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同じ家に帰る


「ただいまー」


玄関の扉を開ける。


返事はない。


「……アル、まだ帰ってないのかな」


靴を脱いで廊下へ上がる。


アルベルトと暮らしているこの家に来て、もう十年になる。


六歳の頃。


家族を亡くした私を引き取ってくれたのが、アルベルトだった。


それより前の記憶は、ほとんどない。


事故のようなものだったと聞かされている。


そのときの衝撃が強すぎたせいで、記憶を失ってしまったらしい。


だから。


私にとって一番古い「家族」の記憶は、アルベルトだ。


初めてこの家へ来た日のことも、ぼんやりとしか覚えていない。


ただ。


大きな手で頭を撫でられて、


『ここを自分の家だと思えばいい』


と言われたことだけは覚えている。


それから十年。


アルベルトは私を娘として育ててくれた。


そして――


「……クレイド?」


リビングの扉を開ける。


いない。


鞄だけがソファの横に置かれている。


「帰ってるじゃん」


二階を見る。


クレイドの部屋だろうか。


「クレイドー?」


返事はない。


まあ、いいか。


私は自分の鞄を置いた。


クレイドもこの家で暮らしている。


私より後にアルベルトに引き取られた。


最初に会った頃のクレイドは、今よりずっと人を寄せつけなかった。


話しかけても無視。


ご飯を一緒に食べようとしても拒否。


私が部屋へ入ろうものなら、本気で追い出された。


それでも毎日一緒に暮らして。


喧嘩して。


仲直りして。


同じ食卓を囲んで。


気づけば今の関係になっていた。


血は繋がっていない。


でも、家族。


兄妹みたいなものだと思っている。


「……お腹空いた」


台所へ向かう。


冷蔵庫を開ける。


「何作ろ」


卵。


野菜。


肉。


昨日のスープ。


「クレイドー!」


二階へ向かって叫ぶ。


「夕飯何がいいー?」


返事なし。


「聞いてるー?」


まだ返事がない。


「……寝てるのかな」


そう思っていた。


後になって知ったけれど。


このときクレイドは、二階の自室にいた。


そして。


私の声は全部聞こえていたらしい。


ヴァンパイアは、人間よりずっと耳がいい。


聴覚だけではない。


嗅覚も。


視力も。


暗闇の中でさえ、人間より遥かに多くのものを捉えることができる。


人間なら聞き取れないほど離れた場所の会話も。


声を潜めた内緒話も。


彼らには、思っている以上に聞こえていることがある。


けれど。


この頃の私は、そんなことさえよく知らなかった。


冷蔵庫を閉める。


そのとき。


玄関の扉が開いた。


「ただいま」


「アル!」


アルベルトだった。


学園で着ていた上着を腕に掛けている。


「おかえり」


「ただいま、ルシア」


学校では学園長。


家では、私のお父さん。


私が「アル」と呼ぶのも、ずっと昔からだ。


本人は一度、


『父と呼んでも構わない』


と言ってくれたことがある。


でも幼い頃からアルと呼んでいたせいで、今さら変えるのも恥ずかしくて。


結局そのままになった。


「夕飯どうする?」


「私が作る」


「え」


「なんだ、その反応は」


「だってアル料理できたっけ?」


「十年間誰がお前を育てたと思っている」


「……確かに」


「失礼な娘だな」


アルベルトが私の額を軽く小突く。


「痛い」


「痛くしていない」


「精神的に痛い」


「面倒な言葉を覚えたな」


笑いながら台所へ向かう。


「あ、そうだ」


「なんだ?」


「学園長代理のこと」


アルベルトの手が止まる。


「本当に私がやるの?」


「ああ」


「本当に?」


「なぜ二回聞く」


「だって私、生徒だよ?」


「知っている」


「しかも十六歳」


「それも知っている」


「昼間部」


「当然知っている」


「人間」


そこで。


アルベルトの動きがほんの僅かに止まった。


「……そうだな」


「でしょ?」


私は気づかなかった。


その一瞬の間に。


「普通こういうのって先生がやらない?」


「教師には教師の仕事がある。それに、お前に学園長としての全権を渡すわけではない」


「じゃあ何するの?」


アルベルトは冷蔵庫から食材を取り出しながら答える。


「私が王都での会議や外部の仕事で学園を空ける日だけ、生徒間の問題について一次対応をしてもらう」


「一次対応?」


