていなかった。
その赤い瞳は、私の腕から離れない。
「ねえ、ルシア。お願いだから、ちょっとだけ!」
ミアが、一歩近づく。
「一口でいいの! ほんの一口だけ!」
「……嫌だって、言ってるでしょう?」
「どうしてそんなに意地悪するの!?」
ミアの声が、大広間へ響いた。
「私たち、親友だったじゃん!」
その言葉に、胸が締めつけられた。
親友。
確かに、そうだった。
人間だと思っていた頃の私にとって、ミアは大切な友達だった。
一緒に授業を受けて、買い物をして、くだらないことで笑い合って。
あの頃の思い出は、今でも大切にしている。
けれど。
「……親友だったからこそ、悲しいんだよ」
私は、ミアを見つめた。
「ミアが私のことを大切に思ってくれていたなら、こんなことにはならなかったと思う」
「……え?」
「私、何度も嫌だって言ったよね?」
「……」
「怖いって、痛いって、やめてって……何度もお願いしたよね?」
ミアは、少しだけ眉を寄せた。
「……でも」
「でも?」
「ルシアの血、本当に美味しいんだもん」
その言葉に、私は目を伏せた。
やっぱり。
何も伝わっていなかった。
「……もう、いいよ」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「ミアとは、もう友達には戻れない」
ミアの表情が、ぴたりと止まった。
「……何、それ」
「……ごめんね」
「嫌だ」
小さな声だった。
「……ミア?」
「嫌だって言ってるの!」
ミアが、突然叫んだ。
「ルシアは私の親友なの! 勝手に終わりにしないでよ!」
その身体が、再び私へ向かって動き出す。
けれど。
「――王家の命令だよ」
お兄様の声が、大広間に響き渡った。
その瞬間。
空気が、張り詰めた。
「ミア。そこから一歩も動くな。ルシアに近づくことを禁じる」
――ドンッ!!
「……っ!?」
ミアの身体が、ぴたりと止まった。
足を動かそうとしても、動かない。
腕を伸ばそうとしても、伸ばせない。
「……え?」
ミアが、困惑したように自分の身体を見下ろした。
「な、何これ……!?」
お兄様は、静かにミアを見つめていた。
「……ゼノンさん?」
「もう、十分だよ」
その声は、驚くほど冷たかった。
「ルシアは、何度も君に伝えたはずだ」
「……でも!」
「君は、その気持ちを一度も尊重しなかった」
ミアが、唇を尖らせる。
「……だって、血を飲みたいだけなのに」
「その『だけ』が、ルシアを傷つけているんだよ」
お兄様の赤い瞳が、鋭く細められた。
「君がどれだけ欲しがろうと、ルシアの血は君のものじゃない」
「……意地悪」
「そう思ってくれて構わないよ」
お兄様は、少しも表情を変えなかった。
「僕は、ルシアを守るためなら、いくらでも意地悪になるからね」
その言葉に、胸が温かくなった。
「……お兄様」
お兄様が、私を振り返る。
先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、優しく微笑んだ。
「ルシア。腕を見せて」
「……うん」
私は、傷ついた腕を差し出した。
お兄様は、私の手首をそっと持ち上げる。
傷口は、すでに塞がり始めていた。
「……よかった。深くはないね」
「うん。もう、あんまり痛くないよ」
「それでも、怪我をしたことには変わりないからね」
お兄様は、私の腕を優しく撫でた。
「あとで、ちゃんと手当てしよう」
「……うん!」
そのときだった。
「……おや?」
今まで黙って様子を見ていたエドモンドが、ゆっくりと口を開いた。
私は、思わず顔を上げた。
彼の赤い瞳が、私の腕へ向けられている。
「……なるほど」
エドモンドが、興味深そうに目を細めた。
「随分と甘い香りがすると思ったら……」
その視線が、私の傷口へ釘づけになる。
「ルシア。君の血だったのか」
背筋が冷たくなった。
ヴァンパイアは、人間よりも遥かに優れた嗅覚を持っている。
血の香りも、当然感じ取れる。
けれど。
エドモンドの反応は、明らかに普通ではなかった。
「……何という香りだ」
彼は、うっとりと目を細めた。
「ロザリアの血も素晴らしかったが……君の血は、それ以上かもしれないね」
「……っ!」
私は、思わず腕を引いた。
お兄様が、すぐに私の前へ立つ。
「……近づくな」
エドモンドは、楽しそうに笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「お前が何を考えているのかくらい、分かるよ」
「はは。さすがだね、ゼノン」
エドモンドは、ゆっくりと一歩踏み出した。
「けれど、少し興味が湧いてしまったんだ」
その赤い瞳が、私へ向けられる。
「ルシア」
「……何?」
「一度だけ、味見をさせておくれ」
私は、はっきりと首を横に振った。
「……嫌!」
「おや。即答かい?」
「あなたに血を飲ませるつもりなんてないよ!」
エドモンドは、残念そうに溜息を吐いた。
「困った子だね」
そして、微笑んだ。
「では、仕方がない」
その瞬間。
エドモンドの姿が、消えた。
「――ルシア!!」
お兄様の声が響く。
次の瞬間。
――ガシッ!!
