黒い制服の中で
「それじゃ、まず夜間部の校舎を案内するね」
ラビ先輩がくるりと振り返った。
「食堂、図書室、談話室。それから学園長代理が使う連絡室。学園長が不在のときに何か問題が起きたら、基本的にはそこに報告が来るから」
「はい」
「でも、危険そうだったら自分でどうにかしようとしないで、すぐ俺たちか先生を呼んでね」
「分かりました」
「本当に?」
「……分かりました」
「今ちょっと間があったよね?」
「気のせいです」
「ゼノンさんが心配する理由、分かったかも」
「なんで!?」
少し離れたところで、ゼノ兄さんが笑っている。
「ゼノ兄さんも笑わないでよ」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「可愛いなと思って」
「何が?」
「ルシアが」
「……もう!」
なんでこの人は、こういうことを平気で言うんだろう。
「じゃあ僕も一緒に行こうか」
ゼノ兄さんが言った。
「え?」
「案内」
「ゼノンさん」
ラビ先輩が困ったように笑う。
「これ、俺の仕事なんだけど」
「知ってる」
「じゃあ任せてくれても」
「僕も行く」
「……はい」
弱い。
ラビ先輩、ゼノ兄さんに弱すぎる。
三人で歩き始める。
その少し後ろでは、誰にも気づかれない距離を保ちながら、エリーゼが静かに歩いていた。
白銀の髪が揺れるたび、その姿は廊下の柱や窓の影に紛れていく。
少なくとも、ルシアは彼女の存在にまったく気づいていなかった。
エリーゼは一定の距離を保ち、周囲の気配を探りながら、ルシアの背後を守っていた。
学園長代理という立場になったことで、ルシアはこれからアルベルトの代わりに夜間部へ足を運ぶ機会が増える。
けれど彼女は人間として育った十六歳の少女だ。
夜間部のヴァンパイアたちと争いになれば、あまりにも脆い。
だからこそ、アルベルトはエリーゼに頼んでいた。
ルシアには気づかれないように。
けれど、決して一人にはしないように。
そして、エリーゼだけは知っていた。
ルシアが本当は人間ではないことを。
彼女が、失われた純血の王家――ヴァルディエ家に連なる姫であることを。
アルベルトから直接知らされた、決して口外してはならない秘密。
ルシア本人でさえ、その事実を知らない。
だからエリーゼの役目は、ただルシアを危険から守ることだけではなかった。
彼女が何者なのか。
その真実へ誰も辿り着かないようにすること。
それもまた、大切な役目だった。
「おい、ゼノン」
後ろから声がした。
振り返ると、ピンク色の髪をした長身の男が、何枚もの書類を片手に歩いてくる。
ラビ先輩より少し落ち着いた色合いの髪だった。
エリーゼは足を止めず、廊下の角へ身を滑り込ませた。
「セドリック」
ゼノ兄さんが答える。
「お前、何してんだ?」
「ルシアの案内」
「……は?」
セドリック先輩が私を見る。
次にラビ先輩。
そしてまたゼノ兄さんを見た。
「それ、ラビの仕事だろ」
「そうだよ」
「じゃあなんでお前までいるんだよ」
「僕がいたいから」
「……聞いた俺が馬鹿だったよ」
セドリック先輩が額を押さえる。
「また仕事放り出してないだろうな」
「少しくらい平気だよ」
「平気じゃねぇよ!」
書類を突きつける。
「夜間部の申請書! お前の確認待ち!」
「後で見る」
「昨日も聞いたぞ、それ!」
「じゃあ今日見るよ」
「本当だな?」
「たぶん」
「おい!」
思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
セドリック先輩が私を見る。
「ルシアちゃん、笑ってる場合じゃないぞ。こいつ、お前絡むと本当に仕事しなくなるから」
「私のせい!?」
「違うよ」
ゼノ兄さんが即答する。
「僕が勝手にやってる」
「それはそれで駄目だろ」
「ゼノ兄さん、お仕事してください」
「ルシアがそう言うなら」
「俺が言ってもやらねぇのに!?」
「セドリックとルシアは違うから」
「知ってるよ!」
なんだか、この人は大変そうだ。
その間も、エリーゼは少し離れた場所から周囲を見張っていた。
廊下の先。
階段の踊り場。
窓の外。
ルシアへ向けられる視線を一つずつ確認していく。
敵意。
好奇心。
警戒。
その中に、明らかな悪意が混じっていないか。
それを見極めるのがエリーゼの役目だった。
「セドリック先輩って、ゼノ兄さんと仲いいんですね」
「どこ見てそう思った?」
「普通に話してるから」
「あー……まあ、付き合いは長いな」
セドリック先輩が肩を竦める。
「夜間部の副代表みたいなもんだから、こいつが放り投げた仕事は大体俺に来る」
「大変……」
「分かってくれる?」
「はい」
「いい子だなぁ」
セドリック先輩が私の頭へ手を伸ばそうとして、ぴたりと止まった。
「……」
ゼノ兄さんを見る。
「何?」
「いや」
手を引っ込める。
「命は大事だなって思って」
「?」
「気にすんな」
意味が分からない。
その様子を、エリーゼは柱の陰から見ていた。
セドリックがルシアへ触れようとした瞬間、ゼノンの気配が僅かに変わった。
けれどセドリックに敵意はない。
エリーゼは何もしなかった。
護衛とは、危険が起きてから動くことではない。
危険になるものと、ならないものを見極めることも必要なのだ。
*
「ルシアちゃん!」
今度は反対側から声がした。
「クロード先輩」
茶色の髪に明るいメッシュを入れたクロード先輩が、笑顔でこちらへ歩いてくる。
エリーゼは反対側の廊下へ移動した。
クロード先輩が私へ近づくのに合わせ、彼女も少しだけ距離を詰める。
「本当に夜間部来たんだ」
