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受け入れる覚悟

翌朝。


「……アル」


朝食を食べ終えたクレイドが、珍しく自分からアルベルトへ声をかけた。


「何だ」


「昨日、ゼノンが言ってたやつ」


「どれだ」


「血」


新聞を捲っていたアルベルトの手が止まる。


向かいでは、ルシアがパンへジャムを塗っていた。


「ゼノ兄さんの血?」


「お前は聞くな」


「なんで!?」


「いいから食ってろ」


「私も会話に入りたい!」


「入らなくていい」


「何それ!」


アルベルトは二人のやり取りを眺めてから、静かに尋ねた。


「ゼノンの血がどうした」


「……あるんだろ」


「ある」


「寄越せ」


ルシアの手が止まった。


アルベルトも止まった。


「……何だよ」


「いや」


アルベルトが新聞を畳む。


「お前の口からその言葉を聞く日が来るとは思わなかった」


「うるせぇ」


「今までは飲めと言っても嫌がっていただろう」


「今は飲む」


「クレイド?」


ルシアが心配そうに顔を覗き込む。


「また苦しいの?」


「違ぇよ」


「でも、ゼノ兄さんの血が必要なんでしょ?」


「必要になる前に飲むんだよ」


「……?」


ルシアが首を傾げる。


クレイドは目を逸らした。


本当の理由なんて言えるわけがない。


もう二度と。


ルシアの血を欲しがって、あんな顔をさせたくない。


自分のために腕を傷つけるところなんて見たくない。


また差し出されたら。


今度こそ、止まれる自信がない。


だったら。


その前に満たしておけばいい。


どれだけ嫌でも。


身体が純血を求めるなら、ゼノンの血を飲めばいい。


あいつの血なら、いくら飲んだところでルシアは傷つかない。


「予防みたいなもんだ、薬だ薬」


クレイドはぶっきらぼうに言った。


「身体が不安定になる前に飲んどく」


「……そうなの?」


「ああ」


「ちゃんと飲んでくれるの?」


「飲むって言ってんだろ」


ぱっと。


ルシアの顔が明るくなった。


「よかった!」


「……」


「本当に心配してたんだからね!」


「……知ってる」


「また苦しくなったら、ちゃんと言ってよ?」


「ああ」


「我慢しちゃ駄目だよ?」


「ああ」


「約束ね」


「分かったって」


嬉しそうに笑うルシアを見て。


クレイドは思った。


これでいい。


その顔をさせないために飲むんだから。


アルベルトが静かに立ち上がった。


「少し待っていろ」


「ああ」


奥の部屋へ消え、しばらくして戻ってくる。


手には、保存用の血液袋が二つあった。


テーブルへ置かれる。


クレイドは一つを取った。


「……」


嫌いだ。


袋越しでも分かる。


濃い血の匂い。


身体が勝手に反応する。


それが何より気に入らない。


以前なら、ここで顔を顰めていた。


一口飲むだけでも嫌だった。


けれど。


今日は迷わず封を開けた。


「クレイド?」


ルシアが見ている。


クレイドはそのまま飲んだ。


喉を通った瞬間。


身体の奥が熱くなる。


乾いていたわけではない。


それでも。


純血の力を含んだ血が身体へ入った瞬間、全身がそれを歓迎するのが分かった。


「……っ」


やっぱりムカつく。


ゼノンの血を。


自分の身体が喜んでいる。


それが死ぬほど気に入らない。


けれど。


止めなかった。


一気に飲み干す。


「……え」


ルシアが目を丸くした。


アルベルトも僅かに眉を上げる。


空になった袋を置く。


「もう一個」


「待て」


アルベルトが言った。


「何だよ」


