隠蔽された記録
王都の北側には、ヴァンパイア社会の秩序を維持するための施設が存在していた。
人間に危害を加えたヴァンパイア。
共生条約に違反した者。
そして、重大な罪を犯し、裁きを待つ者。
そうした犯罪者たちを収容する、厳重な警備施設。
高い外壁と幾重もの鉄門に囲まれたその場所は、一般のヴァンパイアであっても、許可なく立ち入ることはできなかった。
その正門の前に、一台の黒い馬車が止まる。
扉が開き、ゼノン・ヴァルディエが姿を現した。
続いて降りてきたのは、アルベルト、セドリック、そしてルイス・ベルフォート。
四人の姿を確認した警備兵たちが、一斉に姿勢を正した。
「ゼノン様!」
責任者らしき男が慌てて駆け寄ってくる。
「本日は、どのようなご用件で……」
「事前に通達したはずですが」
ゼノンは穏やかに答えた。
「施設の管理記録を確認しに来ました」
「……っ」
男の表情が僅かに強張る。
「……記録、でございますか」
「はい」
ゼノンは微笑んだ。
「ヴェロニカ・ドラクロワの処刑記録と、ミアの収容記録です」
男の喉が、小さく動いた。
「……承知、いたしました」
その様子を見て、セドリックが小さく息を吐く。
「……分かりやすいな」
ルイスが静かに頷いた。
「……ええ」
ゼノンは二人へ一瞬だけ視線を向けた。
そして、何事もなかったかのように施設の中へ足を踏み入れた。
◇
施設の内部は、ひどく静かだった。
長い廊下。
厚い鉄扉。
壁に埋め込まれた監視装置。
そのすべてが、収容者の脱走を防ぐために設計されている。
ゼノンたちは、施設の責任者に案内され、管理棟の奥へ進んだ。
「こちらが、記録保管室でございます」
男が扉を開ける。
室内には、天井まで届く棚が並び、膨大な書類が保管されていた。
「ヴェロニカ・ドラクロワの記録を」
ゼノンが告げる。
「……はい」
男は一瞬躊躇したあと、棚の奥から一冊の記録簿を取り出した。
机の上へ置かれたそれを、ルイスが開く。
「……処刑執行日、記録あり」
ページをめくる。
「立会人、三名。執行責任者、一名……」
ルイスの指が止まった。
「……妙ですね」
「何が?」
セドリックが覗き込む。
「この署名です」
ルイスは、二つの記録を並べた。
「同じ人物の署名になっていますが、筆跡が違います」
アルベルトが目を細める。
「……確かに」
ゼノンは、施設の責任者へ視線を向けた。
「説明していただけますか?」
「……そ、それは……」
男は額に汗を浮かべた。
「……記録時の手違いかと……」
「手違い?」
ゼノンは穏やかに聞き返した。
「処刑という重大な手続きで、署名を間違えたのですか?」
「……っ」
男は答えられなかった。
セドリックが肩を竦める。
「いやー、随分と雑な管理だな」
ゼノンは記録簿へ視線を戻した。
「では、当日の監視記録を見せてください」
男の表情が、さらに青ざめた。
「……それは……」
「何か問題でも?」
ゼノンの声は、変わらず穏やかだった。
けれど、その赤い瞳は冷たかった。
「……い、いえ」
男は慌てて別の書類を取り出した。
◇
調査は、数時間に及んだ。
ヴェロニカの処刑記録。
ミアの収容記録。
施設への出入りを記した帳簿。
監視記録。
関係者の勤務表。
一つずつ照らし合わせていくうちに、不自然な点が次々と見つかり始めた。
「……これを見てください」
ルイスが、一枚の記録を机へ置いた。
「ミアが姿を消した日の記録です」
ゼノンが覗き込む。
「……移送?」
「はい。正式な移送命令は出ていません。しかし、この時間帯に外部の馬車が施設へ入っています」
セドリックが眉を上げた。
「……馬車?」
「ええ。出入りの記録には、ドラクロワ家の紋章が記されています」
部屋の空気が、僅かに変わった。
アルベルトが低く呟く。
「……やはりか」
ゼノンは、記録をじっと見つめていた。
「……ギルベルト」
