十一年前の亡霊
夜の森を、一人の女が駆け抜けていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
ヴェロニカ・ドラクロワは、何度も背後を振り返りながら木々の間を走っていた。
胸元で砕け散った黒い宝石。その破片が、走るたびに衣服の内側で肌を刺す。
王家の命令から身を守るために与えられた、特別な宝石。
それが、ゼノンの力によって破壊された。
もう、彼の命令には逆らえない。
「……嫌よ……こんなところで……!」
十年前、処刑されるはずだった自分を父が逃がしてくれた。
けれど、今度捕まれば二度目はない。
ヴェロニカがさらに足を速めた、そのときだった。
「どこへ行くつもり?」
背後から聞こえた穏やかな声に、彼女の足が止まった。
振り返る。
月明かりの下に、黒髪の青年が立っていた。
ゼノン・ヴァルディエ。
その足元には、二匹の黒い狼が控えている。
影から生まれたような漆黒の毛並み。深紅に光る瞳。狼たちは主人の命令を待つように、微動だにせずヴェロニカを見つめていた。
「……ゼノン、様……」
「随分と急いでいるんだね」
ゼノンは静かに歩み寄った。
二匹の黒狼も、それぞれ左右へ分かれる。
ヴェロニカは後ずさった。
「……来ないで……!」
「逃げても無駄だよ」
一匹が彼女の背後へ回り込み、もう一匹が進路を塞いだ。
ゼノンは立ち止まる。
「君には、まだ聞きたいことがあるんだ」
「……私は、何も……」
「エドモンドについて」
その名前を聞いた瞬間、ヴェロニカの表情が強張った。
ゼノンの赤い瞳が細められる。
「……知っているんだね」
「……っ」
「十一年前、父上と母上を襲った男。君は、あいつと一緒にいたんだろう?」
「……違います……!」
「なら、どうしてそんなに怯えているの?」
ヴェロニカは唇を噛んだ。
ゼノンは、彼女を見据えたまま続ける。
「攫った人間たちは、何のために集めていたの?」
「……」
「地下の祭壇は? あそこで何をするつもりだった?」
「私は……命令されただけで……!」
「誰に?」
「それは……!」
「答えて」
その声に、王家の命令が宿った。
ヴェロニカの身体が硬直する。
意思に反して、唇が動いた。
「……エドモンド……様……」
その名前が零れた瞬間、森の空気が変わった。
風が止まり、虫の声が消える。
二匹の黒狼が同時に顔を上げた。
「……グルルル……」
ゼノンも、ゆっくりと視線を巡らせる。
木々の間から、黒い霧が広がり始めていた。
「……まさか……」
ヴェロニカが震える声で呟いた。
霧の奥から、低い笑い声が響く。
「そこまでにしておけ、ゼノン」
ゼノンの瞳が見開かれた。
忘れるはずがない。
十一年前、血に染まった広間で聞いた声。
父と母を奪い、ルシアの人生を変えた男の声だった。
「……エドモンド」
霧の中から、一人の男が姿を現した。
長い黒髪。
深紅の瞳。
整った顔立ちにはヴァルディエ王家特有の気品が残っている。
だが、その微笑みには、底知れない狂気が潜んでいた。
「久しいな、ゼノン」
エドモンド・ヴァルディエ。
十一年前、アルフォンスによって心臓を奪われ、死んだはずの男。
その男が、何事もなかったかのように立っていた。
「……本当に、生きていたんだね」
「当然だ。あの程度で私が終わるとでも思ったか?」
「……思っていないよ」
ゼノンは静かに答えた。
「お前が禁術を使っていたことは、十一年前から知っていた」
「……ほう?」
「百人の人間を生贄に、一度だけ死を覆す禁術。父上に心臓を奪われても、お前が生きていた理由だ」
エドモンドの口元が吊り上がる。
「そこまで調べたか」
「ずっと探していたからね」
ゼノンの声は静かだった。
「十一年間。お前の行方も、協力者も、何もかも」
足元の二匹の黒狼が、低く唸る。
「ようやく見つけたよ」
その瞬間。
周囲の地面が軋んだ。
草木が一斉に押し潰され、空気そのものが重く沈み込む。
ゼノンの異能――『重圧』。
目に見えない圧力が、エドモンドの身体へ降りかかった。
しかし、エドモンドは僅かに肩を揺らしただけだった。
「ふむ。随分と腕を上げたな」
彼は足元の黒狼へ視線を落とした。
「それに、その狼……アルフォンスの『影狼』か」
ゼノンは答えない。
「二匹とはな。父親の力を受け継いでいるようだが、召喚できる数はまだ少ないらしい」
エドモンドは愉快そうに笑った。
「もっとも、アルフォンスは何匹もの黒狼を操り、その狼のいる場所へ瞬時に移動することまでできた。お前には、その移動能力はないのだろう?」
「……だから何?」
ゼノンが静かに答える。