「学園長代理になったので」
「白い制服でここ歩いてると余計目立つね」
「やっぱり?」
「うん。でも可愛いからいいんじゃない?」
「ありがとうございます」
「相変わらず素直だねえ」
クロード先輩が笑う。
「ねえ、ルシアちゃん」
「はい?」
「ゼノンさんやめて、俺にしない?」
「何をですか?」
「男」
「クロード」
ゼノ兄さんの声が低くなる。
エリーゼの足も止まった。
「冗談ですよ、ゼノンさん」
「冗談でもやめて」
「怖いなぁ」
全然怖がっていない顔で笑っている。
セドリック先輩がため息をついた。
「お前も懲りねぇな」
「だって可愛い子いたら声かけるでしょ」
「お前は声かけすぎなんだよ」
「人生楽しまないと」
「昨日も違う女連れてただろ」
「昨日は昨日。今日は今日」
「最低」
思わず言ってしまった。
「えっ」
クロード先輩が固まる。
「ルシアちゃんまで!?」
「だって……」
「俺、結構傷ついたよ?」
「嘘だ」
「セドリックひどくない?」
「日頃の行いだろ」
そのやり取りを見ていたら、夜間部も思っていたより普通なのかもしれないと思った。
怖いヴァンパイアばかりじゃない。
ミアがここにいたら大喜びだろうな。
絶対に、「クロード先輩今日も格好いい!」って騒ぐ。
そう考えていると、少し離れた窓際にいる人と目が合った。
灰色の髪。
黒い制服。
騒がしい私たちを、静かに見ている。
綺麗な人だった。
他のヴァンパイアとは少し違う。
立っているだけなのに、周囲が一歩引いている。
「あの人……」
ラビ先輩が私の視線に気づいた。
「ああ」
声を少し落とす。
「ルイス・ベルフォート」
「ベルフォート……」
聞いたことがある。
ヴァンパイア社会を現在まとめている一族。
王家が失われたあと、実質的にヴァンパイア社会の統治を担っている名門だ。
「純血だよ」
ラビ先輩が言った。
「純血……」
ゼノ兄さんと同じ。
そう思った瞬間、ルイス先輩がこちらへ歩いてきた。
周囲のヴァンパイアたちが自然に道を空ける。
ゼノ兄さんのときと似ている。
エリーゼはルシアの背後へ回った。
ルイス先輩の視線が一瞬だけ廊下の奥へ向く。
エリーゼは柱の影へ身を隠した。
気づかれた?
そう思ったが、ルイス先輩は何も言わなかった。
「ゼノンさん」
「ルイス」
二人が向かい合う。
なんだろう。
空気が少し違う。
「珍しいですね」
ルイス先輩が穏やかに笑う。
「あなたが校内案内を?」
「ルシアだからね」
「なるほど」
ルイス先輩はそう答えたものの、納得したわけではなかった。
なぜ、ゼノンが一人の人間にここまで執着するのか。
その理由が、どうしても理解できない。
ルシアはただの人間に見える。
特別な血の気配もない。
純血特有の力を持っているわけでも、ヴァンパイア社会に関わる家柄でもない。
アルベルトに引き取られた、普通の少女。
少なくとも、ルイスが知る限りではそうだった。
それなのに、ゼノンは彼女のためなら仕事を放り出し、彼女のそばにいるためなら理由をいくらでも作る。
今も、「ルシアだから」と言うだけで、すべてを説明したつもりでいる。
ルイスには、その言葉の意味が分からなかった。
人間は百年も生きられない。
ヴァンパイアにとっては、あまりにも短い時間だ。
生まれ、成長し、老い、死ぬ。
どれほど大切に思った相手でも、ほんの数十年で失われてしまう。
それが人間という生き物だった。
ルイスは、これまで何人もの人間を見送ってきた。
昨日まで笑っていた者が、数十年後には土の下にいる。
愛し合っていた者たちも、家族も、友人も。
人間はあまりにも早く死ぬ。
だからこそ、ルイスにはゼノンの態度がもどかしかった。
なぜ、何もしない。
なぜ、ただ隣にいるだけなのか。
ゼノンなら、できるはずだった。
ルシアの首筋へ牙を立て、血を吸い、自分の血を彼女の体内へ流し込む。
そうすれば、彼女は人間ではなくなる。
ゼノンと同じ、永遠に近い時間を生きる存在になれる。
そうすれば、失うこともない。
老いることも、病に倒れることも、人間として短い生を終えることもない。
早く自分のものにしてしまえばいい。
血を吸って。
自分の血を与えて。
同じ存在にしてしまえばいい。
それなのに、ゼノンは彼女のそばにいるだけだった。
まるで、ルシアの意思を何よりも尊重しているように。
それが、ルイスには理解できなかった。
ルイス先輩の灰色の瞳が私へ向いた。
「初めまして、ルシアさん」
「初めまして」
「ルイス・ベルフォートです」
「知ってます」
「ああ。家名を?」
「有名なので」
「それは光栄です」
丁寧な人だ。
「学園長代理を任されたそうですね」
「はい。アル……学園長が仕事で学園に来られないときだけですけど」
「それでも、夜間部において学園長の代理を務めるのは簡単なことではありません」
「……頑張ります」
「ええ」
ルイス先輩が微笑む。
「期待しています」
その言葉に、胸の奥が少し重くなった。
期待。
その言葉は嬉しいはずなのに、今の私には少し怖かった。
私はまだ、何もできない。
もし何か問題が起きたら、ちゃんと判断できるのだろうか。
学園長の代わりに話を聞いて、必要なら先生や夜間部の代表へ繋いで。
人間とヴァンパイアの間で揉め事が起きれば、その場に立たなければならない。
私に、本当にできるのかな。
「ルシア?」
ゼノ兄さんの声で我に返る。
「え?」
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「本当に?」
「うん」
笑ってみせる。
けれど、ゼノ兄さんは納得していないようだった。
