クレイドの過去
クレイドが七歳だった頃。
まだ、自分が人間だった頃。
父と母がいて。
朝になれば母がカーテンを開け、眩しい光に文句を言いながら布団へ潜り込んで。
父に「いつまで寝ている」と笑われて。
そんな毎日が、ずっと続くものだと思っていた。
その日も。
最初は、いつもと変わらない一日だった。
「クレイド、あまり先へ行くな」
後ろから父の声が飛んでくる。
「分かってる!」
「分かってる子はそんなに走らないの」
今度は母だ。
「走ってねぇよ!」
「走ってるでしょう?」
「歩いてる!」
「それは走ってるって言うのよ」
「違う!」
振り返れば、父と母が笑っていた。
それが少し悔しくて、クレイドは頬を膨らませる。
三人で出かけた帰りだった。
もうすぐ家に着く。
帰ったら何をしよう。
そんなことを考えていた。
だから。
最初は気づかなかった。
いつの間にか。
周囲から人の気配が消えていたことに。
「……あなた」
母の声がした。
さっきまでとは違う。
低く。
緊張した声。
クレイドが振り返る。
父が立ち止まっていた。
「クレイド」
「何?」
「こっちへ来い」
「……?」
父が手を伸ばす。
意味が分からないまま、その手を取った。
強く握られる。
痛いくらいだった。
「父さん?」
「いいから、離れるな」
そのとき。
背後の路地から、複数の足音が聞こえた。
一人ではない。
二人、三人。
大人の足音が、こちらへ近づいてくる。
父がすぐにクレイドを自分の後ろへ隠した。
「母さん、クレイドを連れて下がれ」
「あなた……」
「早く!」
父の声に、いつもの穏やかさはなかった。
母がクレイドの肩を抱き、後ろへ下がろうとする。
けれど。
道の前にも、別の男が立っていた。
いつの間にか。
前と後ろを挟まれていた。
「……何だ、お前たち」
父が低い声で尋ねる。
男たちは答えなかった。
ただ。
ゆっくりと近づいてくる。
「クレイド、母さんから離れないで」
母が耳元で囁いた。
「何なの?」
「分からない」
父が答える。
その直後。
後ろにいた男が、母の腕を掴んだ。
「きゃっ!」
「母さん!」
クレイドが振り返る。
母は男の手を振りほどこうとした。
「離して!」
父がすぐに男へ飛びかかる。
「妻に触るな!」
しかし。
別の男が横から父の腕を掴み、背中へねじり上げた。
「ぐっ……!」
「父さん!」
父が苦しそうに顔を歪める。
クレイドは父へ駆け寄ろうとした。
けれど。
前にいた男が、クレイドの身体を抱き上げた。
「嫌だ!」
足が地面から離れる。
「離せ!」
クレイドは男の腕を叩き、足をばたつかせた。
母がこちらへ手を伸ばす。
「クレイド!」
「母さん!」
父も押さえつけられながら叫んだ。
「息子に触るな!」
男はクレイドを抱えたまま、口元へ布を押し当てた。
薬品のような、鼻を刺す匂いがした。
「んっ……!」
息を吸ってはいけない。
そう思った。
けれど。
突然のことに、うまく息を止められなかった。
布の匂いが鼻と口に入り込む。
「クレイド!」
母の声が遠くなる。
クレイドは必死に身体をよじった。
男の腕を引っかき、布を外そうとする。
「離せ!」
叫んだつもりだった。
けれど。
口元を塞がれているせいで、声はくぐもった。
「んんっ!」
父が男たちを振りほどこうと暴れている。
「クレイドを離せ!」
「あなた!」
母も男の腕を叩いている。
「やめて! この子を連れていかないで!」
クレイドは両親へ手を伸ばした。
「父さん……!」
「クレイド、目を閉じろ!」
父が叫ぶ。
「母さん!」
「大丈夫だから! クレイド、母さんの声を聞いて!」