「……っ!?」
傷ついた腕を、強く掴まれた。
目の前には、エドモンド。
その赤い瞳が、異様なほど輝いていた。
「ようやく、近くで感じられた」
「……離して!」
私は、必死に腕を引いた。
けれど、エドモンドの手はびくともしない。
「少しだけだよ」
彼は、優しく微笑んだ。
その笑顔が、何よりも恐ろしかった。
「……っ!」
次の瞬間。
生温かい感触が、腕を伝った。
エドモンドが、傷口に残っていた血を舐め取ったのだ。
「……っ!!」
私は、息を呑んだ。
怖い。
気持ち悪い。
早く、離れてほしい。
けれど。
エドモンドは、突然動きを止めた。
「…………」
その赤い瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「……これは」
小さな声が零れた。
彼は、自分の唇へ指先を当てた。
そして。
「……はは」
笑った。
「はははっ……!」
その笑い声が、大広間へ響き渡る。
「素晴らしい……!」
私は、思わず身体を強張らせた。
「なんて甘美なんだ……!」
エドモンドは、恍惚とした表情を浮かべていた。
「これほどまでに甘い血を、私は今まで味わったことがない……!」
その赤い瞳が、私を見つめる。
「ルシア……!」
声が、歓喜に震えていた。
「君は、本当に素晴らしい純血種だね!」
私は、必死に腕を引こうとした。
「……離して!」
「もう少しだけ」
エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。
「もう一口、味わわせておくれ」
「嫌っ!!」
私は、咄嗟に異能を発動した。
反射。
透明な膜が、私とエドモンドの間に広がる。
――バァンッ!!
「ぐっ……!」
エドモンドの身体が、勢いよく弾き飛ばされた。
そのまま床を滑り、数歩離れた場所で立ち止まる。
私は、荒い息を繰り返した。
「……はぁ……はぁ……!」
お兄様が、すぐに私を抱き寄せる。
「ルシア!」
「……お兄様……!」
「大丈夫。もう触らせないよ」
その腕が、私を強く抱き締めた。
けれど。
「……ああ」
エドモンドは、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、まだ笑みが浮かんでいた。
「素晴らしいよ、ルシア」
彼は、自分の唇を指先で拭った。
「血の味だけではない。純血種としての身体能力も、異能も……実に見事だ」
その赤い瞳が、妖しく輝く。
「やはり、君を手に入れたい」
私は、思わずお兄様の服を握り締めた。
「……嫌」
エドモンドは、楽しそうに笑った。
「君の意思は関係ないんだよ」
その言葉に、お兄様の腕へ力がこもった。
「……そう」
静かな声だった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
お兄様は、エドモンドを見つめていた。
その表情から、笑みが消えている。
「……だったら、僕も遠慮しないよ」
その瞬間。
大広間の空気が、急激に重くなった。
――ミシッ!!
