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歪んだ恋慕

   

 翌朝。


 ドラクロワ家の本邸に、ベルフォート王宮から正式な召喚状が届いた。


 封筒には、第二純血家ベルフォートの紋章が刻まれている。


 それを受け取ったギルベルト・ドラクロワは、書斎でしばらく無言のまま立ち尽くしていた。


「……レティシアを呼べ」


 低い声で命じると、執事が一礼して部屋を出ていった。


 数分後。


「お父様、お呼びでしょうか?」


 扉が開き、レティシアが姿を現した。


 淡い色のドレスに身を包み、いつものように上品な笑みを浮かべている。


 ギルベルトは、机の上に置かれた封筒を指差した。


「……これは何だ」


 レティシアは首を傾げた。


「……お手紙、ですか?」


「ベルフォート王宮からの召喚状だ」


 その言葉に、レティシアの表情がわずかに変わった。


「……王宮から?」


「ああ」


 ギルベルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「お前がヴァルディエ家へ差し向けた者たちが、全員捕らえられた」


「……っ!」


 レティシアの瞳が揺れた。


「……何のことでしょう?」


「とぼけるな!」


 ギルベルトの怒声が書斎に響いた。


 レティシアは思わず肩を震わせた。


「……お父様……」


「私は、余計なことをするなと言ったはずだ!」


 ギルベルトは机を強く叩いた。


「今、我が家がどのような立場に置かれているのか、理解していないのか!?」


「……ですが……!」


「ですが、何だ!」


 レティシアは唇を噛んだ。


 しばらく俯いていたが、やがて小さく呟く。


「……だって……」


「……何?」


「……あの子が……」


 ギルベルトの眉が寄った。


「……あの子?」


 レティシアは顔を上げた。


 その瞳には、隠しきれない嫉妬が宿っていた。


「……ルシア・ヴァルディエです」


 ギルベルトは、しばらく娘を見つめていた。


「……ルシア王女が、どうした」


「……あの子さえいなければ……」


 レティシアの声が震える。


「……ゼノン様は、私を見てくださるかもしれないのに……!」


 ギルベルトは目を閉じた。


「……馬鹿なことを」


「……馬鹿なんかじゃありません!」


 レティシアが声を荒らげる。


「私は、ずっとゼノン様をお慕いしていたんです!」


 その瞳に涙が浮かぶ。


「……なのに、あの子は……!」


「……レティシア」


「生まれたときから、ゼノン様の隣にいることを許されているなんて……!」


 レティシアは拳を握り締めた。


「……ずるいです……!」


 ギルベルトは深く息を吐いた。


「……お前は、何も分かっていない」


「……何がですか?」


「ヴァルディエ王家の婚姻は、単なる恋愛の問題ではない」


 ギルベルトは静かに告げた。


「純血を守るため、代々決められてきたものだ」


「……だから、諦めろと仰るのですか?」


「少なくとも、王女を襲わせてどうにかなる話ではない」


 レティシアは唇を噛んだ。


 ギルベルトは召喚状を手に取る。


「……お前は、明日ベルフォート王宮へ出向く」


「……っ」


「そして、すべてを説明しろ」


 レティシアは何も答えなかった。


「……聞いているのか?」


「……はい、お父様……」


 その声は、小さく震えていた。


     ◇


 翌日。


 ベルフォート王宮の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。


 長い卓の上には、数枚の報告書が並べられている。


 中央に座るのは、レオナード・ベルフォート。


 その隣には、妻イザベラと息子ルイス。


 そして、向かい側にはゼノン・ヴァルディエと、アルベルト・グランヴェール、セドリック・フローレンスが座っていた。


 今回の会談は、正式な調査の一環として開かれたものだった。


 議題は一つ。


 ヴァルディエ家への襲撃事件。


 そして、その首謀者とされるレティシア・ドラクロワについて。


「……連れてまいりました」


 扉の向こうから声が響いた。


