もう一度、笑えるように
朝の柔らかな日差しが、薄いカーテンを透かして寝室へ差し込んでいた。
ルシアはゆっくりと瞼を開けた。
枕元には、昨夜抱き締めたまま眠った白い兎のぬいぐるみ、シロちゃんが寄り添っている。
「おはよう、シロちゃん」
小さく声をかけ、ぬいぐるみの頭を撫でた。
昨夜は、久しぶりに怖い夢を見なかった。
眠るまでゼノンが手を握っていてくれたことを思い出し、ルシアはそっと微笑む。
窓の外には、昨日ゼノンと眺めた庭園が広がっていた。
月鈴草は夜の光を失い、今は淡い紫色の花弁を朝日に透かしている。
お母様が好きだった花。
幼い自分も、あの花を眺めていたのだという。
その光景を思い出すことはできなかったけれど、昨日ゼノンが話してくれたことは、ルシアの胸に温かなものを残していた。
もう一度、あの花を見に行きたい。
そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「ルシア様、お目覚めでしょうか?」
「うん、起きてるよ」
扉が開き、アンナが朝の衣服を抱えて入ってきた。
「おはようございます、ルシア様」
「おはよう、アンナ」
ルシアは微笑んだ。
「今日はよく眠れましたか?」
「うん。昨日は、お兄様が眠るまでそばにいてくれたの」
「それはようございました」
アンナは嬉しそうに頷いた。
ルシアがこの屋敷へ戻ってきてから、夜中に目を覚ますことは珍しくなかった。
悪夢にうなされ、ゼノンを呼ぶこともあった。
けれど、今朝の表情はいつもより穏やかだった。
「ねえ、アンナ」
「はい」
「昨日、お兄様と月鈴草を見たの。とても綺麗だったよ」
「月鈴草は、ロザリア様も大変お好きなお花でございました」
「うん。お兄様からも聞いたの」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も、小さい頃に見てたんだって」
「ええ。ロザリア様に抱かれて、よく花壇をご覧になっていたそうですよ」
「アンナも覚えてるの?」
「私は当時、まだこのお屋敷にはおりませんでしたが、マルタから何度も聞いております」
「そっか……」
ルシアは少し照れたように笑った。
自分の知らない幼い頃の話を、誰かが覚えていてくれる。
それが、何だか嬉しかった。
「本日のご予定ですが、朝食のあとにゼノン様からお話があるそうです」
「お兄様から?」
「はい」
「何だろう?」
ルシアは小さく首を傾げた。
アンナは微笑みながら、朝の支度を手伝い始めた。
◇
朝食の席には、すでにゼノンが座っていた。
「おはよう、ルシア」
「おはよう、お兄様」
ルシアが微笑むと、ゼノンも嬉しそうに目を細めた。
「よく眠れた?」
「うん。昨日はありがとう」
「どういたしまして」
ゼノンは椅子を引いた。
「おいで」
ルシアはその隣に腰掛けた。
食卓には焼きたてのパンと温かなスープ、色鮮やかな果物が並んでいる。
ゼノンは妹の皿にパンを取り分けながら尋ねた。
「今日は少し食べられそう?」
「うん。今朝はお腹が空いてるの」
「それはよかった」
ゼノンは安心したように微笑んだ。
ルシアは小さくパンをちぎり、口へ運んだ。
温かなバターの香りが広がる。
「……美味しい」
「ふふ。マルタが喜ぶね」
穏やかな朝食の時間が流れた。
しばらくして、ルシアはふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、お兄様」
「なあに?」
「アンナから聞いたんだけど、何かお話があるの?」
「ああ、そのことだね」
ゼノンはカップを置いた。
「今日、クレイドが来ることになったんだ」
「……クレイドが?」
ルシアの表情が明るくなった。
「うん。午後に少しだけ、顔を見に来るそうだよ」
「……嬉しい」
ルシアは小さく微笑んだ。
けれど、すぐに少しだけ表情を曇らせる。
「でも、クレイドは忙しくないのかな」
「どうして?」
「私のことで、アルにもクレイドにも心配をかけちゃったから……」
ルシアは膝の上で指を重ねた。
「また、無理させちゃうんじゃないかと思って」
ゼノンは静かに妹を見つめた。
ルシアはいつも、自分のことより周囲のことを気にかける。
それは優しさでもあるけれど、ときには自分自身を苦しめてしまうこともあった。
「ルシア」
「なあに?」
