↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
69/92

それぞれの決意



 翌朝。


 ヴァルディエ家の屋敷には、柔らかな朝日が差し込んでいた。


 昨夜の騒ぎが嘘だったかのように、庭園では小鳥が鳴き、使用人たちが朝食の準備を進めている。


 私は自室の窓辺に立ち、大きく伸びをした。


「んーっ……!」


 昨日は、なかなか眠れなかった。


 お兄様が無事に帰ってきてくれた安心感と、エドモンドが生きていたという恐怖。


 その二つが胸の中で入り混じって、何度も目が覚めてしまった。


 けれど、いつまでも怖がってばかりはいられない。


 今日から、私の訓練が始まるのだから。


「……よし!」


 両手で頬を軽く叩く。


「頑張ろう!」


 そのとき、足元の影がふわりと揺れた。


 白い毛並みが現れ、赤い瞳が私を見上げる。


「ルナ!」


 私が名前を呼ぶと、ルナは嬉しそうに尻尾を振った。


「おはよう!」


 しゃがみ込んで頭を撫でると、ルナは気持ちよさそうに目を細めた。


 ルナは私の分身。


 普段は影の中へ入り、必要なときに姿を現す。


 そして、どれほど離れた場所にいても、影を通って私のもとへ戻ってくることができる。


 昨夜も、森でお兄様を守ったあと、こうして帰ってきてくれた。


「昨日はありがとうね」


 ルナの首へ腕を回す。


「お兄様を守ってくれて」


 ルナは小さく鼻を鳴らし、私の頬へ鼻先を押しつけた。


「ふふっ、くすぐったい!」


 そのとき、扉が叩かれた。


「ルシア、起きてる?」


 聞き慣れた声。


「お兄様!」


 私は立ち上がり、扉を開けた。


 そこには、いつもと変わらない穏やかな笑顔のお兄様が立っていた。


「おはよう、ルシア」


「おはよう、お兄様!」


「よく眠れた?」


「うん! ……ちょっとだけ寝不足だけど」


「そっか。無理しないでね」


 お兄様は私の頭を優しく撫でた。


「今日は訓練するんでしょ?」


「うん!」


「じゃあ、朝ごはんを食べてから始めようか」


 私は大きく頷いた。


     ◇


 朝食を終えたあと、私たちは屋敷の庭園へ向かった。


 広い芝生の向こうには、木々に囲まれた訓練場がある。


 そこにはすでに、セドリックさんとラビが待っていた。


「おっ、主役の登場!」


 セドリックさんが手を振る。


「おはよう、ルシアちゃん!」


「おはよう!」


 ラビも笑顔で迎えてくれた。


「おはよう。今日はよろしくね」


「うん! よろしく、ラビ!」


 お兄様が私の隣へ立つ。


「じゃあ、始めようか」


 その足元の影が、ゆっくりと揺れた。


 そこから、一匹の黒狼が姿を現す。


「あ、ガル!」


 私は嬉しくなって駆け寄った。


 漆黒の毛並み。


 深紅の瞳。


 お兄様が以前から生み出していた黒狼の分身。


 ガルは私を見つけると、嬉しそうに尻尾を振った。


「おはよう、ガル!」


 頭を撫でると、ガルは私の手へ鼻先を押しつけてくる。


「ふふっ、今日も可愛いね!」


 そのとき。


 ガルの隣で、もう一つの影が揺れた。


「……あれ?」


 黒い毛並みが、ゆっくりと形を取っていく。


 現れたのは、もう一匹の黒狼だった。


「……えっ?」


 私は目を丸くした。


 二匹。


 同じ漆黒の毛並み。


 同じ赤い瞳。


 大きさも、顔つきも、ほとんど同じ。


「……お兄様?」


「何?」


「……ガルが、二匹いる……」


 お兄様は楽しそうに笑った。


「ふふっ。増えたんだよ」


「増えた!?」


「うん。少し前から、二匹出せるようになったんだ」


 私は二匹を交互に見つめた。


 右。


 左。


 もう一度、右。


「……えっと……」


 お兄様が首を傾げる。


「どうしたの?」


「……どっちがガル?」


 セドリックさんが吹き出した。


「ぶはっ! 確かにそっくりだな!」


「だって! 全然分かんないんだもん!」


 私は困り果てて二匹を見つめた。


 すると、右側の黒狼が嬉しそうに尻尾を振る。


「……こっち?」


「残念」


 お兄様が笑った。


「そっちは新しい子だよ」


「ええっ!?」


 私は慌てて左側を見る。


「じゃあ、こっちがガル!?」


「正解」


 ガルは、まるで当然だと言いたげに私を見上げていた。


「もう! そっくりすぎるよ!」


 すると、新しい黒狼が私の手へ鼻先を寄せてきた。


「……あ」


 私は、その頭を撫でた。


 黒狼は嬉しそうに目を細める。


