もうすぐ迎えにいくよ
翌朝。
目を覚ました私は、しばらく天井を見つめていた。
十八歳の誕生日。
昨日は、あんなに楽しい一日だったのに。
最後に届いた花束のせいで、眠りにつくまで落ち着かなかった。
『もうすぐ迎えに行くよ。』
あの言葉が、何度も頭の中に浮かんでくる。
エドモンド。
十一年前、お父さまとお母さまを殺した男。
そして、今も私を狙い続けている人物。
私はゆっくりと身体を起こした。
ベッドの足元では、ルナが丸くなって眠っている。
「おはよう、ルナ」
声をかけると、白狼は顔を上げた。
赤い瞳が、私を見つめる。
私はそっと頭を撫でた。
「昨日は、ありがとう」
ルナは静かに尻尾を振った。
私はベッドから降り、鏡の前へ立った。
漆黒の髪。
深紅の瞳。
十八歳になった、ルシア・ヴァルディエ。
もう、何も知らなかった頃の私ではない。
怖いと思う気持ちは、まだある。
けれど、それだけでは終わりたくなかった。
◇
朝食の席には、お兄様とアルベルト、クレイド、エリーゼが揃っていた。
「おはよう」
私が声をかけると、お兄様がすぐに顔を上げた。
「おはよう、ルシア。よく眠れた?」
「うん。少しだけ寝つきが悪かったけど」
正直に答えると、お兄様の表情が僅かに曇った。
「昨日のこと?」
「……うん」
私は席へ腰を下ろした。
「でも、大丈夫」
お兄様は何か言いかけたけれど、結局何も言わずに微笑んだ。
「無理はしないでね」
「うん」
アルベルトがコーヒーカップを置いた。
「昨日の花束について、少し分かったことがある」
私は顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
アルベルトはテーブルの上へ一枚の紙を置いた。
「花束を届けた人物は、王都の花屋へ依頼を出していたらしい」
クレイドが眉を寄せる。
「花屋?」
「そうだ。依頼人は直接姿を見せず、使いの者を通じて注文していた」
エリーゼが静かに尋ねた。
「その使いの者は、見つかったの?」
「まだだ」
アルベルトは首を振った。
「だが、花屋の主人が一つだけ覚えていたことがある」
「何?」
私が尋ねる。
「使いの者は、黒い外套を着ていたそうだ。そして、胸元には見慣れない留め具をつけていた」
私は思わず息を呑んだ。
「留め具……?」
お兄様が頷く。
「数日前、庭園の塀の外で見つかったものと似ているらしい」
あの日。
ルナが不審な足音を感じ取った。
そして、塀の外に落ちていた黒い金属片。
「同じ人なのかな」
「可能性はあるね」
お兄様は静かに答えた。
「ただ、まだ断定はできない」
私は小さく頷いた。
アルベルトが続ける。
「留め具の紋様についても調べている。古い貴族家の紋章に似たものがあるらしい」
クレイドが腕を組んだ。
「エドモンドの部下ってことか?」
「その可能性が高い」
アルベルトは頷いた。
「少なくとも、屋敷の周囲を探っていた者がいることは確かだ」
私は、膝の上で手を握り締めた。
知らない誰かが、屋敷の外から私たちを見ていた。
そう考えると、背筋が冷たくなる。
◇
朝食を終えたあと。
私はエリーゼと一緒に庭園へ出た。
ルナは私の隣を静かに歩いている。
「ルシア」
エリーゼが声をかけた。
「昨日のこと、まだ気になっている?」
「……うん」
私は小さく頷いた。
「エドモンドが、もうすぐ迎えに来るって」
エリーゼは黙って続きを待った。
「私、どうしたらいいのかな」
その言葉に、エリーゼは少しだけ目を細めた。
「どうしたい?」
私は考えた。
お兄様に守ってもらう。
アルベルトに頼る。
クレイドやラビ、セドリックたちにも助けてもらう。
それは、きっと間違いではない。
けれど。