母の声が震えている。
視界がぼやけていく。
腕に力が入らない。
足も動かない。
それでも。
クレイドは両親の方へ手を伸ばし続けた。
「……かあ、さん……」
最後に見えたのは。
男に押さえつけられながら、必死にこちらへ手を伸ばす父と母の姿だった。
その二人の姿が。
ゆっくりと暗闇に沈んでいった。
*
目を覚ましたとき。
暗かった。
「……」
頭が痛い。
身体も重い。
クレイドはゆっくり目を開けた。
知らない天井。
知らない匂い。
冷たい床。
「……母さん?」
返事はない。
身体を起こす。
「父さん?」
やっぱり。
返事はない。
怖くなった。
「母さん……?」
立ち上がろうとして。
足に力が入らず、床へ手をつく。
そのとき。
「クレイド!」
聞き慣れた声がした。
「母さん!」
暗闇の向こうから母が駆け寄ってくる。
抱きしめられた。
「よかった……!」
「母さん……!」
必死にしがみつく。
震えていた。
母も。
自分も。
「父さんは?」
「ここだ」
少し離れた場所から父の声がする。
「怪我してないか?」
「うん……」
「そうか」
父が頭を撫でた。
いつもと同じ手。
それだけで。
少し安心した。
「ここどこ?」
誰も答えない。
「家帰ろ」
母の腕に力が入った。
「ねえ」
「……うん」
「帰ろ?」
「そうね」
でも。
母の声は震えていた。
「すぐ帰ろうね」
子どもだったクレイドにも。
それが嘘だということだけは分かった。
*
どれくらい経ったのか。
分からなかった。
窓のない部屋だった。
朝も夜も分からない。
食事だけが、ときどき運ばれてくる。
扉が開くたび。
母がクレイドを抱きしめた。
父が前へ立った。
守るように。
何度目かの扉が開いたとき。
知らない男たちが入ってきた。
クレイドは反射的に母へしがみつく。
「この三人か」
「そうです」
「親子?」
「ええ」
男が笑った。
「まとめて売れるな」
意味が分からなかった。
売る。
何を?
父がクレイドを背中へ隠した。
「息子に触るな」
男たちが笑う。
「威勢がいいな」
「ここから出せ」
「無理だ」
「金なら払う」
「金?」
また笑った。
「お前らが金になるんだよ」
クレイドは父の服を握った。
「父さん……」
「大丈夫だ」
すぐに返事が返ってくる。
「父さんがいる」
父は振り返らなかった。
だから。
どんな顔をしていたのかは分からなかった。
「母さんもいるからね」
後ろから母が抱きしめてくれる。
「大丈夫」
二人とも。
同じことを言った。
大丈夫。
だからクレイドは。
信じようとした。
*
その女が来たのは。
それから間もなくのことだった。
金色の髪。
綺麗な服。
場違いなくらい整った顔。
女が部屋へ入ってきた瞬間。
周囲の男たちが頭を下げた。
「ヴェロニカ様」
クレイドには。
誰なのか分からなかった。
ただ。
怖かった。
理由なんて分からない。
女が入ってきただけなのに。
身体が勝手に震えた。
「今回の商品は?」
「こちらです」
商品。
また。
その言葉。
ヴェロニカと呼ばれた女が、三人を見る。
最初に父。
次に母。
最後に。
クレイド。
「……あら」
足が止まった。
「その子」
母の腕が強くなる。
「顔を見せて」
「嫌です」
母が答えた。
「この子に触らないで」
ヴェロニカが目を細める。
「あなたに聞いていないわ」
男が近づいてくる。
「やめろ!」
父が飛び出した。
けれど。
簡単に押さえつけられた。
「父さん!」
「クレイド!」
「やめて!」
母も叫ぶ。
クレイドは母へしがみついた。
それでも。
引き離された。
「母さん!」
「クレイド!」
