親友だった少女
「また、一緒に遊ぼう?」
窓の向こうで、ミアが笑っていた。
私は、その場から動けなかった。
月明かりに照らされた少女の顔は、記憶の中にあるものと何も変わらない。
少し癖のある髪。
人懐っこい笑顔。
そして、今は赤く染まってしまった瞳。
かつて、毎日のように一緒に過ごしていた親友。
学校でくだらない話をして、放課後には寄り道をして、アルベルトの家で何時間もおしゃべりをした。
そんな日々が、遠い昔のことのように感じられた。
「ミア……」
「なあに?」
ミアは嬉しそうに首を傾げた。
「そんなに驚かなくてもいいのに!」
私は答えられなかった。
あの日のことを思い出していた。
アルベルトの家。
血の匂い。
何度も身体を傷つけられ、逃げようとしても逃げられなかったこと。
ミアは、私が泣いても笑っていた。
痛いと訴えても、やめてくれなかった。
そして、今も。
あのときと同じ笑顔を浮かべている。
「ねえ、ルシア」
ミアが窓へ近づいた。
「開けてくれない?」
私は思わず一歩下がった。
「どうして、ここにいるの?」
「会いたかったから!」
あまりにも当然のような答えだった。
「お誕生日だったんでしょう? 十八歳、おめでとう!」
その言葉に、胸が冷たくなった。
「知ってたの?」
「もちろん!」
ミアは嬉しそうに笑う。
「ルシアのことなら、何でも知りたいもん」
私は、窓の外にいる少女を見つめた。
そのとき、ルナが私の前へ出た。
白狼は低く唸り、ミアから視線を逸らさなかった。
「あっ、ルナ!」
ミアが目を輝かせる。
「久しぶり!」
私は息を呑んだ。
そうだった。
ルナが初めて現れたあの日。
ミアも、あの庭にいた。
真っ白な狼が私の影から姿を現したとき、ミアは誰よりも大きな声で驚いていた。
『何これ可愛すぎる!!』
『ルシア! ガルが白くなった!?』
『違うよ! 私の分身なの!』
『ええっ!? ルシアも出せるの!?』
あのときのミアは、本当に嬉しそうだった。
ルナを抱き締めて、ふわふわの毛並みに頬を寄せて。
自分も分身を出したいと言って、庭で何度も力んでいた。
クレイドに呆れられても諦めず、みんなを笑わせていた。
あの頃は、こんな日が来るなんて思っていなかった。
「ルナ、元気だった?」
ミアが窓越しに手を振る。
「相変わらず真っ白で可愛いね!」
ルナは答えるように耳を動かしたが、私の前から離れなかった。
「ねえ、ルシア。ルナも私のこと覚えてるよね?」
私は、白狼の背中へ手を置いた。
「……覚えてると思う」
「だよね!」
ミアは嬉しそうに笑った。
「だって、あんなに一緒に遊んだんだもん!」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
ミアの言うことは、間違っていない。
あの頃の私たちは、本当に仲がよかった。
ルナも、ミアに懐いていた。
ミアが呼べば近づいていって、抱き締められても嫌がらなかった。
それなのに。
今、ルナは私を守るように立っている。
「ねえ、触ってもいい?」
ミアが窓へ手を伸ばした。
私は小さく首を横に振った。
「……ごめん。今は、駄目」
「えー?」
ミアが頬を膨らませる。
「昔は抱っこさせてくれたのに!」
「……うん」
「ルナ、私のこと嫌いになっちゃった?」
私は答えられなかった。
ルナは私の分身。
私が感じている恐怖も、戸惑いも、すべて共有している。
だから、今のルナがミアを警戒している理由は、よく分かっていた。
「……ミア」
「なあに?」
「私たち、もう昔みたいには戻れないよ」
ミアが不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「ミアが、私にしたことを覚えてる?」
「もちろん!」
ミアは笑顔で答えた。
「ルシアの血、すっごく美味しかった!」
その言葉に、身体が強張った。
「また飲みたいなぁ。ねえ、少しだけでいいから飲ませて?」
「……嫌」
「どうして?」
「怖いから」
私は正直に答えた。
ミアの笑顔が、僅かに止まった。
「怖い?」
「うん」
「でも、ルシアは純血種でしょう?」
ミアは、まるで当たり前のことを説明するように続けた。
