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いつも通りが難しい

翌朝、目を覚まして最初に確認したのは左腕だった。


昨日まで確かにあった傷が、綺麗さっぱり消えている。


自分でつけてしまった傷も、クレイドの牙の痕も何も残っていない。


昨夜、ゼノ兄さんが舐めただけなのに。


「……本当にない」


私は何度も腕をひっくり返して確認した。


痛みもないし、赤みすら残っていなかった。


「ヴァンパイアってすごいなあ」


傷を舐めただけで、ここまで綺麗に治してしまうなんて知らなかった。


そういえばゼノ兄さんは、純血だから普通のヴァンパイアより綺麗に治せると言っていた。


ヴァンパイアについて少しずつ知ってきたつもりだったけれど、まだ知らないことばかりだ。


ミアに聞いたら、私より詳しかったりして。


……いや。


たぶん、本当に詳しい。


あの子、ヴァンパイアのことになると怖いくらい知ってるし。


そんなことを考えながら制服へ着替える。


白いシャツに袖を通し、スカートを履いてリボンを結んだ。


鏡の前で白金色の髪を整えれば、そこにいるのはいつもの自分だった。


昨日はいろいろあったけれど、クレイドも元気になったし、私の傷も治った。


だったら、もう大丈夫。


「よし!」


そう思って部屋を出た。


*


「おはよー」


リビングへ入ると、アルはすでにテーブルについて新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。


「おはよう」


「クレイドは?」


「そこにいる」


アルが視線だけを動かしたので、その先を見る。


キッチンの冷蔵庫の前に、クレイドが立っていた。


「クレイド、おはよ」


「……おう」


返事はある。


でも、こっちを見ない。


「クレイド?」


「何だよ」


「こっち向いてよ」


「何でだよ」


「顔見て挨拶するの普通じゃない?」


「声だけで十分だろ」


「何それ」


元気になったのを確認したいだけなのにな。


昨日の夜からずっとこんな感じだ。


「ほら、二人とも座れ。遅刻するぞ」


アルに言われて、私はいつもの席へ座った。


私の向かいがクレイド、その隣がアル。


いつもなら何も考えずにクレイドも向かいへ座るのに、今日はなぜか少し離れた席へ腰を下ろした。


「……クレイド」


「何だよ」


「なんでそこ?」


「別に」


「いつもの席こっちだよ?」


「知ってる」


「じゃあこっち来なよ」


「今日はここがいい」


「変なの」


「ほっとけ」


私は首を傾げながらパンを取った。


アルは何も言わない。


でも、新聞の向こうからクレイドを見ている気がする。


「アル」


「何だ」


「クレイド変じゃない?」


「そうだな」


「おい」


クレイドがすぐに反応した。


「何で肯定すんだよ」


「事実だからだ」


「ほら! やっぱり変なんじゃん!」


「変じゃねぇよ」


「変だよ。昨日の夜からずっと変」


「普通だ」


「普通の人はいつもの席から逃げないよ」


「逃げてねぇ」


「じゃあこっち座って」


「嫌だ」


「逃げてるじゃん!」


朝から言い合いになった。


アルは止める気もないらしく、悠々とコーヒーを飲んでいる。


なんだか腹が立ってきたので、私はクレイドの近くに置かれているジャムを指差した。


「じゃあそれ取って」


「自分で取れ」


「届かない」


「立てば届くだろ」


「昨日怪我した人に冷たくない?」


「もう治ってんだろ!」


「治ったけど!」


クレイドは面倒そうにジャムの瓶を取ると、私へ差し出した。


「ほら」


「ありがと」


受け取ろうとして、指先が触れた。


その瞬間。


「――っ」


クレイドが勢いよく手を引いた。


「わっ!」


落ちかけた瓶を慌てて両手で受け止める。


「危ない! 何!?」


「……悪い」


「びっくりした!」


「だから悪かったって」


「やっぱり変!」


「変じゃねぇ!」


「じゃあなんで触っただけでそんな反応するの!?」


「知らねぇよ!」


「知らないって何!?」


「朝からうるせぇな!」


「クレイドが変だからでしょ!」


「ルシア」


アルが静かに名前を呼んだ。


「何?」


「そろそろ食べないと遅刻するぞ」


「あ」


時計を見る。


確かに、いつもより遅い。


「もう! クレイドのせい!」


「何で俺のせいなんだよ!」


「あとでちゃんと話してよ!」


「話すことなんかねぇ!」


「ある!」


「ない!」


「ある!」


「ない!」


「二人とも食べろ」


「はい」


「……分かったよ」


アルに止められて、ようやく朝食を再開した。


それでも、クレイドは最後まで一度も私の向かいへ戻ってこなかった。


*


「行ってきまーす!」


「行ってこい」


玄関で靴を履いて振り返る。


クレイドはまだリビングにいる。


「クレイド、行こ」


「先行け」


「え?」


「俺はあとから行く」


「なんで?」


「ちょっとアルに話がある」


「……本当?」


「本当だよ」


「遅刻するよ?」


「仕方ない」


怪しい。


でも、ここで待っていたら私まで本当に遅刻しそうだ。


「じゃあ学校でね。絶対来てよ?」


「行くに決まってんだろ」


「じゃあね」


扉が閉まる。


ルシアの足音が遠ざかっていく。


人間なら、とっくに聞こえなくなっている距離だ。


けれど、クレイドの耳にはまだ聞こえていた。


廊下を歩く靴音。


階段を下りる音。


玄関の外へ出ていく音。


ヴァンパイアになってから、嫌でも拾うようになった音だった。


やがて完全に聞こえなくなったところで、クレイドは大きく息を吐いた。


「……疲れた」


「朝食を食べただけだが」


「誰のせいだよ」


「お前自身のせいだろう」


アルは再び新聞を広げた。


「それで、私に話とは?」


「ねぇよ」


「だろうな」


