↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/92

私も強くなりたい



 ヴァルディエ家の屋敷は、いつもより静かだった。


 窓の外には深い夜の闇が広がり、庭園の木々が風に揺れている。


 私は自室の窓辺に立ち、遠くに見える森を眺めていた。


 ゼノンお兄様が出かけてから、もう何時間も経っている。


 いつもなら、こんなに帰りが遅くなることは珍しくない。


 夜間部の仕事もあるし、最近は人間の失踪事件の調査で忙しいことも知っている。


 それでも、今夜はどうしても落ち着かなかった。


「……お兄様」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事があるはずもないのに、耳を澄ませてしまう。


 理由は分かっていた。


 少し前、突然聞こえてきた男の声。


『聞こえているか、ルシア・ヴァルディエ!』


『お前の兄がどうなってもいいのか!?』


 知らない男の声だった。


 けれど、どこか聞き覚えがあるような、不思議な感覚もあった。


 十一年前の記憶。


 血に染まった屋敷。


 お母様の悲鳴。


 その奥で聞こえた、誰かの笑い声。


「……まさか……」


 考えたくなかった。


 あの男は、もう死んだはずなのだから。


 私は窓辺から離れ、ベッドへ腰を下ろした。


 そして、目を閉じる。


 意識を集中させると、胸の奥にあるルナとの繋がりが、はっきりと感じられた。


 ルナは、私の白狼。


 父アルフォンスから受け継いだ狼の異能によって生まれた、大切な存在だ。


 私とルナは、互いの感覚を共有できる。


 離れた場所にいても、ルナが見ているものや感じているものを、私も知ることができるのだ。


 今夜も、ルナはお兄様について森へ向かっていた。


 だから、私はずっと気になっていた。


 あの声が聞こえたあと、森で何が起きたのか。


 お兄様は無事なのか。


 ルナは、何を見ているのか。


 私は静かに息を吐き、ルナへ意識を向けた。


 すると、暗闇の向こうに景色が広がった。


 折れた木々。


 深く抉れた地面。


 月明かりに照らされた森の一角。


 そこに、お兄様がいた。


「……お兄様……!」


 思わず声が漏れる。


 お兄様は立っていた。


 その傍らには、二匹の黒狼が控えている。


 けれど、黒い上着には血が滲み、周囲の地面は戦闘の痕跡で荒れ果てていた。


 ルナは、お兄様の足元に寄り添っている。


 私が感じ取ったのは、戦いが終わったあとの静けさだった。


 お兄様が無事だと分かって、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 けれど、同時に疑問が浮かんだ。


