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森に潜む者



 悲鳴が、夜の森を切り裂いた。


「いやっ! お願い、助けて……!」


 かすれた女性の声が、古い別荘の奥から響いてくる。


 ラビは姿を消したまま、石造りの建物へ駆け寄った。


 背後ではクロードが木々の間を素早く移動し、セドリックはゼノンへの連絡を試みている。


「ラビ、聞こえる?」


 耳元の通信具から、セドリックの声が届いた。


「うん。聞こえてるよ」


「ゼノンに連絡した。すぐ向かうってさ」


「了解。それまでに、捕らわれている人たちの居場所を確認する」


「無茶すんなよ」


「ふふ。僕を誰だと思ってるの?」


「俺の甥だろ。だから心配してんだよ」


 ラビは思わず笑った。


「それは嬉しいな」


「笑ってる場合か!」


「分かってる。じゃあ、また後で」


 通信を切ると、ラビは建物の裏手へ回った。


 そこには、地下へ続く小さな階段があった。


 鉄製の扉には鍵がかかっている。


 けれど、扉の向こうから聞こえる複数の呼吸音を、ラビの耳は確かに捉えていた。


 少なくとも十人以上。


 それも、ほとんどが人間だ。


「……ここだね」


 ラビは小さく呟いた。


 そのとき、背後から足音が近づいてきた。


「おい、今の悲鳴は何だった?」


「知らねぇよ。また誰かが暴れたんだろ」


 二人の男が、階段を下りてくる。


 どちらもヴァンパイアだった。


 ラビは静かに腰の銃へ手を伸ばした。


 男の一人が鍵を取り出し、鉄扉へ差し込む。


 かちゃり、と音がした瞬間。


 ラビは透明化を解いた。


「こんばんは」


「なっ……!?」


 男たちが振り返るより早く、銃声が二つ響いた。


 弾丸はそれぞれの脚を撃ち抜き、二人は階段に崩れ落ちた。


「ぐあっ!」


「て、てめぇ……!」


「静かにしてくれる?」


 ラビは笑みを浮かべたまま、銃口を向けた。


「僕、あまり騒がれるのは好きじゃないんだ」


 男たちは歯を食いしばった。


 ラビは素早く二人の武器を取り上げ、拘束した。


 そのまま鉄扉を開く。


 地下から、濃い血の匂いが流れ出した。


「……これは」


 ラビの表情から笑みが消えた。


     ◇


 地下室には、十数人の人間が閉じ込められていた。


 男女も年齢もばらばらだった。


 壁には鎖が取りつけられ、床には古い血痕が残っている。


 ラビの姿を見た人々は、怯えたように身を寄せ合った。


「いや……来ないで……!」


「お願い、もうやめて……!」


 ラビは銃をしまい、両手を見せた。


「大丈夫。僕は君たちを助けに来たんだ」


 しかし、誰もすぐには信じなかった。


 無理もない。


 ここへ連れてこられてから、彼らが目にしたヴァンパイアは、皆、自分たちを傷つける者ばかりだったのだろう。


 ラビは一人の女性の前に膝をついた。


「怖がらせてごめんね。僕はアストリア共生学園のラビ・アシュレイ。君たちを保護するために来たんだ」


「……学園?」


「うん。もう少しだけ頑張れる?」


 女性は震えながら頷いた。


 ラビは鎖を確認した。


 普通の鉄ではない。


 特殊な金属が使われている。


 ヴァンパイアの力で無理に壊そうとすれば、拘束された人間まで傷つけるような作りだった。


「……厄介だね」


 ラビは通信具に触れた。


「セドリック。地下室に人間がいる。十数人だよ」


『分かった。すぐ行く』


「鎖に細工があるから、鍵を探してほしい」


『了解。ルイスとノエルにも伝える』


 通信を終えると、ラビは人々へ向き直った。


「もう少しで仲間が来るよ。それまで、ここで待っていて」


 そのときだった。


 地下室の奥から、小さな声がした。


「……あの」


 ラビが振り返る。


 壁際に座っていた若い男が、青ざめた顔でこちらを見ていた。


「……あなた、本当に助けに来たんですか?」


「もちろん」


「だったら……早く逃げてください」


 ラビは眉を寄せた。


「どういうこと?」