「分かってんなら聞くな」


クレイドは椅子の背へ身体を預け、天井を見上げた。


昨夜はほとんど眠れなかった。


目を閉じるたびに思い出す。


ルシアの血の味。


腕の中にいた体温。


自分へ向けられた無防備な笑顔。


そして、酔ったようにふわふわしながら言われた言葉。


『だーいすきなクレイドが元気になって嬉しい』


「……っ」


思い出しただけで顔が熱くなる。


「クレイド」


「何だよ」


「顔が赤いぞ」


「うるせぇ」


「熱でもあるのか?」


「ねぇよ!」


アルが僅かに笑った。


「楽しそうだな」


「どこがだよ」


「若いというのはいいものだ」


「殴るぞ」


「私は硬化の能力者だから、お前の拳が割れるぞ」


「そういう問題じゃねぇ」


クレイドは乱暴に髪を掻いた。


「……近くにいると無理なんだよ」


アルの表情から笑みが消える。


「血が欲しくなるのか?」


「それもある」


正直に答えた。


「でも、それだけじゃねぇ」


「では?」


「……」


「何だ」


「言わせんな」


アルはしばらく黙ったあと、納得したようにコーヒーへ口をつけた。


「なるほど」


「何がなるほどだよ」


「お前がルシアを避けている理由だ」


「避けてねぇ」


「先ほど本人にも同じことを言っていたな」


「……」


「誰が見ても避けている」


クレイドは舌打ちした。


「昨日までは普通だったんだよ」


同じ家にいることも。


隣に座ることも。


肩が触れることも。


何とも思わなかった。


少なくとも、何とも思わないふりができていた。


「でも昨日、あいつの血を飲んで……抱きつかれて……」


そこで口を閉じる。


アルの眉が上がった。


「抱きつかれた?」


「……忘れろ」


「初耳だな」


「言わねぇからな」


「何をされた?」


「何もされてねぇ!」


「では、何を言われた?」


「うるせぇ!」


完全に面白がっている。


クレイドは立ち上がった。


「学校行く」


「そうか」


「絶対ルシアに言うなよ」


「何を?」


「全部だよ!」


「私は何も知らないが」


「その顔で言うな!」


ニヤニヤした顔のアルに背を向け、玄関へ向かう。


その背中へ、アルの声が飛んだ。


「クレイド」


「何だよ」


「距離を取るのは構わない。だが、ルシアに自分が嫌われたと思わせるな」


「……」


「お前もあの子の性格は知っているだろう」


分かっている。


人の機嫌が悪ければ、自分のせいかと考える。


誰かが急に冷たくなれば、何か嫌なことをしてしまったのかと悩む。


「……分かってるよ」


「ならいい」


クレイドは玄関の扉へ手をかけた。


「あと」


「まだあんのかよ」


「渇きが満たされたとしても、ルシアの血はもう飲むな」


その言葉だけは、クレイドも笑わなかった。


「……分かってる」


昨夜、自分でも決めた。


もう飲まない。


腹が減っても。


どれだけ苦しくても。


ルシアには頼らない。


あの味をもう一度知ったら、次も同じように止まれる自信がなかった。


*


昼間部の校舎へ着いて教室に入った瞬間。


「ルシアー!」


ミアが飛んできた。


「おはよ!」


「おはよう、ミア」


「ねえ聞いて! 昨日ね、夜間部の二年の先輩が――」


「朝から元気ね」


隣から呆れた声が聞こえた。


白銀の髪を耳へかけながら、エリーゼがこちらへ歩いてくる。


「エリーゼもおはよう」


「おはよう、ルシア」


いつもの二人を見ると、なんだか安心した。


「ねえ聞いてよ、エリーゼ!」


「聞いてるわ」


「まだ何も言ってないよ!」


「どうせヴァンパイアの話でしょう?」


「なんで分かったの!?」


「あなたが朝からその勢いで話しかけてくる内容なんて、それくらいしかないでしょう」


「今日はすごい情報なの!」


「毎日そう言っているわ」


「今日は本当にすごいんだって! 夜間部の三年に、翼を出したとき四メートル近くある先輩がいるらしいの!」


「……またどこからそんな話を聞いてきたの?」


私が聞くと、ミアが得意げに胸を張った。


「昨日、夜間部の校舎を見に行ったとき!」


「また行ったの!?」


「行ったよ?」


「一昨日も行ってなかった?」


「行ったよ?」


「その前も……」


「行った!」


「行きすぎじゃない!?」


「だってヴァンパイアがいっぱいいるんだよ!?」


それを当然の理由みたいに言われても困る。


昼間部と夜間部は、そもそも使っている校舎が違う。


私たち人間が授業を受ける昼間部校舎と、ヴァンパイアたちが使う夜間部校舎。


その間には共有施設や中庭があるけれど、普通の昼間部生徒がわざわざ夜間部校舎まで行くことはほとんどない。


ミアを除いて。


「昨日は誰見たの?」


「クロード先輩とラビ先輩とルイス先輩! あとゼノン先輩も見た!」


「ほぼ毎日見てない?」


「毎日見ても格好いい人は格好いいの!」


「すごいね……」


「ルシアは興味なさすぎなの!」


「そんなことないよ」


「じゃあ問題です!」


「急に?」


ミアが人差し指を立てる。


「ヴァンパイアが死ぬ致命傷は?」


「え?」


「ほら!」


「ちょっと待って!」


知ってる。


たぶん。


「……心臓?」


「半分正解!」


「半分?」


「木の杭で心臓を打つか、心臓そのものを抉り出すの!」


「……朝から怖い話しないでよ」


「大事な知識だよ!」


「いつ使うの、その知識」


「何かあったとき!」


「何かあってもヴァンパイアの心臓抉り出したくないよ!」


「じゃあ木の杭!」


「もっと嫌!」


ミアがけらけら笑う。


「普通のナイフで刺したくらいじゃ、強いヴァンパイアなら再生しちゃうこともあるんだって。だから木の杭で心臓を打つか、心臓そのものを抉り出さないと死なないの」


「へえ……」


「ほら、知らなかった!」


「知らなかった……」


悔しい。