 誰と戦っていたのだろう。


 あの男の声は、一体何だったのだろう。


 そのとき、お兄様がルナの頭を撫でた。


「……ありがとう、ルナ」


 優しい声。


 けれど、その表情はひどく疲れていた。


 私は胸が締めつけられるのを感じた。


「……早く、帰ってきて……」


 ルナとの感覚共有を解き、私はゆっくりと目を開けた。


 見慣れた自室。


 静かな夜。


 それなのに、心臓はまだ激しく脈打っていた。


     ◇


 しばらくして、廊下から足音が聞こえた。


 コンコン、と扉が叩かれる。


「ルシアちゃん? 起きてる?」


「……セドリックさん?」


「入ってもいい?」


「うん!」


 私は慌てて立ち上がり、扉を開けた。


 そこには、セドリックさんが立っていた。


 いつものように軽く笑っている。


 けれど、その顔には疲れが滲んでいた。


「よっ。夜更かししてる悪い子はここかな?」


「セドリックさん! お兄様は!?」


「おっと、落ち着けって」


 セドリックさんは苦笑した。


「ゼノンなら無事だよ。今はアルベルトと話してる」


「……本当?」


「ああ。大した怪我もない。もう治ってる」


 その言葉に、ようやく安心できた。


「……よかった……」


 思わず涙が滲む。


 セドリックさんは困ったように笑い、私の頭をぽんぽんと撫でた。


「そんな顔すんなって。あいつが簡単にやられるわけないだろ?」


「……でも、ルナを通して見たら、お兄様の服に血がついてて……」


 セドリックさんの表情が僅かに変わった。


「……見てたのか?」


「うん。戦いが終わったあとだけど……」


「そっか」


 セドリックさんは少し考えるように黙った。


「……それと」


 私は、彼の顔を見上げた。


「知らない男の人の声が聞こえたの。私の名前を呼んで、お兄様がどうなってもいいのかって……」


 セドリックさんの笑みが消えた。


「……やっぱり、聞こえてたか」


「……あれ、誰なの?」


 彼はすぐには答えなかった。


 代わりに、廊下の奥へ視線を向ける。


「ルシアちゃん。ちょっと一緒に来てくれる?」


「……うん」


     ◇


 屋敷の応接室には、重苦しい空気が漂っていた。


 大きな窓の前にはアルベルトが立ち、その隣にはラビがいる。


 そして、部屋の中央にはゼノンお兄様が立っていた。


 私とセドリックさんが入ると、全員の視線がこちらへ向けられた。


「……ルシア」


 お兄様が、驚いたように目を見開いた。


「どうしてここに?」


「お兄様!」


 私は思わず駆け寄った。


 黒い上着には、土と血の跡が残っている。


 ルナを通して見たときよりも近くでその姿を見て、胸が締めつけられた。


「……怪我、したの?」


「大丈夫だよ。もう治っている」


「でも……!」


 お兄様は優しく微笑み、私の頬へ手を伸ばした。


「心配かけてごめんね」


 その声を聞いた途端、我慢していた涙が零れた。


「……怖かった……」


「……うん」


「知らない人が、お兄様のことを……!」


 お兄様の表情が僅かに強張る。


 けれど、すぐに私を抱き寄せた。


「もう大丈夫」


 背中へ回された腕に、少しだけ力がこもる。


「僕はここにいるよ」


 私はお兄様の胸元へ顔を埋めた。


 聞こえてくる心臓の音。


 その規則正しい鼓動に、ようやく安心できた。


「……お兄様」


「何?」


「……もう、どこにも行かないで」


 お兄様は少しだけ黙った。


 それから、私の髪を優しく撫でた。


「……できるだけ、そうするよ」


 その答えが、約束ではないことくらい分かっていた。


 だから、余計に胸が苦しくなった。


「……ゼノン」


 アルベルトの声が響いた。


「ルシアにも、話しておいた方がいい」


 お兄様の腕が、僅かに強張った。


「……ですが」


「隠したところで、いずれ知ることになる。それに、あの男はもうルシアの存在を把握している」


 私は顔を上げた。


「……あの男?」


 アルベルトは、私を真っ直ぐ見つめた。


「ルシア。十一年前、お前の両親を襲った男のことを覚えているか?」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


