忘れられない味
目を覚ましたとき、部屋は暗かった。
「……ん」
ぼんやりと天井を見つめる。自分の部屋。自分のベッド。いつの間にここへ来たんだろう。
身体を起こそうとして、左腕に痛みが走った。
「痛っ」
見ると、白い包帯が巻かれている。
「……あ」
そこで、ようやく思い出した。
クレイド。血。牙。自分の腕から血が流れて、クレイドがそれを飲んで――そこから先の記憶が、少し曖昧だった。
頭がふわふわして、身体が熱くなって、クレイドに抱きついて。
『大好き』
「…………」
嫌な予感がする。ものすごく嫌な予感だ。
何か、とんでもなく恥ずかしいことを言った気がする。
「……思い出さない方がいいかも」
そうしよう。記憶というものは、時には閉じておいた方が幸せだ。
そう思って布団へ戻ろうとしたときだった。
コンコン、と扉が鳴った。
「ルシア」
「……ゼノ兄さん?」
どうして?
「入っていい?」
「うん」
扉が開く。そこに立っていたのは、黒い制服姿のゼノ兄さんだった。まだ夜間部の授業がある時間のはずなのに。
「ゼノ兄さん、学校は? なんかあった?」
「抜けてきた」
「え?」
「君が怪我したって聞いたから」
あまりにも普通に言うので、私は思わず声を上げた。
「ええ!? 駄目じゃん!」
「大丈夫だよ」
「何が!?」
「セドリックがいるから」
「またセドリック先輩に押しつけたの!?」
「任せたんだよ」
「同じだよ!」
くすっとゼノ兄さんが笑う。でも、すぐにその笑顔は消えた。視線が、私の左腕へ落ちる。
「見せて」
「え?」
「腕」
「あ……」
なぜか、布団の中へ隠したくなった。ゼノ兄さんには、ばれたくなかったような。そんな変な気まずさがある。
「大した傷じゃないよ」
「ルシア」
「……はい」
素直に腕を差し出すと、ゼノ兄さんはベッドの縁へ腰を下ろした。包帯へ指をかけ、一周、二周と、ゆっくり解いていく。
布の下から傷が現れた。
自分でつけた傷。そして、その近くに残ったクレイドの牙の痕。
ゼノ兄さんの指が止まった。
「……」
「ゼノ兄さん?」
返事がない。赤い瞳が、じっと傷を見ている。
「アルから聞いた?」
「聞いたよ」
「怒ってる?」
「うん」
即答だった。
「え」
「すごく怒った」
「クレイド悪くないよ!」
「……」
「私が勝手にやったの。クレイドは何回も嫌だって言ったし、学校でも止められたし、それでも私が――」
「知ってる」
「じゃあ怒らないでよ」
「それとこれとは別なんだよ」
「別じゃないよ!」
「別なの」
ゼノ兄さんの指が、傷の周りへそっと触れる。
「痛かったよね」
声が変わった。怒っていたはずなのに、すごく優しい。
「……最初だけ」
「最初だけでも痛いでしょ」
「まあ……ちょっと」
「怖くなかった?」
「クレイドだったから」
その瞬間、指が止まった。
「……そう」
「うん。クレイドなら大丈夫だと思ったから」
「ルシア」
「何?」
「そういうこと、あんまり言わない方がいいよ」
「どうして?」
「僕が嫉妬するから」
「……え?」
さらっと言われた。
「嫉妬?」
「うん」
「クレイドに?」
「そう」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
「……分かんない」
「じゃあ、まだ分からなくていいよ」
意味が分からない。
ゼノ兄さんは私の腕を持ち上げた。
「治すね」
「治せるの?」
「うん」
「クレイドもできるの?」
「クレイドはできないよ」
