血を欲しがることまで、自分の罪にするな
「学園長代理は戦わない」
「分かってる!」
「分かっている人間の顔じゃない」
「アル、厳しくない!?」
朝。
家の裏庭には、木剣がぶつかる乾いた音が響いていた。
私の正面に立っているのはアル。
学園ではいつも落ち着いている学園長なのに、木剣を持たせると全然優しくない。
「右足」
「え?」
「遅い」
木剣が私の脇腹へ軽く当たる。
「痛っ!」
「今ので相手がヴァンパイアなら、お前は捕まっていた」
「学園長代理って戦う仕事じゃないんでしょ!?」
「だから戦う訓練ではない」
アルは木剣を下ろした。
「逃げるための訓練だ」
「……木剣いる?」
「必要だ」
「絶対アルが使いたいだけじゃない?」
「もう一度脇腹を打たれたいか?」
「ごめんなさい」
アルは木剣の先で、私の足元を指した。
「学園長代理の仕事は、私が学園にいない間、生徒同士の問題を聞き、必要なら教員や夜間部の代表へ繋ぐことだ」
「うん」
「規則違反を見つければ注意する。自分で判断できない問題は私へ報告する。危険な問題なら教師を呼ぶ」
「結構大変だよ」
「だから、相手を倒す必要はない」
アルは私を見る。
「距離を取る。相手の名前と所属を確認する。危険を感じたらすぐに離れる。逃げられても追わない。場所と特徴を覚えて報告する」
「でも、もし相手が襲ってきたら?」
「逃げろ」
即答だった。
「判断を誤って怪我をする方が愚かだ」
「……」
「昨日のような相手を、一人でどうにかしようとするな。相手がヴァンパイアなら尚更だ」
「でも、学園長代理なのに逃げるの?」
「必要なら逃げろ」
アルの声が少しだけ低くなる。
「お前に強くなれとは言っていない」
「……え?」
「自分を守れるようになれと言っている」
その目が、一瞬だけ学園長ではなくなる。
十年前。
六歳だった私を引き取って、それからずっと私を育ててくれた人の目。
お父さんの目だった。
「帰ってきて、私に報告するためだ」
「……アル」
「分かったな?」
「うん」
「返事」
「はい」
アルが頷く。
「では続ける」
「休憩は?」
「まだ早い」
「鬼!」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言った!」
少し離れた場所から笑い声がした。
「くくっ」
「クレイド!」
「悪い」
全然悪いと思っていない。
クレイドは壁にもたれながら、腕を組んでいる。
私と同じようにアルに引き取られ、この家で育ったクレイド。
血は繋がっていない。
けれど私にとっては、ずっと一緒に育ってきた家族だ。
「笑ってないで助けてよ!」
「何をどう助けるんだよ」
「アルに私をいじめないでって言って」
「訓練始めて十分で泣き言言うな」
「十分もやった!」
「まだ十分だ」
「ほら!」
私が抗議すると、アルがため息をついた。
「クレイド」
「何だよ」
「お前も見ているだけではなく、ルシアに対応の仕方を教えろ」
「俺が?」
「ああ」
アルはクレイドを見る。
「私が不在のとき、問題を起こした生徒と遭遇したらどうする?」
「まず近づかない」
「正解」
「名前と所属を確認できるなら確認する。無理なら特徴だけ覚える。それで逃げても追わずに教師か学園長に報告」
「よく覚えているな」
「毎年聞かされてるからな」
私はクレイドを見る。
「そんなに詳しいなら、クレイドが学園長代理やればよかったのに」
「絶対嫌だ」
即答。
「早っ!」
「何で俺がヴァンパイアの揉め事の面倒まで見なきゃいけねぇんだよ」
「昼間部の問題もあるよ?」
「それでも嫌だ」
「アルの代わりだよ?」
「余計嫌だ」
「どういう意味だ」
アルの声が低くなる。
「冗談だよ」
「顔が本気だぞ」
クレイドは面倒そうに木剣を肩へ乗せた。
「そもそも俺が夜間部に出入りしてたら、面倒なことになるだろ」
「……まあ、それはそうだな」
アルが答える。
私には分かる。
クレイドは昼間部では、人間として過ごしている。
彼がヴァンパイアであることを知っている人は、ほとんどいない。
夜間部のヴァンパイアたちと頻繁に関われば、いつか誰かに正体を気づかれるかもしれない。
それに何より。
クレイド自身が、ヴァンパイアと関わることを嫌っている。
だからアルも、無理に頼もうとはしなかった。
「じゃあ次はクレイドとやってみるか」
「え?」
「は?」
私とクレイドの声が重なった。
「実際に相手が動いた方が訓練になる」
「いやいやいや。クレイド普通に速いじゃん!」
「加減させる」
「信用できない!」
「俺だってやりたくねぇよ」
「なんで!?」
「お前相手じゃ加減が面倒くせぇ」
「腹立つ!」
木剣を構える。
「やる!」
「単純だな」
「クレイド!」
「はいはい」
アルが少し離れた。
「始め」
クレイドが動く。
「――っ!」
速い。
咄嗟に木剣を上げた。
ガンッ!
