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目覚める反射



 ヴァルディエ家の屋敷に、朝の光が差し込んでいた。


「ルシア、そろそろ起きないと遅れるわよ」


「……んん……あと五分……」


「さっきも同じことを言っていたわ」


「……じゃあ、あと三分……」


「減らせばいいというものではないでしょう?」


 呆れたような声に、私は布団を頭まで引き上げた。


 すると、足元から柔らかいものが潜り込んでくる。


「……ん?」


 白い毛並み。


 冷たい鼻先。


「……ルナ?」


 次の瞬間、頬をぺろりと舐められた。


「ひゃっ! 冷たい!」


 思わず飛び起きると、ルナが嬉しそうに尻尾を振っていた。


 その隣では、エリーゼが腕を組んで立っている。


「おはよう、ルシア」


「……おはよう……」


「ようやく起きたわね」


 エリーゼは満足そうに頷いた。


 彼女がヴァルディエ家に滞在するようになってから、数日が経っていた。


 最初は、護衛のために来てくれたはずだった。


 けれど、今ではすっかり屋敷に馴染み、使用人たちとも仲良くなっている。


 そして何より。


 毎朝、私を起こしに来るようになっていた。


「……エリーゼ」


「何かしら?」


「……私、ちゃんと起きられるよ?」


「そうね。あと三十分くらい待てばね」


「……う」


 何も言い返せなかった。


 エリーゼは楽しそうに笑った。


「ほら、早く支度をしましょう。今日はゼノンさんも訓練を見に来てくださるそうよ」


「……お兄様が!?」


 私は勢いよく起き上がった。


 エリーゼが呆れたように笑う。


「……本当に分かりやすいわね」


     ◇


 朝食を終えたあと。


 私はエリーゼと並んで、庭園へ向かっていた。


 その途中、見慣れた人物が門の近くに立っているのを見つけた。


「……あれ?」


 思わず足を止める。


 赤髪の青年。


 少し不機嫌そうな表情。


 けれど、私にとっては昔から見慣れた姿。


「……クレイド!?」


 名前を呼ぶと、彼が振り返った。


「……よう」


「どうしたの!? こんな朝早く!」


 私は嬉しくなって駆け寄った。


 クレイドは少しだけ目を逸らした。


「……別に。アルに呼ばれただけだ」


「……アルに?」


「ああ。お前の訓練を見に来いって」


 私は目を丸くした。


「……ええっ!?」


 クレイドは、私をじっと見つめた。


「……お前、本当に戦うつもりなのか?」


「……うん」


 私は頷いた。


「強くなりたいから」


 クレイドは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……相変わらず頑固だな」


「……クレイドに言われたくない!」


「は?」


「クレイドだって、昔から頑固だったもん!」


 エリーゼが、隣でくすくすと笑った。


「ふふっ。二人とも変わらないわね」


 クレイドはエリーゼへ視線を向けた。


「……お前までここに住んでんのか?」


「ええ。ルシアの護衛としてね」


「……護衛?」


「そうよ」


 エリーゼは微笑んだ。


「あなたも協力してくれるのでしょう?」


 クレイドは少しだけ眉を寄せた。


「……まあ、できることがあるならな」


 私は嬉しくなって笑った。


「……ありがとう、クレイド!」


「……別に、お前のためじゃねえよ」


「……え?」


「……アルに頼まれたからだ」


 その言葉に、私は思わず笑った。


「……ふふっ」


「……何だよ」


「……何でもない!」


     ◇


 訓練場には、すでにラビとお兄様が待っていた。


「おはよう、ルシアちゃん」


 ラビが手を振る。


「おはよう、ラビ!」


 その隣では、お兄様が穏やかに微笑んでいる。


「おはよう、ルシア」


「お兄様!」


 私は駆け寄った。


 お兄様は、いつものように私の頭を撫でてくれた。


「よく眠れた?」


「……うん!」


 背後でエリーゼが小さく咳払いした。


「起こすのは大変でしたけれど」


「……エリーゼ」


 お兄様が楽しそうに笑った。


「ふふっ。そうなんだ」


 そのとき、クレイドが近づいてきた。


「……ゼノン」


「クレイド。来てくれたんだね」