「お前、今まで一袋飲ませるのにどれだけ苦労したと思っている」


「知らねぇ」


「一口で捨てたこともあったな」


「昔の話だろ」


「三日前だ」


「昔だ」


「三日は昔とは言わん」


「いいから寄越せ」


「クレイド」


ルシアまで驚いている。


「急にどうしたの?」


「飲めって言ってただろ」


「言ってたけど……」


「だから飲んでんだよ」


「偉い!」


「子供扱いすんな!」


「だって偉いじゃん!」


「うるせぇ!」


ルシアが嬉しそうに笑う。


その顔を見たら。


二袋目へ伸ばしていた手を止める理由がなくなった。


クレイドは二袋目を取った。


「……お前」


アルベルトが呆れた声を出す。


「何だよ」


「本当に飲むのか」


「飲む」


「一度に必要以上摂取する必要はないぞ」


「分かってる」


「分かっている顔ではない」


「うるせぇ」


二袋目も飲む。


「……」


アルベルトが無言で見ている。


ルシアも見ている。


飲み終える。


「もうない?」


「今日は終わりだ」


「まだあるだろ」


「あるが、必要量を超えている」


「じゃあ明日」


「……」


「明日も寄越せ」


アルベルトが眉間を押さえた。


「極端だな、お前は」


「飲まなかったら文句言って、飲んでも文句言うのかよ」


「程度というものがある」


「身体に悪くねぇんだろ」


「悪くはないが」


「ならいい」


「よくない」


ルシアがくすくす笑っている。


「クレイド、ゼノ兄さんの血好きになったの?」


「なるわけねぇだろ!」


「だってすごい勢いで飲んでたよ?」


「薬だと思ってんだよ!」


「前は生ゴミって言ってたのに」


「……」


覚えてやがった。


「味覚変わった?」


「変わってねぇ」


「じゃあ美味しい?」


「まずい」


「そんな勢いで飲んでたのに?」


「まずいもんはまずい!」


「変なの」


ルシアが笑う。


アルベルトだけが。


その理由に気づいていた。


「……そうか」


小さく呟く。


クレイドが睨む。


「何だよ」


「いや」


アルベルトはコーヒーを口へ運んだ。


「好きにしろ」


「最初からそう言え」


「ただし、私の管理下で飲め」


「分かった」


「量も私が決める」


「多めにしろ」


「お前が決めるな」


「ケチ」


「私の血ではない」


「じゃあゼノンに直接言う」


「やめておけ。喜ぶぞ」


「……」


それは嫌だ。


ものすごく嫌だ。


けれど。


ルシアを見る。


嬉しそうに朝食を食べている。


「……まあいい」


ゼノンが喜ぼうが。


調子に乗ろうが。


知ったことじゃない。


ルシアに血を差し出させるより、ずっといい。


「クレイド」


アルベルトが低い声で呼んだ。


「何だよ」


「一つ、言っておく」


「説教なら聞かねぇぞ」


「説教ではない」


アルベルトは、空になった血液袋へ視線を落とした。


「純血のヴァンパイアから血を分けてもらうというのは、普通ならありえないことだ」


クレイドは眉を寄せた。


「……そうなの?」


ルシアが聞く。


「そうだ。純血の血は、ただの食料ではない。力そのものだ。自分の血を他者へ与えることは、相手へ自分の力を分けることに近い」


「でも、ゼノ兄さんはくれるんでしょ?」


「ゼノンが好意でしているからな」


アルベルトはクレイドを見る。


「そこを勘違いするな。お前が当然のように要求していいものではない」


「……」


「ゼノンたち純血のヴァンパイアから血を貰うなんて、普通はありえない。まして、お前はゼノンが変えたヴァンパイアでもない。純血の血をこれほど継続的に与えられる立場ではない」


