追放の理由
朝の光が、厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。
ルシアが目を覚ますと、最初に見えたのは見慣れた黒い髪だった。
「……お兄様?」
小さく呼びかけると、頭上から穏やかな声が返ってきた。
「おはよう、ルシア」
ゼノンは寝台の背もたれに寄りかかり、片手に開いた本を持っていた。
ルシアは彼の腕に抱きついたまま眠っていたらしい。
「……あれ?」
ぱちぱちと瞬きをする。
「私、昨日……」
「僕の部屋で眠ってしまったんだよ」
「あっ!」
ルシアは慌てて身体を起こした。
「ご、ごめんなさい! お兄様、眠れなかったんじゃ……」
「ちゃんと眠ったよ」
ゼノンは微笑んだ。
「ルシアがあまりにも気持ちよさそうに眠っていたから、起こすのが可哀想でね」
「でも……」
「それに、僕も嬉しかったんだ」
ゼノンは本を閉じ、彼女の頬に手を添えた。
「こうして一緒に朝を迎えられることが」
ルシアの頬が、ほんのり赤くなる。
「……お兄様って、朝からそんなこと言うんだね」
「本当のことだからね」
くすりと笑うゼノンに、ルシアもつられて微笑んだ。
窓の外では、小鳥たちがさえずっている。
静かで、穏やかな朝だった。
「今日は何か予定があるの?」
ルシアが尋ねると、ゼノンは少し考えた。
「午前中に少しだけ仕事があるけれど、午後は空いているよ」
「本当?」
「うん。どうかした?」
ルシアは少し迷ってから、彼の袖を引いた。
「あのね……今日は、お兄様とゆっくり過ごしたいなって」
ゼノンは嬉しそうに目を細めた。
「もちろん。何かしたいことはある?」
「うーん……」
ルシアは考え込んだ。
「お茶を飲んだり、お話したり……あっ、久しぶりに一緒に本を読みたい!」
「いいね」
「お兄様が昔読んでくれたお話、また聞きたいな」
「覚えているの?」
「全部じゃないけど、なんとなく」
ルシアは照れくさそうに笑った。
「お兄様の声を聞いていると、安心するの」
ゼノンは一瞬、目を細めた。
「……それは嬉しいな」
彼はルシアの手を取り、指先にそっと口づけた。
「じゃあ、今日はルシアのために時間を空けておくよ」
「やった!」
ルシアは嬉しそうに彼へ抱きついた。
ゼノンはその身体を優しく受け止め、黒髪を撫でた。
「でも、その前に朝食を食べようか」
「うん!」
ルシアは頷いたものの、すぐには離れなかった。
「……ルシア?」
「あとちょっとだけ」
ゼノンは小さく笑った。
「仕方ないな」
そう言って、彼女の額に優しく口づける。
ルシアは幸せそうに目を閉じた。
◇
アストリア共生学園の学園長室。
アルベルト・ローレンツは、机の上に広げた古い記録を睨んでいた。
「……まさか、こんなところに残ってたとはな」
それは、かつてヴァルディエ王家で行われていた血液研究に関する調査記録だった。
アルベルトは以前、王家に仕えていた。
王家の人間については、当然よく知っている。
マリア・ヴァルディエ。
その弟であり夫でもある、セオドール・ヴァルディエ。
二人の子供であるアルフォンスとロゼリア。
そして、マリアとセオドールの末弟、エドモンド・ヴァルディエ。
彼らの家族関係も、性格も、王家の中でどのような立場にあったのかも、アルベルトはよく覚えていた。
エドモンドが王家から追放されたことも知っている。
ただし、その理由だけは違った。
「……あのとき、何があったのか」
アルベルトは小さく呟いた。
エドモンドが追放された当時、王家から正式な説明はほとんどなかった。
重大な規律違反があった。
知らされたのは、それだけだった。
詳しい事情を尋ねても、関係者は口を閉ざした。
セオドールも、マリアも。
そして、ロゼリアも。
王家に仕えていたアルベルトでさえ、その詳細を知ることは許されなかった。
それほどまでに、秘匿しなければならない理由があったのだ。
「……ようやく分かるかもしれねぇな」
アルベルトは記録をめくった。
そこには、エドモンドが行っていた研究について記されていた。
『純血種の血液特性に関する研究』
表向きは、王族の血に宿る能力を調べるためのもの。
しかし、その研究内容には不審な点が多かった。
採血の記録が、異常なほど繰り返されている。
