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禁術の完成



 王都から遠く離れた、深い森の奥。


 昼間でさえ陽の光がほとんど届かないその場所に、一軒の古い屋敷が建っていた。


 かつては名のある貴族が所有していたという屋敷も、今ではすっかり荒れ果てている。


 外壁には蔦が絡まり、庭園は雑草に覆われ、長い年月を経た石畳には無数の亀裂が走っていた。


 けれど、その地下だけは違っていた。


 屋敷の地下深く。


 幾重もの扉を越えた先には、広大な石造りの空間が広がっている。


 壁には古い文字が刻まれ、床には複雑な紋様が描かれていた。


 その中央に置かれているのは、一つの巨大な石棺。


 黒曜石のように艶やかな表面。


 蓋には見たこともない文字が彫り込まれ、棺の四隅からは太い鎖が伸びている。


 そして、棺の周囲には赤黒い光が脈打っていた。


 まるで、そこに生きた心臓があるかのように。


「……美しい」


 エドモンド・ヴァルディエは、石棺の前に立ち、満足そうに微笑んだ。


 長い年月をかけて準備してきた禁術。


 王家の古い記録から存在を知り、幾度となく実験を繰り返してきたもの。


 その完成が、ようやく目前に迫っていた。


 かつて、ラビたちに見つかった石棺があった。


 深い森の中に隠されていた、禁術のための石棺。


 けれど、あれは本命ではなかった。


 ラビたちによって発見され、破壊されたのは、あくまで予備の石棺。


 禁術の術式を一部だけ移した、囮のようなものだった。


 深い森の棺は、すでに壊されている。


 エドモンドは、その事実を知ったときでさえ、少しも動揺しなかった。


 なぜなら、本命は最初から別の場所に用意していたからだ。


 誰にも見つからないよう、古い屋敷の地下深くにある隠し部屋へ。


「エドモンド様」


 背後から声がかかる。


 振り返ると、黒い外套を着た男が立っていた。


「どうしたんだい?」


「生贄の数について、ご報告がございます」


「聞こう」


 男は、一冊の帳簿を開いた。


「これまでに本命の石棺へ捧げた心臓は、規定数まで残り十個となりました」


 エドモンドの赤い瞳が、僅かに細められる。


「あと十人、か」


「はい」


 男は頷いた。


「深い森にあった予備の石棺が破壊されたことで、ラビたちは禁術の準備が止まったと思っている可能性がございます」


「そうだろうね」


 エドモンドは、石棺へ手を伸ばした。


 冷たい石の表面へ指先を滑らせる。


「彼らは、あれが本命だと思い込んでいた。だからこそ、こちらの存在には気づいていない」


「ですが、王都周辺では行方不明事件への警戒が強まっております。これ以上、人間を集めるには時間が必要かと……」


「時間?」


 エドモンドは、静かに笑った。


「もう十分に待ったよ」


 男が顔を上げる。


「ですが……」


「残り十人程度、私が連れてこよう」


「エドモンド様ご自身が?」


「ああ」


 エドモンドは、石棺の表面に浮かぶ赤黒い光を見つめた。


「深い森の予備が壊されたことで、ゼノンたちは安心している。ならば、その隙を利用すればいい」


 その声には、穏やかな響きがあった。


 けれど、赤い瞳には一切の温かさがなかった。


「今夜中に完成させる」


 男は、深く頭を下げた。


「かしこまりました」


     ◇


 その夜。


 王都から離れた街道では、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。


 乗っているのは、隣町から帰る途中の商人たち。


 仕事を終え、家族の待つ町へ戻るところだった。


「今日は随分と遅くなったな」


「ああ。早く帰らないと、女房に怒られる」


「ははっ、それは大変だ」


 そんな何気ない会話が交わされていた。


 そのときだった。


 馬車が、突然止まった。


「……どうした?」


 御者が手綱を引く。


 街道の中央に、一人の男が立っていた。


 黒い外套。


 艶やかな黒髪。


 深紅の瞳。


 エドモンドだった。


「こんばんは」


 男は、穏やかに微笑んだ。


「こんな時間に、申し訳ないね」


 御者が警戒したように尋ねる。


「何かご用ですか?」


「ああ。少し、手伝ってもらいたいことがあるんだ」


「手伝い?」


「そう」


 エドモンドは、ゆっくりと近づいた。


「私と一緒に来てくれないかな」


 その声を聞いた瞬間、御者の背筋に冷たいものが走った。


「……お断りします」


「そうか」


 エドモンドは、残念そうに微笑んだ。


「なら、仕方がないね」


 次の瞬間。


 馬車の周囲に、複数の黒い外套の男たちが姿を現した。


「なっ……!」


 商人たちが慌てて立ち上がる。


 けれど、逃げ道はすでに塞がれていた。


「何をするつもりだ!」