「……そうだ!」


 私は顔を上げた。


「お兄様! この子にも名前つけなきゃ!」


「名前?」


「うん! ガルだけ名前があるのは可哀想でしょ?」


 お兄様は少し考えてから頷いた。


「……確かに、そうだね」


「うーん……」


 私は新しい黒狼を見つめた。


 強そうで。


 格好よくて。


 でも、可愛い名前。


 しばらく考えてから、ぱっと顔を上げる。


「……レオ!」


「レオ?」


「うん! この子はレオにする!」


 お兄様は新しい黒狼へ視線を向けた。


「どう? レオだって」


 すると、黒狼は嬉しそうに尻尾を振った。


「わっ! 気に入ってくれたみたい!」


 私は嬉しくなって、レオの首へ抱きついた。


「よろしくね、レオ!」


 そのとき。


 隣にいたガルが、ぐいっと私の腕へ頭を押しつけてきた。


「……ガル?」


 ガルは、じっと私を見上げている。


 まるで、自分も撫でてほしいと言っているみたいだった。


「ふふっ。ガルもおいで!」


 私は両手を広げ、二匹を一緒に抱き締めた。


 セドリックさんが楽しそうに笑う。


「おいおい、ゼノン。お前の分身、すっかりルシアちゃんに夢中じゃん」


 お兄様は小さく笑った。


「……仕方ないよ」


「何が?」


「僕だって、ルシアが大好きだからね」


「……っ!」


 突然そんなことを言われて、顔が熱くなった。


「も、もう! お兄様!」


 セドリックさんが大笑いする。


「はははっ! 相変わらずだな、お前!」


 その足元では、ルナまで姿を現していた。


 白狼が二匹の黒狼の間へ入り、嬉しそうに尻尾を振る。


「……ふふっ」


 私は三匹を見つめて笑った。


「これからは、ガルとレオとルナだね!」


 お兄様も頷いた。


「うん。賑やかになりそうだね」


     ◇


「さて、そろそろ始めようか」


 ラビの声で、私たちは訓練場の中央へ移動した。


「今日は、ルナとの連携を中心に練習するよ」


「うん!」


 ラビは少し離れた場所へ歩いていった。


「まずは、ルナに僕の動きを追ってもらおうか」


 私は頷いた。


「ルナ、お願い!」


 白狼が静かに立ち上がる。


 ラビは笑った。


「じゃあ、いくよ」


 次の瞬間。


 ラビの姿が消えた。


「……っ!」


 透明化。


 ラビの異能だ。


 私はすぐに目を閉じ、ルナへ意識を向けた。


 視界が切り替わる。


 低い位置から見える芝生。


 風に揺れる草。


 そして、かすかな足音。


 ラビの姿は見えない。


 けれど、ルナの嗅覚と聴覚を通して、その位置が少しずつ分かってくる。


「……右!」


 私が声を上げると、ルナが右へ駆けた。


 その瞬間。


「正解!」


 ラビの姿が現れた。


 私は嬉しくなって笑った。


「やった!」


「うん、いい感じだね」


 ラビは頷いた。


「でも、今のはルナの感覚に集中しすぎて、自分の周りが見えてなかったよ」


「……あ」


 確かに。


 ラビを探すことに夢中で、自分の背後にはまったく注意していなかった。


「実戦では、そこが危険になる」


 ラビは私の背後を指さした。


「例えば、僕がもう一人いたらどうする?」


「……もう一人?」


 その瞬間。


 背後から、セドリックさんの声がした。


「はい、捕まえた!」


「きゃっ!?」


 振り返ると、いつの間にかセドリックさんが立っていた。


 肩へ軽く手を置かれている。


「……いつの間に!?」


「さっきからずっと後ろにいたぜ?」


「ええっ!?」


 セドリックさんが楽しそうに笑う。


「敵が一人とは限らないからな」


 私は悔しくなって頬を膨らませた。


「……もう一回!」


 ラビが笑った。


「いいよ。じゃあ、次は少し難しくしようか」


     ◇


 それから何度も訓練を繰り返した。


 ルナの視界を借りながら、自分の周囲にも注意を向ける。


 ルナを遠くへ走らせ、自分は別の方向へ動く。


 そして、危険を感じたらすぐに距離を取る。


 最初は何度も失敗した。


 けれど、少しずつできるようになってきた。


「……はぁっ……!」


 私は膝に手をつき、息を整えた。


「……疲れた……」


 お兄様が近づいてくる。


「今日はこのくらいにしようか」


「……まだできる!」


「ルシア」


 お兄様は困ったように笑った。


「頑張るのはいいけど、無理はしないって約束したでしょ?」


「……う」


 私は言葉に詰まった。


 確かに、昨日約束したばかりだ。