「私も、何かできるようになりたい」
私は静かに答えた。
「お兄様たちが戦っているのに、私だけ何もできないのは嫌だから」
エリーゼは、少しだけ微笑んだ。
「そうね」
「でも、まだ反射も上手に使えないし……」
「だから、練習するのでしょう?」
私は顔を上げた。
エリーゼは優しく続けた。
「最初から何でもできる人なんていないわ。ルシアは、ちゃんと前へ進んでいると思う」
私は小さく頷いた。
「……ありがとう」
エリーゼは微笑んだ。
「それに、あなたにはルナもいるでしょう?」
足元の白狼が顔を上げる。
私はその頭を撫でた。
「うん」
ルナは、静かに尻尾を振った。
◇
その日の午後。
ヴァルディエ家の訓練場には、ラビとセドリックが来ていた。
「ルシアちゃん、今日は反射の応用をやってみようか」
ラビが明るい声で言った。
「応用?」
「そう。今までは飛んでくるものを跳ね返す練習が中心だったでしょ?」
私は頷いた。
「うん」
「でも、実戦では攻撃がどこから来るか分からないからね」
ラビは訓練場の中央へ歩いていった。
「今日は、少し違うことを試してみよう」
セドリックが腕を組む。
「ラビ、無茶はするなよ」
「分かってるって、セドリック叔父さん」
ラビは笑った。
「オレだって、ルシアちゃんに怪我させるつもりはないよ」
「お前の『大丈夫』は信用ならねえんだよ」
「ひどいなぁ」
二人のやり取りに、私は少しだけ笑った。
お兄様も、訓練場の端で様子を見守っている。
「ルシア」
「何?」
「無理だと思ったら、すぐに止めていいからね」
「うん。分かってる」
私は頷いた。
ルナが隣へ並ぶ。
ラビは小さな木製の球をいくつか取り出した。
「まずは、ルシアちゃんが見えていない方向から球を投げるよ」
「見えていない方向?」
「うん。ルナと感覚を共有して、どこから来るか判断してみて」
私は少し考えてから頷いた。
「分かった」
ルナが訓練場の反対側へ歩いていく。
私は目を閉じた。
ルナの視界が、自分の感覚へ重なる。
少し離れた場所にいるラビ。
その手にある木の球。
そして、私の背後へ回り込むセドリック。
私はゆっくりと息を吸った。
「準備できたよ」
ラビが頷く。
「じゃあ、いくよ」
次の瞬間。
背後から、木の球が飛んできた。
私は振り返らずに手を上げる。
透明な膜が現れ、球を弾き返した。
「できた……」
思わず呟く。
ラビが嬉しそうに笑った。
「いいね、ルシアちゃん!」
セドリックも頷いた。
「今のは悪くない」
私は少しだけ微笑んだ。
ルナが嬉しそうに尻尾を振る。
そのとき、お兄様が口を開いた。
「次は、ルナが見ていない方向からも試してみようか」
私は顔を上げた。
「ルナが見ていない方向?」
「うん。感覚共有に頼りきりにならず、自分自身の感覚も使えるようにね」
私は頷いた。
「分かった」
まだ、できることは少ない。
けれど、少しずつでも。
自分の力を、ちゃんと使えるようになりたかった。
◇
訓練を終えた頃。
屋敷の方から一人の使用人が近づいてきた。
「ゼノン様」
お兄様が振り返る。
「どうしたの?」
「ベルフォート王宮より、至急のご連絡が届いております」
お兄様の表情が変わった。
「何かあったの?」
私が尋ねると、お兄様は少しだけ首を傾げた。
「まだ分からない」
使用人が差し出した封筒を受け取る。
お兄様はその場で封を切った。
中の書類へ目を通した瞬間、表情が険しくなる。
「……そう」
短く呟いた。
「お兄様?」
私が声をかけると、お兄様はゆっくりと顔を上げた。
「ルシア」
「何?」
「少し、王宮へ行ってくるね」
「王宮?」
「うん」
お兄様は静かに頷いた。
「ギルベルトの件で、新しい情報が出たみたいだ」
