眠れない夜
ルシアと出会ってから数日が経っても、クレイドの生活は大きく変わらなかった。
相変わらず自分の部屋にいることが多く、食事の時間になればアルベルトに呼ばれて渋々部屋を出る程度で、自分から誰かと話そうとはしなかった。
ただ一つ変わったことがあるとすれば、毎日のようにルシアがやって来るようになったことだった。
「クレイド、遊ぼ!」
「嫌だ」
「お庭行こ!」
「行かねぇ」
「じゃあ本読む?」
「一人で読め」
「クレイドは何するの?」
「一人でいる」
「じゃあ私も一人でいる!」
「俺の近くにいたら一人じゃねぇだろ!」
何度追い返しても効果はなく、ルシアは部屋へ勝手に入ってくることこそしなかったものの、扉の前に座って本を読んだり、絵を描いたりして過ごしていた。
最初のうちは本当に鬱陶しかった。
誰とも話したくないし、誰かと仲良くなりたいとも思わなかった。
誰かを好きになったところで、またいなくなるかもしれない。
父も母も、ずっと一緒にいると思っていた。
だからもう、大切なものなんて作りたくなかった。
それなのにルシアは、クレイドがどれだけ冷たくしても翌日には何事もなかったような顔でやって来た。
「クレイド、今日は何する?」
「昨日帰れって言ったよな?」
「うん」
「何で来るんだよ」
「今日になったから」
「意味分かんねぇ」
「昨日は昨日で、今日は今日だよ?」
「……お前、馬鹿だろ」
「アルには賢いって言われるよ!」
「絶対嘘」
「本当だもん!」
そんなやり取りを繰り返しているうちに、クレイドもいつの間にかルシアへ返事をするようになっていた。
それでも夜になると、昼間とは別の時間が始まった。
眠ることが怖かった。
目を閉じれば、必ずと言っていいほどあの日へ戻される。
男たちに囲まれ、父に背中へ隠されたこと。
母の腕の中から無理やり引き離されたこと。
薬品の染み込んだ布を押しつけられ、遠ざかっていく両親へ必死に手を伸ばしたこと。
閉じ込められた部屋で、扉の向こうから聞こえてきた二人の叫び声。
そして、ヴェロニカの赤い瞳。
首筋へ走った痛み。
身体が焼けるように熱くなり、次に目を覚ましたときには世界そのものが変わっていた。
暗闇が見える。
遠くの音まで聞こえる。
血の匂いを嗅いだだけで、身体が欲しがる。
鏡の中には赤い瞳と牙があった。
父と母を殺したヴァンパイアと同じものになった自分がいた。
その夜も、クレイドは夢の中で両親を追いかけていた。
「待って……!」
走っても距離が縮まらない。
父と母が遠ざかっていく。
「父さん!」
父が振り返る。
何かを言っている。
けれど聞こえない。
「母さん!」
母が手を伸ばす。
クレイドも手を伸ばした。
もう少しで届く。
そう思った瞬間、背後から腕を掴まれた。
振り返る。
ヴェロニカが笑っている。
逃げようとしても身体が動かない。
「嫌だ……!」
両親が遠ざかる。
「待って!」
行かないで。
一人にしないで。
「母さん!」
自分の叫び声で目を覚ました。
身体を起こした瞬間、どこにいるのか分からなかった。
息が苦しい。
手が震えている。
視界には見慣れ始めた部屋が映っているのに、頭の中ではあの暗い部屋と重なっていた。
「……っ、は……」
大丈夫。
ここは違う。
分かっているのに、身体が理解してくれない。
そのとき、廊下から小さな足音が近づいてきた。
「クレイド?」
扉が開き、眠そうな顔をしたルシアが覗き込んできた。
「……何だよ」
「声聞こえた」
「何でもねぇよ。寝ろ」
「怖い夢?」
「見てねぇ」
「でも、すごい汗だよ」
「暑かっただけ」
「震えてるよ?」
「……うるせぇ」
ルシアはそれ以上聞かなかった。
ただ部屋へ入ってくると、ベッドの近くまで歩いてきた。
「来んな」