「僕には、僕の戦い方がある」
二匹の黒狼が、左右からエドモンドへ飛びかかった。
鋭い牙が男の両腕へ迫る。
エドモンドは黒い霧をまとい、身を捻ってかわした。
だが、着地した瞬間。
その身体へ、凄まじい重圧が降りかかる。
「……ぐっ!」
エドモンドの膝が僅かに沈んだ。
すかさず黒狼の一匹が背後へ回り込む。
もう一匹が正面から牙を剥いた。
エドモンドは黒い刃を生み出し、狼たちを牽制する。
「……なるほど」
その顔に、楽しげな笑みが浮かんだ。
「狼で動きを制限し、重圧で仕留めるか。アルフォンスとは違うが、実に厄介な戦い方だ」
「……」
「だが、まだまだだな」
黒い霧が爆発するように広がった。
ゼノンは即座に黒狼たちを自分の左右へ戻す。
霧の奥から、エドモンドの笑い声が響いた。
「十一年前は、父親と二人がかりで私を追い詰めたものだったな」
ゼノンの瞳が細められる。
「……父上の話をするな」
「なぜだ? アルフォンスは強かったぞ。あれほどの男は、そうはいない」
エドモンドは胸元へ手を当てた。
「覚えているよ。あの男が私の心臓を引き抜いた瞬間を」
ゼノンの脳裏に、十一年前の光景が蘇った。
血に染まった広間。
無数の黒狼。
父アルフォンスの怒り。
そして、エドモンドの胸から心臓を引き抜いた瞬間。
「……父上は、お前を倒した」
「そうだな。認めよう」
エドモンドはあっさりと頷いた。
「アルフォンスは強かった。だが、奴もただでは済まなかった」
ゼノンの拳が握り締められる。
「……父上を語るな」
「では、ロゼリアの話ならどうだ?」
その名前を聞いた瞬間、ゼノンの表情が変わった。
「……何?」
「お前の母親だ。そういえば、あの女の最期については、まだ話していなかったな」
「……黙れ」
「知らないのか? アルフォンスは何も教えなかったのだな」
エドモンドは隣のヴェロニカへ視線を向けた。
「お前も覚えているだろう?」
ヴェロニカの肩が跳ねる。
「……はい……」
ゼノンの赤い瞳が、ゆっくりと彼女へ向けられた。
「……どういうこと?」
エドモンドが笑った。
「十一年前、ロゼリアを殺したとき、この女も一緒にいたのだよ」
ゼノンの呼吸が止まった。
「……ヴェロニカが?」
ヴェロニカは目を伏せた。
エドモンドは楽しそうに続ける。
「アルフォンスは、妻と娘を守るため、ロゼリアのそばに黒狼を一匹残していた」
ゼノンは息を呑んだ。
父の異能『影狼』。
影から生み出した黒狼を自在に操り、その狼がいる場所へ瞬間移動する能力。
どれほど離れていても、狼が残っていれば父はそこへ駆けつけることができた。
「厄介だったよ。ロゼリアに手を出せば、すぐにアルフォンスが飛んでくる」
エドモンドはヴェロニカへ視線を向ける。
「だから、この女に頼んだのだ」
ゼノンの瞳が細められた。
「……何を?」
「狼を止めろ、と」
◇
十一年前。
血に染まった屋敷の奥で、ロゼリアはエドモンドと向き合っていた。
「ルシアはどこだ?」
エドモンドが尋ねる。
「……あなたには渡さない」
ロゼリアは冷たく答えた。
その足元には、漆黒の狼が一匹立っている。
アルフォンスが残した影狼だった。
主人が離れていても、狼は妻を守るよう命じられていた。
ロゼリアが危険に晒されれば、アルフォンスはその狼のいる場所へ瞬時に移動してくる。
エドモンドも、そのことを知っていた。
「……厄介な狼だ」
エドモンドが呟く。
その背後から、赤い髪の女が姿を現した。
ヴェロニカだった。
「エドモンド様」
「ヴェロニカ。あれを止めろ」
「……承知しました」
ヴェロニカは一度、静かに瞬きをした。
そして黒狼を見据える。
その瞳が、僅かに赤く光った。
瞬間。
狼の身体がぴたりと止まった。
牙を剥いたまま、前脚を上げたまま。
まるで時間を止められたかのように。
異能――『封眼』。
ヴェロニカが対象を見つめている間、その動きと異能を同時に封じる能力。
瞬きをした瞬間に効果は解除され、一度使用すれば五分間は再使用できない。
万全の状態なら二十五秒から三十秒ほど維持できるが、戦闘中は二十秒から二十五秒が限界だった。
そして今。
ヴェロニカは、瞬き一つせず狼を見つめていた。
影狼は動かない。
その異能も封じられている。
アルフォンスが狼を目印に瞬間移動することも、一時的に不可能になっていた。
「……何をしたの!?」
ロゼリアが叫ぶ。
エドモンドは笑った。
「ほんの少し、邪魔をしてもらっただけだ」
ロゼリアが狼へ手を伸ばす。
しかし、狼は動かない。
「……っ!」
「さて、ロゼリア」
エドモンドが一歩近づいた。
「ルシアはどこだ?」
