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賑やかすぎる同居生活



 翌日の夜。


 ヴァルディエ家の屋敷では、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。


 私は居間のソファに座り、膝の上に広げた本を読んでいた。


 足元にはルナ。


 向かいのソファではクレイドが雑誌をめくり、少し離れた場所ではアルが珈琲を飲んでいる。


 お兄様は王宮から届いた書類に目を通していた。


「……ねえ、クレイド」


「あ?」


「それ、面白い?」


「別に」


「じゃあ、どうして読んでるの?」


「暇だから」


「……そっか」


 私は小さく笑って、本へ視線を戻した。


 最近は、こうして何も起こらない時間が少しだけ貴重に感じられる。


 エドモンドのこと。


 ミアの脱獄。


 王宮の警備体制。


 考えなければならないことは、まだたくさんある。


 けれど、今だけは。


 いつものように過ごしていたかった。


 そのときだった。


 玄関の呼び鈴が鳴った。


「……こんな時間に誰だ?」


 アルが顔を上げる。


 お兄様も書類から視線を離した。


「来客の予定はなかったはずだけど」


 使用人が玄関へ向かう。


 しばらくして、廊下の向こうから控えめな声が聞こえた。


「ゼノン様。お客様がお見えです」


「誰?」


「ノエル・アシュフォード様です」


「……ノエル?」


 お兄様が少し驚いたように顔を上げた。


 私も思わず本を閉じる。


「ノエルさん?」


 昨日、学園で会ったばかりだった。


 仕事が忙しいからと、集まりが終わるとすぐに帰ってしまったはずなのに。


「お通しして」


 お兄様が告げる。


 使用人が頭を下げて去っていった。


 数分後。


 居間の扉が開いた。


「……こんばんは」


 そこには、ノエルさんが立っていた。


 いつもの落ち着いた表情。


 整った黒い外套。


 そして。


 その足元には、大きな旅行鞄が三つ置かれていた。


「……え?」


 私は思わず目を瞬いた。


 クレイドも雑誌から顔を上げる。


「……何だ、その荷物」


 ノエルさんは、静かに答えた。


「……引っ越し」


 居間が静まり返った。


「……引っ越し?」


 お兄様が聞き返す。


 ノエルさんは頷いた。


「……ここに、住む」


「……え?」


 私は、もう一度目を瞬いた。


     ◇


「ちょっと待て」


 最初に口を開いたのは、アルだった。


「どういうことだ?」


 ノエルさんは、アルを見た。


「……護衛」


「護衛?」


「……住み込みで」


 アルは、しばらく黙っていた。


 それから、お兄様へ視線を向ける。


「ゼノン。お前が頼んだのか?」


「ううん」


 お兄様は首を横に振った。


「僕も初耳だよ」


 クレイドが呆れたように笑った。


「お前、相談もなしに引っ越してきたのかよ」


「……うん」


「即答かよ」


 ノエルさんは、何でもないことのように頷いた。


 私は少しだけ心配になった。


「でも、ノエルさん。お仕事は?」


 ノエルさんが私を見る。


「……キャンセルした」


「……えっ?」


「……全部」


 その言葉に、私は思わず立ち上がった。


「全部ですか!?」


「……うん」


「でも、すごく忙しかったんじゃ……」


 ノエルさんは、静かに頷いた。


「……忙しかった」


「それなのに……?」


 ノエルさんは、少しだけ考えた。


 そして、私とお兄様を交互に見つめる。


「……いざという時」


 そこで一度、言葉を止めた。


「……いなかったら、守れない」


 居間が静まり返った。


 ノエルさんは、いつもと変わらない表情だった。


 けれど、その赤い瞳には強い決意が宿っていた。


「……だから、来た」


 私は、何も言えなかった。


 昨日の談話室で、ノエルさんは言ってくれた。


『……守る』


 あの短い言葉を、本当に行動へ移してくれたのだ。


「……ノエルさん」


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「ありがとうございます」


 ノエルさんは、少しだけ目を細めた。


「……うん」


 それから、小さく付け加える。


「……無事が、一番」


 お兄様は、しばらくノエルさんを見つめていた。


 そして、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう、ノエル」


 ノエルさんが頷く。


「……友達」


「うん?」


「……だから」


 その言葉に、お兄様の表情が少しだけ変わった。


 やがて、嬉しそうに笑う。


「……そっか」


 アルは深く息を吐いた。


「まったく。相談くらいしてから来い」


 ノエルさんが小さく頭を下げる。


「……ごめん」


「まあ、部屋ならいくらでもあるが」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「じゃあ、ノエルさんもここに住めるの?」