 レオナードが頷く。


「通せ」


 重厚な扉が開く。


 そこから、レティシアが姿を現した。


 その後ろには、父ギルベルトが付き添っている。


 レティシアは室内を見渡した。


 そして、ゼノンの姿を見つけた瞬間、わずかに表情を明るくした。


「……ゼノン様……!」


 けれど、ゼノンは彼女を見ても微笑まなかった。


 その赤い瞳は、驚くほど冷たかった。


「……レティシア」


 名前を呼ばれ、レティシアの胸が高鳴る。


「……はい……!」


 ゼノンは静かに告げた。


「今日は、君に確認したいことがあるんだ」


 その声には、いつもの優しさがなかった。


     ◇


「……まず、こちらをご覧ください」


 ルイスが机の上へ資料を置いた。


 そこには、侵入者たちの証言が記されている。


「昨日、ヴァルディエ家へ侵入した五名のヴァンパイアは、全員があなたの指示を受けたと証言しています」


 レティシアは資料へ視線を落とした。


「……そのようなこと、私は……」


「否定されますか?」


 ルイスが静かに尋ねる。


「……はい」


 レティシアは顔を上げた。


「私には、何のことか分かりません」


 ギルベルトは隣で黙っていた。


 レオナードが口を開く。


「レティシア嬢」


「……はい」


「五名全員が同じ人物の名を挙げている。それでも関与を否定するのか?」


「……誰かが、私を陥れようとしているのかもしれません」


 その言葉に、セドリック・フローレンスが小さく息を吐いた。


「……へえ」


 レティシアは彼を睨んだ。


「……何か?」


「いや、随分と都合のいい話だなと思ってさ」


 ゼノンが静かに口を開いた。


「……レティシア」


 彼女が顔を向ける。


「……はい、ゼノン様」


「君は、ルシアを捕らえて何をするつもりだったの?」


 その瞬間、レティシアの表情が強張った。


「……ルシア様を……?」


「うん」


 ゼノンは微笑まなかった。


「僕の妹を、どうするつもりだったの?」


 レティシアは唇を噛んだ。


「……私は……」


「……答えて」


 その声は静かだった。


 けれど、逃げ道を与えない響きがあった。


「……ゼノン様……」


 レティシアの瞳に涙が浮かぶ。


「……私は、ただ……」


「……ただ?」


「……あなたに、振り向いてほしかっただけなんです……!」


 会議室が静まり返った。


 ギルベルトが顔を上げる。


「……レティシア!」


 けれど、彼女は止まらなかった。


「……ずっと、お慕いしていました……!」


 レティシアは、ゼノンを真っ直ぐ見つめた。


「……幼い頃から、ずっと……!」


 その声が震える。


「……でも、あなたはいつも、ルシア様のことばかり……!」


 ゼノンの表情が、わずかに変わった。


「……だから?」


 その一言に、レティシアが息を呑む。


「……え……?」


「だから、ルシアを襲わせたの?」


 ゼノンの声は、驚くほど冷たかった。


「……っ」


 レティシアは何も答えられなかった。


「……レティシア」


 ゼノンは、ゆっくりと立ち上がった。


「君が僕をどう思っているかは、君の自由だよ」


 その赤い瞳が、彼女を捉える。


「でも、それを理由にルシアを傷つけようとしたことは、絶対に許さない」


 レティシアの頬を、涙が伝った。


「……ゼノン様……」


「僕が君を選ぶことはない」


 その言葉に、レティシアの表情が凍りついた。


「……そんな……」


「ルシアがいなくなったとしても、変わらないよ」


 ゼノンは静かに続けた。


「僕が大切にしたいのは、ルシアだけだから」


 レティシアは、呆然と立ち尽くした。


「……どうして……」


 震える声が漏れる。


「……どうして、あの子なの……?」


 ゼノンは、迷うことなく答えた。


「……僕の伴侶だからだよ。ルシアが生まれた瞬間に感じたんだ。僕の半身が、この世に生まれたって」


 その言葉が、会議室に静かに響いた。


     ◇


 レオナードは、しばらく二人を見つめていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……レティシア嬢」