「……どこにいても、あなたには教えない」
「娘の居場所を教えれば、命だけは助けてやってもいい」
「あなたの言葉なんて信じない!」
ロゼリアが床を蹴った。
その身体が、一瞬でエドモンドへ迫る。
鋭い爪が男の頬を裂いた。
エドモンドは僅かに顔を背ける。
「……ほう」
「ルシアには……指一本触れさせない!」
ロゼリアが再び踏み込む。
エドモンドはその腕を掴み、強引に引き寄せた。
「強情な女だ」
「離しなさい!」
ロゼリアがもう片方の手でエドモンドの胸を突く。
男の身体が後方へ揺れた。
その隙に距離を取ろうとする。
しかし、エドモンドはすぐに彼女の腕を掴み直した。
「……どうして分かってくれないんだ?」
その声が、突然、ひどく優しくなった。
ロゼリアは顔を歪めた。
「……何を言っているの?」
「僕は、ずっと君を愛しているのに」
「……っ」
「アルフォンスなんかより、ずっと前から。ずっと、ずっと君を見ていたんだよ」
エドモンドは愛おしそうにロゼリアの頬へ手を伸ばした。
ロゼリアは顔を背ける。
「触らないで!」
その拒絶に、エドモンドの笑みが僅かに引きつった。
「……どうして?」
「あなたを愛したことなんて、一度もないわ」
エドモンドの動きが止まった。
ほんの一瞬。
しかし、次の瞬間には、再び穏やかな笑みを浮かべていた。
「……そうか。まだ分からないんだね」
「……?」
「でも、大丈夫」
エドモンドは嬉しそうに微笑んだ。
「もう、君に僕を愛してもらう必要なんてないんだ」
ロゼリアの背筋に、冷たいものが走った。
「……何を……」
「だって、もっと素晴らしい方法を見つけたから」
エドモンドの赤い瞳が、異様な光を帯びる。
「君は、永遠に僕のものになるんだよ」
次の瞬間。
エドモンドの腕が、ロゼリアの胸を貫いた。
「……っ!」
ロゼリアの身体が大きく震える。
エドモンドは、その耳元へ顔を寄せた。
「ロゼリア……大好きだよ」
まるで愛を囁く恋人のような声だった。
「これで、もう誰にも君を奪われない」
エドモンドの手が、ゆっくりと引き抜かれた。
その手には、赤い心臓が握られていた。
ロゼリアの身体が崩れ落ちる。
「……っ、エドモンド様……!」
ヴェロニカの声が震えた。
瞳に涙が滲んでいる。
二十数秒。
すでに限界だった。
「……もう、保ちません……!」
次の瞬間。
ヴェロニカが瞬きをした。
影狼の封印が解ける。
漆黒の狼が、再び動き出した。
――バシュッ!!
狼の傍らへ、一人の男が現れた。
「ロゼリア!!」
アルフォンスだった。
目の前に広がる光景を見て、その足が止まる。
床に倒れている妻。
その胸に開いた傷。
そして、エドモンドの手に握られたもの。
「……ロゼリア……?」
アルフォンスの声が震えた。
エドモンドは、ゆっくりと振り返った。
「おお。来たか、アルフォンス」
「……お前……」
「少し遅かったな」
エドモンドが笑う。
「もう終わってしまったぞ」
アルフォンスの赤い瞳が見開かれる。
「……ロゼリアを……」
「そうだ」
エドモンドは手に持っていた心臓を持ち上げた。
「実に美しい血だ」
「……やめろ」
アルフォンスの声が低く響く。
しかし、エドモンドは止まらなかった。
「お前には感謝しているよ、アルフォンス」
「……何?」
「お前のおかげで、ロゼリアは二人の子供を産んだ。あれほど素晴らしい血を、次の世代へ残してくれた」
エドモンドは嬉しそうに笑った。
「だが、ロゼリア自身は……僕がもらう」
「……やめろ……!」
「安心しろ。もう二度と、彼女を泣かせたりしない」
エドモンドは心臓を見つめ、うっとりと目を細めた。
「僕の中で、永遠に愛してあげるんだ」
そのまま、ロゼリアの心臓へ牙を立てた。
アルフォンスの目の前で。
妻の心臓を、食らった。
「――エドモンドォォォッ!!」
アルフォンスの怒声が、屋敷全体を震わせた。
影狼たちが一斉に現れる。
黒い牙がエドモンドへ向けられた。
エドモンドは笑った。
「はははっ! いいぞ、アルフォンス!」
次の瞬間、アルフォンスの姿が消えた。
影狼のいる場所へ瞬間移動し、エドモンドの目前へ現れる。
凄まじい一撃が、男の顔面へ叩き込まれた。
轟音とともに、エドモンドの身体が壁へ吹き飛ぶ。
しかし、アルフォンスは追撃しなかった。
すぐにロゼリアのもとへ駆け寄る。
「ロゼリア……!」
妻を抱き起こす。
けれど、もう返事はない。
「……すまない……」
アルフォンスの声が震えた。
「……守れなかった……」
ロゼリアの頬を撫でる。
何度名前を呼んでも、彼女が目を開けることはなかった。
背後で、エドモンドがゆっくりと立ち上がる。