クレイドは黙っている。


「ゼノンが好意でしてくれていることだと、ちゃんと感謝しろ」


「……分かってる」


「本当に分かっているのか?」


「分かってるって言ってんだろ」


「なら、ゼノンへ直接礼を言え」


「……」


「何だ、その顔は」


「言ったら調子に乗る」


「それでも言え」


「嫌だ」


「クレイド」


アルベルトの声が低くなる。


「お前がどれだけゼノンを嫌っていようと、血を分けてもらっている事実は変わらない。嫌いな相手でもお礼くらい言っとけよ」


「……」


「それに」


アルベルトは一度言葉を切った。


「これほどの量を分けているなら、ゼノン自身もかなり渇きがひどい状況だと考えた方がいい」


クレイドの表情が変わった。


「……何? ゼノンは平気そうにしてる」


「平気そうに見せているだけかもしれない」


アルベルトは静かに続けた。


「お前へ渡している分だけではない。ゼノン自身も生きるために血を必要とする。そこからさらに、お前へこれだけ分けている」


「……」


「お前が一日に二袋、三袋と飲むなら、その分だけゼノンの身体から失われているものも増える」


ルシアが不安そうに顔を上げた。


「ゼノ兄さん、大丈夫なの?」


「今すぐどうこうなるとは言っていない」


アルベルトはルシアを安心させるように言った。


「だが、無限に与えられるものではない。ゼノンが笑っているからといって、負担がないと思うな」


クレイドは、空になった血液袋を見つめた。


ゼノンの顔が浮かぶ。


いつも通りの笑顔。


いつも通りの軽口。


『いくらでもあげるよ』


『毎日飲むぞ』


『いいよ』


『大量に』


『構わないよ』


あのとき。


ゼノンは何も言わなかった。


自分がどれだけ渇いているのか。


どれだけ無理をしているのか。


「……あいつ」


クレイドが呟く。


「何だ」


「何で言わねぇんだよ」


「何をだ」


「自分が渇いてるなら、そう言えばいいだろ」


「お前が聞かなかったからではないか」


「……」


「ゼノンは、お前がルシアの血を求めないためなら、自分が多少苦しくても構わないと思っているのだろう」


アルベルトの言葉が、胸へ刺さった。


「それは……」


「お前も同じだろう」


「……」


「ルシアを心配させたくないから、ゼノンの血を飲んでいる」


クレイドは答えなかった。


ルシアがこちらを見ている。


その目に心配を浮かべながら。


「クレイド」


「何だよ」


「ゼノ兄さんに、ちゃんとありがとうって言おうね」


「……」


「私も一緒に言うから」


「お前は関係ねぇだろ」


「でも、クレイドが元気になるためにくれてるんでしょ?」


「……」


「だったら、私もお礼を言いたい」


クレイドは目を逸らした。


「……分かった」


「本当?」


「ああ」


「約束?」


「約束だ」


ルシアが嬉しそうに笑う。


アルベルトはそれを見て、静かに息を吐いた。


クレイドがゼノンの血を飲み始めた理由も。


ゼノンが血を分ける理由も。


結局は同じだった。


ルシアを傷つけないため。


ルシアを心配させないため。


アルベルトは、空になった血液袋を片付けながら、自分の娘同然に思っている愛しいルシアを眺めていた。


*


その日の夜。


「聞いたよ」


顔を合わせた瞬間。


ゼノンが笑った。


クレイドは帰ろうとした。


「待って」


「帰る」


「まだ何も話してないよ」


「顔がムカつく」


「酷いなあ」


「アルだろ」


「うん」


「余計なこと言いやがって」


「嬉しかったから」


「気持ち悪ぃ」


ゼノンは楽しそうだった。


本当に腹が立つ。


「二袋飲んだんだって?」


「悪いか」


「全然」


「……」


「むしろ嬉しいよ」


「やっぱ気持ち悪ぃ」


「僕の血だよ?」


「だから何だ」


「前はあんなに嫌がってたのに」


「今も嫌だ」


「でも飲むんだ」


「飲む」


「ルシアのために?」


「……」


「ルシアのためなんだ」


「うるせぇ」


「否定しないんだね」


「殴るぞ」


「どうぞ」


「ムカつく!」


ゼノンが笑う。


「でも、安心した」


「何が」


「君がちゃんと自分で考えたから」


「……」


「ルシアの血を我慢するために僕の血を飲むなら、いくらでもあげるよ」


「言ったな」


「うん」


「後悔すんなよ」


「しないよ」


「毎日飲むぞ」


「いいよ」


「大量に」


「構わないよ」


「お前が引くくらい飲んでやる」


「何の勝負なの?」


「知らねぇ」


ゼノンは笑いながら、クレイドを見た。


「ただ、一つだけ覚えておいて」


「何だよ」


「僕の血は濃い」


「知ってる」


「君は元々、人間から無理やり変えられたヴァンパイアだ。まともに血を飲んでなかったから、身体がまだ完全にヴァンパイアとして安定していない」


「……」


「今まで君が僕の血を嫌がって、必要最低限しか摂ってこなかったから、変化するのも緩やかだった」


クレイドが眉を寄せる。


「何が言いてぇんだよ」


