消えた囚人
王都の北区にある収容施設を、ゼノンたちが再び訪れたのは、日付が変わろうとしている頃だった。
高い石壁の向こうには、夜の闇に沈んだ建物がそびえている。
正門に立つ警備兵は、数日前にも訪れたゼノンとアルベルトの姿を見て、驚いたように目を見開いた。
「ヴァルディエ様……? このような時間に、どうなさいましたか?」
「確認したいことがあるんです」
ゼノンは穏やかに答えた。
「現在収容されている囚人について、責任者と話をさせてください」
「ですが、面会時間はすでに……」
「面会ではありません。収容状況の確認です」
ゼノンの声は柔らかかったが、警備兵はそれ以上言葉を続けられなかった。
隣に立つアルベルトが口を開く。
「急ぎの用件だ。責任者を呼んでくれ」
「……かしこまりました」
警備兵が建物の中へ駆け込んでいく。
その背中を見送りながら、ラビが小さく息を吐いた。
「まさか、こんなに早くまた来ることになるとはね」
「悪いな、付き合わせて」
アルベルトが言うと、ラビは笑った。
「何言ってるの。僕だって気になってるんだから」
ゼノンは二人の会話を聞きながら、閉ざされた門を見つめていた。
十年前、ヴェロニカはこの施設から逃がされていた。
ドラクロワ家の当主が上層部と接触し、警備の配置を変え、処刑を偽装した可能性が高い。
それが事実なら、この施設の記録は信用できない。
そして、今ここには、ルシアを傷つけた少女が収容されているはずだった。
「……ミアがいれば、それでいい」
ゼノンが静かに呟く。
アルベルトは横目で彼を見た。
「そうだな」
「でも、もし……」
言いかけて、ゼノンは口を閉ざした。
その先を言葉にする必要はなかった。
◇
応接室へ案内されてからしばらくすると、以前と同じ管理責任者が姿を現した。
「ヴァルディエ様、ローレンツ様、それに、アシュレイ様まで」
男は三人を見回し、困惑した表情を浮かべた。
「このような時間に、いったい何のご用件でしょうか」
「一人、収容状況を確認したい人物がいます」
ゼノンが答えた。
「ミアという元人間の少女です」
男は一瞬、目を瞬かせた。
「……ミア?」
「アストリア共生学園の夜間部に在籍していた、元人間の少女です。ある事件で拘束され、こちらへ移送されたと聞いています」
「少々お待ちください。記録を確認いたします」
男が部下を呼ぼうとすると、アルベルトが口を挟んだ。
「記録だけじゃ駄目だ」
「……はい?」
「本人を確認させてくれ」
男の顔が強張った。
「しかし、囚人との面会には正式な手続きが……」
「面会じゃねぇ。本人がここにいるかどうか、確認したいだけだ」
「それでも、規則がございますので……」
ゼノンは椅子から立ち上がった。
「では、まず記録を確認しましょう」
男がほっとしたように息を吐く。
だが、ゼノンは続けた。
「そのあとで、収容室へ案内してください。本人の所在を確認できれば、それ以上は求めません」
「……」
「何か問題がありますか?」
男はしばらく黙っていた。
やがて、額の汗を拭いながら答える。
「……確認してまいります」
男が退室すると、ラビが扉を見つめた。
「……また、ずいぶん落ち着かない人だね」
「ああ」
アルベルトが腕を組む。
「ヴェロニカの件を調べてから、余計に警戒されてるんだろ」
「それだけならいいんだけど」
ラビの言葉に、ゼノンは答えなかった。
◇
しばらくして、管理責任者が戻ってきた。
手には一冊の台帳を持っている。
「確認いたしました。ミアという少女は、確かに当施設へ収容されております」
ゼノンは顔を上げた。
「現在も?」
「はい。記録上は、現在も収容中となっております」
「……記録上は?」
ゼノンが静かに聞き返した。
男は慌てて言い直す。
「いえ、もちろん現在も収容されているという意味でございます」
「では、案内してください」
「……今から、ですか?」
「はい」
ゼノンは迷わず答えた。
アルベルトも立ち上がる。
「ここまで来たんだ。直接確認させてもらうぞ」
管理責任者は明らかに困っていた。
