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王家の決断



 翌日の夕刻。


 ベルフォート王宮では、緊急の会議が開かれていた。


 広い会議室の中央には、長い机が置かれている。


 その上には、昨夜ヴァルディエ家の地下記録庫から回収された資料が並べられていた。


 先代女王マリアと王配セオドールの死亡記録。


 当時の警備兵の出入りを記した帳簿。


 そして、エドモンドの部下から得られた証言。


 十一年前の王家襲撃だけではない。


 さらに昔から続いていた、ヴァルディエ家に対する陰謀。


 その全貌が、少しずつ明らかになり始めていた。


「つまり、先代女王夫妻の死にも、エドモンドが関与していたということか」


 レオナード・ベルフォートが低い声で尋ねた。


「はい」


 ゼノンは静かに頷いた。


「地下記録庫で拘束した男が、王家の命令によって証言しました」


 レオナードは、机の上に置かれた帳簿へ視線を向けた。


「当時は自然死として処理されていたはずだ」


「ええ。長い眠りの途中で亡くなられたと聞かされていました」


 ルイスが口を開く。


「ですが、今回発見された記録には、不審な出入りが確認されています」


 彼は帳簿の一頁を開いた。


「死亡したとされる日の深夜、同じ警備兵が二度、寝所へ入っています」


「通常では考えられないな」


 レオナードが眉を寄せる。


「その警備兵は?」


「事件の直後に死亡しています」


 ルイスが答えた。


「王都の外れで遺体が発見されましたが、当時は別件として扱われていたようです」


 セドリックが腕を組んだ。


「口封じの可能性が高いですね」


 レオナードは静かに頷いた。


「それで、エドモンドの部下は何と?」


 ゼノンが答える。


「エドモンドが血の支配を使って内部の者を操り、祖父母の寝所へ侵入したと証言しています」


 その言葉に、会議室が静まり返った。


「実の姉と兄を、か」


 レオナードが低く呟く。


「王位のために、そこまでするとは」


 ゼノンは何も答えなかった。


 ただ、机の上に置かれた古い帳簿を見つめていた。


     ◇


「もう一つ、重要なことがあります」


 ルイスが口を開いた。


 レオナードが顔を上げる。


「何だ?」


「エドモンドは現在、ゼノン様の心臓を狙っているようです」


 会議室に緊張が走った。


「心臓?」


「はい」


 ルイスは頷いた。


「ロザリア様の心臓を食べて治癒の異能を奪ったことから、同じ方法で王家の命令を手に入れようとしていると」


 レオナードの表情が険しくなる。


「王家の命令を奪うだと?」


 ゼノンが静かに口を開いた。


「成功するかどうかは、本人にも分かっていないようです」


「それでも試すつもりか」


「ええ」


 ゼノンは頷いた。


「僕を殺せば、少なくとも王位継承の障害は一つ減りますからね」


 レオナードは、しばらくゼノンを見つめていた。


「ゼノン。お前は、どうするつもりだ?」


「エドモンドを捕らえます」


 迷いのない答えだった。


「父上と母上だけでなく、祖父母まで殺していた。これ以上、放っておくわけにはいきません」


「だが、相手は純血種だ」


「分かっています」


「しかも、ロザリア様の治癒を奪っている」


 ゼノンは静かに頷いた。


「だからこそ、慎重に動く必要があります」


 レオナードは、腕を組んだ。


「ベルフォート家も全面的に協力しよう」


「ありがとうございます」


 ゼノンが頭を下げる。


「ただし、一つ条件がある」


