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純血家の亀裂



 翌朝。


 ヴァルディエ家の庭園には、薄い朝霧が漂っていた。


 夜の間に降った雨の名残で、石畳はまだ少し濡れている。


 私は窓辺に立ち、庭園を眺めていた。


 昨日、お兄様から聞いた話が頭から離れなかった。


 十一年前の襲撃。


 レティシアが、お兄様の姿に変身して屋敷へ潜入していたこと。


 ヴェロニカが、お父さまの黒狼を封じたこと。


 そして、エドモンドが二人の命を奪ったこと。


 どれも、私にとっては簡単に受け止められる話ではなかった。


 けれど、もう知らなかった頃には戻れない。


 私は、窓に映る自分の姿を見つめた。


 黒い髪。


 赤い瞳。


 ヴァルディエ家の血を受け継いだ、本来の私。


 その足元へ、ルナが静かに近づいてきた。


「おはよう、ルナ」


 しゃがんで頭を撫でると、白狼は私の手に鼻先を寄せた。


「今日も、少し頑張ろうね」


 ルナは小さく尻尾を振った。


     ◇


 朝食を終えたあと、私はエリーゼと一緒に訓練場へ向かった。


 そこにはすでに、お兄様とラビ、クレイドが待っていた。


 少し離れた場所では、ガルとレオが並んで座っている。


 二匹の黒狼は、姿こそよく似ているけれど、近くで見ると表情や仕草に少し違いがあった。


 ガルは落ち着いていて、レオは時折周囲へ興味深そうに視線を向けている。


「おはようございます」


 私が声をかけると、ラビが片手を上げた。


「おはよう、ルシアちゃん。今日は少し実戦に近い訓練をしてみようか」


「実戦に近い訓練?」


「そう。反射が使えるようになったのは大きいけど、実際の戦闘では相手が一人とは限らないからね」


 私は静かに頷いた。


 これまでの訓練では、目の前から飛んでくるものを跳ね返すことが中心だった。


 けれど、ミアのように素早く動く相手が、必ず正面から攻撃してくるとは限らない。


「今日は、ルナとの連携を中心に練習しよう」


 お兄様が微笑んだ。


「ただし、危険な攻撃は使わない。まずは動きを覚えるところからだよ」


「うん。分かった」


 私は訓練場の中央へ進んだ。


 ルナが、静かに隣へ並ぶ。


 ラビは木製の球をいくつか用意すると、クレイドへ二つ渡した。


「クレイドは右側からお願い。オレは左側から投げるよ」


「ああ」


 二人が左右へ分かれる。


 私は軽く息を吸った。


 ルナは私の左側に立ち、前方を見つめている。


「準備はいい?」


「はい」


 ラビが球を投げた。


 私は右手を上げる。


 透明な膜が現れ、球を跳ね返した。


 ほとんど同時に、クレイドの投げた球が左側から飛んでくる。


 ルナが素早く身体を向けた。


 白狼の前にも透明な膜が広がり、球を弾き返す。


「いいね」


 ラビが頷いた。


「今度は少しだけ間隔を短くするよ」


 私は頷き、再び構えた。


 次の球が飛んでくる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 反射の膜が、次々と現れる。


 けれど、四つ目の球が飛んできたときだった。


「あっ」


 私は反応が遅れた。


 球が肩へ向かってくる。


 その瞬間、ルナが私の前へ飛び出した。


 透明な膜が広がり、球が弾かれる。


 私は驚いてルナを見た。


「ルナ……」


 白狼は、何事もなかったように私を見上げている。


 私はそっと、その頭を撫でた。


「ありがとう」


 ラビが近づいてきた。


「今のはよかったね。ルナが自分で判断して守ってくれた」


 クレイドも頷いた。


「お前が見えてない方向まで守れるのは、かなり便利だな」


 私は小さく笑った。


「うん。すごく心強い」


 お兄様は、少し離れた場所から私たちを見つめていた。


「でも、ルナに頼りきりにならないようにね」


「うん」


「ルナが離れた場所にいるときは、自分で対応しなければならないから」


 私は頷いた。


 ルナは私の分身。


 感覚も共有している。


 けれど、どれほど頼もしくても、すべてを任せてしまってはいけない。