その名前を呼ぶ声は、静かだった。
けれど、確かな怒りが滲んでいた。
ルイスが続ける。
「ただし、これだけでは当主本人の指示とは断定できません」
「……そうだね」
ゼノンは頷いた。
「だから、さらに調べる必要がある」
そのとき。
セドリックが、別の記録簿を手に取った。
「……おい」
三人が顔を上げる。
「これ、ちょっと変じゃないか?」
セドリックが指差したのは、施設の物資搬入記録だった。
「……同じ日付に、同じ業者が何度も出入りしてる」
ルイスが覗き込む。
「……確かに」
「しかも、搬入した物資の数と、出ていった馬車の数が合わない」
アルベルトが眉を寄せた。
「……どういうことだ?」
「……分からない」
セドリックは首を振った。
「でも、調べる価値はありそうだろ?」
ゼノンは静かに頷いた。
「……うん」
そして、施設の責任者へ視線を向けた。
「この業者について、詳しく教えていただけますか?」
男の顔から、血の気が引いた。
◇
その頃。
ヴァルディエ家の屋敷では、ルシアの訓練が行われていた。
「ルシア、準備はいい?」
エリーゼが少し離れた場所から声をかける。
「うん!」
私は大きく頷いた。
今日は、エリーゼとラビが訓練に付き合ってくれている。
屋敷の庭園に設けられた訓練場。
その中央で、私はルナと並んで立っていた。
「じゃあ、始めようか」
ラビが笑った。
「今日は、二人を相手にしてもらうよ」
「……二人!?」
私は思わず声を上げた。
ラビとエリーゼ。
どちらも、私よりずっと戦い慣れている。
「……ちょっと待って! それ、無理じゃない!?」
エリーゼが楽しそうに笑う。
「大丈夫よ。手加減するから」
「……本当?」
「もちろん」
ラビも頷いた。
「今日は勝つことが目的じゃないからね。二人の動きを見ながら、自分とルナをどう動かすか考えてみよう」
私は小さく頷いた。
「……分かった」
そして、ルナへ視線を向ける。
「……頑張ろうね」
白狼が、小さく鼻を鳴らした。
◇
最初に動いたのは、エリーゼだった。
「いくわよ、ルシア!」
彼女が片手を上げる。
その瞬間、地面から細い氷の柱が伸びた。
「……っ!」
私は慌てて横へ跳ぶ。
氷の柱が、先ほどまで立っていた場所を貫いた。
「……危なっ!」
思わず声が漏れる。
エリーゼが笑った。
「まだまだよ!」
次々と氷の柱が伸びてくる。
私は必死に避けながら、ルナへ意識を向けた。
「ルナ、右から!」
白狼が走る。
エリーゼの背後へ回り込み、注意を引こうとした。
けれど。
「……甘いわ!」
エリーゼが振り返る。
ルナの足元が、一瞬で凍りついた。
「……ルナ!」
私は慌てて声を上げた。
その瞬間、ルナの身体が影へ沈み込む。
氷の拘束から抜け出し、私の足元の影から再び姿を現した。
「……よかった……!」
安心した、その直後。
「はい、隙あり!」
「……えっ!?」
背後から、ラビの声がした。
振り返るよりも早く、肩へ軽く手を置かれる。
「……ああっ!」
私は思わず声を上げた。
ラビが笑う。
「今のは、完全に後ろを取られちゃったね」
「……うう……」
私は悔しくなって頬を膨らませた。
エリーゼが近づいてくる。
「でも、ルナを影に戻した判断はよかったわ」
「……本当?」
「ええ。無理に氷を壊そうとするより、ずっと安全だったもの」
ラビも頷いた。
「うん。ルナを守ろうとしたのはいい判断だったよ」
私は、少しだけ嬉しくなった。
「……ありがとう!」
けれど、ラビはすぐに続けた。
「ただし、ルナが危なくなったからって、自分の周囲への注意を忘れちゃ駄目だよ」
「……はい……」
「実戦だったら、今ので捕まっていたかもしれないからね」
私は真剣に頷いた。
「……分かった」
◇
何度か休憩を挟みながら、訓練は続いた。
エリーゼの氷を避ける。
ラビの透明化を警戒する。
ルナと感覚を共有しながら、自分の周囲にも注意を向ける。