 彼女が顔を上げる。


「……はい……」


「今回の件について、正式な調査を進める」


 レティシアの表情が強張った。


「……調査……?」


「ああ。ヴァルディエ家への襲撃は、重大な罪だ」


 レオナードは、ギルベルトへ視線を向けた。


「……ギルベルト卿」


「……はい」


「ドラクロワ家についても、引き続き調査を行う」


 ギルベルトは、ゆっくりと頭を下げた。


「……承知しております」


 けれど、その拳は強く握り締められていた。


 レオナードが続ける。


「レティシア嬢については、調査が終わるまで身柄を王宮の管理下に置く」


 その言葉に、レティシアが目を見開いた。


「……え……?」


「逃亡や証拠隠滅を防ぐためだ」


「……そんな……!」


 レティシアは、慌ててゼノンを見た。


「……ゼノン様……!」


 けれど、ゼノンは何も言わなかった。


「……お願いです……!」


 涙が溢れる。


「……私を、助けてください……!」


 ゼノンは、静かに首を振った。


「……君がしたことの責任は、君自身が取らなければならないよ」


 その言葉に、レティシアは膝から崩れ落ちた。


「……そんな……」


 ギルベルトが、娘の肩を支える。


「……レティシア」


 けれど、彼自身にも、もうできることはほとんど残されていなかった。


     ◇


 会談が終わったあと。


 ゼノンは王宮の廊下を歩いていた。


 隣にはルイスがいる。


「……お疲れさまでした」


 ルイスが声をかけた。


「ありがとう」


 ゼノンは小さく微笑んだ。


「……随分と、面倒なことになったね」


「……そうですね」


 ルイスは頷いた。


「ですが、これでレティシアの動きは封じられました」


「……うん」


 ゼノンは、窓の外へ視線を向けた。


「……ただ、まだ終わっていない」


 ルイスが顔を上げる。


「……エドモンドですか?」


「それもあるけど……」


 ゼノンは静かに答えた。


「……ミアのことも気になる」


 ルイスは眉を寄せた。


「……収容施設から姿を消した少女ですね」


「うん」


 ゼノンは頷いた。


「……あの子は、ルシアの血を飲んだことがある」


 その声が、少しだけ低くなる。


「……もう一度、狙ってくる可能性が高い」


 ルイスは静かに頷いた。


「……警戒を強めましょう」


「……お願い」


 ゼノンは、窓の外を見つめた。


 王都の空は、薄い雲に覆われていた。


 その向こうで、何かが静かに動き始めている。


 そんな予感がしていた。


     ◇


 その頃。


 ドラクロワ家の別邸では、ミアが窓辺に座っていた。


「……レティシア様、遅いなぁ……」


 小さく呟く。


 いつもなら、もう戻ってくる時間だった。


 けれど、今日はまだ帰ってこない。


「……どうしたんだろう……」


 ミアは首を傾げた。


 そのとき。


 扉が開いた。


「……ミア」


 聞き慣れた声に、ミアが振り返る。


 そこには、ヴェロニカが立っていた。


「……お姉様!」


 ミアの顔が、ぱっと明るくなる。


 ヴェロニカは部屋の中へ入り、ミアの様子を静かに見つめた。


「……レティシアの帰りを待っているの?」


「……はい。いつもなら、もう戻ってくる時間なので……」


 ミアは不安そうに窓の外へ視線を向けた。


 ヴェロニカは、レティシアが王宮に拘束されたことをすでに知っていた。


 けれど、その事実をすぐに口にすることはしなかった。


 まずは、ミアがどこまで事情を知っているのかを確かめる必要がある。


「……何か聞いていることはある?」


「……え?」


「レティシアから、今日の予定について何か聞かされていないの?」


 ミアは首を横に振った。


「……何も聞いていません」


 その答えを聞き、ヴェロニカはわずかに目を細めた。


 ミアは、本当に何も知らないらしい。


「……そう」


「……お姉様、何かあったんですか?」


 ミアが不安そうに尋ねる。


 ヴェロニカは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに告げた。


「……レティシアは、王宮に拘束されたわ」


 ミアが目を丸くする。


「……え?」


「ヴァルディエ家への襲撃の件で、事情を聞かれているの」


 ミアは、しばらく言葉を失った。


「……レティシア様が……?」


「ええ」


「……じゃあ、ルシアを連れてくるのは……?」


 ヴェロニカは、小さく息を吐いた。


「……難しくなったわね」


 ミアの表情が曇った。


「……そんな……」


 けれど、次の瞬間。


 ミアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……じゃあ……」


 その赤い瞳が、妖しく輝く。


「……私が、迎えに行けばいいんですね?」


 ヴェロニカの表情が、わずかに変わった。


「……ミア?」


 ミアは、嬉しそうに微笑んだ。


「……だって、ルシアは私の親友ですもん」


 その声は、あまりにも無邪気だった。


「……迎えに行ったら、きっと喜んでくれますよね?」


 ヴェロニカは、目の前の少女をしばらく見つめていた。


 ミアは嬉しそうに笑っている。


 まるで、久しぶりに親友の家へ遊びに行く相談でもしているかのようだった。


「……ミア」


「はい?」


「あなた、ルシアに会ってどうするつもり?」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「どうするって……遊びたいんです」