「ああ。アルに呼ばれた」


 お兄様は頷いた。


「ありがとう。今日は少し、ルシアの訓練に付き合ってほしいんだ」


「……俺が?」


「うん」


 お兄様は静かに微笑んだ。


「君には、ルシアの動きの癖がよく分かると思うから」


 クレイドは少しだけ考えた。


「……まあ、昔から見てきたしな」


 私は頬を膨らませた。


「……何か、嫌な予感がする……」


 ラビが楽しそうに笑った。


「大丈夫。今日は無茶なことはしないよ」


「……本当?」


「もちろん」


 ラビは頷いた。


「まずは、ルナとの連携から始めようか」


     ◇


 訓練が始まった。


 最初の相手は、クレイドだった。


 クレイドは腰に差していた剣を抜いた。


 銀色の刀身が、朝の光を受けて鋭く輝く。


「……剣を使うの?」


 私は目を丸くした。


「ああ。俺はこれで戦う」


 クレイドは剣を軽く構えた。


「もちろん、刃は潰してある。だが、当たれば痛いぞ」


「……分かった!」


 私は大きく頷いた。


 クレイドは少し離れた場所へ歩いていく。


「……じゃあ、いくぞ」


 次の瞬間。


 クレイドが地面を蹴った。


「……っ!」


 速い。


 一緒に剣の訓練をしていた時とは比べ物にならない。


 当時、ヴァンパイアになりたくなかったクレイドは、血を限界が来るまで飲まずに生きていた。


 だから、ヴァンパイアとしての力をほとんど使えず、人間並みの動きしかできなかった。


 けれど、今は違う。


 しっかりと血を飲み、ヴァンパイアとしての力を受け入れたクレイドは、立派なヴァンパイアの速さを身につけていた。


 その速度に、剣技まで加わっている。


 クレイドの剣先が、一直線に迫ってきた。


 私は咄嗟に横へ跳んだ。


 銀色の刃が、先ほどまで私の肩があった場所を通り過ぎる。


「……危なっ!」


「……まだまだ!」


 クレイドは剣を返し、流れるように斬り上げた。


 私は身を屈めて避ける。


 頭上を刃が通り過ぎ、風圧で髪が揺れた。


「……っ!」


 クレイドはすぐに方向を変え、再び距離を詰めてくる。


 剣を振るうたび、銀色の軌跡が空中に描かれた。


 私は必死に避けながら、ルナへ意識を向けた。


「ルナ!」


 白狼が走る。


 クレイドの背後へ回り込み、足元へ飛びかかった。


「……っ!」


 クレイドが咄嗟に跳び退く。


 そのまま空中で身体を捻り、着地と同時に剣を構え直した。


「……おいおい! 連携まで使うのかよ!」


「訓練だもん!」


 その隙に、私は距離を取った。


「……やった!」


 けれど。


「……甘い!」


 クレイドが地面を蹴った。


 今度は正面からではない。


 ルナを避けるように大きく回り込み、私の死角へ入ってくる。


「……っ!」


 私は慌てて身を翻した。


 その瞬間。


 クレイドの剣が、私の足元へ突きつけられた。


 刃は寸前で止まっている。


「……捕まえた」


「……ああっ!」


 私は悔しくなって声を上げた。


 クレイドは剣を引き、鞘へ収めた。


「……まだまだだな」


「……もう一回!」


 ラビが手を叩いた。


「はい、そこまで!」


 私は顔を上げた。


「……ええっ!?」


「今の動き、悪くなかったよ」


 ラビは笑った。


「でも、ルナが相手の注意を引いたあと、ルシアちゃん自身がどう動くかが大事なんだ」


「……どう動くか……」


「そう。距離を取るだけじゃなくて、次の行動まで考えよう」


 クレイドも頷いた。


「それに、相手が剣を持っているなら、腕だけを見るな。肩と腰の向きを見ろ」


「肩と腰?」


「ああ。剣先は囮にできる。だが、身体の軸までは簡単に誤魔化せない」


 私は真剣に頷いた。


「……分かった!」


     ◇


 何度か訓練を繰り返したあと。


 次はエリーゼとラビが相手になった。


「……今度は二人!?」


 私は思わず声を上げた。


 エリーゼが楽しそうに笑う。


「大丈夫よ。今回も手加減するから」


 ラビも頷いた。


「今日は攻撃を避ける練習だからね」


 私は小さく頷いた。


「……分かった」


 ルナが私の隣へ立つ。


 白い毛並みが、風に揺れた。


「……いくよ、ルナ」


 白狼が静かに頷いたように見えた。


 ラビが姿を消す。


