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もう一度、笑えるように



 朝の柔らかな日差しが、薄いカーテンを透かして寝室へ差し込んでいた。


 ルシアはゆっくりと瞼を開けた。 


 枕元には、昨夜抱き締めたまま眠った白い兎のぬいぐるみ、シロちゃんが寄り添っている。


「おはよう、シロちゃん」


 小さく声をかけ、ぬいぐるみの頭を撫でた。


 昨夜は、久しぶりに怖い夢を見なかった。


 眠るまでゼノンが手を握っていてくれたことを思い出し、ルシアはそっと微笑む。


 窓の外には、昨日ゼノンと眺めた庭園が広がっていた。


 月鈴草は夜の光を失い、今は淡い紫色の花弁を朝日に透かしている。


 お母様が好きだった花。


 幼い自分も、あの花を眺めていたのだという。


 その光景を思い出すことはできなかったけれど、昨日ゼノンが話してくれたことは、ルシアの胸に温かなものを残していた。


 もう一度、あの花を見に行きたい。


 そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。


「ルシア様、お目覚めでしょうか?」


「うん、起きてるよ」


 扉が開き、アンナが朝の衣服を抱えて入ってきた。


「おはようございます、ルシア様」


「おはよう、アンナ」


 ルシアは微笑んだ。


「今日はよく眠れましたか?」


「うん。昨日は、お兄様が眠るまでそばにいてくれたの」


「それはようございました」


 アンナは嬉しそうに頷いた。


 ルシアがこの屋敷へ戻ってきてから、夜中に目を覚ますことは珍しくなかった。


 悪夢にうなされ、ゼノンを呼ぶこともあった。


 けれど、今朝の表情はいつもより穏やかだった。


「ねえ、アンナ」


「はい」


「昨日、お兄様と月鈴草を見たの。とても綺麗だったよ」


「月鈴草は、ロザリア様も大変お好きなお花でございました」


「うん。お兄様からも聞いたの」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


「私も、小さい頃に見てたんだって」


「ええ。ロザリア様に抱かれて、よく花壇をご覧になっていたそうですよ」


「アンナも覚えてるの?」


「私は当時、まだこのお屋敷にはおりませんでしたが、マルタから何度も聞いております」


「そっか……」


 ルシアは少し照れたように笑った。


 自分の知らない幼い頃の話を、誰かが覚えていてくれる。


 それが、何だか嬉しかった。


「本日のご予定ですが、朝食のあとにゼノン様からお話があるそうです」


「お兄様から?」


「はい」


「何だろう?」


 ルシアは小さく首を傾げた。


 アンナは微笑みながら、朝の支度を手伝い始めた。


     ◇


 朝食の席には、すでにゼノンが座っていた。


「おはよう、ルシア」


「おはよう、お兄様」


 ルシアが微笑むと、ゼノンも嬉しそうに目を細めた。


「よく眠れた?」


「うん。昨日はありがとう」


「どういたしまして」


 ゼノンは椅子を引いた。


「おいで」


 ルシアはその隣に腰掛けた。


 食卓には焼きたてのパンと温かなスープ、色鮮やかな果物が並んでいる。


 ゼノンは妹の皿にパンを取り分けながら尋ねた。


「今日は少し食べられそう?」


「うん。今朝はお腹が空いてるの」


「それはよかった」


 ゼノンは安心したように微笑んだ。


 ルシアは小さくパンをちぎり、口へ運んだ。


 温かなバターの香りが広がる。


「……美味しい」


「ふふ。マルタが喜ぶね」


 穏やかな朝食の時間が流れた。


 しばらくして、ルシアはふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば、お兄様」


「なあに?」


「アンナから聞いたんだけど、何かお話があるの?」


「ああ、そのことだね」


 ゼノンはカップを置いた。


「今日、クレイドが来ることになったんだ」


「……クレイドが?」


 ルシアの表情が明るくなった。


「うん。午後に少しだけ、顔を見に来るそうだよ」


「……嬉しい」


 ルシアは小さく微笑んだ。


 けれど、すぐに少しだけ表情を曇らせる。


「でも、クレイドは忙しくないのかな」


「どうして?」


「私のことで、アルにもクレイドにも心配をかけちゃったから……」


 ルシアは膝の上で指を重ねた。


「また、無理させちゃうんじゃないかと思って」


 ゼノンは静かに妹を見つめた。


 ルシアはいつも、自分のことより周囲のことを気にかける。


 それは優しさでもあるけれど、ときには自分自身を苦しめてしまうこともあった。


「ルシア」


「なあに?」


「クレイドは、君に会いたいから来るんだよ」


 ルシアが顔を上げる。


「君が会いたいと思っているように、クレイドも君に会いたいんだ」


「……そっか」


「だから、遠慮しなくていい」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「今日は一緒にお茶でも飲もうか」