「……遊ぶ?」


「はい!」


 ミアは両手を胸の前で合わせた。


「久しぶりに会えるんですもん! いっぱいお話しして、それから……」


 そこで、うっとりと目を細める。


「……また、血を飲ませてもらいたいなぁって」


 ヴェロニカは小さく息を吐いた。


「……あなた、本当にそればかりね」


「だって、忘れられないんです」


 ミアは自分の唇へ指先を当てた。


「ルシアの血って、すごく美味しいんですよ? 甘くて、濃くて……飲んだ瞬間、身体の奥まで満たされるみたいで……」


 その赤い瞳が、楽しそうに細められる。


「普通の血じゃ、もう満足できなくなっちゃいました」


 ヴェロニカは黙って聞いていた。


「それに、ルシアは純血種ですから!」


 ミアは嬉しそうに続ける。


「ちょっとくらい傷つけても、すぐに治っちゃうんです。前にいっぱい刺しちゃったときも、綺麗に治ったんですよ?」


 まるで、楽しい思い出を語るような口調だった。


 ヴェロニカの眉が僅かに動く。


「……ミア。何度も言うけれど、殺しては駄目よ」


「分かってます!」


 ミアは元気よく頷いた。


「心臓を壊さなければいいんですよね!」


「……それだけじゃないわ」


 ヴェロニカは、ゆっくりとミアへ近づいた。


「ルシアは、エドモンド様が必要としている子なの」


「……エドモンド様?」


「ええ」


 ヴェロニカは静かに頷いた。


「だから、あなたが勝手に連れ出したり、傷つけたりすることは許されない」


 ミアは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。


「……でも、レティシア様は、血を飲んでもいいって……」


「レティシアは、もう捕まったでしょう?」


「……う」


 ミアは言葉に詰まった。


 ヴェロニカは、そんな少女を冷ややかに見下ろした。


「これからは、私の指示に従いなさい」


「……はい……」


 ミアは渋々頷いた。


 けれど、その瞳から期待の光が消えることはなかった。


「……じゃあ、いつなら会いに行っていいですか?」


 ヴェロニカは答えなかった。


 ただ、窓の外へ視線を向けた。


 ヴァルディエ家。


 第一純血家の王女。


 そして、エドモンドが十一年間求め続けてきた少女。


 今はまだ、手を出すべきではない。


 王家の警戒が強まっている。


 レティシアが捕らえられたばかりの今、さらに騒ぎを起こせば、ドラクロワ家の立場はますます悪くなる。


「……しばらくは大人しくしていなさい」


 ヴェロニカが告げる。


「……はぁい」


 ミアは不満そうに返事をした。


 けれど、ヴェロニカが部屋を出ていくと、その表情はすぐに変わった。


「……しばらく、かぁ……」


 窓の外を見つめる。


 王都の空には、薄い雲が広がっていた。


「……ルシア、今何してるのかな……」


 ミアは、くすくすと笑った。


「……早く会いたいなぁ……」