「何か問題が起きたら話を聞く。必要なら教師へ繋ぐ。昼間部と夜間部の間で揉め事が起きた場合は、双方の言い分を聞く」


「それだけ?」


「それだけだ」


「……なんか思ってたより普通」


「何を想像していた」


「学園長室の椅子に座って書類に判子押したり」


「させるわけがないだろう」


「退学! とか」


「絶対に言うな」


「冗談だよ」


「お前は時々怖い冗談を言うな」


アルベルトがため息をつく。


「重要な決定は教師が行う。お前はあくまで私が不在の間、生徒同士を繋ぐ役だ」


「ふうん……」


それなら。


できなくもない……のかな。


「でも」


私は首を傾げた。


「なんで私?」


「……」


「もっと適任いるでしょ」


「例えば?」


「クレイド」


二階を指差す。


その瞬間。


「絶対やらねぇ」


二階から声が飛んできた。


「え!?」


階段を見る。


誰もいない。


「クレイド!?」


返事はない。


「起きてたの!?」


しばらくして。


階段の上から、面倒そうな顔が覗いた。


「今起きた」


「嘘! 絶対聞いてたでしょ!」


「聞こえたんだよ」


「二階なのに!?」


「お前の声でけぇから」


「そんなに大きくないよ!」


「人間基準ではな」


「……?」


何それ。


クレイドが階段を下りてくる。


「ヴァンパイアは耳がいい」


アルベルトが代わりに説明した。


「クレイドくらいなら、家の中でお前が普通に話していれば二階からでも大体聞こえる」


「……え」


嫌な予感がした。


「じゃあ今まで私がリビングでミアと話してたこととかも?」


「内容による」


クレイドが答える。


「小声なら?」


「聞こえるときは聞こえる」


「電話は?」


「聞こうと思えば」


「最悪!」


「聞いてねぇよ!」


「本当に!?」


「興味ねぇ!」


「じゃあエリーゼと恋愛の話してたときは!?」


「知らねぇ!」


「今ちょっと間があった!」


「うるせぇ!」


アルベルトが額を押さえた。


「お前たち、話を戻せ」


「あ」


そうだった。


「クレイドがやればいいじゃん」


「嫌だ」


即答。


「なんで?」


「やりたくねぇから」


「理由になってない」


「俺には十分だ」


「アルが困るじゃん」


「知らねぇ」


「冷たい」


「何とでも言え」


私は頬を膨らませる。


「クレイドの方が向いてると思うけど」


「どこが」


「私より強いし」


「……」


「ヴァンパイアのことも私より知ってるし」


「……」


「夜間部の人とも話しやすいでしょ?」


「それが嫌なんだよ」


低い声だった。


私は口を閉じる。


クレイドの表情が変わっていた。


「俺は夜間部に関わりたくねぇ」


「……」


「あいつらの揉め事を聞くのも、面倒見るのも、校舎をうろつくのも嫌だ」


「どうして?」


「嫌いだから」


「……ヴァンパイアが?」


「ああ」


迷いのない答えだった。


自分も同じヴァンパイアなのに。


クレイドはそう言った。


「俺は昼間部でいい」


「……」


「人間として学校にいる。それでいい」


それ以上聞いてはいけない気がした。


このときの私はまだ知らなかった。


クレイドがどうしてヴァンパイアになったのか。


誰に何をされたのか。


なぜ。


自分自身まで嫌いになるほど、ヴァンパイアを嫌っているのか。


「だから俺はやらねぇ」


クレイドが言う。


「ルシアがやればいい」


「なんで私に押しつけるの!?」


「お前、ヴァンパイア嫌いじゃねぇだろ」


「嫌いじゃないけど」


「なら適任」


「雑!」


「それだけではない」


アルベルトが口を挟んだ。


私たちは同時に彼を見る。


「私がお前を選んだのは、クレイドが断ったからだけではない」


「そうなの?」


「ああ」


アルベルトが私を見る。


「お前は人間だからといって人間の肩を持たない」


「……」


「ヴァンパイアだからという理由だけで、相手を怖がることもしない」


「ゼノ兄さんがヴァンパイアだし」


「それもあるだろうな」


「ラビ先輩たちも面白いし」


「本人たちの前で言うなよ」


クレイドが呆れる。


「褒めてるよ?」


「たぶん褒め言葉として受け取らねぇ」


アルベルトが小さく笑った。


「お前は相手の種族より、その人間――いや、その者自身を見る」


「……そんな大袈裟なことしてる?」


「しているよ」


大きな手が。


昔と同じように私の頭へ乗る。


「だから頼みたい」


「……」


「私がいない間だけでいい」