最初は何度も失敗した。
けれど、少しずつ身体が動くようになってきた。
「……はぁっ……はぁっ……!」
私は額の汗を拭った。
エリーゼが近づいてくる。
「ルシア、大丈夫?」
「……うん!」
私は笑った。
「まだできる!」
エリーゼは少しだけ心配そうに眉を寄せた。
「……無理してない?」
「大丈夫!」
そう答えたけれど、正直なところ、かなり疲れていた。
何度も走り、跳び、避け続けたせいで、脚が重い。
けれど、ここで諦めたくなかった。
私は、ルナの頭を撫でた。
「……もう一回だけ!」
ラビは、しばらく私を見つめていた。
それから、小さく笑った。
「……分かった」
そして、エリーゼへ視線を向ける。
「じゃあ、最後は少しだけ難しくしようか」
「……え?」
エリーゼが頷く。
「分かったわ」
私は二人を交互に見つめた。
「……何するの?」
ラビが笑った。
「今度は、ルナを使わずに僕たちの攻撃を避けてみよう」
「……ルナを?」
「そう。ルナに頼らず、自分自身の感覚だけで動く練習だよ」
私は少しだけ考えた。
そして、頷いた。
「……分かった!」
ルナへ視線を向ける。
「ルナ、少し休んでてね」
白狼が小さく鼻を鳴らし、私の足元へ伏せた。
私は、ゆっくりと構える。
目の前にはエリーゼ。
そして、姿を消したラビ。
どちらが先に動くのか。
どこから攻撃が来るのか。
分からない。
けれど。
私は、深く息を吸った。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「……できる」
その瞬間。
エリーゼが動いた。
「いくわよ!」
地面から、氷の柱が伸びる。
私は咄嗟に横へ跳んだ。
氷が頬のすぐ横を通り過ぎる。
「……っ!」
着地した瞬間、背後から風が動いた。
ラビだ。
私は振り返らず、その場にしゃがみ込んだ。
頭上を、何かが通り過ぎる。
「……おっ!」
ラビの声がした。
「今の、よく避けたね!」
私は嬉しくなった。
けれど、まだ終わっていない。
目の前には、エリーゼ。
その手には、次の氷が生まれている。
「……ルシア!」
エリーゼが声を上げた。
私は、地面を蹴った。
氷の柱が伸びる。
その隙間を抜けるように、身体を滑り込ませる。
そして。
「……っ!」
エリーゼのすぐ目の前へ飛び出した。
「……捕まえた!」
私は、その腕へ手を伸ばした。
けれど。
「……残念!」
エリーゼが笑った。
次の瞬間、私の足元が凍りついた。
「……えっ!?」
足が動かない。
完全に捕まってしまった。
「……ああっ!」
私は悔しくなって声を上げた。
エリーゼは楽しそうに笑い、すぐに氷を解いた。
「ふふっ。惜しかったわね!」
「……もう少しだったのに!」
ラビが姿を現した。
「いや、今のはよかったよ」
「……本当?」
「うん。僕の動きにも気づいてたし、エリーゼの攻撃もかなり避けられてた」
私は嬉しくなった。
「……やった!」
ラビは微笑んだ。
「今日はここまでにしよう。よく頑張ったね」
「……うん!」
私は大きく頷いた。
足元では、ルナが嬉しそうに尻尾を振っていた。
◇
訓練を終えたあと。
私はエリーゼと並んで、庭園のベンチに座っていた。
ラビは、使用人に呼ばれて屋敷の中へ戻っている。
私は、冷たい飲み物を一口飲んだ。
「……はぁ……」
思わずため息が漏れる。
「……疲れたぁ……」
思わずベンチの背もたれへ身体を預ける。
隣に座っていたエリーゼが、くすくすと笑った。
「ふふっ。今日は随分頑張ったものね」
「……うん。もう脚が動かないかも……」
「さっきまで、まだできるって言っていたのは誰かしら?」
「……それは、それ!」
私が頬を膨らませると、エリーゼは楽しそうに笑った。
「もう。相変わらずね、ルシア」
私は冷たい飲み物をもう一口飲んだ。
火照っていた身体が、少しずつ落ち着いていく。
