欲しいもの、欲しくないもの
翌朝。
食卓へ向かった私は、真っ先にクレイドの席を確認した。
いる。
しかも。
今日はちゃんと、いつもの席に座っている。
「……」
「……」
目が合った。
クレイドが先に逸らした。
でも、逃げなかった。
「おはよう」
「……おう」
「今日はそこに座るんだ」
「俺の席だからな」
「昨日もそう言ったのに座らなかったじゃん」
「昨日は昨日だろ」
「今日は逃げない?」
「逃げてねぇって何回言わせんだよ」
「昨日、学校でも逃げたじゃん」
「……」
黙った。
やっぱり逃げてたんじゃん。
「お前ら、朝から元気だな」
アルがコーヒーを飲みながら言った。
「アルは黙ってて」
「俺もそう思う」
「珍しく意見が合ったな」
「嬉しくねぇ」
私はクレイドの向かいへ座った。
クレイドが僅かに身体を強張らせる。
それを見逃さなかった。
「やっぱり変」
「普通だ」
「じゃあ聞くけど」
パンへ手を伸ばしかけたクレイドの手が止まった。
「昨日、なんで私のこと避けてたの?」
「……」
「学校でも全然話してくれなかった」
「……別に」
「別にじゃ分かんない」
「ルシア」
アルが口を挟む。
「食事中だ」
「だって気になる」
「クレイドにも事情がある」
「アルは知ってるの?」
「多少は」
「おい!」
クレイドが勢いよくアルを見る。
「何で言うんだよ!」
「何も言っていない」
「知ってるって言っただろ!」
「知っていることを知っていると言っただけだ」
「同じだろ!」
「アル、教えて」
「本人に聞け」
「クレイド」
「こっち見んな!」
「なんで!?」
朝から騒がしい。
でも。
昨日よりずっといい。
クレイドが私を避けているより、こうやって怒鳴られている方が安心する。
「……私、何かした?」
聞くと。
クレイドの表情が変わった。
「してねぇよ」
さっきまでとは違う。
ちゃんとした声だった。
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、私のこと嫌いになった?」
「なるわけねぇだろ」
即答だった。
「……」
「……」
今度は私が黙る。
クレイドも、自分が思った以上に早く答えてしまったことに気づいたらしい。
目を逸らした。
「……むしろ逆だし」
「え?」
「何でもねぇ」
「今なんて言った?」
「何も言ってねぇ」
「言ったよ!」
「言ってねぇ!」
「聞こえたもん!」
「人間の耳のくせにそういうときだけ良すぎんだろ!」
「むしろ逆って何!?」
「知らねぇ!」
「自分で言ったんでしょ!」
「うるせぇ!」
アルがコーヒーカップを置いた。
「朝から告白するのは良いが、もう少し静かにしろ」
「してねぇ!!」
クレイドの声が家中に響いた。
*
登校中。
私とクレイドは並んで歩いていた。
昨日と違って。
今日はちゃんと隣にいる。
「ねえ」
「何だよ」
「昨日、ミアとの話聞こえてた?」
「……」
「やっぱり」
「聞きたくて聞いたんじゃねぇよ」
「どこから?」
「最初から」
「全部!?」
「全部」
最悪だ。
「告白したとかも?」
「聞こえた」
「何かあったとかも?」
「聞こえた」
「私が……その……」
顔が熱くなる。
クレイドが前を向いたまま答える。
「それ以上言うな」
「……はい」
しばらく無言で歩く。
「ヴァンパイアって大変だね」
「急に何だよ」
「聞きたくない話まで聞こえるんでしょ?」
「まあな」
「耳塞いでも?」
「人間よりは聞こえる」
「じゃあ悪口とかも?」
「大体な」
「……嫌だね」
「慣れる」
短い返事だった。