その瞬間、ゼノ兄さんが一歩前へ出た。
ほんの少しだけ、私とルイス先輩の間へ。
「ゼノ兄さん?」
「何?」
「……なんでもない」
気のせいかな。
ルイス先輩は気づいたらしい。
僅かに目を細めた。
「相変わらずですね」
「何が?」
「いえ」
ルイス先輩は答えながら、ゼノ兄さんの横顔を見た。
やはり分からない。
なぜ、そこまで彼女を守ろうとするのか。
なぜ、ただの人間に向けるにはあまりにも深い感情を抱いているのか。
そして、なぜ彼女を永遠にすることを選ばないのか。
ルイスには、ゼノンがあまりにも臆病に見えた。
彼女を失うのが怖いくせに、彼女を自分と同じ存在にすることもできず、ただ短い時間を大切そうに抱えている。
それでは、いつか必ず後悔する。
人間は百年も生きられない。
その事実を、ゼノンが知らないはずはないのに。
「純血同士って仲悪いんですか?」
思わずラビ先輩へ小声で聞く。
「ぶっ」
「何?」
「ルシアちゃん、声もう少し小さくしよっか」
「あ」
聞こえていたらしい。
ゼノ兄さんがこっちを見ている。
「別に仲は悪くないよ」
「本当?」
「うん」
ルイス先輩も微笑んだ。
「少なくとも私は、そのつもりですよ」
「ほら」
ゼノ兄さんが言う。
「……なんでルイスだけ?」
セドリック先輩が小声で呟いた。
聞かなかったことにした。
*
案内を続けている途中だった。
突然、階下から大きな音が響いた。
「!」
続いて悲鳴が聞こえる。
「何!?」
ラビ先輩の表情が変わった。
さっきまでの柔らかな雰囲気が消える。
「ルシアちゃん、ここにいて」
「でも――」
言い終わる前に、ラビ先輩の姿が消えた。
「え!?」
本当に、一瞬で消えた。
「ラビ先輩!?」
返事はない。
「消えた……」
知識としては聞いていた。
ラビ先輩の異能、透明化。
でも、実際に見るのは初めてだった。
「僕たちも行こう」
ゼノ兄さんが歩き出す。
「うん」
「おい」
セドリック先輩が止める。
「ルシアちゃん連れてくのか?」
「置いていく方が危ない」
「……まあ、それはそうか」
「私、一人でも待てるよ?」
三人から同時に見られた。
「何その顔!」
「行こう」
「無視しないで!」
私が階段へ向かう。
その直後、エリーゼも音を立てずに動いた。
ゼノ兄さんたちが前方へ進むなら、エリーゼは後方を守る。
階段の上。
廊下の角。
人垣の中。
私へ近づく者がいないか、視線を走らせる。
一階の談話室前には、黒い制服の生徒たちが集まっていた。
「どいて」
ゼノ兄さんの一言だけで、人垣が割れる。
エリーゼは人垣の外側に残った。
奥にいたのは、一人の男子生徒だった。
様子がおかしい。
瞳が真っ赤で、呼吸が荒い。
その前には別の男子生徒が倒れており、腕から血が流れている。
「血に酔ってるな」
セドリック先輩が呟いた。
「血に酔う?」
「若いヴァンパイアにはたまにある。強い血の匂いを嗅いで、理性が飛ぶ奴」
昨日のクレイドを思い出し、胸がざわついた。
「近づかないで」
ゼノ兄さんが私の前へ出る。
「うん」
暴れているヴァンパイアが唸った。
次の瞬間、こちらへ飛びかかってくる。
「――っ!」
乾いた銃声が響いた。
ヴァンパイアの足元の床が弾ける。
「動かないでねー」
声は聞こえるのに、姿がない。
「ラビ先輩?」
二発目の銃声が響いた。
今度は暴れているヴァンパイアのすぐ横に弾丸が撃ち込まれる。
「次は当てるよ」
いつもの明るい声なのに、怖かった。
「どこ……?」
目で探しても、姿は見えない。
「ラビ」
セドリック先輩が呼ぶ。
「右へ追い込め」
「了解」
銃声が響くたび、暴れているヴァンパイアの逃げ道が一つずつ塞がれていく。
「すご……」
思わず声が漏れた。
姿が見えない。
どこから撃っているのかも分からない。
それでも、弾丸だけが正確に相手の動きを奪っていく。
「ラビ先輩、銃使えるの……?」
セドリック先輩がこちらを見る。
「そこから?」
「知らなかった!」
「何だと思ってたんだ?」
「可愛い人」
どこかから声がした。
「それ褒められてる!?」
「ラビ、集中しろ」
「はいはい!」
その瞬間、暴れていたヴァンパイアが方向を変えた。
私へ向かってくる。
「ルシア!」
ゼノ兄さんの声が響いた。
速い。
考える暇もなかった。
相手の手がこちらへ伸びる。
エリーゼの身体が反射的に動いた。
けれど、ゼノ兄さんの方が早かった。
「――止まりなさい!」
思わず叫ぶ。
……何も起こらない。
当然だ。
今の私は、何の力も持たないただの人間なのだから。
腕を掴まれる直前、空気が爆ぜた。
ヴァンパイアの身体が横へ吹き飛び、壁へ叩きつけられる。
エリーゼは足を止めた。
ゼノ兄さんが間に合った。
「……え」
ゼノ兄さんは、相手に触れてすらいなかった。
「ゼノ兄さん……?」
空気が変わっている。
初めて見る顔だった。
冷たい。
怖いくらいに。
ゼノンは、ルシアの視線を感じた瞬間、胸の奥が冷えるのを覚えた。
見られたくなかった。
この力を。
純血の血に宿る圧倒的な力を。
相手を触れもせず吹き飛ばし、命令一つで逆らうことさえ許さない。
人間として生きるルシアには、そんな自分をできるだけ見せたくなかった。
ただの優しい兄として見ていてほしかった。
けれど、ルシアへ手が伸びた瞬間。
そんな願いはすべて消えた。
「僕の前で」
静かな声が落ちる。
「ルシアに触ろうとした?」
床へ倒れたヴァンパイアが震えた。
「ゼ、ゼノンさん……」
「伏せろ」
たった一言だった。
それだけで、ヴァンパイアの身体が床へ沈む。
「……!」
手をついて起き上がろうとしている。