 一人が叫ぶ。


 エドモンドは、静かに答えた。


「君たちには、私の願いを叶えるための役に立ってもらうんだ」


 その赤い瞳が、楽しそうに細められる。


「光栄に思ってほしいね」


     ◇


 同じ夜。


 王都の外れにある宿場町。


 仕事を終えた人々が家路を急ぐ中、エドモンドは次々と獲物を選んでいた。


 帰宅途中の職人。


 夜道を歩いていた旅人。


 宿から出てきた若い男。


 誰であろうと、彼には関係なかった。


 名前も。


 年齢も。


 家族がいるかどうかも。


 エドモンドにとって必要なのは、ただ一つ。


 生きた人間の心臓だった。


 その夜、十人の人間が姿を消した。


 誰にも別れを告げることなく。


 家族のもとへ帰ることもできずに。


 そして、彼らを連れ去った男は、一度も振り返らなかった。


     ◇


 深夜。


 古い屋敷の地下では、十人の人間が石棺の前へ連れてこられていた。


 全員、両手を拘束されている。


 恐怖に顔を強張らせ、必死に周囲を見回していた。


「ここは……どこなんだ……?」


「頼む、帰してくれ!」


「金なら払う! だから……!」


 悲痛な声が地下室へ響く。


 けれど、エドモンドは何も答えなかった。


 ただ、本命の石棺の前に立ち、ゆっくりと振り返る。


「さて」


 その声が、静かな空間へ広がった。


「始めようか」


 一人の男が、必死に叫んだ。


「何をするつもりだ!」


 エドモンドは、穏やかに微笑んだ。


「心配しなくていい」


 そして、石棺へ視線を向けた。


「すぐに終わるよ」


 その瞬間。


 床に刻まれた紋様が、赤黒く輝き始めた。


「……何だ!?」


 人間たちが後ずさる。


 けれど、足元から伸びた黒い鎖が、彼らの身体を拘束した。


「やめろ!」


「助けてくれ!」


 叫び声が響く。


 エドモンドは、その様子を静かに眺めていた。


 やがて、石棺の蓋がゆっくりと開き始める。


 重い石が擦れる音。


 棺の内部には、底の見えない暗闇が広がっていた。


 そこから、赤黒い光が伸びていく。


 光は、最初の一人の胸元へ触れた。


「……っ!」


 男の身体が激しく強張る。


 次の瞬間。


 胸の奥から、赤い光が引き抜かれた。


 心臓。


 それは肉体を離れ、赤黒い光に包まれながら石棺へ吸い込まれていった。


 男の身体が、力なく床へ崩れ落ちる。


「……ひっ!」


 残された人間たちが悲鳴を上げた。


 けれど、誰も逃げることはできなかった。


 二人目。


 三人目。


 四人目。


 本命の石棺は、次々と心臓を吸収していく。


 そのたびに、棺の表面に刻まれた紋様が一つずつ赤く輝いた。


 エドモンドは、まるで美しい音楽でも聴いているかのように、静かに目を細めていた。


「素晴らしい」


 小さく呟く。


「あと少しだ」


 やがて、最後の一人が石棺の前に残された。


 その男は、震えながらエドモンドを見上げた。


「……どうして……」


 声が掠れていた。


「どうして、こんなことを……」


 エドモンドは、少しだけ首を傾げた。


「どうして?」


 そして、静かに笑った。


「私が欲しいものを手に入れるためだよ」


 男の瞳から涙が零れた。


「……そんな理由で……?」


「ああ」


 エドモンドは、何の迷いもなく頷いた。


「私にとっては、それ以上に大切な理由などないからね」


 赤黒い光が、最後の男へ伸びる。


「悪魔だ……」


 悲鳴が響いた。


 そして。


 地下室に、静寂が訪れた。


     ◇


 十個目の心臓が石棺へ吸い込まれた瞬間。


 ――ドクン。


 低い音が響いた。


 エドモンドが顔を上げる。


 ――ドクン。


 もう一度。


 今度は、地下室全体が僅かに震えた。


 石棺の表面に刻まれていた紋様が、一斉に赤く輝き始める。


 床。


 壁。


 天井。


 地下室に刻まれたすべての文字が、呼応するように光を放った。


「……ついに」


 エドモンドは、ゆっくりと石棺へ近づいた。


 棺の内部からは、赤黒い霧が立ち上っている。


 これまで捧げてきた人間たちの命。


 そのすべてが、本命の石棺の中へ蓄えられていた。


 けれど、まだ完成ではない。


 最後に必要なのは、術を行使する者の血。


 それも、もう一つの命を得る、血の濃いヴァンパイアの血だった。


「エドモンド様」


 背後に控えていた男が、緊張した声で尋ねた。


「最後の儀式を?」


「ああ」


 エドモンドは頷いた。


「再び、この時が来た」


 彼は、自分の手首へ牙を立てた。


 赤い血が流れ出す。


 その血を、石棺の内部へ滴らせた。


 一滴。


 二滴。


 三滴。


 次の瞬間。


 石棺が、激しく震え始めた。


 ――ドクンドクンドクンドクン……!


