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三家会談



 ヴァンパイア社会において、純血の家系は特別な存在だった。


 その中でも、長い歴史と強い権力を持つ三つの家がある。


 第一純血家、ヴァルディエ。


 第二純血家、ベルフォート。


 そして、ドラクロワ。


 三家の当主が一堂に会することは、決して珍しいことではない。


 しかし、今回の会談は、これまでとは意味が違っていた。


 ドラクロワ家に対する疑惑。


 処刑されたはずのヴェロニカの生存。


 収容施設から姿を消したミア。


 そして、最近相次いでいる人間の失踪事件。


 これらの問題について、ヴァルディエ家とベルフォート家が正式に説明を求めたのだ。


     ◇


 会談当日の朝。


 私は、ヴァルディエ家の屋敷にある自室で、鏡の前に立っていた。


「……本当に、行っちゃうんだ」


 小さく呟く。


 今日はお兄様が、ドラクロワ家の当主と会談する日だった。


 昨日、アルベルトからその話を聞いたとき、胸がざわついた。


 ヴェロニカ。


 エドモンド。


 ミア。


 最近になって、何度も耳にする名前。


 そのすべてが、少しずつ繋がり始めている。


 私は鏡に映る自分を見つめた。


 黒い髪。


 赤い瞳。


 ヴァルディエの血を受け継いだ証。


 あの人たちは、私の血を狙っている。


 そう考えるだけで、背筋が冷たくなった。


 そのとき。


 コンコン、と扉が叩かれた。


「ルシア、起きてる?」


「お兄様!」


 私は慌てて扉を開けた。


 そこには、黒い礼服を身にまとったお兄様が立っていた。


 普段の制服とは違う、格式のある装い。


 胸元には、ヴァルディエ王家の紋章が輝いている。


「……わあ」


 思わず声が漏れた。


 お兄様が首を傾げる。


「どうしたの?」


「……格好いい」


 口にしてから、急に恥ずかしくなった。


「……っ!」


 お兄様は少し驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


 その手が、私の頬へ伸びる。


「ルシアにそう言ってもらえると嬉しいな」


「……もう」


 顔が熱くなる。


 お兄様は楽しそうに笑ったあと、少しだけ真剣な表情になった。


「今日は、屋敷で待っていてね」


「……うん」


「アルもセドリックも会談に同行する。だから、いつもより警備を増やしてあるよ」


 私は小さく頷いた。


「……分かった」


「それから、今日はもう一人、君のそばにいてくれる人がいるんだ」


「……え?」


 そのときだった。


「ルシア!」


 廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。


 振り返ると、一人の少女が大きく手を振っていた。


「……エリーゼ!?」


 エリーゼ・ローレンツ。


 小さい時からの、大切な親友。


 彼女は嬉しそうに駆け寄ってくると、私の手を取った。


「久しぶりね、ルシア!」


「どうしてここに!?」


「ふふっ。今日からしばらく、ここでお世話になることになったの」


「……え?」


 私は目を丸くした。


 エリーゼの背後には、大きな鞄を抱えた使用人が何人も立っている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 ……四つ?