「……泣いているのか?」
アルフォンスは答えなかった。
「不思議だな。私は、こんなにも幸せだというのに」
エドモンドは自分の胸元を撫でた。
「ロゼリアは、もうここにいる」
その顔に、恍惚とした笑みが浮かぶ。
「彼女の血が、僕の身体を巡っている。彼女の力が、僕の中に溶け込んでいく……!」
「……黙れ」
「分からないのか、アルフォンス?」
エドモンドは両手を広げた。
「ロゼリアと僕は、一つになったんだ!」
嬉しそうな笑い声が響く。
「もう離れることはない! 誰にも引き離せない! 彼女は永遠に僕の中で生き続けるんだよ!」
アルフォンスは、そっとロゼリアを床へ横たえた。
そして、立ち上がった。
「……お前だけは」
その声には、先ほどまでの激しい怒りとは違う、底知れない殺意が宿っていた。
「……絶対に、殺す」
影狼たちが一斉に牙を剥く。
アルフォンスは、エドモンドへ向かって歩き出した。
◇
「……それで、アルフォンスは私に襲いかかってきた」
現在。
エドモンドは、懐かしい出来事でも語るように笑っていた。
「凄まじい怒りだったよ。あれほどのアルフォンスは、初めて見た」
ゼノンは動かなかった。
ただ、エドモンドを見つめている。
二匹の黒狼も、主人の感情を察したように静かに唸っていた。
「……母上の心臓を……」
ゼノンの声が震えた。
エドモンドは笑った。
「そうだ。奴の目の前で食ってやった」
ゼノンの拳が、強く握り締められた。
「……どうして、そんなことができる……」
「どうして?」
エドモンドは不思議そうに首を傾げた。
「愛していたからに決まっているだろう?」
「……何?」
「僕もロゼリアを愛しているんだ!」
突然、エドモンドの声が弾んだ。
「アルフォンスだけが彼女を愛していたとでも思っているのか? 違う! 僕だって、ずっと愛していた!」
その瞳が、狂気に満ちた光を帯びる。
「だが、ロゼリアは僕を選ばなかった。どれほど想っても、どれほど待っても、あの女はアルフォンスばかり見ていた!」
エドモンドは胸元へ手を当てた。
「でも、もういいんだ」
その表情が、ひどく穏やかになる。
「今は、ここにいるから」
「……」
「ロゼリアは僕の中にいる。僕の血となり、肉となり、力となった」
エドモンドは、まるで大切な恋人を抱き締めるように自分の身体へ腕を回した。
「僕たちは、ようやく一つになれたんだよ……!」
ゼノンの背筋に、冷たいものが走った。
「……お前は、狂っている」
「狂っている?」
エドモンドは目を見開いた。
そして、声を上げて笑い始めた。
「はははっ! 愛を知らぬ子供には、そう見えるのか!」
「……それは、愛なんかじゃない」
「なぜだ?」
エドモンドの笑みが消えた。
「僕は、こんなにも彼女を愛しているのに」
次の瞬間には、再び嬉しそうに微笑んでいた。
「……ああ、そうだ。ゼノン」
何かを思い出したように、人差し指を立てる。
「お前は知っているか?」
「……何を?」
「ヴァンパイアの心臓を食らうと、どうなるのかを」
ゼノンは眉を寄せた。
「……何が言いたいの?」
「その者が持つ力を、己のものにできるのだよ」
ゼノンの赤い瞳が僅かに見開かれた。
「……力を、奪う?」
「そうだ。心臓に宿る魔力も、異能も、すべて取り込むことができる」
エドモンドは自分の胸元へ手を当てた。
「もっとも、誰の心臓でもいいというわけではない。弱い血の者から得られる力など、たかが知れている」
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
「だが、純血のヴァルディエは違う」
「……」
「ロゼリアの心臓は実に素晴らしかった。あれほど濃く、美しい血を持つ者は滅多にいない」
ゼノンの表情が強張る。
「……母上の異能まで、奪ったのか……?」
「奪った?」
エドモンドは、心外だと言わんばかりに眉を上げた。
「人聞きの悪いことを言うな。彼女の力は、今も私の中で生きているのだ」
男は片手を持ち上げた。
掌の上で、黒い霧がゆっくりと渦を巻く。
「ロゼリアの力を完全に扱えるようになるまでには、随分と時間がかかったがな」
「……その霧は……」
「さて、どうだろうな?」
エドモンドは意味ありげに微笑み、霧を握り潰した。
ゼノンの周囲で、空気が低く震えた。
「……母上を殺して、力まで奪って……それを愛だと言うの?」
「当然だろう?」
エドモンドは迷いなく答えた。
「彼女のすべてを、私は受け入れたのだから」
「……違う」
ゼノンの声が震えた。
「母上は、お前を愛してなんかいなかった」