「クレイドは、君に会いたいから来るんだよ」
ルシアが顔を上げる。
「君が会いたいと思っているように、クレイドも君に会いたいんだ」
「……そっか」
「だから、遠慮しなくていい」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「今日は一緒にお茶でも飲もうか」
ルシアは少し考え、それから小さく頷いた。
「うん」
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ、お兄様」
「うん?」
「私、クレイドにお菓子を作ってあげたいの」
ゼノンは目を瞬かせた。
「お菓子?」
「うん」
ルシアは懐かしそうに微笑んだ。
「アルのお屋敷にいた頃、よくクッキーを焼いてたでしょ? クレイド、いつも美味しいって食べてくれたから……」
ゼノンは静かに頷いた。
けれど、その胸には小さな不安がよぎっていた。
ルシアが襲われたのは、アルベルトの屋敷の厨房だった。
ミアに刃物で傷つけられ、血を奪われたあの日。
ルシアは一週間もの間、意識を取り戻さなかった。
目を覚ましてからも、突然の物音や人の動きに怯えることがあった。
厨房へ入ること自体が、怖いのではないだろうか。
「ルシア」
「なあに?」
「本当に、作ってみたい?」
ルシアは少しだけ視線を落とした。
「……ちょっと怖いけど」
正直な答えだった。
「でも、クレイドにまた私の作ったお菓子を食べてもらいたいの」
ゼノンはしばらく妹を見つめていた。
そして、優しく微笑んだ。
「分かった」
「……いいの?」
「もちろん」
ゼノンは彼女の手を取った。
「僕も一緒に作っていいかな?」
ルシアは驚いたように目を瞬かせた。
「お兄様も?」
「うん。実は、あまりお菓子作りをしたことがなくてね」
ゼノンは少し困ったように笑った。
「君に教えてもらえたら嬉しいな」
ルシアは思わず小さく笑った。
「ふふ。お兄様にも苦手なことがあるんだね」
「もちろんあるよ」
「何でもできると思ってた」
「それは買いかぶりすぎかな」
ゼノンが笑うと、ルシアも嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、一緒に作ろう?」
「うん。楽しみにしているよ」
◇
昼前。
ヴァルディエ家の厨房には、甘いバターの香りが漂っていた。
大きな調理台の上には、小麦粉や砂糖、卵などが丁寧に並べられている。
ルシアは白いエプロンを身につけ、ボウルの前に立っていた。
隣には、同じように袖をまくったゼノンがいる。
「まず、バターとお砂糖を混ぜるの」
「こうかな?」
ゼノンが泡立て器を動かす。
ルシアはその手元を覗き込み、小さく頷いた。
「うん。もう少し柔らかくなるまで混ぜてね」
「分かった」
ゼノンは真剣な表情で混ぜ始めた。
その姿が何だか可笑しくて、ルシアは口元を緩めた。
「お兄様」
「うん?」
「そんなに真剣な顔しなくても大丈夫だよ」
「そう?」
「うん。お菓子作りは、楽しくするものだから」
ゼノンは妹を見つめ、それからくすりと笑った。
「そうだね」
ルシアは微笑み、今度は小麦粉をふるいにかけた。
細かな粉が、雪のようにボウルへ落ちていく。
「次は、これを少しずつ混ぜるの」
「なるほど」
ゼノンが頷き、粉を加えようとした。
けれど、少し勢いが強すぎたらしい。
ふわりと白い粉が舞い上がり、ゼノンの鼻先についた。
「……あ」
ルシアが小さく声を漏らした。
「どうしたの?」
「お兄様、お鼻に……」
ゼノンは不思議そうに首を傾げた。
ルシアは笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「小麦粉がついてる」
「……本当?」
ゼノンが鼻先を指で拭う。
けれど、その指にも粉がついていたため、余計に白くなってしまった。
ルシアはとうとう小さく吹き出した。
「……ふふっ」
「……あれ?」
「お兄様、もっと白くなっちゃった」
ゼノンは困ったように笑った。
「どうやら、僕には向いていないみたいだね」
「そんなことないよ」
ルシアは笑いながら、清潔な布を手に取った。
「ちょっとじっとしててね」
そう言って、ゼノンの鼻先についた粉をそっと拭う。
ゼノンは目を細めた。
「ありがとう、ルシア」
「ふふ。どういたしまして」
ルシアは少し照れたように微笑んだ。
