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王宮に潜む裏切り者



 ベルフォート王宮の地下拘束区画。


 廊下の灯りが消え、辺りは薄暗い闇に包まれていた。


 その中を、一人の男がゆっくりと歩いている。


 エドモンド・ヴァルディエ。


 第一純血家の血を引きながら、王家に対する数々の罪を重ねてきた男。


 彼は、まるで自分の屋敷を散歩しているかのような足取りで、地下の奥へ進んでいた。


「止まれ!」


 警備兵の一人が剣を抜いた。


「ここから先は、許可のない者の立ち入りを禁じている!」


 エドモンドは足を止めた。


「そうかい?」


 穏やかに微笑む。


「では、君が案内してくれるかな」


「ふざけるな!」


 警備兵が剣を構える。


 けれど、その隣にいた別の警備兵が、突然彼の腕を掴んだ。


「……おい?」


 次の瞬間。


 警備兵の身体が壁へ叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 剣が床へ落ちる。


 エドモンドは、倒れた警備兵を見下ろした。


「すまないね。少し眠っていてくれ」


 そして、隣に立つ男へ微笑んだ。


「ありがとう」


「エドモンド様のためなら」


 男は、深く頭を下げた。


 その赤い瞳には、どこか不自然な光が宿っていた。


 血の支配。


 エドモンドの血を飲んだ者は、その命令に逆らうことができない。


 王宮の内部には、すでに複数の協力者が潜んでいた。


 エドモンドは、倒れた警備兵を一瞥すると、再び歩き始めた。


     ◇


 ヴェロニカの拘束室では、重い扉の向こうから足音が近づいていた。


 ヴェロニカは椅子に座ったまま、静かに顔を上げた。


 やがて、扉の鍵が外される音がした。


 ガチャリ。


 扉が開く。


「やあ、ヴェロニカ」


 聞き慣れた声。


 そこには、エドモンドが立っていた。


「エドモンド様……!」


 ヴェロニカは、思わず立ち上がった。


「本当に、いらしてくださったのですね」


「約束しただろう?」


 エドモンドは微笑んだ。


「迎えに来ると」


 ヴェロニカは、少しだけ目を伏せた。


「ですが、私は……」


「王家の命令、だね」


 エドモンドは頷いた。


「ゼノンに、逃亡しないよう命じられている」


「はい」


「異能の使用も禁じられている」


「そのとおりです」


 エドモンドは、しばらく彼女を見つめていた。


 そして、静かに手を差し出した。


「ならば、私が連れていこう」


 ヴェロニカの表情が変わった。


「ですが……」


「君自身が逃げる必要はない」


 エドモンドは、穏やかに続けた。


「ただ、私に身を任せればいい」


 ヴェロニカは、恐る恐る一歩踏み出した。


 けれど、その瞬間。


「……っ!」


 身体が動かなくなった。


 足が、床へ縫いつけられたように止まる。


 ゼノンの声が、頭の奥に響いた。


『君は、ここから動かないで』


 あのとき命じられた言葉。


 その命令が、今も彼女を縛っていた。


「無理です」


 ヴェロニカが苦しそうに呟く。


「ゼノン様の命令が……!」


 エドモンドは、少しだけ目を細めた。


「なるほど」


 その表情には、苛立ちよりも興味が浮かんでいた。


「やはり、私の血の支配よりも強いんだね」


 ヴェロニカは、何も答えられなかった。


 エドモンドは、静かに笑った。


「ますます欲しくなったよ」


 そのとき、背後から一人の男が近づいてきた。


「エドモンド様。準備が整いました」


「ご苦労」


 エドモンドは頷いた。


「では、始めようか」


     ◇


 王宮の地下。


 拘束区画から少し離れた場所では、複数の警備兵が慌ただしく動いていた。


「何が起きている!?」


「地下の灯りが消えました!」


「通信も繋がりません!」


 そのとき、廊下の奥から激しい音が響いた。


 ――ドォンッ!!