「これからちゃんと飲み続けたら、今までよりヴァンパイアとしての身体が安定すると思う」


「……」


「力も上がる」


「どれくらい」


「それは分からない」


「適当だな」


「個人差があるからね」


ゼノンは自分の手首を見る。


「僕の力そのものを君が使えるようになるわけじゃない。君が純血になるわけでもない」


「当たり前だろ」


「でも、今まで眠っていた君自身のヴァンパイアとしての能力は、かなり引き出されるかもしれない」


「……そうか」


興味がないわけではない。


強くなれるなら、それに越したことはない。


自分の身を守れる。


アルベルトの役にも立てる。


それに。


ルシアに何かあったとき。


守れる。


「飲む」


「即答だね」


「寄越せ」


「今日もう二袋飲んだんでしょ?」


「まだいける」


「駄目」


「さっきいくらでもって言っただろ」


「適量の範囲でね、必要な分はあげるよ」


「ケチ」


「僕の血なんだけど」


「作れんだろ」


「作れるけどさ」


ゼノンが呆れたように笑う。


「本当に極端だね、君」


「うるせぇ」


「じゃあ明日、アルベルトに多めに渡しておくよ」


「五袋」


「多いよ」


「三袋」


「交渉しないで」


「使えねぇな」


「君、誰の血を貰ってると思ってるの?」


「六十歳のジジイ」


「……ルシアに何か聞いた?」


「何で分かった」


「最近それ言うの、あの子だけだから」


「六十歳」


「君の分、減らそうかな」


「すみませんでした」


「素直でよろしい」


「ムカつく」


ゼノンが笑う。


けれど。


その笑顔の奥に、僅かな疲労があることを。


クレイドは見逃さなかった。


いつもより顔色が白い。


呼吸も、ほんの少し浅い。


立っている姿勢に変化はない。


声も普段通りだ。


それでも。


クレイドの感覚は、以前より鋭くなっていた。


「……お前」


「何?」


「本当に平気なのか」


ゼノンが目を瞬かせる。


「何が?」


「血」


「平気だよ」


「嘘つけ」


「嘘じゃないよ」


「アルが言ってた。俺に分けてる分だけ、お前も渇きがひどくなるって」


「アルベルトは心配性だなあ」


「誤魔化すな」


「誤魔化してないよ」


「なら、もっと飲め」


「僕が?」


「お前が」


ゼノンが少し黙った。


「……君が心配してくれるなんて、珍しいね」


「勘違いすんな。お前が倒れたら、俺が血を飲めなくなるだけだ」


「そういうことにしておくよ」


「本当に飲め」


「分かった」


「俺に渡す分を減らしてでも」


「それは駄目」


「何でだよ」


「君が必要としているから」


「お前だって必要だろ」


「僕は大丈夫」


「大丈夫じゃねぇから言ってんだろ!」


声が響いた。


ゼノンが黙る。


クレイド自身も、言い過ぎたと思った。


けれど。


「……悪い」


「ううん」


ゼノンは静かに笑った。


「ありがとう」


「礼を言われることじゃねぇ」


「それでも」


ゼノンは自分の手首へ視線を落とした。


「君が僕のことを心配してくれるとは思わなかったから」


「……」


「でも、心配しなくていいよ。僕は君に血を分けることを嫌だと思っていない」


「俺は嫌だ」


「知ってる」


「お前の血なんか飲みたくねぇ」


「それでも飲むんだね」


「必要だからな」


「うん」


ゼノンは笑った。


「じゃあ、僕も必要な分はちゃんと飲むよ」


「約束しろ」


「約束する」


「破ったら」


「どうするの?」


「ルシアに言う」


「それは困るなあ」


「なら守れ」


「分かった」


ゼノンは、クレイドの肩を軽く叩いた。


「君も、僕にちゃんと感謝してね」


「……」


「アルベルトに言われたんでしょ?」


「聞いたのかよ」


「聞こえたよ」


「……ありがとう」


小さな声だった。


ゼノンが目を丸くする。


「もう一回」


「調子に乗るな」


「聞こえなかった」


「嘘つけ」


「もう一回聞きたいなあ」


「殴るぞ」


「ありがとうは?」


「……」


クレイドは顔を背けた。


「……助かってる」


「うん」


「だから、ちゃんと飲め」


「分かった」


「俺に渡す分を削ってでも」


「それはしないよ」


「何でだよ!」


「君がルシアを心配させたくないように、僕もルシアを心配させたくないから」


クレイドは黙った。


ゼノンは、いつものように笑っている。


「だから、君も僕も、ちゃんと自分の分を確保する。これでいいでしょ?」


「……分かった」


「よろしい」


「でも、明日は三袋」


「二袋」


「三袋」


「二袋半」


「袋を半分にすんな」


「じゃあ二袋」


「……三袋」


「交渉しないで」


「ケチ」


「僕の血なんだけど」


「知ってる」


それでも。


翌日から。


クレイドは本当に飲み始めた。


*


一週間。


二週間。


一ヶ月。


変化は。


本人が思っていたより早く現れた。


最初に気づいたのは、アルベルトだった。


「クレイド」


朝。


