二人の大切な時間
学園の正門を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。
空には無数の星が瞬き、月が静かに王都を照らしている。
ゼノンとルシアは、迎えの馬車へ向かって歩いていた。
「今日は楽しかったね」
ルシアが嬉しそうに言った。
「うん。ルシアが楽しそうでよかった」
「アルの授業、面白かったの。いつも家で見てるアルとちょっと違って、不思議だったよ」
「アルベルトも昔は教師をしていたからね」
「そうなの?」
「うん。今でも教えるのは上手いと思うよ」
「確かに、分かりやすかった!」
ルシアは頷いた。
「それに、クレイドが隣にいてくれたのも嬉しかったな」
「そう」
「クレイドって、いつも口ではあんなこと言うけど、すごく優しいんだよ」
「知ってるよ」
ゼノンは微笑んだ。
「ルシアのことを大切に思っているんだろうね」
「うん! 小さい頃からずっと一緒だったから」
その言葉に、ゼノンは一瞬だけ目を伏せた。
ルシアが人間として過ごした十一年間。
自分がそばにいられなかった時間を、クレイドとアルベルトは共に過ごしてきた。
ゼノンはアルベルトからルシアの様子を聞いていた。
元気にしていることも、どんなふうに成長しているのかも。
けれど、実際に隣で笑い合い、同じ時間を過ごせたわけではない。
そのことを寂しく思わなかったと言えば、嘘になる。
「お兄様?」
ルシアが顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「ううん」
ゼノンは微笑んだ。
「ルシアには、素敵な家族がいたんだなって思って」
「うん」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
「アルもクレイドも、大好きだよ」
それから、ゼノンの腕にそっと抱きついた。
「もちろん、お兄様も!」
ゼノンは目を細めた。
「それは嬉しいな」
「ふふ」
「でも、僕のことは一番好きでいてほしいな」
ルシアはぱちぱちと瞬きをした。
「お兄様、やきもち?」
「そうかもしれないね」
あまりにも素直な返事に、ルシアは思わず笑ってしまった。
「もう、お兄様ったら」
「だめ?」
「だめじゃないよ」
ルシアは彼の手を握った。
「お兄様は、私の大切な人だもん」
ゼノンはその手を優しく握り返した。
「僕もだよ、ルシア」
◇
同じ頃。
レティシアは馬車の中で、険しい表情を浮かべていた。
「……あの方、やはり」
ゼノンの態度は、以前と変わらず丁寧だった。
声を荒らげることもなく、無礼な言葉を口にすることもない。
けれど、あの瞳。
あの静かな微笑み。
まるで、こちらの考えを見透かしているようだった。
「私を疑っていらっしゃるのね」
レティシアは唇を噛んだ。
十一年前。
あの夜のことを、ゼノンがどこまで知っているのか。
王家の警備配置。
屋敷へ入り込むための手段、予定確認。
そして、襲撃のあとに用意された馬車。
自分が関わったことを知る者は、決して多くない。
それなのに。
「どうして……」
レティシアは膝の上で手を握り締めた。
あの夜、ルシアさえいなくなれば。
ゼノンは、いつか自分を見てくれると思っていた。
ロゼリアもアルフォンスも失い、幼い妹まで姿を消した彼を、誰よりも近くで支えたかった。
けれど、ゼノンは変わらなかった。
十一年もの間、彼の心にはルシアがいた。
そして今、再会した妹を以前にも増して大切にしている。
「……許せない」
小さな声が、馬車の中に落ちた。
レティシアは目を閉じた。
けれど、今は動けない。
ゼノンに疑われている以上、少しでも不審な行動を取れば、すべてが明らかになってしまう。
エドモンドの計画がどこまで進んでいるのかも、正確には分からない。
「焦ってはいけないわ」
レティシアは自分に言い聞かせた。
今はただ、何も知らないふりをする。
ゼノンの疑いが薄れるまで。
そのとき、馬車の窓を小さな影が横切った。
レティシアは顔を上げた。
黒い鳥が、月明かりの下を飛んでいく。
その足には、小さな赤い紐が結ばれていた。
レティシアの表情が変わる。