エドモンドの笑みが、ぴたりと止まった。
「……何?」
「母上が愛していたのは、父上だ。僕たちだ。お前じゃない」
ほんの一瞬。
エドモンドの表情が、醜く歪んだ。
しかし、すぐに笑みを取り戻す。
「……それが、どうした?」
低い声だった。
「今となっては、誰を愛していたかなど関係ない」
エドモンドは胸元を撫でた。
「彼女は、ここにいる。それだけが真実だ」
ゼノンの赤い瞳が、冷たく細められた。
「……お前には、一生分からないよ」
「何がだ?」
「誰かを愛するということが」
エドモンドはしばらくゼノンを見つめていた。
やがて、可笑しそうに笑った。
「では、聞こう」
その赤い瞳が、愉快そうに細められる。
「お前は、ルシアを愛しているのか?」
ゼノンの表情が変わった。
「……何?」
「大切なのだろう? あの娘が」
「……当たり前だよ」
「ならば、私の気持ちも少しは理解できるはずだ」
「……一緒にするな」
「なぜだ? 愛する者を、自分だけのものにしたい。その気持ちは同じではないか」
ゼノンは冷たく告げた。
「僕は、ルシアが笑っていてくれればそれでいい」
「……ほう?」
「ルシアが幸せでいてくれることが、僕の幸せなんだ」
エドモンドは目を細めた。
「随分と綺麗事を言う」
「……」
「だが、いずれ分かるさ。欲しいものが手に入らない苦しみを」
その口元に、再び笑みが浮かんだ。
「もっとも、私にはもう一つ、楽しみがあるのだがな」
「……何?」
「ルシアだよ」
ゼノンの表情が凍りついた。
「……ルシア?」
「ああ。ロゼリアの娘だ」
エドモンドは、うっとりと目を細めた。
「ロゼリアの血は、本当に素晴らしかった……」
その声が、熱を帯びる。
「あれほど濃厚で、甘美な血は、長く生きてきた私でさえ初めてだった」
男はゆっくりと目を閉じた。
「今でも覚えている。あの香りも、舌に残った甘さも……」
「……黙れ」
ゼノンが低く告げる。
しかし、エドモンドには聞こえていないようだった。
「そのロゼリアの娘だ。しかも、父親はあのアルフォンス……!」
エドモンドは両手を広げ、堪えきれないように笑い始めた。
「ははっ……! 想像するだけで堪らんな!」
その赤い瞳が、異様な熱を帯びる。
「一体、どんな味がするのだろうな? 母親より甘いのか? それとも、もっと濃厚で……いや、あの二人の血が混ざり合っているのだ。きっと、私が今まで口にしたことのないほど素晴らしい血に違いない!」
ゼノンの拳が、強く握り締められた。
「……お前……」
「まだ一滴も飲んだことがないというのに、考えるだけで喉が渇く!」
エドモンドは喉を鳴らして笑った。
「十一年前、あの小さな娘を手に入れられなかったことが、どれほど悔しかったか……!」
その笑みが、さらに深くなる。
「だが、今は十七歳になったのだろう? あの頃よりも成長し、純血として覚醒まで果たしたと聞く」
エドモンドは唇を舌で湿らせた。
「嗚呼……早く会ってみたい。あの娘をこの目で見て、その血の香りを確かめたい……!」
「……それ以上、言うな」
ゼノンの足元に亀裂が走った。
それでもエドモンドは止まらない。
「まずは、ほんの一口でいい。首筋に牙を立てれば、どれほど芳しい血が流れてくるのか……」
男は目を閉じ、まだ味わったことのない血を思い描く。
「きっとロゼリアを超える。いや、比べることさえ愚かかもしれんな……!」
そして、突然目を見開いた。
「ははははっ! 楽しみだ! 実に楽しみだぞ、ゼノン!」
その笑い声が、夜の森に響き渡る。
「もし、あの娘の血が私の想像どおりなら……心臓には、一体どれほどの力が宿っているのだろうな!?」
ゼノンの赤い瞳に、冷たい殺意が宿った。
「……ルシアは、お前の食べ物じゃない」
エドモンドは笑いながら首を傾げる。
「何を怒っている? お前もヴァンパイアだろう。あれほど上質な血を前にして、飲みたいと思わないのか?」
「……」
「それとも、妹だから我慢しているのか?」
エドモンドの口元が歪む。
「可哀想になぁ、ゼノン。あの娘をずっと傍に置きながら、その血を味わえないとは」
ゼノンは何も答えなかった。
ただ、エドモンドを見つめている。
「私は違うぞ。手に入れたら、まずはその血をじっくり味わう。そして、どんな力が眠っているのか確かめるのだ」
エドモンドは自分の胸元へ手を当てた。
「最後には、あの娘の心臓もいただく。ロゼリアの心臓でさえ、あれほどの力を秘めていたのだ。その娘ならば、どれほどの力が手に入ることか……!」
そこで、エドモンドはふと考え込むように顎へ手を当てた。
「……いや、待てよ」
ゼノンが眉を寄せる。
「……何?」