新聞から顔を上げたアルベルトが、クレイドを見る。


「何だよ」


「少しこちらへ来い」


「嫌だ」


「いいから来い」


「朝から何だよ」


面倒そうに立ち上がる。


アルベルトがクレイドの顔をじっと見る。


「近ぇよ」


「目を見ている」


「何で」


「赤みが濃くなったな」


「……は?」


ルシアがすぐに食いついた。


「見せて!」


「お前は来んな!」


「いいじゃん!」


「近い!」


「じっとして!」


顔を覗き込まれる。


近い。


本当に近い。


クレイドは反射的に顔を逸らした。


「逃げないでよ!」


「逃げてねぇ!」


「目見せて!」


「嫌だ!」


「なんで!?」


「近ぇんだよ!」


「目見るんだから近くないと見えないでしょ!」


「お前は人間だからな!」


「何それ!」


アルベルトが呆れたように二人を見る。


「以前より発色が強くなっている」


「本当?」


「ああ」


「へえ……」


ルシアがまた覗き込む。


今度はクレイドも諦めた。


「……綺麗」


「は?」


「クレイドの目」


「……」


「前より赤くて綺麗だよ」


「……男に綺麗って言うな」


「綺麗なものは綺麗じゃん」


「格好いいでいいだろ」


「格好いいって言ってほしいの?」


「そういう意味じゃねぇ!」


ルシアが笑う。


クレイドは顔を背けた。


耳まで少し赤い。


アルベルトは見なかったことにした。


変化は瞳だけではなかった。


肌。


髪。


身体。


元々、クレイドは人間だった。


ヴァンパイアへ変えられてからも、その身体はどこか中途半端だった。


人間でもない。


完全に安定したヴァンパイアでもない。


けれど。


ゼノンの血を継続して摂取するようになってから。


少しずつ。


身体がヴァンパイアとして完成へ近づいていた。


肌は以前より白く滑らかになった。


傷の治りも早くなった。


聴覚はさらに鋭くなり。


暗闇でも、以前よりはっきりと物が見える。


匂いも。


反射神経も。


身体能力も。


そして何より。


剣を握ったとき。


「――速っ!」


訓練場で。


ルシアの声が響いた。


クレイドの剣がアルベルトの剣へぶつかる。


金属音。


次の瞬間には。


もう一撃。


さらに一撃。


アルベルトが受ける。


クレイドが踏み込む。


以前より明らかに速い。


「っ!」


地面を蹴った瞬間。


自分でも驚くほど身体が前へ出た。


「うわっ!」


見ていたルシアが声を上げる。


アルベルトは身体を硬化させ、その一撃を腕で受け止めた。


ガンッ、と鈍い音が響く。


「……」


クレイドが止まる。


「今の」


「ああ」


アルベルトが自分の腕を見る。


「以前のお前なら、ここまでの衝撃は出なかった」


「……」


クレイドが自分の手を見る。


身体が軽い。


今までとは違う。


「ゼノンの血?」


ルシアが聞いた。


「その影響は大きいだろうな」


アルベルトが答える。


「クレイドの身体が、ようやくヴァンパイアとして安定し始めている」


「すごい!」


ルシアが駆け寄ってくる。


「クレイド、強くなってる!」


「……みたいだな」


「よかったね!」


その笑顔を見て。


クレイドは小さく笑った。


「まあな」


強くなること自体は。


悪くない。


むしろ。


都合がいい。


これなら。


ルシアに守られる側でいなくて済む。


*


問題があるとすれば。


別のところだった。


「クレイド君、おはよう」


「……おう」


「今日、一緒にお昼食べない?」


「食べない」


「放課後空いてる?」


「空いてない」


「明日は?」


「空いてない」


「いつ空いてるの?」


「ずっと空いてない」


「酷い!」


昼間部の廊下。


少し離れたところから。


私はその光景を見ていた。


「……まただ」


隣でミアが呟く。


「まただね」


「今週何人目?」


「知らない」


「私数えてるよ」


「何で?」


「面白いから」


ミアが指を折る。


「今日で七人目」


「そんなに?」


「今週だけでね」


「……すご」


クレイドの周りに女子生徒が増えた。


最近。


急に。


「ねえ、ルシア」


「何?」


「クレイド、なんか変わったよね」


「やっぱり?」


「うん」


ミアがじっとクレイドを見る。


「前から顔は良かったけど」


「そうなの?」


「そこから!?」


「だって毎日見てるから分かんない」


「幼馴染みたいなものって怖いね……」


「家族だもん」


「家族でも顔くらい分かるでしょ!」


「格好いいとは思ってるよ?」


「でしょ?」


「うん」


言うと。


遠くにいたクレイドの肩がぴくっと動いた。


「……」


「……」


ミアが私を見る。


私もミアを見る。


「聞こえてる?」


「たぶん」


「クレイドー」


ミアが小さな声で呼ぶ。


「今日も格好いいよー」


クレイドは振り返らない。


でも。


耳が赤くなった。


「聞こえてる!」