しかし、ヴァルディエ家のゼノンと、アストリア共生学園の学園長を前に、これ以上拒み続けることもできなかった。
「……承知いたしました」
男は警備兵を呼び、三人を収容区画へ案内するよう命じた。
◇
収容区画へ続く廊下は、ひんやりと冷えていた。
壁には等間隔に灯りが設置され、重い鉄扉がいくつも並んでいる。
遠くから、誰かの話し声がかすかに聞こえた。
案内役の警備兵は台帳を確認しながら歩いていた。
「ミアは第三収容区画におります」
「いつから?」
アルベルトが尋ねる。
「移送された日から、ずっと同じ区画です」
「最近、面会者は?」
「……申し訳ありません。そこまでは私には分かりません」
ゼノンは警備兵の背中を見つめた。
「では、収容室を確認したあと、面会記録も見せてもらえますか?」
「はい。責任者に確認いたします」
やがて、三人は第三収容区画へ到着した。
警備兵が鍵束を取り出す。
「こちらです」
重い扉が開かれた。
その先には、左右に鉄格子の並ぶ廊下が続いている。
収容されている者たちの視線が、三人へ向けられた。
ゼノンはその視線を気にすることなく、奥へ進んだ。
「ミアの収容室は?」
「……こちらになります」
警備兵が足を止めた。
廊下の一番奥。
そこには、ほかと変わらない鉄格子の扉があった。
警備兵が中へ声をかける。
「ミア。確認のため、起きているなら返事をしろ」
返事はなかった。
「……ミア?」
警備兵はもう一度呼びかけた。
それでも、何も聞こえない。
ゼノンが静かに近づく。
格子の向こうには、小さな寝台と机が置かれていた。
毛布は綺麗に畳まれている。
水差しも、手つかずのままだった。
そして。
そこに、少女の姿はなかった。
「……どういうことだ?」
アルベルトの声が低く響いた。
警備兵は青ざめた顔で室内を見つめていた。
「そ、そんな……」
「ここにいるはずなんだろ?」
「は、はい……! 台帳には、確かに……!」
ラビが格子の隙間から中を覗き込んだ。
「……誰もいないね」
ゼノンは無言で扉を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「鍵を開けてください」
「し、しかし……」
「開けて」
短い言葉だった。
警備兵は慌てて鍵を差し込み、扉を開いた。
ゼノンは室内へ足を踏み入れた。
寝台。
机。
水差し。
どこにも人の気配はない。
壁にも床にも、争ったような痕跡は見当たらなかった。
「……いつからいないんだ?」
アルベルトが警備兵に尋ねた。
「わ、分かりません……!」
「毎日、人数を確認してるんじゃねぇのか?」
「もちろんです! ですが、記録では……」
「記録の話はもういい」
アルベルトの声が鋭くなった。
「最後に本人を見たのはいつだ?」
警備兵は答えられなかった。
ラビは寝台の上に置かれた毛布へ視線を落とした。
「……少なくとも、さっきまで誰かが寝ていたようには見えないね」
ゼノンは室内を見回したあと、扉の方へ振り返った。
「アル」
「ああ」
「ミアは、ここにいない」
その言葉に、アルベルトは険しい表情で頷いた。
「……逃がされた可能性が高いな」
ゼノンの赤い瞳が、冷たく細められた。
ヴェロニカに続いて、ミアまで。
十年前と同じように、誰かが囚人を外へ出していたのだとしたら。
その目的は、いったい何なのか。
◇
学園長室へ戻ったのは、夜明けが近づく頃だった。
ゼノンは机の上に、収容施設から持ち帰った記録を並べていた。
アルベルトは椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
「……最悪だな」
「うん」
ゼノンは短く答えた。
ラビが書類をめくる。
「ミアの収容記録は、今日までずっと更新されてる。食事の配給も、点呼も、全部問題なしになってるよ」
「本人がいねぇのにか?」
「そういうこと」
ラビは記録を机へ置いた。
「これ、誰かが意図的に書き換えてる可能性が高いね」
アルベルトが眉間を押さえた。
「ヴェロニカのときと同じ手口か……」