「……うん」


 封印が解けたあと、戻ってきた記憶。


 血の匂い。


 お母様の叫び声。


 暗い廊下。


 そして、私を抱き締めてくれたお兄様の温もり。


「……エドモンド、だよね」


 アルベルトが頷いた。


「ああ」


 お兄様が、私の肩へ手を置いた。


「……ルシア」


 その声は、ひどく優しかった。


「エドモンドが、生きていたんだ」


「……え?」


 私は思わず聞き返した。


「……でも、お父様が倒したって……」


「うん。父上は確かにあいつの心臓を奪った。けれど、エドモンドは禁術を使っていたんだ」


 お兄様は静かに続けた。


「百人の命を代償にして、一度だけ死を覆す禁術。あいつはそれで生き延びていた」


 私は息を呑んだ。


「……百人……?」


「うん」


「……そんなに、たくさんの人を……?」


 お兄様は小さく頷いた。


「今日、森で会ったよ」


 頭の中が真っ白になった。


 あの声。


 私の名前を呼んだ男。


 お兄様を脅した、あの声の主。


「……あの声が……?」


「そうだよ」


 お兄様は静かに頷いた。


「エドモンドだ」


 私は唇を噛んだ。


 あの男が、お父様とお母様を殺した。


 私から家族を奪い、十一年間も本当の自分を知らずに生きる原因を作った。


 その男が、まだ生きている。


「……どうして……」


 震える声が零れた。


「どうして、私を……?」


 お兄様の表情が変わった。


 ほんの一瞬。


 けれど、私は見逃さなかった。


「……お兄様?」


「……ルシア」


 お兄様は私の手を取った。


「エドモンドは、君の血を狙っている」


「……血?」


「君はロゼリアとアルフォンスの娘だ。あいつは、その血に異常なほど執着しているんだ」


 私は自分の胸元へ手を当てた。


「……私の、血……」


 お兄様は苦しそうに言葉を選んだ。


「母上の心臓を奪ったのも、ただ殺すためじゃなかった。あいつは、心臓を食べることで相手の異能を奪えると知っていたんだ」


「……お母様の、心臓を……?」


 声が震えた。


 お兄様は私の手を強く握った。


「……ごめんね。こんな話をして」


 私は首を振った。


「……ううん。教えて」


 お兄様の赤い瞳が揺れる。


「私、知りたい。お父様とお母様に何があったのか……」


 長い沈黙のあと、お兄様は静かに頷いた。


「……分かった」


 アルベルトが口を開いた。


「ロゼリアの異能は『治癒』だった」


 私は顔を上げた。


「……治癒?」


「ああ。自分や他人の傷を癒す力だ」


 アルベルトは、どこか懐かしそうに目を細めた。


「ロゼリアは争いを嫌う、心優しい女性だった。誰かを傷つけることよりも、傷ついた者を助けることを選ぶ人だったよ」


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 お母様らしい。


 記憶の中のお母様は、いつも優しく笑っていた。


 私が転んだときも、泣いたときも、必ず傍にいてくれた。


「……お母様……」


 お兄様が静かに続けた。


「エドモンドは、その力まで奪ったんだ」


 私は顔を上げた。


「……じゃあ、今は……」


「うん。あいつは母上の『治癒』を使える」


 その言葉に、背筋が冷たくなった。


 お母様が人を助けるために使っていた力。


 それを、お母様を殺した男が使っている。


「……ひどい……」


 小さく呟く。


 ラビが、いつになく真剣な声で口を開いた。


「ルシアちゃん。エドモンドは普通のヴァンパイアとは違う。人間を攫って、禁術まで使っている。自分の欲しいもののためなら、何でもする男だ」