足元では、ルナが気持ちよさそうに寝そべっていた。
「……でも、楽しかった」
ぽつりと呟く。
エリーゼが私を見る。
「訓練が?」
「うん!」
私は頷いた。
「最初は全然できなかったことが、少しずつできるようになってきたから」
エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「そうね。今日の最後の動きなんて、私も少し驚いたわ」
「……本当!?」
「ええ。あと少しで捕まっていたもの」
私は思わず笑った。
「……やった!」
「でも、まだまだ甘いわよ?」
「……う」
エリーゼは人差し指を立てた。
「相手の攻撃を避けられるようになったのはいいこと。でも、避けることばかり考えていると、次の行動が遅れてしまうわ」
「……次の行動?」
「そう。逃げるのか、距離を取るのか、それとも相手を捕まえるのか。判断することも大切なの」
私は少しだけ考えた。
「……そっか」
確かに、今日の私は攻撃を避けるだけで精一杯だった。
エリーゼへ近づけたときも、そのあとどうするかまでは考えていなかった。
「……難しいね」
「ふふっ。だから訓練するのよ」
エリーゼは優しく笑った。
「焦らなくていいわ。少しずつ覚えていきましょう」
「……うん!」
私は大きく頷いた。
そのとき、ルナが顔を上げた。
白い耳がぴくりと動く。
「……ルナ?」
私が首を傾げると、ルナはゆっくりと立ち上がった。
そして、私の足元へ歩いてくる。
「どうしたの?」
頭を撫でると、ルナは嬉しそうに尻尾を振った。
そのまま、私の膝へ鼻先を押しつけてくる。
「……ふふっ」
私は思わず笑った。
「ルナも頑張ったもんね」
エリーゼが微笑む。
「本当に賢い子ね」
「でしょ?」
私は嬉しくなってルナの頭を撫でた。
「私の大切な分身だもん!」
ルナは、まるでその言葉が嬉しかったかのように、私の手へ頬を寄せた。
◇
その頃。
収容施設の記録保管室では、調査が続いていた。
机の上には、何冊もの記録簿が広げられている。
ゼノンは、その一枚を静かに見つめていた。
「……この業者について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
施設の責任者は、額に汗を浮かべたまま答えた。
「……定期的に物資を納入している業者でございます」
「そうですか」
ゼノンは穏やかに頷いた。
「では、なぜ搬入した物資よりも、出ていった馬車の方が多いのでしょう?」
「……それは……」
「しかも、そのうち数台は積荷の確認記録がありません」
責任者は答えられなかった。
セドリックが横から口を挟む。
「おかしいよなぁ。物を運び込んだなら、帰りは空のはずだろ?」
ルイスが頷いた。
「出入りの記録を見る限り、空の馬車として扱われています」
「でも、重量検査の記録は残ってない」
セドリックは、別の書類を指で叩いた。
「……何を運んでたんだろうな?」
責任者の顔が、さらに青ざめた。
アルベルトが低く告げる。
「……答えろ」
「……わ、私は……」
「知らないでは済まされない」
アルベルトの声には、明確な怒りが滲んでいた。
「ここは犯罪者を収容する施設だ。収容者の命を預かる立場にありながら、何をしていた?」
男は俯いた。
「……申し訳、ございません……」
ゼノンが静かに口を開く。
「謝罪ではなく、説明をお願いします」
その声は、驚くほど穏やかだった。
けれど、責任者は震え上がった。
「……っ」
長い沈黙。
やがて、男は掠れた声で答えた。
「……私には、どうすることも……」
ゼノンの赤い瞳が、僅かに細められた。
「……どういう意味ですか?」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……上からの指示だったのです……」
部屋の空気が変わった。
セドリックが眉を上げる。
「……上?」
「……はい」