でも。
少しだけ考えてしまう。
私たち人間は、本人に聞こえないと思えば簡単に何かを言う。
格好いいとか。
怖いとか。
化け物だとか。
きっと。
聞かれていないと思っている言葉のほとんどを、彼らは聞いている。
「クレイドも、今までいっぱい聞いた?」
「何を」
「ヴァンパイアの悪口」
クレイドの足が少しだけ遅くなった。
「……俺は人間だと思われてるからな」
「うん」
「だから、俺の前なら平気だと思って言う奴もいる」
胸が少し痛くなる。
「嫌じゃない?」
「別に」
「また別にって言った」
「じゃあ、嫌だよ」
珍しく素直だった。
「人間だった頃なら、俺も同じこと言ってたかもしれねぇし」
「……」
「だから余計に嫌なんだよ」
クレイドは自分の手を見る。
「今の俺は、言われる側だからな」
何も言えなくなった。
クレイドはヴァンパイアが嫌いだ。
自分自身も含めて。
「でも」
私は言った。
「私はクレイドのこと、嫌いじゃないよ」
「……知ってる」
「本当に?」
「ああ」
「昨日避けてたくせに」
「それとこれは別だ」
「じゃあ何で避けてたの?」
「しつこい!」
「教えてくれるまで聞く!」
「絶対言わねぇ!」
いつものクレイドだ。
少し嬉しくなって笑う。
「何笑ってんだよ」
「戻ったなあって」
「何が」
「クレイド」
「意味分かんねぇ」
そう言いながら。
クレイドの口元も、ほんの少しだけ笑っていた。
*
放課後。
今日はアルが学園外での会議に出ているため、午後から学園を空けていた。
そのため私は、授業が終わると職員室で黒い腕章を受け取った。
学園長代理。
といっても、アルの代わりに学園全体を取り仕切るわけではない。
生徒同士で問題が起きたときの仲裁や、校則違反への注意、夜間部側から何か報告があった場合の対応。
私では判断できないことや危険なことが起きれば、先生や夜間部の代表へすぐに知らせる。
それが、アルが不在の間だけ私に任されている仕事だった。
本当なら、クレイドだって候補にはなる。
むしろ私よりヴァンパイアのことを知っているし、身体能力だってずっと高い。
でも。
以前、アルがクレイドへ代理を頼もうとしたとき。
『絶対嫌だ』
即答だった。
『何でだ?』
『ヴァンパイアの面倒なんか見たくねぇ』
『お前もヴァンパイアだろう』
『だから余計に嫌なんだよ』
結局、何を言われてもクレイドは首を縦に振らなかった。
本人が嫌がっていることを無理やりやらせるわけにもいかないし、クレイドがヴァンパイアだということは昼間部では秘密になっている。
夜間部へ頻繁に出入りさせれば、正体を知られる危険もある。
だから。
アルが学園を空ける日は、私が代わりを務めることになった。
黒い腕章をつけ、昼間部校舎から夜間部校舎へ向かう。
「今日はミアいないね」
入り口で待っていたゼノ兄さんが言った。
「昨日、門限のこと注意したから」
「効いたんだ」
「たぶん」
「三日くらいかな」
「短い!」
「明日にはいるかもしれない」
「否定できない……」
ゼノ兄さんが笑いながら私の鞄へ手を伸ばす。
いつものことなので、今日は抵抗しなかった。
「今日は素直だね」
「どうせ奪って返してくれないもん」
「学習したんだ」
「諦めただけ」
「それでも嬉しいよ」
「変なの」
並んで夜間部校舎へ入る。
アルがいない日は、ゼノ兄さんがこうして私を待っていることが多い。
夜間部の代表だから、何か問題が起きたときに連携しやすいように。
――というのが、本人の言い分だ。
でも。
絶対、それだけじゃないと思う。