「部屋が余っているのは事実だからな」


 アルは頷いた。


「ただし、警備の配置や生活の決まりは守ってもらうぞ」


「……了解」


 ノエルさんは即答した。


 私は、思わず微笑んだ。


「……よろしくお願いします、ノエルさん」


「……こちらこそ」


 そのとき。


 足元のルナが、ノエルさんへ近づいた。


 白い鼻先を旅行鞄へ寄せ、くんくんと匂いを嗅ぐ。


 ノエルさんは、静かにしゃがみ込んだ。


「……ルナ」


 ルナが顔を上げる。


「……久しぶり」


 そっと手を伸ばす。


 ルナは、その手へ素直に頭を寄せた。


「……いい子」


 ノエルさんの口元が、僅かに緩んだ。


 私は、その様子を見て小さく笑った。


「ルナも歓迎してるみたいです」


「……嬉しい」


 ノエルさんは、もう一度ルナの頭を撫でた。


     ◇


 翌日の夕方。


 ノエルさんがヴァルディエ家へ引っ越してきたという話は、あっという間に夜間部の仲間たちへ広まっていた。


 そして。


 その日の夜。


 玄関から、聞き慣れた賑やかな声が響いた。


「おっじゃましまーす!!」


 私は、居間で読んでいた本から顔を上げた。


「……?」


 その直後。


「ルシアちゃーん!」


 扉が勢いよく開いた。


 クロードさんだった。


 両手には、大きな旅行鞄。


 背中には、さらに大きな荷物を背負っている。


「……クロードさん?」


「やっほー! 今日からよろしく!」


 私は、しばらくその姿を見つめた。


「……今日から?」


「そう!」


 クロードさんは満面の笑みで頷いた。


「俺もここに住むことにした!」


「……ええっ!?」


 思わず声が出てしまった。


 その後ろから、ラビが顔を覗かせる。


「やあ、ルシアちゃん」


「ラビまで!?」


「うん。オレも今日からお世話になろうかなって」


 ラビは楽しそうに笑った。


「ノエルが住み込みで護衛するって聞いてさ。だったら、オレも近くにいた方がいいかなって。セドリック叔父さんも住み込みみたいなもんでしょ?」


 クロードさんが大きく頷く。


「そうそう! ノエルだけ格好つけるなんて、ずるいだろ?」


 その言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「……格好つけてるわけじゃないと思いますけど」


「いやいや! あいつ絶対、俺たちに内緒でいいところ持っていこうとしてたんだって!」


 そのとき、廊下の向こうから静かな声がした。


「……違う」


 ノエルさんだった。


 いつもの落ち着いた表情で、こちらへ歩いてくる。


「おっ、ノエル!」


 クロードさんが手を振った。


「お前だけずるいぞ!」


「……何が?」


「抜け駆けしてルシアちゃんの護衛になったこと!」


 ノエルさんは、少しだけ首を傾げた。


「……守るだけ」


「だから、それが格好いいんだって!仕事までキャンセルしちゃってさ〜」


「……?」


 ノエルさんは、本当に分からないという顔をしていた。


 ラビが笑う。


「まあまあ、クロード。ノエルは真面目に考えて来たんだから」


「俺だって真面目だよ!」


「本当かなぁ?」


「ひどい!」


 私は、三人のやり取りを見ながら小さく笑った。


 昨日まで、こんなに賑やかになるとは思っていなかった。


     ◇


「……何の騒ぎ?」


 お兄様が居間へ入ってきた。


 その後ろには、セドリックさんとクレイドもいる。


 クロードさんが、ぱっと顔を明るくした。


「ゼノン! 今日からよろしく!」


 お兄様は、クロードさんの荷物を見た。


 それから、ラビの荷物を見る。


 最後に、ノエルさんへ視線を向けた。


「……もしかして」


「そう!」


 クロードさんが胸を張る。


「俺たちも住む!」


 お兄様は、しばらく黙っていた。


「……そうなんだ」


 クレイドが吹き出した。


「お前ら、何なんだよ。引っ越しが流行ってんのか?」


「流行ってるんじゃなくて、友情だよ友情!」


 クロードさんが得意げに答える。


「俺たちが一緒にいれば、どんな敵が来ても怖くないだろ?」


 セドリックさんが呆れたように笑った。


「お前、絶対それだけじゃねえだろ」


「失礼な!」


 クロードさんは大袈裟に胸を押さえた。


「俺の純粋な友情を疑うのか!?」


「疑うね」


 お兄様が穏やかに答えた。


「ゼノンまで!?」


 居間に笑い声が広がった。


 そのとき、アルが姿を現した。


「……何だ、この荷物は」


 クロードさんが振り返る。


「あっ、アルベルトさん!」


「クロード。説明しろ」


「今日からお世話になります!」


 クロードさんは、勢いよく頭を下げた。


 ラビも隣で軽く頭を下げる。


「オレも、しばらくお世話になります」


 アルは、二人を交互に見た。


 それから、ノエルさんへ視線を向ける。


「……お前の影響か」


 ノエルさんは小さく頷いた。


「……たぶん」


 アルは、深くため息をついた。


「まったく……」


 私は、少しだけ心配になった。


「アル、駄目?」


 アルが私を見る。


「……いや」


 そして、仕方なさそうに息を吐いた。


「部屋なら、いくらでもある」


 クロードさんの表情が明るくなる。


「やったー!」


「ただし!」


 アルの声が少しだけ大きくなった。


 クロードさんがぴたりと止まる。


「屋敷の規則は守れ。勝手に外部の者を連れ込むな。夜間の警備当番にも参加してもらう」


「はーい!」


「特にクロード」


「はいっ!」


「女性を連れ込むなよ」


 その瞬間。


 居間が静まり返った。


 そして。


「えええっ!?」


 クロードさんが叫んだ。


「何で俺だけ名指し!?」


 クレイドが腹を抱えて笑い始めた。


「お前だからだろ!」


「ひどくない!?」


 セドリックさんも笑っている。


「信用ねえなぁ、クロード」


「お前ら全員ひどい!」


 私は、思わず口元を押さえて笑ってしまった。


 アルは、そんな私たちを見て呆れたように首を振った。


     ◇


 その日の夜。


 ヴァルディエ家の食堂は、いつも以上に賑やかだった。