 壁が大きく揺れる。


「爆発か!?」


「違います! 地下の古い通路が崩れています!」


 警備兵たちが走り出す。


 王宮の地下には、現在は使用されていない古い通路がいくつも存在していた。


 その一つが、何者かによって破壊されていた。


 瓦礫が崩れ落ち、周囲に土埃が舞う。


 警備兵たちは、必死に崩落箇所を確認していた。


 その混乱の中。


 エドモンドは、ヴェロニカの拘束室へ戻っていた。


「さて」


 彼は、ヴェロニカへ視線を向けた。


「もう一度、試してみようか」


 ヴェロニカは、苦しそうに首を横に振った。


「無理です。私は……」


「分かっているよ」


 エドモンドは、静かに答えた。


「だから、君は何もしなくていい」


 その背後から、二人の男が入ってきた。


 男たちは、ヴェロニカの両腕を掴む。


「……っ!」


 ヴェロニカが息を呑んだ。


 その身体を、男たちが持ち上げようとする。


 けれど。


 次の瞬間。


 ヴェロニカの身体が、激しく強張った。


「……ああっ!」


 苦痛の声が響く。


 男たちは思わず手を離した。


 ヴェロニカは、その場へ膝をついた。


「駄目、です……!」


 エドモンドは、静かに彼女を見下ろした。


「なるほど」


 その赤い瞳が、興味深そうに細められる。


「本人の意思に関係なく、命令が働くのか」


 ヴェロニカは、荒い息を繰り返していた。


 王家の命令。


 それは、単なる暗示ではない。


 命じられた内容に反する行動そのものを、強制的に制限する力だった。


「本当に、素晴らしい異能だ」


 エドモンドは、小さく笑った。


「これなら、王として誰も逆らえない世界を作れるだろうね」


     ◇


 その頃。


 ベルフォート王宮の地下拘束区画では、もう一つの計画が進められていた。


 ヴェロニカの拘束室から離れた、別の区画。


 そこには、ヴァルディエ家襲撃事件で再び捕らえられたミアが収容されていた。


「暇だなぁ」


 ミアは、寝台に腰掛けながら足を揺らしていた。


 窓のない部屋。


 分厚い扉。


 外には警備兵。


 何度も脱出しようとしたけれど、そのたびに止められてしまった。


「ルシア、今何してるのかな」


 ミアは、楽しそうに微笑んだ。


 最後に会ったとき、ルシアは随分と冷たかった。


『もう、会いに来ないで』


『私は、ミアが怖いの』


 そんなことを言われた。


 けれど、ミアには理解できなかった。


 あんなに仲良しだったのに。


 学校でも、家でも、毎日のように一緒に過ごしていたのに。


「また遊べば、きっと元に戻るよね」


 そう呟いたときだった。


 扉の向こうから、足音が聞こえた。


「ミア」


 聞き慣れない男の声。


 ミアが顔を上げる。


「はーい?」


 扉の鍵が外された。


 入ってきたのは、王宮の制服を着た警備兵だった。


「迎えに来た」


 ミアは首を傾げた。


「誰が?」


「エドモンド様だ」


 その名前を聞いた瞬間、ミアの表情が明るくなった。


「エドモンド様!?」


「ああ。お前を連れ出すよう命じられている」


「やったぁ!」


 ミアは勢いよく立ち上がった。


「じゃあ、ルシアに会えるの!?」


 警備兵は一瞬黙った。


 それから、静かに頷く。


「いずれ会わせてくださるそうだ」


「本当!?」


「ああ」


 ミアは、嬉しそうに両手を合わせた。


「よかったぁ! もうずっと退屈だったんだよ!」


 警備兵は、廊下へ視線を向けた。


「急げ。今、地下通路で騒ぎが起きている」


「騒ぎ?」


「お前には関係ない」


「ふーん?」


 ミアは特に気にした様子もなく、男の後をついていった。


     ◇


 地下通路は、普段よりも騒がしかった。


 遠くから警備兵たちの怒鳴り声が聞こえる。


 何かが崩れるような音。


 そして、慌ただしく走る足音。


「何か楽しそう!」


 ミアが笑った。


「遊びじゃない。静かにしろ」


「はーい」


 返事だけは素直だった。


 男はミアを連れ、普段は使われていない通路へ向かった。


 古い石造りの階段を下り、狭い廊下を進む。


 やがて、突き当たりに小さな扉が現れた。


 男が鍵を取り出す。


 扉を開くと、冷たい夜風が流れ込んできた。


「わあ、外だ!」


 ミアが目を輝かせた。


 そこは王宮の裏手にある、使用されなくなった搬入口だった。


 少し離れた場所には、黒い馬車が停まっている。


「乗れ」


 男が告げる。


 ミアは嬉しそうに馬車へ駆け寄った。


 そして、乗り込もうとしたところで足を止める。