「傷なんてすぐ治るし、普通のヴァンパイアよりずっと強いんだよ?」
「……そういうことじゃないの」
「じゃあ、何?」
私は唇を噛んだ。
ミアは、本当に分かっていない。
あの日、どれほど怖かったのか。
親友だと思っていた相手に傷つけられることが、どれほど辛かったのか。
「私、あの日からアルの家に帰れなくなったんだよ」
ミアが目を丸くした。
「アルベルトさんのお家?」
「うん」
私は小さく頷いた。
「帰ろうとすると、あの日のことを思い出してしまうの。ミアと一緒に過ごした場所なのに、今は怖くて……」
ミアは、しばらく私を見つめていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「ルシアって、心配性だねぇ」
私は何も言えなかった。
「だって、もう終わったことでしょう?」
「……終わってないよ」
「え?」
「私の中では、まだ終わってない」
声が少しだけ震えた。
「今でも、ミアのことを思い出すと怖くなるの」
ミアは首を傾げた。
そして、何かを思いついたように笑った。
「じゃあ、また一緒に楽しい思い出を作ればいいんだ!」
「……え?」
「そうしたら、怖いのも忘れられるでしょう?」
ミアは両手を合わせた。
「ねえ、ルシア! また一緒に暮らそうよ!」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……できない」
「どうして?」
「もう、ミアと一緒には暮らせないよ」
ミアの笑顔が、少しだけ曇った。
「ルシア、冷たいなぁ」
昔なら、その言葉に謝っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
「……ごめんね。でも、嫌なものは嫌なの」
ミアは、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「そっかぁ」
その声は、妙に明るかった。
「じゃあ、仕方ないね」
私は、少しだけ安心しかけた。
けれど。
「連れて帰ればいいんだ!」
ミアは、にっこりと笑った。
◇
ルナが低く唸った。
私は白狼の背中へ手を置く。
「ミア……?」
「だって、ルシアが来てくれないなら、私が迎えに来るしかないでしょう?」
ミアは、何でもないことのように答えた。
「ヴェロニカお姉様には勝手に動いちゃ駄目って言われてたんだけどね」
その言葉に、私は顔を上げた。
「ヴェロニカと一緒にいるの?」
「うん!」
ミアは嬉しそうに頷いた。
「エドモンド様もいるよ!」
胸の奥が冷たくなる。
やっぱり。
ミアは、あの男たちと行動を共にしている。
「ねえ、ルシア」
ミアが少しだけ身を乗り出した。
「エドモンド様って、ルシアのことすっごく気に入ってるんだよ?」
私は答えなかった。
「十八歳になったら迎えに行くって、ずっと言ってたんだって!」
誕生日に届いた花束。
『もうすぐ、迎えに行くよ』
あの言葉が、頭を過った。
「……あの花束も?」
「そう!」
ミアは笑った。
「綺麗だったでしょう?」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ミア」
「なあに?」
「私は、エドモンドのところには行かない」
「どうして?」
「お父さまとお母さまを殺した人だから」
ミアは少しだけ考えた。
「でも、ずっと昔のことでしょう?」
その言葉に、胸の奥が強く痛んだ。
十一年前。
私にとっては、ようやく取り戻したばかりの記憶。
大切な家族を失った日。
それを、そんなふうに言われるなんて。
「……昔のことでも、許せないよ」
私は静かに答えた。
ミアは、少しだけ不思議そうに私を見つめていた。
やがて、にっこりと笑った。
「まあ、いいや!」
その明るさに、背筋が冷たくなる。
「とりあえず、一緒に来てくれればいいんだもん!」
そのとき。
ルナの耳が、ぴくりと動いた。
私も同時に気づいた。
庭園の奥。
複数の足音。
警備兵とは違う、知らない匂い。
「……ミア」
「ん?」
「一人じゃないの?」
ミアは嬉しそうに笑った。
「うん!」
次の瞬間。