「うわ!」
腕が痺れる。
「ほら」
「待って!」
「実戦で待つ奴はいねぇぞ」
「実戦じゃない!」
「襲ってくる奴がいたときも、相手は待ってくれねぇよ」
「それはそうだけど!」
横。
避ける。
今度はなんとか避けられた。
「お」
クレイドが少し笑った。
「やるじゃん」
「でしょ!」
「でも遅い」
「え――」
足を払われた。
「きゃっ!」
地面が近づく。
倒れる。
そう思った瞬間、腕を掴まれた。
「……危な」
クレイドが私を支えている。
「ありがとう」
「怪我させたらアルに殺される」
「私は?」
「お前にも文句言われる」
「当たり前」
身体を起こそうとして、ふとクレイドの顔が近いことに気づいた。
「……?」
クレイドが止まっている。
視線は、私の首元。
「クレイド?」
びくりと身体が離れた。
「……悪い」
「何?」
「何でもない」
「またそれ」
クレイドは答えない。
私は自分の首元へ触れた。
汗。
それだけ。
けれど、アルの目は誤魔化せなかったらしい。
「休憩だ」
クレイドを見るアルの目が、僅かに鋭くなっていた。
「クレイド」
「……分かってる」
「今日はもうやめておけ」
「平気だ」
「平気ではない」
「アル」
「一度、中へ戻れ」
少しの沈黙。
「……分かった」
クレイドが木剣を置く。
「クレイド?」
「学校行く準備してくる」
「でも――」
「ルシア」
アルに止められた。
クレイドはそのまま家へ入っていった。
「……また?」
「何がだ」
「血?」
アルは答えなかった。
それが答えだった。
*
一時間後。
「無理……」
芝生に寝転がる。
「もう動けない……」
「大袈裟だ」
アルは平然としている。
「アルがヴァンパイアだからでしょ!」
「関係ない」
「絶対ある!」
「水」
戻ってきたクレイドが差し出してくる。
「ありがとう……」
受け取って身体を起こす。
「クレイドは疲れてないの?」
「これくらいで疲れるかよ」
「ずるい」
「何が」
「ヴァンパイア」
口にしてから、しまったと思った。
クレイドの表情が僅かに止まる。
「……ごめん」
「謝んなって言ってるだろ」
「でも」
「別にいい」
クレイドが木剣を肩に担ぐ。
「身体が丈夫なのは事実だ」
昨日よりは。
少しだけ、その言葉が自然だった。
*
登校中。
クレイドはほとんど喋らなかった。
「クレイド」
「何」
「大丈夫?」
「平気」
「それ禁止」
「は?」
「アルもゼノ兄さんもクレイドも、すぐ平気って言うから」
「本当に平気なんだから仕方ねぇだろ」
「じゃあ顔色悪いのは?」
「元から」
「昨日も聞いた」
「なら同じ答えだ」
じっと見る。
「何だよ」
「嘘つき」
「うるせぇ」
学校が見えてくる。
白い制服の生徒たち。
その中を、クレイドも白い制服で歩いている。
見た目だけなら、私と同じ。
人間。
でも、本当は違う。
クレイドはヴァンパイアだ。
本人がどれだけ嫌っても、身体は血を求める。
「……ねえ」
「何」
「昨日の、飲んだ?」
足が止まる。
「血」
「……飲んだ」
「全部?」
「少し」
「なんで全部飲まないの?」
「必要な分だけでいい」
「でもアルは――」
「ルシア」
低い声。
「この話、学校ですんな」
「あ……」
周囲を見る。
誰も聞いていない。
「ごめん」
「……別に」
クレイドはまた歩き出した。
私はその背中を追った。
*
「ルシア!」
教室へ入った瞬間、ミアが飛んできた。
「聞いたよ!」
「何を?」
「昨日、夜間部で騒ぎあったんでしょ!?」
「なんで知ってるの!?」
「もう噂になってるよ! しかもラビ先輩が銃撃ったって本当!?」
「そこ!?」
「だって見たかった!」
「危ないよ!」
「でもラビ先輩でしょ!? 絶対かっこいいじゃん!」
「……多分かっこよかったと思う。見えてないけど」
「やっぱり!」
目を輝かせる。
「透明になって銃撃つんでしょ? 何それ! ずるい!」
「私も同じこと言った」
「でしょ!?」
「本人には戦術って怒られた」
「可愛い」
「それも言った」
「ルシア、分かってる!」
二人で笑っていると、エリーゼが入ってきた。
「おはよう」