昨日ミアが怪我をした場所は、もう綺麗に片づけられていた。
割れた花瓶もない。
血の痕もない。
何事もなかったみたいだ。
「あ」
向こうから歩いてきた男子生徒が、私を見るなり足を止めた。
ディーン先輩だった。
「昨日の……」
「こんにちは」
「……昨日は取り乱してしまい申し訳ございません」
深く頭を下げられた。
「ミア様にもお伝え頂ければと思います」
「はい。伝えます」
「お怪我の方は大丈夫でしたか?」
「ちゃんと治療してもらいました」
「それは良かったです。それと」
「はい?」
「……止めてくれて、ありがとう」
予想していなかった言葉だった。
「……」
「では、失礼致します」
ディーン先輩はそれだけ言って去っていった。
その背中を見つめる。
「よかったね」
隣からゼノ兄さんの声がした。
「うん」
胸の奥が温かくなる。
学園長代理を引き受けてよかった。
初めて。
少しだけそう思えた。
「……でも」
ゼノ兄さんが呟く。
「何?」
「僕としては、君が危ないことをするのは全然よくない」
「まだ言ってる」
「一生言うよ」
「一生?」
「うん」
「私、おばあちゃんになっても?」
何気なく言った。
その瞬間。
ゼノ兄さんの笑顔が止まった。
「……ゼノ兄さん?」
「何でもないよ」
「またそれ」
「ごめん」
すぐに笑う。
でも。
ほんの一瞬。
すごく寂しそうな顔をした気がした。
「どうしたの?」
「本当に何でもない」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ何でそんな顔したの?」
「どんな顔?」
「寂しそうな顔」
ゼノ兄さんは黙った。
それから。
私の頭へ手を置く。
「ルシアは、よく見てるね」
「アルの代理だから」
「僕のことまで?」
「ゼノ兄さんは昔から見てるよ」
「……そっか」
髪を撫でられる。
いつもより。
少しだけ長く。
「じゃあ」
ゼノ兄さんが笑った。
「おばあちゃんになっても守るよ」
「その頃ゼノ兄さん全然変わってなさそう」
「そうだね」
「ずるい」
「ずるい?」
「私だけしわしわになるんでしょ?」
冗談で言った。
でも。
ゼノ兄さんは笑わなかった。
「……そんな未来は嫌だな」
小さな声。
「え?」
「何でもない」
また。
誤魔化された。
*
夜間部校舎を歩いていると。
視線を感じる。
昨日より多い気がする。
「……」
振り返る。
女子生徒が三人。
私と目が合った瞬間、視線を逸らした。
「何だろ」
「気にしなくていいよ」
ゼノ兄さんが言う。
「でも」
「聞こえてるから」
「え?」
ゼノ兄さんの笑顔が少しだけ冷たくなった。
「全部」
その言葉で分かった。
私には聞こえない。
でも。
ゼノ兄さんには聞こえている。
「何て言ってるの?」
「聞かなくていいよ」
「私のこと?」
「ルシア」
「知りたい」
「知らなくていいこともある」
「でも私のことでしょ?」
ゼノ兄さんが困ったように笑う。
「……頑固だね」
「ゼノ兄さんに似たのかも」
「それは嬉しいな」
「で、何て?」
少し迷ってから。
ゼノ兄さんが答えた。
「どうして人間がいつも僕の隣にいるのかって」
「それだけ?」
「他にもあるけど、言わない」
「悪口?」
「うん」
あっさり認められた。
「……そっか」
少しだけ胸が痛む。
昨日も聞いた。
『人間のくせに』
私は。
夜間部では異物なんだ。
「ルシア」
「平気」
「それ禁止」
「あ」
「元気?」
「……ちょっと元気じゃない」
言うと。
ゼノ兄さんが笑った。
「うん。偉い」
「子供扱いしないで」
「してないから教えたんだよ」
