届かない手紙
朝の光が、ヴァルディエ家の屋敷に差し込んでいた。
ルシアは食堂の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
いつもなら庭師が花壇の手入れをしている時間だ。
けれど今日は、それに加えて見慣れない警備兵が何人も配置されている。
「……何かあったのかな」
小さく呟いたとき、背後から声がした。
「おはよう、ルシア」
振り返ると、ゼノンが立っていた。
「お兄様!」
ルシアの顔がぱっと明るくなる。
「おはよう。今日は早いんだね」
「うん。少し仕事が片づいたから」
ゼノンは微笑み、ルシアの頬に触れた。
「ちゃんと眠れた?」
「うん。お兄様は?」
「僕も大丈夫だよ」
そう答えるゼノンの目元には、わずかな疲労が残っていた。
ルシアは心配そうに眉を寄せる。
「……本当に?」
「どうして?」
「最近、ずっと忙しそうだから……」
ゼノンは一瞬だけ目を細めた。
昨夜、収容施設で確認した空の牢。
そこにいるはずだった少女の姿は、どこにもなかった。
ミア。
かつてルシアの友人だった少女。
彼女が自由の身になっていると知れば、ルシアはどれほど怯えるだろう。
それだけではない。
ゼノンは、以前ルシアと交わした約束を思い出していた。
――もう二度と、近づけない。
あのとき、怯えたルシアを抱きしめながら、ゼノンはそう誓った。
だからこそ、ミアが収容施設から消えたと知った瞬間、胸の奥に強い警戒心が走った。
彼女がどこにいるのか分からない。
誰の手を借りて逃げたのかも分からない。
それなのに、ルシアの周囲では、すでに不審な動きが起きている。
ゼノンは、決してミアを近づけないつもりだった。
もし彼女がルシアの前に現れたなら、どんな手段を使ってでも止める。
それが、ルシアを守るために交わした約束だった。
「……心配をかけてごめんね」
ゼノンはルシアの頭を優しく撫でた。
「もう少ししたら、落ち着くと思う」
「本当?」
「うん。そうしたら、一緒に出かけよう」
その言葉に、ルシアの瞳が輝いた。
「お出かけ……!」
「行きたいところはある?」
「えっと……」
ルシアは少し考えたあと、嬉しそうに笑った。
「お兄様と一緒なら、どこでも」
ゼノンは思わず笑みを深めた。
「それじゃあ、僕が決めてもいい?」
「うん!」
彼女の無邪気な笑顔を見つめながら、ゼノンは胸の奥で静かに誓った。
今度こそ、必ず守る。
誰にも、彼女を傷つけさせない。
ミアにも、二度と近づけさせない。
◇
朝食を終えた頃、屋敷を訪れたのはクレイドだった。
「ルシア!」
「クレイド!」
玄関ホールで顔を合わせると、クレイドは片手を上げた。
「元気そうだな」
「うん! クレイドも元気?」
「俺はいつも通り」
そう言って笑った彼は、ルシアの後ろに立つゼノンへ視線を向けた。
「ゼノン、ちょっといいか?」
「何?」
「前に話してた町への外出のことなんだけど」
ルシアが顔を上げる。
「町?」
「ああ。ルシアとゼノンと俺で、久しぶりに出かけようって話してただろ」
「あっ……!」
ルシアは思い出したように手を合わせた。
「クレイド、覚えててくれたのね!」
「当たり前だろ」
クレイドは笑った。
「最近、みんな忙しいしさ。たまには三人でゆっくりするのもいいんじゃねぇかと思って」
ゼノンは少し考え込んだ。
ミアの逃亡が判明したばかりの今、ルシアを人の多い町へ連れ出すことには不安がある。
だが、屋敷の中に閉じ込めておくことも、彼女のためになるとは思えなかった。
それでも、外出を許すなら条件がある。
警備を増やし、行き先と経路を事前に確認する。
ルシアから一瞬たりとも目を離さない。
そして、ミアの姿や気配を少しでも感じたら、すぐにルシアをその場から遠ざける。
ゼノンは、約束を破るつもりなどなかった。
「……そうだね」
ゼノンは頷いた。
「警備の手配ができたら、行こうか」
「警備?」
クレイドが首を傾げる。
「町に行くだけだろ?」