「エリーゼ! 聞いて! ラビ先輩がね!」
「昨日の話?」
「知ってるの!?」
「……噂で」
ほんの一瞬、エリーゼと目が合う。
「ルシア、怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
「よかった」
いつもより、少しだけ安心したように見えた。
「エリーゼ、心配性だね」
「誰かさんが危なっかしいから」
「ゼノ兄さんと同じこと言わないで」
「ゼノン先輩の気持ちが少し分かったかも」
「ええ……」
ミアがにやにやする。
「愛されてますねぇ、ルシアさん」
「やめて」
「ゼノン先輩に」
「やめてって!」
「顔赤い!」
「赤くない!」
騒いでいると、後ろの席にクレイドが座った。
鞄を置き、そのまま机へ突っ伏す。
「クレイド?」
「寝る」
「朝から?」
「眠い」
「昨日ちゃんと寝た?」
「母親かよ」
いつもの返事。
でも、声に力がない。
エリーゼが一瞬だけクレイドを見る。
その目が僅かに細くなった。
「……」
「エリーゼ?」
「何でもない」
また。
みんな、何でもないばっかり。
*
昼休み。
クレイドの席には鞄だけが残されていた。
「またいないね」
ミアが言う。
「うん……」
胸がざわつく。
「ルシア」
エリーゼが私を見る。
「探しに行くつもり?」
「顔に出てた?」
「すごく」
「ちょっと見てくる」
「私も――」
「大丈夫。すぐ戻るから」
「ルシア」
振り返る。
「……気をつけて」
「うん」
*
中庭。
図書室。
食堂。
昼間部と夜間部の校舎を繋ぐ共用通路。
どこにもいない。
ふと思いついた。
旧校舎。
クレイドは昔から、一人になりたいとき、人のいない場所を選ぶ。
薄暗い旧校舎へ入り、奥へ進む。
「クレイド?」
返事はない。
一つの教室の扉が、僅かに開いていた。
「いる?」
開けた。
「――来るな」
低い声。
足が止まる。
窓際。
クレイドが座り込んでいた。
顔色が悪い。
昨日よりも。
朝よりも。
ずっと。
「どうしたの?」
「戻れ」
「血、飲んでないでしょ」
「関係ない」
「あるよ」
一歩入る。
「来るな!」
声が響いた。
瞳が赤い。
牙が僅かに覗いている。
呼吸も荒い。
「……ごめん」
クレイドが顔を背けた。
「だから来んなって言ったんだ」
「苦しい?」
「平気」
「禁止」
「今それ言うか?」
「だって平気じゃないじゃん」
「……」
「アルに連絡する」
「やめろ」
「でも」
「やめてくれ」
珍しく、お願いするような声だった。
「なんで?」
「ゼノンの血持ってくるだろ」
「飲めばいいじゃん」
「嫌だ」
「どうしてそこまで嫌なの?」
「分かんねぇのかよ」
クレイドが私を見る。
「純血の血を飲むたびに、身体が喜ぶんだよ」
拳を握る。
「力が戻る。頭が冴える。匂いも、音も、全部鮮明になる」
「それって……」
「気持ちいいんだ」
吐き捨てるような声だった。
「それが一番気持ち悪い」
何も言えない。
「俺はヴァンパイアになりたくてなったんじゃない」
知っている。
詳しいことは、まだ全部教えてもらっていない。
けれど、アルに引き取られる前。
クレイドに何かがあった。
それだけは知っている。
「血を飲んで安心してる自分を見るたびに思う。俺をこうした奴と同じになっていくって」
「違うよ」
「何が違う」
「クレイドはクレイドだよ」
「綺麗事だ」
「綺麗事じゃない」
「じゃあ、お前が俺だったらどうする?」
言葉に詰まる。
「人間だったのに、ある日突然、血が食い物に見えるようになって」
「……」
「友達の首見て、腹が減って」
「……」
「家族の指から血が出ただけで、飲みたいって思って」
胸が痛い。
「それでも同じこと言えるか?」
分からない。
私は、人間だから。
「……分からない」
正直に答えた。
クレイドが笑う。
「だろ」
「でも、クレイドが嫌いになったりはしない」
笑いが止まる。
「何?」
「血が欲しいって思っても」
「……」
「私の血を飲みたいって思っても」
クレイドが立ち上がった。
「それ以上言うな」
「なんで?」
「分かってねぇからだよ!」
「じゃあ教えてよ!」
「ルシア!」
「知らなくていいって言わないで!」