 透明化。


 その瞬間、エリーゼが手を上げた。


「いくわよ!」


 地面から、氷の柱が伸びる。


「……っ!」


 私は咄嗟に横へ跳んだ。


 氷が、すぐ横を通り過ぎる。


 その隙に、ルナが走った。


 エリーゼの背後へ回り込み、注意を引く。


「……ルナ!」


 私は叫んだ。


 けれど、その瞬間。


 背後から、ラビの声がした。


「はい、隙あり!」


「……っ!」


 私は慌てて振り返る。


 けれど、すでに遅かった。


 肩へ軽く手を置かれる。


「……ああっ!」


 ラビが姿を現し、笑った。


「今のは完全に後ろを取られちゃったね」


「……うう……」


 私は悔しくなって頬を膨らませた。


 エリーゼが近づいてくる。


「でも、さっきよりはよく動けていたわよ」


「……本当?」


「ええ」


 私は少しだけ嬉しくなった。


 そのときだった。


 屋敷の方から、甲高い警報音が響いた。


「……え?」


 全員が動きを止めた。


 次の瞬間。


 遠くの門の方から、爆発音が響いた。


「……っ!?」


 地面が、僅かに揺れる。


 ラビの表情が一変した。


「……全員、下がって!」


 その声は、先ほどまでとは違っていた。


 頼れる指導者の声。


 私は咄嗟にエリーゼの腕を掴んだ。


「……何!?」


 お兄様が、ゆっくりと顔を上げた。


 その赤い瞳が、冷たく細められる。


「……侵入者だね」


     ◇


 門の向こうから、複数の人影が現れた。


 黒い外套。


 顔を隠した仮面。


 その数は、五人。


 全員がヴァンパイアだった。


「……誰……?」


 私は思わず呟いた。


 その瞬間。


 一人の男が、こちらへ手を向けた。


 空気が震える。


「……っ!」


 次の瞬間、鋭い衝撃が飛んできた。


「ルシア!」


 お兄様の声。


 同時に、足元の影が大きく揺れた。


 二匹の黒狼が姿を現す。


 ガルとレオ。


 漆黒の分身たちが、一斉に前へ飛び出した。


 衝撃が地面へ叩きつけられ、土が舞い上がる。


 お兄様が私の前へ立った。


「……ルシア、下がって」


 その声は、いつもと変わらず穏やかだった。


 けれど、周囲の空気が変わっていた。


 重い。


 息が詰まるほどの圧力。


 お兄様の異能――『重圧』。


 侵入者たちの身体が、一斉に沈み込む。


「……ぐっ!?」


 地面に亀裂が走った。


 お兄様は、静かに微笑んだ。


「……僕の家に、何の用かな?」


 その声に、温かさはなかった。


 けれど。


 侵入者たちは、まだ動こうとしていた。


 そのうちの一人が、懐から小さな筒を取り出す。


「……っ!」


 次の瞬間。


 筒が地面へ投げつけられた。


 白い煙が、一気に広がる。


「……煙幕!?」


 クレイドが叫んだ。


 彼はすぐに剣を抜き、私の前へ立った。


「ルシア、俺から離れるな!」


「……うん!」


 煙の向こうから、複数の足音が響く。


 クレイドは目を細め、剣を水平に構えた。


 視界が塞がれていても、足音と空気の揺れだけで敵の位置を探っている。


「……そこだ!」


 クレイドが踏み込んだ。


 銀色の剣閃が煙を切り裂く。


「……ぐっ!?」


 見えない敵の腕を、クレイドの剣が弾き飛ばした。


 続けて、反対側から迫った影へ身体を向ける。


 剣の柄で相手の手首を打ち、返す刃で足元を払った。


「……っ!」


 男が地面へ倒れ込む。


「クレイド、すごい……!」


「感心してる場合か! 周りを見ろ!」


 クレイドは剣を構えたまま、私を背後へ庇った。


 そのとき。


 煙の向こうから、声がした。


「……見つけた」


 背筋が凍った。


 次の瞬間。


 黒い影が、私へ飛びかかってきた。


「……ルシア!!」


 クレイドの声。


 私は咄嗟に後ろへ跳んだ。


 けれど、相手の方が速い。


 伸ばされた手が、私の腕へ迫る。


「……っ!」


 クレイドが私の前へ割り込み、剣を振り抜いた。


 男の腕と私の間に、鋭い剣閃が走る。


 男は咄嗟に身を引いた。


「……何やってんだ! ぼさっとすんな!」


「……ご、ごめん!」


「謝る暇があったら動け!」


 クレイドは剣を構えたまま、私を背後へ庇った。