「ルシアの心臓をいただいてしまえば、あれほど濃いヴァルディエの血を受け継ぐ者は、もう生まれなくなってしまうではないか」
エドモンドは、本当に困ったことに気づいたかのように眉を下げた。
「それは惜しい。実に惜しいなぁ……」
けれど、次の瞬間には嬉しそうに笑い始めた。
「そうだ! 急ぐ必要などないではないか!」
その赤い瞳が、異様な輝きを帯びる。
「まずは傍に置いて、ゆっくりと血を味わおう。毎日少しずつ……いや、あまり飲みすぎてもいけないな。大切に育てた方が、きっと素晴らしい血になる」
ゼノンの表情から、感情が消えていく。
エドモンドはさらに楽しそうに続けた。
「それに、子供を産ませてからでも遅くはない」
「……っ!」
「そうすれば、ルシアの血は次の世代へ受け継がれる。あの娘の子供も、きっと美しい血を持つのだろうなぁ……!」
エドモンドは両手を広げた。
「一人では惜しい。二人、三人……いや、何人でもいい! ヴァルディエの血を受け継ぐ子供たちが増えれば、私はいつまでも最高の血を味わえる!」
その声は、まるで夢のような未来を語るかのように弾んでいた。
「素晴らしいと思わないか、ゼノン? ロゼリアの血が、何世代にもわたって私のもとへ戻ってくるのだ!」
ゼノンは何も答えなかった。
ただ、エドモンドを見つめている。
エドモンドはそんな彼を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……どうした? お前もヴァンパイアだろう。あれほど上質な血を前にして、飲みたいと思わないのか?」
「……」
「それとも、妹だから我慢しているのか?」
エドモンドの口元が歪む。
「可哀想になぁ、ゼノン。あの娘をずっと傍に置きながら、その血を味わえないとは」
ゼノンの足元に、細い亀裂が走った。
「……ルシアは」
その声は、驚くほど静かだった。
「お前の食べ物でも、子供を産ませるための道具でもない」
エドモンドは目を丸くした。
「道具? 何を言う。私は大切にすると言っているのだぞ?」
まるで自分が責められる理由など分からないというように、笑みを浮かべる。
「美しい部屋を与え、欲しいものは何でも買ってやろう。血をいただくとき以外は、自由に過ごさせてやってもいい。子供を産めば、母親としての喜びも与えてやれる」
エドモンドは満足そうに頷いた。
「これほど幸せなことがあるか?」
その瞬間。
轟音が森を揺るがした。
エドモンドの身体が、凄まじい重圧によって地面へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
地面が陥没し、周囲の木々が一斉に折れ曲がった。
二匹の黒狼が、エドモンドを挟み込むように左右へ回る。
ゼノンはゆっくりと歩み寄った。
「……二度と」
その赤い瞳には、冷たい殺意が宿っていた。
「二度と、ルシアをそんなふうに語るな」
エドモンドは苦しげに顔を歪めながらも、愉快そうに笑った。
「ははっ……! いいぞ、ゼノン……!」
「……ルシアには、指一本触れさせない」
「アルフォンスも、同じ目をしていたぞ」
ゼノンの重圧がさらに強まる。
「……父上と母上が、命を懸けて守った子だ」
ゼノンは冷たく告げた。
「僕が、必ず守る」
エドモンドは圧力に抗いながら、ゆっくりと笑みを深めた。
「ならば、楽しみにしていよう」
その赤い瞳が妖しく輝く。
「お前がいつまで、あの娘を守り抜けるのかをな」
ゼノンの赤い瞳が、ゆっくりとヴェロニカへ向けられた。
「……君が」
ヴェロニカの肩が跳ねる。
「……ゼノン様……」
「君が、父上の狼を止めたんだね」
「……私は……」
「そのせいで、父上は母上のところへ行けなかった」
ヴェロニカは何も答えられなかった。
「……そうなんだね」
ゼノンが小さく呟く。
次の瞬間。
周囲の草木が、一斉に潰れた。
地面が陥没し、木々が音を立てて折れ曲がる。
凄まじい重圧が、森全体へ広がっていった。
「……っ!」
ヴェロニカが膝をつく。
エドモンドの身体も、地面へ押しつけられた。
「ぐっ……!」
しかし、エドモンドは苦しげに顔を歪めながらも笑っていた。
「ははっ……! そうだ、その顔だ!」
ゼノンはゆっくりと近づいた。
「……父上が、どうしてあそこまで怒っていたのか」
低い声だった。
「今なら、分かるよ」
脳裏に、十一年前の光景が蘇る。
血に染まった広間。
無数の黒い狼。
父と共にエドモンドを追い詰めた戦い。
あのとき、父は何も語らなかった。
ただ、エドモンドを倒すことだけを考えていた。
「……母上は、最後までルシアを守ったんだね」