 セドリックさんも頷いた。


「だから、しばらくは一人で行動しないでほしい」


 私は顔を上げた。


「……一人で?」


「ああ。学園へ行くときも、誰かが必ず一緒にいるようにする」


 アルベルトが続ける。


「屋敷の警備も増やす。外へ出る場合は、必ず護衛をつける」


「……分かった」


 私は小さく頷いた。


 けれど、胸の奥には別の感情が芽生えていた。


 また、守られるだけなのだろうか。


 十一年前と同じように。


 みんなが私を守るために戦って、傷ついて。


 私は何も知らないまま、安全な場所で待っているだけ。


「……お兄様」


「何?」


 私は、お兄様の手を握り返した。


「……私も、戦いたい」


 部屋の空気が止まった。


「……ルシア?」


 お兄様が目を見開く。


「何を言っているの?」


「私も、強くなりたい」


 声が震えた。


 けれど、目は逸らさなかった。


「お兄様だけに、危険なことをさせたくない」


「……」


「私だって、ヴァルディエの血を受け継いでいるんだよね?」


 お兄様は何も答えなかった。


「だったら、私にもできることがあるはず」


「……ルシア」


「もう、守られるだけなのは嫌なの」


 言葉にした瞬間、涙が溢れた。


「十一年前も、私は何もできなかった。お父様も、お母様も、私を守ってくれたのに……!」


 お兄様の表情が苦しげに歪む。


「……君は、まだ六歳だったんだよ」


「分かってる……!」


 私は涙を拭った。


「でも、今は十七歳」


 お兄様を真っ直ぐ見つめる。


「お兄様が傷つくのを、ただ待っているだけなんて嫌」


 長い沈黙が流れた。


 お兄様は、私の手を握ったまま動かなかった。


 やがて、静かに口を開く。


「……僕は」


 その声が、僅かに震えた。


「君を、もう二度と失いたくないんだ」


 お兄様は私の手を握ったまま、ゆっくりと目を伏せた。


「十一年前、父上に頼まれたんだ。ルシアを守ってほしいって」


「……うん」


「僕は約束した。何があっても君を守るって。なのに、あの日……君を守るために、君からすべてを奪うことになった」


 お兄様の声が苦しげに揺れた。


「父上も、母上も、僕との思い出も……全部、忘れさせてしまった」


「……お兄様」


「君が人間として笑っていてくれるなら、それでいいと思ってた。僕のことを本当の兄だと知らなくても、また仲良くなれたら、それだけで十分だって」


 お兄様は小さく笑った。


「でも、本当はずっと怖かったんだ」


「……怖かった?」


「うん。君が僕を思い出さないまま、いつか僕の知らない誰かと幸せになるんじゃないかって」


 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。


「それでも、君が幸せなら受け入れなきゃいけないと思ってた。僕が決めたことだからね」


 お兄様の指が、私の手をそっと包み込む。


「やっと全部思い出してくれたのに……今度はまた、あいつが君を奪おうとしている」


 赤い瞳が、私を見つめた。


「……僕は、怖いんだよ。ルシア」


 お兄様が、こんなふうに弱音を吐くのは珍しかった。


 いつも穏やかで、何でもできて、私を守ってくれるお兄様。


 そんな人が、今は泣きそうな顔をしている。


「……お兄様」


 私は繋いだ手を、ぎゅっと握り返した。


「私も、怖いよ」


 お兄様の瞳が揺れる。


「お兄様が帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてた。ルナを通して無事な姿を見るまで、怖くて仕方なかった」


