明らかになる新事実
その日の夕刻。
ベルフォート王宮の地下に設けられた拘束区画では、レティシア・ドラクロワが一人、椅子に座っていた。
第三純血家ドラクロワの次女。
そして、ヴァルディエ家への襲撃を命じた容疑で拘束されている人物。
王宮へ連行されてから、数日が経っていた。
身につけているのは、装飾のない簡素なドレス。
いつも丁寧に整えられていた髪も、今は肩へ無造作に流されている。
それでも、レティシアは背筋を伸ばして座っていた。
ドラクロワ家の令嬢としての誇りだけは、まだ失っていないつもりだった。
扉の外には二人の警備兵。
室内には記録係と護衛が控えている。
やがて、重い扉が開いた。
「レティシア・ドラクロワ」
顔を上げる。
入ってきたのは、レオナード・ベルフォート。
その隣には息子のルイス。
そして、二人の後ろから一人の青年が姿を現した。
「ゼノン様!」
レティシアの表情が明るくなる。
思わず立ち上がろうとした彼女を、護衛が制した。
「お座りください」
「ですが、ゼノン様が……!」
「レティシア」
ゼノンが静かに名前を呼んだ。
その声に、彼女は動きを止めた。
「今日は、君に確認したいことがあって来たんだ」
レティシアは、僅かに頬を染めた。
「私に、ですか?」
「うん」
ゼノンは彼女の向かいへ腰を下ろした。
レオナードとルイスも、それぞれ席につく。
室内に、重苦しい沈黙が流れた。
◇
「十一年前のことを聞かせてほしい」
ゼノンが口を開いた。
レティシアの表情が変わった。
「十一年前……?」
「父上と母上が殺された日だよ」
その言葉に、彼女の指先が僅かに震えた。
「君は、エドモンドとヴェロニカと一緒に、あの屋敷へ来たね」
レティシアは答えなかった。
ゼノンは静かに続ける。
「僕は君たちの顔を覚えている。あの日、屋敷に残されていた痕跡も調べた」
レティシアは唇を噛んだ。
「何をお聞きになりたいのですか?」
「どうして、父上と母上を襲ったの?」
レティシアは視線を逸らした。
「私は、ただ……」
「ただ?」
「エドモンド様に、付き添っていただけです」
ゼノンの表情は変わらなかった。
「付き添っただけで、屋敷の使用人たちが殺されたの?」
「それは、エドモンド様が……!」
「君は、あの日何をしたの?」
レティシアは黙り込んだ。
レオナードが静かに口を開く。
「レティシア嬢。十一年前の王家襲撃は、極めて重大な事件だ。知っていることをすべて話してもらいたい」
「私は、何も知りません!」
レティシアは声を荒らげた。
「お姉様に言われて、一緒に行っただけです!」
ゼノンは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、静かに尋ねる。
「じゃあ、なぜエドモンドはルシアの存在を知っていたの?」
レティシアの顔から血の気が引いた。
「それは……」
「ルシアは、王都から離れた屋敷で育てられていた。存在を知っていた者は、ごく限られていたんだ」
ゼノンの赤い瞳が細められる。
「どうして、君たちはあの場所を知っていたの?」
レティシアは何も答えなかった。
◇
長い沈黙のあと、レティシアが小さく口を開いた。
「私は、本当に詳しいことは知らなかったんです」
ゼノンは黙って続きを待った。
「お姉様から、エドモンド様のお手伝いをするように言われました。王家の屋敷へ行くだけだと……」
「それで?」
「屋敷へ着いたら、エドモンド様が突然、使用人を殺して……」
レティシアの声が震える。
「私は、あんなことになるなんて思っていなかったんです!」
ルイスが静かに尋ねた。
「では、なぜその場から逃げなかったのですか?」
「それは……」
レティシアは俯いた。
「お姉様が、逃げるなと……」
ゼノンは、彼女を見つめていた。
その言葉が真実なのか。
それとも、自分の罪を軽くするための嘘なのか。
まだ、分からない。
「レティシア」
ゼノンが静かに告げた。