 その姿に、胸が締めつけられた。


 昔から、そうだった。


 クレイドはいつも、私を守ってくれた。


 けれど。


 もう、守られてばかりではいられない。


     ◇


 煙が、少しずつ薄れていく。


 その向こうで、エリーゼが氷の壁を生み出していた。


「……ルシア! こっちへ!」


 私は頷き、駆け寄ろうとした。


 けれど、その瞬間。


 侵入者の一人が、エリーゼの背後へ回り込んだ。


「……っ!」


 男の手元に、鋭い光が生まれる。


 それは、細い刃のような形をしていた。


 エリーゼは、まだ気づいていない。


「……エリーゼ!!」


 私は叫んだ。


 けれど、距離がある。


 間に合わない。


 男が腕を振り下ろす。


 光の刃が、エリーゼへ向かって放たれた。


「……っ!」


 その瞬間。


 胸の奥で、何かが弾けた。


 不思議な感覚だった。


 今まで一度も使ったことのない力。


 それなのに。


 どうすればいいのか、分かる。


「……え……?」


 私は、自分の手を見つめた。


 身体の奥から、何かが湧き上がってくる。


 まるで、ずっと眠っていたものが目を覚ましたように。


「……できる……」


 小さく呟く。


 次の瞬間。


 私は、エリーゼへ向かって手を伸ばした。


「……私、今ならできる気がする!!」


 透明な膜のようなものが、エリーゼの前へ広がった。


 光の刃が、それに触れる。


 直後。


 刃の軌道が、反転した。


「……なっ!?」


 男が目を見開いた。


 自分が放ったはずの光の刃が、まるで見えない壁に弾き返されたかのように、一直線に戻ってきたのだ。


「うわあっ!!」


 咄嗟に身を捻った男の肩を、光の刃が掠める。


 外套が裂け、赤い血が飛び散った。


 男は地面へ転がり、慌てて距離を取った。


「……何だ、今の……!?」


 私は、伸ばしたままの自分の手を見つめていた。


「……え……?」


 何が起きたのか、頭ではまだ理解できていなかった。


 けれど。


 身体は、知っていた。


 今、自分が何をしたのか。


 どうすれば、あの攻撃を跳ね返せるのか。


 まるで、ずっと前から使い方を知っていたような、不思議な感覚。


「……反射……?」


 小さく呟く。


 その言葉が、驚くほど自然に口から出てきた。


「……私、今……」


 エリーゼが振り返った。


「……ルシア!?」


 その顔には、驚きが浮かんでいた。


「今の、あなたが……?」


「……うん」


 私は、自分の手を見つめたまま頷いた。


「……できた、みたい……」


 エリーゼは一瞬言葉を失った。


 それから、ぱっと笑顔になる。


「……すごいじゃない!」


 けれど、その喜びは長く続かなかった。


「……っ!」


 別の男が、エリーゼへ向かって飛びかかってきたのだ。


「……危ない!」


 私は咄嗟に叫んだ。


 エリーゼが振り返る。


 けれど、男の方が速い。


 その手には、鋭い短剣が握られていた。


 次の瞬間。


 白い影が、二人の間へ飛び込んだ。


「……ルナ!!」


 白狼が、エリーゼの前へ立ちはだかる。


 男の短剣が振り下ろされた。


 その瞬間。


 ルナの身体の前に、透明な膜が広がった。


「……っ!?」


 短剣が膜へ触れる。


 直後、男の腕が弾き返された。


「ぐあっ!?」


 反動で体勢を崩した男が、地面へ倒れ込む。


 私は目を見開いた。


「……ルナも……!?」


 白狼が、私を振り返った。


 その赤い瞳が、静かに輝いている。


 その瞬間、分かった。


 ルナは、私の分身。


 私の力から生まれた、もう一つの私。


 だから。


 私にできることは、ルナにもできる。


「……そっか……!」


 私は、思わず笑った。


「……ルナも、反射できるんだ!」


 その声に、お兄様が振り返った。


「……ルシア?」


 けれど、次の瞬間。


 お兄様の表情が一変した。


 男たちの一人が、私へ向かって走り出したのだ。


「……ルシア、下がって!」


 お兄様の声が響く。


 同時に、空気が重くなる。


 男の身体が、地面へ叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 その背後から、ガルとレオが飛びかかる。