「……ルシア」


「お兄様が私を失うのが怖いのと同じくらい、私もお兄様を失うのが怖いの」


 私は涙を拭い、真っ直ぐにお兄様を見つめた。


「だから、お願い。私にも、お兄様を守らせて」


 お兄様は何も答えなかった。


 ただ、私を見つめている。


「私、お兄様みたいに強くなりたい。ルナと一緒に、もっと上手に戦えるようになりたいの」


「……危険だよ」


「分かってる」


「訓練で強くなったからって、エドモンドに勝てるとは限らない」


「それも分かってる」


「……本当に、頑固だね」


 お兄様は困ったように笑った。


「誰に似たんだろう」


「お兄様じゃない?」


 思わずそう答えると、セドリックさんが吹き出した。


「ぶはっ! 間違いないな!」


「……セドリック」


「いやいや、そっくりだろ。お前だって、一度決めたら絶対に譲らないじゃん」


 ラビも小さく笑った。


「確かに。二人とも、こういうところはよく似てるよね」


 少しだけ、部屋の空気が和らいだ。


 けれど、お兄様はまだ迷っているようだった。


 そんなお兄様へ、アルベルトが声をかけた。


「ゼノン」


「……何ですか」


「ルシアが自分の身を守れるようになることは、お前にとっても悪い話じゃないだろう」


「それは……」


「お前がどれだけ強くても、常にルシアの傍にいられるわけじゃない」


 お兄様は黙った。


「今日だってそうだった。お前が森で戦っている間、ルシアはここで帰りを待っていた」


「……」


「これからも同じ状況が起きる可能性はある。だったら、ルシア自身が戦う術を身につけておくべきだ」


 アルベルトの言葉に、私は小さく頷いた。


 ラビも口を開く。


「僕も賛成だよ」


 お兄様が顔を上げた。


「……ラビまで?」


「うん。ルシアちゃんは、これまでの授業でもちゃんと頑張ってる。もちろん、まだ経験は足りないけどね」


 ラビは私へ視線を向けた。


「ただし、ルシアちゃん。強くなりたいからって、無茶をしていいわけじゃないよ」


「……うん」


「危ないと思ったら逃げること。仲間を頼ること。それも立派な戦い方だからね」


「分かった」


 ラビは満足そうに頷いた。


「よし。じゃあ、僕も協力するよ」


「ありがとう、ラビ!」


「どういたしまして」


 セドリックさんも笑った。


「俺も手伝うぜ。ゼノンの妹を鍛えるなんて、なかなか面白そうだしな」


「……セドリック先輩」


「何だよ。ちゃんと真面目にやるって」


「君が一番心配なんだけど」


「ひどくない!?」


 思わず笑ってしまった。


 お兄様も、ようやく少しだけ笑った。


 そして、私へ向き直る。


「……ルシア」


「……何?」


「分かったよ」


 私は目を見開いた。


「……本当!?」


「うん。ただし、条件がある」


「条件?」


「絶対に一人で危険な場所へ行かないこと。訓練で覚えた力を、勝手に試したりしないこと」


「うん!」


「それから、何かあったら必ず僕に話すこと。隠し事はなしだよ」


 私は少しだけ考えた。


「……それ、お兄様も?」


「……え?」


「お兄様も、危ないことを一人で抱え込まないって約束して」


 お兄様は一瞬、言葉に詰まった。


 セドリックさんが楽しそうに笑う。


「おっ、いいこと言うじゃん!」


「……セドリック、黙って」


「はいはい」


 お兄様は小さくため息をついたあと、私を見つめた。


「……分かった」


「本当?」


「うん。約束する」


 私は嬉しくなって、お兄様へ抱きついた。


「ありがとう、お兄様!」


「わっ……!」


 お兄様は少し驚いたようだったけれど、すぐに私を抱き締め返してくれた。


「……まったく」


 耳元で、優しい声がする。


「君には敵わないな」


     ◇


 その後、私たちは具体的な訓練について話し合った。


 これまで学園で受けていた授業に加えて、屋敷でも実戦を想定した訓練を行うことになった。


 もちろん、いきなり危険なことをするわけではない。


 まずは、自分の力を正確に理解すること。


 ルナとの連携をもっと上達させること。


 そして、相手の攻撃から自分を守る方法を覚えること。


「ルシアちゃんの場合、ルナとの感覚共有はもう使えているからね」


 ラビが説明する。


「これからは、それを戦いの中でどう活かすかが大事になると思う」


「……戦いの中で?」


「そう。ルナが見ているものに意識を向けすぎると、自分の周りへの注意が疎かになることもあるでしょ?」


 私は頷いた。


「……うん。ルナの方に集中すると、こっちが見えにくくなることがある」