静かになる。
「私、もう子供じゃない」
「……」
「家族が苦しんでるのに、知らなくていいって言われる方が嫌」
クレイドの顔が歪んだ。
「家族、か」
「そうでしょ?」
「……お前はな」
「何?」
「何でもない」
「また!」
クレイドが顔を背ける。
耳が少し赤い。
「血があれば、楽になるんだよね?」
「その話はもういい」
「ゼノ兄さんのじゃなくても?」
「普通の保存血じゃ足りない」
「どうして?」
「俺の身体が不安定だから。普通のヴァンパイアじゃない。元人間だからな」
「じゃあ、強いヴァンパイアの血なら?」
「たぶんな」
「純血じゃなくても?」
「濃ければ多少は」
「……そっか」
「何考えてる」
「何も」
「嘘つけ」
「何でもない」
「お前がそれ言うと腹立つな」
「いつも私が言われてるから」
少しだけ、クレイドが笑った。
そのとき。
廊下から足音がした。
クレイドの顔が変わる。
「ルシア。後ろ下がれ」
「え?」
「怪我してる奴がいる」
「分かるの?」
「匂う」
呼吸がまた乱れる。
「まずい……」
扉が開いた。
昼間部の男子生徒。
手に巻かれた包帯へ、僅かに血が滲んでいる。
「あれ? 誰か――」
「帰れ!」
クレイドが怒鳴った。
「え?」
「ここ使ってる。出てけ」
「何だよ……」
不満そうに去っていく。
扉が閉まった途端、クレイドが壁へ手をついた。
「……っ」
「クレイド!」
「触るな!」
私は止まる。
「……ごめん」
クレイドが苦しそうに笑った。
「俺、最低だな」
「違う」
「今あいつに飛びつきそうだった」
「でもしなかった」
「次も止まれる保証ねぇだろ」
「じゃあ――」
言葉が止まる。
一つの考えが浮かんでいた。
きっとアルなら怒る。
ゼノ兄さんなんて、もっと怒る。
でも。
目の前のクレイドは苦しんでいる。
家族なのに。
何もできない。
昨日、何もできない自分が嫌だった。
だから。
「……クレイド」
「何」
「私の血は?」
空気が止まった。
「……は?」
「私の血」
クレイドの顔から表情が消える。
「何言ってんだ、お前」
「少しくらいなら――」
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「帰れ」
「クレイド」
「帰れ!」
怒鳴られても、今度は怖くなかった。
怒っている理由が分かるから。
「嫌」
「ルシア!」
「血をあげる」
「駄目だ」
「どうして?」
「お前は人間だ!」
「だから?」
「だからって……!」
「少しくらい血を取ったって死なないよ」
「そういう問題じゃねぇ!」
「じゃあどういう問題?」
クレイドが何も言えなくなる。
「私が勝手に傷つけられるなら嫌だよ。でも、私が自分で決めるなら?」
「それでも駄目だ」
「なんで?」
「俺が嫌なんだよ!」
「……クレイドが?」
「ああ」
「私の血、嫌?」
「逆だよ!」
声が響く。
クレイド自身が固まった。
私も。
「……逆?」
「……忘れろ」
「どういう意味?」
「忘れろって」
「気になる」
「うるせぇ!」
顔を背ける。
「お前の血なんか飲んだら……もう普通にお前の隣にいられなくなる気がする」
「……」
「だから嫌だ」
胸が少しだけ痛んだ。
でも、クレイドの言っている意味を、私はまだ分かっていなかった。
*
結局、学校では何もしなかった。
エリーゼにも見つかってしまい、吸血行為は絶対に駄目だと叱られた。
「ルシア、血を差し出してはいけません」
「でも……」
「傷つけたくなくてクレイドは噛みつくのを我慢しているのです。目の前に差し出されて、それでも我慢しろというのは酷です」
「……」
「クレイドの気持ちも汲んであげてください」
私は何も言えなくなった。
ただ、苦しい思いをしてほしくない。
元気でいてほしい。
それだけなのに。
「今日は二人とも帰ってください」
エリーゼが言った。
「道中、クレイドが誰かを襲わないようにルシアも一緒に。家に薬があるでしょう?」
「うん」
薬とは純血であるゼノ兄さんの血液だ。
「それを飲ませて、学園長にすべて話してください」
「……はい」
「絶対ですよ」
「分かった」