     ◇


 その頃。


 ヴァルディエ家の屋敷では、ルシアがエリーゼと並んで廊下を歩いていた。


「……ねえ、エリーゼ」


「何かしら?」


「……お兄様、まだ帰ってこないのかな」


 エリーゼは窓の外へ視線を向けた。


「今日は王宮での会談でしょう? もう少しかかるんじゃないかしら」


「……そっか」


 私は小さく頷いた。


 レティシア・ドラクロワ。


 私を捕まえようとした人。


 そして、お兄様を慕っているという女の人。


 正直、どんな人なのか、私はよく知らない。


 けれど、あの人が私を狙った理由を聞いたとき、胸が苦しくなった。


 私が、お兄様のそばにいるから。


 ただ、それだけの理由で。


 命を狙われた。


「……ルシア?」


 エリーゼが、私の顔を覗き込んだ。


「……どうしたの?」


「……ううん」


 私は首を振った。


「……ちょっと、考え事」


 エリーゼは、しばらく私を見つめていた。


 それから、静かに言った。


「……レティシアのこと?」


 私は驚いて顔を上げた。


「……どうして分かったの?」


「顔に書いてあるもの」


「……ええっ!?」


 エリーゼは小さく笑った。


 けれど、すぐに真剣な表情になる。


「……ルシア」


「……何?」


「あなたが気にする必要はないわ」


 私は黙っていた。


「誰かを好きになることは自由よ。でも、そのために他人を傷つけていい理由にはならないでしょう?」


「……うん」


 私は小さく頷いた。


「……分かってる」


 けれど。


 心のどこかで、考えてしまう。


 もし、私がいなかったら。


 お兄様は、別の誰かを好きになっていたのだろうか。


 そんなことを考えた自分に、少しだけ驚いた。


「……エリーゼ」


「何?」


「……お兄様って、昔からモテたの?」


 エリーゼは目を丸くした。


「……え?」


「……その……女の人に……」


 言いながら、顔が熱くなる。


 エリーゼは、しばらく私を見つめていた。


 そして。


「……ふふっ」


 突然、笑い始めた。


「……エリーゼ!?」


「ごめんなさい。でも、まさかあなたがそんなことを気にするなんて!」


「……もう!」


 私は頬を膨らませた。


 エリーゼは楽しそうに笑ったあと、頷いた。


「もちろんよ。ゼノンさんは昔から人気があったわ」


「……やっぱり……」


「でも、誰かと親しくしているところは、ほとんど見たことがないわね」


「……え?」


「だって、ゼノンさんって、あなたのことばかりでしょう?」


 私は思わず目を逸らした。


「……そ、そんなこと……」


「あるわよ」


 エリーゼは即答した。


「昔から、あなたの話をするときだけ、表情が違ったもの」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「……そうなんだ……」