 男は震える唇を開いた。


「ここにいるのは、俺たちだけじゃない……」


「……?」


「奥の部屋に、もっとたくさんの人がいるんです」


 ラビの表情が変わった。


「何人くらい?」


「分かりません。でも……毎晩、誰かが連れていかれて……」


 男は顔を覆った。


「戻ってこないんです」


 地下室に重い沈黙が落ちた。


 ラビはゆっくりと立ち上がった。


「……奥の部屋はどこ?」


 男は震える指で、廊下の先を指さした。


「でも、行かない方がいい……」


「どうして?」


 男は怯えた目を見開いた。


「……あそこには、女の人がいるんです」


「女の人?」


「赤い髪の……綺麗な人で……」


 ラビは息を止めた。


 男は続けた。


「その人が、全部指示してるんです」


     ◇


 建物の二階。


 古びた執務室で、ヴェロニカ・ドラクロワは窓の外を眺めていた。


 深紅の髪が、月明かりを受けて妖しく輝く。


 机の上には、数枚の書類が置かれていた。


 そこには、人間の名前と年齢、健康状態が細かく記されている。


「……遅いわね」


 ヴェロニカは不機嫌そうに呟いた。


 今夜の移送は、予定より遅れていた。


 人間を集めるだけなら簡単だ。


 問題は、その後だった。


 エドモンドの命令に従い、選別した人間を別の場所へ運ぶ。


 彼が必要としているのは、新たな百人分の心臓。


 すでに蘇った身体をさらに強くするためではない。


 万が一、再び命を落としたときのために、石棺へ力を蓄える必要があるのだ。


 そのためには、まだ数が足りなかった。


「……本当に、面倒なこと」


 ヴェロニカはため息をついた。


 そのとき、扉が乱暴に開かれた。


「ヴェロニカ様!」


 黒い外套の男が飛び込んでくる。


「何事?」


「侵入者です!」


 ヴェロニカの眉が動いた。


「……侵入者?」


「地下の見張りがやられました! 外にも何人かいるようで……!」


 ヴェロニカはゆっくりと立ち上がった。


「何者なの?」


「分かりません。ただ、学園の関係者を名乗っていると……」


 その言葉に、ヴェロニカの瞳が細められた。


「……アストリア共生学園?」


「は、はい!」


 ヴェロニカはしばらく黙っていた。


 やがて、唇に薄い笑みを浮かべる。


「……そう」


 彼女は机の上の書類を手に取った。


「ようやく嗅ぎつけたのね」


「どうなさいますか?」


「決まっているでしょう」


 ヴェロニカは書類を暖炉へ投げ込んだ。


 炎が紙を包み、名前の記された文字が黒く崩れていく。


「証拠を残してはいけないわ」


 男が頷く。


「では、人間たちは……」


「移送できる者は運びなさい。無理なら置いていけばいい」


「しかし……」


「命令が聞こえなかった?」


 ヴェロニカの声が冷たくなった。


 男は慌てて頭を下げた。


「し、失礼しました!」


 男が部屋を出ていく。


 ヴェロニカは窓の外へ視線を戻した。


 森の奥には、かすかな人影が見える。


 その姿を眺めながら、彼女は小さく笑った。


「……あの子も、今はアストリア共生学園に通っているのよね?」


 ヴェロニカは、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。


 その瞳には、異様なほど甘い光が宿っていた。


「クレイド……会いに来てくれないかしら?」


 まるで、久しぶりに会う我が子を待ちわびる母親のような声だった。


 けれど、その口元に浮かぶ笑みは、母性とは程遠い。


「だって、ヴァンパイアとしての生を与えたのは私ですもの」


 ヴェロニカは胸元へ手を当て、うっとりと目を細めた。


「親に会いたいはずだわ。あの子は、私がいなければ今の姿になれなかったのだから」


 彼女の脳裏に、幼いクレイドの姿が浮かぶ。


 怯えた瞳。


 震える身体。


 逃げることも、逆らうこともできず、ただ彼女の言葉を聞いていた少年。


 その記憶を、ヴェロニカは都合よく塗り替えていた。


 恐怖を、愛情に。