「そこを練習しよう。ルナの視界を確認しながら、自分の周囲にも注意を向けられるようにね」


 なるほど。


 今までは、ルナが離れた場所にいるときに感覚を共有することが多かった。


 けれど、実際の戦闘では、自分も動かなければならない。


「それと、ルナ自身の動きも鍛えたいね」


 ラビが続ける。


「ルナは今日、ゼノンを守ってくれたんでしょ?」


「……うん」


 お兄様が頷いた。


「あの子が来てくれなかったら、少し危なかったかもしれない」


 私は思わずお兄様を見た。


「……そんなに?」


「……うん」


 お兄様は苦笑した。


「不意を突かれたんだ。ルナが助けてくれた」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 ルナ。


 私の大切な白狼。


 あの子が、お兄様を守ってくれた。


「……ありがとう、ルナ」


 足元にいたルナの頭を撫でる。


 ルナは嬉しそうに尻尾を揺らした。


 セドリックさんが、その様子を見て笑う。


「しかし、ルナって本当に賢いよな。ルシアちゃんが直接命令しなくても、ゼノンを守りに行ったんだろ?」


「……うん」


「主人の大切な人が分かるのかね」


 お兄様がルナを見つめる。


「……そうかもしれないね」


 ルナはお兄様の方へ歩いていき、その手に鼻先を寄せた。


 お兄様は微笑み、白い頭を撫でた。


「ありがとう」


 その光景を見ていると、胸が温かくなった。


 お父様の黒狼。


 お兄様の二匹の黒狼。


 そして、私の白狼。


 同じ血を受け継いでいるのに、それぞれ少しずつ違う力。


 私も、いつかお父様やお兄様のように強くなれるのだろうか。


 そんなことを考えていると、アルベルトが口を開いた。


「訓練は明日からにしろ。今日はもう遅い」


「……うん」


「ゼノンも休め。お前も疲れているだろう」


「……分かりました」


 お兄様が頷く。


 けれど、その表情にはまだ何かを考えているような影があった。


     ◇


 応接室を出たあと、お兄様は私を部屋まで送ってくれた。


 廊下には、警備のヴァンパイアたちが立っている。


 いつもとは違う、張り詰めた空気。


 その中を、お兄様と並んで歩いた。


「……お兄様」


「何?」


「……怖くないの?」


 お兄様は少し驚いたように私を見た。


「……何が?」


「エドモンドのこと」


 お兄様は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに答えた。


「……怖いよ」


 私は思わず顔を上げた。


「……お兄様でも?」


「もちろん」


 お兄様は私の手を取った。


「君を失うことが、一番怖い」


 胸が、きゅっと締めつけられた。


「……お兄様……」


「だから、強くならなきゃいけないんだ」


 お兄様は私を見つめた。


「君を守れるくらい、もっと」


 私は首を振った。


「……違うよ」


「……ルシア?」


「お兄様だけじゃない」


 私は、繋いだ手をぎゅっと握った。


「私も、強くなるから」


 お兄様の瞳が揺れた。


「……ルシア」


「だから、約束して」


「……何を?」


 私は真っ直ぐに見つめた。


「一人で、全部背負わないって」


 お兄様は、少しだけ驚いたように目を見開いた。


 それから、困ったように笑った。


「……難しいお願いだね」


「難しくても、だよ」


 私は頬を膨らませた。


「お兄様は、いつも一人で何でもしようとするんだから」


 お兄様は小さく笑った。


「……そうかな」


「そうだよ!」


 しばらく見つめ合ったあと、お兄様は静かに頷いた。


「……分かった」


「本当?」


「うん」


 お兄様は、私の手をもう一度握り直した。


「約束するよ」


 私はようやく笑った。


「……よかった」


     ◇


 部屋へ戻ると、ルナが私の足元へ寄り添った。


 お兄様は扉の前で立ち止まり、私を見つめた。


「……おやすみ、ルシア」


「……おやすみ、お兄様」


 私は少し迷ったあと、そっとお兄様の袖を掴んだ。


「……あの」


「何?」


「……もう少しだけ、一緒にいてくれない?」


 お兄様の瞳が、優しく細められた。


「……もちろん」


 お兄様は部屋へ入り、私をベッドへ座らせた。


 そして、その隣へ腰を下ろす。


 私は、お兄様の肩へそっと頭を預けた。


「……こうしてると、安心する」


「……僕もだよ」


 お兄様の腕が、私の肩を優しく包む。


 しばらく、何も話さなかった。


 ただ、互いの温もりを感じていた。


「……お兄様」


「何?」