腕を伸ばす。
届かない。
男に身体を掴まれ。
ヴェロニカの前へ連れていかれる。
「離せ!」
暴れる。
「母さん!」
「じっとしろ!」
「嫌だ!」
ヴェロニカがしゃがんだ。
七歳のクレイドと。
目線を合わせる。
顎へ指が触れた。
「触んな!」
手を振り払った。
周囲の空気が凍る。
けれど。
ヴェロニカだけが笑った。
「気が強いのね」
もう一度。
顔を覗き込まれる。
赤い髪。
幼いながらも整った顔立ち。
ヴェロニカはしばらく眺めて。
笑った。
「この子は残して」
「……え?」
母の声。
「食べるには惜しいわ」
意味は。
分からなかった。
でも。
父には分かったらしい。
顔色が変わった。
「待て」
「この子、私が貰う」
「やめろ!」
父が暴れる。
「息子に何をする気だ!」
「何って」
ヴェロニカは楽しそうに笑った。
「気に入ったのよ」
「やめてくれ!」
初めてだった。
父が。
誰かに懇願する声を聞いた。
「俺たちはどうなってもいい! 息子だけは帰してくれ!」
「あなた!」
母が叫ぶ。
「お願いです!」
母まで。
「この子はまだ七歳なんです! 何も知らないんです!」
「知っているわ」
「だったら!」
「だからいいのよ」
ヴェロニカの手が。
クレイドの頭へ伸びる。
「まだ何にでもできるもの」
ぞっとした。
「嫌だ」
初めて。
クレイド自身が言った。
「家に帰る」
「そう」
「母さんと父さんと帰る」
「それは無理ね」
「嫌だ!」
母のところへ行こうとする。
男に押さえられる。
「離せ!」
「クレイド!」
「母さん!」
「この子を先に連れていって」
ヴェロニカが言った。
「嫌だ!」
「クレイド!」
「母さん!」
手を伸ばす。
「母さん!」
届かない。
「クレイド!」
母が泣いている。
「大丈夫だから!」
「母さん!」
「大丈夫! 大丈夫だからね!」
それが。
母から聞いた最後の言葉だった。
*
別の部屋へ閉じ込められた。
「出せ!」
扉を叩く。
「母さん!」
何度も。
何度も。
「父さん!」
手が痛くなっても。
声が枯れても。
叩いた。
「帰る!」
返事はない。
「母さん!」
しばらくして。
遠くから。
音がした。
誰かが叫んでいる。
クレイドの手が止まる。
「……?」
聞き覚えのある声だった。
「母さん?」
耳を扉へ押しつける。
よく聞こえない。
でも。
「母さん!」
もう一度。
叫び声。
「父さん!」
扉を叩く。
「開けろ!」
向こうで何が起きているのか。
七歳のクレイドには分からなかった。
ただ。
父と母が怖がっている。
助けなきゃ。
そう思った。
「開けろ!」
拳が痛い。
「父さん!」
血が滲む。
「母さん!」
それでも叩いた。
「俺もいるから!」
泣きながら叫ぶ。
「ここにいるから!」
やがて。
声が聞こえなくなった。
「……母さん?」
静かだった。
「父さん?」
返事はない。
「……母さん」
何度呼んでも。
二度と。
返事はなかった。
*
扉が開いた。
どれくらい経ったあとだったのか。
分からない。
クレイドは扉の前に座っていた。
涙も。
もう出なかった。
入ってきたのは。
ヴェロニカだった。
「……母さんは」
「いないわ」
「父さん」
「いない」
「どこ」
ヴェロニカは答えなかった。
代わりに。
クレイドの前へしゃがむ。
「あなたは今日から私のものよ」
「……嫌だ」
「そう?」
「帰る」
「帰る場所なんてないわ」
「ある」
「ないわ」
「ある!」
顔を上げる。
「父さんと母さんがいる!」
ヴェロニカは。
少しだけ笑った。
「もういないわよ」
「……嘘」
「あなたの両親は、ヴァンパイアの食事になったもの」