「してる」
「じゃあ訂正」
ゼノ兄さんが私の前へ回る。
「ちゃんと言ってくれて嬉しい」
赤い瞳が私だけを見る。
「僕は君が傷ついてるのに、平気なふりをされる方が嫌だから」
「……うん」
「それに」
ゼノ兄さんが女子生徒たちの方を見る。
笑っている。
なのに。
怖い。
「ルシアに聞こえないからって、何を言ってもいいわけじゃないよ」
遠くにいた女子生徒たちの身体がびくりと震えた。
聞こえたらしい。
いや。
ゼノ兄さんは、聞こえると分かって言ったんだ。
「ゼノ兄さん」
「何?」
「怖い」
「ルシアには怒ってないよ」
「知ってるけど」
「ならいい」
よくない気もする。
「人間の子を怖がらせて楽しい?」
別の声がした。
振り返る。
灰色の髪。
整った顔立ち。
ルイス・ベルフォート先輩だった。
「ルイス」
ゼノ兄さんの声が少し低くなる。
「別に怖がらせてないよ」
「お前が笑顔で話すと余計に怖い」
「失礼だな」
「事実だ」
ルイス先輩が私を見る。
「昨日の話は聞いた」
「昨日?」
「血に反応した生徒を止めたそうだな」
「あ……はい」
「ディーンか」
「はい」
「悪くない対応だった」
「ありがとうございます」
褒められた。
少し意外だった。
「だが」
ルイス先輩の目が細くなる。
「自分が人間だということを忘れるな」
「……」
「ヴァンパイア相手に毎回同じ方法が通じるとは限らない」
「分かってます」
「本当に?」
「ルイス」
ゼノ兄さんが口を挟む。
「脅さないで」
「脅していない。事実を教えている」
ルイス先輩は淡々としている。
「昨日の相手は理性が残っていたから止まった。それだけだ」
「……はい」
「完全に理性を失った飢えたヴァンパイアなら、言葉など聞かない」
「そのときは僕がいる」
「お前が常に隣にいればな」
ゼノ兄さんの笑顔が消えた。
「いるよ」
「四六時中か?」
「できるなら」
「できないだろう」
「僕にはこいつもいる」
ゼノ兄さんは黒い狼を地面から出す。
「そういう話ではない」
二人の空気が少し変わった。
「……私、先行ってようか?」
「駄目」
「構わない」
同時だった。
「どっち!?」
「ここにいて」
ゼノ兄さんが即答する。
ルイス先輩がため息をついた。
「本当に異常だな」
「何が?」
「お前だ」
「僕?」
「自覚がないのか」
「ないね」
「だろうな」
ルイス先輩が私を見る。
それから。
ゼノ兄さんへ戻す。
「そこまで大切なら、なぜ人間のままにしている?」
「……」
空気が止まった。
「え?」
私だけが意味を理解できなかった。
「ルイス」
ゼノ兄さんの声が変わる。
低い。
冷たい。
「それ以上はやめて」
「なぜだ」
「ルシアの前でする話じゃない」
「本人に関わる話だろう」
「何の話?」
二人を見る。
ルイス先輩が答えた。
「ヴァンパイアにすればいいという話だ」
「……私を?」
「ああ」
あまりにも普通に言われた。
「人間は脆い」
「……」
「怪我をする。病気になる。老いる。そして死ぬ」
淡々と。
当たり前のことを言うように。
「ヴァンパイアなら、その大半から解放される」
「ルイス」
「お前はこの娘が大切なんだろう?」
ゼノ兄さんを見る。
「なら、なぜ?」
胸が。
どくんと鳴った。
「……噛んだら、ヴァンパイアになるんですか?」
私が聞くと。
ルイス先輩がこちらを見る。
「噛むだけじゃない条件はある。誰でも簡単になれるわけではない」
クレイド。
頭に浮かんだ。
あの子も。
人間だった。
誰かに無理やりヴァンパイアにされた。
「本人の意思を無視して変える者もいる」