最近ヴァンパイアについて結構知ったと思っていたのに。


「ルシアってゼノン先輩とあんなに仲いいのに、ヴァンパイアのこと全然知らないよね」


「ゼノ兄さん、そういう話してくれないもん」


「もったいない!」


「何が?」


「私なら毎日質問する!」


「ゼノ兄さん嫌がりそう」


「嫌がられても聞く!」


「強いなあ……」


エリーゼが呆れたように息を吐く。


「ミア、あまり物騒な知識をルシアへ吹き込まないで」


「物騒じゃないよ! ヴァンパイア好きなら常識だよ!」


「人間の常識ではないわ」


「エリーゼまで!」


「それに、自分の殺し方を語りたい人なんていないよ」


エリーゼが淡々と言うと、ミアはきょとんと目を瞬かせた。


「え? でも、知っておいた方が安全じゃない?」


「あなたは自分が殺される方法を、朝から楽しそうに説明されたいの?」


「……それは嫌かも」


「でしょうね」


「でも、ヴァンパイアの弱点を知るのは大事だよ!」


「そういう話を校舎でするのはやめておきなさい」


「どうして?」


「聞こえるからよ」


「……あ」


ミアが口を閉じた。


私は二人を交互に見る。


「聞こえるって?」


「ヴァンパイアは人間よりずっと耳がいいのよ」


エリーゼが答える。


「人間同士なら聞こえないと思うくらい小さな声でも、近くにヴァンパイアがいれば普通に聞かれていると思った方がいいわ」


「そうなの!?」


「そうだよ!」


なぜかミアが答えた。


「ヴァンパイアは聴覚だけじゃなくて、嗅覚も視力も人間よりずっといいんだから!」


「……知らなかった」


「また私の勝ち!」


「何の勝負なの!?」


「ヴァンパイア知識!」


「勝負してたの!?」


ミアが得意げに笑う。


「遠くの音も聞こえるし、暗いところでも人間よりずっと見えるし、匂いだってすごく分かるんだって。だからヴァンパイアの近くでヒソヒソ話しても意味ないんだよ」


「じゃあ夜間部の校舎で、格好いいとか言ってるのも……」


「聞こえてるかも!」


「恥ずかしくないの?」


「むしろ聞こえてほしい!」


「強すぎるよ……」


エリーゼが小さく笑った。


「ミアくらい図太ければ問題ないでしょうね」


「褒められた!」


「褒めてないわ」


笑いながら席へ向かう。


その途中で、エリーゼが私の隣へ並んだ。


「ルシア」


「何?」


「昨日、あのあとクレイドは大丈夫だった?」


「え?」


一瞬、心臓が跳ねた。


エリーゼが知っているのは、旧校舎でクレイドが酷い渇きに苦しんでいたことまでだ。


家で何があったかは知らない。


「う、うん。大丈夫だったよ!」


「そう」


「ちゃんと帰ったし、今朝も元気だった!」


嘘ではない。


血を飲んだことを言っていないだけ。


「……そう」


エリーゼが私を見る。


じーっと。


「何?」


「別に」


「何その顔」


「あなた、何か隠してない?」


「隠してないよ!」


反射的に答えたせいで、余計に怪しくなった気がする。


「本当に?」


「本当!」


「ならいいけれど」


エリーゼの目が細くなる。


まずい。


絶対疑われてる。


「ところでミア!」


「え、私!?」


「さっき言ってた翼が四メートルの先輩って誰!?」


「聞いてくれるの!?」


「聞く聞く!」


「名前はね――」


成功。


ミアが一瞬で食いついた。


エリーゼはそんな私たちを見ながら、小さくため息をついた。


「……分かりやすい子」


「何か言った?」


「何も」


「またそれ!」


ミアが反応しても、エリーゼはそれ以上追及しなかった。


ただ。


ルシアが何かを隠している。


それだけは、しっかり気づいていた。


*


昼休み。


「ねえ」


ミアが声を潜め、少し離れた席を指さした。


「今日のクレイド、変じゃない?」


「やっぱり!?」


私もつられて小声になる。


「でしょ!?」


「うん。いつもルシアの近くにいるのに、今日全然来ないじゃん」


少し離れたところで、クレイドは男子生徒と話している。


一見すると普通に見える。


でも、朝から一度も私のところへ来ない。


学校へ来たときだって、目が合ったのにすぐ逸らされた。


「喧嘩した?」


「してない!」


「じゃあ告白した?」


「誰が!?」


「クレイドがルシアに」


「してないよ!」


「じゃあルシアがクレイドに?」


「もっとしてない!」


「じゃあ何?」


「分かんないから困ってるの!」


ミアがクレイドをちらりと見る。


「もっと小さい声で話そ」


「うん」


二人で顔を近づける。


そこで。


朝、ミアから聞いた話を思い出した。


ヴァンパイアは耳がいい。


人間のヒソヒソ話なんて、近くにいれば普通に聞こえる。


私は少し離れたクレイドを見る。


「……あ」


「何?」


「クレイドも、耳がいいからこれ聞こえてるんじゃ……」


クレイドがヴァンパイアだとは、誰にも知られていない。


もちろん、ミアにも。


だから、うっかり口に出してはいけない。


私は慌てて言い直した。


「……クレイドも、近くにいるから聞こえてるんじゃ……」


その瞬間。


離れた席にいるクレイドの肩が、ぴくりと動いた。


「……」


「……」


私とミアが黙る。


「今、動いたよね?」


「動いた」


「聞こえてる?」


「たぶん」


ミアが恐る恐る口を開く。


「……クレイドー?」


小声。


クレイドは振り向かない。


「聞こえてたら右手上げてー」


「やめなよ!」


私も小声で止める。


クレイドは動かない。


「ほら、聞こえてないんじゃない?」


「でも……」


「じゃあ続きね」


「続けるの!?」


「絶対何かあったでしょ」


「何も――」


言いかけて。


昨日のことが蘇る。


血を飲ませた。


抱きついた。


膝枕をしてもらった。


それから。


『クレイドも私を抱きしめて』


「……っ!」


顔が一気に熱くなった。


何で言ったの、私!?