男は震える声で続けた。
「……特定の馬車については、検査を行わずに通すようにと……」
ルイスが静かに尋ねる。
「誰からの指示ですか?」
責任者は唇を噛んだ。
「……それは……」
ゼノンが、ゆっくりと微笑んだ。
「安心してください」
男が顔を上げる。
「……え?」
「ここで話したことについて、あなたの身の安全は保証します」
ゼノンは静かに続けた。
「ただし、隠し事を続けるのであれば、あなた自身も調査対象になります」
男の顔から、血の気が引いた。
長い沈黙のあと。
「……ドラクロワ家、です……」
掠れた声が漏れた。
セドリックの表情が変わった。
「……やっぱりな」
責任者は俯いたまま続けた。
「……ギルベルト様の名で、特別な通行許可が出されていました……」
ゼノンは、ゆっくりと目を細めた。
「……ギルベルト・ドラクロワ」
その名前を呼ぶ声には、冷たい怒りが宿っていた。
ルイスが記録簿を閉じる。
「……これで、正式な調査を進める理由がさらに増えましたね」
「……うん」
ゼノンは静かに頷いた。
「ただし、まだ本人が直接指示した証拠はありません」
アルベルトが続ける。
「……ならば、その証拠を探すだけだ」
ゼノンは、机の上に並んだ資料を見つめた。
ヴェロニカの処刑偽装。
ミアの失踪。
そして、ドラクロワ家の名義で出入りしていた馬車。
少しずつ。
確実に。
隠されていたものが、表へ出始めていた。
◇
調査を終えたゼノンたちは、施設の外へ出た。
すでに空は暗くなり始めている。
馬車へ向かいながら、セドリックが口を開いた。
「……しかし、思ったよりあっさり口を割ったな」
アルベルトが小さく息を吐く。
「……追い詰められていたんだろう」
「まあ、そうだろうな」
セドリックは肩を竦めた。
「でも、これでギルベルトの名前が出てきたわけだ」
ルイスが頷いた。
「正式な通行許可が残っているなら、発行元を調べる必要があります」
「……そうだね」
ゼノンは静かに答えた。
「それから、最近の失踪事件についても、もう一度記録を洗い直したい」
セドリックは頷きながら、険しい表情で資料へ目を落とした。
「……ああ。これまでに確認できている失踪者の記録と、今回の馬車の出入りを照らし合わせれば、何か見つかるかもしれない」
ルイスも続ける。
「失踪した人々の最後の目撃場所と、ドラクロワ家の馬車が通った経路が重なっている可能性もあります」
アルベルトが低く呟いた。
「……エドモンドが、再び禁術のために人間を集めているのだとすれば、失踪事件はその準備かもしれない」
「……まだ断定はできない」
ゼノンは首を振った。
「でも、あの男は十一年前、百人の命を使って死を覆した」
ルイスが静かに続ける。
「……再び同じ禁術を使おうとしている可能性がある、と?」
「うん」
ゼノンは頷いた。
「……あの男なら、やりかねない」
セドリックが舌打ちする。
「……胸糞悪い話だな。失踪者の家族は、今も帰りを待っているんだぞ」
ゼノンは、夜の空を見上げた。
エドモンド。
ヴェロニカ。
ギルベルト。
そして、行方の分からないミア。
すべてが、少しずつ繋がり始めている。
けれど、まだ肝心な部分が見えていない。
「……急ごう」
ゼノンが静かに告げた。
「次の犠牲者が出る前に」
◇
その夜。
ドラクロワ家の本邸では、ギルベルトが書斎に籠もっていた。
机の上には、数枚の報告書が置かれている。
そのうちの一枚には、収容施設への調査について記されていた。
「……もう動いたか」
ギルベルトは低く呟いた。
ゼノン・ヴァルディエ。
アルベルト・アシュレイ。
そして、ベルフォート家。
想像していたよりも早い。
「……厄介な連中だ」
ギルベルトは、ゆっくりと椅子へ身体を預けた。
ヴェロニカの処刑を偽装したこと。
ミアを施設から逃がしたこと。
そのどちらも、自分が手を回した。