 長い食卓には、普段より多くの料理が並べられている。


 お兄様の隣には私。


 向かいにはクレイドとノエルさん。


 その隣にクロードさん、ラビ、セドリックさん。


 そして、食卓の端にはアルが座っていた。


「いやぁ、すげえな!」


 クロードさんが料理を見渡して声を上げた。


「毎日こんな豪華なの食べられるの!?」


「お前、飯目当てで来たんじゃねえだろうな」


 クレイドが呆れたように尋ねる。


「失礼な! 俺はルシアちゃんを守るために――」


「ついでに飯だろ」


「……まあ、それもある!」


「あるのかよ!」


 セドリックさんが吹き出した。


 私は小さく笑いながら、グラスへ手を伸ばした。


 そのとき、ノエルさんが静かに口を開いた。


「……美味しい」


 クロードさんが振り返る。


「おっ、ノエルが喋った!」


「……喋る」


「知ってるよ!」


 ラビが楽しそうに笑った。


「ノエルって、昔から必要なことしか言わないよねぇ」


 ノエルさんは小さく頷いた。


「……うん」


「でも、仕事では台詞いっぱい喋ってるんだろ?」


 クレイドが尋ねる。


「……仕事だから」


「なるほどな」


 クレイドは妙に納得したように頷いた。


 クロードさんが身を乗り出す。


「なあノエル! 今度、俺もお前の仕事場に連れてってくれよ!」


「……何で?」


「可愛い女優さん紹介して!」


「……駄目」


「即答!?」


 食堂に笑い声が響いた。


     ◇


 食事を終えたあと。


 私は居間のソファで、ルナを撫でていた。


 少し離れた場所では、クロードさんとクレイドがカードゲームを始めている。


「よっしゃ! 俺の勝ち!」


 クロードさんが嬉しそうに声を上げた。


「まだ終わってねえよ」


 クレイドが呆れたように答える。


「えっ?」


「最後の一枚、出してねえだろ」


「……あ」


 クロードさんが固まった。


 クレイドは、にやりと笑った。


「はい、俺の勝ち」


「ちょっと待て! 今のなし!」


「なしじゃねえよ」


「お前、性格悪いな!」


「お前が馬鹿なだけだろ」


「ひどっ!」


 私は思わず笑ってしまった。


 その隣では、ノエルさんが静かに本を読んでいる。


 ルナが、ふと顔を上げた。


 そして、ノエルさんの足元へ歩いていく。


「……ルナ?」


  ノエルさんが顔を上げる。


 ルナは、その足元で一度立ち止まると、静かに尻尾を振った。


「……どうした?」


 ノエルさんが本を閉じる。


 すると、ルナは当然のように彼の膝へ顎を乗せた。


「……」


 ノエルさんは、しばらく白狼を見つめていた。


 それから、そっと頭を撫でる。


「……甘えん坊」


 私は思わず笑った。


「ノエルさんのこと、気に入ったみたいです」


「……嬉しい」


 ノエルさんは、ほんの少しだけ微笑んだ。


 その様子を見ていたクロードさんが、突然声を上げた。


「ちょっと待った!」


 クレイドが顔を上げる。


「あ? 何だよ」


「ノエルだけずるくない!?」


「今度は何だよ」


「ルナだよ! 俺だって抱っこしたい!」


 クロードさんはカードを机へ置くと、両手を広げた。


「ルナー! お兄さんのところにおいでー!」


 ルナが顔を上げる。


 クロードさんを見る。


 それから、再びノエルさんの膝へ顎を乗せた。


「……え?」


 クロードさんが固まった。


 クレイドが吹き出す。


「嫌われてんじゃねえの?」


「そんな馬鹿な!」


 クロードさんは大袈裟に胸を押さえた。


「俺、女の子にも動物にも優しい男なのに!」


「自分で言うなよ」


「ルシアちゃん! ルナに俺の魅力を伝えて!」


 突然話を振られて、私は困ってしまった。


「えっと……」


 ルナを見る。


 ノエルさんの膝へ顎を乗せたまま、気持ちよさそうに目を細めている。


「……今は、ノエルさんに撫でてもらいたいみたいです」


「俺、振られた!?」


「狼にな」


 クレイドが笑う。


「うるせえ!」


 クロードさんは、再びカードを手に取った。


「いいもん! 俺には女の子がいるから!」


「さっきアルベルトに連れ込み禁止って言われただろ」


「家の外ならいいだろ!」


「そういう問題かよ」


 私は、二人のやり取りを聞きながら小さく笑った。


 そのとき、ノエルさんが静かに口を開いた。


「……クロード」


「ん?」


「……うるさい」


 一瞬の沈黙。


 そして。


「ノエルまで!?」


 居間に笑い声が響いた。


     ◇


 しばらくして、お兄様が居間へ戻ってきた。


 その足元には、ガルとレオ。


 二匹の黒狼が並んで歩いている。


「あれ、みんなまだ起きてたんだ」


「お兄様」


 私が顔を上げると、お兄様は微笑んだ。


「楽しそうだね」


「うん。クロードさんとクレイドがカードゲームしてるの」


「へえ。どっちが勝ってるの?」


「俺!」


 クレイドが即答した。


「いやいや! まだ勝負は終わってないから!」


 クロードさんが反論する。


 お兄様は、机の上に並べられたカードを見た。


「……クロード、あと何枚?」


「七枚!」


「クレイドは?」


「一枚」


 お兄様は少しだけ考えた。


「……頑張ってね、クロード」


「ゼノンまで俺の負けを確信してる!?」


 セドリックさんが笑った。


「そりゃそうだろ」


 お兄様は私の隣へ腰を下ろした。


 すると、ガルが当然のように私の足元へ近づいてきた。


「ガル」


 名前を呼ぶと、黒狼は大きな頭を私の膝へ乗せた。


「ふふ……甘えん坊だね」


 私は、その頭を撫でた。


 ガルの尻尾がゆっくりと揺れる。


 お兄様が嬉しそうに微笑んだ。


「ガル、ルシアのこと大好きだからね」


「私もガルのこと好きだよ」


 そう言って、両手で黒狼の顔を包む。


 ガルは気持ちよさそうに目を細めた。


 そのとき。


 お兄様が、少しだけ私の方へ身を寄せた。


「……ルシア」


「何?」


「ガルばっかり?」


 私は目を瞬いた。


「……え?」


「僕もいるんだけど」