「やめなよ!」


「ルシアも言ってみて!」


「何で!?」


「ほら!」


「クレイドー」


小さな声で呼ぶ。


クレイドの背中が僅かに強張った。


「最近、格好いいよー」


「……」


ガタン。


クレイドが近くの机へ膝をぶつけた。


「痛っ!」


「反応した!」


「ミア!」


「絶対聞こえてるじゃん!」


クレイドが勢いよくこちらを振り返る。


「お前ら!」


「聞こえてた!」


「聞こえるって知っててやるな!」


「ごめん!」


「ミアがやれって!」


「ルシア!?」


「お前もやっただろ!」


「だって!」


思わず笑う。


クレイドがこちらへ歩いてくる。


その途中。


何人かの女子生徒が彼を目で追った。


「……」


改めて見る。


赤い髪。


以前より鮮やかに見える赤い瞳。


少し白くなった肌。


背も。


前より高くなった気がする。


顔立ちも。


何というか。


前よりずっと目を引く。


「……本当だ」


「何がだよ」


目の前まで来たクレイドが眉を寄せる。


「格好よくなった」


「……は?」


「最近、女の子がクレイドのこと見てる理由分かったかも」


「知らねぇよ」


「さっきも誘われてたよね」


「断った」


「何で?」


「行きたくねぇから」


「可愛かったじゃん」


「見てねぇ」


「もったいない!」


「何が」


「彼女できるかもしれないのに」


クレイドの表情が止まった。


「……いらねぇ」


「なんで?」


「興味ねぇから」


「でも、好きな子できたら楽しいかもよ?」


「……」


「クレイド?」


クレイドが私を見る。


赤い瞳。


前より少しだけ。


その色が深い。


「いるよ」


「え?」


「欲しい奴なら」


一瞬。


意味が分からなかった。


「いるの!?」


ミアが叫んだ。


「うるせぇ!」


「誰!?」


「言うわけねぇだろ!」


「同じクラス!?」


「知らねぇ!」


「年上!?」


「言わねぇ!」


「夜間部!?」


「何でそうなるんだよ!」


「ねえルシア! クレイド好きな子いるって!」


「聞いてたよ!」


驚いた。


クレイドに。


好きな人。


「誰?」


「お前まで聞くな!」


「気になる!」


「何でだよ!」


「だってクレイドの好きな人だよ?」


「……」


「私、会ってみたい!」


クレイドが黙った。


「どんな子?」


「……」


「可愛い?」


「……まあ」


「優しい?」


「……うるさい」


「同じ学校?」


「質問多すぎんだよ!」


「教えてよ!」


「嫌だ!」


「ケチ!」


クレイドが顔を背ける。


でも。


その耳は。


真っ赤だった。


ミアが私の袖を引っ張る。


「ルシア」


「何?」


「もしかして」


「うん?」


ミアがクレイドを見る。


それから。


私を見る。


またクレイドを見る。


「……いや」


「何?」


「何でもない」


「それ禁止!」


「え!?」


「最近みんな何でもないって言いすぎ!」


「じゃあ言わない!」


「何を!?」


「まだ!」


「気になる!」


騒ぐ私たちの横で。


クレイドは深いため息をついた。


「……何でこいつだけ分かんねぇんだよ」


「何か言った?」


「何も言ってねぇ」


「また!」


教室に笑い声が響く。


*


昼休み。


ミアは、まだクレイドの方を見ていた。


正確には。


クレイドの周りに集まる女子生徒たちと、その中心にいるクレイドを、じっと観察している。


「……ねえ」


「何?」


「やっぱり変」


「何が?」


「クレイド」


「モテてること?」


「それもだけど」


ミアは目を細めた。


「耳」


「耳?」


「うん」


「何かついてる?」


「そうじゃなくて」


ミアは、クレイドから少し離れた席を指差した。


そこでは、女子生徒たちがクレイドへ話しかけている。


声は、普通に聞けば届かない距離だった。


けれど。


クレイドは、彼女たちが何を話しているのか分かっているように返事をしている。


「……聞こえてる」


「え?」


「クレイド、あの距離で会話を聞いてる」


「でも、声は聞こえるよ?」


「ルシアにはね」


ミアが私を見る。


「私には、何を話してるかまでは聞こえない」


「……」


「クレイドには聞こえてる」


「たまたまじゃない?」


「じゃあ、試してみよう」


「何を?」


ミアは机の下へ手を伸ばし、消しゴムを一つ拾った。


それを、クレイドからかなり離れた場所へ置く。


「クレイド!」


「何だよ」


「今から小声で話すから、聞こえたら反応してね!」


「聞こえるわけねぇだろ」


クレイドがこちらを見た。


「じゃあ、言うよ」


ミアは私の耳元へ顔を寄せる。


「クレイドって、実は――」


「聞こえてる」


クレイドが即座に言った。


ミアの口が止まる。


「……」


「……」


「今の聞こえた?」


「聞こえた」


「どこから?」


「最初から」


「嘘」