「あっ、そうだ!」


 警備兵が振り返った。


「何だ?」


「エドモンド様って、ルシアの血を飲んだことあるの?」


 男は眉を寄せた。


「知らん」


「そっかぁ」


 ミアは、少しだけ残念そうに呟いた。


「すっごく美味しいのに」


 その赤い瞳が、楽しそうに細められる。


「早く、また飲みたいなぁ」


 男は何も答えなかった。


 ミアは馬車へ乗り込むと、窓から王宮を振り返った。


「ばいばーい!」


 誰に言うでもなく手を振る。


 そして、嬉しそうに笑った。


「待っててね、ルシア!」


 馬車が静かに動き始めた。


 その頃、王宮の警備兵たちは、まだヴェロニカの拘束区画で起きた騒ぎへの対応に追われていた。


 ミアの部屋が空になっていることに、誰も気づいていなかった。


     ◇


 そのとき。


 遠くから、複数の足音が響いてきた。


「エドモンド様!」


 男の一人が声を上げる。


「王宮の警備隊がこちらへ向かっています!」


「そうか」


 エドモンドは、少しだけ残念そうに息を吐いた。


「時間切れかな」


 ヴェロニカが顔を上げた。


「エドモンド様」


 その声には、不安が滲んでいた。


「私を、置いていかれるのですか……?」


 エドモンドは、しばらく彼女を見つめていた。


 そして、優しく微笑んだ。


「心配しなくていい」


 ヴェロニカの表情が、僅かに明るくなる。


「では……!」


「君には、まだ役割があるからね」


 その言葉に、ヴェロニカの笑顔が止まった。


 エドモンドは、彼女の頬へ手を添えた。


「ここで、ゼノンを待っていてくれ」


「……え?」


「そして、私からの伝言を届けてほしい」


 ヴェロニカは、何も言えなかった。


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「君の心臓を、いただきに行くよ、とね」


 その声が、静かな部屋へ響いた。


     ◇


 その頃。


 王宮へ向かっていたゼノンとセドリックは、馬車の中で報告を受けていた。


「地下拘束区画で、爆発があったそうです!」


 通信機から、ルイスの声が響く。


「現在、警備兵たちが対応しています!」


 ゼノンの表情が険しくなる。


「ヴェロニカは?」


「まだ拘束室にいるはずですが、確認が取れていません!」


 セドリックが舌打ちした。


「やっぱり動きやがったな」


 ゼノンは、静かに頷いた。


「うん」


 その赤い瞳が、窓の外へ向けられる。


「エドモンドが来ているね」


 セドリックが顔を上げた。


「どうする?」


「急ごう」


 ゼノンは、静かに答えた。


「王宮で、これ以上好き勝手にはさせられない」


     ◇


 王宮の地下拘束区画。


 エドモンドは、ゆっくりと扉へ向かっていた。


 背後には、まだ動けないヴェロニカ。


 そして、血の支配によって従わされた男たち。


「エドモンド様!」


 男の一人が声をかけた。


「ゼノン様が、こちらへ向かっているとの情報が!」


 エドモンドは足を止めた。


「そうかい?」


 その表情が、嬉しそうに変わる。


「ちょうどいい」


 男は、少しだけ戸惑った。


「お待ちになるのですか?」


「いや」


 エドモンドは、ゆっくりと首を横に振った。


「今日は、まだそのときじゃない」


 そして、静かに笑った。


「でも、せっかくだから」


 その赤い瞳が、暗闇の奥へ向けられる。


「少しだけ、挨拶をしていこうかな」


     ◇


  数分後。


 王宮の地下へ到着したゼノンとセドリックは、崩れた通路の前で足を止めた。


「ひでえな」


 セドリックが呟いた。


 壁は崩れ、床には瓦礫が散乱している。


 警備兵たちが負傷者を運び出していた。


「ゼノン!」


 ルイスが駆け寄ってくる。


「地下の一部が崩落しました。現在、負傷者の救助を進めています」


「エドモンドは?」


「まだ確認できていません」


 ゼノンは、静かに周囲を見渡した。


 その足元から、黒い影が立ち上がる。


 ガル。


 続いて、レオ。


 二匹の黒狼が、低く唸った。


「探して」


 ゼノンが告げる。


 黒狼たちは、左右へ分かれて走り出した。


 セドリックも、静かに片手を上げる。


 空気が、崩れた通路の奥へ流れ込んでいく。


「誰かいる」


 その言葉に、ゼノンが顔を上げた。


「どこ?」


「奥の拘束室だ」


 ゼノンは頷いた。


「行こう」


 瓦礫を避けながら、二人は通路の奥へ進んだ。


 やがて、ヴェロニカの拘束室が見えてきた。


 扉は開かれている。