その言葉で、ルシアの足が止まった。
「……分かった」
珍しく素直に止まったので、クレイドの方が戸惑った。
ルシアはその場へ座り込んだ。
「何してんだよ」
「ここにいる」
「自分の部屋戻れよ」
「嫌」
「何で」
「クレイドが一人だから」
「一人でいい」
「そっか」
それでも帰らない。
しばらく沈黙が続いた。
クレイドは膝を抱えたまま、まだ震えている指先を握りしめた。
「……大丈夫だよ」
突然、ルシアが言った。
「何が」
「もう大丈夫」
「……」
「ここはアルのお家だよ。怖い人はいないし、誰もクレイドを連れていかないよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
「……大丈夫じゃなかった」
「え?」
「父さんも母さんも、大丈夫って言った」
声が勝手に震えた。
「父さんが守るから大丈夫って言って、母さんもずっと一緒だからって言った。でも……いなくなった」
ルシアは黙っていた。
「俺、何もできなかった。二人とも俺のこと守ってくれたのに、俺は何もできなくて……あいつに捕まって、こんな身体にされて……」
自分の手を見る。
見た目は以前とほとんど変わらない。
それなのに、もう違う。
「俺、父さんと母さんと同じじゃなくなった」
ぽた、と涙が落ちた。
「父さんと母さんを殺した奴らと同じになった……」
「違うよ」
ルシアが言った。
クレイドが顔を上げる。
「何が分かるんだよ」
「分かんない」
あっさり認めた。
「私はクレイドに何があったのか全部知らないし、クレイドが何になったって言ってるのかも分かんない。でも、クレイドはクレイドでしょ?」
「……」
「会ったばかりだけど、私が知ってるクレイドは、口悪いし、すぐ怒るし、全然遊んでくれないけど」
「悪口じゃねぇか」
「でも優しいよ」
「どこが」
「この前、私が転びそうになったとき手掴んでくれた」
「あれは目の前で転ばれたら邪魔だからだよ」
「そういうことにしてあげる」
「何だよそれ」
ほんの少しだけ。
呼吸が戻った。
それを見てから、ルシアはゆっくりクレイドへ近づいた。
今度はクレイドも止めなかった。
ベッドへ上がったルシアは、クレイドの隣へ座ると小さな腕を伸ばした。
「何すんだよ」
「ぎゅってする」
「何で」
「アルが私にしてくれるから」
「……」
「私も怖い夢見るときあるよ」
意外だった。
「お前も?」
「うん。でも起きたら忘れちゃうの」
ルシアは少し寂しそうに笑った。
「夢だけじゃなくて、昔のことも覚えてないから」
クレイドは黙った。
ルシアに両親がいないことは聞いていた。
けれど、その記憶さえないことまでは知らなかった。
「お父さんもお母さんも覚えてないのか?」
「うん。顔も声も分かんない」
「……何も?」
「何にも」
「怖くねぇの?」
「怖いよ。私、自分がどこにいたのかも、どんな子だったのかも分からないから」
いつも笑っているルシアが、初めて自分と同じような顔をしているように見えた。
「アルに見つけてもらう前のこと、ほとんど何もないの。だから時々、本当の私はどこかに置いてきちゃったのかなって思う」
「……」
「でもね、アルが言ってくれたの。思い出せなくても、今のルシアがいなくなるわけじゃないって」
ルシアの腕がクレイドの背中へ回る。
「だからクレイドも大丈夫だよ」
「またそれかよ」
「うん。何回でも言うよ」
「何回」
「クレイドが大丈夫になるまで」
「……いつになるか分かんねぇぞ」
「じゃあ、それまでずっと言う」
クレイドは何も答えられなかった。
ただ、ルシアの服を小さく掴んだ。
「……今日だけ、ここにいろ」
「うん」
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ」