「まだ同じ人間が関わっているかは分からない。でも、調べる必要がある」
ゼノンは冷静に答えた。
「ミアがいつ、どうやって外へ出たのか。面会者がいたのか。誰が記録を管理していたのか」
「施設側には?」
「出入記録と監視記録を保全するよう求めたよ。関係者が勝手に触れられないようにね」
アルベルトは頷いた。
「こっちでも調べよう」
ラビが腕を組んだ。
「それにしても……ミアが逃がされる理由が分からないね」
「……そうだな」
アルベルトはゼノンを見た。
「お前はどう思う?」
ゼノンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……偶然だとは思わない」
「というと?」
「ミアはルシアに関わった人物だから」
その言葉に、部屋が静まり返った。
ゼノンは窓の外へ視線を向けた。
空は、少しずつ明るくなり始めている。
「ミアは、ルシアを傷つけた」
彼の声は、静かだった。
「そのミアが、ヴェロニカと同じ施設から消えている」
アルベルトの表情が険しくなる。
「……ルシアが狙われてるってことか?」
「まだ分からない。でも、その可能性は高いと考えておきたい」
ラビも頷いた。
「そうだね。今のうちに警戒を強めた方がいいと思う」
ゼノンは書類を閉じた。
「ルシアには、まだ話さない」
「……ああ」
アルベルトが答える。
「ミアのことを知れば、また怖い思いをするかもしれねぇからな」
「うん」
ゼノンは静かに立ち上がった。
「屋敷の警備を増やす。ルシアが外へ出るときは、必ず誰かが付き添うようにするよ」
「それがいい」
ラビが頷いた。
「夜間部の方でも、できることがあれば手伝うよ」
「ありがとう」
ゼノンは二人へ微笑んだ。
「二度と近づけないと約束したんだ…」
しかし、その瞳には不安が残っていた。
◇
王都の貴族街。
高い塀に囲まれた屋敷の一室で、一人の少女が窓の外を眺めていた。
淡い色のドレスを着たその少女は、かつてアストリア共生学園の夜間部に通っていた。
ミアだった。
彼女は指先で窓枠をなぞりながら、小さく呟いた。
「……本当に、約束を守ってくれるのかな」
背後から、女の声がした。
「何を心配しているの?」
ミアが振り返る。
そこには、金色の髪を美しく結い上げた女性が立っていた。
レティシア・ドラクロワ。
彼女は優雅に微笑みながら、部屋へ入ってきた。
「ここにいれば、誰にも見つからないわ」
「……でも、ゼノンさんたちが探し始めたら……」
「大丈夫よ。あの方たちは、あなたがここにいるなんて思いもしないでしょうから」
レティシアは椅子に腰を下ろした。
「それより、あなたにはやってもらいたいことがあるの」
「……何ですか?」
「ルシアを、ここへ連れてきてほしいの」
ミアの表情が強張った。
「……ルシアを?」
「ええ。あなたたちは、お友達だったのでしょう?」
「……昔は」
ミアは視線を落とした。
かつて、ルシアと一緒に笑い合っていた日々。
あの頃は、自分がこんな場所にいるなんて想像もしなかった。
レティシアはそんな彼女を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。難しいことは頼まないわ」
「……でも」
「あなたが協力してくれれば、約束されたものも手に入る」
ミアが顔を上げた。
「……ルシアの血、ですよね?」
「ええ」
レティシアは微笑んだ。
「あなたが望んでいたものでしょう?」
ミアは唇を噛んだ。
ルシアの血。
あの特別な力を持つ少女の血を、ほんの少しでも手に入れられたなら。
自分も、何かが変わるかもしれない。
「……分かりました」
ミアは小さく答えた。
ルシアはどれだけ怪我をしても死なないし、何が起きても大丈夫。
「私、協力します!」
レティシアは満足そうに微笑んだ。
「いい子ね」
窓の外では、夜明けの光が屋敷の庭を照らし始めていた。
ミアはまだ知らなかった。
自分が交わした約束の先に、何が待っているのかを。
そして、レティシアが本当に望んでいるものが、ルシアの血ではないことも。