 床の紋様が、眩しいほどの赤い光を放つ。


 地下室全体へ、凄まじい圧力が広がった。


「……っ!」


 背後の男が、思わず膝をつく。


 けれど、エドモンドは動かなかった。


 ただ、楽しそうに笑っていた。


「そうだ」


 その赤い瞳が、輝く。


「私を認めるんだ」


 石棺から伸びた赤黒い光が、エドモンドの腕へ絡みついた。


 流れ出た血を吸い上げ、棺の内部へ取り込んでいく。


 やがて。


 石棺の蓋が、ゆっくりと閉じ始めた。


 重い音を立てながら、完全に閉ざされる。


 その瞬間。


 地下室を満たしていた赤い光が、一斉に消えた。


 静寂。


 何も聞こえない。


 エドモンドは、しばらく石棺を見つめていた。


 そして。


 その唇に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


「……完成だ」


     ◇


 石棺の表面には、先ほどまで存在しなかった紋様が浮かび上がっていた。


 ヴァルディエ家の紋章。


 その周囲を囲む、古い禁術の文字。


 エドモンドが手を伸ばすと、石棺が僅かに震えた。


 まるで、彼の存在に反応しているかのようだった。


「……これで、準備は整った」


 エドモンドは、満足そうに呟いた。


 十一年前にも使用した不死身の禁術。


 王家の古い記録を参考に、エドモンドが作り上げたもの。


 そして、数え切れないほどの命を犠牲にして完成させたもの。


 その力が、今ここにある。


「ゼノン」


 エドモンドは、小さく名前を呟いた。


「君の心臓を手に入れれば、王家の命令まで私のものになるかもしれない」


 その赤い瞳が、楽しそうに細められる。


「そして、ルシア」


 机の上に置かれた写真を思い浮かべる。


 漆黒の髪。


 深紅の瞳。


 ロザリアの面影を残す、美しい少女。


「僕と家族を作ろう。楽しくなりそうだ」


 その声には、長年待ち続けた者の喜びが滲んでいた。


 けれど、それは愛情ではない。


 ただ、自分の欲望を満たすための執着だった。


     ◇


 その頃。


 屋敷の二階では、ミアが一人、窓辺に座っていた。


 月明かりに照らされた森を眺めながら、退屈そうに足を揺らしている。


「……暇だなぁ」


 小さく呟く。


 エドモンドから、勝手に外へ出ないよう言われていた。


 ルシアに会えるまでは、ここで待つこと。


 それが約束だった。


 けれど、もう何日も待っている気がする。


「ルシア、何してるのかなぁ」


 ミアは、窓の外へ視線を向けた。


 最後に会ったとき。


 ルシアは、随分と冷たかった。


『もう、会いに来ないで』


『私は、ミアが怖いの』


 そんなことを言われた。


 けれど、ミアには理解できなかった。


 あんなに仲良しだったのに。


 毎日のように一緒に遊んでいたのに。


「……ルシアってば、頑固なんだから」


 ミアは頬を膨らませた。


 そして、ふと思い出したように笑った。


「でも、今度は大丈夫だよね」


 エドモンドが約束してくれた。


 ゼノンに邪魔されず、ルシアと一緒にいられるようにしてくれると。


 だから、待っている。


 そのとき。


 扉が、静かに叩かれた。


 そのとき、扉が静かに叩かれた。


「ミア様」


 聞き慣れた男の声だった。


「エドモンド様がお呼びです」


 ミアは、ぱっと顔を上げた。


「エドモンド様が?」


「はい。書斎までお越しください」


「分かった!」


 ミアは勢いよく椅子から立ち上がり、扉へ駆け寄った。


「ねえねえ!」


「何でしょう?」


「もしかして、ルシアに会えるの!?」


 男は、わずかに口元を緩めた。


「それは、エドモンド様から直接お聞きください」


「えー! 教えてくれてもいいのに!」


 ミアは頬を膨らませた。


 けれど、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「まあ、いいや! 行ってくる!」


 そのまま廊下へ飛び出していった。


     ◇


 書斎の扉を開けると、エドモンドは窓辺に立っていた。


 いつもの黒い外套。


 艶やかな黒髪。


 そして、深紅の瞳。


 机の上には、ヴァルディエ家の屋敷の見取り図が広げられていた。


「エドモンド様!」


 ミアが嬉しそうに声を上げる。


「やあ、ミア」


 エドモンドは、ゆっくりと振り返った。


「よく来たね」


「呼ばれたから来ました!」


「いい子だ」


 エドモンドは微笑んだ。


 ミアは、机の上に広げられた見取り図へ視線を向ける。


「あっ!」


「どうしたんだい?」


「これ、ルシアのお家ですよね!」


「そうだよ」


 エドモンドは頷いた。


「ヴァルディエ家の屋敷だ」


 ミアの表情が、ぱっと明るくなる。


「じゃあ、もしかして!」