クレイドが顔を背ける。
「俺が悪い」
「クレイド」
「俺がここにいると、他の生徒を襲うかもしれねぇ。みんな血液パックに見えてきたわ」
「それなら尚更です」
エリーゼの声は厳しかった。
けれど、その目は心配していた。
ミアには「クレイドの体調が悪い」とだけ説明して、私たちは早退した。
*
帰り道。
「家に着いたら、アルに話すからね」
「やめろ」
「エリーゼにも言われたでしょ」
「学校でのことはな」
「家でも同じだよ」
「ルシア」
「クレイドが苦しんでるのに、黙ってる方が嫌」
「俺は苦しんでるんじゃねぇ」
「じゃあ何?」
「凄く耐えてるだけだ」
「それを苦しんでるって言うんだよ」
クレイドは黙った。
「……お前は、頑固だな」
「クレイドに言われたくない」
「俺は最初から飲まないって言ってる」
「でも、苦しんでる」
「それでもだ」
「私は、クレイドに元気でいてほしいだけ!」
足を止める。
「苦しんでるクレイドを見たくないだけ! 家族だから、助けたいだけ!」
「……家族、か」
また、その顔。
「何が言いたいの?」
「別に」
「またそれ!」
クレイドは目を逸らした。
*
家に着くと、アルはいなかった。
クレイドは冷蔵庫から保存血を取り出した。
私は冷蔵庫から林檎を取り出して、剥いて食べることにした。
細い管を差し込み、一口。
二口。
すぐに顔をしかめる。
「……糞まずい」
「また?」
「生ゴミみたいな味だよ」
「うわぁ……」
全部飲み切っても、顔色はほとんど変わらなかった。
「足りない?」
「ああ」
「もう一袋は?」
「飲んでも同じだ」
クレイドは空のパックを握りつぶす。
「俺はヴァンパイアとして生きる。でも、できるなら血なんて好きになりたくねぇ」
「……」
「耐えるしかねぇんだよ」
その視線が、一瞬だけ私の腕へ落ちた。
すぐに逸らされる。
「俺は、ルシアの血を飲んだら駄目だ」
「どうして?」
「止まれなくなるかもしれねぇ」
「でも、クレイドは止まれるよ」
「分からねぇんだよ」
苦しそうに息を吐く。
「今まで、あいつの血以外は、どこの誰の血だか分からない保存血を必要な分だけしか飲んでない」
あいつ。
ゼノ兄さんのことだ。
「でも、お前の血は違う」
「何が?」
「匂いだけで頭がおかしくなる」
「……」
「飲んだら、もっと欲しくなる。少しで止まれる保証がねぇ」
「じゃあ、私が止める」
「お前に止められるわけねぇだろ」
「やってみないと分からないよ」
「ルシア」
「クレイドが苦しんでるのに、何もしないで見てるなんて嫌」
「俺は、苦しんでも生きる」
「でも、苦しいんでしょ?」
「……」
「私の血で楽になるなら――」
「駄目だ」
「どうして?」
「お前は人間だ」
「だから?」
「だからって……!」
「少しくらいなら平気だよ」
「そういう問題じゃねぇ!」
「じゃあどういう問題?」
「俺が嫌なんだよ!」
「私の血、嫌?」
「逆だよ!」
また。
クレイドが顔を背ける。
「お前の血なんか飲んだら、もう普通にお前の隣にいられなくなる気がする」
「……」
「だから嫌だ」
それでも私は諦められなかった。
目の前で家族が苦しんでいる。
何もしない方が、私には辛かった。
「じゃあ、私が自分で決める」
「何を――」
私は台所の引き出しへ手を伸ばした。
クレイドの顔色が変わる。
「ルシア」
「少しだけだから」
「やめろ」
「大丈夫」
「その言葉禁止だ!」
自分で言っておいて、こんなときだけ。
少し笑いそうになった。
でも、クレイドは笑っていなかった。
本気で怯えている。
私が傷つくことを。
「クレイド」
「やめろ」
「私が決めたの」
「俺は決めてねぇ!」
その言葉に、手が止まる。
「……」
「俺は飲まないって決めてる」
「でも」
「俺の意思も聞けよ」
何も言えなくなった。
クレイドは荒い息をしながら、それでも私を見ていた。
「家族なんだろ」
「……うん」
「なら、俺が嫌だって言ってることも分かってくれ」
胸が痛んだ。
それでも。
その直後だった。
林檎を剥いていた手元が滑った。
小さな刃先が腕を掠める。
「痛っ」
ほんの小さな傷。
赤い血が一筋、腕を伝った。