 エリーゼは、そんな私を見て微笑んだ。


「……ルシア」


「……何?」


「あなたは、もっと自信を持っていいと思うわ」


 私は首を傾げた。


「……自信?」


「ええ」


 エリーゼは、私の手を取った。


「ゼノンさんが誰を大切にしているかなんて、見ていれば分かるもの」


 その言葉に、顔がさらに熱くなった。


「……もう! エリーゼ!」


 彼女は楽しそうに笑っている。


     ◇


 夕方。


 屋敷の玄関から、聞き慣れた声が響いた。


「……ただいま」


「……あっ!」


 私は思わず顔を上げた。


「お兄様!」


 駆け寄ると、そこには黒い礼服を着たお兄様が立っていた。


 その後ろには、アルベルトとセドリックさんもいる。


「おかえりなさい!」


 お兄様は私を見ると、嬉しそうに微笑んだ。


「ただいま、ルシア」


 私はそのまま、お兄様へ抱きついた。


 お兄様は慣れた様子で受け止め、優しく抱き締め返してくれる。


「……いい子にしてた?」


「もう! 子供じゃないんだから!」


「ふふっ。そうだったね」


 そのやり取りを見て、セドリックさんが呆れたように笑った。


「相変わらずだな、お前ら」


 アルベルトも小さく息を吐く。


「少しは周りを気にしろ」


「ええっ!?」


 私は慌ててお兄様から離れた。


 すると、お兄様が少し残念そうに笑った。


「もう離れちゃうの?」


「お兄様!」


 セドリックさんが吹き出した。


「ははっ! ゼノン、お前相変わらずシスコンだな!」


 私は顔を真っ赤にしたまま、俯いた。


     ◇


 その日の夕食後。


 私は、お兄様と二人で庭園を歩いていた。


 夜の空気は少し冷たく、月明かりが石畳を照らしている。


 足元では、ルナが静かに歩いていた。


「……お兄様」


「何?」


「……レティシアさん、どうなったの?」


 お兄様は少しだけ黙った。


 それから、静かに答えた。


「……しばらく、王宮で身柄を預かることになったよ」


「……そっか」


「うん。正式な調査が終わるまでは、外へ出られない」


 私は小さく頷いた。


「……お兄様」


「なあに?」


「……レティシアさんって、お兄様のことが好きだったんだよね?」


 お兄様は、少し驚いたように私を見た。


「うん。そうみたいだね」


「昔から?」


「……そう言ってたね」


 私は、しばらく黙っていた。


 それから、小さく尋ねる。


「お兄様は、どう思ってたの?」


 お兄様は、私を見つめた。


「どうって?」


「……その……レティシアさんのこと……」


 言いながら、顔が熱くなる。


 お兄様は、少しだけ考えた。


 そして、優しく微笑んだ。


「何とも思ってなかったよ」


「……え?」


「僕にとっては、ドラクロワ家の令嬢。それだけだった」


 その答えに、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「……そっか」


 お兄様は、私の顔を覗き込んだ。


「……気になった?」


「……ちょっとだけ……」


 正直に答えると、お兄様は嬉しそうに笑った。


「……そっか」


 その手が、私の頬へ伸びる。


「でも、心配しなくていいよ」


「え?」


 お兄様は、私の赤い瞳を真っ直ぐ見つめた。


「僕が好きなのは、ルシアだけだから」


 その言葉に、心臓が大きく跳ねた。


「……っ!」


 顔が、一気に熱くなる。


 お兄様は、楽しそうに笑った。


「ふふっ。可愛い」


「……お兄様!」


 私は思わず顔を隠した。


 そのとき。


 足元で、ルナが小さく鼻を鳴らした。