「……まさか」
鳥は馬車の窓枠に降り立った。
レティシアが窓を開けると、鳥は折り畳まれた小さな紙片を落とし、再び夜空へ飛び去った。
紙を開く。
そこには、短い一文だけが記されていた。
『姫君の動向を知らせよ』
差出人の名前はない。
だが、誰からの命令なのか、考えるまでもなかった。
「エドモンド様……」
レティシアは紙片を握り潰した。
ゼノンに疑われている今、軽率な行動はできない。
けれど、あの男の命令を無視することもできなかった。
彼女はしばらく考え込み、やがて紙片を小さく破った。
「……少しだけ、お待ちくださいませ」
その声には、怯えと苛立ちが混じっていた。
◇
ヴァルディエ家の屋敷へ戻ったルシアは、アンナに迎えられた。
「お帰りなさいませ、ルシア様」
「ただいま、アンナ!」
「授業はいかがでしたか?」
「すごく楽しかったよ。今日はアルが先生だったの!」
「まあ、学園長様が?」
「うん。ランスロット先生がお休みだったんだって」
アンナは微笑んだ。
「それは珍しいことでございますね」
「セドリックさんの能力も見せてもらったし、みんなとお話もできたよ」
「それは何よりでございます」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
アンナはそんな彼女を見つめ、ほっとしたように微笑んだ。
ルシアの笑顔を見るたびに、胸が温かくなる。
まだ、すべてが元どおりになったわけではない。
けれど、こうして少しずつ日常へ戻ろうとしている。
それが何よりも嬉しかった。
「お食事はいかがなさいますか?」
「少しだけ食べたいな」
「かしこまりました。温かいスープをご用意いたしますね」
「ありがとう!」
ルシアはゼノンを振り返った。
「お兄様も一緒に食べる?」
「もちろん」
ゼノンが微笑む。
二人は並んで食堂へ向かった。
◇
夜食を終え、自室で着替えを済ませたルシアは、ゼノンの部屋を訪ねた。
扉を軽く叩く。
「お兄様、入ってもいい?」
「もちろん」
返事を聞いて扉を開けると、ゼノンは窓辺の椅子に座っていた。
手元には数枚の書類がある。
「お仕事してた?」
「少しだけね。もう終わるところだよ」
「邪魔しちゃった?」
「まさか」
ゼノンは書類を閉じ、机の上に置いた。
「おいで、ルシア」
ルシアは嬉しそうに近づき、彼の隣に腰を下ろした。
「今日は疲れた?」
「ちょっとだけ。でも、楽しかったよ」
「それならよかった」
ゼノンはルシアの髪を優しく撫でた。
その指先が、銀色の花を模した髪飾りに触れる。
中央には、小さな紫色の宝石が輝いていた。
「今日もつけていたんだね」
「うん。クレイドがくれた髪飾り、気に入ってるの」
「よく似合ってるよ」
「ふふ、ありがとう」
ルシアは嬉しそうに笑った。
けれど、しばらくすると、その笑顔が少しだけ薄れた。
「ねえ、お兄様」
「なあに?」
「私、前みたいに戻れるかな」
ゼノンの手が止まった。
「前みたいに?」
「うん」
ルシアは膝の上で指を重ねた。
「今日ね、授業はすごく楽しかったの。でも、椅子が大きな音を立てたとき、急にあの日のことを思い出しちゃって」
「そうだったんだね」
「すぐに落ち着いたし、最後まで授業も受けられたんだけど……」
ルシアは少し俯いた。
「何でもないことでびっくりしたり、急に怖くなったりするの。いつか、前みたいに普通に過ごせるようになるのかなって」
ゼノンは彼女の手をそっと包んだ。
「ルシア」
「うん?」
「前と同じにならなくてもいいんだよ」
ルシアは顔を上げた。
「怖いと思うことがあっても、立ち止まる日があっても、それでルシアが変わってしまったわけじゃない」
「うん」
「今日、授業に参加したいと思ったんでしょ?」
「うん」
「それで、ちゃんと自分で行ってみた。怖いことがあっても、自分でどうするか決められた。それだけで十分だよ」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「急がなくていいんだ。僕は、今のルシアも大好きだから」
その言葉に、ルシアの胸が温かくなった。
「お兄様」
「うん?」
「ぎゅってしてもいい?」