 私自身も、もっと強くならなければ。


     ◇


 訓練を終えた頃、屋敷の方から一人の使用人が近づいてきた。


「ゼノン様」


 お兄様が振り返る。


「どうしたの?」


「ベルフォート王宮より、使者がお見えです」


 お兄様の表情が変わった。


「分かった。すぐに行くよ」


 使用人が一礼して立ち去る。


 私はお兄様を見上げた。


「王宮から?」


「うん。昨日の件だと思う」


 その言葉に、胸の奥が僅かに重くなった。


 ギルベルト・ドラクロワ。


 ヴェロニカとレティシアの父親。


 そして、二人の逃亡を手助けした疑いのある人物。


「何か分かったのかな」


「そうかもしれないね」


 お兄様は私の頭を撫でた。


「ルシアは、もう少し休んでいて」


「うん」


 お兄様が屋敷へ向かうのを見送る。


 エリーゼが私の隣へ歩いてきた。


「少し休憩しましょうか」


「そうだね」


 私は頷いた。


 ルナが、私の足元へ静かに寄り添った。


     ◇


 ヴァルディエ家の応接室。


 ゼノンの向かいには、ベルフォート王宮から派遣された使者が座っていた。


「ギルベルト・ドラクロワへの正式な事情聴取が決定しました」


 使者は、一通の書類を差し出した。


「レティシアの証言に加え、収容施設の記録からもギルベルトの関与を示す証拠が確認されています」


 ゼノンは書類へ目を通した。


「本人には、もう伝えてあるの?」


「はい。本日、王宮への出頭を命じました」


「返事は?」


「出頭するとのことです」


 ゼノンは僅かに目を細めた。


 ギルベルトが、素直に応じるとは思っていなかった。


 第三純血家の当主として、長年ヴァンパイア社会に影響力を持ってきた男だ。


 娘二人が事件に関わっていたこと。


 ヴェロニカの処刑を偽装したこと。


 ミアの脱獄を手助けしたこと。


 そのすべてが明らかになれば、ドラクロワ家の立場は大きく揺らぐ。


「僕も同席していいかな」


 ゼノンが尋ねた。


「もちろんです。レオナード様も、ゼノン様の同席を希望されています」


「分かった」


 ゼノンは書類を閉じた。


「時間になったら向かうよ」


     ◇


 その日の午後。


 ベルフォート王宮の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。


 長い机の奥には、レオナード・ベルフォート。


 その隣に、息子のルイス。


 そして、少し離れた席にはゼノンが座っている。


 やがて、扉が開いた。


「ギルベルト・ドラクロワ様がお見えです」


 侍従の声とともに、一人の男が姿を現した。


 ギルベルト・ドラクロワ。


 第三純血家の当主。


 整えられた金髪と、冷静な眼差し。


 その姿には、長年貴族社会で生きてきた者らしい威厳があった。


「お招きいただき、光栄です」


 ギルベルトは、穏やかに微笑んだ。


「本日は、どのようなご用件でしょうか」


 レオナードは、静かに答えた。


「用件は、すでに伝えてあるはずだ」


「ええ。娘たちの件ですね」


 ギルベルトは椅子へ腰を下ろした。


「まったく、困ったものです。レティシアもヴェロニカも、私の知らぬところで随分と勝手なことをしてくれた」


 ゼノンは、黙って男を見つめていた。


「知らなかった、と?」


 レオナードが尋ねる。


「もちろんです」


 ギルベルトは即答した。


「娘たちがエドモンドと関わっていたことは承知しておりましたが、まさか王家を襲撃するような計画に加担していたとは」


 ルイスが、一枚の書類を机へ置いた。


「では、こちらについて説明していただけますか」


 ギルベルトが視線を落とす。


 そこには、収容施設の特別移送許可証があった。


 署名欄には、ギルベルト・ドラクロワの名。


「これは?」


「ヴェロニカの処刑前に発行された、移送許可証です」


 ルイスは静かに続けた。


「この許可証を使い、ヴェロニカは収容施設から移送されました。その後、処刑されたと発表されています」


 ギルベルトは、しばらく書類を見つめていた。


「なるほど」


 その声に、動揺はなかった。