「あ……」
「人間のヴァンパイアだからね。 できないことも多いんだ」
「じゃあゼノ兄さんは?」
「できるよ」
「どうやって?」
ゼノ兄さんが私を見る。
「舐める」
「……傷を?」
「そう」
「それで治るの?」
「人間の傷ならね」
すごい。ヴァンパイアって便利。
そう思っていると、ゼノ兄さんが傷へ顔を近づけた。
「ちょっとくすぐったいかもしれないよ」
「うん」
舌先が傷へ触れる。
「ひゃっ」
思わず肩が跳ねた。
「ごめん」
「くすぐったい!」
「だから言ったでしょ」
もう一度。今度は我慢する。
傷口を優しく、丁寧に舐められると、じんわりと不思議な温かさが広がった。
「……わ」
赤みが消えていく。傷が塞がっていく。最後に残った牙の痕まで、ゆっくりと綺麗に消えた。
「すごい……!」
腕を見る。何もない。昨日までと同じだ。
「本当に治った!」
「うん」
「すごいね、ゼノ兄さん!」
「ゼノ兄さんはすごいヴァンパイアなんだよ」
「自分で言うの珍しいね」
笑って顔を上げると、ゼノ兄さんが動かずに俯いていた。私の腕を持ったまま、じっと黙っている。
「ゼノ兄さん?」
「……」
「どうしたの?」
「何でもないよ」
そう言って、ようやく腕を離した。
でも、気のせいかな。いつもより呼吸が深い。
「ゼノ兄さん?」
「大丈夫」
「それ禁止」
「え?」
「今日決めたの。アルもクレイドもゼノ兄さんも、すぐ大丈夫とか平気って言うから禁止」
一瞬、ゼノ兄さんが目を丸くした。それから笑う。
「そうなんだ」
「そうです」
「じゃあ困ったな」
「何が?」
「本当に大丈夫なときは何て言えばいい?」
「……元気?」
「元気だよ」
「ならいい」
「ははっ」
笑っている。いつものゼノ兄さんだ。
だから、気づかなかった。その指が、僅かに震えていたことに。
「ねえ、ゼノ兄さん」
「何?」
「クレイドね」
「うん」
「私の血を飲んだら、すごく元気になったんだって」
笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
「アルから聞いたよ」
「変に頑固で、ゼノ兄さんの血もあんまり飲んでなかったからなあ」
「……それも聞いた」
「でも、人間の私の血でもいいならよかったよ」
「……うん」
「私の血、そんなに美味しいのかなぁ」
「ルシア」
ゼノ兄さんの手が頭へ伸び、髪を撫でる。
「可愛いなぁ」
「またそれ」
「本当のこと言って何が悪いの」
「子供扱いしてる?」
「してる」
「ひどい!」
「だって僕から見たら、まだまだ子供だもの」
「私もう十六歳!」
「知ってるよ」
「ゼノ兄さん何歳だっけ?」
「それ聞く?」
「六十歳」
「覚えてたんだ」
「ゼノおじいちゃん」
「……ルシア?」
「ごめんなさい」
怖い。笑ってるのに怖い。
「でも見た目は若いもんね」
「フォローが遅いよ」
「ゼノ兄さんかっこいい!」
「それは知ってる」
「自分で言う!?」
思わず笑う。ゼノ兄さんも笑った。
いつも通りだったから、聞いてしまった。
「そういえば」
「うん?」
「ゼノ兄さんは?」
「何が?」
「私の血」
笑顔が止まる。
「欲しくないの?」
「……どうして?」
「なんとなく聞いてみただけ」
「……」
「でもゼノ兄さんは、私の血を欲しがったことないよね」
「そうだね」
「ヴァンパイアなのに」
「うん」
少しだけ、胸が変な感じがした。
どうしてだろう。欲しがられたいわけじゃないはず。血なんて、普通は飲まれたくない……よね?