それなのに、身体が動かない。
「何……これ」
隣に立つルイス先輩だけが静かに見ていた。
「純血の命令です」
「命令?」
「純血が下位のヴァンパイアへ命じた場合、逆らうことは非常に困難です」
初めて知った。
こんな力を、ゼノ兄さんが持っていたなんて。
ルイス先輩はゼノ兄さんの力を見つめながら、隣に立つ私を見た。
私は驚いている。
けれど、怖くはなかった。
確かに、知らないゼノ兄さんを見た気はする。
でも。
私を守ってくれた。
その事実の方が、ずっと大きかった。
「ゼノン」
セドリック先輩が声をかける。
「もういい。そいつ完全に動けねぇよ」
ゼノ兄さんはすぐに力を解いた。
「ルシア」
すぐにこちらへ来る。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
「腕見せて」
「掴まれてないって」
「見せて」
「はい……」
腕を差し出す。
手首。
指。
肘。
全部確認される。
「大丈夫だよ」
「……そう」
ようやく息を吐いた。
ルイス先輩は、その様子を黙って見ていた。
ゼノンは、ルシアの手首を確認している。
傷がないか。
赤くなっていないか。
まるで壊れ物に触れるように。
ルイスにはやはり理解できない。
そこまで失うことを恐れているのなら。
どうして彼女を自分と同じ存在にしないのか。
人間の命は短い。
時間は待ってくれないのに。
「いやー、びっくりした」
声と同時に、何もなかった場所からラビ先輩が現れた。
「うわっ!」
「そんな驚く!?」
右手には銃が握られている。
「本当に銃使うんですね」
「だから何だと思ってたの!?」
「可愛い人」
「二回言わなくていいから!」
「でもすごかったです」
「……」
ラビ先輩が少し固まる。
「本当に?」
「はい!」
「そ、そっか」
嬉しそうだった。
「透明になって撃つなんてずるいですね」
「ずるいって言わないで! 戦術!」
「褒めてます」
「絶対褒めてないよね?」
セドリック先輩が倒れた生徒を確認する。
「こっちは保健室だな」
「俺、連れてくよ」
ラビ先輩が銃をしまう。
「ルイス、暴れた方頼めるか?」
「構いません」
「クロードは?」
「逃げた」
「は?」
セドリック先輩が周囲を見る。
本当にいない。
「……あいつ」
低い声。
「また面倒事から逃げやがった」
「俺、呼んでくる?」
「頼む」
「了解」
ラビ先輩がまた消える。
「便利……」
「聞こえてるよ!」
どこかから声がして、私は笑ってしまった。
エリーゼはその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
ルシアは無事。
それだけでいい。
たとえ今のルシアが怪我をしたとしても、その血から正体が露見することはない。
封印は完全だ。
血も。
匂いも。
身体も。
今のルシアは、誰が調べても人間にしか見えない。
純血の気配など、欠片もない。
けれど。
だからといって安全なわけではない。
純血だと気づかれなくても、彼女の血は今、人間の血としてヴァンパイアを刺激する。
もし先ほどの騒ぎの中でルシアが怪我をしていたら。
血に酔ったヴァンパイアが、その匂いへ反応していたら。
正体を知られるより先に、ルシア自身が傷つけられていたかもしれない。
エリーゼは私の手首を見つめた。
傷はない。
血の匂いもない。
それを確認して、ようやく肩の力を抜いた。
*
騒ぎが収まったあと、私は学園長代理が使う連絡室にいた。
「初日からこれかあ……」
机に突っ伏す。
「疲れた?」
ゼノ兄さんが声をかける。
「ちょっと」
目の前に飲み物が置かれた。
「ありがとう」
「甘いのにしたよ」
「なんで分かったの?」
「知ってるから」
当然みたいに言う。
一口飲む。
甘い。
おいしい。
連絡室の外では、エリーゼが壁際に立っていた。
扉の向こうから、私の声が聞こえている。
彼女は中へ入らない。
護衛は、姿を見せることではない。
ルシアが安心して過ごせるように、気づかれない場所にいる。
それがエリーゼの役目だった。
「……ゼノ兄さん」
「何?」
「さっきの」
「うん」
「命令って何?」
ゼノ兄さんが向かいに座る。
「純血が持つ力の一つだよ」
「純血ってそんなに強いの?」
「普通のヴァンパイアよりはね」
「ルイス先輩もできる?」
「できるよ」
「へえ……」
「興味ある?」
「だって知らなかったから」
私はゼノ兄さんをじっと見る。
「ゼノ兄さんって、私が知らないこといっぱいあるよね」
「そうだね」
「何年も一緒にいるのに」
「……」
「何?」
「いや」
ゼノ兄さんが微笑む。
「そのうち全部教えてあげる」
「今教えてよ」
「まだ早い」
「また子供扱い!」
「違うよ」
「じゃあ何?」
少しだけ、ゼノ兄さんの目が寂しそうに見えた。
「君には、まだ知らなくていいことがあるだけ」
また。
同じ言葉。
アルも。
ゼノ兄さんも。
みんな私に何かを隠している。
「……ずるい」
「ごめんね」
頭を撫でられる。
「子供扱いしないで」
「これは僕がしたいから」
「もう……」
ゼノンは笑いながらも、先ほどの光景を思い返していた。
ルシアは、自分の力を見ていた。
触れずに相手を吹き飛ばしたことも。
命令一つで相手を伏せさせたことも。
それでも、彼女は逃げなかった。
怖がっている様子もなかった。
けれど、それが本心なのかは分からない。
聞くこともできなかった。
「……ゼノ兄さん?」
「何でもないよ」
「また?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