「最近、王都周辺で失踪事件が続いているからね。念のためだよ」
ゼノンは穏やかに答えたが、その視線は庭に配置された警備兵へ向けられていた。
念のため、という言葉だけでは足りない。
ミアがどこにいるか分からない以上、ルシアの身辺に隙を作るわけにはいかなかった。
「……ああ、あれか」
クレイドの表情が少し曇った。
「学園でも話題になってるな」
「うん。だから、ルシアを一人にはしたくないんだ」
ルシアは二人を見比べた。
「私、そんなに心配されなくても大丈夫だよ?」
「駄目」
ゼノンは即答した。
「お兄様……」
「ルシアが強いことは知っているよ。でも、強いから危険な目に遭わないわけじゃない」
ゼノンの声は優しかった。
けれど、その瞳には普段よりも強い警戒が宿っていた。
ルシアはそれに気づき、口を閉ざした。
ゼノンは、ただ過保護になっているわけではない。
何かを恐れている。
そして、その恐れているものが自分に関係していることだけは、ルシアにも分かった。
クレイドが苦笑する。
「相変わらず過保護だな」
「クレイドも心配してるでしょう?」
「……まあ、それはそうだけど」
ルシアは頬を膨らませた。
「二人とも、私を子供扱いしてる……」
「そんなことないよ」
ゼノンは微笑んだ。
「大切にしているだけ」
そう言って額に口づけると、ルシアは一瞬で赤くなった。
「お、お兄様!」
「ふふ。可愛い」
「クレイドもいるのに……!」
「俺は何も見てねぇよ」
クレイドは呆れたように顔を背けた。
しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。
以前は、目の前でいちゃつかれるたびに地獄のようだと思っていたこの光景も、今では当たり前のものになっている。
こうして三人で笑い合う時間が、ずっと続けばいい。
クレイドは、心のどこかでそう願っていた。
◇
その日の夕方。
アストリア共生学園の夜間部では、セドリックとクロードが聞き込みの結果を報告していた。
「黒い馬車の目撃情報が、また増えた」
セドリック・アシュレイが机の上に地図を広げる。
「王都の西側で二件。どちらも夜遅く、窓を覆った馬車が森の方へ向かっていたらしい」
「しかもさ、目撃者の一人が妙なことを言ってたんだよね」
クロードが続ける。
「馬車の後ろから、何かを引きずるような音がしたって」
「……何か?」
ラビ・アシュレイが尋ねた。
「鎖かもしれないって。金属が地面に当たるような音だったらしいよ」
ラビは眉を寄せた。
「人を拘束して運んでいた可能性もあるね」
「そうだな」
セドリックが頷く。
「それと、もう一つ気になることがある」
「何?」
「目撃された馬車の通った道を調べたんだけど、途中から記録が途切れてる」
ラビが地図を覗き込む。
「……この辺り?」
「ああ。森へ入る手前だ」
地図には、王都の西に広がる広大な森林が描かれていた。
その奥には、古い貴族の別荘や、長年使われていない建物が点在している。
「この森、昔から立ち入りが少ない場所だよね」
ルイスが言った。
「ええ。王都から離れていますし、夜間はほとんど人が通りません」
ノエルが地図を見つめた。
「……隠すには、都合がいい」
「そういうこと」
ラビは頷いた。
「でも、まだ決めつけるのは早い。森の中に何があるか、調べてみよう」
セドリックが腕を組む。
「俺たちで行くか?」
「ううん。今回は僕も同行するよ」
「珍しいな」
「失踪者の数が増えているからね。もし本当に人が捕らえられているなら、早く見つけないと」
ラビは真剣な表情で地図を畳んだ。
「明日の夜、森の周辺を調査しよう」
◇
王都の貴族街にあるドラクロワ家の屋敷。
ミアは窓辺に座り、外を眺めていた。
高い塀に囲まれた庭は美しく整えられている。
けれど、彼女にはその景色が少しも綺麗に見えなかった。
ここに来てから、何日経ったのだろう。
レティシアは優しく接してくれる。
食事も、衣服も、何不自由なく与えてくれる。