そして、その対象者の名前を見た瞬間、アルベルトの表情が変わった。
『ロゼリア・ヴァルディエ』
「……ロゼリア?」
アルベルトは思わず声を漏らした。
何度も記されている名前。
採血量。
採血日時。
研究の名目。
それらを読み進めるうちに、アルベルトの眉間に深い皺が刻まれていった。
「……何だよ、これ」
ロゼリアは、エドモンドの姪にあたる。
幼い頃から、彼を親族として信頼していたはずだった。
その信頼を利用して、エドモンドは研究と称し、繰り返し血を採っていた。
さらに、別の記録にはこう記されていた。
『採取した血液の一部が、研究用途に使用されていなかったことを確認』
アルベルトは頁をめくった。
続く文章を読んだ瞬間、その手が止まる。
『エドモンド・ヴァルディエ本人による、採取血液の摂取が確認された』
「…………は?」
アルベルトは、しばらくその文字を見つめていた。
読み間違いかと思った。
けれど、何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。
「……あの野郎」
低い声が漏れた。
研究のためだと偽り、ロゼリアから血を採り続けていた。
そして、その血を自ら飲んでいた。
ロゼリアは何も知らず、叔父を信じていたのだろう。
アルベルトは拳を握り締めた。
「ふざけやがって……!」
机を叩きそうになった手を、寸前で止める。
怒りが込み上げていた。
王家に仕えていた頃、アルベルトはロゼリアと親しくしていた。
幼い頃から知っている、大切な友人だった。
彼女がそんな目に遭っていたことを、自分は何も知らなかった。
記録には、事件発覚後の対応についても記されていた。
『本件は王家の信用を著しく損なう恐れがあるため、詳細を関係者以外に開示しないものとする』
アルベルトは苦々しく息を吐いた。
「……そういうことかよ」
純血の王族が、同じ王族の少女を騙して血を奪い、飲んでいた。
しかも、加害者は彼女の叔父。
それが公になれば、王家の権威は大きく傷つく。
王家が事件を秘匿した理由は理解できた。
だが、納得できるかといえば、話は別だった。
「……ロゼリアは、どう思ってたんだろうな」
アルベルトは静かに呟いた。
信頼していた叔父に裏切られたこと。
自分の血が、研究ではなく個人的な欲望のために奪われていたこと。
それを知ったとき、彼女はどれほど傷ついただろう。
アルベルトは目を伏せた。
今となっては、本人に確かめることもできない。
やがて、もう一枚の記録に目を留めた。
『セオドール・ヴァルディエの申し立てにより、当該研究を即時停止』
『エドモンド・ヴァルディエに対し、王家からの永久追放を命ずる』
「……セオドールが見つけたのか」
アルベルトは静かに頷いた。
娘を守るため、セオドールは実の弟を追放した。
当時、その決定に王家の内外から疑問の声が上がっていたことを、アルベルトも覚えている。
だが、理由が伏せられていた以上、誰も真相を知ることはできなかった。
アルベルトはもう一度、ロゼリアの名前を見つめた。
「……十一年前の襲撃も、やっぱりお前が原因だったのか?」
エドモンドは王家を追放された。
それから長い年月が過ぎ、あの惨劇が起きた。
アルフォンスとロゼリアは命を落とし、幼いルシアは身を隠すため、そして両親を殺されたショックがあまりにも大きかったため、ヴァンパイアとしての力を封印されることになった。
アルベルトは唇を噛んだ。
エドモンドがロゼリアの血に異常な執着を抱いていたのなら、その娘であるルシアを狙う理由も、そこにあるのかもしれない。
だが、それだけでは説明できないことも多い。
十一年前、エドモンドは何をしようとしていたのか。
そして、今になって再びルシアを狙う目的は何なのか。
「……まだ何か隠してやがるな」
アルベルトは書類を閉じた。
すべてを解明するには、まだ情報が足りない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
エドモンドの執着は、ルシアが生まれるよりもずっと前から始まっていたのだ。
アルベルトは机の引き出しから便箋を取り出した。
「……ゼノンにも知らせねぇとな」
ペンを握る。
しかし、すぐには書き始めなかった。
ゼノンにとって、ロゼリアは大切な母親だ。