石床に亀裂が走る。
ガルとレオが、一斉にエドモンドへ牙を剥いた。
「……おや?」
エドモンドが、楽しそうに首を傾げる。
「怒ったのかい、ゼノン?」
「……」
お兄様は、静かに頷いた。
「かなりね」
そして、私の頭を優しく撫でた。
「ルシア。少しだけ下がっていて」
「……お兄様?」
「大丈夫だよ」
お兄様は、私へ微笑んだ。
「今度は、僕が守る番だから」
私は、小さく頷いた。
「……うん」
ルナが、私の隣へ並んだ。
お兄様は、ゆっくりとエドモンドへ向き直った。
「……エドモンド」
「何だい?」
「十二年前、お前は僕から父上と母上を奪った」
その声が、低くなる。
「ルシアとの時間も、家族として過ごせたはずの日々も……全部」
エドモンドは、楽しそうに微笑んでいた。
「そうだったね」
「……そして今」
お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝く。
「また、ルシアを奪おうとしている」
「当然だろう?」
エドモンドは、何の迷いもなく答えた。
「彼女はヴァルディエ家の純血種だ。これほどの力を持つ存在を、放っておくわけにはいかないからね」
「……そう」
お兄様が、小さく息を吐いた。
「やっぱり、お前は何も変わっていないんだね」
その足元から、黒い影が広がっていく。
ガルとレオの身体が、ゆっくりと大きくなった。
漆黒の毛並み。
鋭い牙。
燃えるような赤い瞳。
二匹の黒狼が、エドモンドを囲む。
「……さあ」
お兄様が、静かに片手を上げた。
「今度こそ、終わらせようか」
エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。
「いいね。実に楽しみだ」
その身体から、黒い霧が溢れ出す。
床を這い、壁を伝い、瞬く間に大広間を覆っていく。
けれど、お兄様は動かなかった。
ただ、静かに告げた。
「――王家の命令だ」「」
その瞬間。
空気が、凍りついた。
お兄様の赤い瞳が、鮮やかに輝く。
「エドモンド・ヴァルディエ」
その声が、大広間へ響き渡った。
「――跪け」
――ドォォンッ!!
凄まじい重圧が、エドモンドの身体へ襲いかかった。
「……ぐっ!?」
その膝が、石床へ叩きつけられる。
「な……に……!?」
エドモンドが、必死に身体を起こそうとした。
けれど。
動けない。
「……馬鹿な……!」
その赤い瞳が、大きく見開かれる。
「私に……王家の命令が効くはずが……!」
お兄様は、静かにエドモンドを見下ろしていた。
「……驚いた?」
その声は、恐ろしいほど穏やかだった。
「王家の命令は、ヴァルディエの血を引いていれば誰でも使えるものじゃない」
お兄様が、ゆっくりと歩き出す。
「特別な適性を持つ者だけが扱える力なんだ」
私は、思わずお兄様を見つめた。
「……お兄様だけ?」
お兄様は、私へ優しく微笑んだ。
「そうだよ、ルシア」
そして、再びエドモンドへ視線を向けた。
「少なくとも、今この場で使えるのは僕だけだ」
エドモンドが、歯を食いしばる。
「……ふざけるな……!」
その身体から、黒い霧が激しく噴き出した。
「たかが六十年しか生きていない小僧が……!」
黒い霧が、巨大な腕を形成する。
けれど。
「――動くな」
お兄様が、静かに告げた。
――ドォンッ!!
エドモンドの身体が、さらに深く床へ押さえつけられた。
「ぐあっ……!」
石床が砕け散る。
「……年齢なんて関係ないよ」
お兄様の赤い瞳が、冷たく細められた。
「お前がどれほど長く生きていようと、僕の命令からは逃れられない」
私は、その光景を呆然と見つめていた。
いつも優しくて、私を甘やかしてくれるお兄様。
けれど今、目の前にいるのは。
ヴァルディエ王家の血を受け継ぐ、圧倒的な力を持つ純血種だった。
そのとき。
「……ずるい」