意味を理解するまで。
時間がかかった。
「……食事?」
「そう」
「……」
「あなたたち人間は、そのために売られてきたの」
頭が。
真っ白になる。
食事。
売られた。
母さん。
父さん。
さっきの声。
「……嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「嘘だ!」
立ち上がる。
ヴェロニカへ飛びかかった。
「返せ!」
小さな拳で叩く。
「父さん返せ!」
叩く。
「母さん返せ!」
何度も。
何度も。
「返せよ!」
ヴェロニカは。
避けなかった。
七歳の子どもの拳なんて。
痛くもないのだろう。
「返せ!」
「無理よ」
「返せよ!」
「死んだもの」
「うるさい!」
「でも」
ヴェロニカがクレイドの腕を掴んだ。
簡単に動けなくなる。
「あなたは残してあげる」
「嫌だ!」
「綺麗だから」
「離せ!」
「気に入ったわ」
「嫌だ!」
「ずっとその姿を見ていたいくらい」
「離せ!」
「だから」
赤い瞳が。
すぐ目の前にあった。
「あなたは私と同じにしてあげる」
「……?」
意味なんて。
分からなかった。
ただ。
首筋に痛みが走った。
「――っ!」
怖い。
痛い。
身体が熱い。
「や……」
逃げようとしても。
動けない。
「母さん……」
助けて。
そう呼んでも。
もう。
来てくれない。
「父さん……」
意識が遠くなる。
最後まで。
クレイドは。
両親を呼び続けた。
*
次に目を覚ましたとき。
世界が。
変わっていた。
暗いはずの部屋が。
はっきり見える。
遠くの音が。
うるさいくらい聞こえる。
知らない匂いが。
いくつも分かる。
そして。
何より。
喉が。
焼けるように渇いていた。
「……水」
声が掠れる。
「水……」
「水じゃないわ」
ヴェロニカがいた。
手に。
赤いものを持っていた。
その匂いを嗅いだ瞬間。
身体が勝手に反応した。
「……っ」
欲しい。
そう思った。
何なのか分かっているのに。
欲しかった。
「嫌だ……」
「欲しいでしょう?」
「いらない……」
「我慢できないわ」
「いらない!」
顔を背ける。
けれど。
匂いがする。
頭から離れない。
喉が痛い。
身体中が。
それを欲しがっている。
「嫌だ……」
涙が出た。
「こんなの……」
ヴェロニカが笑う。
「もう人間じゃないもの」
その言葉だけは。
ずっと。
消えなかった。
*
それから先の記憶は。
途切れ途切れだった。
暗い部屋。
血の匂い。
ヴェロニカの声。
命令されること。
逆らおうとすると。
身体が言うことを聞かなくなること。
鏡に映った。
赤い目。
牙。
それを見るたび。
吐きそうになった。
嫌いだった。
ヴァンパイアが。
父と母を奪ったヴァンパイアが。
そして。
そのヴァンパイアになった。
自分自身が。
何より。
嫌いだった。
*
助けられた日のことも。
よく覚えていない。
大きな音。
怒鳴り声。
銃声。
誰かが扉を壊した。
クレイドは。
部屋の隅で身体を丸めていた。
「……」
誰かが入ってくる。
怖い。
また。
何かされる。
そう思った。
「来るな!」
必死に叫ぶ。
「来んな!」
男の足が止まった。
「分かった」
低い声だった。
「近づかない」
「……」
「私はアルベルトだ」
知らない。
「お前をここから出しに来た」
「……嘘だ」
「嘘ではない」
「ヴァンパイアだろ」
男から。
同じ匂いがした。
嫌いな匂い。
「そうだ」
「じゃあ来んな!」
「分かった」
本当に。
近づいてこなかった。
「ここにいる」
それだけ言った。
「お前が出てこられるまで待つ」
「……」