それでも、ミアは落ち着かなかった。
ゼノンたちは、きっと自分を探している。
もし見つかれば、今度こそ逃げられない。
「……早く、ルシアに会わなきゃ」
小さく呟いたとき、扉が開いた。
「何を考えているの?」
レティシアが入ってきた。
「……ルシアのことです」
「あら」
レティシアは微笑んだ。
「随分と熱心なのね」
「だって……約束してくれたじゃないですか」
ミアは立ち上がった。
「ルシアを連れてくれば、血をもらえるって」
「ええ。もちろん覚えているわ」
レティシアは椅子に腰を下ろした。
「でも、焦ってはいけないわ」
「……どうして?」
「ゼノン様は、きっと警戒しているもの」
その名前を聞き、ミアの表情が強張った。
「……ゼノン先輩」
「だからこそ、慎重に動く必要があるのよ」
レティシアは優雅に足を組んだ。
「あなたが突然姿を現せば、ルシアも警戒するでしょう?」
「……うん」
「なら、まずは彼女に連絡を取ることね」
「連絡……?」
「ええ。手紙でも、伝言でも構わないわ」
レティシアは微笑んだ。
「あなたたちは、お友達だったのでしょう?」
ミアは俯いた。
友達。
その言葉が、胸に刺さる。
自分はルシアを裏切った。
彼女を傷つけた。
それでも、ルシアなら。
優しいルシアなら、きっと話を聞いてくれる。
自分を許してくれる。だって、私たちは親友なのだから。
「……私、手紙を書く」
ミアは小さく答えた。
レティシアの唇が、満足そうに弧を描いた。
「そう。それがいいわ」
◇
夜。
ヴァルディエ家の屋敷では、ルシアが自室の机に向かっていた。
開いているのは、夜間部の授業で使う資料だった。
ヴァンパイアの能力について書かれた本を読みながら、ルシアは小さくため息をついた。
「……難しい」
封印が解かれてから、少しずつ自分の力について学んできた。
けれど、長い間人間として生きてきたルシアには、知らないことがまだ山ほどある。
そんなとき、扉が軽く叩かれた。
「ルシア、入ってもいい?」
「お兄様!」
ルシアは顔を上げた。
「もちろん!」
ゼノンが部屋へ入ってくる。
机に広げられた資料を見て、微笑んだ。
「勉強していたの?」
「うん。でも、分からないことが多くて……」
「どこ?」
ゼノンが隣に座る。
ルシアは本の一節を指さした。
「ここ。純血種の力についてなんだけど……」
ゼノンは資料を覗き込んだ。
「なるほど」
そして、ゆっくりと説明を始めた。
純血種が持つ特別な能力。
血統によって異なる力。
そして、ヴァルディエ家だけが持つ、ほかのヴァンパイアへの絶対的な命令権。
「……そんなに強い力なんだね」
ルシアが呟く。
「うん。でも、強い力ほど慎重に使わないといけない」
ゼノンは彼女を見つめた。
「ルシアは、まだ自分の力を全部理解していないからね」
「……うん」
「焦らなくていいよ」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「僕が、少しずつ教えてあげる」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、お兄様」
ゼノンはその頭を撫でた。
しばらくして、ルシアが小さく口を開いた。
「……お兄様」
「何?」
「最近、何か隠してない?」
ゼノンの手が、一瞬だけ止まった。
「……どうしてそう思うの?」
「屋敷の警備も増えたし、お兄様もアルも、何だかいつもより真剣で……」
ルシアは俯いた。
「私に言えないことがあるのかなって」
ゼノンはしばらく黙っていた。
ミアが逃亡したことを、今ここで話すべきだろうか。
けれど、彼女がまた怯える姿を見たくなかった。
それに、ミアを二度と近づけないと約束した以上、ルシアに余計な不安を与えるわけにはいかない。
ゼノンは、ルシアの前では平静を保とうとしていた。
しかし、意識の一部は常に周囲へ向けられている。
窓の外に不審な影がないか。
廊下を歩く足音に、聞き覚えのないものが混じっていないか。