「……分かった」


 しぶしぶ頷くと、お兄様は嬉しそうに微笑んだ。


「いい子だね」


「……子供扱いしないでよ」


「ふふっ。ごめんね」


 お兄様は私の頭を撫でた。


 そのとき、アルベルトが訓練場へやって来た。


「ゼノン」


 その声に、お兄様が振り返る。


「……アル?」


 アルベルトの表情は、いつになく険しかった。


「少し話がある」


 お兄様はすぐに頷いた。


「……分かりました」


 私は二人を見つめた。


「……何かあったの?」


 アルベルトは一瞬、私へ視線を向けた。


 そして、静かに答えた。


「クレイドのことだ」


「……クレイド?」


 胸の奥が、僅かにざわついた。


     ◇


 その日の午後。


 私たちは、アルベルトの家へ向かっていた。


 馬車の窓から見慣れた街並みが見え始めた頃、胸の奥が落ち着かなくなった。


 何度も通った道。


 よく立ち寄った店。


 昔は何も考えずに歩いていた場所なのに、今は窓の外を見るだけで緊張してしまう。


「……ルシア?」


 隣に座っていたお兄様が、私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」


「……うん」


 そう答えたけれど、声が少し震えてしまった。


 お兄様は何も言わず、私の手を握ってくれた。


 その温もりに、少しだけ安心する。


 アルベルトの家。


 十一年間、私が暮らしていた場所。


 アルベルトとクレイドがいて、学校から帰ればいつも誰かが迎えてくれた。


 楽しい思い出が、たくさんある。


 けれど。


 あの家には、もう一つの記憶が残っている。


 ミア。


 私の親友だった女の子。


 ヴァンパイアになった彼女と、あの家で過ごした。


 そして、あの日。


 私はミアに襲われた。


 殺されかけた。


 あのときの恐怖は、今でも鮮明に覚えている。


 それ以来、私はあの家へ帰ることができなくなった。


 帰りたくないわけじゃない。


 アルベルトにも、クレイドにも会いたい。


 けれど、あの家を思い浮かべるだけで、胸が苦しくなる。


「……無理しなくていいよ」


 お兄様が静かに言った。


 私は顔を上げた。


「……え?」


「クレイドには、別の場所で会うこともできる。君が辛い思いをしてまで、あの家に行く必要はないんだよ」


 お兄様は優しく微笑んだ。


「僕がクレイドを呼んでもいいし、アルに頼んでもいい」


 私は、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと首を振った。


「……行きたい」


「ルシア」


「……怖いけど、行きたいの」


 私は、お兄様の手を握り返した。


「だって、あそこは私の家でもあるから」


 お兄様の赤い瞳が、僅かに揺れた。


「……うん」


 その手が、私の手を優しく包む。


「じゃあ、一緒に行こう」


 私は小さく頷いた。


     ◇


  馬車が、見慣れた屋敷の前で止まった。


 門を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 懐かしい。


 何度も帰ってきた場所。


 それなのに、足が動かなかった。


「……ルシア?」


 お兄様が声をかける。


「……ごめん。ちょっと……」


 息が浅くなる。


 頭の奥で、あの日の光景が蘇った。


 ミアの赤い瞳。


 私へ伸ばされた手。


 逃げようとしても、逃げられなかった恐怖。


『ルシア……』


 あの声が、耳元で聞こえた気がした。


「……っ!」


 私は思わず、お兄様の腕を掴んだ。


「……ルシア!」


 お兄様が、すぐに私を抱き寄せる。


「大丈夫。僕がいるよ」


 その声に、少しずつ現実へ意識が戻ってくる。


 私はお兄様の服を握り締めた。


「……ごめんなさい……」


「謝らなくていい」


 お兄様は私の背中を優しく撫でた。


「怖いなら、今日は帰ろう」


 私は首を振ろうとした。


 けれど、身体が動かなかった。


 行きたい。


 クレイドに会いたい。


 あの家に、もう一度帰りたい。


 それなのに。


「……足が……動かない……」


 涙が零れた。


 お兄様は、私を強く抱き締めた。


「……うん。分かった」


 そして、私の髪を撫でながら囁いた。


「今日は、ここまでにしよう」


 私は何も答えられなかった。


 ただ、お兄様の胸元へ顔を埋めた。


 そのときだった。


「……ルシア?」


 聞き慣れた声がした。