庭園の暗がりから、黒い外套を着た男たちが姿を現した。
三人。
全員、顔を隠している。
「この人たち、エドモンド様が貸してくれたの!」
私は、思わず一歩下がった。
「……どうして?」
「ルシアを連れて帰るの、手伝ってくれるんだって!」
ルナが私の前へ出る。
私は、その背中へそっと手を置いた。
怖い。
けれど、逃げるだけでは駄目だ。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……ルナ」
白狼が私を見上げる。
その赤い瞳には、私と同じ緊張が宿っていた。
私は、静かに頷いた。
次の瞬間、ルナが影へ身体を沈める。
白い姿が、床の影に溶け込むように消えた。
「あれ? ルナ?」
ミアが目を丸くする。
私は答えなかった。
ルナは私の分身。
影に入って私のもとへ戻ることができる。
今は、その性質を利用して、屋敷の廊下へ出てもらった。
ルナの視界を通して、廊下の様子が伝わってくる。
誰かに知らせなければ。
お兄様に。
エリーゼに。
アルベルトに。
そのとき、ミアが窓へ手をついた。
「ねえ、ルシア」
私は顔を上げた。
「そろそろ開けてくれない?」
「……嫌」
「えー?」
ミアは不満そうに唇を尖らせた。
「じゃあ、私が入るね!」
その瞬間。
ミアが窓へ手を伸ばした。
私は咄嗟に右手を上げる。
透明な膜が、窓の内側に広がった。
次の瞬間、ミアの手が弾かれる。
「わっ!」
ミアが一歩後ろへ下がった。
それから、驚いたように目を見開いた。
「……え?」
私は、自分の手を見つめた。
反射。
今のは、意識して使えた。
「ルシア!」
ミアが嬉しそうに声を上げた。
「何それ! すごい!」
その表情には、怒りも恐怖もなかった。
ただ、純粋な好奇心だけが浮かんでいる。
「それ、新しい異能?」
私は答えなかった。
「ねえ、もう一回やって!」
ミアが笑う。
「今度は、もっと強くしてみてよ!」
その声を聞いた瞬間、私は理解した。
ミアにとって、これは遊びなのだ。
私がどれほど怖がっていても。
どれほど必死に拒んでいても。
彼女には、関係ない。
◇
庭園の奥で、男の一人が動いた。
次の瞬間。
何かが、窓へ向かって飛んできた。
私は咄嗟に手を上げる。
透明な膜が現れ、飛来した小さな金属片を弾き返した。
鋭い音が響く。
金属片は反対方向へ飛び、庭園の石畳へ突き刺さった。
「……っ!」
私は息を呑んだ。
今のは、明らかに攻撃だった。
ミアが楽しそうに笑う。
「わあ! 本当に跳ね返した!」
私は窓の向こうを見つめた。
黒い外套の男たちが、ゆっくりと距離を詰めてくる。
このままでは、窓を破られるかもしれない。
私は、少しずつ後ろへ下がった。
そのとき。
廊下の向こうから、足音が響いた。
「ルシア!」
聞き慣れた声。
エリーゼだった。
扉が開き、彼女が部屋へ飛び込んでくる。
「大丈夫!?」
「エリーゼ!」
私は思わず駆け寄った。
エリーゼは私を背中へ庇うように立ち、窓の向こうを見た。
「ミア……!」
その声には、明確な怒りが滲んでいた。
ミアが嬉しそうに手を振る。
「あっ、エリーゼ!」
まるで、久しぶりの友人に会ったかのような笑顔だった。
「久しぶり!」
エリーゼは答えなかった。
その代わり、窓の外へ手を向けた。
次の瞬間。
窓枠から、白い霜が広がっていく。
氷結。
エリーゼの異能だった。
窓枠から広がった白い霜は、瞬く間に厚い氷へと変わり、庭園に面した窓を覆い尽くした。
「ルシア、窓から離れて」
「うん」
私は頷き、数歩後ろへ下がった。
エリーゼは窓へ手を向けたまま、外の気配を探っている。
「怪我はない?」
「大丈夫。反射で防げたから」
「よかった」
エリーゼは短く息を吐いた。
けれど、その表情は険しいままだった。
氷の向こうから、ミアの声が聞こえてくる。
「エリーゼ! 何で邪魔するのー?」
エリーゼは答えなかった。
「せっかくルシアに会えたのに!」
次の瞬間、氷の壁に何かが激しくぶつかった。
鈍い音が響き、表面に細かな亀裂が走る。
エリーゼが眉を寄せた。
「随分と強引ね」
彼女が指先を動かすと、亀裂を覆うように新たな氷が広がった。
「ルシア、屋敷の警備兵には知らせた?」