 その中には、一人の女性が座っていた。


「ヴェロニカ」


 ゼノンが名前を呼ぶ。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「ゼノン様」


 その表情には、疲労が滲んでいた。


「エドモンドは?」


 ゼノンが尋ねる。


 ヴェロニカは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「帰られました」


 セドリックが眉を寄せる。


「逃げたのか」


「はい」


 ヴェロニカは頷いた。


 ゼノンは、彼女を見つめた。


「君を連れ出そうとしたんだね」


「はい」


「でも、できなかった」


「王家の命令が、残っていましたから」


 ゼノンは、静かに頷いた。


「そう」


 ヴェロニカは、少しだけ顔を上げた。


「ゼノン様」


「何?」


「エドモンド様から、伝言を預かっております」


 ゼノンの赤い瞳が細められる。


「伝言?」


「はい」


 ヴェロニカは、ゆっくりと口を開いた。


「『君の心臓を、いただきに行くよ』と」


 室内が静まり返った。


 セドリックの表情が険しくなる。


 けれど、ゼノンは何も言わなかった。


 ただ、静かにヴェロニカを見つめていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「そう」


 その声には、驚きも恐怖もなかった。


「わざわざ伝言を残してくれたんだね」


 ヴェロニカは、何も答えなかった。


 ゼノンは、ゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、僕からも伝えておいて」


 その赤い瞳が、冷たく輝いた。


「僕の心臓も、ルシアも」


 静かな声だった。


「エドモンドには、絶対に渡さないよ」


 ヴェロニカは、ゆっくりと目を伏せた。


 ゼノンは、静かに続けた。


「それから、もう一つ」


 その声が、僅かに低くなる。


「次に会うときは、もう逃がさない」


 ヴェロニカは、その言葉を聞いて、小さく息を呑んだ。


 ゼノンは、彼女へ背を向けた。


「セドリック」


「ああ」


「王宮の警備を見直そう」


 セドリックが頷く。


「今度こそ、内部の協力者を全部洗い出す必要があるな」


 ゼノンは、静かに頷いた。


 そして、崩れた通路へ視線を向けた。


 エドモンド。


 父と母を殺し。


 祖父母を殺し。


 今度は、自分とルシアまで奪おうとしている男。


 もう、これ以上。


 好きにはさせない。


     ◇


 そのときだった。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。


「ルイス様!」


 一人の警備兵が駆け込んでくる。


 ルイスが振り返った。


「どうしました?」


「別の拘束区画で、収容者が一名いなくなっています!」


 その報告に、セドリックが眉を寄せた。


「何だと?」


「現在、所在を確認していますが、監視記録が一部消去されておりまして……」


 ゼノンが静かに尋ねた。


「誰がいなくなったの?」


 警備兵は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「ミアです」


 その名前が告げられた瞬間、ゼノンの表情が変わった。


「ミア?」


「はい。ヴァルディエ家襲撃事件で拘束されていた少女です」


 セドリックが低く舌打ちした。


「よりによって、あいつかよ」


 ルイスは警備兵へ向き直った。


「最後に姿を確認したのは?」


「本日の定時巡回です。ただ、拘束室の扉に破壊された形跡はありません」


「鍵を開けた者がいるということですね」


「その可能性が高いかと」


 ゼノンは、ゆっくりと目を細めた。


 ヴェロニカを連れ出そうとしたエドモンド。


 崩落した地下通路。


 行方の分からない警備兵。


 そして、ミアの脱獄。


 それぞれが、偶然に起きたとは思えなかった。


「セドリック」


「何だ?」


「エドモンドは、最初からミアも連れ出すつもりだったのかもしれないね」


 セドリックが腕を組んだ。


「ヴェロニカの方で騒ぎを起こして、警備を集中させたってわけか」


「うん」


 ゼノンは静かに頷いた。


「ヴェロニカを連れ出せなかったのは、予定外だったのかもしれない。でも、ミアは逃がせた」


 ルイスが険しい表情になる。


「すぐに王都の出入口を封鎖します」


「お願い」


 ゼノンは頷いた。


「それから、ミアを連れ出した警備兵を特定してほしい」


「承知しました」