ゼノンは少し驚いたあと、嬉しそうに目を細めた。
「もちろん」
ルシアは椅子から立ち上がると、ゼノンの膝の上に向かい合うように腰を下ろし、その胸に顔を埋めた。
ゼノンの腕が、そっと背中に回される。
慣れ親しんだ温もり。
安心できる匂い。
耳元で聞こえる、穏やかな声。
「今日は、甘えん坊だね」
「だめ?」
「だめなわけないでしょ」
ゼノンは笑った。
「むしろ、もっと甘えてほしいくらいだよ」
「ふふ……」
ルシアは彼の服をきゅっと握った。
「じゃあ、もう少しこのままがいい」
「いくらでも」
ゼノンは彼女の髪に口づけた。
窓の外では、夜風が庭の木々を揺らしている。
部屋の中には、二人の静かな時間だけが流れていた。
◇
しばらくして、ルシアはゼノンの胸元から顔を上げた。
「ねえ、お兄様」
「なあに?」
「血、もらってもいい?」
ゼノンは彼女を見つめた。
「もちろんだよ」
「ありがとう」
ルシアは少し嬉しそうに微笑んだ。
ゼノンは襟元を緩め、彼女が飲みやすいように首を傾けた。
ルシアは彼の肩に手を添える。
「いただきます」
「うん」
そっと首筋に唇を寄せ、牙を立てる。
肌を破る感触とともに、温かな血が口の中へ流れ込んできた。
懐かしく、安心できる味。
ゼノンの血を飲むのは、これが初めてではない。
けれど、こうして彼に触れ、彼の血を分けてもらうたびに、胸の奥が満たされるような気がした。
ゼノンはルシアの背中をゆっくり撫でていた。
急かすこともなく、彼女が満足するまで静かに待ってくれる。
やがてルシアは牙を離した。
「ありがとう、お兄様」
「もういいの?」
「うん。十分だよ」
ゼノンは彼女の顎にそっと指を添えると、口元に残った血を舌先で優しく舐め取った。
「……っ」
思いがけない仕草に、ルシアは小さく肩を揺らした。
「お兄様、くすぐったいよ」
「ごめんね」
そう言いながらも、ゼノンは楽しそうに微笑んでいる。
「もう……」
ルシアもつられて笑った。
ふと、彼女はゼノンの顔を見上げた。
「ねえ、お兄様」
「なあに?」
「お兄様も、私の血を飲みたい?」
ルシアを抱く手がぴくりと反応する。
「ルシア?」
「私ばっかりもらってるから」
ルシアは少し照れたように笑った。
「お兄様も飲みたいかなって」
ゼノンはしばらく彼女を見つめていた。
その深紅の瞳に、複雑な色が浮かぶ。
「まだ怖いでしょ?」
「え?」
「ミアのことを思い出してしまうかもしれない。だから、無理しなくていいんだよ」
ルシアは瞬きをした。
それから、彼が何を心配しているのか理解したように、表情を和らげた。
「お兄様は平気だよ?」
「本当に?」
「うん」
ルシアは迷わず頷いた。
「あのときは、すごく怖かったよ。ミアが急に変わっちゃって、何が起きてるのか分からなくて……」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、ルシアはゼノンから目を逸らさなかった。
「でもね、お兄様は違うの」
「ルシア……」
「お兄様が私の嫌がることをしないって、ちゃんと分かってるよ」
ゼノンは何も言わなかった。
ルシアは彼の手を取り、自分の頬へそっと当てた。
「それに、本当はお兄様にも飲んでほしいの」
ゼノンの瞳が、わずかに揺れた。
「ルシア」
「だめ?」
小さく首を傾げるルシアに、ゼノンは困ったような笑みを浮かべた。
「そういうこと、あまり言わないで?」
「どうして?」
ゼノンは彼女の頬を撫でながら、少しだけ顔を近づけた。
「襲いたくなってしまうから」
「……っ!」
ルシアの頬が、一気に赤く染まった。
「お、お兄様……!」
「ははっ。そんなに驚かなくても」
「だって、急にそんなこと言うから……」
「先に僕を困らせたのはルシアだよ?」
「もう」
ルシアは恥ずかしそうに俯いた。
ゼノンはそんな彼女を愛おしそうに見つめ、額にそっと口づける。
「でも、ルシアが怖がることはしないよ」
「うん」
「君が安心していられることが、一番大切だから」
ルシアは彼の胸元に顔を寄せた。
「お兄様」
「なあに?」
「私、お兄様といるときが一番安心するよ」
「そう」
ゼノンは彼女を抱き締めた。