「君は、十一年前の事件で何をしたの?」
レティシアは顔を上げた。
「私は、何も……!」
その瞬間。
ゼノンの赤い瞳が、静かに輝いた。
「――これは、王家の命令だ」
室内の空気が、一変した。
レティシアの身体が強張る。
「十一年前、君が屋敷で何をしたのか。嘘をつかずに答えて」
レティシアの唇が震えた。
言いたくない。
そう思っていることが、表情からはっきりと分かった。
けれど、口が勝手に開いていく。
「私は、ゼノン様の姿に変身して、屋敷へ潜入しました」
ゼノンの表情が険しくなる。
「僕の姿に?」
「はい。声も、顔も、体格も真似しました。使用人たちは私をゼノン様だと思って、疑いませんでした」
ルイスが眉を寄せた。
「あなたの異能は『変身』なのですね」
「はい」
レティシアは頷いた。
「私はその姿で、使用人の配置や警備の状況、アルフォンス様とゼノン様の行動を調べ、エドモンド様へ報告しました」
「逃走用の馬車も、君が用意したの?」
「はい。私が手配しました」
ゼノンは静かに頷いた。
「その情報を、何に使うか知っていた?」
レティシアの唇が震えた。
「知っていました。エドモンド様が屋敷を襲い、ルシア様を奪うためです」
室内に沈黙が落ちた。
「それでも、協力したんだね」
「はい」
レティシアの瞳から涙が零れた。
「ゼノン様を、手に入れたかったからです」
ゼノンの赤い瞳が、僅かに細められる。
「どういうこと?」
「エドモンド様が教えてくださったんです。ゼノン様には、秘密にされている妹君がいて、その方が婚約者だと」
レティシアは、震える声で続けた。
「ルシア様さえいなくなれば、私にも可能性があると思いました」
ゼノンは何も言わなかった。
「私は、ずっとゼノン様をお慕いしていました。夜会で初めてお会いした日から、ずっと」
涙が頬を伝う。
「でも、ゼノン様はいつも私を、ほかの令嬢と同じようにしか見てくださらなかった」
ゼノンは静かに答えた。
「だから、ルシアを奪わせようとしたの?」
「はい」
その答えは、あまりにも明確だった。
「お姉様に命じられたからだけじゃない。私自身が、そう望みました」
ゼノンの表情から、僅かに残っていた温かさが消えた。
◇
「ヴェロニカは、あの日何をしたの?」
ゼノンが尋ねた。
レティシアは涙を拭いながら答えた。
「お姉様は、アルフォンス様の黒狼を封じました」
「黒狼を?」
「はい。アルフォンス様が屋敷に残していた黒狼です」
父アルフォンスの異能。
黒狼。
父は複数の黒狼を生み出し、その分身がいる場所へ瞬時に移動することができた。
「どうやって封じたの?」
「お姉様の異能です。見つめた相手の動きと異能を、瞬きするまで封じることができます」
ゼノンは静かに頷いた。
ヴェロニカの異能については、すでに把握している。
万全の状態なら四十秒。
戦闘中なら二十秒から二十五秒ほど。
一度使用すると五分間は再使用できない。
「お姉様は、黒狼を封じている間にエドモンド様がロザリア様を襲う手筈になっていました」
レティシアは続けた。
「アルフォンス様が、すぐに駆けつけられないようにするためです」
ゼノンは静かに拳を握り締めた。
「母上は?」
「エドモンド様が、心臓を奪いました」
レティシアは俯いた。
「そして、アルフォンス様が駆けつけたとき、その目の前で心臓を食べたんです」
室内が静まり返った。
母の異能は治癒。
争いを嫌い、誰かを傷つけることを望まなかった母らしい力だった。
エドモンドは、その力を奪うために心臓を食べた。
「君たちは、最初から母上を殺すつもりだったの?」
「はい。エドモンド様は、ロザリア様の異能を手に入れるつもりでした」
ゼノンは静かに目を閉じた。
あの日、父が間に合わなかった理由。
母が殺された理由。
そのすべてが、少しずつ明らかになっていく。
◇
「もう一つ、聞きたいことがある」
ゼノンは再び目を開いた。
「君は、僕の姿になってルシアを連れ出したことがあるね」