 レオナードが続けた。


「お前一人で、エドモンドを追うな」


 ゼノンが顔を上げた。


「……はい?」


「お前は今、ヴァルディエ家の正統な王位継承者だ」


 レオナードは真剣な表情で続ける。


「万が一、お前まで失えば、王家の血統はルシア嬢だけになってしまう」


 ゼノンは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「分かりました」


 レオナードは頷いた。


「よろしい」


     ◇


 その頃。


 ヴァルディエ家の屋敷では、ルシアがエリーゼと一緒に居間で過ごしていた。


 テーブルには、温かい紅茶と焼き菓子が並んでいる。


 足元では、ルナが丸くなっていた。


「ルシア、今日は少し顔色がいいわね」


 エリーゼが微笑んだ。


「……そうかな」


「ええ。昨日は随分と疲れていたもの」


 私は小さく頷いた。


「うん。昨日はいろいろあったから」


 マリアお祖母さまの手紙。


 お父さまとお母さまのこと。


 そして、エドモンドが今もお兄様の心臓を狙っていること。


 思い出すだけで、胸が苦しくなる。


「エリーゼ」


「何?」


「……お兄様、大丈夫かな」


 エリーゼは、私を見つめた。


「王宮での会議のこと?」


「うん。それもあるけど……」


 私は、カップへ視線を落とした。


「エドモンドが、お兄様の心臓を狙ってるって聞いたから」


 エリーゼの表情が変わった。


「……そうね」


「お兄様は強いって分かってる」


 私は小さく続けた。


「でも、お父さまも強かったんでしょう?」


 エリーゼは何も答えなかった。


「お祖母さまだって、王家の命令を使えたのに……」


 言葉が途切れる。


 どれほど強くても。


 絶対に負けないとは限らない。


 それを、私は知ってしまった。


「……怖いの」


 小さく呟いた。


「お兄様まで、いなくなっちゃうんじゃないかって」


 エリーゼは、そっと私の手を取った。


「ルシア」


 私は顔を上げた。


「怖いと思うのは、当然よ」


 エリーゼは優しく続けた。


「でも、ゼノンさんは一人じゃないわ」


「……うん」


「アルベルトさんも、セドリックさんも、ラビさんもいる。もちろん、私たちだって」


 私は、小さく頷いた。


「そうだね」


「それに、あなたもいるでしょう?」


 その言葉に、私は目を瞬いた。


「……私?」


「ええ」


 エリーゼは微笑んだ。


「あなたは、昨日エドモンドの攻撃を何度も防いだじゃない」


「でも、最後は捕まっちゃった」


「それでも、以前のあなたなら、あそこまで戦えなかったと思うわ」


 私は、少しだけ考えた。


 確かに。


 反射を発現したばかりの頃は、木の球を跳ね返すだけでも精一杯だった。


 それが今は、実際の攻撃を防げるようになっている。


 ルナとも、少しずつ連携できるようになった。


「……もっと強くなりたい」


 思わず、言葉が零れた。


 エリーゼが私を見つめる。


「ルシア?」


「お兄様に、守ってもらってばかりじゃなくて」


 私は、そっとルナの頭を撫でた。


「私も、お兄様を守れるようになりたい」


 ルナが顔を上げた。


 赤い瞳が、私を見つめる。


 その感覚が、胸の奥へ伝わってくる。


 私と同じ気持ち。


 ルナも、そう思っている。


「……だから、訓練を頑張ろうと思う」


 エリーゼは、しばらく私を見つめていた。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「ええ。私も付き合うわ」