 支配を、親子の絆に。


 傷つけた日々を、育ててあげた証に。


「きっと、私に会えば分かるわ」


 ヴェロニカは楽しげに笑った。


「あなたが誰に生かされ、誰に愛されていたのかを」


 その声は、次第に熱を帯びていく。


「ねえ、クレイド。私を忘れてはいないでしょうね?」


 返事などあるはずがない。


 それでもヴェロニカは、誰かが答えたかのように微笑んだ。


「会いに来てちょうだい。あなたの親は、ここにいるわ」


 彼女は窓を開け放った。


 冷たい夜風が、深紅の髪を大きく揺らす。


「……随分と大きくなったでしょうね」


 ヴェロニカは、遠く離れた学園の方角を見つめた。


「でも、どれだけ大きくなっても、あなたは私の子よ」


 その言葉には、疑いようのない狂気があった。


 だが、今夜この森にクレイドがいないことを、彼女はまだ知らなかった。


     ◇


 一方、建物の外では、セドリックが風を操りながら敵の動きを封じていた。


「おい、クロード! そっちに二人行ったぞ!」


「見えてるよ!」


 クロードは軽やかに身を翻した。


 その前に、体格のいい男が立ちはだかった。


「ふん、学園のガキが! 俺に勝てると思ってんのか!」


「えー、怖いなぁ」


 クロードは困ったように笑いながら、ひらひらと手を振った。


「僕、できれば穏便に済ませたいんだけど」


「ふざけるな!」


 男が勢いよく飛びかかってくる。


 クロードは軽やかに身をかわすと、相手の背後へ回り込んだ。


「そんなに怒ると、せっかくの髪型が崩れちゃうよ?」


「何だと!?」


「ほら、もう乱れてる」


 クロードが男の頭へ向けて指を鳴らした。


 ぱちん。


 次の瞬間、男の髪の先に小さな炎が灯った。


「……ん?」


 ちりちり、と妙な音がする。


 男が首を傾げた。


「何だ、この臭い……」


「んー? 何だろうね?」


 クロードはにこにこと笑っている。


 炎はあっという間に髪の毛へ燃え広がった。


「……あっ」


 男が頭に手をやった瞬間。


「う、うわああああっ!? 髪が! 俺の髪があああ!!」


 男は慌てて地面を転がり始めた。


「熱い! 熱いって!! 誰か消せえええ!!」


 クロードはその様子を眺めながら、楽しそうに笑った。


「あははっ! すごい、よく燃えるね!」


「てめえええ!!」


「大丈夫、大丈夫。髪だけだから。痛くない、痛くない」


「大丈夫なわけあるかあああ!!」


 騒ぎを聞きつけたセドリックが振り返った。


「……おい、クロード」


「ん? 何?」


「お前、何やってんだ?」


「敵を無力化してる」


「どう見ても散髪してるだろ!!」


 クロードは首を傾げた。


「えー? ちょっと短くしてあげただけだよ?」


「燃やしてんだろうが!」


 男は涙目になりながら叫んだ。


「俺の髪があああ!!」


 クロードは男の頭を見つめ、少し考えてから微笑んだ。


「……うん。丸刈りも似合うと思うよ?」


「まだ燃えてるんだよおおお!!」


「……うるせぇな」


 セドリックが呆れたように手を振る。


 ふわりと風が巻き起こり、男の頭に残っていた炎が吹き消された。


 そこには、ところどころ焦げた、見るも無残な髪が残っていた。


 クロードは口元を押さえた。


「……ぷっ」


「笑うなあああ!!」


「あはははっ! ごめん、ごめん!」


 セドリックは深いため息をついた。


「……お前、絶対楽しんでるだろ」


「え? もちろん」


「否定しろよ!!」


 その横で、ノエルがぼそりと呟いた。


「……可哀想」


 ルイスも困ったように笑う。


「クロード先輩……さすがに少しやりすぎでは?」


「えー? 誰も怪我してないよ?」


 クロードは満足そうに微笑んだ。


「平和的な解決でしょ?」


「どこがだ!!」


 セドリックの怒鳴り声が、夜の森に響き渡った。


 クロードは焦げた髪の男を見下ろしながら、満足そうに呟いた。


「楽しいことは、頭に入れておかないとね」


「お前の頭には、楽しいことしか入ってねぇだろ!」