ルイス先輩の言葉に、胸が痛んだ。
「ルイス」
今度こそ。
ゼノ兄さんが遮った。
「黙って」
空気が震えた。
ほんの僅かに。
窓がカタ、と鳴る。
ルイス先輩の表情が変わる。
でも。
頭を下げたりはしない。
純血同士だから。
命令が効かない。
「……感情的になるな、ゼノン」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺は疑問を言っただけだ」
「余計なお世話だよ」
「そうか」
ルイス先輩は私を見る。
「悪かったな。怖がらせるつもりはなかった」
「いえ……」
「ただ」
またゼノ兄さんを見る。
「俺には理解できない」
「何が?」
「人間の寿命など、一瞬だ」
その言葉が。
なぜか胸に残った。
「お前がそこまで執着する相手なら、俺なら同じ時間を生きられるようにする」
「……」
「本人が嫌だと言っても?」
ゼノ兄さんが聞いた。
「説得する」
「それでも嫌だと言ったら?」
ルイス先輩が少し考える。
「……いつかは許してもらえるだろ」
「なら、僕とは違うね」
「そうらしい」
二人が見つめ合う。
「僕は」
ゼノ兄さんが静かに言った。
「ルシアが望まないことはしない」
「……」
「僕がどれだけ望んでもね」
胸が。
少しだけ苦しくなった。
なぜだろう。
ゼノ兄さんの言葉が。
何か別の意味を持っているような気がした。
「行こう、ルシア」
「う、うん」
手を引かれる。
ルイス先輩の横を通り過ぎる。
数歩進んだところで。
「ゼノン」
後ろから呼ばれた。
ゼノ兄さんが止まる。
「何?」
「お前は」
ルイス先輩の声が聞こえる。
「その人間が老いていくのを、本当に見ていられるのか?」
ゼノ兄さんは振り返らなかった。
「……さあね」
それだけ答えて。
再び歩き始めた。
握られた手が。
少しだけ強かった。
*
学園長代理としての仕事を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「送るよ」
「うん」
今日は断らなかった。
夜の中庭を二人で歩く。
しばらく。
どちらも何も言わなかった。
「ねえ」
私から口を開く。
「何?」
「ルイス先輩が言ってたこと」
「忘れていいよ」
「無理だよ」
「そっか」
「ゼノ兄さんは……」
少し迷う。
「私がおばあちゃんになるの、嫌?」
ゼノ兄さんの足が止まった。
「……嫌だよ」
今度は。
誤魔化さなかった。
「ほんと?」
「うん」
「でも人間なら普通だよ」
「知ってる」
「私、おばあちゃんになるよ?」
「……知ってるよ」
「ゼノ兄さんは?」
「多分、ほとんど変わらない」
「やっぱりずるい」
笑って言った。
でも。
ゼノ兄さんは笑わなかった。
「ルシア」
「何?」
「もし」
言葉が止まる。
「もし?」
「……いや」
「また何でもない?」
「うん」
「禁止」
「そうだったね」
ゼノ兄さんが困ったように笑う。
「じゃあ、今は言いたくない」
「それならいい」
「いいの?」
「何でもないって嘘つくよりいい」
「……そっか」
また歩き始める。
「ルシアは」
「うん」
「人間でいたい?」
突然だった。
「え?」
「ずっと」
何て答えればいいんだろう。
今まで。
考えたこともなかった。
私は人間だ。
だから。
人間でいるかどうかなんて、選ぶものだと思っていなかった。
「……分かんない」
正直に答えた。
「ヴァンパイアになりたいって思ったことはないよ」
「うん」
「でも」
「でも?」
「ゼノ兄さんだけずっと若くて、私だけ歳をとるのは嫌かも」