「危なくない?」


「危険なことはするな」


即答だった。


「何かあれば教師を呼べ。夜間部ならゼノンやセドリックもいる」


「ゼノ兄さんに頼っていいの?」


「むしろ頼らないと、後で私が怒られる」


「誰に?」


「ゼノンに」


「なんでアルが?」


「……色々ある」


「また隠し事」


「大人には事情がある」


「便利だね、その言葉」


「便利だぞ」


「開き直った!」


クレイドが小さく笑った。


「じゃあクレイドも助けてね」


「嫌だ」


「即答!?」


「俺を夜間部に呼ぶな」


「私が困ってても?」


「……」


「クレイド?」


「教師呼べ」


「冷たい」


「危ねぇことすんなって意味だよ」


「それならそう言えばいいじゃん」


「うるせぇ」


アルベルトが笑う。


「では決まりだな」


「まだ返事してない!」


「嫌か?」


聞かれて。


少し考える。


正直。


怖い。


夜間部校舎なんて、ほとんど行ったことがない。


ヴァンパイアが怖いわけじゃない。


ただ。


自分だけ白い制服で、周りが全員黒い制服。


想像しただけで目立つ。


でも。


アルが私ならできると思ってくれている。


「……やる」


「そうか」


「アルがいない日だけね」


「ああ」


「無理そうだったらすぐ先生呼ぶからね」


「そうしろ」


「あと、難しいことはしない」


「それでいい」


「クレイドも本当に困ったら助けて」


「嫌だ」


「そこは頷いてよ!」


「俺はヴァンパイアの校舎には行かねぇ」


「頑固!」


「お前に言われたくねぇ」


いつものように言い合う私たちを。


アルベルトは、少しだけ嬉しそうに見ていた。


*


その日の夜。


夕食の途中で、私は指を切った。


ほんの小さな傷だった。


けれど。


その一滴の血が。


クレイドがずっと隠してきたものを、私の前へ引きずり出した。


――そして翌日。


私は初めて。


学園長代理として、夜間部校舎へ足を踏み入れることになった。


*


「……見られてる」


「そりゃ見るよ」


隣を歩くラビ先輩が楽しそうに笑う。


「白い制服の人間が学園長代理の腕章つけて、夜間部校舎を歩いてるんだもん」


「やっぱり目立つ?」


「めちゃくちゃ」


「帰りたい」


「まだ来たばっかり!」


夜間部校舎。


昼間部校舎から中庭と渡り廊下を挟んだ先に建つ、ヴァンパイアたちの校舎。


同じアストリア共生学園の敷地内。


それなのに。


一歩中へ入っただけで、別の学校へ来たような気分になる。


窓には陽光を和らげる濃い色のカーテン。


廊下を歩く生徒は全員、黒い制服。


話し声も。


笑い声も。


昼間部とそれほど変わらない。


なのに。


すれ違うたび。


視線を感じる。


「……ねえ」


「何?」


「さっきから、みんなこっち見てない?」


「見てるね」


「やっぱり!?」


「そりゃ珍しいから」


ラビ先輩が私の腕を指差す。


黒い腕章。


学園長であるアルベルトが不在の間だけ。


私が学園長代理であることを示すもの。


「本当にこれだけで夜間部校舎に入っていいの?」


「もちろん」


「怒られない?」


「誰に?」


「夜間部の人とか」


「むしろ今日のルシアちゃんに文句言ったら、その人が怒られるよ」


「そんなに偉いの!?」


「偉いっていうか、アルベルトさんの代理だからね」


「急に重く感じてきた……」


腕章を見る。


「外していい?」


「駄目」


「即答……」


ラビ先輩が笑う。


そのとき。


前から歩いてきた女子生徒たちが、私を見た。


「……人間?」


聞こえた。


小さな声。


「なんで夜間部に?」


「あれ、学園長代理の腕章じゃない?」


「どうして人間が……」


ひそひそと話している。


声を潜めているつもりなのだろう。


私にも辛うじて聞こえるくらい。


「……やっぱり歓迎されてないよね」


私も小声でラビ先輩へ言った。


すると。


ラビ先輩が少しだけ笑った。


「ルシアちゃん」


「何?」


「ここで内緒話するときは気をつけた方がいいよ」


「え?」


「ヴァンパイア、耳いいから」


「あ」


昨日。


クレイドに言われたことを思い出す。


「どのくらい?」


「個人差はあるけど」


ラビ先輩が少し離れた場所にいる女子生徒たちを指差した。


「あの辺なら普通に聞こえてると思う」


「……嘘」


女子生徒たちを見る。


一人と目が合った。


すぐ逸らされた。


「聞こえてる……」