「ああ」


 エドモンドは、ゆっくりと微笑んだ。


「準備が整ったよ」


 その言葉に、ミアは目を輝かせた。


「本当ですか!?」


「もちろん」


「やったぁ!」


 ミアは嬉しそうに両手を合わせた。


「やっとルシアに会える!」


 エドモンドは、そんな少女を静かに見つめていた。


「随分と楽しみにしていたようだね」


「当たり前です!」


 ミアは大きく頷いた。


「だって、ずっと会えなかったんですもん!」


 そして、少しだけ声を潜める。


「……それに」


「うん?」


「ルシアの血、もうずっと飲んでないんです」


 エドモンドの赤い瞳が、わずかに細められた。


「普通の血じゃ、全然満足できなくて……」


 ミアは、自分の唇へ指先を当てる。


「早く、また飲みたいなぁ」


 エドモンドは、小さく笑った。


「そうだね」


 その声には、どこか楽しそうな響きがあった。


「私も、あの子の血を飲んでみたいと思っているよ」


 ミアが顔を上げる。


「じゃあ、一緒ですね!」


「ああ」


 エドモンドは頷いた。


「ただし、ミア」


「はい?」


「約束は覚えているね?」


 ミアは首を傾げた。


「約束?」


「そう」


 エドモンドは、ゆっくりと近づいた。


「ルシアを殺してはいけないと話したよね?」


 ミアは、少しだけ不思議そうな顔をした。


「殺しませんよ?」


「本当に?」


「もちろん!」


 ミアは元気よく頷いた。


「だって、ルシアが死んじゃったら、もう血が飲めなくなるじゃないですか!」


 その答えに、エドモンドは楽しそうに笑った。


「そうだね」


 ミアは、何でもないことのように続けた。


「ちゃんと生かしておきます!」


「それならいい」


 エドモンドは、満足そうに頷いた。


 彼にとっても、ルシアは生きたまま手に入れなければならない存在だった。


 ロザリアの娘。


 ヴァルディエの純血を引く少女。


 そして、自分の子を産ませるための相手。


 十一年前。


 ロザリアがアルフォンスを選び、自分には一度も振り向かなかったこと。


 その女が、アルフォンスの子を産んだこと。


 エドモンドは、今も忘れていなかった。


 ロザリアの心臓を食べ、治癒の異能を奪った。


 けれど、それだけでは満たされなかった。


 だからこそ、今度は娘を手に入れる。


 まだ一度も味わったことのない、若い純血の女。


 エドモンドは、机の上に置かれたルシアの写真へ視線を向けた。


「……楽しみだね」


 小さく呟く。


     ◇


「そういえば、エドモンド様!」


 ミアが突然、声を上げた。


「何だい?」


「ゼノンさんは、どうするんですか?」


 エドモンドの表情が、わずかに変わった。


「ゼノン?」


「はい!」


 ミアは頷いた。


「ゼノンさんがいたら、また邪魔されちゃいますよね?」


「そうだね」


 エドモンドは、穏やかに答えた。


「だから、彼には少し退場してもらおうと思っている」


「退場?」


「そう」


 エドモンドは、静かに微笑んだ。


「私が相手をするよ」


 ミアの表情が明るくなる。


「本当ですか!?」


「ああ」


「じゃあ、私はルシアと遊んでいていいんですね!」


「もちろん」


 エドモンドは頷いた。


「君は、ルシアを逃がさないようにしてくれればいい」


「任せてください!」


 ミアは嬉しそうに胸を張った。


「今度こそ、絶対に離しません!」


 エドモンドは、満足そうに微笑んだ。


「頼もしいね」


 けれど、ミアは知らない。


 エドモンドがゼノンを殺すつもりでいることを。


 その心臓を食べ、王家の命令を奪おうとしていることを。


 そして、ルシアを自分だけのものにしようとしていることも。


 ミアにとって大切なのは、ただ一つ。


 ルシアの血を、もう一度飲むこと。


 それだけだった。


     ◇


「では、出発の準備を始めよう」


 エドモンドが告げた。


 ミアは、ぱっと顔を上げる。


「今からですか!?」


「ああ」


「やったぁ!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、着替えてきます!」


「好きにするといい」


 ミアは勢いよく扉へ向かった。


 けれど、途中で足を止める。


「あっ、そうだ!」


 エドモンドが顔を上げた。


「何だい?」


「ルシアに、お土産を持っていってもいいですか?」


 その言葉に、エドモンドは少しだけ目を細めた。


「お土産?」


「はい!」


 ミアは嬉しそうに頷いた。


「久しぶりに会うんですもん! 何かプレゼントしたいなって!」


 エドモンドは、しばらく少女を見つめていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「いいんじゃないかな」