クレイドの瞳が、一瞬で真紅へ変わった。
「……っ」
空気が変わる。
「クレイド?」
返事がない。
血が一滴。
床へ落ちる。
その瞬間、クレイドが口元を押さえた。
「離れろ……」
「でも」
「頼むから……!」
苦しそうだった。
私は咄嗟に腕を押さえた。
けれど、もう遅い。
血の匂いは消えない。
クレイドが一歩下がる。
さらに一歩。
私から離れようとしている。
「クレイド」
「来るな」
「……」
「俺は、お前を傷つけたくない」
その声を聞いて。
私は動けなくなった。
しばらくして、クレイドが壁へ背を預けた。
「……保存血、もう一つ取ってくれ」
「うん」
急いで冷蔵庫を開ける。
けれど、クレイドはそれを受け取ったあとも、私の腕から視線を逸らせなかった。
「クレイド?」
「……駄目だ」
「何が?」
「それじゃ足りねぇ」
声が震えていた。
「ルシア」
「うん」
「少しだけだ」
「……え?」
「俺が止まれなくなったら、離れろ」
私は頷いた。
「分かった」
クレイドは最後まで迷っていた。
それから、私の腕を取る。
傷口から流れた血を舐め、ブツリと牙を立てた。
「――っ!」
牙が皮膚を突き破った瞬間、鋭い痛みが走った。
次の瞬間。
痛みが、熱に変わった。
傷口から広がった熱が、腕を伝い、肩へ、胸へとゆっくり染み込んでいく。
「……あれ?」
身体の力が抜けた。
けれど、苦しくはない。
むしろ、ふわふわする。
頭の中に薄い霧がかかったようで、音も光も遠くなっていく。
クレイドの牙が傷口に触れるたび、不思議な感覚が背中を走った。
「クレイド……」
自分の声が、ひどくぼんやりして聞こえた。
クレイドの身体が大きく震えた。
「……っ」
牙は抜かれなかった。
血を吸われるたび、身体の奥から熱が引き出されていく。
なのに、嫌ではなかった。
ただ、離れられるのが不安だった。
「クレイド……もう少し……」
「――っ!」
クレイドの肩が跳ねた。
「ルシア、何言ってる」
「分かんない……」
自分でも分からない。
ただ、牙が離れるのが嫌だった。
クレイドの手が腕を掴んでいる。
その感触さえ、今は妙に安心する。
「クレイド、行かないで」
「行かねぇよ」
「ほんと?」
「……ああ」
「じゃあ、もっと……」
「駄目だ!」
クレイドが勢いよく顔を上げた。
急に身体が軽くなる。
同時に、妙な名残惜しさが押し寄せた。
「やだ……」
「ルシア?」
「まだ、熱い……」
傷口が疼いている。
頭がぼんやりする。
「クレイド、もう一回……」
「言うな!」
クレイドの声が震えた。
赤い瞳が大きく見開かれている。
「それは牙の作用だ」
「牙の……?」
「人間は噛まれると、唾液の作用で痛みが薄れる。身体が熱くなって、頭がぼんやりして、判断力も落ちる」
「……」
「だから、今のお前は正常じゃねぇ」
「でも……クレイドがいい」
口にしてから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
クレイドの表情が凍る。
「違う……今のは……」
「分かってる」
「だって、家族だから……」
「ルシア」
「クレイドがいないと嫌……」
自分でも止められない。
身体が熱い。
眠い。
誰かにそばにいてほしい。
クレイドの服を掴む。
「ここにいて」
「いる」
「もっと近く」
「駄目だ」
「どうして?」
「今のお前は、牙に酔ってる」
「酔ってない……」
「酔ってる」
クレイドは私の手をそっと外した。
けれど、離れようとはしなかった。
「俺が近くにいたら、また欲しくなる」
「欲しい……」
「ルシア、絶対他ではそんなこと言うなよ?」
「ん……」
私はふらついて、クレイドの腰へ腕を回した。
「……俺、今かなり頑張ってるからな」
「ふわふわする……」
「牙の作用だ」
「くっついていたいのも?」
「それもだ」
視界が滲む。
クレイドの顔が、近くて、遠い。
「クレイドも私を抱きしめて」
「……」
「お願い」
クレイドは苦しそうに目を閉じた。
それから、私の肩へ上着をかける。
「これで我慢しろ」
「やだ……」
「ルシア」
「クレイドがいい……」