レティシアの肩が跳ねた。
それは十一年前の襲撃ではない。
ルシアが十七歳になり、まだ自分を人間だと思っていた頃の事件。
休日の朝、アルベルトの家を訪れ、ゼノンの姿でルシアを買い物へ誘った。
そして王都へ連れ出した。
「はい」
レティシアは震える声で答えた。
「僕の姿で、あの子に何をしたの?」
「買い物に連れていきました。それから、食事をして……」
「そのあと?」
「ルシア様を、人気のない建物へ連れていきました」
ゼノンの瞳が鋭くなる。
「何のために?」
「エドモンド様の血を、飲ませるためです」
レティシアは俯いた。
「ルシア様の封印を解き、純血のヴァンパイアとして目覚めさせるつもりでした」
「それだけ?」
レティシアの唇が震えた。
「いいえ。エドモンド様の血を入れれば、その支配下に置けると考えていました」
ルイスが眉を寄せた。
「血の支配、ですか」
「はい。エドモンド様は、自分の血を飲んだ相手を操ることができます」
レオナードが静かに口を開いた。
「王家の命令に似た異能だな」
ゼノンは頷いた。
「ただし、エドモンドの血を飲んだ者にしか使えません」
そして、レティシアを見つめる。
「君は、ルシアが僕を疑わないことを知っていたんだね」
「はい」
「だから、僕の姿を使った」
「はい」
ゼノンは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねる。
「僕の姿で、ルシアに何を言ったの?」
レティシアの表情が変わった。
「それは……」
「答えて」
王家の命令に逆らうことはできない。
レティシアは、震える声で話し始めた。
「ルシア様は、ゼノン様とずっと一緒にいたいと仰っていました」
ゼノンの赤い瞳が揺れた。
「自分だけ歳を取って、いつか死んでしまうのが怖いと……」
レティシアは続ける。
「ゼノン様を置いていきたくないと、仰っていました」
ゼノンは何も言わなかった。
「だから私は、ヴァンパイアになれば、ずっと一緒にいられると伝えました」
その言葉に、ゼノンの拳が強く握り締められる。
「それで、ルシアは?」
「信じてくれました」
レティシアの声が震えた。
「私をゼノン様だと思って、何の疑いもなく……」
ゼノンは静かに目を閉じた。
「ほかには?」
静かな声だった。
レティシアは唇を震わせた。
「ルシア様は……」
一度、言葉が途切れる。
「ゼノン様が、どうして自分の血を欲しがらないのか、気にしていました」
ゼノンの目が見開かれた。
「僕が?」
「はい。夜会で、ゼノン様がほかの女性の血を飲んでいるところを見たそうです」
ゼノンは、息を呑んだ。
「自分の血は美味しくなさそうなのかと……」
レティシアは、涙を流しながら続けた。
「ヴァンパイアになれば、ゼノン様も自分の血を飲んでくれるのかと、尋ねられました」
ゼノンは、しばらく何も言えなかった。
ルシアが、自分の血を欲しがられないことを気にしていた。
その理由も知らずに。
自分だけが拒まれているように感じていたのだ。
「君は、何て答えたの?」
「もちろん、と」
レティシアは俯いた。
「ヴァンパイアになれば、ゼノン様も血を飲んでくれると伝えました」
ゼノンは静かに息を吐いた。
その言葉が、どれほどルシアの心を揺らしたのか。
想像するだけで、胸の奥が締め付けられた。
ルシアが、そんなことを気にしていたなんて。
あの子はいつも、ゼノンが血を飲まないことについて何も言わなかった。
自分だけが人間であること。
いつか歳を取り、先に死んでしまうこと。
そして、ほかの女性の血は飲むのに、自分の血だけは欲しがられないこと。
そんな不安を抱えながらも、ルシアはいつも自分のそばで笑っていたのだ。
ゼノンは、膝の上で組んでいた手に視線を落とした。
ルシアが十七歳だった頃。
あの子は、自分が純血のヴァンパイアであることも、ヴァルディエ家の娘であることも知らなかった。