屋敷へ出入りする者の中に、ミアとつながる人物がいないか。
わずかな異変も見逃さないように、ゼノンは神経を張り詰めさせていた。
ルシアを守るためなら、眠れない夜が続いても構わない。
「……ルシア」
ゼノンは優しく彼女の手を取った。
「確かに、少し心配なことはあるよ」
ルシアが顔を上げる。
「でも、今はまだ調べている途中なんだ」
「……そうなの?」
「うん。はっきりしたら、ちゃんと話すよ」
嘘ではなかった。
ただ、すべてを伝えているわけでもない。
ルシアは少し考えたあと、静かに頷いた。
「……分かった」
ゼノンはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう」
「でも……」
ルシアは彼の手を握り返した。
「お兄様も、無理しないでね」
その言葉に、ゼノンの胸がわずかに痛んだ。
守りたいと思っている相手に、逆に心配されている。
「……うん」
ゼノンは彼女を抱き寄せた。
「約束するよ」
ルシアは彼の胸に顔を埋めた。
温かな腕の中にいると、不思議と安心できた。
ゼノンは彼女の髪に唇を落とした。
そのときだった。
廊下の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。
「ゼノン様」
扉の外から、アンナの声がした。
「どうしたの?」
「ルシア様宛てに、お手紙が届いております」
ルシアが顔を上げた。
「私に?」
「はい。差出人のお名前は、ございません」
ゼノンの表情が、わずかに変わった。
ミアを二度と近づけないと誓った、その直後だった。
差出人のない手紙。
ルシアの名前を、見覚えのある筆跡で記した封筒。
偶然だとは思えなかった。
ゼノンの中で、警戒心が一気に強まる。
「……手紙を見せて」
アンナが差し出した封筒は、何の変哲もない白いものだった。
封蝋も、家紋もない。
ただ、表には丁寧な文字で、ルシアの名前が書かれていた。
ゼノンは封筒を受け取った。
その文字を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。
見覚えのある筆跡だった。
ゼノンは反射的に封筒をルシアから遠ざけた。
「お兄様?」
ルシアが不思議そうに尋ねる。
「……まだ触らないで」
いつになく低い声だった。
ルシアが驚いたように目を見開く。
ゼノンは封筒を裏返し、封蝋や紙の端を慎重に確認した。
毒や呪具の気配がないか、慎重に探る。
それでも、警戒を解くことはできなかった。
ミアが直接送ったのか。
それとも、彼女を逃がした誰かが、ルシアへ近づくために利用しているのか。
どちらにしても、ルシアへ渡すわけにはいかない。
「……お兄様?」
「大丈夫。僕が確認する」
「でも、それは私宛てなんだよね?」
「そうだね。でも、今は僕が預かる」
ゼノンは封筒を握りしめた。
ルシアを守ると約束した。
その約束を破らせるものを、決して彼女の手元へ近づけてはならない。
「……まさか」
ゼノンは封筒を見つめたまま、静かに呟いた。
その手紙が、再びルシアの日常を壊そうとしていることを、彼女はまだ知らなかった。
ゼノンの手の中で、白い封筒がかすかな音を立てた。
ルシアは、いつもと違う兄の様子を不思議そうに見つめていた。
「……お兄様?」
「どうしたの?」
「その手紙、誰からなの?」
ゼノンは答えなかった。
封筒の表には、ただ一言。
『ルシアへ』
丸みを帯びた文字。
少し右上がりになる癖。
そして、最後の一画を長く伸ばす書き方。
見間違えるはずがなかった。
かつてルシアの友人だった少女が、学園で何度も使っていた筆跡だ。
ミア。
その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、ゼノンの表情から笑みが消えた。
「……アンナ」
「はい」
「この手紙を届けたのは誰?」
「門番によりますと、王都の配達人だったそうです。差出人については、何も聞いていないとのことでした」