「もう誰も、お前を無理やり連れていかない」
信じなかった。
信じられるわけがなかった。
それでも。
アルベルトは待った。
ずっと。
クレイドが。
自分から立ち上がるまで。
*
助け出されてから数日が経った。
クレイドは。
何度も同じことを聞いた。
「父さんと母さんは?」
アルベルトは。
一度も嘘をつかなかった。
「亡くなった」
「嘘だ」
「……そうか」
「ヴェロニカが嘘ついたんだ」
「……」
「あいつ、俺に嫌なこと言うから」
「そうだな」
「だから嘘だ」
「……」
「父さんと母さん、俺を探してる」
「クレイド」
「絶対探してる」
アルベルトは。
それ以上何も言わなかった。
クレイドも。
聞かなかった。
信じなければ。
いつか。
迎えに来ると思えたから。
*
ある朝。
アルベルトが言った。
「クレイド。出かけるぞ」
「嫌だ」
「今日は来てほしい」
「どこ」
アルベルトは少しだけ黙った。
「お前の両親のところだ」
クレイドが顔を上げた。
「……父さんと母さん?」
「ああ」
その瞬間。
立ち上がった。
「どこ!?」
久しぶりに。
自分から外へ出た。
*
着いた場所を見て。
クレイドは立ち止まった。
「……ここ?」
静かな場所だった。
石が。
いくつも並んでいる。
花が供えられている。
墓地。
それが何なのか。
七歳のクレイドでも知っていた。
「……違う」
足が止まる。
「クレイド」
「違う」
「……」
「父さんと母さんのところ行くんだろ」
「ああ」
「じゃあここじゃねぇだろ」
アルベルトは何も言わなかった。
ただ。
ゆっくり歩いていく。
「待てよ」
クレイドはその場から動かなかった。
「ここじゃねぇって」
アルベルトが止まる。
振り返る。
「クレイド」
「帰る」
「……」
「父さんと母さん、ここにいない」
「来てくれ」
「嫌だ!」
「一度だけでいい」
「嫌だ!」
「……」
「嘘つき!」
アルベルトの顔が僅かに歪んだ。
それでも。
怒らなかった。
「そう思っても構わない」
「……」
「だが、見てほしい」
「……」
「お前が見なければならないものだ」
嫌だった。
行きたくなかった。
それでも。
アルベルトは無理やり手を引かなかった。
先を歩く。
クレイドが来るまで。
少し進んでは。
止まった。
結局。
クレイドはついていった。
そして。
二つ並んだ墓石の前で。
アルベルトが止まった。
「……」
そこには。
名前が刻まれていた。
父の名前。
母の名前。
知っている。
何度も見たことがある。
父の仕事道具にも。
母が持っていたものにも。
書いてあった。
「……何で」
声が震えた。
「何で名前あるの」
アルベルトは答えなかった。
「これ、父さんと母さんの名前だよ」
「ああ」
「何で」
「……」
「ここ、墓だろ」
「ああ」
「何で墓に名前あるんだよ!」
アルベルトが。
ゆっくりと膝をついた。
クレイドと同じ高さになる。
「二人は亡くなった」
「嘘だ」
「……ああ」
「嘘だ!」
「クレイド」
「だって身体ないじゃん!」
墓石を指差す。
「ここにいないじゃん!」
「……」
「父さんも母さんもいない!」
だから。
まだ生きている。
そう言いたかった。
「遺体は、戻らなかった」
「……」
「だからここには、二人が生きていた証として墓を作った」
理解したくなかった。
「……じゃあ」
声が小さくなる。
「帰ってこないの」
アルベルトは。
すぐには答えなかった。
それでも。
嘘はつかなかった。
「ああ」
「……ずっと?」
「ああ」
「明日も?」
「ああ」
「来年も?」
「ああ」
「……俺が大人になっても?」
アルベルトの目が。