その言葉に、胸の奥が僅かに重くなった。
ギルベルト・ドラクロワ。
ヴェロニカとレティシアの父親。
そして、エドモンドに協力していた人物。
「気をつけてね」
私が言うと、お兄様は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
その手が、私の髪をそっと撫でる。
「すぐに戻るよ」
私は小さく頷いた。
◇
ベルフォート王宮。
会議室には、レオナードとルイスが待っていた。
「ゼノン、来たか」
レオナードが顔を上げる。
「はい。何か分かったんですか?」
ゼノンが尋ねると、ルイスが一枚の書類を差し出した。
「ギルベルト卿の証言にあった、王都外れの礼拝堂を調べました」
ゼノンは書類へ目を落とした。
「それで?」
「地下に、隠し部屋が見つかりました」
レオナードが静かに続ける。
「そこには、複数の書類と、エドモンドに関する記録が残されていた」
ゼノンの赤い瞳が、僅かに細められた。
「どんな記録ですか?」
ルイスが答える。
「ヴァルディエ家の動向。それから、ルシア王女の行動記録です」
ゼノンの表情が変わった。
「ルシアの?」
「はい」
ルイスは頷いた。
「最近のものだけではありません。数年前から、断続的に記録されていました」
ゼノンは、しばらく黙っていた。
ルシアがまだ自分を人間だと思っていた頃。
アルベルトの家で暮らし、昼間部へ通っていた頃。
その日常までもが、誰かに監視されていた。
「……ほかには?」
ゼノンが尋ねる。
ルイスは、一枚の紙を取り出した。
「これです」
そこには、短い文章が記されていた。
『十八歳の誕生日を迎えたら、計画を進める』
ゼノンの赤い瞳が、冷たく輝いた。
「……やっぱり」
レオナードが頷く。
「エドモンドは、ルシア王女が十八歳になるのを待っていたようだ」
ゼノンは、紙を見つめた。
昨日届いた花束。
あの不気味なメッセージ。
『もうすぐ、迎えに行くよ』
それは、ただの挑発ではなかった。
エドモンドは、本当に動き始めている。
◇
その頃。
王都から離れた、とある屋敷。
薄暗い部屋の中で、一人の男が椅子に腰掛けていた。
エドモンド・ヴァルディエ。
その手には、一枚の報告書が握られている。
ルシア・ヴァルディエ。
十八歳。
純血の姫君。
そして、十一年前に手に入れ損ねた少女。
「十八歳か」
エドモンドは、静かに微笑んだ。
「随分と待たせてくれたね」
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
扉が叩かれる。
「エドモンド様」
「入りなさい」
扉が開き、ヴェロニカが姿を現した。
「準備が整いました」
「そうか」
エドモンドは、ゆっくりと立ち上がった。
「ミアは?」
「相変わらず、ルシアに会いたがっています」
ヴェロニカは小さく息を吐いた。
「勝手に動かないよう、何度も言い聞かせているのですが」
エドモンドは楽しそうに笑った。
「構わないよ」
ヴェロニカの眉が動く。
「よろしいのですか?」
「ああ。あの子にも役割がある」
エドモンドは窓の外へ視線を向けた。
「ルシアが、どれほど強くなったのか。少し試してみたいからね」
ヴェロニカは、静かに頷いた。
「承知しました」
エドモンドは、手元の報告書を閉じた。
「それにしても、ゼノンは随分と大切にしているようだね」
その唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「十一年前と、何も変わらない」
ヴェロニカは何も答えなかった。
「今度こそ、あの子を迎えに行こう」
エドモンドは、静かに告げた。
「私の、可愛いルシアをね」