 その言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「もう、お兄様ったら」


 私はガルの頭を撫でながら、空いている手でお兄様の手を握った。


「これでいい?」


 お兄様は、満足そうに微笑んだ。


「うん」


 その様子を見ていたクレイドが、呆れたように口を開いた。


「お前、狼にまで嫉妬すんのかよ」


「ガルは僕の一部だから、嫉妬とは違うよ」


「じゃあ何だよ」


「ルシアに甘えたかっただけ」


 あまりにも自然な返事だった。


 クレイドが顔をしかめる。


「……堂々と言うなよ」


 クロードさんが大笑いした。


「ゼノン、お前ほんっとルシアちゃん大好きだな!」


「うん。大好きだよ」


「即答!?」


 私は、少しだけ頬が熱くなった。


「……お兄様」


「何?」


「みんなの前だから……」


 お兄様は、楽しそうに微笑んだ。


「本当のことでしょ?」


 私は何も言い返せなかった。


     ◇


「そういえばさ」


 クロードさんが突然口を開いた。


「せっかくみんなで住むんだから、何か楽しいことしようぜ!」


 クレイドが眉を寄せる。


「例えば?」


「夜会!」


「却下」


 セドリックさんが即答した。


「早っ!」


「お前が女の子呼びたいだけだろ」


「……バレた?」


「バレバレだ」


 ラビが笑いながら口を挟む。


「じゃあ、みんなで映画でも見る?」


「映画?」


 私は顔を上げた。


「いいねぇ。ノエルの出演作とかさ」


 ラビが楽しそうに続ける。


 ノエルさんの手が、ぴたりと止まった。


「……嫌」


「えー!?」


 クロードさんが声を上げる。


「見たい見たい! ノエルが女の子と恋愛するやつ!」


「……駄目」


「何で!?」


「……恥ずかしい」


 その言葉に、私は少しだけ驚いた。


「ノエルさんも、恥ずかしいんですね」


 ノエルさんは私を見た。


「……うん」


 クロードさんが、にやりと笑う。


「へえー? 普段はあんなに無表情なのに?」


「……クロード」


「何?」


「……黙って」


「はい!」


 クレイドが吹き出した。


「お前、ノエルには素直なんだな」


「いや、何かあいつが言うと妙に迫力あるんだよ!」


 私は笑いながら、ノエルさんを見た。


「でも、私もちょっと見てみたいです」


 ノエルさんの動きが止まった。


「……ルシアも?」


「はい」


 私は小さく頷いた。


「ノエルさんがお仕事してるところ、あまり見たことがないので」


 ノエルさんは、しばらく私を見つめていた。


 それから、静かに本を閉じた。


「……分かった」


 クロードさんが勢いよく立ち上がる。


「よっしゃあ!!」


「……一本だけ」


「一本でも十分!」


 ラビが楽しそうに笑った。


「決まりだねぇ」


 お兄様も微笑んだ。


「じゃあ、今から見よっか」


「うん」


 私は嬉しくなって頷いた。


     ◇


 ヴァルディエ家の大きな居間には、いつもより多くの椅子とソファが並べられていた。


 使用人たちが用意してくれたのは、大きな映写機。


 壁一面に映像を映し出せる魔道具だった。


 テーブルには焼き菓子や果物、それから血液を使った飲み物が並んでいる。


「すごい……」


 私は思わず呟いた。


「本当に映画館みたい」


 お兄様が隣で微笑んだ。


「気に入った?」


「うん」


「よかった」


 クレイドは、すでにソファの一つへ腰を下ろしていた。


「おい、クロード。早く始めろよ」


「ちょっと待てって!」


 クロードさんは、映写機の前で何やら準備をしている。


「これ、どうやって動かすんだ?」


「お前、使い方知らねえのかよ」


「知らねえ!」


「堂々と言うな!」


 そのとき、ノエルさんが静かに近づいた。


「……貸して」


 クロードさんが振り返る。


「おっ、頼む!」


 ノエルさんは、慣れた手つきで映写機を操作した。


 すぐに壁へ光が広がる。


「おおー!」


 クロードさんが拍手する。


「さすが本人!」


「……普通」


 ノエルさんは短く答えた。


 ラビが笑う。


「じゃあ、みんな座ろうか」


 私は、お兄様の隣へ腰を下ろした。


 足元にはルナ。


 ガルとレオも、少し離れた場所で丸くなっている。


 アルは、珈琲を片手に一番端の椅子へ座っていた。


「アルも見るの?」


 私が尋ねると、アルは肩をすくめた。


「せっかく用意したんだ。俺も気になる」


 私は嬉しくなって微笑んだ。


「うん」


     ◇


 映画が始まった。


 画面に映ったのは、華やかな王都の街並み。


 その中を、一人の青年が歩いている。


 整った顔立ち。


 落ち着いた表情。


 そして、聞き慣れた声。


『君に、会いたかった』


 私は、思わず隣を見た。


「……ノエルさん?」


 ノエルさんは、静かに頷いた。


「……うん」


 画面の中のノエルさんは、今とはまるで違っていた。


 優しく微笑み、女性の手を取っている。


『もう二度と、君を離さない』


 甘い声。


 まっすぐな眼差し。


 その姿に、私は思わず目を丸くした。


「……すごい。ノエルさんが沢山お喋りしてる」


 クレイドも驚いたように呟く。


「別人じゃねえか」


 クロードさんは、すでに笑いを堪えていた。


「ぷっ……!」


 セドリックさんが横目で見る。


「笑うなよ」


「いや、だって……!」


 クロードさんは口元を押さえた。


「普段『……うん』『……嫌』しか言わねえノエルが!」


 画面の中では、ノエルさんが女性を抱き寄せていた。


『愛している。君だけを』


「ぶはっ!!」


 クロードさんが吹き出した。


「駄目だ! 腹痛え!」


 クレイドまで笑い始める。


「お前、普段もそれくらい喋れよ!」


 ノエルさんは、無表情のまま二人を見た。


「……仕事」


「分かってるって!」


 ラビも肩を震わせて笑っていた。


「いやぁ、演技上手いねぇ」


 私は、画面を見つめた。


 確かに、いつものノエルさんとは全然違う。


 けれど。


「……素敵ですね」