「配達人の特徴は?」
「確認してまいります」
「お願い。それから、同じ配達人がまた来ても、屋敷の中へは通さないように伝えて」
「かしこまりました」
アンナが一礼して退室すると、ルシアはそっとゼノンの袖を引いた。
「ねえ、お兄様。どうしてそんなに怖い顔をしてるの?」
ゼノンは我に返ったように彼女を見た。
「……ごめんね」
「その手紙、危ないものなの?」
「まだ分からない」
「じゃあ、開けてみよう?」
差し出された小さな手を、ゼノンは優しく包み込んだ。
「僕が確認するから、少し待っていて」
「……うん」
ルシアは頷いたものの、納得しているわけではなさそうだった。
ゼノンは封筒を開き、中から一枚の便箋を取り出した。
そこには、見覚えのある文字が並んでいた。
『ルシアへ
突然手紙を送ってごめんね。
きっと、私のことなんて思い出したくないよね。
でも、どうしても謝りたいの。
あのときは、本当にごめんなさい。
私、ずっと後悔してる。
ルシアと一緒に過ごした時間は、私にとって大切な思い出だった。
もう一度だけ、友達として話がしたい。
誰にも知られずに、二人だけで会えないかな。
もし許してくれるなら、返事がほしい。
ミア』
最後まで読み終えたゼノンは、静かに便箋を折り畳んだ。
謝罪の言葉。
懐かしい思い出。
そして、誰にも知られずに会いたいという要求。
そのどれもが、ルシアの優しさにつけ込むために選ばれた言葉のように思えた。
「……お兄様?」
ルシアが不安そうに尋ねる。
「誰からだったの?」
ゼノンは彼女の顔を見つめた。
隠し続けるべきか。
けれど、手紙が屋敷まで届いた以上、ルシアが何も知らないままでいることは、かえって危険かもしれない。
「……ルシア」
「うん」
「驚かせるかもしれないけど、落ち着いて聞いてほしい」
その声に、ルシアの表情が強張った。
「……何?」
「ミアからの手紙だよ」
ルシアの瞳が大きく見開かれた。
「……ミア?」
小さな声が震える。
「どうして……?」
ゼノンは彼女の手を握った。
「ミアが収容施設からいなくなったことが分かったんだ」
「……え?」
「今、アルたちと行方を調べている」
ルシアは何も言わなかった。
ただ、ゼノンの手を握り返す指先に、少しずつ力がこもっていく。
「……逃げたの?」
「誰かが逃がした可能性が高い。でも、詳しいことはまだ分かっていない」
「そんな……」
ルシアの顔から血の気が引いた。
忘れようとしていた記憶が、胸の奥から浮かび上がる。
信じていた友人。
優しい言葉。
そして、自分へ向けられた執着。
あの日の痛みを、ルシアはまだ完全には忘れられていなかった。
「……ミアは、何て書いてたの?」
「謝りたいって」
「……謝りたい?」
「うん。もう一度、二人だけで会いたいそうだよ」
ルシアは唇を噛んだ。
かつてのミアなら、そんな手紙を受け取れば嬉しかっただろう。
けれど今は、何を信じればいいのか分からない。
「……私、どうしたらいいのかな」
その言葉に、ゼノンは彼女を抱き寄せた。
「何もしなくていいよ」
「でも……」
「ルシアが傷つくようなことを、無理にする必要はない」
ゼノンは彼女の髪を撫でた。
「謝罪を受け入れるかどうかも、会うかどうかも、ルシアが決めていいんだ」
「……お兄様」
「ただ、一つだけ約束して」
ゼノンは少し身体を離し、ルシアの目を見つめた。
「ミアから連絡が来ても、一人では会わないで」
ルシアは静かに頷いた。
「……うん。約束する」
その返事を聞いて、ゼノンはようやく少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう」
ルシアは彼の胸に額を寄せた。
「……お兄様」
「何?」
「私、ミアが怖い」
ゼノンの腕に力がこもる。
「……うん」
「でも、昔は本当に大好きな友達だったの」
「知ってるよ」
「だから、どうしてあんなことになっちゃったのか、今でも分からない……」