「……私、絶対に強くなるから」


 お兄様は、小さく笑った。


「……うん」


「だから、お兄様も……」


 言葉が詰まる。


 お兄様は、私の髪を撫でた。


「……大丈夫」


 その声は、ひどく優しかった。


「君がいてくれる限り、僕は負けないよ」


 私は目を閉じた。


 お兄様の胸元から聞こえる、規則正しい心臓の音。


 その音に包まれながら、少しずつ眠気が訪れる。


「……お兄様……」


「……うん?」


「……大好き……」


 お兄様の腕が、僅かに強くなった。


「……僕もだよ、ルシア」


 その声を最後に、私はゆっくりと眠りへ落ちていった。


     ◇


 ルシアが眠ったあと。


 ゼノンは、しばらくその寝顔を見つめていた。


 黒い髪。


 長い睫毛。


 穏やかな寝息。


 十一年前、まだ幼かった妹の姿が重なる。


 あの頃は、こんなふうに再び触れられる日が来るとは思っていなかった。


「……ルシア」


 ゼノンは、そっと彼女の頬を撫でた。


「……ごめんね」


 小さく呟く。


「君には、何も知らずに笑っていてほしかった」


 けれど、それが叶わないことも分かっている。


 エドモンドは生きていた。


 そして、ルシアを狙っている。


 もう、隠し続けることはできない。


 ゼノンは静かに立ち上がった。


 その足元で、ルナが顔を上げる。


「……ルナ」


 白い狼が、じっと彼を見つめた。


 ゼノンはしゃがみ込み、その頭を撫でる。


「……今夜も、ルシアの傍にいてくれる?」


 ルナは、小さく鼻を鳴らした。


 まるで、任せてほしいと答えているかのようだった。


「……ありがとう」


 ゼノンは微笑み、もう一度ルナの頭を撫でた。


 白い狼は、眠るルシアのベッドの傍へ歩いていくと、静かに身体を伏せた。


 ゼノンはその姿をしばらく見つめていた。


 十一年前、父アルフォンスは何匹もの黒狼を自在に操り、その狼のいる場所へ瞬時に移動することができた。


 ゼノン自身も父の力を受け継いでいる。


 けれど、生み出せる黒狼の分身は二匹までで、父のように瞬間移動することはできない。


 その代わりに、ゼノンには『重圧』がある。


 そしてルシアは、父とも兄とも違う白狼を生み出した。


 その白狼は、今夜ゼノンの命を守ってくれた。


「……父上」


 ゼノンは小さく呟いた。


「ルシアは、こんなに大きくなりましたよ」


 眠る妹へ視線を戻す。


「……それに、随分と強くなった」


 かつては、自分の後ろを追いかけてばかりいた小さな女の子。


 転びそうになれば手を差し伸べ、怖い夢を見れば隣で眠ってあげた。


 あの頃のルシアは、何かあるたびに『お兄さま』と自分を呼んでいた。


 今も、同じように呼んでくれる。


 けれど、もうあの頃の幼い少女ではない。


 自分の意思で考え、自分の足で歩こうとしている。


「……守らせて、か」


 ゼノンは苦笑した。


 今夜、ルシアに言われた言葉を思い出す。


『私にも、お兄様を守らせて』


 そんなことを言われる日が来るとは、思っていなかった。


 守るのは、いつだって自分の役目だと思っていたから。


「……困ったな」


 小さく笑う。


「僕は、君を守ることしか考えてこなかったのに」


 けれど、嬉しくもあった。


 ルシアが、自分を守りたいと思ってくれたこと。


 自分と同じように、大切に想ってくれていること。


 その気持ちが、何よりも嬉しかった。


 ゼノンはベッドへ身を屈め、眠るルシアの額へそっと口づけた。


「……おやすみ、ルシア」


 今度こそ、静かに部屋を出る。


 扉が閉まる直前、ルナが顔を上げた。


 ゼノンは小さく微笑む。


「……頼んだよ」


 白い狼は、再び静かに目を閉じた。


     ◇


 廊下へ出ると、ゼノンの表情から笑みが消えた。


 屋敷の窓から差し込む月明かりが、黒い髪を淡く照らしている。


 足元の影が揺れた。


 そこから、二匹の黒狼がゆっくりと姿を現す。


 深紅の瞳。


 漆黒の毛並み。


 父アルフォンスから受け継いだ力。


 ゼノンは二匹を見下ろした。


「……今度こそ、終わらせるよ」


 黒狼たちが、低く唸る。


 十一年前。


 父と母を奪われたあの日。


 ゼノンは、エドモンドを倒しきることができなかった。


 父アルフォンスと共に追い詰め、心臓まで奪った。


 それでも、あの男は生き延びた。


 そして今。


 再びルシアを奪おうとしている。


「……二度目はない」


 ゼノンの声が、静かな廊下へ響いた。


 その赤い瞳には、冷たい殺意が宿っていた。


 けれど、今夜ルシアと交わした約束も忘れてはいなかった。