「だから、人間が『聞こえないだろう』と思って話してることも、結構聞こえてたりするよ」


「全部?」


「全部じゃないけどね。距離とか周りの音とか、本人の能力にもよるし」


「……怖」


「怖い?」


「だって悪口言えないじゃん」


「言う予定あるの?」


「ないけど!」


ラビ先輩が笑う。


「聴覚だけじゃないよ」


「まだあるの?」


「嗅覚も視力も、人間よりずっといい」


「どれくらい?」


「血なんかは特に分かりやすいかな」


血。


その言葉で。


昨日のクレイドを思い出す。


私の指から出た、ほんの少しの血。


あれだけで。


クレイドは変わった。


「……じゃあ」


私は自分の指を見る。


もう傷はほとんど塞がっている。


「少し怪我しただけでも分かる?」


「近ければね」


「それって大変じゃない?」


「何が?」


「だって」


私は周囲を見る。


「聞きたくない話も聞こえるし、嗅ぎたくない匂いも分かるんでしょ?」


ラビ先輩が少しだけ目を見開いた。


「……ルシアちゃんって、変なところ気にするね」


「変?」


「普通、人間にその話すると『すごい!』とか『便利!』って言われるから」


「便利なときもありそうだけど」


クレイドを思い出す。


「大変なときもありそう」


「……そうだね」


ラビ先輩は少しだけ笑った。


いつもの明るい笑顔とは。


ほんの少し違った。


「だからさ」


「うん?」


「人間の女の子たちが『夜間部の誰々が格好いい』って話してるのも、本人に聞こえてること結構あるよ」


「……」


ミア。


「ミアに教えなきゃ」


「やめた方がいいんじゃない?」


「なんで?」


「多分あの子、知ったらもっと大きい声で言うよ」


「……否定できない」


二人で笑った。


そのとき。


向こうから女子生徒たちが歩いてきた。


黒い制服。


綺麗な顔。


私を見る。


会話が止まる。


視線が刺さる。


あまり好意的ではない。


「気にしなくていいよ」


ラビ先輩が小声で言う。


「でも」


「人間が嫌いな奴もいるから」


昨日アルが言っていた。


人間の中にはヴァンパイアを恐れる者がいる。


ヴァンパイアの中には人間を見下す者がいる。


私は腕章を見る。


アルがいない間。


何かあれば、まず私が話を聞く。


人間だから。


ヴァンパイアだから。


それだけで、どちらかを悪いと決めつけない。


それが。


アルが私に任せたかったことなのかもしれない。


「……頑張ろ」


小さく呟いた。


「偉い偉い」


「子供扱いしないでください」


「ゼノンさんみたい?」


「それ!」


思わずラビ先輩を見る。


「ゼノ兄さんもすぐ子供扱いする!」


「まあ、ゼノンさんからしたら――」


ラビ先輩が途中で口を閉じた。


「何?」


「何でもない」


「また?」


「俺、余計なこと言うと消されそうだから」


「誰に?」


「聞かないで」


意味が分からない。


でも。


少し離れたところを歩いていた男子生徒が、吹き出した。


「……え?」


見る。


目が合う。


逸らされた。


「今の話、聞こえてた?」


「多分」


ラビ先輩が平然と答える。


「……もう喋りたくない」


「慣れて」


「無理」


「人間って面白いね」


「ヴァンパイアの耳がおかしいの!」


「聞こえてるよー」


離れた場所から声が飛んできた。


「ほら!」


「ははっ」


ラビ先輩は楽しそうだった。


そのまま歩いていると。


前方が少し騒がしくなった。


「あ」


ラビ先輩が言う。


「噂をすれば」


「え?」


視線を向ける。


黒い髪。


赤い瞳。


窓際に立っていたゼノン。


その周囲には何人もの女子生徒がいた。


「ゼノンさん、今度の夜会なんですけど」


「よければ私と――」


「ゼノンさん」


人気だなあ。


昼間部だけじゃない。


ヴァンパイアの女の子たちにも、当然人気なんだ。


「ゼノ兄――」


呼ぼうとして。


やめた。


忙しそう。


邪魔しない方がいい。


「こっち行こ」


ラビ先輩の袖を引く。


「え? ゼノンさんに挨拶しないの?」


「後でいいよ」


「でも――」


「ラビ」


声が飛んできた。


「……ほら」


ラビ先輩が笑う。


振り返る。


ゼノンがこちらを見ていた。


女子生徒たちを置いたまま。


真っ直ぐ歩いてくる。


「ルシア」


「ゼノ兄さん」


赤い瞳が私の腕へ向く。


黒い腕章。


「今日、アルベルトはいないんだね」