ただの人間として生きているつもりだった。
だからこそ、ゼノンと同じ時間を生きられないことが、怖かったのだろう。
そして、その不安を打ち明けた相手は、本物のゼノンではなかった。
自分の姿をした、目の前の女だった。
「ゼノン様」
レティシアが、おずおずと声をかけた。
ゼノンは顔を上げた。
「何?」
「私は、ただ……ルシア様が、あまりにも無防備だったので」
「無防備?」
「はい。ゼノン様の姿をしているだけで、何の疑いもなくついてきてくださって。私が何を言っても信じてしまうんです」
レティシアは、俯いたまま続けた。
「だから、少しだけ意地悪をしたくなったんです」
ゼノンの表情が変わった。
「意地悪?」
「だって、あの子は……!」
レティシアが顔を上げた。
「ゼノン様とずっと一緒にいたいとか、ゼノン様に血を飲んでほしいとか、そんなことばかり言うんですもの!」
その声には、嫉妬が滲んでいた。
「私がどれほど望んでも手に入らないものを、あの子は当たり前のように持っているんです」
涙が頬を伝う。
「私だって、ゼノン様に愛されたかった」
ゼノンは黙っていた。
「夜会で初めてお会いした日から、ずっとお慕いしていました。ゼノン様が笑いかけてくださるだけで、嬉しくて」
レティシアは、震える声で続けた。
「なのに、あの子は何もしなくても、ゼノン様に愛されているんですもの!」
ゼノンの赤い瞳が、静かに細められた。
「レティシア」
その声に、彼女は息を呑んだ。
「君は勘違いしているよ」
「え?」
「ルシアが何もしなくても僕の愛情を手に入れたんじゃない。僕が、ルシアを愛しているんだ」
レティシアの表情が凍りついた。
「それは、君がどれだけ望んでも変わらない」
「そんな……」
「ルシアがいなくなったとしても、僕が君を選ぶことはないよ」
レティシアは、唇を震わせた。
「どうして……どうして、そこまであの子を……」
ゼノンは迷わず答えた。
「ルシアは、僕の大切な妹であり、伴侶だから」
その言葉に、レティシアは何も言えなくなった。
◇
「もう一つ、確認したいことがある」
ゼノンは、静かに話を戻した。
「君は、あの日エドモンドの血をルシアに飲ませようとしたね」
「はい」
「もし成功していたら、どうなると思っていたの?」
レティシアは俯いた。
「ルシア様の封印が解けて、純血のヴァンパイアとして目覚めるはずでした」
「それは、エドモンドが言ったこと?」
「はい。ヴァルディエの純血を与えれば、封印を解けると……」
ゼノンは静かに息を吐いた。
「君たちは、封印の仕組みを理解していなかったんだね」
レティシアが顔を上げた。
「どういうことですか?」
「ルシアを人間として生かしていた封印は、ただヴァルディエの血を飲ませれば解けるようなものじゃなかった」
ゼノンは、ゆっくりと言葉を続けた。
「封印を解くには、僕がルシアに牙を立てて血を吸い、同時に僕自身の血をルシアの体内へ送り込む必要があったんだ」
レティシアの瞳が揺れた。
「ゼノン様の血を……?」
「そう。僕とルシアの血を直接交わすことで、封印を解くことができた」
ルイスが眉を寄せる。
「では、エドモンドの血を与えても、封印は解けなかったということですか?」
「それは分からない」
ゼノンは、はっきりと答えた。
「正しい方法ではないからこそ、何が起きたのか予測できないんだ」
レオナードが静かに頷いた。
「封印が反応しない可能性もあれば、不完全に壊れる可能性もあったわけか」
「はい」
ゼノンは続けた。
「封印されていたルシアの身体に、同じヴァルディエの純血が入る。それだけで、眠っていた記憶が戻ってしまったかもしれません」
十一年前の記憶。
父と母が殺された日のこと。
幼いルシアが忘れていた、あまりにも残酷な光景。
「記憶だけが戻り、力は封じられたままだった可能性もあります。反対に、異能の封印だけが不安定になっていたかもしれない」
ゼノンは、レティシアを見つめた。