僅かに伏せられた。
「ああ」
そこで。
初めて。
分かった。
死ぬということが。
もう会えないということが。
父は迎えに来ない。
母も。
自分を探していない。
探せない。
もう。
どこにもいない。
「……やだ」
涙が落ちた。
「クレイド」
「やだ」
「……」
「父さんに会いたい」
次々に。
涙が出る。
「母さんに会いたい」
アルベルトが腕を伸ばしかけて。
止めた。
まだ。
クレイドは触れられることを怖がる。
だから。
ただ隣にいた。
「俺、ちゃんと言うこと聞くから」
「……」
「もう先に走らないから」
あの日。
父に言われた。
あまり先へ行くな。
自分は。
分かってると言った。
「母さんの言うことも聞く」
「クレイド……」
「ちゃんとするから」
墓石へ手を置く。
冷たい。
「だから帰ってきてよ……」
返事はない。
「父さん……」
冷たい石しかない。
「母さん……」
いつもなら。
呼べば返事をしてくれた。
「ごめんなさい……」
声が崩れた。
「ごめんなさい……」
何に謝っているのか。
自分でも分からなかった。
一人生き残ったことなのか。
助けられなかったことなのか。
あの日。
もっと言うことを聞いていれば。
違ったのではないかと思ったのか。
「俺も一緒がよかった……!」
アルベルトの表情が変わった。
「クレイド」
「俺だけいらない……!」
その瞬間。
初めて。
アルベルトがクレイドを抱き寄せた。
「それは違う」
「離せ!」
「二人はお前を生かそうとした」
「分かんねぇよ!」
「お前を守ろうとしていた」
「でもいないじゃん!」
「……ああ」
「俺だけ残った!」
「そうだ」
「嫌だ!」
「それでも」
アルベルトの腕が。
少しだけ強くなる。
「お前は生きていい」
「……っ」
「二人がお前を守ったことを、無駄にする必要はない」
「父さん……!」
「泣いていい」
「母さん……!」
「今は、好きなだけ泣け」
七歳のクレイドは。
初めて。
両親が死んだことを理解して。
声を上げて泣いた。
*
墓地から戻った日の夜。
クレイドは。
ほとんど何も話さなかった。
泣き疲れて。
目も腫れていた。
それでも眠れない。
アルベルトに案内された部屋で。
膝を抱えて座っていた。
そのとき。
扉の向こうから声がした。
「アル」
知らない声だった。
若い。
男の声。
クレイドは顔を上げた。
「来たか」
アルベルトが答える。
「うん。彼は?」
「部屋だ」
「会っても?」
「本人次第だ」
足音が近づいてくる。
クレイドの身体が強張った。
ヴァンパイアになってから。
嫌でも分かる。
人間ではない。
それも。
今まで会った誰より。
ずっと強い。
扉の前で。
足音が止まった。
「入っていい?」
「嫌だ」
即答した。
「分かった」
足音は動かなかった。
「……」
「……」
しばらく。
誰も喋らない。
クレイドが耐えきれなくなった。
「何なんだよ」
「君に会いに来た」
「俺は会いたくねぇ」
「そうだね」
「じゃあ帰れよ」
「少しだけ話したら帰るよ」
「嫌だ」
「扉越しでいい」
「……」
変な奴だと思った。
アルベルトと同じ。
嫌だと言えば。
無理に入ってこない。
「……勝手にしろ」
「ありがとう」
扉の向こうで。
男が床へ座る音がした。
「僕はゼノン」
「……」
「ヴァンパイアだ」
「知ってる」
「分かる?」
「臭いで」
「そっか」
怒らなかった。
「嫌いだ」
クレイドは言った。
「ヴァンパイアなんか大嫌いだ」
「うん」
「お前も嫌いだ」
「それでいいよ」
「……」
「好きになってもらおうと思って来たわけじゃないから」
クレイドは。