 ルシアは少し考え、それから小さく頷いた。


「うん」


 そして、何かを思いついたように顔を上げた。


「ねえ、お兄様」


「うん?」


「私、クレイドにお菓子を作ってあげたいの」


 ゼノンは目を瞬かせた。


「お菓子?」


「うん」


 ルシアは懐かしそうに微笑んだ。


「アルのお屋敷にいた頃、よくクッキーを焼いてたでしょ? クレイド、いつも美味しいって食べてくれたから……」


 ゼノンは静かに頷いた。


 けれど、その胸には小さな不安がよぎっていた。


 ルシアが襲われたのは、アルベルトの屋敷の厨房だった。


 ミアに刃物で傷つけられ、血を奪われたあの日。


 ルシアは一週間もの間、意識を取り戻さなかった。


 目を覚ましてからも、突然の物音や人の動きに怯えることがあった。


 厨房へ入ること自体が、怖いのではないだろうか。


「ルシア」


「なあに?」


「本当に、作ってみたい?」


 ルシアは少しだけ視線を落とした。


「……ちょっと怖いけど」


 正直な答えだった。


「でも、クレイドにまた私の作ったお菓子を食べてもらいたいの」


 ゼノンはしばらく妹を見つめていた。


 そして、優しく微笑んだ。


「分かった」


「……いいの?」


「もちろん」


 ゼノンは彼女の手を取った。


「僕も一緒に作っていいかな?」


 ルシアは驚いたように目を瞬かせた。


「お兄様も?」


「うん。実は、あまりお菓子作りをしたことがなくてね」


 ゼノンは少し困ったように笑った。


「君に教えてもらえたら嬉しいな」


 ルシアは思わず小さく笑った。


「ふふ。お兄様にも苦手なことがあるんだね」


「もちろんあるよ」


「何でもできると思ってた」


「それは買いかぶりすぎかな」


 ゼノンが笑うと、ルシアも嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、一緒に作ろう?」


「うん。楽しみにしているよ」


     ◇


 昼前。


 ヴァルディエ家の厨房には、甘いバターの香りが漂っていた。


 大きな調理台の上には、小麦粉や砂糖、卵などが丁寧に並べられている。


 ルシアは白いエプロンを身につけ、ボウルの前に立っていた。


 隣には、同じように袖をまくったゼノンがいる。


「まず、バターとお砂糖を混ぜるの」


「こうかな?」


 ゼノンが泡立て器を動かす。


 ルシアはその手元を覗き込み、小さく頷いた。


「うん。もう少し柔らかくなるまで混ぜてね」


「分かった」


 ゼノンは真剣な表情で混ぜ始めた。


 その姿が何だか可笑しくて、ルシアは口元を緩めた。


「お兄様」


「うん?」


「そんなに真剣な顔しなくても大丈夫だよ」


「そう?」


「うん。お菓子作りは、楽しくするものだから」


 ゼノンは妹を見つめ、それからくすりと笑った。


「そうだね」


 ルシアは微笑み、今度は小麦粉をふるいにかけた。


 細かな粉が、雪のようにボウルへ落ちていく。


「次は、これを少しずつ混ぜるの」


「なるほど」


 ゼノンが頷き、粉を加えようとした。


 けれど、少し勢いが強すぎたらしい。


 ふわりと白い粉が舞い上がり、ゼノンの鼻先についた。


「……あ」


 ルシアが小さく声を漏らした。


「どうしたの?」


「お兄様、お鼻に……」


 ゼノンは不思議そうに首を傾げた。


 ルシアは笑いを堪えるように口元へ手を当てた。


「小麦粉がついてる」


「……本当?」


 ゼノンが鼻先を指で拭う。


 けれど、その指にも粉がついていたため、余計に白くなってしまった。


 ルシアはとうとう小さく吹き出した。


「……ふふっ」


「……あれ?」


「お兄様、もっと白くなっちゃった」


 ゼノンは困ったように笑った。


「どうやら、僕には向いていないみたいだね」


「そんなことないよ」


 ルシアは笑いながら、清潔な布を手に取った。


「ちょっとじっとしててね」


 そう言って、ゼノンの鼻先についた粉をそっと拭う。


 ゼノンは目を細めた。


「ありがとう、ルシア」


「ふふ。どういたしまして」


 ルシアは少し照れたように微笑んだ。


 その様子を、少し離れた場所からマルタとアンナが見守っていた。