素直な気持ちだった。
ゼノ兄さんの目が僅かに見開かれる。
「私だけおばあちゃんになって、ゼノ兄さんが今のままなんでしょ?」
「そうだね」
「一緒に歩いたら親子に見られそう」
「それは嫌だな」
「でしょ?」
「ルシアがおばあちゃんでも手は繋ぐけど」
「やめてよ! 恥ずかしい!」
「どうして?」
「孫に見える年上の男の人と手繋いで歩くおばあちゃん介護じゃん!」
「今だって僕の方が四十四歳上だよ」
「ゼノおじいちゃん」
「それやめて」
「六十歳」
「ルシア」
「おじいちゃん」
「置いて帰ろうかな」
「嘘だ!」
「何で分かるの?」
「絶対置いていかないから」
「……よく分かってるね」
ゼノ兄さんが笑う。
やっと。
いつもの顔に戻った。
*
家が見えてきた。
玄関の前に。
人影がある。
「……クレイド?」
壁へ背中を預けて立っている。
「何してるの?」
近づくと、クレイドがこちらを見る。
「遅ぇ」
「まだ我が家の門限前だよ」
「知ってる」
「じゃあ何で外にいるの?」
「……別に」
「またそれ!」
「うるせぇな」
ゼノ兄さんが私の隣で笑った。
「迎えに来たんじゃない?」
「違ぇよ」
「じゃあ何してたの?」
「外の空気吸ってただけだ」
「家の前で?」
「悪いか」
「悪くないけど」
私はクレイドを見る。
「待ってた?」
「待ってねぇ」
「本当に?」
「本当だ」
「私の足音聞いてた?」
「……」
黙った。
「聞いてたんだ」
「うるせぇ」
「どこから?」
「言わねぇ」
「やっぱり待ってたじゃん!」
「待ってねぇ!」
嬉しくなって笑う。
昨日まで避けられていたから。
こうして待っていてくれただけで。
なんだかすごく嬉しい。
「ただいま、クレイド」
「……おう」
少し間があって。
「おかえり」
そう返してくれた。
「じゃあ僕は帰ろうかな」
ゼノ兄さんが言う。
「あ、ゼノ兄さん。鞄」
「忘れてた」
「絶対嘘」
「このまま持って帰ろうかと思って」
「何で!?」
「ルシアのだから」
「理由になってないよ!」
鞄を取り返す。
ゼノ兄さんが笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、ゼノ兄さん」
ゼノ兄さんがクレイドを見る。
クレイドも見る。
「……」
「……」
何だろう。
急に空気が変わった。
「クレイド」
「何だよ」
「ちょっといい?」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
「お前と二人で話すことなんかねぇ」
「僕にはある」
「俺にはねぇ」
「五分だけ」
「嫌だ」
「じゃあ十分」
「増えてんじゃねぇか!」
「ルシア」
ゼノ兄さんが私を見る。
「先に中へ入ってて」
「え?」
「男同士の話」
「何それ」
「大丈夫。喧嘩しないよ」
「お前が言うと信用できねぇ」
「クレイドも喧嘩しないでね」
「俺!?」
「二人とも」
「はい」
「……分かったよ」
仕方なく玄関を開ける。
でも。
気になる。
ものすごく気になる。
「聞き耳立てたら駄目だよ」
後ろからゼノ兄さんに言われた。
「立てないよ!」
「ルシアは人間だから、扉閉めたら聞こえないだろ」
クレイドが言う。
「そうだけど!」
何か悔しい。
「おやすみ!」
少し乱暴に扉を閉めた。
*
ルシアが家へ入る。
足音が遠ざかる。
階段を上がる音。
部屋の扉が閉まる音。
そこまで確認してから。
ゼノンが口を開いた。
「昨日」
クレイドの眉が寄る。
「何だよ」
「ルシアの血を飲んだね」
「……アルから聞いたのか」