「本当!?」


「ああ」


 ミアは満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、選んできます!」


 そのまま廊下へ駆け出していく。


 扉が閉まる。


 エドモンドは、しばらくその扉を見つめていた。


「……本当に、面白い子だ」


 小さく笑う。


 かつての親友を傷つけ、血を奪い、何度拒絶されても諦めない。


 それなのに、本人はまだ親友同士だと信じている。


 ヴァンパイアへ変化したことで、ミアの本質はより強く表れていた。


 欲望を抑えられず、自分以外の者の気持ちを理解できない。


 その歪んだ執着は、エドモンドにとって非常に都合がよかった。


     ◇


 しばらくして、黒い外套の男が書斎へ入ってきた。


「エドモンド様」


「何だい?」


「襲撃の準備が整いました」


「そうか」


 エドモンドは、机の上の見取り図へ視線を落とした。


 ヴァルディエ家の屋敷。


 正門。


 庭園。


 使用人の通路。


 そして、屋敷の中央に位置する大広間。


「警備の状況は?」


「以前よりも強化されております。アルベルト・ドラクロワをはじめ、夜間部の実力者たちも屋敷へ滞在しているようです」


「そうか」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「随分と賑やかになったんだね」


「はい。セドリック、ラビ、クロード、ノエルも確認されています」


 その名前を聞いても、エドモンドの表情は変わらなかった。


「なるほど」


 ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。


「ゼノンも、考えたものだね」


 男は、少しだけ眉を寄せた。


「正面からの襲撃は、危険かと」


「そうだろうね」


 エドモンドは頷いた。


「だが、問題ない」


 その声には、確信があった。


「私には、もう一つの命がある」


 男が息を呑んだ。


「禁術の力、ですか」


「ああ」


 エドモンドは、静かに微笑んだ。


「十一年前、アルフォンスに心臓を抜き取られたときも、私は生き延びた」


 あの日。


 ロザリアの心臓を食べ、治癒の異能を手に入れた直後。


 怒りに我を忘れたアルフォンスが、エドモンドへ襲いかかった。


 その圧倒的な力によって、エドモンドは致命傷を負った。


 本来なら、そこで死んでいたはずだった。


 けれど。


 禁術によって用意していた、もう一つの命。


 それが、エドモンドを死から引き戻した。


 代償として、長い眠りにつくことになったが、今は違う。


 再び禁術を完成させ、失われたもう一つの命を補充した。


「今度こそ、アルフォンスの息子を殺してみせるよ」


 エドモンドは、穏やかに微笑んだ。


「そして、その心臓をいただく」


 男は、深く頭を下げた。


「かしこまりました」


     ◇


 出発の準備が整った頃。


 ミアは、自分の部屋で小さな箱を抱えていた。


 薄い桃色のリボンが結ばれた、可愛らしい箱。


 中に入っているのは、以前ルシアと一緒に買い物をしたときに見つけた、小さな髪飾りだった。