「ルナにお願いしたの。今、屋敷の中を走ってる」
「そう。なら、すぐに応援が来るわね」
私は小さく頷いた。
ルナと感覚を共有すると、廊下を駆ける白狼の視界が伝わってくる。
使用人たちが驚いて振り返り、警備兵が異変に気づいて動き始めていた。
その間にも、氷の向こうでは何度も衝撃音が響いている。
「エリーゼ」
「何?」
「私も手伝うよ」
エリーゼが振り返った。
「ルシア、無理しなくていいのよ」
「うん。でも、反射なら使えるから」
私は右手を見つめた。
まだ発現して間もない異能。
けれど、訓練では何度も攻撃を跳ね返せるようになっていた。
「もし氷が壊れたら、私が防ぐね」
エリーゼは少しだけ考え、それから頷いた。
「分かったわ。でも、私のそばから離れないでね」
「うん」
◇
庭園では、黒い外套の男たちが氷の壁を囲んでいた。
「ねえ、まだ壊れないの?」
ミアが不満そうに尋ねた。
男の一人が答える。
「氷結の異能です。簡単には破れません」
「じゃあ、どうするの?」
「別の入口を探します」
「えー! それじゃ時間がかかっちゃうよ!」
ミアは頬を膨らませた。
「ルシアが中にいるんだよ? 早く会いたいのに!」
男たちは顔を見合わせた。
彼らに与えられていた命令は、ルシアの異能とヴァルディエ家の警備体制を確認すること。
可能であれば、ルシアを連れ出す。
ただし、ゼノンが現れた場合は深追いしない。
エドモンドは、そう告げていた。
しかし、ミアにはそんな事情など関係なかった。
「もう、私がやる!」
ミアが一歩前へ出る。
赤い瞳を細め、氷の壁へ拳を振り下ろした。
大きな音が響く。
氷の表面に亀裂が走った。
「もう一回!」
二度目の衝撃。
亀裂が広がる。
そして三度目。
氷の一部が砕け散った。
「あっ、壊れた!」
ミアが嬉しそうに笑った。
その瞬間。
砕けた氷の向こうに、透明な膜が現れた。
「え?」
ミアの拳が膜へ触れる。
次の瞬間、振り下ろした力がそのまま跳ね返った。
「きゃっ!」
ミアの身体が後方へ弾き飛ばされる。
石畳の上を滑り、数歩離れた場所でようやく止まった。
「いったぁ……!」
ミアは自分の手を見つめた。
指が不自然な方向へ曲がっている。
けれど、ヴァンパイアの回復力によって、その傷は少しずつ治り始めていた。
「何これ……」
ミアが顔を上げる。
氷の向こうには、私が立っていた。
「ルシア!」
ミアの表情が明るくなる。
「今の、ルシアがやったの!?」
私は答えなかった。
「すごい! 攻撃がそのまま返ってきた!」
ミアは嬉しそうに笑った。
「もう一回やって!」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
やっぱり。
ミアにとって、これは遊びなのだ。
自分が傷ついても。
私が怖がっていても。
彼女には関係ない。
「ミア」
私は静かに口を開いた。
「もう、帰って」
「えー?」
「これ以上、ここに来ないで」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「私は、ミアとは行かないから」
ミアはしばらく私を見つめていた。
それから、少しだけ頬を膨らませた。
「ルシアってば、頑固になったね」
私は何も答えなかった。
「昔はもっと素直だったのに」
その言葉に、胸が痛んだ。
昔。
ミアと笑っていた頃。
何も疑わずに、親友だと思っていた頃。
もう、あの頃には戻れない。
◇
そのとき、廊下の向こうから足音が響いた。
「ルシア!」
クレイドだった。
その後ろには、アルベルトもいる。
「クレイド! アル!」
私は顔を上げた。
クレイドは窓の氷を見た瞬間、表情を険しくした。
「何があった?」
「ミアが来たの。外に、知らない人たちもいる」
「ミアだと?」
クレイドの表情が変わった。
アルベルトはすぐに窓へ視線を向けた。
「エリーゼ、状況は?」
「外に三人。ミアと一緒にいます。ルシアを連れ出そうとしているようです」
「分かった」
アルベルトは窓へ手を向けた。
次の瞬間、砕けかけていた氷の壁が再び厚みを増した。
さらに、窓の左右から氷が伸び、外側へ向かって鋭い突起を形成していく。