「それなら、よかった」
ルシアは少しだけ身体を離し、彼を見上げる。
「でもね」
「うん?」
「私が怖がってないことも、ちゃんと信じてほしいな」
ゼノンは一瞬、言葉に詰まった。
ルシアは真剣な顔をしていた。
無理をしているようには見えない。
ただ、自分の気持ちを伝えようとしている。
「そうだね」
ゼノンはゆっくり頷いた。
「ごめんね。僕のほうが、心配しすぎていたのかもしれない」
「心配してくれるのは嬉しいよ」
ルシアは微笑んだ。
「でも、お兄様のことは怖くないから」
「ありがとう、ルシア」
ゼノンは彼女の手を取り、指先に口づけた。
ルシアはまた頬を赤らめる。
「お兄様、今日はずるいよ」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ、もう一つだけ」
「え?」
ゼノンは彼女の頬に手を添え、唇を重ねた。
短く、優しい口づけ。
離れたあとも、二人の距離は近いままだった。
「大好きだよ、ルシア」
ルシアは幸せそうに微笑んだ。
「私も。お兄様、大好き」
ゼノンは彼女をもう一度抱き寄せた。
その腕の中で、ルシアは安心しきったように目を閉じる。
ゼノンは彼女の黒髪に頬を寄せた。
胸の奥には、言葉にできない思いがあった。
それでも今は、何も告げなかった。
ただ、腕の中にいるルシアの温もりを確かめるように、静かに抱き締めていた。
◇
同じ夜。
アストリア共生学園の学園長室には、まだ明かりが灯っていた。
アルベルト・ローレンツは机の上に広げた古い記録を睨んでいた。
十一年前の王家襲撃事件。
そして、それ以前に起きた数々の不祥事。
エドモンド・ヴァルディエという名は、思っていた以上に多くの記録に残されていた。
「ったく。どこまで遡ればいいんだよ」
アルベルトは疲れたように額を押さえた。
机の上には、古い王家の書類の写しが積み重なっている。
その中の一冊を開いたとき、ふと目が止まった。
『王家血液研究に関する不正行為の調査記録』
「血液研究?」
アルベルトは眉をひそめた。
記録は、十一年前の事件よりもずっと古いものだった。
研究の名目で採取された血液。
正規の許可を受けていない検査。
そして、採血対象者の名前。
『ロゼリア・ヴァルディエ』
「ロゼリア?」
アルベルトの表情が変わった。
彼女は、幼い頃から知っている大切な友人だった。
明るく、優しく、それでいて芯の強い女性。
そんな彼女の名前が、なぜこの記録にあるのか。
アルベルトは急いで次の頁をめくった。
『調査の結果、当該研究には虚偽の申告が認められた』
『採血は研究上の必要性を欠き、特定の対象者に対して繰り返し実施されていた』
さらに、その下には告発者の名前が記されていた。
『セオドール・ヴァルディエ』
アルベルトは息を呑んだ。
「ロゼリアの父親か」
次の頁には、処分に関する記録があった。
『エドモンド・ヴァルディエに対し、王家からの追放を命ずる』
アルベルトはしばらく文字を見つめた。
「そういうことか?」
研究の不正。
ロゼリアへの繰り返しの採血。
実の兄による告発。
そして、王家からの追放。
これらが偶然であるとは思えなかった。
アルベルトはさらに書類を探した。
しかし、肝心の証言部分は欠けている。
誰が何を語り、なぜここまで重い処分が下されたのか。
その詳細は分からなかった。
「まだ何かあるな」
アルベルトは椅子に深く腰を下ろした。
その脳裏に、ロゼリアの笑顔が浮かぶ。
彼女は生前、エドモンドのことをほとんど語らなかった。
少なくとも、アルベルトの記憶にある限りでは。
それが何を意味していたのか。
今となっては、本人に尋ねることもできない。
アルベルトは記録を閉じ、別の書類を取り上げた。
そこには、もう一つ気になる名前があった。
『マリア・ヴァルディエ』
セオドールの妻。
ロゼリアの母。
そして、エドモンドの姉。
「マリアも関わってたのか」
アルベルトは小さく呟いた。
調べなければならないことが、また増えた。
◇
王都から遠く離れた地下礼拝堂。
石壁に並ぶ燭台が、赤い炎を揺らしていた。
エドモンド・ヴァルディエは、古びた椅子に腰掛けていた。