ゼノンは微笑んだ。
力を使ったところを見られたくなかった。
けれど、見られてしまった今も、ルシアに嫌われることの方が何より怖かった。
それに。
ルシアが学園長代理になったことで、これからは堂々と彼女のそばにいられる。
アルベルトが仕事で学園へ来られない日。
ルシアは代理として、昼間部だけでなく夜間部にも顔を出すことになる。
夜間部の事情に不慣れな学園長代理を手伝う。
危険がないよう付き添う。
必要なら夜間部の生徒との間に入る。
理由はいくらでも作れる。
「ゼノ兄さん、何か嬉しそう」
「そう?」
「うん。さっきより機嫌いい」
「ルシアに会えるからかな」
「え?」
「学園長代理の仕事で、これから夜間部へ来ることも増えるでしょう?」
「……それで?」
「僕も手伝える」
「それ、仕事が理由なの?」
「もちろん」
ゼノ兄さんは穏やかに笑った。
けれど、その笑顔の奥には隠しきれない喜びがあった。
「じゃあ、アルが学園に来られない日は毎回来るの?」
「必要なら」
「必要じゃなくても来そう」
「……どうかな」
「絶対来る」
「ルシアが嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ」
その答えに、ゼノ兄さんの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「よかった」
「そんなに?」
「うん」
「ゼノ兄さんって、私のこと好きすぎない?」
冗談のつもりだった。
けれど、ゼノ兄さんは一瞬だけ黙った。
「……そうかもしれないね」
「え?」
「何でもないよ」
「また?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
ゼノ兄さんは微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥には別の思いもあった。
ルイスがルシアを見ていたときの目。
人間を見る目だった。
当然だ。
ルイスは何も知らない。
今のルシアは、誰から見ても人間なのだから。
けれど。
ゼノンだけは知っている。
ルシアは、人間ではない。
本当は自分と同じ。
純血のヴァンパイアだ。
封印を解いてしまえばいい。
そう考えたことが、一度もないわけではなかった。
封印を解き、本来の血を目覚めさせれば。
ルシアはもう、人間のように脆くはない。
病に怯える必要もない。
人間と同じ速さで老いることもない。
いつか自分より先に消えてしまう未来を、恐れる必要もなくなる。
それでも。
ゼノンは、その選択をしなかった。
ルシアは今、笑っている。
太陽の下を歩き。
人間の友人を作り。
学校へ通い。
十六歳の少女として、当たり前の日々を生きている。
その時間を、自分の都合で終わらせたくなかった。
本当の自分を知る日は、いつか来る。
その日まで。
できるだけ長く。
何も知らずに笑っていてほしい。
それが。
六歳のあの日、自分がルシアからすべてを奪うことを選んだゼノンにできる、唯一の償いだった。
そのとき、扉が開いた。
黒い制服の女の子が立っている。
「あ……」
私を見る。
「何?」
「いえ」
女の子は視線を逸らした。
でも。
聞こえた。
「……人間のくせに」
小さな声。
胸がちくっとした。
ゼノ兄さんを見る。
書類へ目を落としている。
聞こえていないのかな。
けれど。
扉の外にいたエリーゼには、はっきり聞こえていた。
彼女の瞳が冷たく細められる。
一歩、踏み出しかける。
しかし。
私が何も言わずに笑った。
「ルシア?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
笑う。
こんなの、気にするほどのことじゃない。
私は人間で、ここはヴァンパイアの校舎。
珍しいから。
きっと、それだけ。
エリーゼは拳を握った。
ルシアが気にしないのなら、今は動かない。
けれど、もし言葉だけでは済まなくなったら。
そのときは、自分が必ず止める。
*
その日の夜。
夜間部の教室。
私が帰ったあと、ゼノ兄さんは自分の席に座っていた。
静かだった。
静かすぎた。
セドリック先輩は嫌な予感がしていた。
「……ゼノン」
「何?」
「お前、何怒ってんの?」
「怒ってないよ」
「嘘つけ」
笑っている。
それが一番怖い。
「さっき」
ゼノ兄さんが口を開いた。
教室の空気が変わった。
「ルシアに何か言った人がいるね」
何人かの女子生徒の肩が揺れた。
セドリック先輩が額を押さえる。
「……やっぱ聞こえてたのかよ」
ゼノンの耳に、あの程度の声が聞こえないはずがない。
「僕が誰を大切にしているかは、君たちが口を出すことじゃない」
誰も喋らない。
「ルシアは学園長代理だ。アルベルトが不在の間、夜間部へ来る権限もある」
穏やかな声。
だからこそ怖い。
「人間だから?」
ゼノ兄さんが笑う。
「それが何?」
しん、と静まり返る。
「次に彼女を傷つける者がいたら――」
赤い瞳が細められた。
「僕が相手をする」
空気が重くなる。
何人かが俯いた。
セドリック先輩がため息をついた。
「……お前ら、素直に謝っとけ」
ゼノ兄さんを見る。
「こいつ今、かなり怒ってるから」
「怒ってないよ」
「それで怒ってないなら普段のお前何なんだよ」
返事はない。
「勘弁してくれよ……」
セドリック先輩が頭を抱える。
そのとき、窓際から声がした。
「相変わらずですね」
ルイス先輩だった。
ゼノ兄さんが見る。
「何が?」
「あなたが、あの方に向ける執着ですよ」
「……」