 セドリックが怒鳴る。


 その背後から、別の男が飛びかかってきた。


 しかし、次の瞬間。


「……そこ」


 ノエルの声とともに、男の身体が横へ吹き飛んだ。


 ルイスがすかさず拘束具を取り出す。


「ノエル、ありがとう」


「……うん」


 セドリックは周囲を見回した。


「敵の数が多いな」


「それだけ、この場所を守りたいってことじゃない?」


 クロードが言った。


「だろうな」


 セドリックは通信具に触れた。


「ラビ、そっちはどうだ?」


『人間を見つけたよ。十数人いる』


「よし。今からそっちに……」


『それと、もう一つ』


 ラビの声が低くなった。


『この建物を指揮している女がいるらしい』


「女?」


『赤い髪の女性だって』


 セドリックは眉を寄せた。


「……赤い髪?」


『うん。まだ本人は確認していないけどね』


 そのとき。


 森の奥から、強烈な気配が広がった。


 セドリックの身体が一瞬硬直する。


「……っ!?」


 空気が重くなった。


 まるで、見えない何かが全身を押さえつけているようだった。


 クロードが顔を上げる。


「……何、これ」


 ルイスの表情が変わる。


「……この気配は」


 ノエルが静かに呟いた。


「……純血種」


 次の瞬間、木々の間から黒い影が現れた。


 月明かりを受けて輝く黒髪。


 深紅の瞳。


 ゼノン・ヴァルディエだった。


「……みんな、無事?」


 穏やかな声だった。


 けれど、その瞳には冷たい怒りが宿っている。


「ゼノン!」


 セドリックが駆け寄った。


「早かったな」


「状況は?」


「建物の中に人間が閉じ込められてる。ラビが救助に入ってるところだ」


「分かった」


 ゼノンは建物を見上げた。


 古い石造りの別荘。


 窓の奥から、複数のヴァンパイアの気配が伝わってくる。


 その中に、一つだけ異質なものが混じっていた。


 ゼノンは目を細めた。


「……妙だね」


「何が?」


「この中に、随分と古い血の匂いがする」


 セドリックが首を傾げた。


「古い血?」


「うん。どこかで嗅いだことがあるような……」


 ゼノンは一歩踏み出した。


 そのとき、建物の二階の窓が開いた。


 赤い髪の女性が、月明かりの下に姿を現す。


「……あら」


 甘い声が、夜の森に響いた。


「随分と懐かしいお顔ね」


 ゼノンは顔を上げた。


 その瞳が、ゆっくりと細められる。


「……君は」


 女性は優雅に微笑んだ。


「お久しぶりです、ゼノン様」


 深紅の髪が風に揺れる。


「十年ぶり……かしら?」


 ゼノンの表情から、完全に笑みが消えた。


「……ヴェロニカ・ドラクロワ」


 死んだはずの女が、そこにいた。


 ゼノンは静かに拳を握った。


 彼女が生きている可能性は、すでに考えていた。


 しかし、実際にその姿を目にすると、胸の奥から冷たい怒りが込み上げてくる。


 十年前。


 クレイドを無理矢理変え、傷つけ続けた女。


 人間を攫い、売っていた女。


 そして、処刑されたと記録されていたはずの人物。


 その女が今、再び人間を苦しめている。


「……生きていたんだね」


 ゼノンの声は静かだった。


 ヴェロニカは楽しげに笑った。


「ええ。おかげさまで」


「……どうやって逃げたの?」


「さあ?」


 ヴェロニカは肩をすくめた。


「それを教えて差し上げる義理があるかしら?」


 ゼノンは答えなかった。


 ただ、深紅の瞳が冷たく光った。


「……なら、直接聞くことにするよ」


 その言葉と同時に、周囲の空気が震えた。


 純血種の圧倒的な力が、森全体へ広がっていく。


 ヴェロニカの笑みが、わずかに揺らいだ。


 だが、すぐに彼女は唇を吊り上げた。


「……ふふ。怖いお顔」


 ゼノンは一歩、前へ進んだ。


「逃がさないよ」


 その声には、決して揺るがない決意が宿っていた。

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