「……俺はここにいる」
「ほんと?」
「ああ」
「どこにも行かない?」
「行かねぇよ」
その声を聞くと、少しだけ安心した。
けれど、身体の熱はなかなか引かなかった。
クレイドは私の腕へ布を巻く。
その手つきは、いつもより慎重だった。
「クレイド」
「何」
「元気になった?」
「ああ」
「よかった……」
「よくねぇって」
「なんで?」
「お前がこんな状態になってる」
「眠い……」
「寝るならソファで寝ろ」
「でも、クレイドがいるから平気……」
「それも牙の作用だ」
「違うよ……」
「ルシア」
「家族だから……」
その言葉に、クレイドの表情が揺れた。
「……そうだな」
「うん」
「家族だな」
私はクレイドの袖を掴んだまま、ソファへ横になった。
「クレイド、ここにいて」
「いる」
「ずっと?」
「ああ」
「大好き」
「……」
「家族だから」
いつの間にか、クレイドの膝へ頭を乗せていた。
クレイドは何も言わなかった。
ただ、私が眠りに落ちるまで、ずっと頭を優しく撫でてくれた。
*
しばらくして。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
アルの声。
返事はない。
「ルシア?」
リビングへ入ったアルの足が止まる。
空になった保存血パック。
床に残った、小さな赤い跡。
ソファで眠っているルシア。
その隣に座るクレイド。
そして。
ルシアの腕に巻かれた布。
アルの表情が、一瞬で変わった。
「……クレイド」
クレイドが顔を上げる。
「アル」
「何があった」
「俺が傷つけたんじゃねぇ」
「説明しろ」
低い声だった。
クレイドは今日のことを、最初から話した。
旧校舎。
血への飢え。
ルシアが血を差し出そうとしたこと。
家へ戻ったこと。
限界がきて、保存血を飲んだこと。
そして。
ルシアの腕から血が出たこと。
「……飲んだのか」
「少しだけ」
アルの瞳が鋭くなる。
「どれだけだ」
「本当に少しだ」
「ルシアは?」
「少しふらついて、酔っ払ったみたいになって、そのまま寝た」
アルはすぐにルシアのそばへ膝をついた。
呼吸。
脈。
顔色。
腕の傷。
一つずつ確認する。
「深くはない」
小さく息を吐いた。
それから、クレイドを見る。
「お前は?」
「……」
「どうした」
「それが、おかしいんだよ」
「何がだ」
クレイドは自分の手を見る。
「身体が軽い」
「……」
「今までで一番、満たされてる」
アルの表情が僅かに変わった。
「続けろ」
「腹が減ってない。身体も楽だ。頭も冴えてる」
「……」
「ゼノンの血を飲んだときより、ずっと満たされた感じがする」
沈黙。
アルは眠っているルシアを見る。
白金色の髪。
人間と変わらない鼓動。
ヴァンパイアの気配など、一切ない。
十年前。
すべてを封じた。
血の気配も。
力も。
記憶も。
ヴァルディエの姫として生きた六年間さえ。
完全に。
血まで含めて。
今のルシアは、誰が見ても。
誰が匂いを嗅いでも。
たとえその血を口にしたとしても。
人間でしかない。
だから。
クレイドがこれほど満たされた理由は、ルシアの血そのものに特別な力があるからではない。
別の理由だ。
アルベルトには心当たりがあった。
ヴァンパイアは、愛する相手の血を特別に欲する。
その血は、ただ飢えを満たすだけではない。
身体ではなく。
心の渇きまで満たす。
本人がその感情を自覚していなくても。
血は、時として本人より正直だった。
「アル?」
クレイドが呼ぶ。
「お前、何か知ってるだろ」
「何のことだ」
「ルシアの血だよ」
クレイドの声が低くなる。
「普通の人間の血でも、こんなに満たされるもんなのか?」
「場合による」
「場合?」
「ああ」
アルベルトはクレイドを見る。
「ヴァンパイアにとって、誰の血を飲むかは重要だ」
「どういう意味だよ」
「血の味も、満たされ方も、相手によって変わる」
「……」
「特に、自分にとって大切な相手ならな」
クレイドの眉が寄った。
「大切?」
「お前はルシアをどう思っている?」
「は?」
「答えろ」
「家族だよ」
即答だった。
アルベルトは小さく息を吐く。