だが、証拠さえ残らなければ問題はないはずだった。
「……まさか、あの男が……」
ギルベルトは、収容施設の責任者の名が記された報告書を見つめた。
どうやら、口を割ったらしい。
「……愚か者め」
小さく吐き捨てる。
そのとき、書斎の扉が叩かれた。
「……旦那様」
執事の声だった。
「何だ」
「……お客様がお見えです」
ギルベルトは眉を寄せた。
「……この時間に?」
「はい。お名前は……」
執事は一瞬、言葉を躊躇した。
「……エドモンド様、と」
その瞬間。
ギルベルトの表情が変わった。
「……何?」
椅子から立ち上がる。
「……通せ」
執事が一礼し、扉を閉めた。
ギルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ようやく、来たか」
◇
数分後。
書斎の扉が開いた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
整った顔立ち、漆黒の髪。
穏やかな微笑み。
そして、深紅の瞳。
エドモンド・ヴァルディエ。
「……久しぶりだね、ギルベルト」
その声は、驚くほど柔らかかった。
ギルベルトは、男を睨みつけた。
「……エドモンド」
「そんな怖い顔をしないでおくれよ」
エドモンドは楽しそうに笑った。
「せっかく、会いに来たんだから」
ギルベルトは机の上の報告書を掴んだ。
「……王家が動き始めた」
「知っているよ」
エドモンドは、何でもないことのように答えた。
「……知っている?」
「ああ。ゼノンが随分と頑張っているようだね」
ギルベルトの眉が跳ねた。
「……笑い事ではない!」
エドモンドは首を傾げた。
「どうして?」
「このままでは、ドラクロワ家が……!」
「……ああ」
エドモンドは、ようやく理解したように頷いた。
「君は、家の心配をしているのか」
ギルベルトは唇を噛んだ。
「……当然だろう」
エドモンドは、ゆっくりと笑った。
「……相変わらずだね、ギルベルト」
その赤い瞳が、妖しく輝く。
「君はいつも、家の名誉ばかり気にしている割に、ドラクロワ家はいつも崖っぷちだ」
「……何が言いたい」
「別に?」
エドモンドは肩を竦めた。
「ただ、少し退屈だなと思っただけさ」
ギルベルトは、拳を握り締めた。
「……お前は、何も分かっていない」
「そうかな?」
エドモンドは微笑んだ。
「僕は、ちゃんと分かっているつもりだよ」
そして、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
「……ゼノンは、必ず僕を追ってくる」
その声が、少しだけ低くなった。
「そして、ルシアもね」
ギルベルトの表情が強張る。
「……あの王女か」
「そう」
エドモンドは、嬉しそうに微笑んだ。
「……ロゼリアの娘だよ」
その名前を口にした瞬間。
男の表情が、陶酔したように変わった。
「……きっと、素晴らしい血なんだろうなぁ……」
ギルベルトは黙っていた。
エドモンドは、ゆっくりと目を閉じた。
「……楽しみで仕方がないよ」
そして、再び目を開く。
「……もう少しだ」
その声は、ひどく優しかった。
「もう少しで、僕のもとへ来てくれる」
ギルベルトは、しばらくエドモンドを見つめていた。
やがて、低く尋ねる。
「……そのために、何をするつもりだ」
エドモンドは振り返った。
そして、静かに笑った。
「……簡単なことさ」
その赤い瞳が、妖しく輝く。
「……迎えに行くんだよ」
ギルベルトの背筋に、冷たいものが走った。
エドモンドは、楽しそうに続ける。
「……今度こそ、僕の大切なルシアをね」
窓の外では、月が静かに輝いていた。
その光を浴びながら、エドモンドは微笑んでいた。
まるで、待ち望んでいた恋人との再会を夢見るかのように。
けれど、その瞳に宿っていたのは、愛などではなかった。
ただ、底の知れない執着だけだった。