氷の槍。
その切っ先は、庭園にいる男たちへ向けられていた。
「下がれ」
アルベルトが低く告げる。
男たちは思わず足を止めた。
ミアだけが、不思議そうに首を傾げる。
「アル?」
その呼び方に、アルベルトの表情が険しくなった。
「ミア。お前には、もう二度とルシアへ近づくなと言ったはずだ」
「でも、会いたかったんです!」
「だからといって、屋敷を襲っていい理由にはならない」
アルベルトが指先を動かした。
次の瞬間。
窓の外に形成されていた氷槍が、一斉に放たれた。
鋭い風切り音が響く。
男たちは咄嗟に身をかわしたが、一人の外套が氷槍に貫かれ、背後の木へ縫い留められた。
「なっ……!」
男が逃れようとした瞬間、足元から氷が広がった。
両足を包み込み、その場へ固定する。
「動くな」
アルベルトの声が響く。
さらに、地面から氷の柱が立ち上がり、男の周囲を囲んだ。
柱同士が繋がり、厚い氷の檻を形成する。
「一人確保した」
アルベルトは短く告げた。
その手際のよさに、私は思わず息を呑んだ。
同じ氷結でも、アルの使い方はエリーゼとは少し違う。
エリーゼは繊細に氷を広げ、守るように使うことが多い。
けれどアルは、氷を槍や檻へと瞬時に造形し、攻撃と拘束を組み合わせていた。
「ルシア」
アルベルトが振り返る。
「クレイドのそばにいろ」
「うん」
私は頷いた。
クレイドがすぐに私の前へ立つ。
「無茶すんなよ」
「分かってる」
私は小さく答えた。
「でも、私もできることはするから」
クレイドは少しだけ黙った。
それから、ため息をついた。
「……分かった。ただし、俺から離れるな」
「うん」
◇
庭園では、残された二人の男が後退していた。
「撤退するぞ!」
一人が叫ぶ。
けれど、その足元へ白い霜が広がった。
「遅い」
アルベルトが静かに告げる。
地面から氷の壁が立ち上がり、二人の退路を塞いだ。
男たちが振り返る。
その瞬間、左右から新たな氷の壁が形成され、逃げ道を狭めていく。
「くそっ!」
男の一人が金属製の短剣を取り出した。
氷の壁へ向かって振り下ろす。
しかし、刃は氷の表面を僅かに削っただけだった。
アルベルトは、その様子を冷静に見つめていた。
「抵抗するな。命までは取らない」
その言葉と同時に、氷の槍が男の足元へ突き刺さった。
逃げ道を完全に塞ぐように、複数の氷槍が並ぶ。
男たちは動けなくなった。
けれど。
「もう! みんな何してるの!」
ミアが不満そうに声を上げた。
「ルシアを迎えに来たんでしょう!?」
そのまま氷の壁へ向かって走り出す。
「ミア、止まれ!」
男の一人が叫んだ。
しかし、ミアは聞かなかった。
彼女は氷の壁へ飛びかかり、勢いよく拳を振り下ろした。
氷が砕け散る。
その破片が、窓へ向かって飛んできた。
「ルシア!」
クレイドが叫ぶ。
私は咄嗟に右手を上げた。
透明な膜が広がる。
氷の破片が触れた瞬間、すべてが反対方向へ弾き返された。
鋭い音が連続して響く。
「……っ!」
私は息を呑んだ。
何とか防げた。
けれど、次の瞬間。
別の方向から、小さな金属片が飛んできた。
窓ではない。
庭園に面した換気口からだった。
しかも、その先にいるのはエリーゼ。
「エリーゼ!」
私は手を伸ばした。
けれど、少し遠い。
反射の膜が届かない。
そのとき。
床の影が揺れた。
白い前脚。
真っ白な毛並み。
赤い瞳。
ルナが、私の影から姿を現した。
「ルナ!」
白狼はエリーゼの前へ飛び出した。
その瞬間、透明な膜が広がる。
金属片が触れ、勢いよく跳ね返った。
エリーゼが驚いて顔を上げた。
「ルナ……!」
私は息を呑んだ。
ルナも反射を使える。
訓練では何度も成功していた。
けれど、実際の攻撃を防いだのは初めてだった。
「ありがとう、ルナ」
白狼は私を見上げ、静かに尻尾を振った。
そのときだった。
廊下の奥から、聞き慣れた声が響いた。
「ルシア!」
振り返る。
そこには、お兄様が立っていた。
その両脇には、ガルとレオ。
二匹の黒狼が低く唸っている。
「お兄様!」
私は思わず駆け寄った。
お兄様はすぐに私を抱き寄せ、怪我がないか確かめた。
「大丈夫?」
「うん。怪我はないよ」
「本当に?」