 マルタの目には、懐かしい光景が映っていた。


 幼いルシアが、ゼノンのあとを追いかけていた頃。


 いつも兄のそばにいた小さな姫君。


 十一年という長い年月を経て、二人が再びこうして笑い合っている。


 マルタは静かに目を細めた。


 けれど、その穏やかな時間は、突然響いた小さな音によって途切れた。


 カラン、と。


 金属が床に落ちる音がした。


 アンナが調理器具を取り出そうとした拍子に、小さなナイフが棚から滑り落ちたのだ。


「……っ!」


 ルシアの身体がびくりと震えた。


 視線が床へ落ちる。


 銀色の刃。


 冷たい光。


 その瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


 ――嫌。


 ――来ないで。


 あの日の光景が、突然蘇る。


 ミアの顔。


 近づいてくる刃。


 逃げようとしても、身体が動かなかったこと。


 ルシアの呼吸が浅くなった。


 手に持っていた木べらが、指先から滑り落ちる。


「……ルシア?」


 ゼノンがすぐに気づいた。


 けれど、急に身体へ触れることはしなかった。


 ルシアは床のナイフを見つめたまま、動けなくなっていた。


「ルシア」


 ゼノンは穏やかに声をかけた。


「僕の声が聞こえる?」


 ルシアの唇がわずかに動く。


「……お兄様……」


「うん。僕だよ」


 ゼノンは彼女の前にしゃがみ、目線を合わせた。


「ここは僕たちの屋敷だよ」


 ルシアの瞳が揺れる。


「今は、僕もマルタもアンナもいる」


 ゼノンは優しく続けた。


「もう、あの場所じゃない」


 ルシアの目に涙が浮かんだ。


「……っ、私……」


「大丈夫。無理に話さなくていいよ」


 ゼノンはそっと手を差し出した。


「手を握ってもいい?」


 ルシアは少し迷ったあと、小さく頷いた。


 ゼノンが優しくその手を包み込む。


 冷たくなった指先。


 細かく震える身体。


 それでも、ルシアは少しずつゼノンの手を握り返した。


「……ごめんなさい……」


「謝らなくていいよ」


 ゼノンは静かに答えた。


「君は何も悪くないんだから」


 ルシアの頬を、一粒の涙が伝った。


「……もう大丈夫だと思ったのに……」


「うん」


「……お菓子も、作れると思ったのに……」


 ゼノンは彼女の手を握ったまま、優しく微笑んだ。


「作れていたよ」


 ルシアが顔を上げる。


「……え?」


「さっきまで、僕に上手に教えてくれていたじゃないか」


 ゼノンは穏やかに続けた。


「怖くなったからって、それまでできたことがなくなるわけじゃないよ」


 ルシアは涙を浮かべたまま、彼を見つめた。


「……でも……」


「今日はここまでにしてもいいし、少し休んでから続きを作ってもいい」


 ゼノンは優しく言った。


「どちらでも、僕は嬉しいよ」


 ルシアは唇を噛んだ。


 怖かった。


 今もまだ、胸がどきどきしている。


 けれど、クレイドにクッキーを食べてもらいたい。


 その気持ちは、消えていなかった。


「……少しだけ」


 ルシアは小さく呟いた。


「……休んでから、続きを作ってもいい?」


 ゼノンは嬉しそうに微笑んだ。


「もちろん」


 ルシアは少しだけ安心したように息を吐いた。


「……ありがとう、お兄様」


 ゼノンは彼女の手を握り直した。


「ゆっくりでいいんだよ」


 マルタは静かに頷き、アンナとともに調理台を整えた。


 ルシアはゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと厨房をあとにした。


 まだ、怖い。


 けれど、一人ではない。


 それだけで、少しだけ前へ進める気がした。


     ◇


 午後。


 ヴァルディエ家の本邸へ、一台の馬車が到着した。


「……相変わらず、でけぇ屋敷だな」


 馬車から降りたクレイドは、目の前に広がる建物を見上げた。


 整えられた庭園。


 白い石造りの壁。


 高い窓。


 どこを見ても、王家の威厳を感じさせる。


 クレイドは小さく息を吐いた。