「……エリーゼ」


「何かしら?」


「……何泊するつもりなの?」


「そうね。あなたの安全が確認できるまでかしら」


「……それって、いつ?」


「さあ?」


「さあ!?」


 エリーゼは涼しい顔で笑った。


「いいじゃない。久しぶりに一緒に過ごせるんだもの」


「……それは嬉しいけど……」


「それに、私には大事なお仕事があるのよ」


「仕事?」


 エリーゼは胸を張った。


「あなたの護衛!」


「……ええっ!?」


 思わずお兄様を見る。


 お兄様は微笑んだ。


「僕からお願いしたんだ」


「……お兄様が?」


「うん。エリーゼなら、君も安心できると思って」


 エリーゼは得意げに頷いた。


「私の氷を甘く見ないでちょうだい」


 そう言って、人差し指を立てる。


 その先に、小さな氷の花が咲いた。


「あなたに手を出そうとする相手がいたら、足元からカチカチに凍らせてあげるわ」


「……頼もしい……!」


「でしょう?」


 私は思わず笑った。


 エリーゼも嬉しそうに笑い返す。


 その様子を見ていたお兄様が、少しだけ安心したように目を細めた。


「エリーゼ。ルシアをよろしくね」


「もちろんですわ」


 エリーゼは、真っ直ぐにお兄様を見つめた。


「ゼノンさん。ルシアを守りたいのは、あなただけではありません」


 お兄様の表情が僅かに変わった。


 エリーゼは私の手を取る。


「この子は、私の大切な親友です」


 私は思わず、エリーゼを見つめた。


「……エリーゼ……」


「だから、安心して行ってきてくださいませ」


 お兄様は静かに頷いた。


「……ありがとう」


     ◇


 王都の中心部。


 純血種の会談に使用される、古い迎賓館。


 重厚な扉の向こうには、長い歴史を感じさせる大広間が広がっていた。


 壁には歴代の純血家当主たちの肖像画が並び、中央には大きな円卓が置かれている。


 その一角に、ゼノンが座っていた。


 隣にはアルベルト。


 そして、セドリック。


 向かい側には、ベルフォート家の当主、レオナード・ベルフォートが座っている。


 整えられた銀髪。


 深い赤の瞳。


 落ち着いた物腰の中に、長年ヴァンパイア社会を統治してきた者の威厳があった。


 その隣には、妻イザベラと息子ルイスが控えている。


「久しいな、ゼノン」


 レオナードが声をかけた。


「ご無沙汰しています、レオナード卿」


「随分と物々しい会談になったものだ」


「……そうですね」


 ゼノンは静かに頷いた。


「ですが、見過ごすことのできない問題です」


 レオナードの表情が険しくなる。


「ヴェロニカの件か」


「それだけではありません」


 ゼノンは机の上へ、一枚の資料を置いた。


「収容施設の管理記録にも、不審な点が見つかっています」


 ルイスが資料へ視線を落とした。


「……処刑記録の改竄。それに、収容者の移送記録の欠落……」


 イザベラが静かに眉を寄せる。


「もし事実なら、重大な問題ですわね」


「はい」


 ゼノンが答える。


「だからこそ、今日は本人から説明を聞きたいと思っています」


 そのとき。


 大広間の扉が開いた。


「……お待たせいたしました」


 穏やかな声が響く。


 入ってきたのは、一人の中年の男だった。


 整えられた灰色の髪。


 柔らかな笑み。


 上質な礼服を身にまとい、その立ち居振る舞いには隙がない。


 ギルベルト・ドラクロワ。


 ドラクロワ家当主。


 ヴェロニカとレティシアの父親だった。


「このような正式な場へお招きいただくとは、光栄にございます」


 ギルベルトは優雅に一礼した。


 ゼノンは、その男を静かに見つめていた。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


「いえ。王家からのお呼び出しとあれば、何を置いても参りますとも」


 ギルベルトは微笑んだ。


 その表情には、少しの動揺も見られない。


 まるで、今日の会談が何についてのものなのか、まったく知らないかのようだった。


     ◇