「ルシア真っ赤!」


「うるさい!」


「絶対何かあった!」


「ないってば!」


「今の間は何!?」


「何もない!」


「ある!」


「ない!」


「あるって!」


「ない!」


少し離れた席で。


クレイドには、その会話が一言残らず聞こえていた。


聞こうとしているわけじゃない。


むしろ聞きたくない。


それでも、ヴァンパイアの耳は人間の小さな声を簡単に拾ってしまう。


『じゃあ告白した?』


『クレイドがルシアに』


聞こえてる。


『じゃあルシアがクレイドに?』


聞こえてる。


『絶対何かあったでしょ』


全部。


聞こえてる。


頼むからやめてくれ。


クレイドは目の前の男子生徒の話に集中しようとした。


無理だった。


教室のざわめきの中でも、ルシアの声だけが嫌になるほど鮮明に耳へ届く。


しかも。


『何も――』


そこでルシアの言葉が止まった。


クレイドは思わず視線だけを向ける。


頬が真っ赤になっている。


何を思い出したのか。


分からないほど鈍くはない。


昨夜。


自分の腰へ腕を回して。


『クレイドも私を抱きしめて』


『もっと近く』


『だーいすきなクレイドが元気になって嬉しい』


「……っ」


やめろ。


思い出すな。


俺も思い出す。


『ルシア真っ赤!』


『うるさい!』


『絶対何かあった!』


『ないってば!』


もう無理だ。


ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がる。


目の前の男子生徒が驚いた。


「え? どうした?」


「……俺、外行ってくる」


「今?」


「ああ」


一度もルシアを見ない。


見たら絶対に駄目だ。


クレイドはそのまま教室を出ていった。


扉が閉まる。


「……」


「……」


ミアがゆっくり私を見る。


「聞こえてたかも?」


「……うん」


「全部」


「言わないで」


「たぶん最初から全部」


「言わないでってば!」


恥ずかしすぎる。


机へ突っ伏したくなった。


「でもこれで分かったね」


「何が?」


「クレイドが変なの、絶対昨日何かあったからだよ」


「……」


「何したの?」


「何もしてない!」


「今度は大きい声で言ったね」


「だって小声でも意味ないんでしょ!」


「確かに!」


ミアが笑う。


私は笑えなかった。


帰ったら。


どうやってクレイドの顔を見ればいいんだろう。


*


放課後。


私は鞄から黒い腕章を取り出した。


ガーディアンの印。


それを腕につけて、昼間部校舎を出る。


向かう先は、敷地の反対側に建つ夜間部校舎だ。


昨日までなら、あの黒を基調とした大きな建物を見るだけで少し緊張していた。


でも今日は、それとは別のことで頭がいっぱいだった。


「クレイド……」


結局、ほとんど話せなかった。


というより。


昼休みの一件以来、さらに話しかけにくくなった。


帰ったらちゃんと聞こう。


私が何かしたなら謝る。


そう決めて歩いていると。


「ルシアー!」


後ろから聞き慣れた声が飛んできた。


嫌な予感がする。


振り返る。


「ミア……」


「待ってー!」


やっぱり。


鞄を抱えたミアが全力で走ってくる。


「何で来るの!?」


「何でって、夜間部校舎行くんでしょ?」


「私はガーディアンだから!」


「私は見学!」


「毎日してるじゃん!」


「毎日見ても飽きない!」


「動物園みたいに言わないでよ!」


「そんなこと言ってないよ!」


追いついたミアが当然のように隣へ並ぶ。


「今日はクロード先輩いるかなあ」


「さっきラビ先輩が好きって言ってなかった?」


「ラビ先輩も好き!」


「ルイス先輩は?」


「好き!」


「ゼノ兄さんは?」


「大好き!」


「全員じゃん!」


「ヴァンパイアは目の保養なの!」


すごい。


一周回って清々しい。


「でも、勝手に奥まで入ったら駄目だよ?」


「分かってるよ。夜間部校舎は立ち入り制限あるもん」


「……私より詳しいね」


「当たり前じゃん!」


「何で得意げなの?」


そんな話をしながら、夜間部校舎へ続く中庭を歩く。


人間の昼間部校舎とは雰囲気がまるで違う。


こちら側は日が落ちてから本格的に活動するヴァンパイアに合わせ、窓も照明も造りが違う。


黒を基調とした校舎。


その前に。


見慣れた黒髪の青年が立っていた。


「ルシア」


「ゼノ兄さん!」


「お疲れさま」


まだ少し距離があるのに、こちらへ顔を向けている。


「……聞こえてた?」


「何が?」


「今の私たちの話」


ゼノ兄さんが不思議そうに首を傾げる。


「聞こえてたよ」


「どこから!?」


私が驚くと、ゼノ兄さんが少し遠くを指差した。


「その辺りから」


「嘘!?」


かなり離れている。


「純血は特に感覚が鋭いからね」


「じゃあ私がゼノ兄さん大好きって言ったのも聞こえてました!?」


ミアが目を輝かせる。


「うん」


「やった!」


「何がやったなの!?」


やっぱりミアは強い。


ゼノ兄さんの視線が私からミアへ移る。


「……また君もいるんだ」


「こんにちは、ゼノン先輩!」


「こんにちは、ミア」


「今日も格好いいです!」


「ありがとう」


慣れてる。


ゼノ兄さん、完全に慣れてる。


「ミア、いつも来てるの?」


「結構見るよ」


「知らなかった……」


「ルシアより僕のこと見てるかもしれないね」


「それはない!」


反射的に否定すると、ゼノ兄さんが楽しそうに笑った。


「そう?」


「だって私、昔からゼノ兄さん知ってるし」


「うん」


なんだか嬉しそうだ。


その横でミアがにやにやしている。