「……落ち着かねぇ」


 そう呟きながら、屋敷の入口へ向かう。


 使用人に案内され、客間の前まで来たときだった。


「……クレイド」


 聞き慣れた声がした。


 顔を上げると、扉の向こうにルシアが立っていた。


 淡い色のワンピースに、艶やかな黒髪。


 以前より少し痩せているものの、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「……おう」


 クレイドは少しだけ目を見開き、それから小さく笑った。


「元気そうじゃねぇか」


「……うん」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


「来てくれて、ありがとう」


「別に。暇だっただけだ」


「……ふふ」


 ルシアは小さく笑った。


「クレイドは、いつもそう言うね」


「……うるせぇ」


 クレイドは照れくさそうに視線を逸らした。


 ルシアはその様子を見て、また小さく微笑んだ。


 クレイドは、そんな彼女を見つめた。


 前に会ったときより、ずっと表情が柔らかい。


 頬にも、少しだけ血色が戻っている。


「……よかったな」


 思わず呟いた。


「……え?」


「……何でもねぇ」


 クレイドは視線を逸らした。


 ルシアは不思議そうに首を傾げたが、すぐに微笑んだ。


「あのね、クレイド」


「ん?」


「見てもらいたいものがあるの」


「……何だよ」


「ふふ。まだ内緒」


 ルシアはそっと手を差し出しかけた。


 けれど、途中で指先が止まった。


 身体が、ほんの少しだけ強張る。


 クレイドはそれに気づいた。


 けれど、何も言わず、自分から手を差し出した。


「……ほら」


 ルシアが顔を上げる。


「……え?」


「案内してくれるんだろ」


 クレイドはぶっきらぼうに言った。


「だったら、行こうぜ」


 ルシアは少しだけ目を見開いた。


 そして、そっとその手を握った。


「……うん」


 クレイドは彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩き始めた。


     ◇


 客間のテーブルには、焼きたてのクッキーが並べられていた。


 丸いもの。


 少し形が歪んだもの。


 星の形をしたもの。


 そして、一つだけ、妙に大きなものがあった。


「……何だこれ」


 クレイドが大きなクッキーを指差した。


 ルシアは少し照れたように微笑んだ。


「クレイドの分なの」


「……俺の?」


「うん」


 ルシアは頷いた。


「クレイド、いつもたくさん食べてくれたでしょ?」


「まあ、そうだけどよ」


「だから、少し大きくしてみたの」


 クレイドはしばらく大きなクッキーを見つめていた。


 そして、そっと手に取る。


「……お前が作ったのか?」


「うん」


 ルシアは微笑んだ。


「お兄様と一緒に作ったの」


「……あいつが?」


 クレイドの眉がぴくりと動いた。


「ゼノンが菓子作り?」


「ふふ。そうなの」


 ルシアは小さく笑った。


「お兄様、小麦粉を混ぜるときに少し失敗しちゃって……」


「……失敗?」


「お鼻が真っ白になっちゃったの」


 クレイドは一瞬、呆気に取られた。


 次の瞬間、思わず笑い声を上げた。


「…っ、ははっ! 何やってんだよ、あいつ!」


 ルシアもつられるように笑った。


「ふふ。ちょっと可愛かったよ」


 その様子を、少し離れた場所からゼノンが見守っていた。


「……楽しそうだね」


 穏やかに声をかけると、クレイドが振り返った。


「おい、ゼノン」


「うん?」


「お前、料理下手なのか?」


 ゼノンは少し考えた。


「得意とは言えないかな」


「ははっ! 意外だな!」


 ルシアは少し困ったように微笑んだ。


「クレイド。お兄様、一生懸命だったんだよ」


「分かってるって」


 クレイドは笑いながらクッキーを口に運んだ。


 さくり、と軽い音がした。


 バターの香りが広がる。


「……うまい」


 その一言に、ルシアの表情が明るくなった。


「本当?」


「ああ」


 クレイドはもう一口食べた。