 思わず呟いた。


 ノエルさんが、私を見た。


「……本当?」


「はい」


 私は微笑んだ。


「すごく格好いいです」


 ノエルさんは、少しだけ目を伏せた。


「……ありがとう」


 その耳が、ほんの僅かに赤くなっているように見えた。


 すると。


 お兄様が、そっと私の手を握った。


「ルシア」


「何?」


「僕は?」


「……え?」


「僕も格好いい?」


 私は、思わず瞬きをした。


 その向こうで、クレイドが盛大にため息をつく。


「お前、映画見てるときくらい大人しくできねえのかよ」


 お兄様は気にした様子もなく微笑んでいる。


「ねえ、ルシア」


 私は、少しだけ困ってしまった。


「……お兄様も、格好いいよ」


 その瞬間、お兄様の表情が嬉しそうに緩んだ。


「そっか」


「……うん」


「ありがとう」


 クロードさんが再び笑い出す。


「ゼノン! お前、ノエルに対抗すんなよ!」


「別に対抗してないよ」


「してるだろ!」


 居間は、映画の音が聞こえなくなるほど賑やかになっていた。


     ◇


 映画が終わった頃には、すっかり夜も更けていた。


「いやぁ、面白かった!」


 クロードさんが大きく伸びをする。


「ノエル、お前すげえな!」


 ノエルさんは、小さく頷いた。


「……ありがとう」


「でも、あのキスシーンは反則だろ!」


「……仕事」


「分かってるって!」


 クレイドが笑う。


「お前、明日からノエルのこと王子様って呼べば?」


「それいいな!」


 クロードさんが嬉しそうに頷いた。


「おい、王子様!」


「……嫌」


「即答!?」


 私は、思わず笑ってしまった。


 そのとき、アルが立ち上がった。


「お前ら、そろそろ寝ろ」


 クロードさんが振り返る。


「えー! まだ早くないですか?」


「もう深夜だ」


「ヴァンパイアに深夜も何もないでしょう!」


「屋敷には使用人もいるんだ。少しは静かにしろ」


「はーい……」


 クロードさんが不満そうに答える。


 クレイドが笑った。


「怒られてやんの」


「お前もだ!」


 アルが言う。


「えっ、俺も!?」


「お前も十分うるさい」


 今度はクロードさんが大笑いした。


「ざまあ!」


「うるせえ!」


 私は、二人のやり取りを見ながら小さく笑った。


     ◇


 みんながそれぞれの部屋へ戻ったあと。


 私は、お兄様と一緒に廊下を歩いていた。


 足元にはルナ。


 少し離れた場所を、ガルとレオが静かについてくる。


「……楽しかったね」


 私が呟くと、お兄様が微笑んだ。


「そうだね」


「こんなに賑やかになるなんて、思わなかった」


「僕もだよ」


 お兄様は、小さく笑った。


「クロードが来てから、屋敷がずいぶん騒がしくなったね」


「ふふ……そうだね」


 私は、少しだけ考えた。


 昔。


 アルの家で暮らしていた頃。


 クレイドと喧嘩して、アルに怒られて。


 学校から帰ると、ミアが遊びに来ていた。


 そんな日々が、当たり前だった。


 今は、もう同じ日常には戻れない。


 けれど。



 新しい日常が、少しずつ生まれ始めている。


 私は、隣を歩くお兄様を見上げた。


「……ねえ、お兄様」


「何?」


「私、最近ちょっと思うことがあるの」


「どんなこと?」


「ヴァルディエ家って、こんなに賑やかなお家だったのかなって」


 お兄様は、少しだけ目を見開いた。


「……どうして?」


「だって、最初にここへ来たときは、すごく静かだったでしょう?」


「そうだね」


「広いお屋敷なのに、私とお兄様と使用人さんたちだけで。ちょっと寂しいなって思ってたの」


 私は、廊下の先へ視線を向けた。


 今では、どこかの部屋から笑い声が聞こえてくる。


 クロードさんとクレイドが言い争う声。


 それを注意するセドリックさん。


 楽しそうに笑うラビ。


 そして、時々聞こえるノエルさんの短い返事。


「……今は、全然寂しくないね」


 そう言って微笑むと、お兄様はしばらく私を見つめていた。


「……そうだね」


 その声が、少しだけ優しくなる。


「昔は、もっと賑やかだったんだよ」


「……昔?」


「父上と母上がいた頃」


 私は足を止めた。


 お兄様も立ち止まる。


「父上は、よく屋敷の庭で僕と遊んでくれたんだ。母上は、そんな僕たちを見て笑ってた」


「……うん」


「ルシアが生まれてからは、もっと賑やかになった」


 お兄様は懐かしそうに微笑んだ。


「ルシアは、僕が帰ってくるたびに走って迎えに来てくれたからね」


 その言葉に、幼い頃の記憶が蘇った。


 大きな玄関。


 長い廊下。


 帰ってきたお兄様を見つけると、嬉しくて走り出したこと。


『お兄さま!』


『ルシア、走ったら危ないよ』


『だっこ!』


 そう言って両手を伸ばすと、お兄様はいつも笑いながら抱き上げてくれた。


「……覚えてる」


 私は小さく呟いた。


「お兄様、いつも抱っこしてくれたよね」


「うん」


「お父さまも、よく私を抱っこしてくれた」


「そうだね」


 お兄様の表情が、少しだけ切なそうに変わった。


 私は、そっとその手を握った。


「……また、賑やかになってよかったね」


 お兄様が私を見る。


「うん」


 その手が、優しく握り返された。


「ルシアが帰ってきてくれたからだよ」


「……私?」


「そう」


 お兄様は微笑んだ。


「ルシアがいなかったら、みんながこうして集まることもなかったかもしれない」


 私は少しだけ考えた。


 ノエルさんは、私たちを守るために仕事を休んで来てくれた。


 ラビもクロードさんも。


 セドリックさんも、アルも、クレイドも。


 みんな、私たちのことを大切に思ってくれている。


「……そっか」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「じゃあ、これからもっと楽しくなるね」


 お兄様は嬉しそうに笑った。


「そうだね」


     ◇


 そのときだった。


 廊下の向こうから、何かが倒れるような音が響いた。


 ――ガタンッ!!