「何?」


「別にー?」


「その顔やめて」


ゼノ兄さんが当然のように私の鞄へ手を伸ばした。


「自分で持てるよ?」


「知ってる」


「じゃあ返して」


「嫌だ」


「またそれ!」


「ゼノン先輩ってルシアの荷物いつも持つんですか?」


「持つよ」


「いいなあ!」


「ミアのは持たないよ」


「まだ頼んでないです!」


「先に断っておこうと思って」


「ひどい!」


思わず笑う。


いつものやり取り。


なのに。


ゼノ兄さんの手を見た瞬間、昨夜のことを思い出してしまった。


私の腕を取って。


傷へ顔を寄せて。


舐めるだけで綺麗に消してしまった。


それから。


『それ以上聞かない方がいいよ』


「……」


「ルシア?」


「何?」


「顔赤いよ」


「赤くない!」


「赤いよ」


「暑いの!」


「今日寒いけど」


「……」


「何考えてたの?」


「何も!」


「怪しいなあ」


顔を覗き込まれて、思わず一歩下がる。


「近い!」


ゼノ兄さんが止まった。


「あ……」


一瞬だけ、ほんの一瞬だけ傷ついたような顔をした気がした。


「ご、ごめん」


「何が?」


すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「何でもないよ」


「それ禁止って言ったじゃん!」


「そうだった」


「元気?」


「元気だよ」


「ならよし」


ゼノ兄さんが笑う。


隣を見る。


ミアがものすごい顔で私たちを見ている。


「……何?」


「いやあ」


「何」


ミアが口元へ手を添え、私の耳元へ顔を寄せる。


「ゼノン先輩、本当にルシアのこと好きだよね」


小声だった。


でも。


ゼノ兄さんの眉が僅かに動いた。


「あ」


ミアが固まる。


私も固まる。


「……聞こえてる?」


「聞こえてるよ」


ゼノ兄さんが笑顔で答えた。


「忘れてたー!」


「さっき自分で説明してたじゃん!」


「癖で!」


「もう!」


「でも本当のことだし!」


「妹みたいなものだから!」


言ってから。


なぜかゼノ兄さんが黙った。


「……ゼノ兄さん?」


「何でもないよ」


笑っている。


でも………


*


夜間部校舎へ入る。


ガーディアンの腕章を見せれば、私は正式に中へ入れる。


ミアは入り口付近まで。


そのはずなのに。


「クロード先輩いた!」


「ミア、走らない!」


「ちょっと見てくる!」


「奥行っちゃ駄目だって!」


「分かってる!」


絶対分かってない。


「……あの子、いつもああなの?」


ゼノ兄さんが聞く。


「うん」


「人間なのに勇気あるね」


「ただのヴァンパイア好きだと思う」


「打算がないなら、ああいう子は嫌いじゃないよ」


「そうなの?」


「僕たちを必要以上に怖がらないからね。でも同族になりたくて近づいてくる子もいるから」


言われて。


少しだけ考える。


打算なしでヴァンパイアを好きすぎるのもどうかと思うけれど。


ミアは少なくとも、ヴァンパイアというだけで誰かを嫌ったりしない。


クレイドの正体を知ったら。


あの子はどうするんだろう。


きっと。


私より早く受け入れそうな気がする。


「ルシアー!」


噂をすれば。


廊下の向こうからミアが戻ってきた。


「クロード先輩に手振ってもらった!」


「よかったね」


「今日来てよかった!」


「毎日来てるじゃん」


「今日は特別!」


「毎日それ言ってるよ」


「ねえ、あとラビ先輩――」


興奮しながらこちらへ走ってくる。


そのとき。


「ミア、走らないで!」


「大丈夫――」


靴が床を滑った。


「あ」


身体が傾く。


「ミア!」


反射的に手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。


ガシャン、と大きな音が響く。


ミアの身体が廊下脇の飾り台へぶつかり、置かれていた花瓶が床へ落ちて割れた。


「痛っ!」


「ミア!」


駆け寄る。


「大丈夫!?」


「いたた……大丈夫」


「手!」


掌が、割れた破片で浅く切れている。


大した傷ではない。


けれど。


そこから赤い血が一筋流れた。


ミアの顔から。


一瞬で笑顔が消えた。


「あ……」


「ミア?」


「ルシア」


さっきまでとは違う声。


「これ、ちょっとまずいかも」


「え?」


答えを聞く前に。


廊下の空気が変わった。


離れた場所にいた夜間部の生徒まで、一斉にこちらを振り返った。


さっきミアから聞いたばかりだ。


ヴァンパイアは耳がいい。


目もいい。


そして。


嗅覚も、人間とは比べものにならない。


人間の私には何も分からないのに。


彼らには、たった一滴の血の匂いが届いている。


それまで聞こえていた話し声が止まる。


周囲にいた夜間部の生徒たちの視線が、一斉にミアの手へ向いた。


赤い瞳。


僅かに開く唇。


その奥から覗く牙。


ミアが自分の手を押さえる。


「血の匂い、もう広がってる」


「分かるの?」


「分かるっていうか、こういう時はすぐ隠さないと駄目なの!」


私より冷静だ。


というより。


私より知ってる。


「ミア」


ゼノ兄さんの声が低くなる。


「そのまま圧迫して」


「はい」


「ルシア、ミアを後ろへ」


「うん」


私はすぐにミアの前へ立った。


黒い腕章が視界に入る。


ガーディアン。


怖い。


でも。


逃げちゃ駄目だ。


「皆さん、離れてください」


できるだけ落ち着いて声を出す。


何人かはゼノ兄さんがいることに気づき、すぐに距離を取った。


自分の口元を押さえて立ち去る生徒もいる。