「そうだ。愚かなほどにな」
「……愚かなんかじゃない」
ゼノンの声が震えた。
「母上は、僕たちを愛してくれていた」
エドモンドは鼻で笑った。
「愛などというもののために命を捨てる。理解できんな」
「……お前には、一生分からないよ」
ゼノンが右手を上げる。
目に見えない圧力が、エドモンドの胸を押し潰すように集中した。
「父上も、母上も……最後まで僕たちを守ってくれた」
ゼノンはエドモンドを見下ろした。
「その想いを、お前なんかに踏みにじらせない」
エドモンドは、圧力に抗いながら不敵に笑った。
「ならば、守ってみせろ」
その赤い瞳が、妖しく光る。
「今度は、ルシアをな」
ゼノンの表情から、すべての感情が消えた。
「……言われなくても」
彼は静かに告げた。
「僕は、命に代えてもルシアを守るよ」
エドモンドは、しばらくゼノンを見つめていた。
やがて、愉快そうに笑い出す。
「なるほど。やはり、お前は妹に随分と執着しているらしい」
「……」
「アルフォンスもそうだった。ロゼリアを守り、娘を守り、最後には命まで捨てた」
エドモンドは首を傾げる。
「理解できんな。あれほど美しい血を持つ娘を、ただ守るだけなど」
ゼノンの瞳が細められた。
「……何が言いたいの?」
「ルシアは、特別な娘だ」
エドモンドは、うっとりとしたように目を細めた。
「ロゼリアの血を受け継ぎ、ヴァルディエの中でも極めて濃い血を持つ。あの子は、私の望むものをすべて与えてくれる」
「……」
「傍に置いておけばいい。大切に飼い、必要なときに血をもらう。そうすれば、私は――」
言葉が途切れた。
エドモンドの身体が、再び地面へ叩きつけられたからだ。
轟音が響く。
地面に深い亀裂が走った。
「……っ!」
エドモンドは腕をついて身体を起こそうとした。
だが、さらに圧力が強まる。
ゼノンがゆっくりと近づいた。
「……誰を飼うって?」
穏やかな声だった。
けれど、そこには殺意が滲んでいた。
「ルシアは物じゃない」
エドモンドの身体が、さらに地面へ沈む。
「僕の大切な妹だ」
ゼノンは冷たく告げた。
「それから、僕の伴侶になる子だよ」
エドモンドの赤い瞳が細められた。
「……ほう」
圧力に押さえつけられながらも、口元には笑みが浮かんでいる。
「やはり、そうか」
「……」
「アルフォンスとロゼリアも、同じことを考えていたのだろうな」
エドモンドは笑った。
「王家の血を守るため、兄妹を結びつける。昔から変わらぬ習わしだ」
「……」
「だが、ゼノン。お前はまだ、あの娘と結ばれていないのだろう?」
ゼノンの表情が僅かに変わる。
「……何?」
「ならば、まだ間に合う」
エドモンドはゆっくりと顔を上げた。
「私が迎えに行こう」
その瞬間、ゼノンの足元から凄まじい圧力が広がった。
木々が軋み、地面が大きく陥没する。
ヴェロニカが悲鳴を上げた。
「……っ、ゼノン様……!」
しかし、ゼノンには聞こえていなかった。
ただ、エドモンドだけを見つめている。
「……お前には、絶対に渡さない」
エドモンドは楽しげに笑った。
「十一年前も、同じことを言っていたな」
「今度は、あのときのようにはならない」
「そうか?」
エドモンドの声が、低く響いた。
「ならば、試してみよう」
次の瞬間。
エドモンドの身体から、黒い霧が噴き上がった。
霧は瞬く間に周囲の木々を覆い、ゼノンの視界を奪っていく。
「……逃がさないよ」
ゼノンが右手を上げた。
凄まじい重圧が霧を押し潰し、周囲の木々が悲鳴を上げるように軋んだ。
二匹の黒狼が、霧の中へ飛び込んだ。
一匹がエドモンドの背後へ回り、もう一匹が正面から牙を剥く。
ゼノンはその動きに合わせて重圧を集中させた。
「……っ!」
エドモンドの身体が僅かに沈む。
黒狼の牙が、その腕を掠めた。
「ほう……!」
エドモンドは楽しそうに笑った。
「いい連携だ!」
黒い刃が霧の中から飛び出す。
ゼノンは黒狼たちを左右へ散らし、重圧で刃を砕いた。
しかし、エドモンドはすでに背後へ回り込んでいた。
「……っ!」
ゼノンが振り返るより早く、黒い影が足元に絡みつく。
次の瞬間、ゼノンの身体が地面へ叩きつけられた。
轟音が響く。
「ぐっ……!」
ゼノンはすぐに重圧を放ち、影を引き千切った。
だが、その一瞬の隙に、エドモンドの黒い刃が首筋へ迫る。
「――グルルルッ!!」
突然、獣の唸り声が響いた。
白い影が木々の間から飛び出す。
「……ルナ!?」
ゼノンが目を見開いた。
いつの間にか後をついてきていたルナが、ゼノンの前へ躍り出たのだ。
ルナは牙を剥き、迫っていた黒い刃へ飛びかかった。
ガキンッ!!