 二匹の黒狼が男の腕と脚を押さえつけ、動きを封じた。


 お兄様は、ゆっくりと歩み寄った。


「……僕の妹に、何をするつもりだったの?」


 声は穏やかだった。


 けれど、その赤い瞳には、冷たい怒りが宿っていた。


 男は必死に身体を動かそうとした。


 しかし、重圧に押さえつけられ、指一本動かせない。


「……答えて」


 お兄様が微笑む。


「誰に頼まれたの?」


「……っ!」


 男は歯を食いしばった。


 けれど、何も答えなかった。


 お兄様の瞳が、すっと細められる。


「……答えろ」


 低い声が、訓練場に響いた。


 男はなおも口を閉ざしている。


 その瞬間、お兄様の周囲に漂っていた重圧が、さらに濃くなった。


 空気そのものが押し潰されるような感覚に、男の身体が大きく沈む。


「ぐっ……!」


 それでも、男は耐えようとした。


 お兄様は、ゆっくりと男の前へ立つ。


 そして、静かに右手を掲げた。


 赤い瞳が、男をまっすぐ射抜く。


「……答えろ」


 男の身体が、びくりと震えた。


 けれど、まだ黙ったままだ。


 お兄様の声が、今度ははっきりと響いた。


「答えろ、これは王家の命令だよ」


 その瞬間。


 空気が、完全に変わった。


 お兄様の言葉に、目には見えない力が宿る。


 重圧とは違う。


 身体ではなく、相手の意思そのものへ食い込むような力だった。


 男の瞳から抵抗の色が消えていく。


「……っ、あ……」


 口元が震える。


 必死に閉ざしていた唇が、本人の意思に反して開いた。


「……レティシア様……」


 男は、掠れた声で呟いた。


「……レティシア・ドラクロワ様の命令です……」


 その名が響いた瞬間。


 お兄様の表情から、温度が消えた。


「……そう」


 静かな声だった。


 けれど、その声の奥には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「……やっぱり、彼女か」


 男は、なおも言葉を続ける。


「……ルシア・ヴァルディエを捕らえ……ドラクロワ家へ連れて来いと……」


「……目的は?」


 お兄様が尋ねる。


 男の喉が、ひくりと動いた。


「……血を……」


 私は息を呑んだ。


「……ルシアの血を採取し……ミア様へ……」


 その瞬間。


 お兄様の重圧が、爆発的に膨れ上がった。


「……ゼノン!」


 ラビが叫ぶ。


 けれど、お兄様は止まらない。


 地面に亀裂が走り、拘束されていた男の身体がさらに沈み込む。


「……僕の妹を……」


 お兄様の声が、低く震えた。


「……血を採るために狙ったのか?」


 男は答えられない。


 答える必要もなかった。


 その沈黙が、すべてを肯定していた。


 お兄様の瞳に、冷たい怒りが燃え上がる。


「……ふざけるな」


 その声に、周囲の空気が凍りついた。


 私は、思わずお兄様の袖を掴んだ。


「……お兄様」


 お兄様が、僅かにこちらを見る。


「……ルシア?」


「……もう大丈夫だよ」


 私は震える声で言った。


「……みんな捕まえたから」


 お兄様は、しばらく私を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


 重圧が、少しずつ薄れていった。


「……うん」


 お兄様は男へ視線を戻した。


「……でも、君たちを許すつもりはないよ」


 男は、地面に押さえつけられたまま動かなかった。


     ◇


 その頃。


 訓練場の反対側では、クレイドが別の侵入者と向き合っていた。


 男の手には、長い刃が握られている。


 クレイドは剣を構え、静かに相手を見据えた。


「……お前ら、何者だ」


 男は答えなかった。


 代わりに、地面を蹴る。


 鋭い斬撃が、クレイドへ迫った。


「……っ!」


 クレイドは剣を横へ振り、攻撃を受け流した。


 金属音が響く。


 そのまま一歩踏み込み、相手の剣を押し返す。


「……遅い!」


 クレイドの剣が、男の肩を打った。


「ぐっ!?」


 男がよろめく。


 その隙に、クレイドは相手の手首へ剣の柄を叩き込んだ。


 刃が地面へ落ちる。


「……っ!」