教室の空気がさらに静かになる。
「あの方?」
誰かが小さく呟いた。
ルイス先輩はそれ以上何も言わない。
ただ灰色の瞳でゼノ兄さんを見る。
ゼノ兄さんもまた、笑みを消していた。
「ルイス」
「はい」
「余計なことは言わないで」
「もちろん」
ルイス先輩は微笑む。
「私自身、理由を知りませんから」
ゼノ兄さんの赤い瞳が細くなる。
「なら、彼女を探らないで」
「探っているつもりはありません」
「そうして」
「ですが」
ルイス先輩の表情から笑みが消えた。
「あなたがそこまで警戒する理由は、私には分かりません」
「分からなくていい」
「そうでしょうね」
ルイス先輩は窓の外へ視線を向けた。
「ですが、彼女が学園長代理として夜間部に関わる以上、私にも確認する責任があります」
「ルシアは危険じゃない」
「彼女が、ではありません」
ルイス先輩はゼノ兄さんを見る。
「彼女の周囲に何があるのか。それを確認する責任です」
ゼノ兄さんの瞳が細くなる。
「ルイス」
「安心してください。私は彼女を、アルベルト学園長の養女である普通の人間だと思っています」
その言葉に、ゼノ兄さんは何も答えなかった。
「ただ」
ルイス先輩は続ける。
「あなたが一人の人間に向ける執着が、あまりにも不自然なだけです」
教室の空気が張り詰める。
「なぜ、そこまで彼女を守るのですか?」
ゼノ兄さんは答えなかった。
答えられるはずがない。
ルシアが何者なのか。
なぜ自分が彼女を守るのか。
その真実を、ここで話すつもりはなかった。
「……ルシアだからだよ」
やがて、ゼノ兄さんはそう答えた。
ルイス先輩は目を細める。
「それでは、理由になっていません」
「僕にとっては理由になる」
「あなたにとっては、ですか」
「ああ」
ゼノ兄さんは窓の外を見る。
遠く、昼間部の寮へ続く道。
そこにはもう、私の姿はない。
それでも。
赤い瞳はしばらく、その方向を見つめ続けていた。
ルイス先輩は、そんなゼノ兄さんの横顔を見ながら胸の内で思った。
早く、彼女を自分のものにしてしまえばいいのに。
血を吸い。
自分の血を与え。
ヴァンパイアへ変えてしまえばいい。
そうすれば、彼女は老いない。
ゼノンのそばにいられる。
人間として生まれた短い時間に、彼女を縛りつけておく必要もなくなる。
もちろんルイスは知らない。
その少女が最初からヴァンパイアであることを。
自分と同じ純血であることを。
そして。
ゼノンが彼女を変えないのではなく。
彼女を本来の姿へ戻さないよう、必死にその時間を守っていることを。
*
同じ頃。
「ただいま」
家へ帰る。
「おかえり」
リビングからクレイドの声がした。
「アルは?」
「風呂」
「そっか」
鞄を置く。
家の外では、街灯の影にエリーゼが立っていた。
私が家へ入ったことを確認する。
窓。
玄関。
周囲の路地。
異常なし。
しばらくして、二階の窓に明かりがついた。
エリーゼはようやくその場を離れた。
「今日ね、ラビ先輩が――」
言いかけて、止まる。
クレイドがソファに座っている。
その手には、昨日と同じ血液パックがあった。
「……」
クレイドも私を見る。
気まずそうに目を逸らした。
「見るなよ」
「見てないよ」
「見てるだろ」
「……ごめん」
「謝んな」
クレイドがパックを見る。
でも、口をつけない。
「飲まないの?」
「後で」
「また?」
「……」
私は向かいへ座った。
「嫌なの?」
「何が」
「血」
「……」
クレイドが笑う。
自嘲するみたいな笑い方だった。
「好きになる方が嫌だろ」
その言葉が、妙に胸に残った。
「好きになる?」
「飲んでりゃ、そのうち欲しくなる」
「必要なんだから仕方ないじゃん」
「お前は簡単に言うな」
「またそれ」
「ルシア」
クレイドが私を見る。
赤い瞳。
「お前は人間だから分かんねぇんだよ。まあ、俺は人間にもヴァンパイアにもなりきれない半端者だけどな」
「……」
「血が欲しいって感覚が、どれだけ気持ち悪いか」
何も言えない。
私は人間だから。
血を欲しいと思ったことなんてない。
「ごめん」
「だから謝んなって」
「でも」
「お前はそのままでいろ」
「そのまま?」
「ああ」
クレイドが血液パックへ視線を落とす。
「知らなくていい」
また、その言葉。
アルも。
ゼノ兄さんも。
クレイドも。
みんな同じ。
――知らなくていい。
私は少しだけ頬を膨らませた。
「……みんなずるい」
「何が?」
「何でもない」
「言えよ」
「知らなくていい」
「お前な」
少しだけ笑う。
クレイドも呆れたように笑った。
けれど。
笑いながらも、胸の奥には別の感情が残っていた。
今日、私は何もできなかった。
危険が迫ったとき。
立ち尽くしていただけだった。
ラビ先輩が銃で相手を追い詰め。
ゼノ兄さんが力で相手を止め。
セドリック先輩たちが状況を収めた。
私は、守られていただけだった。
学園長代理なのに。
アルが学園へ来られないとき、代わりに問題へ対応する役目なのに。
もし今日、ゼノ兄さんたちがいなかったら。
私は何ができたのだろう。
「……私、本当に学園長代理でいいのかな」
思わず呟いた。
クレイドが顔を上げる。
「何だよ、急に」
「今日、何もできなかった」
「……」
「ラビ先輩はすごかったし、ゼノ兄さんも、セドリック先輩も。みんな自分の力で誰かを守ってた」
「お前だって」
「私は守られてただけだよ」
言葉にすると、胸が苦しくなった。
「アルが仕事で学園に来られないとき、代わりをしなきゃいけないのは分かってる。でも……」
自分の手を見る。
何の力もない。
普通の、人間の手。