扉を睨んだ。
「じゃあ何しに来た」
「君を生かすため」
「……」
「アルから聞いたよ。君は無理やりヴァンパイアに変えられた」
「……」
「まだ身体が安定していない」
クレイドは自分の腕を掴んだ。
身体が。
時々おかしくなる。
喉が焼ける。
頭がおかしくなりそうなくらい血が欲しくなる。
それでも。
血なんて飲みたくなかった。
「飲まねぇ」
「うん」
「血なんか絶対飲まねぇ」
「……」
「あいつらと同じになりたくない」
扉の向こうが。
少しだけ静かになった。
「君が嫌なのは分かる」
「分かるわけねぇだろ!」
「全部は分からない」
ゼノンは静かに答えた。
「僕は生まれたときからヴァンパイアだから」
「……」
「人間だった君が、突然ヴァンパイアにされる怖さは分からない」
「だったら黙ってろ」
「でも」
ゼノンの声が。
少しだけ低くなる。
「このまま何も飲まなければ、君が苦しむことは分かる」
「……」
「君は生きなきゃいけない」
「何で」
すぐに。
言葉が出た。
「父さんも母さんも死んだのに」
「……」
「俺だけ生きてどうすんだよ」
扉の向こうが。
静かになった。
今日。
墓の前で。
散々泣いた。
それでも。
涙がまた出た。
「俺、ヴァンパイアになったんだぞ」
「うん」
「父さんと母さんを殺した奴らと同じだ」
「違う」
即答だった。
クレイドが顔を上げる。
「同じだ!」
「違うよ」
「血飲むんだろ!」
「それでも違う」
「何が違うんだよ!」
「君は君だから」
「……」
「ヴァンパイアになったからって、君がヴェロニカになるわけじゃない」
「……」
「君が誰かを傷つけたくないと思っているなら、それは君の心だよ」
クレイドは。
何も言えなかった。
「でも」
ゼノンが続ける。
「生きるためには血が必要になる」
「いらない」
「必要なんだ」
「嫌だ」
「うん」
「人間の血なんか飲みたくない」
「じゃあ、僕のを飲めばいい」
「……は?」
思わず。
聞き返した。
「僕の血をあげる」
「何言ってんだよ」
「僕は純血だから。君の身体を安定させるには、普通の血より効率がいい」
「……」
「人間から飲まなくていい」
クレイドは。
扉を見つめた。
「何で」
「ん?」
「何でそこまですんだよ」
「お願いがあるから」
やっぱり。
そう思った。
ただで助ける奴なんていない。
何かさせるつもりだ。
「何」
警戒しながら聞く。
少しだけ。
間があった。
それから。
ゼノンが言った。
「ルシアっていう女の子がいる」
「……誰だよ」
「僕の大切な子」
その声だけで。
分かった。
本当に。
大切なのだと。
「君と同い年だよ」
「……」
「今はアルと暮らしてる」
「だから何」
「僕は、ずっとあの子のそばにいることができない」
「……」
「だから」
扉越しに。
ゼノンの声が届く。
「僕が君を生かすよ」
クレイドの目が。
僅かに開いた。
「君が生きるために必要な血は、僕が用意する」
「……」
「だから」
静かな声だった。
命令ではない。
純血の力で。
無理やり従わせる言葉でもない。
ただ。
一人の少年へ頼む声だった。
「ルシアを守って」
「……」
「僕がそばにいられない時、あの子のそばにいてほしい」
「何で俺が」
「同い年だから」
「それだけ?」
「それと」
扉の向こうで。
ゼノンが小さく笑った気がした。
「たぶん、君とルシアなら仲良くなれると思うから」
「ならねぇよ」
「まだ会ってないのに?」
「誰とも仲良くならねぇ」
「そっか」
「俺、一人でいい」
「うん」
「だから守るとか知らねぇ」
「今はそれでもいいよ」
「……」
「いつか」