「私の署名がありますね」


「ご自身のものと認めますか?」


「ええ。間違いありません」


 ルイスの眉が僅かに動く。


「では、処刑偽装についても認めるのですね?」


 ギルベルトは、ゆっくりと顔を上げた。


「いいえ」


 会議室が静まり返った。


「私は、娘の移送を許可しただけです。処刑が偽装されたことについては、何も存じません」


 レオナードの表情が険しくなる。


「随分と都合のよい説明だな」


「事実を申し上げているだけです」


 ギルベルトは穏やかに答えた。


「私が許可した移送のあと、何が起きたのかまでは把握しておりません」


 ゼノンは、静かに口を開いた。


「ギルベルト卿」


 ギルベルトが視線を向ける。


「はい、ゼノン様」


「では、ミアの脱獄については?」


 ギルベルトの表情が、僅かに変わった。


「ミア?」


「ルシアの友人だった少女です。ヴァンパイアになったあと、収容施設へ送られていた」


「存じております」


「その少女が、逃げたことも?」


「ええ。報告は受けています」


 ゼノンは、静かに微笑んだ。


「その逃亡にも、ドラクロワ家の馬車が使われていたそうだね」


 ギルベルトの指先が、僅かに動いた。


「偶然でしょう」


「二度も?」


「ドラクロワ家の馬車は、王都に何台もあります。使用人が勝手に使った可能性も否定できません」


 ゼノンは、しばらく男を見つめていた。


「そう」


 その声は、穏やかだった。


 けれど、赤い瞳には冷たい光が宿っていた。


「では、もう一つ聞かせて」


 ギルベルトが僅かに眉を寄せる。


「何でしょう」


「君は、エドモンドが今どこにいるのか知っている?」


 ギルベルトの表情が、初めて強張った。


「エドモンド様の居場所、ですか」


「うん」


 ゼノンは頷いた。


「十一年前、父上と母上を殺した男だよ」


 会議室に、重い沈黙が落ちた。


「その男が、今もルシアを狙っている」


 ゼノンの声が、少しだけ低くなる。


「君は、何か知っているんじゃないかな」


 ギルベルトは、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと微笑んだ。


「残念ながら、存じません」


 ゼノンは、その顔を見つめた。


 そして、静かに告げた。


「そう。なら、少し質問を変えようか」


 その赤い瞳が、僅かに輝いた。


「ギルベルト卿」


 ゼノンは、穏やかな声で続けた。


「君は、今もエドモンドに協力しているの?」


  ギルベルトの笑みが、消えた。


 それまで余裕を崩さなかった男が、初めてゼノンの視線を避けた。


「何をおっしゃっているのか、理解しかねますな」


「難しい質問だった?」


 ゼノンは穏やかに微笑んだ。


「今もエドモンドに協力しているのか。それだけを聞いているんだよ」


 ギルベルトは、ゆっくりと背筋を伸ばした。


「私はドラクロワ家の当主です。王家に対して不利益となるような行為をするはずがありません」


「そう」


 ゼノンは小さく頷いた。


「なら、答えは簡単だね」


 ギルベルトの指先が、僅かに動いた。


 レオナードは、その様子を黙って見つめている。


 ルイスもまた、書類から顔を上げていた。


「ギルベルト卿」


 ゼノンが、静かに名前を呼んだ。


「君は、今もエドモンドに協力している?」


「ですから、私は――」


「はい、か。いいえ、で答えて」


 ギルベルトは口を閉じた。


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。


「答えられないんだね」


 ゼノンは微笑んだ。


 けれど、その赤い瞳には、温かさがなかった。


「では、仕方ない」


 次の瞬間。


 室内の空気が、重く沈んだ。


 ギルベルトの背筋が強張る。


 ゼノンの赤い瞳が、鮮やかに輝いた。


「――これは、王家の命令だ」


 その言葉が響いた瞬間、ギルベルトの身体が動かなくなった。


 純血種である彼ですら、抗うことができない。


 ヴァルディエ家の血に宿る、王の異能。


 歴代の王の中でも、ごく限られた者だけが発現してきた絶対服従。