「では、早速本題に入りましょう」


 ゼノンが口を開いた。


 ギルベルトは穏やかに頷く。


「何なりと」


「あなたの長女、ヴェロニカについてです」


 その名前が出た瞬間。


 ギルベルトの指先が、僅かに動いた。


 けれど、表情は変わらない。


「……ヴェロニカ、ですか」


「はい」


「娘は、すでに処刑されたはずですが」


 ゼノンは静かに答えた。


「生きていますよ」


 広間の空気が、僅かに張り詰めた。


 ギルベルトは目を丸くした。


「……何と?」


「昨日、僕自身が確認しました」


 ゼノンの声は穏やかだった。


「森で、ヴェロニカと会いました」


 ギルベルトはしばらく黙った。


 それから、ゆっくりと首を振る。


「……信じられませんな」


「そうですか?」


「ええ。娘の処刑については、正式な報告を受けております。まさか、そのようなことが……」


 レオナードが口を開いた。


「ギルベルト卿」


「はい」


「処刑記録に、不自然な点が見つかっている」


 ギルベルトの笑みが僅かに薄れた。


「……不自然な点?」


「執行に立ち会った者の署名が一致しない。さらに、当日の監視記録にも欠落がある」


 レオナードは資料を机へ置いた。


「説明してもらおう」


 ギルベルトは資料を眺めた。


 しばらくして、困ったように眉を下げる。


「……これは、施設側の管理不備では?」


「管理不備で済む問題ではありません」


 ルイスが静かに言った。


「処刑されたはずの人物が生きているのですから」


 ギルベルトはルイスへ視線を向けた。


「……若い方は、少々結論を急がれるようだ」


 ルイスは表情を変えなかった。


「事実を確認しているだけです」


 その言葉に、ギルベルトは僅かに目を細めた。


 ゼノンが続ける。


「それから、もう一つ」


 新たな資料が机へ置かれた。


「ミアという少女をご存じですか?」


 ギルベルトは首を傾げた。


「……ミア?」


「ヴァンパイアへ変えられた元人間の少女です。現在、収容施設から姿を消しています」


「……それは、何ともお気の毒なことですな」


「その少女も、あなたの関係者が出入りしていた施設に収容されていました」


 ギルベルトの笑みが消えた。


 ほんの一瞬。


 しかし、ゼノンは見逃さなかった。


「……何が仰りたいのでしょう?」


「二人とも、同じ施設の関係者を通じて外へ出された可能性があります」


 ゼノンは静かに告げた。


「あなたの関与を疑っています」


 ギルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。


「……随分と、恐ろしい疑いをかけられたものですな」


「否定されますか?」


「当然でしょう」


 ギルベルトは微笑んだ。


「私は、法を重んじる純血家の当主です。そのような不正に関わるはずがありません」


 そのとき。


 アルベルトが、初めて口を開いた。


「……ギルベルト」


 男の視線が向けられる。


「お前の娘に人生を壊された子供がいる」


 ギルベルトの表情が僅かに変わった。


「……何のことでしょう」


「クレイド・ハーウェルだ」


 その名前に、ギルベルトの瞳が揺れた。


「……ああ」


 彼は思い出したように頷く。


「以前、娘が関わった事件の被害者ですな」


「関わった、だと?」


 アルベルトの声が低くなる。


「お前の娘は、あの子を攫い、人生を奪ったんだ」


 ギルベルトは困ったように眉を下げた。


「……娘の行いについては、私も深く反省しております」


「反省?」


 アルベルトの瞳が鋭くなる。


「本当に反省しているなら、なぜ処刑されたはずの娘が生きている?」


 ギルベルトは答えなかった。


 ゼノンが静かに続ける。


「ギルベルト卿」


「……はい」


「あなたの娘は、十一年前のヴァルディエ家襲撃にも関わっていました」


 ギルベルトの顔から、笑みが消えた。


「……何ですと?」


「父上と母上を殺したエドモンドと、ヴェロニカは行動を共にしていたんです」