「……え?」


 私は思わず振り返った。


 続いて、聞き慣れた声が響く。


「おいクロード! 何やってんだよ!」


「違うって! 俺じゃねえって!」


「お前以外に誰がいるんだよ!」


 クレイドとクロードさんだった。


 お兄様が小さく息を吐く。


「……また?」


 私は思わず笑ってしまった。


「何だろう?」


「見に行こうか」


「うん!」


 二人で廊下を進む。


 角を曲がると、そこには奇妙な光景が広がっていた。


 床には、大きな花瓶。


 幸い割れてはいないものの、中の花と水が床へ散らばっている。


 その前には、クロードさんとクレイド。


 そして、少し離れた場所にはノエルさんが立っていた。


「……何してるの?」


 私が尋ねると、クロードさんが勢いよく振り返った。


「ルシアちゃん! 聞いてくれよ!」


「……はい?」


「クレイドが俺を押したんだ!」


「はあ!?」


 クレイドが声を上げた。


「お前が廊下で変なポーズ取ってたからだろ!」


「変なポーズじゃねえ! 格好いいポーズ!」


「同じだろ!」


 私は、思わず目を瞬いた。


「……ポーズ?」


 クロードさんが胸を張った。


「そう! さっきの映画のノエルを真似してたんだよ!」


 その言葉に、お兄様が少しだけ笑った。


「……ノエルの?」


「そうそう!」


 クロードさんは、わざとらしく片手を胸へ当てた。


 そして、低い声で言う。


「君に、会いたかった――」


「やめろ!」


 クレイドが即座に遮った。


「何でだよ!」


「気持ち悪い!」


「ひどっ!」


 私は、堪えきれずに笑ってしまった。


「ふふっ……!」


 お兄様も肩を震わせている。


 そのとき、ノエルさんが静かに口を開いた。


「……似てない」


 クロードさんが固まった。


「……え?」


「……全然」


 クレイドが吹き出した。


「本人から駄目出しされてやんの!」


「ノエル! お前まで!」


 ノエルさんは、何でもないことのように続けた。


「……もっと、真剣」


「いや、真剣にやってたんだけど!?」


 そのとき、廊下の向こうからアルの声が響いた。


「……お前ら」


 全員が振り返る。


 アルが、険しい表情で立っていた。


「今、何時だと思ってる?」


 クロードさんが、ぴたりと動きを止めた。


「……えっと」


「さっき静かにしろと言ったはずだが?」


「……はい」


 クレイドが小さく笑う。


「怒られてやんの」


「クレイド」


「……はい」


 アルは床に散らばった花を見た。


 それから、二人へ視線を戻す。


「片づけろ」


「……はい」


 二人の声が綺麗に重なった。


 私は、思わず笑ってしまった。


     ◇


 翌日の夕方。


 ヴァルディエ家の食堂では、少し変わった光景が広がっていた。


 長い食卓に、全員が集まっている。


 けれど、今日は食事のためではなかった。


 アルが、机の上へ一枚の大きな紙を広げていた。


「さて」


 その声に、全員が顔を上げる。


「今日から正式に、屋敷の警備当番を決める」


 クロードさんが、すぐに手を上げた。


「質問!」


「何だ」


「夜間警備って、毎日やるんですか?」


「交代制だ」


「よかったぁ!」


 クロードさんが胸を撫で下ろす。


「毎日だったら、女の子と遊ぶ時間が――」


「クロード」


 アルが低い声で名前を呼ぶ。


「……何でもないです」


 クレイドが吹き出した。


「お前、懲りねえな」


 セドリックさんが紙を覗き込む。


「で、どう分けるんだ?」


「二人一組を基本にする」


 アルが答えた。


「屋敷の外周、庭園、正門。それぞれ交代で見回ってもらう」


 ラビが楽しそうに手を上げた。


「じゃあ、オレはセドリック叔父さんと組もうかな」


 セドリックさんが顔を上げる。


「何で俺なんだよ」


「だって身内じゃん」


「それはそうだけどよ」


 ラビはにやりと笑った。


「叔父さんの格好いいところ、見せてもらおうかなって」


「お前、絶対からかってるだろ」


「えー? そんなことないって!」


 私は、思わず笑ってしまった。


 ラビとセドリックさんは、叔父と甥の関係。


 セドリックさんの方が叔父さんなのに、普段はラビの方が落ち着いて見えることもある。


 そのやり取りが、何だか面白かった。


「じゃあ、俺はルシアちゃんと!」


 クロードさんが勢いよく手を上げた。


「却下」


 お兄様が即答する。


「早っ!?」


「ルシアは僕と一緒だから」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「……お兄様?」


「何?」


「私も警備するの?」


 お兄様は微笑んだ。


「ルシアは、まだ訓練中だからね。しばらくは僕と一緒に見回ろうか」


「……うん!」


 私は嬉しくなって頷いた。


 クロードさんが大袈裟に肩を落とす。


「ちぇー。ルシアちゃんと夜のお散歩したかったのに」


 クレイドが笑った。


「お前、警備を何だと思ってんだよ」


「楽しい夜のお散歩!」


「違うだろ!」


 アルが深くため息をついた。


「クロード、お前はクレイドと組め」


「ええっ!?」


 今度は二人の声が重なった。


「何でこいつと!?」


「俺も嫌だ!」


 アルは平然と答えた。


「お前らなら、互いに目を離さないだろう」


 クレイドが顔をしかめる。


「監視し合えってことかよ」


「そういうことだ」


 クロードさんが頭を抱えた。


「俺の優雅な夜が……!」


 ノエルさんが、静かに口を開いた。


「……騒がしい」


 クロードさんが振り返る。


「お前も何か言ってくれよ!」


 ノエルさんは少しだけ考えた。


「……頑張って」


「他人事!!」


 食堂に笑い声が響いた。


     ◇


 アルは、紙に視線を落とした。


「残るのはノエルだな」


 ノエルさんが静かに顔を上げる。


「……誰と?」


 クロードさんが、すぐに手を挙げた。


「俺と!」


「却下」


 アルは即答した。


「何で!?」


「お前はクレイドと組む」


「でも、ノエルとなら静かに警備できるだろ!」


 クレイドが呆れたように口を挟む。


「お前がいる時点で静かにならねえよ」


「そんなことないって!」


「ある」


 ノエルさんも小さく頷いた。


「……ある」


「ノエルまで!?」


 食堂に笑い声が広がった。


 アルは、改めてノエルさんへ視線を向けた。


「ノエルは俺と組む」


「……アルと?」


 ノエルさんが尋ねる。


「ああ。お前は屋敷の警備に慣れていない。俺が配置と巡回経路を教える」


「……了解」


 ノエルさんは素直に頷いた。


 アルは続ける。


「それに、お前は気配を消しすぎる。味方にまで見失われたら困るからな」


「……気をつける」


「そうしてくれ」


 クロードさんが、少し不満そうに頬を膨らませた。


「いいなぁ、アルベルトさんとノエル。二人とも強そうだし、絶対に敵が近づけないじゃん」


 クレイドが鼻で笑う。


「お前らの組み合わせも、別の意味で近づきにくいだろ」


「どういう意味だよ!」


「うるさすぎてな」


 ラビが楽しそうに笑った。


「アルとノエルなら、かなり安心だね」


 セドリックさんも頷く。


「実力もあるし、互いに余計なことを言わねえ。警備には向いてるだろ」


「……余計なことを言わないのは、ノエルだけじゃない?」


 私が呟くと、アルがこちらを見る。


「俺も必要なことしか言わないつもりだが」


「でも、クロードさんにはよく注意してるよね」


「それは必要なことだ」


 アルが真顔で答えた。


 クロードさんが胸を押さえる。


「俺への注意が必要不可欠みたいに言わないでくださいよ!」


「実際そうだろ」


 クレイドが即座に返した。


 また食堂に笑い声が響く。


 ノエルさんは、そんな皆の様子を静かに見ていた。