 ルシアが人間として暮らしていた頃。


 二人で王都の雑貨店を巡ったことがある。


『これ、可愛い!』


『ルシアに似合いそう!』


『えー? ミアの方が似合うよ!』


『じゃあ、お揃いにしようよ!』


 そんな会話をした。


 あの頃は、毎日が楽しかった。


 ルシアは、いつも笑っていた。


 ミアの話を聞いて、一緒に笑ってくれた。


 だから。


「……また、あの頃みたいに戻れるよね」


 ミアは、箱を抱き締めた。


 ルシアが怖がっていることも。


 自分を拒絶していることも。


 ミアには、まだ理解できなかった。


 けれど、きっと大丈夫。


 もう一度一緒に遊べば。


 もう一度、血を飲ませてもらえれば。


 昔のように、仲良くなれるはずだった。


「待っててね、ルシア」


 ミアは、嬉しそうに微笑んだ。


「今度こそ、ずっと一緒だよ」


     ◇


 深夜。


 古い屋敷の正門には、黒い馬車が用意されていた。


 周囲には、エドモンドの部下たちが並んでいる。


 全員、黒い外套を身につけ、武器を携えていた。


 その中央に、エドモンドが立っていた。


 彼は、ゆっくりと空を見上げた。


 月が、雲の隙間から姿を現している。


「……いい夜だ」


 小さく呟く。


 そのとき、背後から明るい声が響いた。


「エドモンド様ー!」


 ミアだった。


 両手には、小さな贈り物の箱。


 嬉しそうに駆け寄ってくる。


「お待たせしました!」


「準備はできたかい?」


「はい!」


 ミアは、大きく頷いた。


「ルシアへのプレゼントも持ってきました!」


「そうか」


 エドモンドは、穏やかに微笑んだ。


「きっと喜んでくれるだろうね」


「ですよね!」


 ミアは、満面の笑みを浮かべた。


 エドモンドは、ゆっくりと馬車へ乗り込んだ。


 ミアも、その後に続く。


 扉が閉まる。


 御者が手綱を握った。


「出発いたします」


「ああ」


 エドモンドは、静かに頷いた。


 馬車が動き始める。


 その後ろを、黒い外套の男たちが乗る馬車が続いていく。


 深い森を抜け、王都へ向かう街道へ。


 エドモンドは、窓の外へ視線を向けた。


 十一年前。


 自分からすべてを奪ったアルフォンス。


 そして、その息子ゼノン。


 今度こそ、ヴァルディエ家を自分のものにする。


 王位も。


 王家の命令も。


 そして、ルシアも。


「……もうすぐだよ」


 エドモンドは、静かに微笑んだ。


「ルシア」


 その声が、馬車の中へ響く。


「約束どおり、迎えに行くよ」


 ミアが、嬉しそうに顔を上げた。


「ルシア、喜んでくれるかなぁ!」


 エドモンドは、ゆっくりと笑った。


「もちろん」


 その赤い瞳が、暗闇の奥へ向けられる。


「きっと、忘れられない夜になるだろうね」


 馬車は、静かな街道を進んでいった。


 その先に待つのは、ヴァルディエ家の屋敷。


 そして。


 十一年前から続いてきた因縁の、最後の舞台だった。


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