 クレイドはすぐに踏み込み、男の喉元へ剣先を突きつけた。


「……動くな」


 男が息を呑む。


 クレイドは低く告げた。


「……次は外さねえぞ」


 その声には、明確な怒りが滲んでいた。


 ヴェロニカ。


 ミア。


 そして、今度はルシアを狙う侵入者。


 もう、誰かに好き勝手させるつもりはなかった。


「……誰に頼まれた」


 クレイドが尋ねる。


 男は黙ったままだった。


「……答えろ」


 剣先が、僅かに近づく。


 そのとき。


「クレイド!」


 ラビの声が響いた。


 振り返ると、ラビが姿を現した。


「そのまま押さえてて!」


「……分かった!」


 ラビは男の背後へ回り込み、素早く腕を拘束した。


「よし。これで大丈夫」


 クレイドは剣を引いた。


 ラビが笑う。


「いい動きだったね」


「……どうも」


「でも、最後は少し力が入りすぎてたよ」


 クレイドは眉を寄せた。


「……何だよ」


「怒るのは分かるけど、捕まえた相手から話を聞く必要もあるからね」


 クレイドは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……分かってる」


 ラビは頷いた。


「うん。それならいいよ」


     ◇


 やがて、五人の侵入者は全員拘束された。


 訓練場には、砕けた氷や抉れた地面が残っている。


 私は、その光景を呆然と見つめていた。


 ついさっきまで、ここで楽しく訓練していたのに。


 突然、命を狙われた。


 けれど。


 今回は、ただ守られていただけではなかった。


「ルシア」


 お兄様が近づいてくる。


「大丈夫?」


「……うん」


 私は小さく頷いた。


 お兄様は私の顔を覗き込んだ。


「怪我は?」


「ないよ」


「……本当?」


「うん!」


 そう答えると、お兄様はようやく安心したように息を吐いた。


 そして、私を強く抱き締めた。


「……よかった」


 その声が、僅かに震えていた。


「……本当に、よかった……」


 私は、お兄様の背中へ腕を回した。


「お兄様」


「……なあに?」


「私、できたよ」


 お兄様が顔を上げた。


「……何が?」


 私は少しだけ笑った。


「エリーゼを、守れた」


 お兄様の赤い瞳が揺れた。


「……うん」


「それに、ルナも!」


 足元で、白狼が嬉しそうに尻尾を振った。


 お兄様はルナを見つめ、それから私へ視線を戻した。


「……すごいね、ルシア」


 その声は、心から嬉しそうだった。


「……本当に、強くなったね」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「……えへへ」


 私は嬉しくなって笑った。


 そのとき、エリーゼが近づいてきた。


「……ルシア!」


「エリーゼ!」


 彼女は、私の手を両手で握った。


「……ありがとう」


 私は目を丸くした。


「……え?」


「あなたが助けてくれなかったら、危なかったわ」


 エリーゼは、少しだけ困ったように笑った。


「護衛として来たのに、逆に守られちゃったわね」


「……そんなことないよ!」


 私は慌てて首を振った。


「エリーゼだって、最初に私を守ってくれたもん!」


 エリーゼの瞳が、僅かに揺れた。


「……ルシア……」


「だから、おあいこ!」


 私は笑った。


 エリーゼも、嬉しそうに微笑んだ。


「……そうね」


 そのとき、クレイドが近づいてきた。


「……おい」


 私は振り返った。


「……クレイド?」


 クレイドは、私をじっと見つめた。


「……さっきの、何だったんだ?」


「……え?」


「攻撃を跳ね返したやつだよ」


 私は少しだけ考えた。


 そして、自分の手を見つめる。


「……反射、みたい」


 クレイドの眉が上がった。


「……反射?」


「うん。なんか、急にできる気がしたの」


 私は笑った。


「ルナが初めて出てきたときと、同じ感じ!」


 クレイドは、しばらく私を見つめていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……お前、ほんとに規格外だな」