 けれど、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。


「……ノエルさん」


 私が声をかけると、彼は顔を上げた。


「アルと一緒で、よかったですね」


「……うん」


 ノエルさんは、アルへ視線を向けた。


「……頼りになる」


 アルは少しだけ目を見開いた。


 それから、照れ隠しのように咳払いをする。


「当然だ」


 クロードさんが、にやにやしながら二人を見た。


「何だよ、もう仲良しじゃん」


「クロード」


 アルが低い声で呼ぶ。


「……はい」


 クロードさんは、すぐに口を閉じた。


 クレイドが肩を震わせて笑っている。


「お前、アルには本当に弱いな」


「違う! 尊敬してるだけ!」


「はいはい」


 私は、そんなやり取りを見ながら微笑んだ。


 これで警備当番の組み合わせが決まった。


 アルとノエル。


 お兄様と私。


 ラビとセドリックさん。


 そして、クロードさんとクレイド。


 それぞれの組み合わせを思い浮かべると、何だか不思議な気持ちになる。


 特に、クロードさんとクレイドの組み合わせは、警備になるのか騒ぎになるのか分からない。


「……本当に大丈夫かな」


 私が呟くと、お兄様が優しく笑った。


「大丈夫だよ。アルとノエルがいるからね」


「それなら安心だね」


 私は、ノエルさんとアルを見た。


 二人はすでに、屋敷の見取り図を確認している。


 アルが指で巡回経路を示し、ノエルさんが静かに頷いている。


 その姿は、他の組とは違ってとても落ち着いていた。


「……あの二人、すごく頼もしいね」


「うん」


 お兄様も頷いた。


 「セドリックから報告が来たのにセドリックに伝える」という流れになっていたため、報告を受ける相手をラビに変更し、セドリックが現場から報告を送る形に修正しました。


「じゃあ、今夜から警備を始める」


 アルが立ち上がった。


「最初の巡回は、俺とノエルだ」


「……今夜?」


 クロードが驚いた声を上げる。


「決めたなら、すぐに始める」


 アルは淡々と答えた。


 ノエルも立ち上がる。


「……行く」


 私は二人へ声をかけた。


「気をつけてくださいね」


 ノエルが私を見る。


「……うん」


 アルも頷いた。


「任せておけ」


 二人が食堂を出ていく。


 その背中を見送りながら、私はふと思った。


 アルとノエルなら、きっと大丈夫。


 静かで、強くて、頼りになる二人。


 今夜のヴァルディエ家は、いつもより少しだけ安心して眠れそうだった。


     ◇


 最初の巡回が始まってから、三十分ほどが経った頃。


 私は居間のソファで、お兄様と一緒に本を読んでいた。


 けれど、居間に残っているのは私たちだけではない。


 セドリックは机の上に広げた書類へ目を通しながら、時折ペンを走らせていた。ラビもその向かいで、帳簿と報告書を確認している。


「この数字、先月の記録と合わないね」


 ラビが眉を寄せた。


「どこだ?」


 セドリックが書類を引き寄せる。


「北側の倉庫。搬入量が記録より少ない」


「……本当だな」


 セドリックは、すぐに別の書類を取り出した。


「明日の朝、使用人頭に確認を取る。念のため、倉庫の鍵の管理記録も見直しておけ」


「分かった。あと、警備当番の巡回経路も書き直しておくよ」


 ラビはそう言って、別の紙へ手を伸ばした。


 その隣では、ゼノンが静かに書類へ目を通していた。


「北側の監視記録、三日前から一部欠落している」


 ゼノンが淡々と告げる。


 セドリックが顔を上げた。


「欠落?」


「正確には、記録が途切れている」


「原因は分かるか?」


「確認中。明日の朝までには特定する」


 ラビが、少しだけ表情を引き締めた。


「じゃあ、今夜の巡回は北側を重点的にした方がいいね」


「アルとノエルには、すでに伝えてある」


 ゼノンが答える。


 私は、三人の様子を見つめた。


 セドリックも、ラビも、ゼノンも、遊んでいるわけではない。


 屋敷の安全や仕事のことを考えながら、ここにいるのだ。


 そのことに気づくと、さっきまで感じていた賑やかさの印象が少し変わった。


 この屋敷は、ただのんびりしているのではない。


 それぞれが自分の役割を果たしながら、同じ場所に集まっているのだ。


 クレイドは一人掛けのソファに座り、雑誌を読んでいた。


 けれど、彼も時折窓の外へ視線を向けている。


「クレイドも、何か気になることがあるの?」


 私が尋ねると、クレイドは雑誌を閉じた。


「ん? ああ。さっきから庭の方で、妙な音がしてる」


「妙な音?」


「風で枝が擦れてるだけかもしれねえけどな」


 セドリックがすぐに立ち上がった。


「どの辺りだ?」


「東側。二度聞こえた」


 ラビも書類をまとめる。


「僕が見てくるよ」


「いや、俺も行く」


 セドリックが答えた。


「ラビはここでゼノンと記録を続けろ」


「分かった」


 セドリックはクレイドへ視線を向けた。


「お前はどうする?」


「俺も行く。音を聞いたのは俺だからな」


「頼む」


 三人が立ち上がる。


 ラビはすぐに机へ戻り、ゼノンとともに書類を確認し始めた。


「ルシア、心配しなくていいよ」


 ラビがこちらへ笑いかける。


「念のための確認だから」


「うん。気をつけてね」


「任せろ」


 セドリックが頷き、クレイドとともに居間を出ていった。


 残ったラビとゼノンは、再び仕事へ戻る。


「……みんな、ちゃんと働いてるんだね」


 私が呟くと、お兄様が微笑んだ。


「そうだね。屋敷にいるからといって、休んでいるわけじゃないよ」


「私、少し勘違いしてたかも」


「賑やかに見えるのは、それだけ皆がこの場所に馴染んできたからだよ」


 お兄様は、机の上の書類へ視線を向けた。


     ◇


 その頃。


 屋敷の外周を巡回していたアルとノエルは、庭園の奥にある石造りの門へ向かっていた。


 周囲は静かだった。


 聞こえるのは、風に揺れる木々の音と、二人の足音だけ。


「ここが北側の通用門だ」


 アルが説明する。


「普段は使用人が使っている。夜間は施錠しているが、外から侵入される可能性がないわけじゃない」


「……了解」


 ノエルが頷く。


「この先は?」


「古い庭園だ。今はほとんど使われていない」


「……死角?」


「ああ。建物からも見えにくい」


 ノエルは、静かに地面へ視線を落とした。


 そして、片手を下ろす。


 次の瞬間。


 地面が僅かに盛り上がった。


 土が集まり、腰ほどの高さの壁を形成する。


 アルが眉を上げた。


「……ほう」


 ノエルは、出来上がった土壁を見つめた。


「……ここ、塞げる」


「確かにな」


 アルは壁へ近づき、その表面を軽く叩いた。


 硬い。


 ただ土を積み上げたものではない。


 異能によって圧縮され、石のような強度を持っていた。


「随分と頑丈だな」


「……うん」


「どの程度まで大きくできる?」


 ノエルは、少しだけ考えた。


「……かなり」


「試してみるか?」


「……いいの?」


「ああ。ただし、庭園を壊すなよ」


「……了解」


 ノエルが手を上げる。


 地面が静かに震えた。


 土壁がゆっくりと伸び、やがて人の背丈を超える。


 さらに横へ広がり、通用門の前を覆うような巨大な防壁となった。


「……すごいな」


 アルが呟いた。


 ノエルは、静かに首を傾げた。


「……普通」


「いや、十分すごい」


 アルは小さく笑った。


「防御に関しては、かなり頼りになりそうだ」


 ノエルの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……ありがとう」


 アルは、今度は自分の手を前へ向けた。


 次の瞬間。


 空気中の水分が凍りつき、透明な氷の槍が三本形成された。


 鋭い切っ先が、月明かりを反射する。