「ルシアの身体が、その変化に耐えられたかどうかさえ分からない」
レティシアは何も答えなかった。
「そして、何より問題なのは、エドモンドの血そのものだよ」
ルイスが口を開く。
「血の支配ですね」
「うん」
ゼノンは頷いた。
「エドモンドは、自分の血を飲ませた相手を支配できる。ルシアがその血を受け入れていたら、封印がどうなるかも分からないまま、エドモンドの命令に逆らえなくなっていた可能性がある」
レオナードの表情が険しくなる。
「記憶も異能も不安定な状態で、支配下に置かれていたかもしれないのか」
「そうです」
ゼノンは、静かに拳を握り締めた。
「しかも、あのときのルシアは、自分が何者なのかさえ知らなかった」
もし、あと数秒遅れていたら。
あの子は突然、十一年前の記憶を取り戻し、何が起きているのか理解できないまま、エドモンドの命令に従わされていたかもしれない。
あるいは、力の封印だけが壊れ、自分でも制御できない異能に苦しんでいたかもしれない。
そのどちらも、起こらなかったとは言い切れない。
「本当に、間に合ってよかった」
ゼノンが小さく呟いた。
レティシアは、その言葉に顔を上げた。
「ゼノン様……」
「君は、僕の姿でルシアを連れ出した」
ゼノンの声が、僅かに低くなる。
「僕の声で嘘をついて、僕を信じているあの子の気持ちを利用した」
レティシアは俯いた。
「それだけじゃない。ルシアが誰にも話せなかった不安まで聞き出して、それを利用したんだ」
ゼノンの赤い瞳が、冷たく輝いた。
「君がしたことは、絶対に許さない」
レティシアの頬を、涙が伝った。
◇
レオナードが、静かに口を開いた。
「レティシア嬢。もう一つ確認したい」
レティシアが顔を上げる。
「ギルベルト卿は、十一年前の襲撃について知っていたのか?」
その瞬間、レティシアの表情が変わった。
「お父様……?」
「そうだ」
レオナードは彼女を見つめた。
「ドラクロワ家の当主として、娘二人がエドモンドと行動を共にしていたことを把握していたのか?」
レティシアは唇を噛んだ。
ゼノンが静かに告げる。
「知っていることだけでいい。正直に答えて」
王家の命令が、彼女の意思を縛る。
レティシアの唇が震えた。
「お父様は、エドモンド様と親しくしていました」
ルイスが眉を寄せた。
「それは、すでに分かっています」
「でも、お父様が襲撃の計画をどこまで知っていたのかは、私にも分かりません」
レオナードは静かに頷いた。
「では、ヴェロニカの処刑偽装については?」
レティシアの肩が震えた。
「お父様が、手配しました」
室内の空気が変わった。
「確かなのか?」
「はい。お姉様を逃がすために、収容施設の関係者へ指示を出したんです」
ルイスが記録係へ視線を向けた。
記録係が素早く筆を走らせる。
「ミアの脱獄も?」
「はい。お父様が協力しました」
レオナードは、ゆっくりと息を吐いた。
「なるほど」
ギルベルト・ドラクロワ。
第三純血家の当主。
その男が、ヴェロニカとミアの逃亡を手助けしていたことが、ここで明らかになった。
「これで、正式にギルベルト卿を追及する理由ができたな」
レオナードが低く告げる。
ルイスが頷いた。
「すぐに手配いたします」
◇
尋問が終わり、ゼノンが立ち上がった。
レティシアは、慌てて顔を上げた。
「ゼノン様!」
ゼノンは足を止めた。
「何?」
「私は……」
レティシアは、震える声で続けた。
「本当に、ゼノン様を愛しているんです」
ゼノンは、しばらく彼女を見つめていた。
「君が僕をどう思っているかは、もう十分に分かったよ」
レティシアの瞳が揺れた。
「でも、僕の答えは変わらない」
「どうして……」
「僕は、君を選ばない」
その言葉に、レティシアの瞳から涙が溢れた。
「ルシアがいなくなったとしても、変わらないよ」
ゼノンは、迷うことなく告げた。
「僕の伴侶は、ルシアだけだから」
レティシアは、何も言えなかった。
ゼノンは、それ以上振り返らずに部屋を出た。