けれど。


一人だけ。


動かない男子生徒がいた。


赤い瞳。


荒い呼吸。


僅かに覗く牙。


「……血」


「離れてください」


「少しだけ……」


一歩。


近づいてくる。


「駄目です」


「味見くらいなら……」


「駄目!」


強く言っても止まらない。


後ろからミアの小さな声が聞こえた。


「ルシア……」


「大丈夫」


「でも――」


「大丈夫だから」


本当は。


全然大丈夫じゃない。


心臓がうるさい。


足だって震えている。


昨日の光景が頭を過った。


ゼノ兄さんは、たった一言でヴァンパイアを跪かせた。


『伏せろ』


純血の命令。


私にはそんな力はない。


それでも。


「止まりなさい!」


叫ぶ。


男の足が止まった。


私自身が驚く。


でも。


次の瞬間には、また足が動いた。


声に驚いただけ。


やっぱり。


私に特別な力なんてない。


「ルシア」


ゼノ兄さんが私の肩へ手を置く。


前へ出ようとする気配がした。


この人なら。


一言で終わらせられる。


それでも。


「待って」


その手を止めた。


「ルシア?」


「私がやる。ガーディアンだから」


「……」


ゼノ兄さんは何も言わなかった。


でも。


前には出なかった。


私は男子生徒を真っ直ぐ見る。


「あなた、名前は?」


「……」


「聞こえてますよね」


少しの沈黙。


「……ディーン」


「ディーン先輩、今、苦しいですか?」


「……」


「血が欲しい?」


「……ああ」


拳が震えている。


牙も消えない。


それでも。


聞いてくれている。


「でも、ミアは怪我をしただけです。血をあげるって言ってません」


「分かってる……」


「だったら、離れてください」


「匂いが……」


「少しでいいです。一歩下がってください」


「無理だ……」


「できます」


「無理だ」


「できます」


昨日のクレイドを思い出した。


あんなに苦しそうだった。


それでも私を傷つけないために、何度も離れようとした。


血が欲しくなることと。


誰かから奪うことは。


同じじゃない。


「血を欲しいと思うことは、悪いことじゃないと思います」


ディーン先輩が顔を上げる。


「でも、嫌がっている人から奪ったら駄目です。欲しいことと、傷つけることは違います」


後ろで。


ゼノ兄さんが僅かに息を呑んだ気がした。


「ディーン先輩は、まだ私の話を聞けています。だったら、まだ止まれます」


「……」


「だから、止まってください」


長い沈黙。


やがて。


ディーン先輩の足が一歩後ろへ下がった。


荒かった呼吸を整えようとする。


もう一歩。


「……悪い」


小さな声だった。


「保存血……取ってくる」


「はい」


彼が離れていく。


その姿を見送った瞬間。


全身から一気に力が抜けた。


「……できた」


思わず息を吐く。


膝まで力が抜けそうになったところで、腰を支えられた。


「ルシア」


「わっ」


ゼノ兄さんだ。


「大丈夫?」


「……元気」


一瞬。


ゼノ兄さんが黙る。


それから。


「ふふ」


「笑わないで!」


「ごめん。でも、よくできたね」


頭を撫でられる。


「……本当?」


「うん」


「何もしてないよ」


「したよ」


ゼノ兄さんはディーン先輩が去った方向へ目を向けた。


「力を使わずに止めた」


「ゼノ兄さんなら一言じゃん」


「僕の一言は力だよ」


「?」


「僕は命令すればいい。純血の力で、相手の意思なんて関係なく止められる」


赤い瞳が少しだけ細くなる。


「でも君は、彼自身に止まらせた」


「……」


「それは僕には、あまり得意じゃないことだから」


少し。


嬉しくなる。


昨日は何もできなかった。


自分なんかがガーディアンでいいのかと思った。


でも今日は。


ほんの少しだけ。


できた。


「ルシア」


後ろから声がした。


「あ、ミア!」


振り返る。


ミアがまだ傷を押さえたまま立っている。


「ごめん! 忘れてた!」


「ひどい!」


「ごめんって!」


「私、怪我人!」


「本当にごめん!」


駆け寄ろうとすると。


「待って」


ミアが止めた。


「まだ血出てるから、夜間部の校舎でうろうろしない方がいい」


「……詳しいね」


「だから言ったでしょ。ヴァンパイア好きなら常識!」


「こんな時までそれ言う!?」


「でも本当にそうだもん!」


怖かったはずなのに。


もういつものミアへ戻り始めている。


「とりあえず傷を治そうか」


ゼノ兄さんが言った。


ミアの目が輝く。


「ゼノン先輩が!?」


「え?」


「お願いします!」


ぱっと傷ついた手を差し出す。


「ちょっとミア!?」


「だってヴァンパイアに傷治してもらうの初めて!」


「さっき襲われかけたばっかりだよ!?」


「それとこれは別!」


強い。


この子、本当に強い。


ゼノ兄さんは差し出された手を見る。


「……」


「ゼノン先輩?」


「ごめんね」


にっこり笑う。


「僕が女の子の傷を治すのは遠慮しておくよ」


「えー!」


「保健室へ連絡しておくから、そこで治してもらって」


「はーい……」


残念そうに手を引っ込める。


私はそんなミアを見ながら首を傾げた。


「でもミア」


「何?」


「ヴァンパイアって傷を舐めて治せるって知ってたの?」


「知ってるよ?」


即答。


「人間の傷なら唾液で治癒を促せるヴァンパイアがいるんでしょ? 生まれつきのヴァンパイアでも血の濃さとかで治り方が違うし、人間から変えられたヴァンパイアはできないこともあるって聞いた!」