 ルイスが警備兵たちへ指示を出す。


 その間、ゼノンはヴェロニカへ視線を戻した。


「君は、ミアが逃がされることを知っていた?」


 ヴェロニカは答えなかった。


 ゼノンの赤い瞳が、静かに輝く。


「――これは、王家の命令だ」


 ヴェロニカの身体が強張った。


「知っていることを、すべて話して」


 彼女の唇が震える。


「ミアが、連れ出されることは知りませんでした」


「本当に?」


「はい」


 ヴェロニカは苦しそうに頷いた。


「エドモンド様は、私を迎えに来ると仰っていました。それ以外の計画については、何も……」


 ゼノンは、しばらく彼女を見つめていた。


「そう」


 そして、静かに続けた。


「エドモンドは、君にも本当の目的を話していなかったんだね」


 ヴェロニカは、何も答えられなかった。


 エドモンドが自分を迎えに来てくれた。


 そのことを、心から喜んでいた。


 けれど、彼は結局、自分を置いていった。


 その裏で、ミアを逃がしていたという。


 ヴェロニカは、ゆっくりと俯いた。


     ◇


 王宮の地下から戻る途中、セドリックが口を開いた。


「なあ、ゼノン」


「何?」


「ミアが逃げたってこと、ルシアにはどう伝える?」


 ゼノンは、少しだけ黙った。


 ミア。


 かつて、ルシアが人間として暮らしていた頃の親友。


 学校でも、アルベルトの家でも、いつも一緒にいた少女。


 けれど、今は違う。


 ミアはルシアの血に異常な執着を抱き、何度も傷つけた。


 ルシアが泣いても、やめてほしいと訴えても。


 それでも、ミアは笑っていた。


 そして、最後に会ったとき。


 ルシアは、はっきりと拒絶した。


『もう、会いに来ないで』


『私は、ミアが怖いの』


 その言葉を口にするまで、ルシアがどれほど苦しんだのか。


 ゼノンは、よく知っている。


「……隠しておくわけにはいかないね」


 静かに答えた。


「でも、今すぐ話す必要もないだろ?」


 セドリックが尋ねる。


「少なくとも、今夜は休ませてやってもいいんじゃねえか」


 ゼノンは、少しだけ考えた。


「そうだね」


 そして、窓の外へ視線を向けた。


 王都の夜景が、遠くまで広がっている。


「明日、僕から話すよ」


 セドリックが頷いた。


「ああ。それがいい」


 ゼノンは、静かに息を吐いた。


 ミアが逃げた。


 それは、ルシアにとって決して小さな出来事ではない。


 けれど、何より気になるのは。


 エドモンドが、なぜ今になってミアを必要としたのか。


 あの少女の執着を、エドモンドが知らないはずはない。


 ルシアの血を欲しがり、何度拒絶されても諦めない少女。


 そんなミアを、わざわざ王宮から逃がした。


「……嫌な予感がするね」


 ゼノンが小さく呟いた。


 セドリックが顔を向ける。


「何か分かったのか?」


「まだ、何も」


 ゼノンは首を横に振った。


「でも、エドモンドがミアを利用するつもりなのは、間違いないと思う」


 セドリックの表情が険しくなった。


「ルシアを誘い出すためか」


「それもあるだろうね」


 ゼノンは静かに答えた。


「あるいは、ルシアがミアを簡単には傷つけられないことを利用するつもりかもしれない」


 セドリックは、しばらく黙っていた。


「……厄介だな」


「うん」


 ゼノンは頷いた。


「だからこそ、今度は絶対に近づけさせない」


 その声には、強い決意が込められていた。


     ◇


 一方。


 王都から離れた森の奥。


 黒い馬車が、古い屋敷の前で停まった。


「着いたぞ」


 御者の声が響く。


 扉が開き、ミアが顔を覗かせた。


「わあ!」


 目の前には、大きな屋敷が建っていた。


 周囲は深い森に囲まれ、月明かりだけが窓を照らしている。


「ここにルシアがいるの?」


 ミアが嬉しそうに尋ねた。


「いや。まずはエドモンド様に会ってもらう」


「えー?」


 ミアは不満そうに頬を膨らませた。


「ルシアに会えるって言ったのに!」


「いずれ会わせてくださる」


「いつ?」


「それは、エドモンド様に聞け」


 ミアは、少しだけ考えた。


 それから、ぱっと笑顔になる。


「じゃあ、聞いてくる!」


 そのまま屋敷の玄関へ駆け出した。


     ◇


 屋敷の書斎では、エドモンドが一人、椅子に腰掛けていた。


 机の上には、数枚の資料が置かれている。


 ヴァルディエ家の警備体制。


 ゼノンの行動。


 そして、ルシアに関する報告。


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「エドモンド様!」