 それを発現した者こそが、真の王として認められてきた。


「僕の質問に、嘘をつかずに答えて」


 ゼノンが静かに告げる。


「君は、今もエドモンドに協力している?」


 ギルベルトの唇が震えた。


「……はい」


 その声は、絞り出すようなものだった。


 レオナードの表情が険しくなる。


 ルイスが、すぐに記録係へ視線を向けた。


「何をしているの?」


 ゼノンが続ける。


「資金の提供と、隠れ家の手配を……」


 ギルベルトの額に、冷たい汗が滲んだ。


「それから?」


「王都の情報を……」


「誰の情報?」


 ギルベルトは、必死に口を閉じようとした。


 けれど、命令に逆らうことはできない。


「ヴァルディエ家の……」


 室内の空気が、さらに冷たくなった。


「ルシアのこと?」


「……はい」


 ゼノンの表情から、笑みが消えた。


「どんな情報を渡したの?」


「屋敷の警備体制と……ルシア様の行動について……」


 レオナードが、低く息を吐いた。


「ギルベルト。お前は、自分が何をしているのか分かっているのか」


 ギルベルトは答えられなかった。


 ゼノンの命令が、まだ彼の意思を縛っている。


「エドモンドは、今どこにいるの?」


 ゼノンが尋ねた。


「……知りません」


 その答えに、ルイスが眉を寄せた。


「本当に知らないのですか?」


「はい……」


 ギルベルトの声は震えていた。


「連絡は、使者を通じて……」


 ゼノンは、静かに頷いた。


「使者の名前は?」


「分かりません。いつも顔を隠していて……」


「会う場所は?」


「王都の外れにある、古い礼拝堂です」


 ルイスが、すぐに記録係へ指示を出した。


「場所を確認してください」


 記録係が頷き、素早く筆を走らせる。


 ゼノンは、ギルベルトを見つめたまま続けた。


「最後に連絡を取ったのはいつ?」


「三日前です」


「何を伝えたの?」


「レティシアが拘束されたことと……ヴェロニカがまだ逃亡していること……」


「それだけ?」


「ルシア様の異能が、発現した可能性についても……」


 ゼノンの赤い瞳が、鋭く細められた。


「異能?」


「はい……」


「誰から聞いたの?」


「屋敷に出入りしている者から……」


 ゼノンの表情が変わった。


 ヴァルディエ家の屋敷。


 厳重な警備。


 その内部に、情報を流している者がいる。


「名前は?」


 ゼノンが尋ねる。


 ギルベルトの唇が震えた。


「……分かりません」


「知らないの?」


「はい……。報告は、匿名の手紙で届いていました」


 ゼノンは、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに息を吐いた。


「そう」


 その声は、穏やかだった。


 けれど、赤い瞳には冷たい光が宿っている。


「君は、ずいぶんと多くのことを知っているんだね」


 ギルベルトは何も答えられなかった。


     ◇


 レオナードが、ゆっくりと立ち上がった。


「ギルベルト・ドラクロワ」


 その声は、厳しかった。


「お前の行為は、第三純血家の当主として到底許されるものではない」


 ギルベルトは俯いた。


「ヴェロニカの処刑偽装、ミアの脱獄への協力。そして、エドモンドへの継続的な支援」


 レオナードは続けた。


「さらに、ヴァルディエ家の情報を敵対者へ渡していた」


 室内に、重い沈黙が落ちた。


「これだけの証言があれば、正式な調査を進めるには十分だ」


 ルイスが頷いた。


「ギルベルト卿の身柄を、一時的に王宮で預かるべきかと」


「そうだな」


 レオナードは、護衛へ視線を向けた。


「ギルベルト卿を拘束しろ」


 護衛たちが一斉に動き出す。


 ギルベルトは、抵抗しなかった。


 いや、できなかった。


 ゼノンの命令が、まだ彼の身体を縛っていたからだ。


「ゼノン様……」


 ギルベルトが、震える声で呼んだ。


 ゼノンは顔を上げた。


「何?」


「私は、ドラクロワ家を守りたかっただけなのです」


 ゼノンは、しばらく男を見つめていた。


「家を守るために、僕の家族を売ったの?」