「……ええっ!?」


 ラビが楽しそうに笑った。


「でも、異能ってそういうものだからね」


 私は顔を上げた。


「……そうなの?」


「うん。発現した瞬間、本能的に使い方が分かるんだよ」


 ラビは頷いた。


「ただ、使いこなすには訓練が必要だけどね」


 私は、自分の手を見つめた。


 反射。


 攻撃を跳ね返す力。


 そして、ルナも同じ力を使える。


「……すごい……」


 小さく呟く。


 そのとき。


 セドリックが訓練場へ駆け込んできた。


「ゼノン!」


 お兄様が振り返る。


「……セドリック?」


「侵入者が出たって聞いたぞ!」


「うん。もう捕まえたよ」


 セドリックは周囲を見渡した。


 拘束された男たち。


 砕けた氷。


 抉れた地面。


 そして、私たち。


「……派手にやったなぁ」


 呆れたように呟く。


 けれど、すぐに真剣な表情へ変わった。


「……で、誰の差し金だ?」


 お兄様は、拘束された男たちへ視線を向けた。


「……レティシア・ドラクロワだよ」


 セドリックの表情が険しくなる。


「……やっぱり、あの女か」


「うん。ルシアの血を狙っていたみたいだ」


 セドリックは拳を握り締めた。


「……ベルフォート家へ報告する必要があるな」


 お兄様は静かに頷いた。


「うん。それから、侵入者たちの身元も確認しよう」


 アルベルトが静かに続ける。


「……ルシアを狙った理由もな」


 ゼノンの表情が、僅かに変わった。


「……うん」


 その声は、ひどく静かだった。


「……誰が命じたのか、必ず突き止める」


 机の上に置かれた金属片が、灯りを受けて鈍く輝いていた。


     ◇


 その日の夕方。


 ヴァルディエ家の応接室では、ゼノン、アルベルト、セドリック、ラビが集まっていた。


 机の上には、侵入者たちから押収した持ち物が並べられている。


 黒い外套。


 仮面。


 小さな通信機。


 そして、見慣れない紋章が刻まれた金属片。


「……これか」


 アルベルトが金属片を手に取った。


「……どこの紋章だ?」


 セドリックが覗き込む。


「……見たことないな」


 ラビも首を傾げた。


「僕も初めて見るよ」


 ゼノンは、しばらく金属片を見つめていた。


 そして、静かに口を開く。


「……ドラクロワ家の紋章ではないね」


 アルベルトが頷いた。


「……ああ」


「でも、何かの組織に属している可能性はある」


 セドリックが腕を組んだ。


「……調べる必要があるな」


 ゼノンは頷いた。


「うん。それから、侵入者たちの身元も確認しよう」


 アルベルトが静かに続ける。


「……ルシアを狙った理由もな」


 ゼノンの表情が、僅かに変わった。


「……うん」


 その声は、ひどく静かだった。


「……誰が命じたのか、必ず突き止める」


 机の上に置かれた金属片が、灯りを受けて鈍く輝いていた。


     ◇


 同じ頃。


 ドラクロワ家の別邸では、レティシアが通信機を握り締めていた。


「……失敗した?」


 その声が、低く響く。


 通信の向こうから、男の声が返ってきた。


『……はい。全員、拘束されたようです』


 レティシアの表情が歪んだ。


「……何をしているのよ……!」


『申し訳ございません……』


 レティシアは、ゆっくりと目を閉じた。


 そして、深く息を吐く。


「……もういいわ」


 通信を切る。


 その手が、僅かに震えていた。


「……ゼノン様……」


 小さく呟く。


「……どうして、あの子ばかり……」


 そのとき。


 背後から、声がした。


「……レティシア様?」