「前に作ってたやつより、うまくなってんじゃねぇか?」


「ふふ。よかった」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


 クレイドはその顔を見つめた。


 ほんの少し前まで。


 あの厨房で倒れていたルシアを、何度も思い出していた。


 血に染まった服。


 冷たくなった指先。


 呼びかけても返ってこなかった声。


 もし、自分があのとき扉を開けなければ。


 もし、もっと早く戻っていれば。


 そんな考えが、今でも頭から離れない。


 けれど。


 目の前のルシアは、笑っている。


 自分のために焼いたクッキーを差し出し、嬉しそうに笑っている。


「……なあ、ルシア」


「なあに?」


 クレイドは少しだけ言葉を探した。


「……無理してねぇか?」


 ルシアは目を瞬かせた。


「え?」


「いや、その……」


 クレイドは頭を掻いた。


「元気そうだから、いいんだけどよ」


 ルシアはしばらく彼を見つめていた。


 そして、小さく微笑んだ。


「……まだ、怖いときはあるの」


 クレイドの表情が変わる。


「……そっか」


「今日もね、少し怖くなっちゃって……」


 ルシアは膝の上で指を重ねた。


「でも、お兄様が一緒にいてくれたから……最後まで作れたの」


 クレイドは静かに頷いた。


「……そうか」


 ルシアは顔を上げた。


「……だからね、クレイド」


「ん?」


「私、少しずつ頑張ってみようと思うの」


 その言葉に、クレイドは眉を寄せた。


「……頑張りすぎんなよ」


「え?」


「お前、昔からそういうとこあるだろ」


 クレイドは少しだけ声を柔らかくした。


「怖いなら怖いって言え。嫌なら嫌って言え」


 ルシアは黙って彼を見つめた。


「無理して笑う必要なんかねぇんだから」


 その言葉に、ルシアの瞳が潤んだ。


「……うん」


 クレイドは慌てたように視線を逸らした。


「……泣くなよ」


「……泣いてないよ」


「いや、泣きそうだろ」


「……クレイドが、優しいこと言うから……」


「何で俺のせいなんだよ」


 ルシアは小さく笑った。


 クレイドも、つられるように笑った。


 ゼノンはその様子を見つめながら、静かに微笑んだ。


 クレイドがルシアを大切に思っていることは、よく分かっている。


 だからこそ、こうして会いに来てくれたことが嬉しかった。


「……クレイド」


 ゼノンが声をかけた。


「ん?」


「今日は来てくれてありがとう」


 クレイドは少しだけ驚いたように顔を上げた。


「……別に」


 そして、照れくさそうに視線を逸らす。


「こいつに会いたかっただけだ」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


「……私も、会いたかったよ」


 クレイドはその笑顔を見て、そっと息を吐いた。


 あの日のことを、忘れることはできない。


 けれど、ルシアがこうして笑ってくれるなら。


 少しずつでも、前へ進んでいける気がした。


     ◇


 その頃。


 王都の外れにある、古い地下礼拝堂。


 長い年月、誰にも使われていなかったはずのその場所に、ひとつの人影があった。


 黒い外套を纏った男が、祭壇の前に跪いている。


 その背後には、血のように赤い模様が刻まれた石棺が置かれていた。


 男は静かに口を開いた。


「……ご報告申し上げます」


 礼拝堂の奥から、低い声が響く。


「話せ」


「王都へ送り込んだ者たちのうち、一名が拘束されました」


 短い沈黙。


「……そうか」


 その声には、怒りも焦りもなかった。


 ただ、冷たい響きだけがあった。


「ですが、姫君の存在は確認できております」


「……ルシア」


 低い声が、その名を口にした。


 まるで、長い間待ち望んでいたものを確かめるように。


「黒髪と深紅の瞳。ヴァルディエの血を受け継ぐ、純血の姫君にございます」


 礼拝堂の奥で、何かがゆっくりと動いた。


「……ようやくか」


 男はさらに頭を垂れた。


「次のご命令を」


 しばらく、沈黙が続いた。


 やがて。