「ちょっとだけ」
「帰れ」
「やだ」
その夜、二人は同じベッドで眠った。
それからしばらく、クレイドが悪夢を見るたびにルシアは隣にいた。
夜中にクレイドの声が聞こえれば部屋へ来て、何も聞かずに手を握る。
「大丈夫だよ。ここにいるよ」
それだけを何度も繰り返した。
不思議なことに、クレイドはその言葉を聞けば少しずつ落ち着けるようになっていった。
やがて悪夢を見ない夜が増えた。
一人で眠れる日も増えていった。
昼間も変わった。
以前ならルシアに「遊ぼ」と言われても断っていたのに、いつの間にか「何するんだよ」と聞くようになった。
二人で庭を走り回り、本を読んで、アルベルトの買い物についていった。
ルシアが木へ登ろうとすればクレイドが止め、クレイドが一人でどこかへ行こうとすればルシアがついてくる。
「クレイド! 待って!」
「何でついてくんだよ!」
「一緒に行く!」
「来んな!」
「どこ行くの?」
「庭!」
「じゃあ私も庭行く!」
「勝手にしろ!」
「一緒だね!」
「違ぇ!」
いつの間にか。
ルシアが隣にいることが当たり前になっていた。
そんな二人へアルベルトが剣術を教え始めたのは、それから少し経った頃だった。
ある日、庭へ呼び出された二人の前に、子ども用の木剣が二本置かれていた。
「今日から二人に剣を教える」
「剣!?」
ルシアが目を輝かせた。
「何で急に?」
クレイドが聞くと、アルベルトは二人を見た。
「自分の身を守るためだ。私はいつでも二人のそばにいられるわけではない。危険な目に遭ったとき、戦って勝つ必要はないが、自分で逃げるための力は持っておいた方がいい」
クレイドは黙って木剣を見た。
あの日のことが頭を過ぎる。
自分には何もできなかった。
父と母に守られるだけだった。
もう二度と。
あんな思いはしたくなかった。
「……やる」
「私も!」
ルシアが勢いよく木剣を持ち上げようとして、重さに負けてよろけた。
「わっ!」
「危ねぇ!」
クレイドが咄嗟に身体を支える。
「重い!」
「当たり前だろ!」
「クレイド持てる?」
「貸せ」
「やだ! 私のだもん!」
「じゃあちゃんと持て!」
「持ってるよ!」
「剣に振り回されてんだろ!」
「二人とも」
アルベルトの低い声が飛んでくる。
二人が同時に振り返った。
「まだ一度も振っていないぞ」
「……はい」
「こいつが騒ぐから」
「クレイドが馬鹿にするからでしょ!」
「庭を十周」
「何で!?」
「十五周にするか?」
「行ってきます!」
二人は同時に走り出した。
最初はただの訓練だった。
けれど一周もしないうちに、ルシアがクレイドの前へ出た。
「私の勝ち!」
「まだ一周目だろ!」
「競争ね!」
「勝手に決めんな!」
「負けた方がおやつ半分!」
「絶対負けねぇ!」
結局、十周を終える頃には二人とも息を切らして地面へ寝転がっていた。
「クレイド……ずるい……」
「何が……」
「最後……本気で走った……」
「競争だろ……」
「七歳の女の子に本気出す?」
「俺も七歳だ!」
少し離れたところで、アルベルトが呆れた顔をしていた。
それから、剣術の稽古は二人の日課になった。
構え方を覚え、足の運び方を習い、何度も同じ動きを繰り返す。
ルシアはすぐに飽きた。
「アル、いつ剣で戦うの?」
「まだだ」
「もうできるよ」
「できていない。右足が逆だ」
「あ」
隣からクレイドの笑い声が聞こえた。
「また間違えてる」
「クレイドだって昨日転んだじゃん!」
「あれは石があったんだよ」
「言い訳!」
「事実!」
「では二人とも十までの型、素振り百回追加だ」
「クレイドのせい!」
「お前だろ!」
騒ぎながらも、二人は毎回きちんと稽古へ出た。
クレイドは剣術が好きになった。