「うん」
「なら何だよ」
ゼノンの顔から。
さっきまでルシアへ向けていた柔らかな笑みが消える。
「もう飲まないで」
「言われなくてもそのつもりだ」
「本当に?」
「……ああ」
「どうして?」
「何でお前に説明しなきゃならねぇんだよ」
「僕が聞きたいから」
「知らねぇよ」
ゼノンがクレイドを見る。
「まだ欲しい?」
「……」
「お腹は空いてないよね」
「……」
「僕の血もちゃんと飲んでる。身体の渇きはもうない」
クレイドの拳が握られる。
「それでも」
ゼノンの赤い瞳が細くなる。
「ルシアの血が欲しい?」
「……欲しいよ」
クレイドが吐き捨てるように答えた。
「悪いか」
「悪くない」
予想外の返事だった。
クレイドが顔を上げる。
「欲しいと思うこと自体はね」
ゼノンが静かに言う。
「でも、今は飲まないで」
「いまは? だから飲まねぇって言ってんだろ」
「どうして?」
「……次は」
クレイドが口を閉じる。
「次は?」
「……止まれる自信がねぇからだよ」
ゼノンは何も言わなかった。
「昨日は止まれた。でも、次も同じとは限らねぇ」
「……」
「腹減ってなくても欲しいんだよ」
自分で言って。
余計に苛立つ。
「意味分かんねぇだろ」
「分かるよ」
即答だった。
「は?」
「すごくよく分かる」
ゼノンが笑う。
でも。
その笑顔は少しも楽しそうではなかった。
「クレイド」
「何だよ」
「ルシアのこと好きでしょ」
「……は?」
「好きなんだよ」
「違ぇよ」
「違わない」
「家族みたいなもんだ」
「家族だから、あんなに血が美味しかったと思う?」
「……」
「身体だけじゃなくて、心まで満たされたんじゃない?」
クレイドの表情が固まった。
「何で……」
「アルベルトから聞いた」
「全部喋ってんじゃねぇか、あいつ……」
「全部じゃないよ」
「十分だろ」
「それに」
ゼノンが僅かに目を細める。
「僕も分かったから」
「何が」
「昨日、ルシアの傷を治したとき」
クレイドの顔が上がる。
「傷に残ってた血を、ほんの少しだけ舐めた」
「……」
「それだけで分かった」
「何を」
「好きな子の血って、こういう味がするんだなって」
沈黙。
クレイドの顔が明らかに険しくなる。
「……お前も飲んだのかよ」
「飲んでないよ」
「……」
「何?」
「別に」
「嫌そうな顔してる」
「してねぇ」
「してるよ」
ゼノンが笑った。
「僕がルシアの血を口にしたのが嫌なんでしょ?」
「お前に関係ねぇ」
「あるよ」
「ものすごくある」
「何でだよ」
「ルシアだから」
「それ理由になってねぇだろ」
クレイドが苛立ったように吐き捨てる。
ゼノンは少しだけ笑った。
「僕には十分な理由なんだよ」
「意味分かんねぇ」
「分からなくていいよ」
「じゃあ聞くけど」
クレイドの赤い瞳がゼノンを見る。
「お前はどうなんだよ」
「何が?」
「ルシアの血」
ゼノンの表情が僅かに止まった。
「欲しいんだろ」
「……」
「だったら何で飲まねぇんだよ」
静かになった。
クレイドは続ける。
「俺には飲むなって言う。自分だって欲しいって分かってる。それなのに、お前は飲まねぇ」
「……」
「何なんだよ、それ」
ゼノンはしばらく答えなかった。
やがて。
「飲まないんじゃないよ」
静かな声だった。
「飲めないんだ」
「は?」
「僕が一番、信用できないから」
クレイドが眉を寄せる。
「意味分かんねぇ」
「僕は君よりずっと長くヴァンパイアとして生きてる」
「……」
「自分が何を欲しがって、どこまで我慢できるかも知ってる」
赤い瞳が細くなる。