 顔を上げる。


 門の向こうに、クレイドが立っていた。


 私を見つけた彼は、驚いたように目を見開いている。


「……お前、どうして……」


「……クレイド……」


 名前を呼んだ瞬間、また涙が溢れた。


 クレイドは私の様子を見ると、すぐに表情を変えた。


 そして、ゆっくりと門を開けた。


「……無理して入ってこなくていい」


 私は顔を上げた。


「……え?」


「ここが怖いんだろ」


 クレイドは静かに言った。


「……分かってるよ」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


「……クレイド……」


「別に、家に入らなくたって会えるだろ」


 彼は少しだけ笑った。


「俺がそっちに行けばいいんだから」


 そう言って、門の外へ出てきた。


 昔と変わらない、ぶっきらぼうな優しさ。


 私は涙を拭いながら、小さく笑った。


「……ありがとう」


 クレイドは照れくさそうに目を逸らした。


「……別に」


 お兄様が、私の肩を優しく抱いた。


 私はもう一度、屋敷を見上げた。


 まだ、怖い。


 きっと、すぐには帰れない。


 けれど。


 いつか、また。


 あの家を、ただ懐かしいと思える日が来たらいい。


 そう思った。


     ◇


「……それで?」


 クレイドが、私たちを交互に見た。


「わざわざ三人で来たってことは、何か用があるんだろ?」


 その声に、私は顔を上げた。


 お兄様の隣には、アルベルトも立っていた。


 アルベルトは少しだけ黙り、それから静かに口を開いた。


「……クレイド。話がある」


「……何だよ」


「ここでは何だ。少し歩こう」


 クレイドは怪訝そうに眉を寄せた。


 けれど、私の顔を一度見てから頷いた。


「……分かった」


 私たちは門から少し離れた、小さな公園へ向かった。


 昔、クレイドとよく遊んだ場所だった。


 木々に囲まれたベンチ。


 見慣れた噴水。


 あの頃と変わらない景色に、胸が少しだけ温かくなる。


 私はベンチへ腰を下ろした。


 お兄様が隣に座り、アルベルトとクレイドは向かい側に立っている。


「……それで?」


 クレイドが再び尋ねた。


「何の話だよ」

 アルベルトは、しばらくクレイドを見つめていた。


 その表情は、いつになく険しかった。


「……落ち着いて聞いてくれ」


「……何だよ、改まって」


 アルベルトは一度、深く息を吐いた。


「ヴェロニカが、生きていた」


 その瞬間、クレイドの表情が凍りついた。


「…………は?」


 長い沈黙が流れた。


「……今、何て言った?」


「ヴェロニカは生きていたんだ」


 クレイドの唇が、僅かに震えた。


「……嘘だろ」


 誰も答えなかった。


「……だって、あいつは……!」


 クレイドが声を荒らげる。


「処刑されたんじゃなかったのかよ!!」


 アルベルトの表情が苦しげに歪んだ。


「……俺たちも、そう聞かされていた」


「聞かされていた!?」


 クレイドは信じられないというように笑った。


「……何だよ、それ……」


 拳が、強く握り締められる。


「俺は……あいつが死んだって聞いて……ようやく……!」


 言葉が途切れた。


 クレイドは俯いた。


 肩が、小さく震えている。


「……終わったと思ってたのに……」


 私は、胸が締めつけられた。


「……クレイド……」


 アルベルトが静かに続ける。


「ヴェロニカの実家が、収容施設の上層部と繋がっていたらしい。処刑が執行されたことにして、密かに逃がしていたんだ」


「……っ」


「俺たちも、昨日まで知らなかった」


 クレイドは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、低い声で尋ねる。


「……今、どこにいる」


 お兄様が答えた。


「エドモンドと一緒にいる」


「……エドモンド?」


「十一年前、僕の両親を殺した男だよ」


 クレイドが顔を上げた。


「……そいつも、生きてたのか?」


「うん」


 お兄様は静かに頷いた。


「昨日、森で会った。ヴェロニカも一緒だった」


「……捕まえなかったのか?」


「……逃げられた」


 クレイドの拳が、さらに強く握り締められる。


「……くそっ!!」


 近くの木へ拳を叩きつけた。


「ふざけんなよ……!」


 その声が震えている。


「俺が……どれだけ……!」


 言葉が続かなかった。


「……俺は、あいつに人生を壊されたんだぞ……」


 アルベルトは何も言わなかった。