◇
王宮の廊下を歩きながら、レオナードが口を開いた。
「ゼノン。辛い話を聞かせたな」
「いえ。必要なことでした」
ゼノンは静かに答えた。
隣を歩くルイスが、資料を確認している。
「ギルベルト卿への正式な事情聴取を進めます。それから、ヴェロニカとミアの捜索も強化します」
「お願いします」
ゼノンは頷いた。
けれど、その表情は晴れなかった。
レオナードが、少しだけ声を落とす。
「ルシア王女には、今日の話を伝えるつもりか?」
ゼノンは足を止めた。
少し考えてから、静かに答える。
「すべてを話すつもりはありません」
「そうか」
「でも、あの子が何を不安に思っていたのかは、ちゃんと聞いてみようと思います」
レオナードは、僅かに微笑んだ。
「それがいい」
ゼノンは、窓の外へ視線を向けた。
王都の空は、夕暮れに染まり始めていた。
十一年前の事件。
父と母の死。
そして、今もなおルシアを狙い続けるエドモンド。
すべてを終わらせなければならない。
もう二度と、あの子から大切なものを奪わせないために。
◇
その夜。
ヴァルディエ家の屋敷へ戻ったゼノンは、玄関で出迎えた使用人に上着を預けた。
「ルシアは?」
「エリーゼ様と居間にいらっしゃいます」
「ありがとう」
ゼノンは短く礼を言い、廊下を進んだ。
王宮を出てから、ずっと考えていたことがある。
レティシアの証言。
十一年前の襲撃。
ギルベルトの関与。
どれも重要な話だった。
けれど、何より心に残っているのは、ルシアが十七歳の頃に抱えていた不安だった。
自分だけ歳を取り、いつか死んでしまうこと。
ゼノンを置いていくのが怖かったこと。
そして、自分の血だけを欲しがられないことを寂しく思っていたこと。
今ではすべて解決したと思っていた。
封印は解け、ルシアは本来の純血のヴァンパイアへ戻った。
血を飲まなかった理由も、すでに伝えている。
それでも、あの頃のルシアがどんな気持ちでいたのか、ゼノンは知らなかった。
そのことが、胸に引っかかっていた。
◇
居間の扉を開けると、ルシアがソファに座っていた。
隣にはエリーゼ。
二人の間には開いた本が置かれ、何かを相談しているようだった。
足元では、ルナが丸くなっている。
「ただいま」
声をかけると、ルシアが顔を上げた。
「お兄様。おかえりなさい」
その表情が、柔らかく綻ぶ。
ゼノンは自然と微笑んだ。
「ただいま、ルシア」
「今日は遅かったね」
「うん。少し話が長引いてしまって」
ルシアは立ち上がり、ゼノンのそばへ歩み寄った。
「お疲れさま」
「ありがとう」
ゼノンが頭を撫でると、ルシアは少しだけ目を細めた。
エリーゼが本を閉じる。
「ゼノンさん、お茶はいかがですか?」
「ありがとう。いただこうかな」
「では、淹れ直してきますね」
エリーゼが部屋を出ていく。
ゼノンはルシアの隣へ腰を下ろした。
「何を読んでいたの?」
「ヴァンパイアの歴史についての本だよ」
「歴史?」
「うん。エリーゼが貸してくれたの」
ルシアはテーブルの上の本を指差した。
「ヴァルディエ家のことも書いてあるんだけど、知らないことが多くて」
「そうだね。十一年間、学ぶ機会がなかったから」
「うん」
ルシアは小さく頷いた。
「少しずつ覚えていきたいなって思ってる」
ゼノンは、そんな妹を見つめた。
自分が知らない間に、ルシアは少しずつ前へ進もうとしている。
かつての記憶を取り戻し、今の自分を受け入れながら。
「分からないことがあったら、僕にも聞いてね」
「ありがとう、お兄様」
ルシアは微笑んだ。
◇
しばらくして、ゼノンが口を開いた。
「ルシア」
「何?」
「今日は、レティシアに会ってきたんだ」
ルシアの表情が僅かに変わった。
「レティシアさんに?」
「うん。十一年前のことや、君を連れ出した日のことを聞いてきた」
ルシアは静かに頷いた。
「あのときのことも……」
「そう」
ゼノンは少しだけ言葉を選んだ。