「……ありがとう」


 私は小さく笑った。


     ◇


 その日の夜。


 王宮から戻ったゼノンは、真っ先にルシアの部屋へ向かった。


 扉を叩く。


「ルシア、起きてる?」


「お兄様?」


 中から声が返ってくる。


「入っていい?」


「うん」


 扉を開けると、ルシアは窓辺の椅子に座っていた。


 膝の上には、一冊の本。


 足元ではルナが眠っている。


「おかえりなさい」


 ルシアが微笑んだ。


「ただいま」


 ゼノンは、彼女のそばへ歩み寄った。


「今日は何してたの?」


「エリーゼとお茶してた。それから、少しだけ訓練もしたよ」


「訓練?」


「うん。反射の練習」


 ゼノンが眉を寄せた。


「昨日あんなに疲れてたのに?」


「無理はしてないよ」


 ルシアは小さく笑った。


「エリーゼも一緒だったし」


「そっか」


 ゼノンは、少しだけ安心したように息を吐いた。


 それから、ルシアの隣へ腰を下ろした。


「王宮で、いろいろ決まったよ」


「……うん」


「ベルフォート家も協力して、エドモンドを探すことになった」


「そうなんだ」


 ルシアは静かに頷いた。


 けれど、その表情には、まだ不安が残っていた。


「お兄様」


「何?」


「……一つ、お願いしてもいい?」


 ゼノンが微笑む。


「もちろん」


 ルシアは、少しだけ迷った。


 それから、そっとゼノンの手を取った。


「私に、もっと戦い方を教えてほしいの」


 ゼノンの表情が変わった。


「戦い方?」


「うん」


 ルシアは頷いた。


「反射も、ルナとの連携も。もっと上手に使えるようになりたい」


「……どうして?」


 ゼノンは、静かに尋ねた。


 ルシアは、まっすぐ彼を見つめた。


「お兄様を守りたいから」


 その言葉に、ゼノンの赤い瞳が僅かに揺れた。


「……僕を?」


「うん」


 ルシアは小さく頷いた。


「いつも、お兄様が私を守ってくれるでしょう?」


「それは当然だよ」


「でも、私だって同じ気持ちなの」


 ルシアは、ゼノンの手を握り締めた。


「お兄様に、いなくなってほしくない」


 ゼノンは、何も言わなかった。


「お父さまも、お母さまも……お祖母さまたちも、もういないから」


 声が少しだけ震える。


「お兄様までいなくなったら、私……」


 最後まで言えなかった。


 ゼノンは、そっとルシアを抱き寄せた。


「ルシア」


 その声は、驚くほど優しかった。


「ありがとう」


 ルシアは、彼の胸へ顔を埋めた。


「……教えてくれる?」


「もちろん」


 ゼノンは、ルシアの髪を撫でた。


「でも、一つ約束して」


「……何?」


「僕を守ろうとして、自分の命を投げ出さないこと」


 ルシアが顔を上げる。


「……うん」


「僕も、ルシアを守るために無茶はしない」


「……本当?」


「本当だよ」


 ゼノンは微笑んだ。


「二人とも、生きて帰ること。それが一番大切だから」


 ルシアは、ゆっくりと頷いた。


「……分かった」


「じゃあ、明日から少しずつ始めようか」


「うん」


 ルシアは、小さく微笑んだ。


「よろしくお願いします、お兄様」


 ゼノンは、その額へ優しく口づけた。


「こちらこそ」


     ◇


 一方。


 王都から離れた、森の奥に建つ古い屋敷。


 エドモンドは、薄暗い書斎で一人、椅子に腰掛けていた。


 机の上には、ヴァルディエ家の地下記録庫から持ち出した古い資料が並んでいる。


 歴代の王。


 王家の命令。


 そして、マリアとセオドールの死亡記録。


 エドモンドは、その一枚を手に取った。


「懐かしいね」


 小さく笑う。


 マリア。


 セオドール。


 アルフォンス。


 ロザリア。


 かつて、自分の前に立ちはだかった者たち。


 今は、もう誰もいない。


 残っているのは、ゼノンとルシアだけ。


「本当に、よく似ている」


 エドモンドは、机の上に置かれたルシアの写真を手に取った。


 漆黒の髪。


 深紅の瞳。


 整った顔立ち。


 その姿には、母ロザリアの面影があった。


「ロザリア」


 エドモンドは、懐かしそうに名前を呟いた。


「君は最後まで、私を見ようとしなかったね」


 その声には、僅かな苛立ちが混じっていた。


「だが、娘は違う」


 写真の少女を見つめる。


「ルシアは、まだ何も知らない」