 ノエルが顔を上げる。


「……綺麗」


「そうか?」


「……うん」


 アルは小さく笑った。


「だが、見た目だけじゃないぞ」


 指先を動かす。


 氷の槍が、勢いよく前方へ放たれた。


 鋭い風切り音。


 槍は、庭園の端に置かれた訓練用の標的へ突き刺さった。


 ノエルは、静かに目を見開いた。


「……速い」


「お前の土壁なら、これも防げるかもしれんな」


「……試す?」


「いや、今日は警備だ」


「……了解」


 アルは、ノエルが作った土壁へ視線を向けた。


「しかし、これなら連携もできそうだな」


 ノエルが頷く。


「……土で、防ぐ」


「ああ。俺が氷で攻撃する」


「……逆も」


「そうだな」


 アルは満足そうに微笑んだ。


「いい組み合わせになりそうだ」


 ノエルも、小さく頷いた。


「……うん」


     ◇


 一方、東側の庭園では、セドリックとクレイドが足を止めていた。


「……聞こえたか?」


 セドリックが低い声で尋ねる。


「ああ。あの茂みの向こうだ」


 クレイドが指を向ける。


 二人は音を立てないように近づいた。


 茂みの奥には、倒れた木箱があった。


 その周囲には、いくつかの黒い跡が残っている。


 クレイドがしゃがみ込んだ。


「これ、最近ついた跡だな」


「荷車の車輪か?」


「たぶん。けど、ここは荷車を通す場所じゃねえ」


 セドリックは、木箱の蓋を開けた。


 中には何も入っていない。


 ただ、底に薄い布切れが残されていた。


「……誰かがここを使った可能性があるな」


「侵入者か?」


「まだ断定はできねえ。ラビに知らせる」


 セドリックは布切れを布袋へ入れた。


 クレイドは周囲を見回した。


「あっちに足跡がある」


 月明かりの下、湿った土に複数の跡が残っていた。


 セドリックは、すぐに表情を引き締めた。


「追う。ただし、深追いはしない」


「了解」


 二人は足跡を確認しながら、庭園の奥へ進んだ。


     ◇


 居間では、ラビとゼノンが記録の整理を続けていた。


 しばらくして、セドリックから連絡が入った。


『東側で不審な痕跡を発見した。木箱の中から布切れが見つかった。足跡も残っているが、途中で途切れている』


 ラビはすぐに返事をした。


「分かった。無理に追わず、布切れを持って戻ってきて。ゼノンに調べてもらう」


『了解した』


 通信が切れると、ラビはゼノンへ視線を向けた。


「東側で不審な痕跡が見つかった。セドリックが布切れを持って戻ってくる」


「確認する」


 ゼノンは記録を確認した。


「北側の監視記録が途切れた時間と、東側で痕跡が残された時間は近い」


「偶然じゃないかもしれないね」


 ゼノンは淡々と記録を見つめていた。


「アルには、すでに伝達済みだ」


「そうだね。じゃあ、セドリックが戻るまでに、監視記録をもう一度確認しよう」


「了解」


 ラビは書類を並べ替えた。


 セドリックは現場で確認を続け、ラビは居間で情報を整理していた。


     ◇


 しばらくして、セドリックとクレイドが戻ってきた。


「おかえりなさい」


 私が声をかけると、セドリックは頷いた。


「ただいま。足跡は途中で消えていた」


「侵入者だったの?」


「まだ分からねえ。ただ、誰かが屋敷の周囲を調べていた可能性はある」


 クレイドが、手にしていた布袋を机へ置いた。


「これが木箱の中に残ってた。ゼノン、調べられるか?」


「確認する」


 ゼノンは布袋を受け取り、すぐに調べ始めた。


 ラビは、セドリックへ書類を差し出した。


「北側の記録と照合した結果、東側の痕跡が残された時間は、監視記録が途切れた直後だった」


「やっぱり繋がってるか」


「可能性は高いね」


 セドリックは、険しい表情で頷いた。


「明日から、東側の巡回を増やす。ラビ、当番表を組み直せるか?」


「もちろん。ゼノン、監視の仕組みは直せそう?」


「原因は外部からの干渉と判明した。完全な復旧には時間が必要だが、仮の監視網は構築できる」


「じゃあ、今夜は仮の監視網を使おう」


 ラビはすぐに作業へ戻った。


 セドリックも、書類を確認しながら指示を出していく。


 その様子を見ていると、さっきまでの居間の空気が一気に引き締まった。


 誰も慌ててはいない。


 けれど、全員が事態を軽く見ていなかった。


     ◇


 やがて、アルとノエルも戻ってきた。


「北側に異常はなかった」


 アルが報告する。


「ただし、通用門付近に新しい防壁を設置した。ノエルの異能でな」


「……役に立つ」


 ノエルが短く付け加える。


 セドリックが頷いた。


「助かる。東側の件は、今ラビとゼノンが整理している」


 アルは机の上の布袋へ視線を向けた。


「それは?」


「庭園に残されていたものだ」


 クレイドが答える。


 ゼノンが調べた結果を告げた。


「この布には、屋敷の外壁に使われている塗料と同じ成分が付着している」


 ラビが眉を寄せた。


「つまり、屋敷の壁に触れた人物が持っていた可能性がある」


「あるいは、布を使って壁を調べたか」


 セドリックが続ける。


 アルは、静かに考え込んだ。


「今夜は警備を強化する。東側と北側を重点的に見る」


「俺も参加する」


 クレイドが言った。


「音や気配なら、俺が一番早く気づける」


 セドリックも頷いた。


「俺とクレイドで東側を続けて見る。ラビはゼノンと監視の仕組みを直すのを頼む」


「分かった」


 ラビはすぐに返事をした。


「ゼノン、作業を続けよう」


「了解」


 二人は再び机へ向かった。


 アルはノエルへ視線を向ける。


「俺たちは北側を確認する。今度は防壁の周囲も見るぞ」


「……うん」


 皆がそれぞれの役割へ戻っていく。


 私は、その背中を見送った。


 さっきまで居間にあった笑い声は消えていた。


 けれど、不安な静けさではない。


 誰もが自分の仕事を理解し、必要な場所へ向かっている。


 その姿は、とても頼もしかった。


     ◇


 お兄様が、私の隣へ腰を下ろした。


「少し驚いた?」


「うん。でも、みんながちゃんと考えてくれてるんだって分かった」


「うん」


 お兄様は、穏やかに微笑んだ。


「賑やかに過ごすことと、気を抜くことは別だからね」


「……そうだね」


 私は、机へ向かうラビとゼノンを見た。


 庭へ向かったセドリックとクレイド。


 そして、北側へ向かうアルとノエル。


「みんな、私たちのために動いてくれているんだね」


「それだけじゃないよ」


 お兄様は静かに答えた。


「この屋敷を守ることが、彼ら自身の仕事でもある。だからこそ、任せられるんだ」


 私は頷いた。


 そのとき、ラビがこちらを振り返った。


「ルシア、もう遅いから、そろそろ部屋へ戻った方がいいよ」


「でも……」


「大丈夫。何かあればすぐに知らせるから」


 ゼノンも記録から目を離さずに言った。


「異常があれば、鐘を鳴らす」


「……分かった」


 私は立ち上がった。


「みんな、無理しないでね」


 ラビが笑う。


「ありがとう。仕事が終わったら、ちゃんと休むよ」


 セドリックの声が、廊下の向こうから響いた。


「ラビ、東側の記録をもう一度確認してくれ!」


「今行く!」


 ラビはすぐに書類を手に取った。


 その様子を見て、私は微笑んだ。


 やっぱり、この屋敷は賑やかだ。


 でも、それはただ遊んでいるからではない。


 仕事をして、警備をして、互いに支え合っているからこそ生まれる賑やかさなのだ。


 私はお兄様と一緒に居間を出た。


 背後では、ラビとゼノンの話し声が続いている。


 遠くからは、セドリックとクレイドの足音が聞こえる。


 そして、屋敷の外では、アルとノエルが夜の警備を続けている。


 その気配を感じながら、私はいつもより安心して、自分の部屋へ向かった。

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