「ルシアが、僕の姿をしたレティシアに話したことも聞いたよ」
ルシアの動きが止まった。
「……え?」
「昔、僕とずっと一緒にいたいって思ってくれていたこと」
ルシアは、ゆっくりと顔を伏せた。
「あれ、聞いちゃったんだ……」
「うん」
「恥ずかしいな」
ルシアは、少し困ったように笑った。
ゼノンはその横顔を見つめた。
「ごめんね。聞くつもりはなかったんだけど」
「ううん。仕方ないよ」
ルシアは首を横に振った。
「レティシアさんが、お兄様の姿をしていたんだもの。私、何も疑わなかった」
その声には、少しだけ苦い響きがあった。
ゼノンは静かに答えた。
「それが、今でも許せないんだ」
ルシアが顔を上げる。
「お兄様……」
「僕の姿で君を騙したことも、君が抱えていた不安を利用したことも」
ゼノンは、ルシアの手をそっと握った。
「君が僕を信じていることを、あんなふうに利用されたのが悔しかった」
ルシアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「私も、少し悔しかった」
「ルシア?」
「だって、あのときは本当にお兄様だと思っていたから」
ルシアは膝の上で指を重ねた。
「ずっと聞きたかったことを、ようやく話せたと思ってたの」
ゼノンの瞳が僅かに揺れた。
「でも、違った」
ルシアは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「本当のお兄様には、何も伝わっていなかったんだね」
ゼノンは、胸の奥が痛むのを感じた。
「ごめんね」
「お兄様が謝ることじゃないよ」
ルシアは首を横に振った。
「でも、あのときは少しだけ寂しかった」
ゼノンは、彼女の手を握り直した。
「今は?」
ルシアは、少しだけ考えた。
「今は、もう大丈夫」
「本当に?」
「うん」
ルシアは、ゼノンを見つめた。
「だって、今はちゃんと知ってるから」
「何を?」
「お兄様が、私をどれだけ大切にしてくれていたか」
その言葉に、ゼノンの表情が柔らかくなる。
ルシアは続けた。
「血を飲まなかった理由も、封印のことも、全部教えてくれたでしょう?」
「うん」
「だから、もう寂しくないよ」
ゼノンは、静かに息を吐いた。
「そっか」
ルシアは、小さく微笑んだ。
「それに、今はお兄様と同じ時間を生きられるんだもの」
ゼノンの赤い瞳が揺れた。
「そうだね」
「もう、私だけ歳を取っていく心配もしなくていい」
ルシアは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「だから、今は幸せだよ」
ゼノンは、しばらく何も言えなかった。
やがて、そっとルシアを抱き寄せた。
「僕もだよ」
その声は、少しだけ震えていた。
「ルシアが戻ってきてくれて、本当に嬉しい」
ルシアは、ゼノンの胸元へ顔を寄せた。
「うん。私も」
◇
しばらくして、ルシアが顔を上げた。
「ねえ、お兄様」
「何?」
「レティシアさんは、何か話してくれた?」
ゼノンの表情が少しだけ変わった。
「うん。十一年前の事件について、いくつか分かったことがあるよ」
「お父さまとお母さまのこと?」
「そう」
ルシアは、少しだけ黙った。
それから、静かに尋ねた。
「私にも、教えてくれる?」
ゼノンは、彼女を見つめた。
「聞きたい?」
「うん」
ルシアは頷いた。
「怖いけど、知っておきたいの」
ゼノンは、しばらく考えた。
レティシアが語った、十一年前の真実。
ヴェロニカが父の黒狼を封じたこと。
エドモンドが母の心臓を奪ったこと。
そして、ドラクロワ家が事件に深く関わっていたこと。
そのすべてを、ルシアへ伝えるべきなのか。
迷いはあった。
けれど、もう何も知らない幼い妹ではない。
ルシアは自分の意思で、過去と向き合おうとしている。
「分かった」
ゼノンは静かに頷いた。
「ただ、辛くなったら途中でやめようね」
「うん」
ルシアは、ゼノンの手を握り返した。