「嘘じゃねぇ」


「じゃあ、何て言った?」


「クレイドって、実は――だろ」


ミアがゆっくり顔を上げた。


「……」


「……」


「ルシア」


「何?」


「クレイドってさ」


「うん」


「ヴァンパイアでしょ」


空気が止まった。


クレイドの表情も。


私の表情も。


「……は?」


クレイドが低く呟く。


ミアは、クレイドをじっと見つめていた。


「昔から耳良すぎると思ってたんだよね」


「……」


「小さい頃から、私たちが遠くで話しててもすぐ気づいてたし。教室の後ろで誰かが悪口言ってたときも、クレイドだけ反応してた」


「……」


「暗い場所でも普通に見えてるみたいだったし、怪我の治りも変に早かった」


「ミア」


私が慌てて呼ぶ。


「それ以上は――」


「それに、最近は目の色まで変わってきた」


ミアの視線が、クレイドの赤い瞳へ向く。


「前より赤い。肌も白くなったし、身体能力も急に上がった」


「……」


「ゼノン先輩の血を飲んでるんでしょ?」


クレイドの瞳が鋭くなる。


「何でそれを」


「聞こえたから」


「……」


「夜間部校舎で、アルベルトさんと話してたとき。クレイドがゼノン先輩の血を飲むって言ってたのも、ゼノン先輩が純血のヴァンパイアだって話も」


ミアは、少しだけ困ったように笑った。


「私、ヴァンパイアの話なら誰より聞き逃さないから」


「……」


「だから、ずっと考えてた」


ミアはクレイドから目を逸らさない。


「クレイドって、ヴァンパイアなんじゃないかなって」


教室のざわめきが遠くなる。


クレイドは、何も言わなかった。


否定すればいい。


いつものように。


「違ぇよ」と言えばいい。


けれど。


ミアの目には、恐怖がなかった。


ただ。


確かめたいという気持ちだけがあった。


「……だったら、どうする」


クレイドが低く尋ねた。


ミアは少し考えた。


「どうもしないよ」


「……は?」


「ヴァンパイアなら、ヴァンパイアなんでしょ?」


「怖くねぇのか」


「怖いよ」


ミアは正直に答えた。


「さっきみたいに血の匂いで襲われそうになったら怖い。でも、クレイドは私を襲ってない」


「……」


「それに、ルシアのことをずっと守ってる」


「守ってねぇ」


「守ってるよ」


「……」


「ルシアが危ないとき、いつも一番に動くじゃん」


ミアは少しだけ笑った。


「だから、クレイドがヴァンパイアでも、クレイドはクレイドでしょ」


「……」


「違う?」


クレイドは答えなかった。


隣で、ルシアが不安そうにこちらを見ている。


「ミア」


「何?」


「クレイドがヴァンパイアだって、誰にも言わないで」


「言わないよ」


即答だった。


「どうして?」


「だって、クレイドが嫌そうだから」


「……」


「それに、ルシアが心配するでしょ?」


「私?」


「うん」


ミアは私を見る。


「ルシア、クレイドのこと大事にしてるから」


「家族だもん」


「そういうところだよ」


「何が?」


「何でもない」


「それ禁止!」


ミアが小さく笑った。


「でも、秘密にする代わりに一つ聞いていい?」


クレイドが警戒する。


「何だよ」


「本当にヴァンパイア?」


「……」


「そこは答えてよ!」


「……そうだ」


クレイドが、低く答えた。


「俺はヴァンパイアだ」


ルシアが息を呑む。


ミアは。


思っていたよりずっと静かに頷いた。


「やっぱり」


「……」


「じゃあ、昔から耳が良すぎたのも、暗いところで見えてたのも、全部ヴァンパイアだからなんだ」


「たぶんな」


「たぶんって何!?」


「俺だって全部分かってるわけじゃねぇ」


「じゃあ、血も飲むの?」


「飲む」


「ゼノン先輩の?」


「……ああ」


「ルシアの血は?」


クレイドの表情が一瞬で険しくなった。


「飲まねぇ」


「でも、前に――」


「ミア」


ルシアが止める。


「それは言わないで」


ミアは私を見た。


それから、クレイドを見る。


「分かった」


「……」


「でも、クレイド」


「何だよ」


「ルシアの血を飲みたくなっても、ちゃんと我慢してね」


「当たり前だ」


「本当に?」


「当たり前だって言ってんだろ」


「ならいい」


ミアは、いつものように笑った。


「じゃあ、これからヴァンパイアのこと、もっと聞いてもいい?」


「嫌だ」


「何で!?」


「お前に教えると、余計なことまで広めそうだからだ」


「広めないよ!」


「信用できねぇ」


「ひどい!」


「でも」


クレイドは少しだけ目を逸らした。


「……ルシアに関係することは、言うな」


「分かってる」


ミアは真剣に頷いた。


「ルシアのことは、絶対に守る」


「……」


「クレイドがヴァンパイアだってことも、誰にも言わない」


「約束できるか」


「できる」


「破ったら?」


「私の好きなヴァンパイアの話を、二度と聞かせてもらえなくなる」


「それは罰になってねぇだろ」


「じゃあ、ルシアに嫌われる」


「……」