「だから飲まない」
「止まれねぇってことか?」
「止まれるよ」
ゼノンは即答した。
「ルシアが嫌がれば、絶対に止まる」
「じゃあ――」
「でも」
言葉を遮る。
「嫌がらなかったら?」
クレイドが黙る。
「ルシアは優しいからね」
ゼノンの声は穏やかだった。
「僕が欲しいって言えば、たぶん差し出すよ」
「……」
「君にもそうしたみたいに」
僅かに。
声が冷たくなる。
「だから言わない」
「……」
「僕が欲しいからって、ルシアに与えさせたくない」
クレイドは何も言わなかった。
「少なくとも今はね」
今。
その言葉に引っかかる。
「……今?」
「何でもないよ」
「お前ら兄妹みてぇに揃ってそれ言うのやめろ」
ゼノンが笑った。
「似てる?」
「知らねぇよ」
「嬉しいな」
「気持ち悪ぃ」
「酷いね」
少しだけ。
空気が緩んだ。
でも。
ゼノンはすぐにクレイドを見る。
「とにかく」
「何だよ」
「次に血が必要になったら僕のところへ来て」
「嫌だ」
「即答しないで」
「お前の血飲むと、身体が喜ぶから嫌なんだよ」
「知ってる」
「ムカつく」
「僕は頑丈だよ? ルシアを我慢してくれるなら好きなだけあげる」
「……」
「君自身が、もう彼女から飲みたくないと思ってる」
「……ああ」
「なら僕を使えばいい」
「言い方が気持ち悪ぃ」
「血液袋で渡すよ」
「最初からそう言え」
「あと」
「まだあんのかよ」
「君が昨日、少量で我慢できたことは評価してるよ」
クレイドが意外そうにゼノンを見る。
「……は?」
「正直、殴りたいくらい嫉妬してるけど」
「どっちだよ」
「両方」
ゼノンは平然と言った。
「ルシアの血を飲んだことは腹が立つ。でも、途中で我に返ったのは偉いよ、クレイド」
「……」
「ありがとう」
クレイドが目を逸らした。
「礼言われる筋合いねぇよ」
「あるよ」
「ねぇ」
「ある」
「しつけぇ」
ゼノンが笑う。
「じゃあ、最後に一つ」
「まだあんのかよ!」
「ルシアを好きになるのは勝手だけど」
クレイドの顔が固まる。
「違ぇって言ってんだろ」
「僕は譲らないよ。ルシアは僕の………」
「……何を」
「ルシア」
迷いのない答えだった。
クレイドの目が細くなる。
「お前、兄貴みたいなもんなんだろ」
「そうだよ」
「だったら何でそんな言い方になるんだよ」
「……」
ゼノンが笑う。
「秘密」
「気持ち悪ぃ!」
「おやすみ、クレイド」
「待て!」
ゼノンはもう背を向けていた。
「僕の血、明日新しい物をアルベルトに渡しておくから」
「いらねぇ!」
「二袋にしておくね」
「増やすな!」
「一袋は治療用」
「もう一袋は何だよ!」
ゼノンが振り返る。
にっこり笑った。
「嫌がらせ」
「てめぇ!」
「無駄にせず飲み干すようにね」
楽しそうに笑いながら。
ゼノンは夜の道を歩いていった。
一人残されたクレイドは、しばらくその背中を睨んでいた。
「……何なんだよ、あいつ」
腹が立つ。
本当に腹が立つ。
でも。
一つだけ。
頭から離れない。
『好きな子の血って、こういう味がするんだなって』
「……」
否定したい。
違うと言いたい。
ルシアは家族だ。
ずっと一緒に暮らしてきた。
妹みたいなものだ。
なのに。
昨日の血の味を思い出す。
満たされた身体。
それ以上に。
どうしようもなく満たされた心。
それから。
ゼノンがルシアの血を舐めたと聞いた瞬間に湧いた、あの苛立ち。
「……最悪だ」
クレイドは顔を覆った。
「これ、もう誤魔化せねぇだろ……」
小さく呟く。
もちろん。
家の中にいるルシアには聞こえなかった。