 ミアだった。


「やあ、ミア」


 エドモンドは、穏やかに微笑んだ。


「無事に来られたようだね」


「はい!」


 ミアは嬉しそうに頷いた。


「迎えに来てくれて、ありがとうございます!」


「どういたしまして」


 エドモンドは微笑んだ。


「王宮での生活は、退屈だったかい?」


「すっごく!」


 ミアは大きく頷いた。


「ずっと同じ部屋にいるだけで、誰とも遊べないんですもん!」


「それは可哀想だったね」


「本当ですよ!」


 ミアは、少しだけ頬を膨らませた。


「それで、ルシアはどこですか?」


 エドモンドの赤い瞳が、僅かに細められる。


「ルシア?」


「はい!」


 ミアは両手を胸の前で合わせた。


「また一緒に遊べるんですよね?」


 エドモンドは、しばらく少女を見つめていた。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「もちろん」


 ミアの表情が明るくなる。


「本当!?」


「ああ。ただし、少しだけ待ってもらう必要がある」


「えー!」


 ミアは不満そうに声を上げた。


「また待つんですか?」


「そうだよ」


 エドモンドは、穏やかに続けた。


「今度こそ、誰にも邪魔されずにルシアと会えるように準備しているんだ」


 ミアは、少しだけ考えた。


「ゼノンさんも?」


「もちろん、彼にも邪魔はさせない」


 その答えに、ミアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、待ちます!」


 エドモンドは満足そうに頷いた。


「いい子だね」


 そして、静かに尋ねた。


「ミア。君は、ルシアの血が好きなんだろう?」


「大好きです!」


 即答だった。


「すっごく美味しいんですよ!」


 ミアは、自分の唇へ指先を当てた。


「甘くて、濃くて。飲んだ瞬間、身体の奥まで満たされるみたいで……」


 その赤い瞳が、楽しそうに細められる。


「もう、普通の血じゃ満足できないんです」


 エドモンドは、興味深そうに少女を見つめていた。


「そうか」


 そして、静かに微笑んだ。


「それなら、私たちは気が合いそうだね」


 ミアが首を傾げる。


「エドモンド様も、ルシアの血が好きなんですか?」


「まだ飲んだことはないよ」


「ええっ!?」


 ミアは驚いたように目を丸くした。


「もったいない!」


 エドモンドは、小さく笑った。


「そうだね」


  その手が、机の上に置かれたルシアの写真へ伸びる。


 漆黒の髪。


 深紅の瞳。


 十八歳になったばかりの、美しい純血の王女。


 エドモンドは、写真を持ち上げた。


「本当に、ロザリアによく似ている」


「ロザリア?」


 ミアが首を傾げる。


「ルシアのお母様だよ」


「ああ!」


 ミアは納得したように頷いた。


「そういえば、ルシアってお母さんのこと、あんまり話してくれなかったなぁ」


「それは、覚えていなかったからだろうね」


「そうなんですか?」


「ああ。ゼノンが記憶を封じていたからね」


 エドモンドは写真を机へ戻した。


「でも、今はすべて思い出している」


「へえ!」


 ミアは興味深そうに笑った。


「じゃあ、ルシアも昔のことを覚えてるんですね!」


「そうだよ」


「よかったぁ!」


 ミアは嬉しそうに両手を合わせた。


「だったら、私のことも忘れてないですよね!」


 エドモンドは、少しだけ目を細めた。


「もちろん、覚えているだろうね」


「ですよね!」


 ミアは嬉しそうに頷いた。


 彼女にとって、ルシアが自分を怖がっていることなど、たいした問題ではなかった。


 昔、一緒に遊んでいた。


 親友だった。


 だから、また仲良くなれる。


 それだけで十分だった。


「ねえ、エドモンド様」


「何だい?」


「ルシアを連れてきたら、私にも血を飲ませてくれますか?」


 エドモンドは、しばらく少女を見つめていた。


「君は、どのくらい飲みたいんだい?」


「いっぱい!」


 ミアは迷わず答えた。


「前は途中で邪魔されちゃったから、今度はもっと飲みたいです!」


「そうか」


 エドモンドは静かに微笑んだ。


「でも、ルシアを殺してはいけないよ」


「分かってます!」


 ミアは元気よく頷いた。


「心臓を壊さなければいいんですよね!」


 エドモンドは、小さく笑った。


「それだけではないけれど、まあいい」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「どうしてですか?」