「うん。ルナも守ってくれたから」
お兄様は白狼へ視線を向けた。
「ありがとう、ルナ」
ルナは静かに頭を下げた。
お兄様は私の髪を撫でると、窓の方へ視線を向けた。
「ミアがいるんだね」
「うん」
私は頷いた。
「エドモンドの人たちも一緒に」
その言葉に、お兄様の赤い瞳が細められた。
◇
ゼノンは、ゆっくりと窓へ近づいた。
アルベルトが作った氷の壁の向こうに、ミアと三人の男がいる。
一人は氷の檻に閉じ込められ、残りの二人も退路を塞がれていた。
「アルベルト」
「何だ」
「氷を少しだけ開けて」
アルベルトはゼノンを見た。
「何をするつもりだ」
「話をするだけだよ」
その声は穏やかだった。
けれど、アルベルトは長年の付き合いから、その穏やかさが何を意味するのか理解していた。
「分かった」
アルベルトが指先を動かす。
氷の壁の中央に、小さな隙間ができた。
その向こうに、ミアの顔が見える。
「あっ、ゼノンさん!」
ミアが嬉しそうに笑った。
「こんばんは!」
ゼノンは答えなかった。
「ルシアに会いに来たんです!」
「知ってるよ」
ゼノンは静かに答えた。
「でも、ルシアは君に会いたくないと言っている」
ミアが首を傾げる。
「えー? そんなことないですよ!」
「どうして?」
「だって、私たち親友ですから!」
ミアは何の迷いもなく答えた。
ゼノンは、しばらく少女を見つめていた。
「親友なら、相手が嫌がることをしないものだよ」
「でも、ルシアは強いから大丈夫です!」
ミアは笑った。
「純血種ですもん! ちょっと傷つけたくらいじゃ死なないし!」
ゼノンの表情から、笑みが消えた。
ゼノンの表情から、笑みが消えた。
「ミア」
「はい?」
「君は、ルシアがどれほど怖い思いをしたのか、本当に分かっていないんだね」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
「怖い思い?」
「そうだよ」
ゼノンは静かに答えた。
「君に傷つけられて、ルシアは今でもアルベルトの家へ帰れなくなっているんだ」
「でも、ルシアは純血種ですよ?」
ミアは何でもないことのように言った。
「傷なんてすぐに治っちゃうし、あんなに強いんだから、少しくらい大丈夫でしょう?」
ゼノンの赤い瞳が、僅かに細められた。
「身体の傷が治れば、何をしてもいいと思っているの?」
「え?」
「ルシアが泣いても、やめてほしいと言っても、君は傷つけ続けたんだよね」
「だって、血が美味しかったんです!」
ミアは嬉しそうに笑った。
「ゼノンさんも飲んだことありますよね? ルシアの血!」
その言葉に、室内の空気が変わった。
クレイドが険しい表情になる。
エリーゼは私の肩へそっと手を置いた。
私は俯いた。
お兄様が私の血を飲むことと、ミアが私にしたことは、まったく違う。
それなのに、ミアには同じことのように思えるらしい。
「飲んだことはあるよ」
お兄様は静かに答えた。
「じゃあ、分かるでしょう!?」
「分からないよ」
ミアの笑顔が止まった。
「どうして?」
「僕はルシアが嫌がることをしたいとは思わないから」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「君は、ルシアの血が欲しいから傷つけた。ルシアが泣いても、怖がっても、やめなかった」
「でも――」
「それは、親友のすることじゃないよ」
ミアは、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ頬を膨らませる。
「ゼノンさんって、意地悪ですね」
「そうかな」
「だって、ルシアを独り占めしてるんですもん!」
お兄様の表情が変わった。
「独り占め?」
「そうですよ!」
ミアは両手を腰に当てた。
「私だってルシアと一緒にいたいのに、ゼノンさんばっかり!」
私は、その言葉に胸が痛んだ。
昔のミアなら、こんなことは言わなかった。
お兄様が私を迎えに来ると、少し不満そうにすることはあっても、最後には笑って手を振ってくれていた。
それなのに、今は。
「ミア」
私は静かに声をかけた。
ミアが顔を上げる。
「あっ、ルシア!」