その母親が、かつて実の叔父から受けていた仕打ち。
それを知れば、ゼノンがどれほど怒るかは想像できた。
それでも、隠しておくわけにはいかない。
ルシアを守るためにも。
「……悪いな、ロゼリア」
アルベルトは小さく呟いた。
「お前が隠しておきたかったことかもしれねぇけど……今は、そうも言ってられねぇんだ」
そして、静かにペンを走らせた。
◇
昼過ぎ。
ヴァルディエ家の書斎には、柔らかな日差しが差し込んでいた。
ルシアは大きなソファに腰掛け、膝の上に一冊の本を広げていた。
その隣では、ゼノンが彼女の肩を抱きながら、ゆっくりと頁をめくっている。
「……それで、王子様はどうしたの?」
ルシアが尋ねると、ゼノンは微笑んだ。
「森の奥にある城へ向かったんだよ」
「一人で?」
「そう。大切な人を迎えに行くためにね」
「ふふ、勇敢だね」
「そうだね」
ゼノンは頁をめくった。
「でも、王子は少し怖かったんだ」
「どうして?」
「もし迎えに行っても、相手が自分を覚えていなかったらどうしようって」
ルシアは静かに本を見つめた。
「……それは、寂しいね」
「うん」
ゼノンは彼女の髪を撫でた。
「それでも、王子は諦めなかった」
「どうして?」
「もう一度会いたかったからだよ」
ルシアはゆっくりと顔を上げた。
ゼノンは穏やかに微笑んでいる。
「……お兄様みたい」
小さな呟きに、ゼノンの指が止まった。
「僕?」
「うん」
ルシアは微笑んだ。
「お兄様も、ずっと私を待っててくれたんでしょう?」
「……そうだね」
「私が忘れちゃってても、諦めなかったんだよね」
ゼノンはしばらく黙っていた。
それから、そっとルシアを抱き寄せた。
「諦める理由なんて、なかったからね」
「……お兄様」
「君が僕のことを忘れていても、どうしても会いたかったんだ」
ルシアは彼の胸に顔を寄せた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ゼノンは微笑み、彼女の髪に口づけた。
しばらくの間、二人は何も言わずに寄り添っていた。
やがて、ルシアが顔を上げる。
「ねえ、お兄様」
「なあに?」
「王子様は、ちゃんと大切な人に会えたの?」
ゼノンは本を見下ろした。
「もちろん」
「よかった!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、続き読んで?」
「喜んで」
ゼノンは彼女を抱き寄せたまま、再び物語を読み始めた。
◇
同じ頃。
王都の外れにある古い屋敷では、レティシア・ドラクロワが一人の男と向かい合っていた。
薄暗い部屋。
窓には厚い布が掛けられ、昼間だというのにほとんど光が入らない。
「……姫君の動向を知らせろ、とのことでしたわね」
レティシアは静かに口を開いた。
向かいに立つ男は、黒い外套をまとっていた。
「そのとおりです」
「ですが、今は難しい状況ですの」
「なぜです?」
男の声には感情がなかった。
レティシアは眉をひそめた。
「ゼノン様が、私を警戒していらっしゃるのです」
「……ほう」
「先日、学園でルシア様の予定を尋ねただけで、詳しいことは教えていただけませんでした」
「それは困りましたね」
「それだけではありませんわ。アルベルト学園長にも、不審に思われているようですの」
男はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「では、別の方法を考えましょう」
「別の方法?」
「姫君の周囲には、ゼノン様以外にも人がいるでしょう」
レティシアは目を細めた。
「……どういう意味ですの?」
「学園の友人、使用人、知人。誰か一人でも情報を得られれば十分です」
「それは……」
レティシアは言葉を詰まらせた。
確かに、ルシアの周囲には多くの者がいる。
けれど、誰もが彼女を大切に思っている。
簡単に情報を漏らすとは思えなかった。
「焦る必要はありません」
男は静かに続けた。
「姫君が再び学園へ通い始めた以上、必ず隙は生まれます」
「……そうでしょうか」
「ええ」
男は微笑んだ。
「人は、日常に戻ったときこそ油断するものですから」
その言葉に、レティシアは小さく息を呑んだ。
「……ゼノン様には、決して危害を加えないでくださいませ」