それなのに、クレイドが私の血を欲しがったと知ったあとだからなのか、ゼノ兄さんが一度も私の血を欲しいと言ったことがないことが、少しだけ寂しく感じた。
「ゼノ兄さんは私の血、飲みたいって思ったことある?」
「……」
ゼノ兄さんが目を見開く。
「何で?」
「わかんない」
「ルシア」
「何?」
「それ以上聞かない方がいいよ」
「どうして?」
「僕が困るから」
「?」
意味が分からない。
ゼノ兄さんが立ち上がる。
「今日はもう休んで」
「もう帰るの?」
「うん。学校に戻らないと」
「セドリック先輩怒ってそう」
「怒ってるだろうね」
「ちゃんと謝ってね」
「考えておく」
「謝って!」
「はいはい」
扉へ向かう。でも、途中で足を止めた。
「ルシア」
「何?」
「もうクレイドに血をあげちゃ駄目だよ」
「でも、また苦しくなったら?」
「僕のを飲ませる」
「きっとクレイド嫌がるよ」
「我慢してもらう」
「可哀想」
「君が血を流すよりいい」
即答だった。
「でも――」
「お願い」
ゼノ兄さんが振り返る。
「もし、どうしてもクレイドにあげたいなら、僕のいるところで」
「ゼノ兄さんの前で?」
「うん」
「どうして?」
「止められるから」
「クレイドなら止まれるよ」
「……」
「今日だってちゃんと途中で止まってくれたし」
「それでも」
穏やかな声だった。でも、譲らないことだけは分かった。
「僕が見ているところで」
「……分かった」
「約束?」
「約束」
「ありがとう」
ようやく、ゼノ兄さんが微笑んだ。
「おやすみ、ルシア」
「おやすみ。ゼノ兄さん」
扉が閉まる。
私は傷の消えた腕を撫でた。
「……すごい」
本当に、何も残っていない。
でも、一つだけ消えなかったものがあった。
『それ以上聞かない方がいいよ』
どうして。私の血を飲みたいか聞いただけなのに、そんな顔をしたんだろう。
*
家を出たゼノンは、しばらく動かなかった。
夜の冷たい空気。静かな道。誰もいないことを確認してから、口元を手で覆う。
「……っ」
喉が熱い。
傷を治すために舐めただけ。ほんの僅かで、血を飲んだと呼べる量ですらない。
それなのに、身体の奥が続きを求めている。
「……甘かった」
ぽつりと呟く。
今まで飲んできたどんな血よりも、美味しかった。
当然だ。ヴァンパイアは、想いを寄せる相手の血を何より強く求める。血そのものが特別なのではない。飲む側にとって、その相手が特別なのだ。
だからこそ、ゼノンは十年間、避けていた。
ルシアが怪我をしても、傷を治すのはできる限りアルベルトやエリーゼに任せた。自分なら跡一つ残さず治せると分かっていても、血を見ないように、匂いを嗅がないように、味を知らないように、ずっと避け続けてきた。
理由は、欲しくなかったからじゃない。
逆だ。
「……欲しくないわけないだろ」
小さく笑う。
欲しい。ずっと欲しかった。誰の血よりも、ルシアの血だけが。
傷を舐めた瞬間、もっと欲しいと思った。舌に触れた僅かな血だけでは、全然足りなかった。牙を立てたいと思った。腕ではなく、もっと血の流れが近い場所へ。
それでも、しない。絶対に。
ルシアは今、人間として生きている。陽の光を浴びて、友達と笑って、人の子が集う学校へ通っている。
十年前、自分が彼女へ与えた時間だ。自分自身の欲望で壊してはいけない。
「……クレイド」
笑みが消える。
クレイドは、この味を知った。自分より先に、ルシアの血を飲んだ。しかも、ルシア自身が差し出した。
胸の奥に、どろりと黒いものが広がる。
「僕には言ってくれなかったよね?」
我ながら、子供みたいだと思う。それでも、嫌なものは嫌だった。
それに、もう一つ気づいてしまったことがある。
クレイドが、どうしてあれほど満たされたのか。
保存血とは違う。空腹が消えただけではない。身体だけではなく、心まで満たされる感覚。