 ゼノンの赤い瞳が、冷たく細められる。


「そして昨日も、二人は一緒にいました」


 ギルベルトは黙った。


 レオナードが静かに口を開く。


「ギルベルト卿。ここまでの疑惑が出ている以上、正式な調査は避けられない」


「……調査、ですか」


「ああ。ドラクロワ家の関係者と収容施設の記録を調べる」


 ギルベルトの指先が、机の上で僅かに動いた。


「……それは、少々行き過ぎではありませんかな」


 ゼノンは微笑んだ。


「何か、不都合でも?」


 ギルベルトの表情が強張った。


「……いえ」


「では、ご協力いただけますね?」


 長い沈黙。


 やがて、ギルベルトはゆっくりと頭を下げた。


「……もちろんでございます」


 けれど。


 その伏せられた瞳には、冷たい光が宿っていた。


     ◇


 会談が終わったあと。


 ギルベルトは迎賓館の廊下を歩いていた。


 先ほどまでの穏やかな笑みは、すでに消えている。


「……忌々しい」


 小さく呟く。


 ヴェロニカの処刑偽装。


 ミアの釈放。


 すべて、自分が手を回したことだった。


 娘を処刑させるつもりなど、最初からなかった。


 そしてミアも、エドモンドの計画に必要な駒として解放した。


 だが、それを王家に知られるわけにはいかない。


「……ゼノン・ヴァルディエ」


 ギルベルトは低く名前を呼んだ。


「……随分と厄介な男になったものだ」


 その足取りは、先ほどまでの優雅なものとは違っていた。


 廊下の角を曲がったところで、ギルベルトは懐から小さな通信機を取り出した。


 周囲に人の気配がないことを確かめ、通信を繋ぐ。


「……私だ」


 しばらくして、若い女の声が返ってきた。


『お父様?』


「レティシアか」


『会談は終わったのですか?』


「ああ。今しがたな」


『それで……ゼノン様は?』


 ギルベルトの眉が僅かに動いた。


「……あの男のことばかりだな、お前は」


『だって……!』


 通信の向こうで、レティシアが慌てたように声を上げる。


『ゼノン様は、何と仰っていました? 私のことは……?』


「お前の話などしていない」


『……そう、ですか……』


 露骨に落胆した声が返ってくる。


 ギルベルトは小さく息を吐いた。


「レティシア。今はそれどころではない」


『……何かあったのですか?』


「ヴェロニカの生存が、両家に知られた」


 通信の向こうが静かになった。


『……お姉様の……?』


「ああ。それだけではない。ミアの件も疑われている」


『……そんな……』


「近いうちに、ドラクロワ家と収容施設へ正式な調査が入るだろう」


 レティシアは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さな声で尋ねる。


『……ゼノン様が、調べているのですか?』


「そうだ」


『……』


「お前も、余計なことはするな。分かったな?」


『……はい、お父様』


 ギルベルトは通信を切ろうとした。


 しかし、その直前。


『……お父様』


「何だ」


『……ルシア様は、今もゼノン様と一緒に暮らしているのですか?』


 ギルベルトの表情が変わった。


「……なぜ、そんなことを聞く」


『……いえ。ただ……』


 レティシアの声が小さくなる。


『ゼノン様は、あの方をとても大切にしていらっしゃると聞きましたので……』


「……」


『……羨ましいな、と思っただけです』


 ギルベルトは、ゆっくりと目を細めた。


「……レティシア」


『はい』


「ゼノン・ヴァルディエに近づきたいのなら、今は大人しくしていろ」


『……え?』


「王家に疑われている今、お前まで目立つ行動をすれば、ますます立場が悪くなる」


『……分かっています』


 ギルベルトは通信を切った。


 しばらく、その場に立ち尽くす。


「……まったく」


 娘たちは、どうしてこうも厄介な男に惹かれるのだろう。


 ヴェロニカはエドモンドに。


 レティシアはゼノンに。


 そして、どちらも自分の思いどおりにはならない。


「……使えるものは、すべて使わねばならんか」