剣を握っている間は余計なことを考えなくて済んだし、昨日できなかったことが今日はできるようになる感覚も好きだった。
何より、自分が少しずつ強くなっていると思えた。
ルシアも上達した。
クレイドほど器用ではなかったが、負けず嫌いだった。
「もう一回!」
「さっき負けただろ」
「だからもう一回!」
「十回やって九回俺が勝ってるぞ」
「一回勝ったもん!」
「俺が転んだからだろ!」
「勝ちは勝ち!」
「じゃあ来いよ」
「今度こそ勝つ!」
木剣がぶつかる音と、二人の笑い声が庭に響く。
クレイドは、いつから自分がこんなふうに笑えるようになったのか分からなかった。
以前は朝が来ても何もしたくなかった。
明日なんて来なければいいと思っていた。
それなのに今は。
明日はルシアに勝とう。
次はアルベルトに褒められたい。
休みになったら三人で出かけたい。
そんなことを考えるようになっていた。
ある日の稽古の途中、ルシアがクレイドの木剣を受け止めきれず、後ろへ大きくよろけた。
「きゃっ!」
「ルシア!」
クレイドは木剣を捨て、咄嗟にルシアの腕を掴んだ。
転ぶ寸前で引き寄せる。
「危ねぇだろ!」
「クレイドが強く叩くから!」
「受け流せってアルが教えただろ!」
「忘れた!」
「何で忘れんだよ!」
ルシアは怒っているクレイドを見上げると、急に笑った。
「何だよ」
「クレイド、私のこと助けてくれたね」
「……は?」
「転ばないように助けてくれた」
「目の前で転ばれたら稽古終わるだろ」
「ありがとう」
「……別に」
「クレイド優しいね」
「うるせぇ!」
顔を背けた瞬間。
ふと、ゼノンの言葉が蘇った。
――僕が君を生かすよ。
――だから、ルシアを守って。
あのときは意味が分からなかった。
知らない女の子を、どうして自分が守らなければならないのかと思った。
けれど今は。
ゼノンに頼まれたから手を伸ばしたわけではなかった。
ルシアが転びそうだったから。
怪我をしてほしくなかったから。
ただそれだけだった。
「クレイド?」
「……何でもねぇ」
「もう一回やろ!」
「また負けるぞ」
「今度は勝つ!」
「無理」
「勝つ!」
「じゃあ来いよ」
再び木剣を構える。
少し離れた場所では、アルベルトが二人を見ていた。
父と母を忘れたわけではない。
忘れるつもりもなかった。
ヴェロニカへの恐怖も、自分がヴァンパイアになったことへの嫌悪も消えていない。
今でも悪夢を見る夜はある。
そんなときには、ルシアが隣に来てくれる。
「もう大丈夫だよ」
何度でも。
同じ言葉を言ってくれる。
最初は信じられなかったその言葉を。
クレイドは少しずつ信じられるようになっていた。
ここにはアルベルトがいる。
ルシアがいる。
朝になれば三人で食事をして、昼になれば遊び、夕方には剣を振り、夜になれば同じ家へ帰る。
それがいつの間にか、クレイドの日常になっていた。
失った父と母の代わりではない。
父と母は、ずっと父と母だった。
それとは別に。
新しい居場所ができた。
新しく大切にしたいと思える人ができた。
「クレイド! ぼーっとしない!」
ルシアの木剣が飛んでくる。
「うわっ! お前、待てよ!」
「戦ってる相手に待てって言わないんでしょ?」
「……言うようになったじゃねぇか」
「クレイドに教えてもらった!」
「だったら負けても泣くなよ!」
「泣かないもん!」
クレイドは笑いながら木剣を構え直した。
あの日。
全部終わったと思っていた。
父も母も失って。
人間ですらなくなって。
自分にはもう何も残っていないと思っていた。
けれど。
終わってはいなかった。
楽しいと思っていい。
笑ってもいい。
明日を楽しみにしてもいい。
七歳のクレイドがそれを知るまでに、少し時間がかかった。
その時間のほとんどで。
いつも隣には、ルシアがいた。