ゼノンには、その理由が分かる。今、自分自身が同じものを感じているからだ。
「……そういうことなんだ」
小さく呟く。
クレイドは、ルシアが好きなのだ。
おそらく、本人が自覚している以上に。
「本当に嫌だなあ」
笑っているのに、赤い瞳は全く笑っていなかった。
そのとき。
「ゼノン」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
「……アルベルト」
玄関の前に、アルベルトが立っていた。
「まだ帰っていなかったのか」
「今帰るところ」
「そうか」
「何?」
「クレイドに何かするなよ」
「……」
「ゼノン」
「しないよ」
「その間は何だ」
「別に」
アルベルトがため息をつく。
「クレイドは何度も断った」
「知ってる」
「最後に理性を失ったのは事実だが、ルシアを襲うために近づいたわけではない」
「分かってるよ」
「なら――」
「分かってることと、腹が立つことは別でしょ」
ゼノンが笑う。
「僕の大切な宝物に牙を立てたんだから」
「……お前も大概面倒だな」
「知ってる」
「六十年生きてそれか」
「六十年なんて、ヴァンパイアにとってはまだ若いでしょ」
「そういう問題ではない」
「ルシアのことだけは無理だよ」
即答だった。
アルベルトは眉間を押さえる。
「それより」
ゼノンがアルベルトを見る。
「クレイド、今は?」
「落ち着いている」
「飢えは?」
「消えたそうだ」
「保存血では駄目だったのに?」
「ああ」
「……そう」
「だが、お前の血を与えたときとは様子が違う」
「だろうね」
アルベルトが眉を寄せる。
「何か分かるのか」
「分かるよ」
「何だ」
ゼノンは、少しだけ不機嫌そうに笑った。
「恋だよ」
「……」
「クレイドはルシアが好きなんだ」
アルベルトは何も言わなかった。
「好きな相手の血は特別だからね」
「……そうだな」
「身体の空腹を満たすだけなら保存血でもできる。クレイドの場合は身体が不安定だから、僕みたいな純血の血も必要になる」
「だが、ルシアの血で満たされたのは別の理由か」
「うん」
ゼノンが自分の唇へ触れる。
「心の方」
「……」
「僕も今、よく分かったから」
アルベルトがゼノンを見る。
「やはり、ルシアの血を味わったのか」
「傷を治すのに必要だったからね」
「それだけにしておけ」
「したよ」
ゼノンが笑う。
「だから困ってるんだけど」
「……」
「全然足りない」
あまりにも穏やかな声だった。
アルベルトの目が僅かに細くなる。
「ゼノン」
「分かってる」
「ルシアは今、人間だ」
「僕が一番分かってるよ」
「ならいい」
「よくないけどね」
「何がだ」
「クレイドが先に飲んだ」
「まだ言っているのか」
「言うよ」
「大人げない」
「知ってる」
「それに」
アルベルトが続ける。
「ルシアがクレイドへ血を差し出したのは、あいつが苦しんでいたからだ」
「分かってる」
「お前と比べたわけではない」
「それも分かってる」
「なら拗ねるな」
「無理」
「……」
「僕には一度も『飲んで』なんて言ってくれたことない」
アルベルトは深いため息をついた。
「本当に六十か、お前は」
「ルシアのことになると駄目なんだよ」
少しの沈黙のあと、ゼノンは家の二階を見上げた。そこには、ルシアの部屋がある。
「アルベルト」
「何だ」
「ルシアの封印は?」
「問題ない」
「血も?」
「完全に封じられている」
「そう」
髪。瞳。気配。力。血。記憶。
すべて。
今のルシアは、どこから見ても人間だ。血を流したとしても、それをヴァンパイアが口にしたとしても、そこから純血を感じ取ることはできない。まして、ヴァルディエ王家の姫だと見抜くことなど不可能だ。
それが、十年前に施した封印だった。
「なら、クレイドが気づくことはないね」
「ああ」
「よかった」
心から、そう思う。
まだ、知らなくていい。