 振り返ると、ミアが立っていた。


「……ミア」


 レティシアは、すぐに表情を整えた。


「どうしたの?」


 ミアは、嬉しそうに微笑んだ。


「……ルシアに、会えるんですか?」


 その無邪気な問いに、レティシアは一瞬言葉を失った。


 けれど、すぐに微笑み返す。


「……ええ」


 ミアの赤い瞳が輝いた。


「……本当ですか!?」


「……もう少しよ」


 レティシアは、ゆっくりと目を細めた。


「……今度は、失敗しないようにしないとね」


 ミアは、うっとりと笑った。


「……楽しみ……」


 その唇から、小さな声が漏れる。


「……早く、ルシアの血が飲みたいな……」


 レティシアは、そんなミアを静かに見つめていた。


 その瞳には、冷たい計算が宿っていた。


      ◇


 同じ頃。


 王都の中心に建つベルフォート王宮。


 その執務室では、レオナード・ベルフォートが一通の報告書に目を通していた。


 机の向かいには、息子のルイスが立っている。


「……ヴァルディエ家が襲撃された、だと?」


「はい」


 ルイスは静かに頷いた。


「侵入者は五名。全員が捕縛されています」


「……ルシア王女は?」


「ご無事です。エリーゼ・ローレンツを守る際に、新たな異能を発現したとのことです」


 レオナードの眉が僅かに動いた。


「……新たな異能?」


「はい。攻撃を跳ね返す『反射』という能力だそうです」


「……ほう」


 レオナードは、少しだけ興味深そうに目を細めた。


「アルフォンスの娘か。やはり、ただ者ではないな」


 ルイスが頷く。


「さらに、ゼノン様が『王家の命令』を使用し、侵入者から首謀者の名を聞き出しました」


「……そうか」


 レオナードは、驚くことなく頷いた。


 王家の命令。


 それは、ヴァルディエ王家に稀に発現する、絶対服従の異能。


 代々、その力を持つ者が王位を継承してきた。


 先代のアルフォンスも、その力を持っていた。


 そして今は、その息子ゼノンが受け継いでいる。


 レオナードは、そのことを以前から知っていた。


「……それで、誰の差し金だった?」


 ルイスの表情が険しくなる。


「……レティシア・ドラクロワです」


 その名を聞いた瞬間、レオナードの表情が変わった。


「……ギルベルトの次女か」


「はい。ルシア王女を捕らえ、血を採取するよう命じていたとのことです」


 レオナードは、ゆっくりと報告書を机へ置いた。


「……愚かなことを」


 その声には、明確な怒りが滲んでいた。


「父親が調査を受けている最中に、娘が第一純血家の王女を襲わせるとはな」


 ルイスは静かに頷いた。


「……どうなさいますか?」


 レオナードは、しばらく考えていた。


 そして、顔を上げる。


「……ゼノンへ連絡を取れ」


「……はい」


「今回の件は、ドラクロワ家への調査にも大きく関わる。正式な証言を確保し、レティシア本人にも事情を聞く必要がある」


 ルイスが頷いた。


「……承知しました」


 レオナードは、窓の外へ視線を向けた。


 王都の夜景が、静かに広がっている。


「……アルフォンス」


 小さく、懐かしい名を呟く。


 かつての王。


 そして、自分が統治を託されたヴァルディエ家の当主。


「……お前の息子も、随分と立派になったものだ」


 レオナードは、僅かに微笑んだ。


 けれど、その表情はすぐに引き締まる。


「……ヴァルディエ家に手を出すことが、何を意味するのか」


 その声が、低く響いた。


「ドラクロワ家には、理解してもらわねばならんな」

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