 エドモンドは、静かに微笑んだ。


「私が、ゆっくり教えてあげよう」


 そのとき、扉が叩かれた。


「エドモンド様」


「入りなさい」


 黒い外套を着た男が入ってくる。


「ご報告がございます」


「何だい?」


「ベルフォート王宮が、正式に捜索命令を出しました」


 エドモンドは、小さく笑った。


「そうか」


「王都周辺の屋敷や、協力者の拠点にも調査が入っております」


「構わないよ」


 エドモンドは、資料を机へ戻した。


「いずれ、そうなると思っていた」


 男は、少しだけ戸惑った。


「では、今後は?」


 エドモンドは、ゆっくりと立ち上がった。


「準備を進めよう」


「何の準備でしょうか?」


 その赤い瞳が、静かに細められる。


「ゼノンを迎える準備だよ」


 男の表情が変わった。


「ゼノン様を?」


「ああ」


 エドモンドは微笑んだ。


「ゼノンには、ぜひ一度ここへ来てもらいたいんだ」


 男は、困惑したように眉を寄せた。


「ですが、ゼノン様は王家の命令をお持ちです。こちらへ招いたところで、我々が従わされるだけでは?」


「もちろん、何の準備もせずに招くつもりはないよ」


 エドモンドは、机の上に広げられた古い資料へ視線を落とした。


 そこには、歴代のヴァルディエ王家の名が記されている。


 マリア。


 アルフォンス。


 そして、ゼノン。


 王家の命令を発現した者たち。


 エドモンドは、その名前を指先でなぞった。


「不思議だと思わないかい?」


「何がでしょうか?」


「同じヴァルディエの血を引いているのに、なぜ私には王家の命令が発現しなかったのか」


 男は答えなかった。


「姉のマリアには発現した。アルフォンスにも。そして、ゼノンにも」


 エドモンドは小さく笑った。


「まるで、私だけが選ばれなかったようじゃないか」


「エドモンド様……」


「私は、誰よりも王に相応しいと思っていたんだよ」


 その声には、静かな苛立ちが滲んでいた。


「マリアは、いつも正しさばかりを口にしていた。セオドールは、そんな姉を支えることに満足していた」


 エドモンドは、椅子へ深く腰掛けた。


「私は違った。もっと大きなものが欲しかったんだ」


 男は、慎重に口を開いた。


「王位、ですか?」


「それもある」


 エドモンドは頷いた。


「誰にも命令されず、誰にも逆らわれない立場。私が望んでいたのは、それだよ」


 机の上に置かれた写真へ、視線を移す。


 ルシア。


 漆黒の髪と深紅の瞳を持つ、若い王女。


「それに、欲しいものはもう一つある」


 男は写真を見た。


「ルシア様、ですか」


「ああ」


 エドモンドの表情が柔らかくなる。


「ロザリアは、最後まで私を拒んだ」


 その声には、懐かしさと不満が入り混じっていた。


「血を分けてほしいと頼んでも、彼女は決して許してくれなかった。アルフォンス以外には、心を開こうとしなかったんだ」


 エドモンドは、写真の少女を見つめた。


「だが、ルシアは違う」


「違う、とは?」


「まだ若い。これからいくらでも時間がある」


 エドモンドは、ゆっくりと微笑んだ。


「ロザリアの血を引きながら、彼女とは違う美しさを持っている。あの子の血がどんな味なのか、考えるだけで楽しみだよ」


 男は、僅かに視線を伏せた。


「ですが、ルシア様はゼノン様の婚約者です」


「知っているよ」


 エドモンドは、何でもないことのように答えた。


「だからこそ、ゼノンが邪魔なんだ」


 机の上の資料を、一枚持ち上げる。


「ゼノンの心臓を食べれば、王家の命令を奪えるかもしれない」


「もし、奪えなかった場合は?」


「それでも構わない」


 エドモンドは微笑んだ。


「ゼノンがいなくなれば、ルシアは私のものになる」


 その言葉に、男は何も答えられなかった。


「王家の命令が手に入れば、私は王になれる。手に入らなくても、王位を継ぐ最大の障害は消える」


 エドモンドは、資料を机へ戻した。


「どちらにしても、試す価値はあるだろう?」


 男は、深く頭を下げた。


「……仰せのままに」


「ただし、正面から戦うつもりはないよ」


 エドモンドが続けた。


「ゼノンの重圧は厄介だ。影狼も二匹いる」


 男は頷いた。


「ガルとレオ、ですね」


「ああ。アルフォンスのように瞬間移動こそできないが、あの二匹との連携は見事だった」


 エドモンドは、先日の戦いを思い出していた。