その表情が、ぱっと明るくなった。
「ねえ、もう帰ろうよ!」
私は首を横に振った。
「帰らないよ」
「どうして?」
「ここが、私の家だから」
ミアの笑顔が僅かに曇った。
「でも、前はアルの家に住んでたじゃん」
「うん」
私は頷いた。
「でも、今はヴァルディエ家で暮らしてるの」
「じゃあ、私もここに住めばいい?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「ミア……」
「だって、そうすればまた一緒にいられるでしょう?」
ミアは嬉しそうに笑った。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……それはできないよ」
ミアは不満そうに唇を尖らせた。
「ルシアってば、変わっちゃったね」
私は答えられなかった。
変わった。
確かに、そうなのかもしれない。
けれど。
変わってしまったのは、私だけではない。
◇
「もう十分だよ」
ゼノンが静かに告げた。
ミアが顔を上げる。
「え?」
「君たちには、聞きたいことがある」
その赤い瞳が、鮮やかに輝いた。
「――これは、王家の命令だ」
その瞬間。
庭園の空気が、重く沈んだ。
ミアの身体が強張る。
黒い外套の男たちも、一斉に動きを止めた。
「武器を捨てて、その場から動かないで」
乾いた音が響いた。
男たちの手から、短剣や金属製の武器が落ちる。
ミアも、動こうとして動けなくなった。
「……え?」
彼女は自分の足元を見つめた。
「何、これ……?」
ゼノンは答えなかった。
「ミア」
「は、はい……?」
「君は、誰の命令でここへ来たの?」
ミアは、少しだけ首を傾げた。
「命令?」
「そう」
ゼノンは頷いた。
「エドモンドに言われたの?」
「……ううん」
その答えに、ゼノンの眉が僅かに動いた。
「違うの?」
「私が、ルシアに会いたかったから来たんです」
ミアは、動けないまま答えた。
「でも、この人たちはエドモンド様が貸してくれました!」
ゼノンは男たちへ視線を向けた。
「君たちは?」
男の一人が、苦しそうに口を開く。
「エドモンド様の指示です」
「何を命じられたの?」
「ルシア様の異能を確認すること。それから、屋敷の警備体制を調べることです」
ゼノンの表情が険しくなる。
「誘拐は?」
「可能であれば、連れ出すようにと」
「それで、ミアを利用したんだね」
男は答えなかった。
「エドモンドは、今どこにいるの?」
「分かりません」
ゼノンの瞳が細められる。
「本当に?」
「はい。居場所は知らされていません」
ゼノンは静かに頷いた。
「じゃあ、誰と連絡を取っていたの?」
「ヴェロニカ様です」
その名前に、私は顔を上げた。
ヴェロニカ・ドラクロワ。
十一年前、お父さまの黒狼を封じた人物。
そして、今もエドモンドに協力している女。
「ヴェロニカは、どこにいるの?」
お兄様が尋ねる。
「王都の外れにある別邸です」
アルベルトの表情が変わった。
「場所は?」
男は、震える声で住所を告げた。
アルベルトはすぐに近くの警備兵へ指示を出す。
「王宮へ連絡しろ。至急、捜索隊を向かわせる」
「かしこまりました!」
警備兵が走り去る。
私は、お兄様を見つめた。
「お兄様……」
「大丈夫だよ」
お兄様は私へ振り返り、優しく微笑んだ。
「今度こそ、ヴェロニカを捕まえよう」
◇
数分後。
庭園には、王宮の警備兵たちが到着していた。
黒い外套の男たちは、次々と拘束されていく。
アルベルトが作った氷の檻も、警備兵たちの指示に合わせて少しずつ解除されていった。
ミアもまた、両腕を拘束されていた。
「えー! 何で!?」
ミアが不満そうに声を上げる。
「私、ルシアに会いに来ただけなのに!」
警備兵は答えなかった。
ミアは、私を見つけると嬉しそうに笑った。
「ルシア!」
私は顔を上げた。
「またね!」
その言葉に、胸が締めつけられた。
ミアは、何も変わっていない。
自分が何をしたのか。
なぜ拘束されるのか。
何一つ理解していないようだった。
「……ミア」
私は小さく名前を呼んだ。
ミアが首を傾げる。
「なあに?」
私は、しばらく迷った。
けれど、静かに答えた。