「ルナ?」


 白狼が、私たちを見上げている。


 その赤い瞳は、どこか楽しそうだった。


 お兄様が笑う。


「ルナにも、からかわれてるみたいだね」


「……もう! ルナまで!」


 私は頬を膨らませた。


 けれど、胸の奥は温かかった。


     ◇


 一方。


 ベルフォート王宮の地下に設けられた拘束区画では、レティシアが一人、椅子に座っていた。


 豪華なドレスはそのままだったが、装飾品や通信機はすべて取り上げられている。


 窓のない部屋。


 厚い扉。


 そして、外には複数の警備兵。


 逃げ出すことは、ほとんど不可能だった。


「……ゼノン様……」


 小さく名前を呟く。


 会談で告げられた言葉が、何度も頭の中に蘇っていた。


『僕が君を選ぶことはない』


『ルシアがいなくなったとしても、変わらないよ』


 思い出すたびに、胸が締めつけられる。


「……どうして……」


 レティシアは、両手で顔を覆った。


「……私は、こんなに……」


 涙が零れる。


 幼い頃から、ずっと憧れていた。


 いつか、ゼノンが自分を見てくれる日が来ると信じていた。


 けれど、その願いは叶わなかった。


 それどころか。


 自分がしたことによって、ゼノンから完全に拒絶されてしまった。


「……ルシア……」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥に黒い感情が広がる。


 けれど、同時に。


 ゼノンの冷たい瞳が蘇った。


 あんな顔を向けられたのは、初めてだった。


「……私……」


 レティシアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……どうすれば、よかったの……?」


 誰も答えなかった。


 静かな部屋に、彼女の小さな声だけが残った。


     ◇


 その頃。


 ドラクロワ家の別邸では、ヴェロニカが書斎で一通の手紙を読んでいた。


 差出人の名前はない。


 けれど、その筆跡には見覚えがあった。


 エドモンド。


 手紙には、短い文章だけが記されていた。


『準備を進めておいてくれ。もうすぐ迎えに行く』


 ヴェロニカは、ゆっくりと手紙を閉じた。


「……いよいよ、ね」


 その声には、僅かな緊張が滲んでいた。


 そのとき、扉が開いた。


「お姉様!」


 ミアだった。


「……どうしたの?」


 ヴェロニカが尋ねると、ミアは嬉しそうに笑った。


「ルシアに会いに行く準備、できました!」


 ヴェロニカの眉が寄る。


「……何の話?」


「だって、レティシア様が捕まっちゃったんでしょう?」


 ミアは首を傾げた。


「だったら、私が迎えに行かなきゃ!」


 ヴェロニカは、しばらくミアを見つめていた。


「……勝手なことはしないでと言ったはずよ」


「……でも……」


「ミア。あなた、私の話を聞いていた?」


 ヴェロニカの声が低くなった。


 ミアは少しだけ肩をすくめたが、すぐに笑顔を浮かべた。


「聞いてましたよ! 勝手にルシアを迎えに行っちゃ駄目なんですよね?」


「そうよ。分かっているなら、なぜ準備をしているの?」


「だって、いつでも行けるようにしておいた方がいいでしょう?」


 あまりにも当然のように答えるミアに、ヴェロニカは深くため息をついた。


「あなたね……」


「それに、ルシアもきっと寂しがってますよ!」


「どうしてそう思うの?」


「私たち、親友ですから!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「昔は毎日一緒にいたんです。学校でも、お家でも、ずっと一緒だったんですよ!」