 自分の動きを先読みするように配置される黒狼。


 重圧によって動きを制限される身体。


 そして、何より厄介なのが王家の命令だった。


「私の血の支配では、ゼノンに勝てない」


 エドモンドは静かに認めた。


「彼は、私が操っている者たちの支配を上書きできるからね」


「では、どうなさるのですか?」


「王家の命令を使わせる前に、動きを封じる」


 男の表情が変わった。


「ヴェロニカ様の異能を?」


「そうだよ」


 エドモンドは頷いた。


「彼女の視線による封印は、相手の動きと異能を一時的に封じられる。ゼノンであっても、完全に防げるとは限らない」


「ですが、ヴェロニカ様は王宮に拘束されています」


「知っている」


 エドモンドは、楽しそうに笑った。


「だから、取り戻す必要があるんだ」


 男は顔を上げた。


「救出なさるのですか?」


「もちろん」


 エドモンドは、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


 そこには、王宮の地下拘束区画の見取り図が描かれていた。


「ドラクロワ家は、長い間ベルフォート家と関わりを持ってきた。王宮の内部事情にも詳しい者がいる」


 男は、図面を覗き込んだ。


「内部に協力者が?」


「いるとも」


 エドモンドは微笑んだ。


「私の血を飲んだ者がね」


 その赤い瞳が、静かに細められる。


「ヴェロニカには、まだ働いてもらわなければならない」


     ◇


 翌日の午後。


 ヴァルディエ家の訓練場では、ルシアがゼノンと向かい合っていた。


 昨日の夜に約束した、反射の訓練。


 今日は、ルナとの連携を中心に練習することになっている。


「準備はいい?」


 お兄様が尋ねた。


「うん」


 私は小さく頷いた。


 足元にはルナ。


 少し離れた場所には、ガルとレオが並んでいる。


 訓練場の端では、クレイドとエリーゼが見守っていた。


「今日は何するんだ?」


 クレイドが尋ねる。


「ルシアとルナが、別々の方向から来る攻撃を同時に防げるか試すんだ」


 お兄様が答えた。


「へえ。面白そうだな」


「ただし、最初はゆっくりね」


 お兄様は、私へ視線を戻した。


「ルシア。自分の視界だけじゃなくて、ルナの視界も意識してみて」


「……うん」


 私は目を閉じた。


 ルナの感覚が、少しずつ伝わってくる。


 風の匂い。


 地面の感触。


 遠くで揺れる木々。


 そして、目の前にいるお兄様の姿。


 自分の目で見ている景色と、ルナの目で見ている景色。


 二つが重なっていく。


「……できた」


 小さく呟くと、お兄様が微笑んだ。


「じゃあ、始めようか」


 お兄様が手を上げる。


 ガルとレオが、それぞれ左右へ移動した。


 黒狼たちの足元には、小さな木製の球が置かれている。


「ガルがルシアへ、レオがルナへ球を転がすよ」


「分かった」


「同時に防いでみて」


 私は深く息を吸った。


 落ち着いて。


 焦らないで。


 次の瞬間。


 二つの球が、同時に転がってきた。


 右側。


 左側。


 私は、咄嗟に手を伸ばした。


 透明な膜が現れる。


 球が触れ、反対方向へ転がっていく。


 同時に、ルナの前にも透明な膜が広がった。


 もう一つの球が弾かれる。


「……できた!」


 私は思わず顔を上げた。


 お兄様が嬉しそうに微笑んだ。


「うん。今のはよかったよ」


 クレイドも頷いた。


「ちゃんと同時に防げてたな」


 エリーゼが拍手する。


「すごいわ、ルシア」


 私は、少しだけ照れくさくなった。


「……ありがとう」


 ルナが嬉しそうに尻尾を振る。


     ◇


「じゃあ、次は少しだけ難しくするよ」


 お兄様が告げた。


「難しく?」


「うん。今度は、どちらに攻撃が来るか分からないようにする」


 私は少しだけ緊張した。


「……分かった」


 ガルとレオが、訓練場の左右へ移動する。


 今度は、球を転がす方向を決めていないらしい。


 私はルナへ視線を向けた。


 白狼も、こちらを見上げている。


「頑張ろうね」


 ルナが小さく鼻を鳴らした。


 お兄様が手を上げる。


 次の瞬間、ガルが動いた。


 球が私へ向かって転がる。


 私は反射を展開した。


 球が弾かれる。


 けれど、その直後。


 レオが別の球をルナへ向かって放った。