「私には、あの子に生きていてもらう必要があるからね」


「ふーん?」


 ミアは少しだけ考えた。


「じゃあ、ちゃんと生かしておきます!」


 そのあまりにも軽い返事に、エドモンドは楽しそうに目を細めた。


「頼もしいね」


     ◇


「ところで、ミア」


「はい?」


「君は、ルシアに嫌われてしまったんじゃないかい?」


 その言葉に、ミアの笑顔が止まった。


「嫌われてませんよ?」


「そうかな」


 エドモンドは、ゆっくりと椅子へ背中を預けた。


「最後に会ったとき、もう来ないでほしいと言われたそうじゃないか」


 ミアは、少しだけ頬を膨らませた。


「そうなんです!」


 不満そうに腕を組む。


「ルシア、すっごく冷たかったんですよ!」


「何と言われたんだい?」


「私のことが怖いって!」


 ミアは大袈裟にため息をついた。


「ひどいですよねぇ。私たち、親友なのに」


 エドモンドは黙って聞いていた。


「でも、きっとゼノンさんのせいだと思うんです」


「ゼノンの?」


「はい!」


 ミアは頷いた。


「ゼノンさんって、ルシアのこと独り占めしたがるでしょう?」


「そうだね」


「だから、私と遊ばせたくないんですよ!」


 エドモンドは、小さく笑った。


「なるほど」


「絶対そうです!」


 ミアは自信満々に続けた。


「だって、ルシアは昔から私のこと大好きだったんですもん!」


 エドモンドは、机の上の写真へ視線を向けた。


 ゼノン。


 あの男は、ルシアを守るためなら何でもする。


 自分の命さえ惜しまないだろう。


 そして、ルシアもまた、兄を深く愛している。


 その関係を壊すことは、簡単ではない。


 けれど。


 目の前の少女は、少し違った。


 ルシアがかつて親友として大切にしていた存在。


 今は恐怖の対象となっているにもかかわらず、完全に憎みきることはできない相手。


 その複雑な感情を利用すれば、思わぬ隙が生まれるかもしれない。


「ミア」


「はい?」


「君に、お願いしたいことがあるんだ」


 ミアの表情が明るくなる。


「何ですか?」


「ルシアに会えたら、少しだけ私に協力してほしい」


「協力?」


「ああ」


 エドモンドは、穏やかに微笑んだ。


「ゼノンがルシアから離れるように、手伝ってほしいんだ」


 ミアは、少しだけ考えた。


「ゼノンさんを?」


「そう」


「どうしてですか?」


「彼がいると、君はルシアとゆっくり遊べないだろう?」


 その言葉に、ミアは目を輝かせた。


「あっ、確かに!」


 エドモンドは頷いた。


「だから、私がゼノンを引き受ける。その間、君はルシアと一緒にいればいい」


「本当ですか!?」


「もちろん」


 ミアは、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私も頑張ります!」


「いい子だね」


 エドモンドは、満足そうに微笑んだ。


 ミアは知らない。


 エドモンドがゼノンの心臓を狙っていることを。


 そして、ルシアを自分のものにしようとしていることを。


 ただ、また親友と遊べる。


 血を飲ませてもらえる。


 それだけを楽しみにしていた。


     ◇


 ミアが書斎を出ていったあと。


 エドモンドは、しばらく扉を見つめていた。


 やがて、静かに笑った。


「本当に、扱いやすい子だ」


 そのとき、書斎の奥にある扉が開いた。


「エドモンド様」


 黒い外套を着た男が姿を現す。


「ミアは、いかがでしたか?」


「期待どおりだよ」


 エドモンドは、机の上の写真へ視線を向けた。


「あの子は、ルシアの血を欲しがっている。それ以外のことには、ほとんど興味がない」


「では、計画に利用できると?」


「ああ」


 エドモンドは頷いた。


「ゼノンを相手にするには、少しでも注意を逸らす必要があるからね」


 男は、静かに頭を下げた。


「承知しました」


「それから、ヴェロニカについては?」


「現在も王宮に拘束されています」


「そうか」


 エドモンドは、少しだけ考えた。


 ヴェロニカ。


 視線によって、相手の動きと異能を一時的に封じることができる女。


 ゼノンを倒すためには、あの力が必要だった。


 けれど、王家の命令によって拘束されている以上、簡単には連れ出せない。


「……困ったね」


 エドモンドは、小さく呟いた。


 しかし、その表情には焦りがなかった。


「まあ、時間はある」


 男が顔を上げる。


「次の手を?」


「そうだよ」


 エドモンドは、ゆっくりと立ち上がった。


「ヴェロニカが使えないなら、別の方法を考えればいい」


 その赤い瞳が、静かに細められる。


「ゼノンは強い。王家の命令も、重圧も、影狼もある」


 エドモンドは、机の上の資料を一枚取り上げた。


「だが、どれほど強い者にも、弱点はある」


 男は黙って続きを待った。


「ゼノンの弱点は、ルシアだ」


 エドモンドは、楽しそうに微笑んだ。


「そして、ルシアの弱点は……」


 写真の少女を指先でなぞる。


「大切な者を、見捨てられないことだよ」


 男は、静かに息を呑んだ。


「では、ルシア様を人質に?」


「それも一つの方法だね」


 エドモンドは、ゆっくりと首を傾げた。


「だが、ただ捕まえるだけでは面白くない」


 その声が、少しだけ低くなる。