 ギルベルトは低く呟いた。


 その瞳には、冷たい計算が宿っていた。


     ◇


 王都から遠く離れた、ドラクロワ家の別邸。


 広い庭園に囲まれた屋敷の一室で、レティシア・ドラクロワは通信機を握り締めていた。


 美しく整えられた長い髪。


 上品なドレス。


 その姿は、純血貴族の令嬢そのものだった。


 けれど、今の彼女の表情には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。


「……ルシア・ヴァルディエ」


 小さく名前を呟く。


 第一純血家の王女。


 ゼノンの妹。


 そして、彼が誰よりも大切にしている少女。


「……どうして、あの子なの……?」


 レティシアは窓の外へ視線を向けた。


 幼い頃から、ゼノンに憧れていた。


 誰よりも美しく、誰よりも強い。


 穏やかな笑顔の奥に、圧倒的な力を秘めた純血の王子。


 何度も会いたいと願った。


 少しでも近づきたかった。


 けれど、ゼノンの視線はいつも自分を通り過ぎていく。


 その先にいるのは、決まって一人の少女だった。


「……ルシア……」


 レティシアは唇を噛んだ。


 以前は、ただの人間の少女だと思っていた。


 ゼノンが妙に可愛がっている、アルベルトの養女。


 それだけの存在だと思っていた。


 けれど、違った。


 あの少女こそ、ヴァルディエ王家の王女。


 そして、ゼノンの伴侶となることを定められた存在だった。


「……そんなの……」


 レティシアは、ぎゅっと通信機を握り締めた。


「……ずるいわ……」


 生まれたときから、ゼノンの隣にいることを許されている。


 自分がどれほど望んでも手に入らない場所を、あの少女は最初から与えられている。


 それが、どうしても許せなかった。


 そのとき。


「……レティシア様?」


 背後から声がした。


 振り返ると、扉の前に一人の少女が立っていた。


 ミアだった。


 かつて、ルシアの親友だった少女。


 今はヴァンパイアとなり、ドラクロワ家に匿われている。


「……ミア」


 レティシアは、すぐに表情を整えた。


「どうしたの?」


「……お姉様は、まだ戻らないんですか?」


 レティシアの瞳が僅かに揺れた。


「……ヴェロニカお姉様?」


「はい」


「……まだよ」


 ミアは少しだけ俯いた。


「……そうですか」


 レティシアは、そんな彼女を見つめた。


 ミアは、以前よりもずっと大人しくなっていた。


 けれど、その赤い瞳には、時折ひどく危うい光が宿る。


「……ミア」


「……はい?」


「あなた、ルシアのことをどう思っているの?」


 その名前が出た瞬間。


 ミアの表情が変わった。


「……ルシア……?」


 小さく名前を繰り返す。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……会いたいです」


 レティシアは眉を寄せた。


「……会いたい?」


「はい」


 ミアは、うっとりと目を細めた。


「……また、会いたい」


 その声には、奇妙な熱が宿っていた。


「……あの子の血……」


 ミアは、自分の唇へ指先を当てた。


「……すごく、美味しかったんです」


 レティシアの背筋に、僅かな寒気が走った。


「……ミア?」


「……今でも、覚えてるんです」


 ミアは目を閉じた。


 その表情は、まるで大切な思い出を振り返っているかのようだった。


「……甘くて……温かくて……」


 唇が、ゆっくりと弧を描く。


「……飲んだ瞬間、身体の奥まで満たされるような……」


 ミアは小さく笑った。


「……あんな血、初めてでした」


 レティシアは何も答えなかった。


 ミアは、さらに続ける。


「……また、飲みたいな……」


 その赤い瞳が、ゆっくりと開かれる。


「……ルシアの血……」


 レティシアは、しばらく彼女を見つめていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……だったら、協力してくれる?」