「……っ!」


 私は、咄嗟にルナの視界へ意識を向けた。


 透明な膜が現れる。


 球が弾かれた。


 けれど、今度はガルがもう一つの球を放っていた。


「……あ」


 気づいたときには、もう遅かった。


 球が、私の足元へ転がってくる。


 私は慌てて反射を使おうとした。


 けれど、間に合わない。


 ころん。


 木の球が、靴へ軽く当たった。


「……失敗」


 私は、小さく呟いた。


 お兄様が近づいてくる。


「大丈夫だよ」


「でも、最後の球に気づかなかった」


「うん」


 お兄様は頷いた。


「ルナの視界に集中しすぎたんだね」


 私は、少しだけ俯いた。


「……そうかも」


「最初は、それでいいんだよ」


 お兄様は優しく続けた。


「二つの視界を同時に使うのは、簡単じゃないから」


 私は顔を上げた。


「お兄様も、最初はそうだった?」


「もちろん」


 お兄様は微笑んだ。


「ガルとレオを同時に動かすのだって、最初からできたわけじゃない」


「……そっか」


「焦らなくていいよ」


 その言葉に、私は小さく頷いた。


     ◇


 訓練が一段落した頃。


 クレイドが、木製の剣を手に近づいてきた。


「なあ、ルシア」


「何?」


「次は俺とやってみるか?」


 私は目を瞬いた。


「クレイドと?」


「ああ」


 クレイドは、剣を軽く振った。


「球を弾くだけじゃ、実戦じゃ使えねえだろ」


 お兄様が、少しだけ眉を寄せた。


「クレイド」


「分かってる。手加減するって」


「本当に?」


「信用ねえな」


 クレイドが呆れたように笑った。


 私は、二人を見比べた。


「……やってみたい」


 お兄様が私を見る。


「ルシア?」


「クレイドと、少しだけ」


 私は小さく微笑んだ。


「前より、ちゃんと防げるか試したい」


 お兄様は、しばらく考えていた。


 やがて、頷いた。


「分かった。でも、危ないと思ったらすぐ止めるからね」


「うん」


 クレイドが笑った。


「よし。じゃあ、始めるか」


 私はルナと一緒に、訓練場の中央へ移動した。


 クレイドが木剣を構える。


 私は、ゆっくりと息を吸った。


 怖くない。


 今は、守ってくれる人がいる。


 そして、自分にも守る力がある。


 それを、少しずつ確かめていきたい。


「……お願いします」


 私が言うと、クレイドは笑った。


「おう。遠慮すんなよ」


 その瞬間。


 クレイドが地面を蹴った。


 木剣が、私の肩へ向かって振り下ろされる。


 私は、咄嗟に右手を上げた。


 透明な膜が現れる。


 木剣が触れ、強く弾かれた。


「おっ!」


 クレイドが目を見開く。


「やるじゃねえか!」


 私は、少しだけ笑った。


 けれど、クレイドはすぐに次の動きへ移った。


 今度は、左側。


 私はルナへ意識を向けた。


 白狼が飛び出し、透明な膜を展開する。


 木剣が弾かれた。


 クレイドが後ろへ跳ぶ。


「へえ。こりゃ厄介だな」


 その声には、楽しそうな響きがあった。


 私は、少しだけ息を整えた。


 まだ、完璧ではない。


 けれど。


 以前よりも、確かに動けるようになっている。


「……もう一回、お願い」


 クレイドが笑った。


「いいぜ」


 お兄様が、少し離れた場所から見守っている。


 その赤い瞳は、優しかった。


 けれど、どこか真剣でもあった。


 私が強くなろうとしていること。


 それを、きっと嬉しく思ってくれている。


 同時に。


 これから待ち受ける危険を、誰よりも理解しているのだろう。


 私は、もう一度構えた。


 お兄様を守れるようになるために。


 ルナと一緒に。


 少しずつ、強くなろう。


     ◇


 その日の夜。


 ベルフォート王宮の地下拘束区画では、一人の警備兵が静かに廊下を歩いていた。


 手には、銀の盆。


 その上には、血液の入った小さなグラスが置かれている。


 警備兵は、廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まった。


「ヴェロニカ・ドラクロワ」


 扉の向こうから、女の声が返ってくる。


「何かしら?」


「食事をお持ちしました」


 

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