ゼノンは言った。
「君が自分から守りたいと思えたら、その時に守ってあげて」
意味が分からなかった。
どうして。
そんな大切な子を。
会ったこともない自分に頼むのか。
「……そいつ、弱いの?」
「今はね」
「お前が守ればいいじゃん」
「できるなら、そうしてるよ」
少しだけ。
寂しそうな声だった。
「僕がずっとそばにいる方が、あの子を危険にすることもあるから」
「……意味分かんねぇ」
「分からなくていいよ」
「変な奴」
「よく言われる」
「絶対嘘」
「ふふ」
本当に。
変な奴だった。
「……血」
「うん?」
「本当に、人間の飲まなくていいの」
「僕の血で足りるようにする」
「……」
「約束する」
クレイドは。
膝へ顔を埋めた。
「……考える」
「うん」
「飲むって言ってねぇからな」
「分かってる」
「そいつ守るとも言ってねぇ」
「それも分かってるよ」
足音がした。
ゼノンが立ち上がったらしい。
「じゃあね、クレイド」
「……」
「また来るよ」
「来んな」
「考えておく」
「来んなって!」
少し離れた場所で。
アルベルトのため息が聞こえた。
それから。
二人の足音が遠ざかっていった。
*
翌日。
クレイドは。
アルベルトに連れられて新しい家へやってきた。
綺麗な家だった。
暖かかった。
でも。
怖かった。
どこへ行っても。
知らない場所は怖い。
「ここがお前の部屋だ」
アルベルトが扉を開ける。
ベッド。
机。
窓。
普通の部屋。
「……閉じ込めるのか」
「閉じ込めない」
「嘘だ」
「鍵は外からかけない」
「……」
「好きに出ていい」
信じない。
「腹が減ったら言え」
「いらねぇ」
「分かった」
「……」
「何かあれば呼べ」
「呼ばねぇ」
「それでもいい」
アルベルトが出ていく。
扉は。
本当に閉められなかった。
少しだけ。
開いたままだった。
クレイドは。
部屋の隅へ座った。
そのとき。
扉の隙間から。
白金色の髪が見えた。
「……」
引っ込んだ。
また。
少しだけ出てきた。
「……何だよ」
びくっと。
髪が揺れる。
それから。
女の子が顔を出した。
「……こんにちは」
「……」
「私、ルシア」
その名前を聞いた瞬間。
クレイドは。
昨日の言葉を思い出した。
『ルシアっていう女の子がいる』
『僕の大切な子』
『だから、ルシアを守って』
クレイドは。
目の前の少女を見る。
白金色の髪。
大きな瞳。
どう見ても。
普通の女の子だった。
「……お前がルシア?」
「え?」
ルシアが目を丸くする。
「私のこと知ってるの?」
「……知らねぇ」
「今、知ってるみたいに言ったよ?」
「知らねぇって!」
「変なの」
「うるせぇ」
「私、七歳」
「……」
「あなたも七歳なんでしょ?」
「……」
「アルが言ってた」
勝手に喋る。
「私たち同い年だよ」
「だから何だよ」
ルシアが。
にっこり笑った。
「友達になろう!」
「ならねぇ」
即答した。
「えー!」
「絶対ならねぇ」
「どうして?」
「一人でいいから」
「でも一人だと寂しいよ?」
「寂しくねぇ」
「じゃあ一緒に遊ぼ」
「話聞けよ!」
このとき。
クレイドはまだ知らなかった。
この少女が。
毎日。
毎日。
どれだけ断っても部屋へやって来ることも。
暗闇で震えていた自分を見つけ。
「もう大丈夫だよ」
と抱きしめてくれることも。
一人では眠れなかった夜。
何日も。
同じ布団で眠ってくれることも。
そして。
何年も経ったあと。
ゼノンに言われたからではなく。
自分自身の意思で。
何よりも守りたいと思う相手になることも。
七歳のクレイドは。
まだ。
何も知らなかった。