クレイドも。ルシアも。
「もう少しだけ」
ゼノンが呟く。
「人間でいさせてあげたい」
アルベルトは静かにゼノンを見る。
「いつかは終わる」
「分かってる」
「ルシアは真実を知る」
「分かってるよ」
「そのとき、お前が一番恨まれるかもしれん」
「それも分かってる」
ゼノンは笑った。少しだけ、寂しそうに。
「それでもいい」
「……」
「今日も普通に笑ってたから」
学校へ行って、友達と騒いで、自分を六十歳のおじいちゃんだと笑って、怪我をしても明日にはまた学校へ行こうとする。
そんな当たり前の少女でいられる時間を、あと少し守っていたい。
「じゃあ帰るよ」
「ああ」
数歩進んで、ゼノンが止まる。
「アルベルト」
「何だ」
「クレイドに伝えて」
「何を」
ゼノンは振り返った。笑顔は、いつもの綺麗な笑顔だった。
「次に血が必要になったら、僕のところに来いって」
「……」
「僕の血なら、いくらでもあげるから」
「分かった」
「ルシアのは駄目」
声だけが、笑っていなかった。
「絶対に」
「それは本人たちにも言っておけ」
「言ったよ」
「ルシアは?」
「どうしてもあげたいなら僕の目の前で、って」
「……許可するのか?」
「まさか」
ゼノンがにっこり笑う。
「目の前なら止められるでしょ?」
「……」
「じゃあ、おやすみ」
今度こそ、ゼノンは夜の中へ消えていった。
*
二階の自分の部屋で、クレイドはベッドに座っていた。
身体は、もう苦しくない。あれほど酷かった渇きも、今は静かだった。
保存血を飲んだときとは違う。ゼノンの血を飲んだときとも違う。力が増えたわけではないし、新しい異能が現れたわけでもない。何か特別な血だったとも思わない。
ただ、満たされている。
身体だけではなく、もっと奥。胸の中にずっと空いていた場所まで、何かで埋められたみたいに。
「……何なんだよ」
自分でも分からない。
ルシアは人間だ。その血から感じたのも、人間の血の匂いだけだった。
なのに、保存血とは比べものにならないくらい美味しかった。一度飲んだだけなのに、忘れられない。
『大好き』
「……っ」
思い出して、顔を覆う。
「あいつ……」
あのときのルシアは、明らかに普段と違った。血を失って、牙の影響も受けて、まともな判断ができる状態ではなかった。
分かっている。だから、あの言葉を自分に都合よく受け取ってはいけない。
それでも。
『....クレイドがいい』
「……忘れろ」
自分へ言い聞かせる。
『クレイドも私を抱きしめて』
「忘れろって……」
無理だった。
クレイドはベッドへ倒れ込み、腕で目を覆う。
身体は満たされている。なのに、別の何かが前よりずっと苦しい。
「……俺、何やってんだよ」
家族。
ルシアはそう言う、昔から何度も。
クレイドも、そう思おうとしてきた。
アルベルトに引き取られて、同じ家で暮らして、喧嘩して、一緒に飯を食って、学校へ行って、帰ってきて、家族になった。
それでよかった。そのはずだった。
でも、血を飲んだ瞬間に分かってしまった。
自分は、ルシアをただの家族として見ていない。
あの血が、どうしてあれほど美味しかったのか。どうして身体だけではなく、心まで満たされたのか。
まだ、言葉にしたくない。認めたくない。
認めれば、今までと同じ場所には戻れなくなる気がした。
「……最悪だ」
ぽつりと呟く。
それでも、舌が覚えている。
甘い味。腕の中にあった体温。自分を信じ切って、血まで差し出した少女。
「ぜってぇ、もう飲まねぇ」
言い聞かせる。
「絶対に」
それなのに、瞼を閉じれば思い出す。
もう一度、飲みたい。
空腹だからではない。身体が必要としているからでもない。
もっと、厄介な理由で。
クレイドは枕へ顔を埋めた。
この夜、クレイドは初めて、血への渇きよりも一人の少女を欲しいと思う気持ちの方が、ずっと厄介なのだと知った。