「ありがとう」
ゼノンは、ゆっくりと話し始めた。
「十一年前、エドモンドは父上と母上を襲うために、ヴェロニカとレティシアを利用したんだ」
ルシアは黙って聞いていた。
「レティシアは、僕の姿に変身して屋敷へ潜入していた。使用人の配置や警備の状況を調べて、エドモンドへ伝えていたんだ」
ルシアの表情が僅かに強張る。
「お兄様の姿で……?」
「うん」
ゼノンは頷いた。
「君を連れ出したときと、同じ方法だよ」
ルシアは、膝の上で拳を握り締めた。
「そんなに前から……」
「そう」
ゼノンは続けた。
「そして、ヴェロニカは父上の黒狼を封じた。父上が母上のもとへ駆けつけられないようにするために」
ルシアは、息を呑んだ。
「だから、お父さまは……」
「間に合わなかった」
ゼノンの声が、僅かに低くなる。
「エドモンドは、その隙に母上の心臓を奪ったんだ」
ルシアは、ゆっくりと目を伏せた。
母の最期。
十一年前の記憶。
今でも、思い出すと胸が痛む。
「お母さま……」
小さく呟くと、ゼノンがそっと肩を抱いた。
「無理しなくていいよ」
「大丈夫」
ルシアは、少しだけ首を横に振った。
「続けて」
ゼノンは頷いた。
「レティシアは、最初からルシアの存在を知っていた。エドモンドから、僕の婚約者だと聞かされていたんだ」
ルシアが顔を上げる。
「私が?」
「うん」
「だから、私を狙ったの?」
「そうだよ」
ゼノンは静かに答えた。
「ルシアがいなくなれば、僕が自分を選んでくれると思っていたらしい」
ルシアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「そんなことのために……」
ゼノンは彼女の手を握った。
「ルシア」
「うん?」
「君がいなくなっても、僕がレティシアを選ぶことはなかったよ」
ルシアは、ゼノンを見つめた。
「本当に?」
「本当」
ゼノンは迷わず答えた。
「僕が愛しているのは、ルシアだけだから」
ルシアは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
ゼノンは、彼女の髪を優しく撫でた。
そのとき、居間の扉が静かに開いた。
「お茶、持ってきたわよ」
エリーゼだった。
トレイには、新しく淹れた紅茶と焼き菓子が並んでいる。
「ありがとう、エリーゼ」
ルシアが微笑む。
エリーゼは二人の様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「何か、あった?」
ルシアは少しだけ迷ってから答えた。
「十一年前のことを、お兄様に聞いていたの」
エリーゼの表情が変わった。
「そうだったのね」
「うん」
ルシアは小さく頷いた。
「まだ、知らないことがたくさんあるから」
エリーゼは静かに微笑んだ。
「焦らなくていいわ。少しずつ知っていけばいいのよ」
「ありがとう」
ルシアは紅茶を受け取った。
温かなカップを両手で包み込みながら、そっと息を吐く。
十一年前の真実。
父と母の死。
そして、今もなお続いているエドモンドの脅威。
すべてが解決したわけではない。
けれど、今は一人ではなかった。
お兄様がいる。
エリーゼがいる。
アルベルトも、クレイドも。
自分を守ろうとしてくれる人たちがいる。
ルシアは、そっとルナの頭を撫でた。
いつか、エドモンドと向き合わなければならない日が来る。
そのとき、自分はどうするのだろう。
まだ、答えは出せない。
それでも。
今度は、何も知らないまま守られるだけではいたくなかった。
ルシアは静かに顔を上げた。
「お兄様」
「何?」
「明日も、訓練に付き合ってくれる?」
ゼノンは、少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、優しく微笑んだ。
「もちろん」
ルシアは、小さく笑った。
「ありがとう」
その隣で、ルナが静かに尻尾を振った。