ゼノンは何も言わず、彼女を抱きしめ続けた。
答えを急がせるつもりはなかった。
ただ、二度と同じ悲しみを味わわせたくなかった。
◇
翌日の夜。
アストリア共生学園の学園長室には、ゼノンとアルベルト、そしてラビが集まっていた。
机の上には、ミアから届いた手紙が置かれている。
「……やっぱり、動いてきたか」
アルベルトが険しい表情で呟いた。
「うん」
ゼノンは頷いた。
「ルシアに直接接触しようとしている」
ラビが便箋を手に取った。
「謝罪の手紙に見えるけど……」
「最後の部分が気になるね」
ゼノンが言った。
「誰にも知られずに、二人だけで会いたいって」
「普通に考えれば、警戒されるよね」
ラビは頷いた。
「でも、ルシアちゃんが昔の友達を大切に思っていることを知っているなら、効果があると思ったのかもしれない」
アルベルトは腕を組んだ。
「それに、ミアが一人で動いてるとは限らねぇ」
「僕もそう思う」
ゼノンは静かに答えた。
「収容施設から出るには、外部の協力者が必要だった可能性が高い。今も誰かに匿われているかもしれない」
「配達人は?」
「確認したよ。王都の配達所を通して届けられていた。でも、差出人の住所は記録されていなかった」
「手がかりなしか……」
アルベルトがため息をつく。
「いや、まだあるよ」
ラビが手紙を持ち上げた。
「紙と封筒を調べてみようと思う」
「紙?」
「うん。王都で売られている便箋にも種類があるからね。特殊な紙なら、購入先を絞れるかもしれない」
ゼノンが頷いた。
「お願いできる?」
「もちろん」
ラビは微笑んだ。
「こういう細かい調査、僕は嫌いじゃないから」
アルベルトはゼノンを見た。
「ルシアには話したのか?」
「うん」
「……大丈夫だったか?」
ゼノンは少しだけ目を伏せた。
「怖がっていたよ」
「そうか……」
「でも、一人では会わないと約束してくれた」
アルベルトは深く息を吐いた。
「それなら、少しは安心だな」
「……そうだね」
ゼノンは答えた。
けれど、その声にはまだ不安が残っていた。
手紙が届いたということは、ミアがルシアの居場所を把握しているということだ。
屋敷の警備を増やしても、外から手紙を送りつけることはできる。
次は何をしてくるのか。
それを考えると、警戒を緩めるわけにはいかなかった。
◇
同じ頃。
王都の西に広がる森では、セドリックとクロード、ルイス、ノエルが調査を進めていた。
少し離れた場所には、ラビも同行している。
木々の間には薄い霧が漂い、月明かりが地面を白く照らしていた。
「……静かだな」
セドリックが呟いた。
「静かすぎるくらいだね」
クロードが周囲を見回す。
「こういう場所って、何か出そうで嫌なんだけど」
「お前、ヴァンパイアだろ」
「ヴァンパイアだって怖いものは怖いんだよ」
セドリックは呆れたようにため息をついた。
そのとき、ノエルが足を止めた。
「……待って」
「どうした?」
「……音がする」
全員が動きを止めた。
しばらく耳を澄ませる。
遠くから、かすかな金属音が聞こえてきた。
かしゃん。
かしゃん。
何かがぶつかるような、規則的な音。
「……鎖?」
ルイスが呟いた。
セドリックは視線を鋭くした。
「聞き込みで出てきた音と似てるな」
ラビが小さく頷く。
「僕が先に見てくるよ」
「一人で大丈夫か?」
「心配してくれるの?」
ラビは軽く笑った。
「大丈夫。見つからないようにするのは得意だから」
そう言うと、彼の姿が徐々に薄くなっていった。
数秒後には、そこに誰もいないように見えた。
透明化。
ラビの持つ特殊能力だった。
「……相変わらず便利だな」
セドリックが呟く。
姿を消したラビは、音のする方向へ静かに進んでいった。
木々の間を抜けると、古い石造りの建物が見えてきた。
長年使われていないように見える、貴族の別荘だった。
しかし、窓の一部からは微かな灯りが漏れている。
そして、その裏手には。
一台の黒い馬車が停まっていた。