「……」


「どうしたの?」


「私、昨日初めて知った」


「ええ!?」


ものすごい声。


「嘘でしょ!?」


「本当」


「ゼノン先輩とずっと一緒にいるのに!?」


「そういう話しないもん!」


「何の話してるの!?」


「普通の話!」


「もったいない!」


「だから何が!?」


ミアは信じられないという顔をしている。


ゼノ兄さんは隣で笑っている。


「ルシア」


「何?」


「ミアに教えてもらった方がいいかもしれないね」


「ゼノ兄さんまで!」


「僕より詳しいこともあるかも」


「さすがにそれはないでしょ!」


「あるかもしれないよ?」


「ないよ!」


絶対ない。


六十歳のヴァンパイア本人より詳しい十六歳の人間なんているわけない。


……たぶん。


「じゃあ問題!」


「まだやるの!?」


「純血のヴァンパイアの特徴は?」


「え」


「ほら!」


「待って!」


「五、四、三――」


「急かさないで!」


ゼノ兄さんが声を上げて笑った。


その笑い声は、少し離れた場所にいる夜間部の生徒たちにも当然聞こえていた。


私には分からない。


けれど。


さっきから私たちへ向けられている視線は、思っていたよりずっと多かった。


*


「ミア」


保健室へ向かおうとするミアを、私は呼び止めた。


「何?」


「その前に、言っておきたいことがあるの」


「何か怒ってる?」


「怒ってるというか、注意」


私は腕章を見せた。


「門限までには寮へ帰りなさい」


「え?」


「夜間部校舎へ来るなとは言わないけど、門限を過ぎても戻らないのは校則違反だからね」


「でも、今日はまだ大丈夫だよ?」


「今日はね。でも、いつもぎりぎりまでいるでしょう?」


「だって、もう少し見ていたくて……」


「ミア」


少しだけ声を低くする。


「私はガーディアンとして、校則違反を見過ごせないよ」


「う……」


「ヴァンパイアが好きなのは知ってるし、見学したい気持ちも分かる。でも、寮の門限を破るのは駄目」


「はい……」


「それに、今日みたいに怪我をしたらどうするの? 夜間部校舎に残っていたら、もっと危険なことになるかもしれない」


「……分かった」


ミアはしょんぼりと肩を落とした。


「門限までには寮へ帰る」


「約束して」


「約束します」


「よし」


「でも、明日も来ていい?」


「門限までに帰るならね」


「やった!」


「そこは反省して!」


「してるよ!」


ミアが笑う。


私はため息をつきながらも、少しだけ笑った。


「ほら、早く保健室へ行くよ」


「はーい」


ミアが歩き出す。


その背中を見送りながら、ゼノ兄さんが小さく笑った。


「ガーディアンらしくなったね」


「そうかな?」


「うん。ちゃんと叱れるようになった」


「ミアが危なっかしいだけだよ」


「それでも、見過ごさなかった」


ゼノ兄さんの声が、少しだけ優しくなる。


「それは大事なことだよ」


私は腕章へ目を落とした。


まだまだ未熟だ。


ヴァンパイアのことも知らない。


力もない。


それでも。


守るべきものを守るために、言わなければならないことはある。


「じゃあ、私も保健室までついていくね」


「僕も行くよ」


「ゼノ兄さんは夜間部の仕事があるんじゃないの?」


「あるけど、君たちを送るくらいはできる」


「ミアのこと、気に入ったの?」


「面白い子だからね」


「やっぱり」


「それに」


ゼノ兄さんは、ミアの傷ついた手へ視線を向けた。


「君が心配しているから」


「……」


「僕は君が心配している人を、放っておけないよ」


また。


そういうことを言う。


「ゼノ兄さんは、私を甘やかしすぎ」


「そうかな」


「そうだよ」


「じゃあ、少し控える」


「それは嫌」


「どっちなの?」


「分かんない!」


ゼノ兄さんが笑う。