 ヴェロニカは黙っていた。


 ミアの言葉には、確かに過去の思い出が含まれている。


 けれど、その少女は自分がルシアに何をしたのか、まるで理解していないようだった。


「ミア。ルシアがあなたを怖がっているとは考えないの?」


「怖がる?」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「どうしてですか?」


「あなたは、あの子を殺しかけたのでしょう?」


「でも、死んでませんよ?」


 即答だった。


 ヴェロニカの眉が僅かに動く。


「そういう問題ではないわ」


「だって、ルシアは純血種の強いヴァンパイアなんです。普通の人間とは違うんですよ?」


 ミアは自分の指先を見つめながら、楽しそうに続けた。


「前に一緒に遊んだときも、いっぱい傷つけちゃったけど、ちゃんと治ったんです。すごいですよね!」


「それを遊びだと思っているの?」


「え?」


 ミアは目を丸くした。


「違うんですか?」


 ヴェロニカは返す言葉を失った。


 人間だった頃のミアを、彼女はほとんど知らない。


 けれど、少なくとも今の少女は、他人の痛みを理解しようとしていなかった。


 ルシアがどれほど恐怖を感じたのか。


 かつての親友に傷つけられ、どれほど苦しんだのか。


 そんなことは、ミアにとって重要ではないのだ。


「とにかく、エドモンド様から指示があるまで動かないこと。いいわね?」


「はぁい」


 ミアは不満そうに唇を尖らせた。


 ヴェロニカは机の上の手紙へ視線を落とす。


 エドモンドからの指示。


 準備を進めておけ。


 もうすぐ迎えに行く。


 それが何を意味するのか、ヴェロニカには分かっていた。


 エドモンドは、再びルシアを手に入れようとしている。


 十一年前に果たせなかった目的を、今度こそ成し遂げるつもりなのだ。


「ミア」


「はい?」


「あなたに一つ、聞いておきたいことがあるの」


「何ですか?」


「もし、ルシアがあなたと一緒に来ることを拒んだら、どうするつもり?」


 ミアは少し考えた。


 それから、にっこりと笑った。


「連れてきます!」


「嫌がっても?」


「はい!」


「泣いても?」


「だって、ルシアは私の親友ですから」


 ミアは何の迷いもなく答えた。


「きっと、また仲良くなれますよ!」


 ヴェロニカは静かに目を細めた。


 この少女にとって、ルシアの意思など関係ないのだ。


 欲しいから、手に入れる。


 血を飲みたいから、傷つける。


 拒まれたとしても、力ずくで連れてくる。


 その無邪気な笑顔の裏にあるものは、エドモンドの執着とよく似ていた。


     ◇


 その日の深夜。


 ドラクロワ家の本邸では、ギルベルトが一人、書斎に籠もっていた。


 机の上には、ベルフォート王宮から届けられた正式な通知書が置かれている。


 レティシアの身柄拘束。


 ドラクロワ家への調査拡大。


 そして、収容施設の関係者に対する事情聴取。


 どれも、ギルベルトにとって好ましいものではなかった。


「まったく、愚かな娘だ」


 低く吐き捨てる。


 ヴェロニカを逃がしたこと。


 ミアを施設から連れ出したこと。


 それらは、すべて自分の判断だった。


 しかし、レティシアによるヴァルディエ家襲撃は違う。


 あれは完全に娘の独断だった。


「よりによって、ゼノンの屋敷を襲わせるとは」


 ギルベルトは額に手を当てた。


 ヴァルディエ家は、ただの純血貴族ではない。


 本来の王族。


 そしてゼノンは、歴代の王が受け継いできた『絶対服従』を発現した人物だ。


 現在、ヴァンパイア社会の統治を任されているのはベルフォート家だが、それはヴァルディエ家の血統が失われたことを意味しない。


 むしろ、ゼノンがその気になれば、王位の継承について議論が起こっても不思議ではなかった。


 そんな相手の妹を襲わせたのだ。


 しかも、レティシアはゼノンに恋慕しているという。


「馬鹿にもほどがある」


 ギルベルトは椅子へ深く身体を預けた。


 レティシアを救うために動けば、自分まで疑われる。


 かといって、娘を見捨てればドラクロワ家の内部に不満が生まれるだろう。


 どちらに転んでも、厄介なことになる。


 そのとき、書斎の扉が叩かれた。


「旦那様」


「何だ」


「ヴェロニカ様から、お手紙が届いております」


 ギルベルトの眉が動いた。


「持ってこい」


 執事から封筒を受け取り、中身を確認する。


 そこには、短い文章が記されていた。


『エドモンド様が動かれます。お父様も、準備を』


 ギルベルトは、しばらく手紙を見つめていた。


「エドモンドめ」


 小さく呟く。


 あの男は、何を考えているのか分からない。


 十一年前、ヴァルディエ家を襲撃し、アルフォンスとロザリアを死に追いやった。


 そして今もなお、ルシアを狙っている。


 ギルベルトは、エドモンドの目的をすべて理解しているわけではなかった。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 あの男にとって、ドラクロワ家など目的を果たすための道具にすぎない。


「このままでは、我が家まで破滅する」


 ギルベルトは、手紙を握り締めた。


 エドモンドに協力し続けるべきか。


 それとも、今のうちに手を引くべきか。


 答えを出せないまま、夜は更けていった。


     ◇


 

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