クレイドの表情が変わった。


「それは駄目だ」


「じゃあ、絶対に言わない」


「……分かった」


ミアは満足そうに笑った。


「じゃあ、クレイドはヴァンパイア」


「声がでけぇ!」


「ごめん!」


「聞こえるんだよ!」


「そうだった!」


ミアが慌てて口を押さえる。


その様子を見て。


ルシアは、ようやく息を吐いた。


「ミア」


「何?」


「怖くないの?」


「怖いよ」


「……」


「でも、クレイドはクレイドだもん」


ミアは、もう一度同じ言葉を口にした。


「それに、私がヴァンパイアを好きなのは、クレイドがヴァンパイアだからじゃないよ」


「じゃあ何で好きなんだよ」


「格好いいから!」


「……」


「あと、ルシアを守ってるから!」


「それは関係ねぇだろ」


「あるよ!」


ミアは胸を張った。


「私、ヴァンパイアが好きだけど、誰でもいいわけじゃないから」


「……」


「クレイドは、私が知ってる中で一番人間らしいヴァンパイアだよ」


クレイドは、何も言わなかった。


その言葉が。


少しだけ胸へ残った。


人間らしい。


それは。


ヴァンパイアになってから、ずっと自分が失ったと思っていたものだった。


*


放課後。


ミアが帰ったあと。


教室には、私とクレイドだけが残っていた。


「……クレイド」


「何だよ」


「ミアに知られちゃったね」


「ああ」


「怒ってる?」


「別に」


「本当に?」


「本当だ」


クレイドは窓の外を見ている。


夕暮れの光が、赤い髪へ差し込んでいた。


「ミアは、誰にも言わないって」


「分かってる」


「私も、言わないよ」


「お前は言うな」


「言わないってば」


「ならいい」


「でも」


私は少しだけ迷ってから、クレイドの隣へ立った。


「クレイドがヴァンパイアでも、私は何も変わらないからね」


「……」


「家族だもん」


「……そうだな」


「だから、これからもちゃんと頼ってよ」


「頼らねぇ」


「何で!?」


「お前はすぐ心配するからだ」


「心配するよ!」


「だからだ」


「でも、クレイドが苦しそうなのに何も知らない方が嫌だよ」


「……」


「ゼノ兄さんの血を飲んでることも、強くなってることも、ちゃんと教えてくれたらいいのに」


「それは……」


クレイドは言葉を止めた。


ルシアに心配されたくない。


だから。


ゼノンの血を飲んでいる。


その理由を。


本人へ言えるわけがない。


「……俺は、もう大丈夫だ」


「本当?」


「ああ」


「無理してない?」


「してねぇ」


「ゼノ兄さんの血、まずいのに?」


「まずいけど飲める」


「それ、無理してるって言うんじゃない?」


「薬だと思えば平気だ」


「薬なら、ちゃんと用法用量を守らないと駄目だよ」


「アルにも同じこと言われた」


「じゃあ守って」


「……努力する」


「約束?」


「約束だ」


ルシアが笑う。


クレイドは、その笑顔を見ながら思った。


ミアに知られたことは。


思っていたほど怖くなかった。


けれど。


ルシアに知られることだけは。


まだ怖い。


自分がヴァンパイアだと知られたら。


ルシアは、今まで通り笑ってくれるだろうか。


今まで通り、隣にいてくれるだろうか。


今まで通り。


自分を家族だと言ってくれるだろうか。


「クレイド?」


「何だよ」


「帰ろう?」


「ああ」


二人で教室を出る。


廊下を歩く。


ルシアの足音。


その隣を歩く自分の足音。


以前より。


ずっとはっきり聞こえる。


「ねえ、クレイド」


「何だ」


「ミア、すごいね」


「何が」


「クレイドがヴァンパイアだって気づいたこと」


「……ああ」


「昔から耳良すぎると思ってたんだって」


「余計なことまで覚えてやがった」


「でも、クレイドがヴァンパイアでも怖くないって」


「……」


「私も怖くないよ」


クレイドの足が止まった。


ルシアが振り返る。


「クレイド?」


「……何でもねぇ」


「それ禁止!」


「うるせぇ」


「最近そればっかり!」


「帰るぞ」


「待ってよ!」


ルシアが追いついてくる。


その声を聞きながら。


クレイドは、ほんの少しだけ思った。


いつか。


自分から言える日が来るのだろうか。


俺はヴァンパイアだと。


それでも。


お前のことが好きだと。


その理由が。


お前を傷つけたくないからだと。


今はまだ。


言えない。


けれど。


ゼノンの血を飲み続けることで。


少しずつ身体が変わっていくように。


自分の心も。


少しずつ変わっていくのかもしれない。


人間として生まれ。


無理やりヴァンパイアへ変えられ。


ずっと拒み続けていたその身体を。


今度は、自分自身の意思で受け入れ始めている。


その理由が、たった一人の少女を傷つけたくないからだということを。


ルシアだけが。


まだ知らなかった。

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