窓は布で覆われ、家紋もついていない。
ラビは息を潜めた。
建物の扉が開く。
中から現れたのは、黒い外套を着た男たちだった。
男たちは、何か重いものを運んでいる。
いや。
それは、人間だった。
両手を拘束された若い男が、二人のヴァンパイアに引きずられていた。
「……っ」
ラビの表情が変わった。
若い男は必死に抵抗していた。
「やめろ……! 頼む、帰してくれ……!」
「黙れ」
男の一人が乱暴に腕を引く。
「まだ使い道があるんだ。大人しくしてろ」
若い男は恐怖に顔を歪めた。
「何をするつもりなんだよ……!」
返事はなかった。
ただ、建物の奥から、別の男の声が聞こえた。
「急げ。次の馬車が来る前に運び込め」
ラビは静かに後退した。
これ以上近づけば、気配を察知される可能性がある。
しかし、ここで見逃すわけにもいかなかった。
彼は姿を消したまま、仲間たちのもとへ戻った。
「……見つけたよ」
セドリックが顔を上げる。
「何を?」
「黒い馬車。それから、拘束された人間も」
その言葉に、全員の表情が変わった。
「……当たりか」
セドリックが低く呟く。
ラビは頷いた。
「でも、相手の人数が分からない。建物の中にも、まだいるはずだ」
「どうする?」
ルイスが尋ねる。
ラビは少し考えた。
「まず、ゼノンに連絡しよう。それから、周囲を確認して……」
そのときだった。
森の奥から、突然悲鳴が響いた。
「いやあああっ!」
女性の声だった。
続いて、何かが倒れる大きな音。
全員が一斉に顔を上げた。
「……今のは」
クロードの表情から笑みが消える。
ラビは腰の銃へ手を伸ばした。
「……予定変更だね」
その声は、先ほどまでの軽いものではなかった。
「セドリック、ゼノンに連絡して。ルイスとノエルは建物の裏手へ回って。クロードは僕と来て」
「了解!」
セドリックが頷く。
ラビは再び姿を消した。
森の奥からは、まだ人間の悲鳴が聞こえていた。
失踪事件の手がかりを追っていた彼らは、ついにその現場へ辿り着いたのだった。
◇
その頃、ドラクロワ家の屋敷では、ミアが落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っていた。
「……返事、来ない」
手紙を出してから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、ミアには長い時間が過ぎたように感じられた。
ルシアなら、きっと返事をくれる。
そう信じていた。
だって、あの子は優しいから。
昔から、誰かが困っていると放っておけない子だった。
だから今回も、きっと。
「……ルシア」
ミアは窓の外を見つめた。
その背後で、扉が開いた。
「まだ返事は来ないの?」
レティシアだった。
「……うん」
「そう」
レティシアは少し考えるように顎へ指を添えた。
「もしかしたら、ゼノン様が手紙を見つけてしまったのかもしれないわね」
「……ゼノン先輩が?」
「ええ。あの方は、ルシアのことになると随分と慎重になるもの」
ミアは唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうしたらいいの?」
レティシアは優雅に微笑んだ。
「心配しなくていいわ」
「……?」
「手紙が駄目なら、別の方法を考えればいいだけよ」
その言葉に、ミアは顔を上げた。
「別の方法……?」
「ええ」
レティシアは窓辺へ歩み寄った。
夜の王都には、無数の灯りが輝いている。
そのどこかに、ゼノンがいる。
そして、彼の隣には、あの少女がいる。
レティシアは静かに目を細めた。
「……いつまでも、あの子ばかり」
小さな呟きは、ミアには聞こえなかった。
レティシアは振り返り、いつもの優雅な笑みを浮かべた。
「もう少しだけ待ちましょう。きっと、機会は訪れるわ」
ミアは頷いた。
その瞳には、まだ迷いが残っていた。
けれど、レティシアの笑みの奥にある冷たい感情には、気づいていなかった。