男は首を傾げた。
「それは、あなたのご希望ですか?」
「当然ですわ」
レティシアは強い口調で答えた。
「私は、ゼノン様を傷つけたいわけではありません」
「承知しております」
男は丁寧に頭を下げた。
「ですが、我々にも目的がございます」
レティシアの表情が険しくなった。
「……何をなさるおつもり?」
「それは、まだお伝えできません」
男は微笑んだ。
「ただ、あなたには引き続き協力していただきます」
レティシアは唇を噛んだ。
十一年前。
自分があの男に手を貸したことを、今でも後悔していないと言えば嘘になる。
けれど、もう引き返せないところまで来てしまった。
あの夜の真実が明らかになれば、ゼノンは二度と自分を見てくれないだろう。
「……分かりましたわ」
レティシアは小さく答えた。
「ただし、ゼノン様には絶対に手を出さないで」
「もちろん」
男は深く頭を下げた。
その口元に浮かんだ笑みを、レティシアは見ることができなかった。
◇
夕方。
ヴァルディエ家の書斎では、ルシアがゼノンの肩にもたれかかっていた。
本を読み終えた二人は、温かい紅茶を飲みながら、ゆっくりと過ごしていた。
「今日、すごく楽しかった」
ルシアが言うと、ゼノンは微笑んだ。
「僕もだよ」
「また一緒に本を読もうね」
「いつでも」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「ゼノン様、お手紙が届いております」
アンナの声だった。
「誰から?」
「アルベルト学園長様からでございます」
ゼノンの表情が、わずかに変わった。
「分かった。持ってきて」
アンナが入室し、封筒を差し出す。
ゼノンはそれを受け取った。
「ありがとう」
「失礼いたします」
アンナが退室すると、ゼノンは封を切った。
中には、短い手紙が入っていた。
ルシアは隣から覗き込む。
「アルから?」
「うん」
「何だって?」
ゼノンは手紙に目を通した。
その瞳が、徐々に鋭くなる。
「……お兄様?」
ルシアが不思議そうに声をかけた。
ゼノンは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「ちょっと、仕事の話みたいだね」
「そうなの?」
「うん。明日、アルベルトに会ってくるよ」
ルシアは頷いた。
「分かった。お仕事頑張ってね」
「ありがとう」
ゼノンは彼女の頭を優しく撫でた。
けれど、手紙を持つ指先には、わずかに力が入っていた。
そこには、こう記されていた。
『エドモンドに関する古い記録を見つけた。ロゼリアの血について、妙な記述がある。直接話したい』
ゼノンは静かに手紙を折り畳んだ。
母の血。
エドモンド。
そして、十一年前の事件。
忘れたことなど、一度もない名前だった。
ルシアが隣で微笑んでいる。
その笑顔を見つめながら、ゼノンは心の中で静かに誓った。
今度こそ、必ず守る。
誰にも、二度と奪わせない。
◇
夜。
地下礼拝堂では、エドモンド・ヴァルディエが古い石棺の前に立っていた。
石棺の表面には、血管のような赤い模様が浮かび上がっている。
その光は、以前よりも強く脈打っていた。
「……順調だな」
エドモンドは満足げに微笑んだ。
背後から、黒い外套の男が近づいてくる。
「ご報告がございます」
「言え」
「姫君は、学園へ復帰されたようです」
「そうか」
エドモンドは目を細めた。
「ゼノンは?」
「常に傍らにおります」
「……邪魔な男だ」
低い声が、礼拝堂に響いた。
「十一年前も、あの男さえいなければ……」
エドモンドは言葉を切った。
過去の記憶が、脳裏をよぎる。
血に染まった王宮。
倒れたアルフォンス。
そして、ロゼリア。
あの夜、すべてが自分のものになるはずだった。
だが、計画は失敗した。
ゼノンが生き残り、ルシアは姿を消した。
そして、今。
ようやく、あの少女が戻ってきた。
「……ルシア」
エドモンドはその名を口にした。
赤い光が、石棺の表面をゆっくりと巡る。
「もう少しだ」
彼は石棺に手を添えた。
「お前の血があれば、今度こそ……」
その先の言葉は、誰にも聞こえなかった。
ただ、地下礼拝堂の奥で、何かが静かに脈打っていた。
十一年前に終わったはずの悪夢が、再び動き始めようとしていた。