その手には、小さな銀の器がある。
中に満たされた血を、ゆっくりと揺らす。
「違う」
エドモンドは一口含むと、顔を歪めた。
「これも違う」
器を床へ投げ捨てる。
銀が石畳にぶつかり、甲高い音を立てた。
傍らに控えていた男が、怯えたように頭を下げる。
「申し訳ございません」
「何度言えば分かる。私が求めているのは、こんなものではない」
エドモンドは苛立たしげに指先を動かした。
男は震えながら答える。
「ですが、王族に近い血筋の者から集めたもので……」
「血筋だけでは足りん」
低い声が、礼拝堂に響いた。
「あれは、特別だった」
エドモンドは目を細めた。
遠い昔の記憶が、脳裏に蘇る。
陽の差し込む庭。
小さな少女。
転んでしまったのか、膝から血を流して泣いていた。
『痛い……』
その声を聞き、エドモンドは少女の前に膝をついた。
『大丈夫だ。私が治してあげよう』
差し出された小さな足。
傷口に触れた瞬間。
舌に広がった、あの味。
エドモンドはゆっくりと目を閉じた。
「ロゼリア」
名前を呼ぶ声には、奇妙な甘さがあった。
あの日から、忘れたことなど一度もない。
どれほど多くの血を味わっても、彼女の血に勝るものはなかった。
だから、何度も求めた。
彼女に会う理由を作り、研究だと偽り、少しずつ血を手に入れた。
あの子は疑いもしなかった。
いつも、素直に腕を差し出してくれた。
それなのに――。
『娘には二度と会わせない』
兄の声が、記憶の中に蘇る。
セオドール。
自分より先に生まれ、何もかもを手に入れてきた兄。
マリアを妻とし、王家の中で確固たる地位を築き、ロゼリアという娘まで授かった。
その男が、今度は自分からロゼリアを奪おうとした。
「愚かな兄だった」
エドモンドは薄く笑った。
あのとき、自分がどれほどロゼリアを愛していたのか。
誰も理解しようとしなかった。
ロゼリア本人さえも。
やがて彼女は、アルフォンスを選んだ。
エドモンドはゆっくり目を開けた。
赤い炎が、その瞳に映り込む。
「だが、今度こそ……」
彼の口元が歪む。
「今度こそ、手に入れる」
礼拝堂の奥で、何かが低く脈打つような音を立てた。
血管のような模様が走る石棺。
その表面に、赤い光がゆっくりと巡っていく。
エドモンドは石棺へ視線を向けた。
「もう少しだ」
男は頭を下げたまま、動かなかった。
エドモンドの声だけが、冷たい礼拝堂に響く。
「ロゼリアの娘……ルシア」
その名を口にした瞬間、彼の瞳に異様な光が宿った。
「お前なら、きっと……」
言葉の続きを、彼は口にしなかった。
ただ、満足げに微笑んだ。
◇
その夜遅く。
ゼノンの部屋では、ルシアが彼の腕の中でうとうとしていた。
「ルシア」
「ん……?」
「眠い?」
「ちょっと」
ゼノンは小さく笑った。
「今日はたくさん頑張ったからね」
「うん」
「部屋まで送ろうか?」
ルシアは少し考えてから、彼の服をきゅっと握った。
「もう少しだけ、ここにいたいな」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「いいよ」
「ありがとう」
ルシアは安心したように目を閉じた。
ゼノンは彼女の髪を撫でながら、静かに窓の外を見つめる。
月明かりが、庭を淡く照らしていた。
今日、ルシアは自分の足で学園へ向かった。
怖い思いをしながらも、授業を受けて、笑って帰ってきた。
その小さな一歩が、ゼノンには何より嬉しかった。
だからこそ。
その日常を、二度と奪わせるわけにはいかない。
ゼノンは腕の中のルシアへ視線を戻した。
「おやすみ、ルシア」
彼女の額に、そっと口づける。
「大好きだよ」
眠りかけていたルシアが、小さく微笑んだ。
「私も、大好き……」
その声を聞いて、ゼノンも微笑む。
静かな夜だった。
けれど、誰も知らない場所では、十一年前から続く因縁が、再び動き始めていた。
かつてロゼリアを苦しめた男が、今度はその娘へ手を伸ばそうとしている。
そして、長い年月の中に埋もれていた王家の秘密が、少しずつ姿を現そうとしていた。
ルシアはまだ、そのことを知らない。
今はただ、大好きな兄の腕の中で、穏やかな眠りについていた。