 ミアが顔を上げた。


「……協力?」


「ええ」


 レティシアは微笑んだ。


「私も、ルシアには少し用があるの」


「……ルシアに?」


「そうよ」


 レティシアは窓の外へ視線を向けた。


「……あの子がいなければ、ゼノン様は……」


 そこまで言って、言葉を止めた。


 ミアが首を傾げる。


「……ゼノン様?」


「……何でもないわ」


 レティシアは微笑んだ。


「とにかく、ルシアをここへ連れてきたいの」


 ミアの赤い瞳が、僅かに輝いた。


「……連れてくる……?」


「ええ」


「……そしたら……」


 ミアは、期待に満ちた声で尋ねた。


「……また、血を飲んでもいいんですか?」


 レティシアは少しだけ考えた。


 そして、ゆっくりと微笑む。


「……そうね」


 その言葉に、ミアの顔が明るくなった。


「……本当ですか!?」


「ただし、殺しては駄目よ」


 レティシアの声が、少しだけ低くなる。


「ルシアには、生きたままでいてもらわないと困るの」


 ミアは、しばらく黙っていた。


 やがて、嬉しそうに頷く。


「……分かりました」


 その赤い瞳が、妖しく輝く。


「……少しだけなら、いいんですよね?」


 レティシアは答えなかった。


 ただ、静かに微笑んでいた。


     ◇


 その頃。


 ヴァルディエ家の屋敷では、ルシアとエリーゼが庭園を歩いていた。


「……ねえ、エリーゼ」


「何かしら?」


「……本当に、ずっとここにいてくれるの?」


 エリーゼは当然のように頷いた。


「ええ。あなたの安全が確認できるまで、ここで暮らすつもりよ」


「……でも、学園は?」


「もちろん通うわ。あなたと一緒にね」


 私は思わず笑った。


「……そっか」


 エリーゼも微笑んだ。


「それに、久しぶりに一緒に過ごせるんだもの。私としては嬉しいくらいよ」


「……私も!」


 私はエリーゼの手を取った。


「……ありがとう、エリーゼ」


「どういたしまして」


 エリーゼは、優しく笑った。


 その足元では、ルナが嬉しそうに尻尾を振っている。


「……まあ」


 エリーゼがしゃがみ込んだ。


「ルナも元気そうね」


 白狼は、エリーゼの手に鼻先を寄せた。


「ふふっ。相変わらず可愛いわね」


 私は嬉しくなって笑った。


「でしょ?」


 エリーゼはルナの頭を撫でながら、ふと真剣な表情になった。


「……ルシア」


「……何?」


「……怖くない?」


 私は少しだけ黙った。


「……何が?」


「最近のこと、全部よ」


 エリーゼは私を見つめた。


「エドモンドのことも、ミアのことも……」


 胸の奥が、僅かに痛んだ。


「……怖いよ」


 私は正直に答えた。


「……すごく、怖い」


 エリーゼは何も言わなかった。


「でも……」


 私は、ルナの頭を撫でた。


「……もう、逃げたくないの」


 エリーゼの瞳が揺れた。


「……ルシア」


「お兄様も、みんなも、私を守ってくれてる。だから、私も強くなりたい」


 私は顔を上げた。


「……いつか、私も誰かを守れるようになりたいの」


 エリーゼは、しばらく私を見つめていた。


 やがて、静かに微笑んだ。


「……あなたらしいわね」


「……え?」


「昔からそうだったもの。怖がりなくせに、誰かのためなら頑張っちゃうところ」


 私は少しだけ頬を膨らませた。


「……怖がりって……」


「ふふっ。褒めてるのよ」


 エリーゼは私の手を握った。


「……大丈夫」


 その声は、優しかった。


「あなたは一人じゃないわ」


 私は、エリーゼを見つめた。


「……うん」


「私もいる。ゼノンさんも、みんなもいる」


 エリーゼは微笑んだ。


「だから、何かあったら必ず頼ってね」


 私は小さく頷いた。


「……ありがとう」


 そのとき、ルナが突然顔を上げた。


「……ルナ?」


 白狼の耳が、ぴくりと動く。


 そして、屋敷の門の方へ視線を向けた。


 私は首を傾げた。


「……どうしたの?」


 ルナは、しばらく門の方を見つめていた。


 けれど、やがて何事もなかったかのように私の足元へ戻ってきた。


「……気のせい、かな?」


 エリーゼが微笑んだ。


「きっと、誰かが通ったのよ」


「……そうだね」


 私は小さく笑った。


 けれど。


 ルナが見つめていた門の向こう。


 遠く離れた木々の陰で、一人の男が静かに通信機を取り出していた。


「……確認しました」


 低い声が響く。