「勝手に攫われて、勝手にヴァンパイアにされて……人間に戻ることもできなくなった……!」


 クレイドは自分の手を見つめた。


「……それなのに、あいつは生きてたのかよ……」


「……すまない」


 アルベルトが低く呟いた。


 クレイドは顔を上げる。


「……何で、お前が謝るんだよ」


「俺が、もっと慎重に確認していれば……」


「……違うだろ」


 クレイドは苦しそうに顔を歪めた。


「悪いのは、あいつらだろ……!」


 アルベルトは何も答えなかった。


「……俺を助けてくれたのは、お前だ」


 クレイドの声が、少しだけ小さくなる。


「それは、分かってる」


 アルベルトの瞳が僅かに揺れた。


「……クレイド」


「でも……納得できるわけないだろ……!」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 しばらくして、クレイドはベンチへ腰を下ろした。


 私は少し迷ってから、その隣へ座った。


「……クレイド」


「……何だよ」


「……私も、怖かったよ」


 クレイドが顔を上げる。


「……ミアのこと」


 その名前を口にした瞬間、胸が苦しくなった。


「親友だったのに……あの家で、一緒に笑ってたのに……」


 クレイドは黙って聞いている。


「突然、殺されそうになって……今でも、あの家に入れないの」


「……分かってる」


 クレイドは静かに答えた。


「だから、無理して帰ってこなくていいって言っただろ」


 私は小さく頷いた。


「……うん。ありがとう」


 クレイドは少しだけ目を逸らした。


「……別に」


 そのぶっきらぼうな優しさに、少しだけ笑えた。


  アルベルトは、まだ険しい表情をしていた。


「……クレイド。もう一つ、話しておかなければならないことがある」


「……何だよ。まだ何かあるのか?」


 アルベルトは一度、私へ視線を向けた。


 私は、その視線の意味を理解していた。


 ミアのことだ。


 ヴェロニカの生存が判明したあと、収容施設の状況を確認したところ、ミアが姿を消していたことが分かった。


 その話は、すでに聞いている。


 けれど、クレイドにはまだ伝えられていなかった。


「……ミアのことだ」


 アルベルトが告げる。


 クレイドの眉が寄った。


「……ミア?」


「ああ。ミアが収容されていた施設を確認したんだが……」


 アルベルトは一度言葉を切った。


「……ミアが、いなくなっていた」


 クレイドの表情が凍りついた。


「…………は?」


 長い沈黙が流れた。


「……どういうことだよ」


「正式な移送記録は残っていない。いつ、誰が連れ出したのかも、まだ分かっていない」


「……待てよ」


 クレイドが立ち上がった。


「ミアは捕まってたんだろ!?」


「ああ」


「だったら、どうしていなくなるんだよ!!」


 アルベルトは苦しげに眉を寄せた。


「……現在、調査を進めている」


「調査って……!」


 クレイドは頭を抱えた。


「ヴェロニカは処刑されたことになってて、ミアは収容されてたはずなのに……二人とも自由になってるってことかよ……!」


 お兄様が静かに答えた。


「……少なくとも、今は二人とも拘束されていない」


「……ふざけんな……!」


 クレイドの拳が、強く握り締められた。


 私は、その横顔を見つめていた。


 ミアがいなくなったと聞いたとき、私も同じように混乱した。


 あの子が今どこにいるのか。


 また私の前に現れるのか。


 考えるだけで怖かった。


 だからこそ、クレイドがどれほど動揺しているのか、少しだけ分かる気がした。


「……ルシア」


 クレイドが私を見た。


「……お前、知ってたのか?」


 私は小さく頷いた。


「……うん」


「……いつから?」


「少し前に聞いたの。まだクレイドには話せてなくて……ごめん」


 クレイドは、しばらく私を見つめていた。


 それから、深く息を吐いた。


「……別に、お前が謝ることじゃないだろ」


「……クレイド……」


「悪いのは、あいつらだ」


 その声は、静かだった。


 けれど、強い怒りが滲んでいた。


「……今度こそ、ちゃんと捕まえろよ」


 お兄様が頷く。


「……うん。必ず」


 私は、クレイドの拳が震えているのを見つめていた。


 ヴェロニカも、ミアも。


 私たちの人生を変えた二人が、今もどこかで生きている。


 もう、何も起こらないとは思えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。