「ゼノンには、自分の目の前でルシアを奪われる絶望を味わってもらいたいんだ」


 男は、何も答えられなかった。


 エドモンドは、静かに笑った。


「どんな顔をするだろう」


 その瞳には、歪んだ期待が浮かんでいた。


     ◇


 一方。


 ヴァルディエ家の屋敷では、ゼノンが自室の窓辺に立っていた。


 王宮から戻ったばかりだった。


 夜はすでに深く、屋敷の廊下も静まり返っている。


 机の上には、王宮から持ち帰った報告書が置かれていた。


 ミアの脱獄。


 内部協力者の存在。


 そして、エドモンドの動向。


 どれも、簡単には見過ごせないものだった。


 ゼノンは、静かに息を吐いた。


「……ミア、か」


 かつて、ルシアの親友だった少女。


 ルシアが人間として過ごしていた頃、何度も名前を聞いたことがある。


 楽しそうに笑いながら、学校での出来事を話してくれた。


 ミアと買い物へ行ったこと。


 ミアと一緒に勉強したこと。


 ミアがアルベルトの家へ遊びに来たこと。


 そんな何気ない日常。


 それが、今ではルシアを苦しめる記憶になっている。


 ゼノンは、静かに目を閉じた。


 あの日。


 ルシアが、ミアに告げた言葉。


『もう、会いに来ないで』


『私は、ミアが怖いの』


 あのとき、ルシアは震えていた。


 それでも、はっきりと自分の気持ちを伝えた。


 ゼノンは、その姿を忘れていない。


「……また、怖がらせることになるね」


 小さく呟いた。


 ミアが逃げたことを、ルシアへ伝えなければならない。


 隠しておくことはできない。


 けれど、できることなら。


 もう二度と、あの少女をルシアへ近づけたくなかった。


 そのとき。


 扉が、控えめに叩かれた。


「お兄様?」


 聞き慣れた声。


 ゼノンは、すぐに表情を和らげた。


「ルシア?」


「うん。まだ起きてる?」


「起きてるよ。入っておいで」


 扉が開く。


 そこには、寝間着姿のルシアが立っていた。


 漆黒の髪が肩へ流れ、赤い瞳が少し眠そうに細められている。


 足元には、白狼ルナ。


「どうしたの?」


 ゼノンが尋ねる。


 ルシアは、少しだけ迷った。


「……眠れなくて」


「そう」


 ゼノンは、優しく微笑んだ。


「おいで」


 ルシアは、ゆっくりと近づいた。


 ゼノンがソファへ腰を下ろすと、その隣へ座る。


 ルナも足元で丸くなった。


「……お兄様」


「何?」


「今日も、いろいろあったね」


「そうだね」


 ルシアは、小さく息を吐いた。


「最近、何だか落ち着かない」


 ゼノンは、黙って聞いていた。


「エドモンドのことも、王宮のことも……」


 ルシアは、膝の上で手を重ねた。


「全部、早く終わればいいのに」


 ゼノンは、そっとその手を取った。


「うん」


「そうしたら、またみんなで普通に過ごせるかな」


「もちろん」


 ゼノンは微笑んだ。


「きっと、そうなるよ」


 ルシアは、少しだけ安心したように笑った。


 その笑顔を見て、ゼノンの胸が痛んだ。


 ミアの脱獄。


 まだ、伝えていない。


 明日、話すつもりだった。


 けれど、今こうして隣にいるルシアを見ると、どうしても言葉が出てこなかった。


「……お兄様?」


「何?」


「どうかした?」


 ゼノンは、少しだけ驚いたように顔を上げた。


「どうして?」


「何だか、考え事してるみたい」


 ルシアは、静かに微笑んだ。


「私に、何か隠してる?」


 その言葉に、ゼノンの動きが止まった。


 ルシアは、じっと兄を見つめている。


 昔なら、気づかなかったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 十一年間封じられていた記憶が戻り、ゼノンがどれほど自分を守ろうとしてきたのか、知っている。


 だからこそ。


 その優しさの裏にある、不安にも気づくようになっていた。


「……ルシア」


 ゼノンは、静かに名前を呼んだ。


「うん?」


「明日、話そうと思っていたことがあるんだ」


 ルシアの表情が変わった。


「……何?」


 ゼノンは、少しだけ迷った。


 けれど、もう隠すことはできない。


「ミアが、王宮から逃げたんだ」


 その瞬間。


 ルシアの表情から、笑みが消えた。


「……え?」


 ゼノンは、静かに続けた。


「エドモンドの協力者が、連れ出したらしい」


 ルシアは、しばらく何も言えなかった。


 ミア。


 最後に会ったとき。


 もう来ないでほしいと伝えた。


 怖いから、会いたくないと。


 それでも、あの少女は笑っていた。


『またね!』


 その声が、耳の奥に蘇る。


「……また、来るのかな」


 小さな声だった。


 ゼノンは、ルシアの手を握った。


「分からない」


 正直に答えた。


「でも、絶対に近づけさせないよ」


 ルシアは、ゆっくりと頷いた。


 けれど、その瞳には不安が浮かんでいた。


「……お兄様」


「何?」


「私、ミアのこと……」


 言葉が途切れる。


 怖い。


 もう会いたくない。


 もう何度思ったか。


 それなのに。


 昔の思い出まで、消えてしまったわけではない。


「……どうしたらいいのか、分からない」


 ゼノンは、そっとルシアを抱き寄せた。

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