王女を迎える夜
エドモンドが部屋を出ていくと、ヴェロニカはしばらくその場に立ち尽くしていた。
窓の外には、王都の灯りが広がっている。
ゼノンたちは、間もなくここへ来るだろう。
ミアたちが捕らえられた以上、この別邸の場所が知られるのは時間の問題だった。
いや。
エドモンドは、それすら計画の一部としていた。
「私を囮にするなんて」
ヴェロニカは小さく呟いた。
エドモンドが自分を大切に思っているなど、最初から信じてはいない。
あの男にとって、他人はすべて利用するための駒なのだ。
それでも、ここまで来てしまった。
十一年前。
アルフォンスの黒狼を封じ、ロザリアが殺される手助けをしたあの日から。
もう、引き返せないところまで。
ヴェロニカは机の引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。
中には、ギルベルトから届いた古い手紙が入っている。
ドラクロワ家を守れ。
父は、いつもそう言っていた。
けれど、今やその父も王宮に拘束されている。
妹のレティシアも同じだ。
そして、ミアまで捕まった。
残されているのは、自分だけ。
「本当に、愚かな家族ね」
ヴェロニカは静かに笑った。
それが父に向けた言葉なのか、妹に向けたものなのか。
あるいは、自分自身に向けたものなのか。
もう、分からなかった。
◇
翌朝。
ベルフォート王宮では、ヴェロニカの潜伏先を調べるための会議が開かれていた。
長い机には、王都周辺の地図が広げられている。
レオナード・ベルフォート。
ルイス・ベルフォート。
そして、ゼノン・ヴァルディエ。
その隣には、セドリックとアルベルトもいた。
「場所は特定できたのか?」
セドリックが尋ねる。
ルイスが頷いた。
「はい。ミアとともに拘束された男たちの証言から、王都の西側にある別邸が浮かび上がりました」
地図の一点へ指を置く。
「ここです」
ゼノンは静かに地図を見つめた。
「ドラクロワ家の所有地?」
「名義上は別の貴族のものですが、実際にはドラクロワ家が管理していたようです」
アルベルトが眉を寄せる。
「ギルベルトが用意した隠れ家か」
「その可能性が高いですね」
ルイスが答えた。
レオナードは腕を組んだ。
「ヴェロニカがいるという確証は?」
「昨夜、周辺で彼女に似た女性が目撃されています。ただし、本人と断定はできていません」
ゼノンは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「罠かもしれないね」
ルイスが顔を上げる。
「罠、ですか?」
「うん」
ゼノンは頷いた。
「エドモンドが、こんなに簡単に居場所を教えるとは思えない」
セドリックも同意するように頷いた。
「俺もそう思う。ミアたちを捕まえられた時点で、ヴェロニカは逃げる時間があったはずだ」
「それなのに、まだ別邸にいる」
アルベルトが続けた。
「わざと待っている可能性があるな」
レオナードは、静かに息を吐いた。
「ならば、どうする?」
ゼノンは地図から顔を上げた。
「僕が行きます」
その言葉に、アルベルトの表情が変わった。
「ゼノン」
「分かってるよ。罠かもしれないことは」
「なら、なおさら一人で行くな」
ゼノンは微笑んだ。
「もちろん。一人で行くつもりはないよ」
そして、セドリックへ視線を向けた。
「セドリック、付き合ってくれる?」
「当たり前だろ」
セドリックは即答した。
「十一年前の件もある。俺もヴェロニカには聞きたいことが山ほどあるからな」
「ありがとう」
ゼノンは頷いた。
アルベルトも口を開く。
「俺も行く」
「アルベルトは、屋敷に残ってほしい」
その言葉に、アルベルトが眉を寄せた。
「何?」
「もしこれが罠なら、狙いは僕たちを屋敷から引き離すことかもしれない」
ゼノンは静かに続けた。
「ルシアのそばには、信頼できる人を残しておきたい」
アルベルトは、しばらくゼノンを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
「ありがとう」
ゼノンは微笑んだ。
「ルシアを頼むよ」
◇
その日の午後。
ヴァルディエ家の庭園では、ルシアがエリーゼと並んで歩いていた。
昨夜の襲撃から、まだ一日も経っていない。
屋敷の周囲には、普段より多くの警備兵が配置されていた。
ルナは私の隣を歩き、ときどき周囲へ視線を向けている。
「ルシア」
エリーゼが声をかけた。
「今日は、少し休んだ方がいいんじゃない?」
「うん。でも、部屋にいると考えすぎちゃうから」
私は小さく微笑んだ。
「少し歩きたかったの」
エリーゼは頷いた。
「そうね。気分転換も必要だもの」
私たちは、ゆっくりと庭園を歩いた。
昨日の夜。
ミアが現れたこと。
あの笑顔。
そして、私の血をもう一度飲みたいと言っていたこと。
思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
けれど、以前とは少し違った。
今回は、自分の意思で拒むことができた。
怖かったけれど、反射で攻撃を防ぐこともできた。
それは、私にとって小さな自信になっていた。
「エリーゼ」
「何?」
「昨日、ありがとう」
エリーゼが顔を上げた。
「どうしたの、急に」
「ずっとそばにいてくれたから」