「ルシア・ヴァルディエは、現在も屋敷におります」


 通信の向こうから、女の声が返ってきた。


『……そう』


 レティシアだった。


『護衛は?』


「屋敷の周囲に複数名。さらに、少女が一人、常に傍についております」


『……少女?』


「氷を操るヴァンパイアです」


 レティシアは、しばらく黙った。


 やがて、静かに答えた。


『……分かったわ』


 その声には、冷たい響きがあった。


『引き続き、様子を見ていてちょうだい』


「承知しました」


 通信が切れる。


 男は、もう一度屋敷へ視線を向けた。


 そして、静かに木々の奥へ姿を消した。


     ◇


 同じ頃。


 レティシアは通信機を置き、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。


「……エリーゼ・ローレンツ」


 小さく名前を呟く。


 ルシアの親友。


 氷を操る少女。


 そして、今はルシアの護衛。


「……邪魔な子ね」


 レティシアは、静かに微笑んだ。


 その背後では、ミアが嬉しそうに笑っている。


「……ルシアに、会えるんですか?」


 レティシアは振り返った。


「……ええ」


 ミアの赤い瞳が輝く。


「……いつ?」


「もう少しよ」


 レティシアは、ゆっくりと目を細めた。


「……準備が整ったら、迎えに行きましょう」


 ミアは、うっとりと微笑んだ。


「……楽しみ……」


 その唇から、小さな声が漏れる。


「……また、ルシアの血が飲めるんだ……」


 ミアは、うっとりとした表情で呟いた。


 その声には、かつて親友だった少女への懐かしさなど、ほとんど感じられなかった。


 あるのは、ただ一つ。


 もう一度、あの血を味わいたいという欲求だけだった。


「……ねえ、レティシア様」


「何かしら?」


 ミアは窓辺に腰掛けたまま、楽しそうに足を揺らしていた。


「ルシアって、純血のヴァンパイアなんですよね?」


「ええ。第一純血家ヴァルディエの王女よ」


「ふふっ。やっぱり!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「だから、あんなに強いんですね!」


 レティシアは眉を寄せた。


「……強い?」


「はい!」


 ミアは自分の指先を見つめながら、楽しそうに続けた。


「だって、純血種のつよ〜いヴァンパイアだから、ちょっとくらい傷つけても死なないでしょう?」


 その声は、まるで友達との楽しい思い出を話しているかのようだった。


「……ミア?」


「前にルシアと遊んだときも、そう思ったんです」


 ミアはくすくすと笑った。


「普通の人間だったら死んじゃうようなことでも、ルシアは跡も残さず綺麗に治っちゃうし!」


 レティシアは黙って彼女を見つめた。


「……それで?」


「ルシアが暴れた時、沢山刺しちゃってたんです。それでも治って、生きてるんですよ?」


 あまりにも無邪気な返事だった。


 ミアは、うっとりと目を細めた。


「それに、ルシアの血って本当に美味しいんです」


 唇を指先でなぞる。


「甘くて、濃くて……飲んだ瞬間、身体がぽかぽかして……私がルシアの事大好きだからかなぁ?」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「また飲みたいなぁ……」


 レティシアは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ミア。ルシアは生きたまま連れてくるのよ」


「分かってます!」


 ミアは元気よく頷いた。


「つよーい純血種だから、ちょっとやそっとじゃ死なないですもんね!」


「……そういう意味ではないわ」


「え?」


 レティシアはミアを真っ直ぐ見つめた。


「心臓を破壊されれば、純血種でも死ぬの。絶対に殺しては駄目よ」


 ミアは少しだけ考えた。


 それから、ぱっと笑顔になる。


「じゃあ、心臓は傷つけなければいいんですね!」


 レティシアは一瞬、言葉を失った。


 ミアは嬉しそうに両手を合わせる。


「よかったぁ! それなら、またいっぱい遊べそう!」


 その笑顔には、悪意らしい悪意さえ感じられなかった。


 だからこそ、恐ろしかった。


「……早く会いたいなぁ、ルシア」


 ミアは窓の外を見つめた。


「今度は、もっといっぱい血を飲ませてね?」


 月明かりの下で、少女は幸せそうに微笑んでいた。

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