「私がいても何もできないなら、代理なんて務まらないんじゃないかな」
クレイドはしばらく黙っていた。
いつもなら、すぐに何か言い返すのに。
「……今日、逃げなかっただろ」
「え?」
「怖かったのに、逃げなかった」
「それは……」
「普通は逃げる」
クレイドが血液パックを握る。
「俺なら、たぶん逃げる」
「クレイドが?」
「血に酔った奴が目の前にいたらな」
「でも、クレイドは……」
「俺は自分のことで精一杯だ」
クレイドは視線を落とした。
「だから、何もできなかったって言うな」
「……」
「何もできない奴は、あそこに立っていられない」
「でも」
「それに」
クレイドが私を見る。
「学園長代理って、暴れてるヴァンパイアを殴り倒す仕事じゃねぇだろ」
「殴り倒すって……」
「違うのか?」
「……たぶん」
「だったら、お前にできることをすればいい」
「私にできること?」
「ああ」
クレイドは少しだけ考えた。
「話を聞くとか。間に入るとか。危なかったら強い奴呼ぶとか」
「最後、人任せじゃない?」
「適材適所だろ」
思わず笑った。
「クレイド、意外とまともなこと言うね」
「意外は余計だ」
「でも」
少しだけ胸が軽くなる。
「ありがとう」
「……別に」
クレイドが顔を逸らした。
その耳が少しだけ赤い。
*
そのとき、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
アルベルトの声。
「おかえり、アル」
「ただいま」
アルベルトがリビングへ入ってくる。
私とクレイドを見て、尋ねた。
「何かあったのか?」
「何もない」
クレイドが答える。
「ルシア?」
「……今日、私が本当に学園長代理でいいのかなって話してた」
アルベルトの表情が変わった。
「そうか」
「私、何もできなかった」
「今日のことか」
「うん」
アルベルトは私の向かいへ座った。
「ルシア」
「はい」
「学園長代理の役目は、強い者にしか務まらないものではない」
「でも、何か起きたときに何もできなかったら意味がないよ」
「何か起きたとき、自分一人で解決することが学園長代理の仕事ではない」
「……」
「状況を見て、話を聞く。必要なら教員を呼ぶ。夜間部の問題ならゼノンやセドリックへ繋ぐ。昼間部との問題なら、双方の話を聞いて私へ報告する」
アルベルトの声は静かだった。
「お前に求めているのは、ヴァンパイアと戦うことではない」
「じゃあ、どうして私なの?」
ずっと気になっていた。
「クレイドの方が私より強いよ」
隣のクレイドが僅かに眉を動かす。
「それにクレイドだって、アルの家族でしょう?」
「……」
「私より、こういうことに詳しいし」
アルベルトはすぐには答えなかった。
代わりに、クレイドを見る。
クレイドは嫌そうに顔を逸らした。
「俺は嫌だ」
「ほら」
アルベルトが言う。
「即答!?」
「ヴァンパイアの揉め事なんか関わりたくねぇ」
クレイドの声は冷たかった。
「学校でまで、あいつらの面倒見るとか絶対嫌だ」
「クレイド……」
「俺がヴァンパイア嫌いなの、知ってるだろ」
「……うん」
知っている。
クレイドは、自分がヴァンパイアであることさえ嫌っている。
そんな彼に、ヴァンパイアたちの問題へ関わる役目を押しつけるなんてできない。
「最初からクレイドに頼むつもりはなかった」
アルベルトが言った。
「本人が嫌がることは分かっていたからな」
「じゃあ……私?」
「ああ」
「私が断ったら?」
「別の方法を考えた」
「え」
思わずアルを見る。
「強制するつもりだったと思ったのか?」
「ちょっとだけ」
「私はそこまで酷い父親か?」
「……ごめんなさい」
アルベルトが小さくため息をつく。
「お前に頼んだのは、お前なら人間とヴァンパイアのどちらか一方だけを見て判断しないと思ったからだ」
「私が?」
「ああ」
「でも私、ヴァンパイアのこと全然知らないよ」
「だから学べばいい」
アルベルトは私を真っ直ぐ見た。
「知らないことと、向いていないことは違う」
「……」
「お前は今日、血に酔ったヴァンパイアを見て、どう思った?」
「怖かった」
「それだけか?」
昨日のクレイドを思い出す。
血を欲しがる自分を嫌っていた。
苦しそうな顔。
「……苦しそうだとも思った」
アルベルトが僅かに笑った。
「それだ」
「え?」
「だから、お前に頼んだ」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「ただし」
アルベルトの声が少し低くなる。
「今日のような状況で前へ出る必要はない」
「でも」
「お前は戦闘員ではない」
「……はい」
「危険だと判断したら、すぐに教員か夜間部の代表を呼びなさい」
「はい」
「そして自分の身を最優先にすること」
「それは……」
「返事」
「……はい」
クレイドが鼻で笑った。
「絶対守らねぇ顔してる」
「守るよ!」
「嘘つけ」
「守るってば!」
アルベルトが二人を見る。
「だからこそ、最低限の訓練は必要だな」
「訓練?」
「ああ」
「何の?」
「自分の身を守るための訓練だ」
アルベルトが言った。
「戦い方。逃げ方。危険の見分け方。それから、剣も少し覚えておいた方がいい」
「剣!?」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……私にできる?」
「できるようにする」
その言葉は、アルベルトらしかった。
絶対にできると無責任に言うのではなく。
できるようにすると約束してくれる。
「……頑張りたい」
「そうか」
アルベルトが私の頭を撫でる。