「急ぐ必要はない」


 低い声が告げた。


「十一年待ったのだ。あと少しの時間など、どうということはない」


 男は頷いた。


「承知いたしました」


「ただし……」


 その声が、わずかに低くなる。


「ゼノンには気をつけろ」


 男が顔を上げた。


「ゼノン様、でございますか」


「あれは、アルフォンスの息子だ」


 奥から、静かな笑い声が漏れた。


「父親によく似ている。邪魔なやつだ」


 男は黙っていた。


「……だが、今度は逃がさん」


 礼拝堂の空気が、冷たく沈んだ。


「次こそは手に入れる」


 その言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。


 黒い外套の男は深く頭を下げ、静かに礼拝堂をあとにした。


 残された暗闇の中。


 石棺の表面を、赤黒い血のようなものがゆっくりと伝っていた。


     ◇


 夕方。


 クレイドを見送ったあと、ルシアは庭園のベンチに腰掛けていた。


 手には、小さな包み。


 クレイドが帰り際に渡してくれたものだった。


『……ほら。お前に』


『……えっ?』


『開けりゃ分かる』


 そんなぶっきらぼうな言葉とともに渡された包み。


 ルシアはそっとリボンをほどいた。


 中から現れたのは、小さな銀色の髪飾りだった。


 花を模した繊細な飾り。


 中心には、淡い紫色の石が埋め込まれている。


「……綺麗」


 ルシアは思わず呟いた。


 そのとき、背後から声がした。


「気に入った?」


「……お兄様」


 振り返ると、ゼノンが立っていた。


「クレイドから?」


「うん」


 ルシアは嬉しそうに髪飾りを見せた。


「とても綺麗でしょ?」


「うん。君によく似合いそうだ」


 ゼノンは微笑んだ。


「つけてあげようか?」


「……いいの?」


「もちろん」


 ルシアは嬉しそうに頷いた。


 ゼノンは髪飾りを受け取り、彼女の黒髪へそっと留めた。


 淡い紫色の石が、夕日の光を受けて小さく輝く。


「……どう? 似合う?」


 ルシアが振り返る。


 ゼノンは一瞬、言葉を失った。


 黒髪。


 深紅の瞳。


 そして、柔らかな微笑み。


 幼い頃から変わらない、愛しい妹。


「……とても綺麗だよ」


 ゼノンは優しく答えた。


 ルシアは頬を赤らめた。


「……ありがとう、お兄様」


 ゼノンは隣に腰掛けた。


 しばらく、二人で夕暮れの庭園を眺める。


 やがて、ルシアが小さく口を開いた。


「……ねえ、お兄様」


「なあに?」


「今日ね、少し怖いこともあったけど……楽しかったの」


 ゼノンは静かに頷いた。


「うん」


「クレイドにも会えたし、お菓子も作れたし……」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


「……また、こんな日が過ごせたら嬉しいな」


 ゼノンはその横顔を見つめた。


「……過ごせるよ」


「……本当?」


「うん」


 ゼノンはそっと彼女の手を取った。


「これから、もっとたくさん」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


「……約束だよ?」


「もちろん」


 ゼノンはその手を優しく握った。


 夕日が沈み、空が少しずつ夜の色へ変わっていく。


 やがて、庭園の月鈴草が淡い光を灯し始めた。


 ルシアはその光を見つめながら、静かに微笑んだ。


 十一年前、失われた家族との時間。


 取り戻すことのできない日々。


 けれど、これから新しく積み重ねていける時間がある。


 ゼノンと。


 アルベルトと。


 クレイドと。


 大切な人たちと。


 ルシアはそっとゼノンの肩へ頭を預けた。


 ゼノンは何も言わず、その身体を優しく抱き寄せる。


 穏やかな夜が、二人を包み込んでいく。


 その平穏が、いつまでも続くことを願いながら。


 まだ誰も知らなかった。


 十一年前に終わったはずの悲劇が、再びその扉を開こうとしていることを。

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