「うん。王都で会議だって」


「それでルシアが代理?」


「そう」


「……そっか」


なぜか。


少し嬉しそう。


「何その顔」


「どんな顔?」


「嬉しそう」


「嬉しいよ」


「なんで?」


「ルシアがこっちに来るから」


「やっぱり!」


「駄目?」


「そういう理由で学園長代理を歓迎しないで!」


ゼノンが小さく笑う。


それから腕章へ触れた。


「曲がってる」


「本当?」


「じっとして」


「自分でできるよ?」


「知ってる」


「じゃあ――」


「僕がやりたいから」


まただ。


ゼノンの指が腕章を綺麗に整える。


「これでいい」


「ありがとう」


顔を上げる。


すると。


さっきまでゼノンを囲んでいた女子生徒たちが、こちらを見ていた。


明らかに。


怖い顔で。


「……?」


なんで?


そのうちの一人と目が合う。


逸らされた。


「私、何かしたかな」


「してないよ」


ゼノンが答える。


「じゃあなんで――」


「気にしなくていい」


「でも」


「ルシア」


赤い瞳が私を見る。


さっきまで女子生徒たちに向けていた冷たい表情とは違う。


「僕だけ見てればいいよ」


「……何それ」


「そのままの意味」


「学園長代理なのに他の人見ちゃ駄目なの?」


「……それは困るね」


「でしょ?」


ゼノンが小さく笑う。


その後ろで。


女子生徒たちの視線が、さらに鋭くなったことには。


私は気づかなかった。


ただ一人。


ラビ先輩だけが。


「あーあ……」


小さく呟いていた。


「何?」


「何でもない」


「今日みんなそればっかり!」


「ルシアちゃんは知らない方が幸せなこともあるんだよ」


「また子供扱い!」


「違う違う」


ラビ先輩が笑う。


「これはゼノンさんが悪い」


「僕?」


ゼノンが振り返る。


「なんでもないです」


「そう」


「……怖」


「何か言った?」


「言ってません」


「聞こえてるけど」


「ほら!」


思わず声を上げる。


ゼノンが不思議そうに私を見る。


「何が?」


「さっきラビ先輩に教えてもらったの。ヴァンパイアってすごく耳がいいんでしょ?」


「……今さら?」


「その反応やめて!」


「知らなかったの?」


「ちゃんとは知らなかった!」


「そうなんだ」


「じゃあゼノ兄さんも、遠くで話してること聞こえる?」


「大体は」


「ひそひそ話も?」


「距離によるけどね」


「……怖い」


「ルシアの声なら、多少遠くても分かるよ」


「なんで私限定なの?」


「聞き慣れてるから」


さらっと答えられる。


「じゃあ」


私は急に不安になった。


「今まで私がミアとゼノ兄さんの話してたのも……」


「聞こえたことはあるよ」


「え」


「例えば――」


「言わなくていい!」


慌ててゼノンの口を手で塞ごうとする。


けれど簡単に避けられた。


「何を話してたんですか?」


ラビ先輩が面白そうに聞く。


「言わないで!」


「別に恥ずかしいことじゃないよ」


「じゃあ何!?」


ゼノンが笑う。


「僕が一番格好いいって」


「――っ!」


顔が熱くなる。


「それミアに聞かれたから答えただけ!」


「嬉しかったよ」


「忘れて!」


「嫌だ」


「ゼノ兄さん!」


「一生覚えてる」


「最悪!」


ラビ先輩が横で笑っている。


「ゼノンさん、楽しそうですね」


「うん」


「即答……」


「だってルシアがいるから」


「そういうの!」


「何?」


「そういうのが誤解されるんだよ!」


「誰に?」


「知らないけど!」


ゼノンは分かっていないような顔をしている。


絶対。


分かっている。


その後ろで。


女子生徒たちの視線が、ますます冷たくなっていることだけは。


さすがの私にも。


少しだけ分かった。


夜間部校舎。


黒い制服。


赤い瞳。


人間より遥かに優れた耳と鼻と目。


白い制服の私には、まだ知らないことばかり。


けれど。


このときの私は。


自分へ向けられた冷たい視線が、これから少しずつ大きな悪意へ変わっていくことも。


同じ家へ帰るクレイドの飢えが、一度純血の血を飲んだくらいでは消えてくれないことも。


そして。


自分の身体の奥深くに、人間として生きてきた十年間をすべて覆してしまう秘密が封じられていることも。


まだ――何ひとつ知らなかった。

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