鋭い音とともに、刃が砕け散る。
ルナはゼノンを庇うように立ち、エドモンドへ向かって激しく唸った。
「グルルルル……!」
「……ほう?」
エドモンドが興味深そうに目を細めた。
ゼノンは起き上がり、ルナへ手を伸ばした。
「ルナ! どうしてここに……!」
しかし、ルナはゼノンを見ようともしなかった。
ただ、目の前の男から視線を外さない。
その姿に、エドモンドが愉快そうに笑った。
「飼い主を守るつもりか?」
「……ルナに手を出すな」
ゼノンが低く告げる。
「ははっ! お前は本当に守るものが多いな」
エドモンドはゆっくりと腕を広げた。
「妹に、友人に、今度は獣か。アルフォンスと同じだ」
ゼノンの周囲で、空気が震える。
だが、エドモンドは構わず続けた。
「さて……ルシア」
その名前を呼んだ瞬間、ゼノンの表情が凍りついた。
「……何をしている?」
エドモンドは答えなかった。
代わりに、森の夜空へ向かって声を張り上げた。
「聞こえているか、ルシア・ヴァルディエ!」
黒い霧が空へ渦巻く。
その声には異能の力が込められ、遠く離れた場所へも響くように広がっていった。
「お前の父親は、狼のいる場所へ瞬時に移動できた!」
エドモンドは笑った。
「お前にも同じことができるのではないか!?」
「……やめろ」
ゼノンが低く告げる。
しかし、エドモンドは止まらなかった。
「できるのなら、今すぐここへ来てみろ!」
その赤い瞳が、愉快そうに細められる。
「早く来い、ルシア!!」
エドモンドがゼノンへ手を向ける。
黒い刃が、再びその周囲に現れた。
「お前の兄がどうなってもいいのか!?」
「――黙れ!!」
ゼノンの怒声とともに、凄まじい重圧が爆発した。
地面が陥没し、周囲の木々が一斉に折れ曲がる。
二匹の黒狼が、同時にエドモンドへ飛びかかった。
エドモンドの身体が後方へ弾き飛ばされる。
「ぐっ……!」
しかし、男は地面に着地すると、楽しそうに笑った。
「はははっ! いいぞ、ゼノン!」
「……ルシアを巻き込むな」
ゼノンはゆっくりと立ち上がった。
赤い瞳には、激しい怒りが宿っている。
「僕を殺したいなら、僕だけを狙えばいい」
「そうはいかん」
エドモンドは笑った。
「私は、あの娘に会いたいのだからな」
ゼノンの足元で、ルナが再び唸った。
「グルルル……!」
エドモンドはルナを見下ろした。
「それに、その獣も気になる」
ゼノンはルナを背後へ庇った。
二匹の黒狼も、その左右へ並ぶ。
「……誰にも触れさせない」
その言葉に、エドモンドは満足そうに微笑んだ。
「では、次に会うときが楽しみだ」
彼はヴェロニカへ手を伸ばした。
「行くぞ」
「は、はい……!」
ゼノンが踏み出す。
「待て!」
しかし、エドモンドは黒い霧をまといながら笑った。
「ルシアに伝えておけ」
その声が、夜の森に響く。
「もう少ししたら迎えに行くからと」
次の瞬間、黒い霧が二人を包み込んだ。
ゼノンが重圧を放つ。
二匹の黒狼が霧へ飛び込む。
だが、霧が晴れたときには、すでに二人の姿は消えていた。
ゼノンは、しばらくその場から動けなかった。
エドモンドは、ルシアの存在を知っている。
彼女が生きていることも。
純血種として覚醒したことも。
そして、今もなお彼女を狙っている。
「……ルシア」
ゼノンは小さく名前を呼んだ。
足元では、ルナが静かに彼を見上げていた。
二匹の黒狼も、主人の傍らへ戻ってくる。
ゼノンはしゃがみ込み、ルナの白い頭を撫でた。
「……ありがとう、ルナ」
ルナはそっと、ゼノンの手に鼻先を寄せた。
ゼノンは微かに笑った。
けれど、その瞳から警戒が消えることはなかった。
「……ルシアには、絶対に近づけさせない」
ルナは、まるでその決意に応えるように、小さく吠えた。
◇
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
「ゼノン!」
セドリックだった。
彼は荒れ果てた地面を見回し、眉を寄せた。
「……何があった?」
ゼノンはしばらく答えなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……エドモンドがいた」
セドリックの表情が凍りつく。
「……は?」
「十一年前、父上と母上を殺した男だよ」
「……まさか」
「生きていた。完全に、元の身体を取り戻していた」
セドリックは言葉を失った。
ゼノンは続ける。
「ヴェロニカも連れていかれた」
「……くそっ!」
セドリックが舌打ちした。
「追うか?」
「……いや」
ゼノンは首を振った。
「今は、人間たちの救助を優先しよう」
「でも――」
「エドモンドは、もうこの森にはいない」
ゼノンは静かに告げた。
「それに、あの男は必ずまた現れる」
セドリックが眉を寄せる。
「どうして分かる?」
ゼノンは答えた。
「……ルシアを狙っているから」
その名前を聞いた瞬間、セドリックの表情が変わった。
「……ルシアちゃんを?」
「うん」
ゼノンは夜空を見上げた。
「十一年前から、ずっと」
森を吹き抜ける風が、黒い髪を揺らす。
二匹の黒狼が、静かにゼノンの足元へ寄り添った。
父アルフォンスから受け継いだ力。
父ほど多くの狼を生み出すことも、その居場所へ瞬間移動することもできない。
けれど、ゼノンには『重圧』がある。
そして、何よりも。
守ると誓った、大切な存在がいる。
父と母を奪われたあの日。
妹の記憶を封じた日。
そして、もう一度彼女と出会い、約束を交わした日。
そのすべてを胸に刻みながら、ゼノンは静かに呟いた。
「……今度は、僕が守るよ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「絶対に、ルシアを渡さない」