 一人で、すべてを背負わないこと。


 彼女が強くなろうとする気持ちを、否定しないこと。


 ゼノンは小さく息を吐いた。


「……父上」


 窓の外へ視線を向ける。


「僕は、あなたのように何匹もの狼を操ることも、その場所へ瞬間移動することもできません」


 二匹の黒狼が、主人を見上げた。


「でも、僕には僕の力がある」


 ゼノンは静かに微笑んだ。


「それに、守りたいものも……守ってくれる人たちもいる」


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「……ゼノン」


 セドリックだった。


 彼はゼノンの足元にいる二匹の黒狼を見て、軽く眉を上げた。


「おいおい。こんな時間に何するつもりだ?」


「……別に」


「別に、って顔じゃないだろ」


 セドリックは呆れたように笑った。


「まさか、一人でエドモンドを探しに行こうとか考えてないよな?」


 ゼノンは少しだけ黙った。


 それから、小さく笑う。


「……考えてないよ」


「本当か?」


「うん」


 セドリックは疑わしそうに目を細めた。


「……珍しいな」


「何が?」


「お前が、そんなに素直なの」


 ゼノンは苦笑した。


「……ルシアと約束したから」


 セドリックが目を丸くする。


「……へえ?」


「一人で、全部背負わないって」


 その言葉を聞いたセドリックは、しばらく黙っていた。


 そして、突然笑い出した。


「ははっ! ルシアちゃん、やるじゃん!」


「……何?」


「いや、俺たちが何年言っても聞かなかったことを、あの子は一晩で約束させたんだろ?」


 ゼノンは少しだけ目を逸らした。


「……うるさいな」


「いやいや、褒めてるんだって!」


 セドリックは楽しそうに笑ったあと、ゼノンの肩へ手を置いた。


「……まあ、いいんじゃないか」


「……何が?」


「頼れよ、俺たちを」


 その声は、いつもの軽い調子とは少し違っていた。


「お前がルシアちゃんを守りたいのは分かってる。でも、俺たちだって同じだ」


 ゼノンは顔を上げた。


「……セドリック」


「エドモンドのことも、ヴェロニカのことも、失踪事件のことも。全部、お前一人で片づける必要なんてない」


 セドリックは笑った。


「俺たち、仲間だろ?」


 ゼノンは、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、静かに頷く。


「……うん」


 その表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「ありがとう、セドリック」


「おう!」


 セドリックは満足そうに頷いた。


「じゃあ、とりあえず今日は寝ろ。明日から忙しくなるぞ」


「……分かってるよ」


「本当かぁ?」


「……君、しつこいね」


「誰のせいだと思ってんだよ!」


 二人の声が、静かな廊下に響いた。


 ゼノンは、久しぶりに心から笑った。


     ◇


 同じ頃。


 王都から遠く離れた、古い城の地下。


 黒い霧が、石造りの広間へゆっくりと流れ込んだ。


 その中から、エドモンドとヴェロニカが姿を現す。


「……エドモンド様」


 ヴェロニカが恐る恐る声をかけた。


「……本当に、ルシア様を……?」


 エドモンドは答えなかった。


 ただ、広間の奥に置かれた古い肖像画を見つめていた。


 そこに描かれているのは、一人の美しい女性。


 長い黒髪。


 優しい微笑み。


 ロゼリアだった。


 エドモンドは、ゆっくりと肖像画へ近づく。


「……ロゼリア」


 その声は、驚くほど優しかった。


「ようやく、君の娘に会えるよ」


 指先で、肖像画の頬を撫でる。


「君によく似ているのだろうね……」


 エドモンドは嬉しそうに微笑んだ。


「楽しみだなぁ……」


 その赤い瞳が、妖しく輝く。


「今度こそ、誰にも邪魔はさせない」


 広間の奥で、黒い霧がゆっくりと渦を巻いた。


 その中から、複数の人影が現れる。


 エドモンドは振り返り、満足そうに笑った。


「準備を進めろ」


 低い声が、石造りの広間に響く。


「ルシア・ヴァルディエを迎えるための準備をな」


 黒い霧の奥で、誰かが静かに頭を下げた。


 エドモンドは再び肖像画へ視線を戻す。


「……待っていておくれ、ロゼリア」


 その笑みは、ひどく優しく。


 そして、恐ろしいほど歪んでいた。


「もうすぐ、僕たちの家族が増えるよ」


 古い城に、男の笑い声が響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。