「ならば、明日から始めよう」
「明日から!?」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、心の準備が……」
「今日からでもいい」
「明日でお願いします!」
クレイドが吹き出した。
「お前、分かりやすいな」
「クレイドも一緒にやる?」
「俺はいい」
「なんで!」
「俺はもう十分強い」
「自分で言う?」
「事実だろ」
アルベルトが二人を見る。
「クレイドも参加しなさい」
「……は?」
「お前にも必要だ」
「俺は血の制御を――」
「それも含めてだ」
クレイドが黙る。
「……分かった」
「よし」
アルベルトが立ち上がる。
「今日はもう休みなさい」
「うん」
立ち上がろうとしたとき、玄関の外から僅かな気配がした。
アルベルトが一瞬だけ視線を向ける。
クレイドも気づいたらしい。
「誰かいる?」
私が尋ねる。
「風だろ」
クレイドが答えた。
けれど、アルベルトは何も言わなかった。
家の外。
街灯の影には、エリーゼが立っていた。
ルシアが不安を口にしたことも。
アルベルトが訓練を約束したことも。
すべて聞こえていた。
彼女は、ルシアが学園長代理に向いていないとは思わなかった。
むしろ。
血に飢えたヴァンパイアを目の前にしても、その相手をただの化け物として見なかった。
怖いと思いながら。
それでも、苦しそうだとも思った。
それこそが、今の学園に必要なものなのかもしれない。
そして。
ルシアが純血の姫であることを知るエリーゼには、彼女の訓練が持つ意味も分かっていた。
力を目覚めさせるためではない。
正体を隠したまま、自分の身を守れるようにするため。
いつか真実を知ったとき。
誰かに利用されるだけの少女にならないため。
エリーゼは家の明かりを見上げた。
明日から、ルシアは訓練を始める。
ならば。
自分もこれまで以上に注意して見守らなければならない。
彼女が自分の足で立てるようになるまで。
誰にも気づかれない場所から。
*
翌朝。
「おはよう」
リビングへ入る。
アルベルトは、すでに訓練用の服を用意していた。
「早いね」
「今日から始めると言っただろう」
「本当に今日からなんだ……」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、朝ご飯を食べてからじゃ駄目?」
「食べてからだ」
「よかった」
クレイドはソファに座り、眠そうにこちらを見ていた。
「お前、顔が死んでる」
「朝から訓練とか聞いてねぇ」
「昨日聞いただろ」
「聞いたけど、明日だと思ってた」
「今日が明日だ」
「屁理屈だろ」
アルベルトが二人へ視線を向ける。
「食事が終わったら裏庭へ来なさい」
「はい」
「……はい」
朝食を食べながら、私は何度も手を握った。
怖い。
不安だ。
きっと、すぐには何もできない。
それでも。
昨日のままではいたくなかった。
学園長代理という立場を、ただアルの養女だからという理由だけで背負うのではなく。
自分の意思で、その場所に立てるようになりたい。
アルが学園へ来られない日。
代わりに誰かの話を聞いて。
困っている人がいれば、必要な相手へ繋いで。
人間とヴァンパイアの間で何かが起きたとき。
どちらか一方を最初から悪いと決めつけるのではなく。
ちゃんと両方を見る。
そのために。
少しずつでも、できることを増やしたい。
「ルシア」
アルベルトが呼ぶ。
「何?」
「食べながら考え込むと、喉に詰まるぞ」
「考えてたの分かった?」
「顔に書いてある」
クレイドが笑う。
「分かりやすいな」
「二人ともひどい」
「褒めている」
「どこが!?」
いつもの朝。
いつもの家。
けれど。
今日から少しだけ、何かが変わる。
*
その日の放課後。
校門の前には、ゼノ兄さんが立っていた。
「ルシア」
「ゼノ兄さん」
「今日も来たの?」
「うん」
「学園長代理の仕事?」
「それを手伝う仕事」
「そんな仕事あったっけ?」
「今作った」
「勝手に!?」
ゼノ兄さんが楽しそうに笑う。
「アルが学園に来られない間、君が代理をするんでしょう?」
「そうだけど」
「夜間部のことなら僕の方が詳しい」
「それはそうだけど……」
「なら、僕が手伝うのが一番合理的だよ」
「本当にそれだけ?」
「もちろん」
「怪しい」
「何が?」
「昨日からちょっと嬉しそうだから」
一瞬。
ゼノ兄さんが黙った。
それから、いつもの穏やかな笑顔になる。
「ルシアに会える理由が増えたからね」
「ほら!」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……」
「じゃあいいでしょう?」
また負けた。
「じゃあ、今日も一緒に行こうか」
差し出された手を見る。
「……うん」
その手を取る。
ゼノ兄さんは満足そうに笑った。
昨日より少しだけ。
自分の足で歩いてみようと思った。
まだ何もできない。
ヴァンパイアのことも、知らないことばかり。
それでも。
アルがいないとき。
その代わりとして学園に立つのなら。
いつか胸を張って、「任せて」と言えるようになりたい。
そのすぐ後ろを。
私には気づかれない距離で、エリーゼが静かに歩き始める。
彼女は知っている。
私が純血の姫であることを。
今は完全な封印によって、人間として生きていることを。
そして。
いつかその封印が解ければ。
今日、何もできずに立ち尽くしていた少女が。
夜間部にいる誰よりも強大な血を持つ存在へ戻ることを。
けれど。
その日はまだ来ない。
今はまだ。
私は白い制服を着た、人間の少女だった。