その笑い声は、少し離れた場所にいる夜間部の生徒たちにも当然聞こえていた。


私には分からない。


けれど。


さっきから私たちへ向けられている視線は、思っていたよりずっと多かった。


*


少し離れた場所から。


エリーゼはその様子を見ていた。


ミアが夜間部校舎へ入ってきた時点で気づいていた。


いつものことだから、最初は放っておいた。


けれど。


血の匂いが広がった瞬間には、すぐに動けるよう指先へ氷を集めていた。


エリーゼの耳には、ルシアとディーンの会話も一言残らず届いていた。


目を凝らさなくても、ルシアの震える指先まで見えていた。


血の匂いも。


ミアのものだとはっきり分かっていた。


ルシアがミアの前へ立ったときも。


ディーンが近づいたときも。


あと一歩でも危険だと判断すれば、迷わず凍らせるつもりだった。


けれど。


最後まで使わなかった。


ルシアが自分の言葉で、一人のヴァンパイアを止めたから。


「……成長したわね」


誰にも聞こえないような声で呟く。


もっとも。


ここは夜間部校舎だ。


聞こうと思えば、聞こえている者はいるかもしれない。


エリーゼは少しだけ苦笑した。


まだ危なっかしい。


知識だって足りない。


ヴァンパイアについては、下手をすればミアの方が詳しい。


それでも。


ルシアには、ルシアにしかできないことがあるのかもしれない。


力で従わせるのではなく。


相手の心へ言葉を届けること。


それは。


純血の王族として生まれた彼女が、十年間人間として生きてきたからこそ得たものなのかもしれない。


もちろん。


本人はまだ何も知らない。


自分が何者なのかも。


なぜゼノンがあれほど自分を守るのかも。


なぜアルベルトが娘として育ててきたのかも。


何一つ。


そして。


クレイドがヴァンパイアであることも。


エリーゼは知っている。


けれど、その秘密をミアが知ることはなかった。


昼休み、ルシアが言いかけた言葉を慌てて言い直したことにも気づいていた。


クレイドの正体を口にしてはいけない。


それは、ルシアも分かっている。


エリーゼは指先の氷を静かに消した。


その視線の先では、ミアがまだルシアへヴァンパイアの知識を得意げに語っている。


「木の杭は絶対覚えといた方がいいよ!」


「だから使いたくないってば!」


「何かあったら必要かもしれないじゃん!」


「そんな何か起きてほしくないよ!」


「備えあれば憂いなし!」


「使い方違わない!?」


楽しそうな二人の声。


その隣で笑うゼノン。


いつもと変わらない光景。


けれど。


夜間部校舎にいるヴァンパイアたちには、その会話の大半が聞こえている。


遠くからでもルシアを見ることができる。


誰がどこを歩いているのか、足音でも分かる。


血が一滴流れれば、その匂いにも気づく。


人間が思っているよりずっと。


ヴァンパイアの世界に、完全な内緒話は少ない。


それでも。


秘密は守らなければならない。


エリーゼは白金色の髪をした少女を見つめる。


今はまだ。


誰もその血の正体に気づかない。


どれほど優れた嗅覚を持っていても。


どれほど古いヴァンパイアでも。


完全に施された封印が、ルシアの中に流れるヴァルディエの血まで人間のものとして覆い隠しているから。


そして。


クレイドがヴァンパイアだという事実も、まだ誰にも知られていない。


ミアにも。


昼間部の生徒たちにも。


ルシアが不用意に口を滑らせない限り。


だから今は。


ただの人間の少女として、ここにいられる。


クレイドもまた。


ただの人間として、昼間部の教室にいられる。


エリーゼは小さく息を吐いた。


「……あとどれくらい、このままでいられるのかしらね」


答える者はいなかった。

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