「そうか」
「何だよ、その顔」
「いや」
「言いたいことあるなら言えよ」
「今はいい」
「気になるだろ」
「なら自分で考えろ」
「何をだよ」
アルベルトは答えなかった。
眠っているルシアへ視線を戻す。
クレイドはまだ気づいていない。
自分がなぜ、ルシアの血にこれほど満たされたのか。
それなら。
今すぐ答えを教える必要はない。
本人が自分で気づけばいい。
「アル」
クレイドがもう一度呼ぶ。
「ルシアは、本当に普通の人間なんだよな?」
アルベルトの視線が僅かに止まった。
「今のお前には、そう見えるだろう」
「何だよ、その言い方」
「それ以上は聞くな」
「……やっぱり何かあるのか?」
「クレイド」
声が変わる。
学園長ではない。
父親でもない。
長い年月を生きてきた、一人のヴァンパイアの声。
「今日のことは誰にも話すな」
「何でだよ」
「話すな」
「理由を言え」
「言えない」
クレイドの眉が寄る。
「ゼノンにも?」
アルベルトは一瞬だけ黙った。
「……私から話す」
「やっぱり何かあるんじゃねぇか」
「クレイド」
「何だよ」
「ルシアを守りたいなら、聞くな」
その言葉で。
クレイドは黙った。
眠っているルシアを見る。
何も知らず。
何も疑わず。
自分を家族だと信じている少女。
「……分かった」
やがて、クレイドが言った。
「聞かねぇ」
「そうしてくれ」
「でも」
アルを見る。
「もう一つだけ」
「何だ」
「俺は、またあいつの血を欲しくなる」
アルの表情が硬くなる。
「……そうか」
「もう欲しい」
クレイドは拳を握った。
「さっきまで死ぬほど飢えてたのに、今は腹なんか減ってねぇ」
「……」
「それなのに」
唇を噛む。
「もう一度飲みたい」
その声には、喜びなどなかった。
恐怖だけがあった。
「俺、どうしたらいい」
アルはしばらく黙っていた。
それから、クレイドの肩へ手を置く。
「欲しいと思うことと、奪うことは違う」
「……」
「血を欲しがることまで、自分の罪にするな」
クレイドが顔を上げる。
「欲しくても、奪わないことはできる」
「……できると思うか?」
「今日、お前はできた」
「でも最後は飲んだ」
「ルシアの血が流れるまで、お前は一度も襲わなかった」
「……」
「それがお前だ」
クレイドは何も言えなくなった。
アルは眠るルシアを見る。
「ただし」
声が低くなる。
「二度と二人だけで同じことはするな」
「……分かった」
「ルシアが差し出してもだ」
「……それは自信ねぇや」
「自分では止められないと思ったら、私を呼べ」
「……ああ」
アルは立ち上がった。
「ルシアは私が運ぶ」
「俺が――」
言いかけて、クレイドは止まった。
「……頼む」
アルがルシアを抱き上げる。
その瞬間。
眠っているルシアの指が、クレイドの袖を掴んだ。
「……クレイド」
寝言だった。
クレイドの表情が揺れる。
「ここにいて……」
「……」
アルは何も言わなかった。
クレイドがそっと、その手を外す。
「いるよ」
聞こえないほど小さな声。
「どこにも行かねぇから」
アルはその言葉を聞いていた。
けれど、何も言わずにルシアを寝室へ運んでいった。
*
一人残されたクレイドは、台所へ戻った。
床。
そこに、小さな赤い跡が残っている。
ルシアの血。
身体はもう満たされている。
飢えていない。
苦しくない。
保存血を見ても、何も感じない。
なのに。
あの一滴だけは。
目を逸らすことができなかった。
「……最悪だ」
顔を背ける。
欲しい。
もう一度。
あの血が欲しい。
けれど、それ以上に怖かった。
ルシアを血として見るようになることが。
妹のように育った少女を。
自分を家族だと笑う少女を。
飢えを満たすものとして見るようになることが。
クレイドは拳を握った。
ルシアの血を飲んだ瞬間。
今まで感じたことがないほど満たされた。
身体だけではない。
胸の奥にずっとあった空洞まで、埋められたような気がした。
けれど。
その理由を。
クレイドはまだ知らない。
自分が欲しかったのは。
ルシアの血だけではないということを。
そしてアルベルトだけが。
その答えに気づき始めていた。