「もう、会いに来ないで」
ミアの笑顔が止まった。
「……え?」
「私は、ミアが怖いの」
声が少しだけ震えた。
「だから、もう来ないでほしい」
ミアは、しばらく私を見つめていた。
やがて、少しだけ悲しそうな顔になる。
「……ルシア、ひどい」
その言葉に、胸が痛んだ。
けれど、私は首を横に振った。
「……ごめんね」
ミアは何も答えなかった。
警備兵に連れられ、ゆっくりと庭園を出ていく。
その背中を、私はただ見つめていた。
◇
ミアたちが連行されたあと。
屋敷には、ようやく静けさが戻ってきた。
私は居間のソファに座り、ルナの頭を撫でていた。
白狼は、私の膝へ顔を乗せている。
エリーゼが温かい紅茶を運んできてくれた。
「はい、ルシア」
「ありがとう」
私はカップを受け取った。
指先が、少しだけ震えている。
エリーゼは何も言わず、私の隣へ腰を下ろした。
「……怖かった?」
静かな声だった。
私は、小さく頷いた。
「うん」
しばらく黙ってから、続ける。
「ミアのこと、まだ怖いみたい」
「当然よ」
エリーゼは優しく答えた。
「無理に平気になろうとしなくていいの」
私は、そっとルナの背中を撫でた。
「でも、少しだけ悲しかった」
「……そうね」
「昔は、本当に仲がよかったから」
エリーゼは黙って聞いてくれていた。
「一緒に笑ってた頃のミアも、ちゃんと覚えてるの」
私は、小さく息を吐いた。
「だから、今のミアを見ると……何だか、分からなくなる」
エリーゼは、私の手へそっと触れた。
「楽しかった思い出まで、なくなるわけじゃないわ」
私は顔を上げた。
「でも、今のミアから距離を置くことと、昔の思い出を大切にすることは、別でしょう?」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「ありがとう、エリーゼ」
エリーゼは微笑んだ。
◇
その頃。
王都の外れにある、古い別邸。
ヴェロニカは、書斎で一通の報告書を読んでいた。
ミアと三人の男が拘束された。
ヴァルディエ家の警備体制。
ルシアの新しい異能。
そして、ゼノンの王家の命令。
すべてが、予想以上の速さで明らかになっていた。
「……やはり、正面からでは無理ね」
ヴェロニカは静かに呟いた。
そのとき、扉が開いた。
「ヴェロニカ」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこにはエドモンドが立っていた。
「エドモンド様」
ヴェロニカは立ち上がり、頭を下げた。
「ミアたちが捕まりました」
「知っているよ」
エドモンドは穏やかに微笑んだ。
「それで、どうなさいますか?」
「予定どおりだ」
ヴェロニカが顔を上げる。
「予定どおり、ですか?」
「ああ」
エドモンドは机の上の報告書を手に取った。
「ルシアの異能が確認できた。反射、だったね」
「はい。攻撃をそのまま跳ね返すようです」
「なるほど」
エドモンドは、楽しそうに目を細めた。
「面白い力だ」
そして、静かに続ける。
「だが、あの子はまだ自分の力を使いこなせていない」
ヴェロニカは黙っていた。
「ゼノンは、必ずルシアを守ろうとする。だからこそ、あの子を一人にするのは難しい」
エドモンドは微笑んだ。
「ならば、守る者たちを別の場所へ向かわせればいい」
ヴェロニカの眉が動いた。
「まさか……」
「ゼノンたちは、君の居場所を知ったのだろう?」
「はい」
「なら、来るだろうね」
エドモンドは、窓の外へ視線を向けた。
「ヴェロニカ。君はここに残りなさい」
ヴェロニカの表情が強張った。
「私を、囮に?」
「そういうことになるね」
エドモンドは、何でもないことのように答えた。
「心配はいらない。君にはまだ役割がある」
ヴェロニカは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに頭を下げる。
「……承知しました」
エドモンドは満足そうに微笑んだ。
「いい子だ」
そして、ゆっくりと扉へ向かった。
「さて」
その声が、薄暗い部屋に響いた。
「そろそろ、迎えに行こうか」
エドモンドは、楽しそうに笑った。
「私の可愛い、ルシアをね」