私は小さく笑った。
「エリーゼがいてくれて、心強かった」
エリーゼは、少しだけ目を細めた。
「私もよ」
「え?」
「ルシアが、私を守ってくれたでしょう?」
私は首を傾げた。
「ルナが守ってくれたんだよ」
「ふふ。ルナはあなたの分身でしょう?」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
「そうだったね」
ルナが嬉しそうに尻尾を振る。
エリーゼはその頭を撫でた。
「ありがとう、ルナ」
白狼は、気持ちよさそうに目を細めた。
◇
その日の夕方。
ゼノンは、ヴェロニカの潜伏先へ向かう準備を進めていた。
黒い礼服の上から外套を羽織り、手袋をはめる。
足元には、ガルとレオが並んでいる。
そのとき、扉が叩かれた。
「お兄様?」
ルシアだった。
「入っていい?」
「もちろん」
扉が開き、黒髪の少女が顔を覗かせる。
「どこかへ行くの?」
「うん。少し、王宮の仕事でね」
ゼノンは微笑んだ。
ルシアは、しばらく彼を見つめていた。
「ヴェロニカのところ?」
ゼノンの表情が僅かに変わった。
「どうしてそう思ったの?」
「さっき、アルが話してたから」
「そっか」
ゼノンは小さく頷いた。
「うん。ヴェロニカの居場所が分かったんだ」
ルシアは、少しだけ目を伏せた。
「危なくない?」
「危険がないとは言えないね」
ゼノンは正直に答えた。
「でも、セドリックも一緒だから」
ルシアは頷いた。
しばらく黙ってから、そっとゼノンの手を取った。
「気をつけてね」
「うん」
「絶対に、帰ってきてね」
その言葉に、ゼノンの表情が柔らかくなった。
「もちろん」
彼はルシアを抱き寄せた。
「僕が帰る場所は、ルシアのいるところだから」
ルシアは、そっと彼の服を掴んだ。
「……待ってる」
「ありがとう」
ゼノンは、その額へ優しく口づけた。
◇
夕暮れの王都。
ゼノンとセドリックは、王宮の護衛兵たちを伴って西側の別邸へ向かっていた。
ガルとレオは、それぞれ別の方向から周囲を警戒している。
「ゼノン」
セドリックが声をかけた。
「何?」
「本当にヴェロニカがいると思うか?」
「いると思うよ」
「随分と自信があるな」
「逃げるつもりなら、もっと早く逃げているはずだから」
ゼノンは静かに答えた。
「だからこそ、何かあるんだろうね」
セドリックは小さく息を吐いた。
「厄介だな」
「うん」
ゼノンは微笑んだ。
「でも、放っておくわけにはいかない」
やがて、馬車が止まった。
目の前には、古い石造りの屋敷が建っていた。
窓には厚いカーテン。
庭園には手入れされていない木々が並び、どこか寂れた雰囲気が漂っている。
「ここか」
セドリックが呟いた。
ゼノンは、静かに頷いた。
「行こう」
護衛兵たちが周囲を囲む。
ガルとレオが、屋敷の左右へ分かれた。
ゼノンとセドリックは、正面の扉へ向かった。
扉は、鍵がかかっていなかった。
「随分と親切だな」
セドリックが皮肉っぽく笑う。
「招待されてるみたいだね」
ゼノンも小さく笑った。
けれど、その赤い瞳は警戒を解いていなかった。
扉を開ける。
薄暗い廊下。
埃の匂い。
そして、奥の部屋から漂う、微かな血の香り。
「……血?」
セドリックが眉を寄せた。
ゼノンは、ゆっくりと歩みを進めた。
やがて、廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まる。
その向こうから、女の声が聞こえた。
「お待ちしておりましたわ」
ゼノンの赤い瞳が細められる。
「ヴェロニカ」
扉が、ゆっくりと開いた。
そこには、一人の女性が立っていた。
ヴェロニカ・ドラクロワ。
十一年前、アルフォンスの黒狼を封じた女。
彼女は、優雅に微笑んだ。
「お久しぶりです、ゼノン様」
ゼノンは、静かに答えた。
「君に会いたかったよ」
その声には、温かさがなかった。
ヴェロニカは、少しだけ笑った。
「光栄ですわ」
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ゼノンは、部屋の奥へ視線を向けた。
そこには、赤い液体の入ったグラスが置かれていた。
血。
しかも、その匂いには覚えがあった。
ゼノンの表情が変わる。
「……これは」
ヴェロニカが、静かに微笑んだ。
「お気づきになりました?」
ゼノンは、グラスを見つめた。
その血の匂い。
決して忘れるはずのないもの。
十一年前。
父と母が殺された、あの日。
屋敷に満ちていた匂いと、同じだった。
ヴェロニカは、楽しそうに目を細めた。
「懐かしいでしょう?」
ゼノンの赤い瞳が、冷たく輝いた。
そして、静かに呟いた。
「……母上の血だね」
ヴェロニカは、満足そうに微笑んだ。
「ええ。ロザリア様の血です」
その言葉に、セドリックの表情が変わった。
「お前……!」
ヴェロニカは、ゆっくりとグラスへ手を伸ばした。
「十一年前のものですけれど、特別な方法で保存しておりましたの」
ゼノンは、何も言わなかった。
ただ、その赤い瞳が、静かに細められていく。
ヴェロニカは、グラスを持ち上げた。
「さあ、ゼノン様」
その唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「昔話でも、いたしましょうか」