 ギルベルトの顔から血の気が引いた。


「それは……」


「君には、家族を守るために選べる道がいくつもあったはずだよ」


 ゼノンは静かに続けた。


「でも君は、エドモンドに協力する道を選んだ」


 ギルベルトは何も言えなかった。


「その結果、ルシアが危険に晒された」


 ゼノンの赤い瞳が、冷たく細められる。


「それだけで、僕が君を許さない理由としては十分だよ」


 ギルベルトは、護衛に連れられて部屋を出ていった。


     ◇


 会議室に残されたのは、レオナードとルイス、そしてゼノンだった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて、ルイスが静かに言った。


「ヴァルディエ家の内部から情報が漏れている可能性がありますね」


「うん」


 ゼノンは頷いた。


「ただ、屋敷の使用人が直接関わっているとは限らない。出入りしている業者や、外部の人間かもしれないから」


 レオナードが腕を組む。


「いずれにせよ、警備体制を見直す必要があるな」


「そうですね」


 ゼノンは静かに答えた。


「ただ、今すぐ大きく動くのは避けたいと思っています」


 ルイスが顔を上げる。


「なぜですか?」


「情報を流している相手に、こちらが気づいたと知られたくないから」


 ゼノンは、机の上の資料へ視線を落とした。


「まずは、誰がどの情報を知っているのか整理する。それから、外へ出ている情報と照らし合わせたい」


 レオナードは頷いた。


「なるほど。相手を泳がせるつもりか」


「はい」


 ゼノンは静かに微笑んだ。


「ルシアを守るためにも、今度はこちらから動きたいので」


 ルイスが資料を閉じた。


「分かりました。王宮側でも協力します」


「ありがとう」


 ゼノンは頷いた。


 けれど、その表情には、まだ僅かな緊張が残っていた。


 エドモンドは、確実に動いている。


 そして、ヴァルディエ家の内部にまで、その手が伸びている可能性がある。


 十一年前と同じ過ちを、繰り返すわけにはいかなかった。


     ◇


 その頃。


 ヴァルディエ家の庭園では、ルシアがエリーゼと並んで歩いていた。


 訓練を終えたあとの、静かな時間だった。


 ルナは少し先を歩き、ときどき振り返って二人を確認している。


「今日は、少し疲れた?」


 エリーゼが尋ねる。


「うん。でも、昨日よりは楽だったかな」


 ルシアは小さく微笑んだ。


「反射も、少しずつ慣れてきた気がする」


「そうね。ラビさんも褒めていたわ」


「本当?」


「ええ」


 エリーゼは頷いた。


「でも、無理はしないでね」


「うん。分かってる」


 ルシアは静かに答えた。


 しばらく歩いていると、ルナが足を止めた。


 白狼の耳が、僅かに動く。


「ルナ?」


 ルシアが声をかける。


 ルナは、庭園の外側へ視線を向けていた。


 その先には、屋敷を囲む高い塀がある。


「何かいるの?」


 ルシアは、ルナと感覚を共有した。


 遠くから聞こえる、僅かな足音。


 風に混じる、知らない匂い。


 けれど、それはすぐに消えた。


「……誰か、いたのかな」


 エリーゼが表情を引き締める。


「どうしたの?」


「ルナが、何か感じたみたい」


 ルシアは、静かに答えた。


「塀の向こうに、誰かいたのかもしれない」


 エリーゼは、すぐに周囲へ視線を走らせた。


「屋敷の警備兵に伝えましょう」


「うん」


 ルシアは頷いた。


 ルナは、まだ塀の向こうを見つめている。


 その赤い瞳には、警戒の色が宿っていた。


 ルシアは、そっと白狼の頭へ手を置いた。


「大丈夫。ちゃんと伝えようね」


 ルナは、小さく鼻を鳴らした。


 そのとき。


 塀の向こうから、微かに何かが落ちる音がした。


 金属が石に触れたような、乾いた音。


 ルシアは顔を上げた。


「……今の、何?」


 エリーゼも足を止めた。


 二人は、顔を見合わせる。


 ルナが低く唸った。


 庭園の静けさの中で、その音だけが不自然に響いていた。

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