その様子を、少し離れた場所からマルタとアンナが見守っていた。
マルタの目には、懐かしい光景が映っていた。
幼いルシアが、ゼノンのあとを追いかけていた頃。
いつも兄のそばにいた小さな姫君。
十一年という長い年月を経て、二人が再びこうして笑い合っている。
マルタは静かに目を細めた。
けれど、その穏やかな時間は、突然響いた小さな音によって途切れた。
カラン、と。
金属が床に落ちる音がした。
アンナが調理器具を取り出そうとした拍子に、小さなナイフが棚から滑り落ちたのだ。
「……っ!」
ルシアの身体がびくりと震えた。
視線が床へ落ちる。
銀色の刃。
冷たい光。
その瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
――嫌。
――来ないで。
あの日の光景が、突然蘇る。
ミアの顔。
近づいてくる刃。
逃げようとしても、身体が動かなかったこと。
ルシアの呼吸が浅くなった。
手に持っていた木べらが、指先から滑り落ちる。
「……ルシア?」
ゼノンがすぐに気づいた。
けれど、急に身体へ触れることはしなかった。
ルシアは床のナイフを見つめたまま、動けなくなっていた。
「ルシア」
ゼノンは穏やかに声をかけた。
「僕の声が聞こえる?」
ルシアの唇がわずかに動く。
「……お兄様……」
「うん。僕だよ」
ゼノンは彼女の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「ここは僕たちの屋敷だよ」
ルシアの瞳が揺れる。
「今は、僕もマルタもアンナもいる」
ゼノンは優しく続けた。
「もう、あの場所じゃない」
ルシアの目に涙が浮かんだ。
「……っ、私……」
「大丈夫。無理に話さなくていいよ」
ゼノンはそっと手を差し出した。
「手を握ってもいい?」
ルシアは少し迷ったあと、小さく頷いた。
ゼノンが優しくその手を包み込む。
冷たくなった指先。
細かく震える身体。
それでも、ルシアは少しずつゼノンの手を握り返した。
「……ごめんなさい……」
「謝らなくていいよ」
ゼノンは静かに答えた。
「君は何も悪くないんだから」
ルシアの頬を、一粒の涙が伝った。
「……もう大丈夫だと思ったのに……」
「うん」
「……お菓子も、作れると思ったのに……」
ゼノンは彼女の手を握ったまま、優しく微笑んだ。
「作れていたよ」
ルシアが顔を上げる。
「……え?」
「さっきまで、僕に上手に教えてくれていたじゃないか」
ゼノンは穏やかに続けた。
「怖くなったからって、それまでできたことがなくなるわけじゃないよ」
ルシアは涙を浮かべたまま、彼を見つめた。
「……でも……」
「今日はここまでにしてもいいし、少し休んでから続きを作ってもいい」
ゼノンは優しく言った。
「どちらでも、僕は嬉しいよ」
ルシアは唇を噛んだ。
怖かった。
今もまだ、胸がどきどきしている。
けれど、クレイドにクッキーを食べてもらいたい。
その気持ちは、消えていなかった。
「……少しだけ」
ルシアは小さく呟いた。
「……休んでから、続きを作ってもいい?」
ゼノンは嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん」
ルシアは少しだけ安心したように息を吐いた。
「……ありがとう、お兄様」
ゼノンは彼女の手を握り直した。
「ゆっくりでいいんだよ」
マルタは静かに頷き、アンナとともに調理台を整えた。
ルシアはゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと厨房をあとにした。
まだ、怖い。
けれど、一人ではない。
それだけで、少しだけ前へ進める気がした。
◇
午後。
ヴァルディエ家の本邸へ、一台の馬車が到着した。
「……相変わらず、でけぇ屋敷だな」
馬車から降りたクレイドは、目の前に広がる建物を見上げた。
整えられた庭園。
白い石造りの壁。
高い窓。
どこを見ても、王家の威厳を感じさせる。
クレイドは小さく息を吐いた。
「……落ち着かねぇ」
そう呟きながら、屋敷の入口へ向かう。
使用人に案内され、客間の前まで来たときだった。
「……クレイド」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、扉の向こうにルシアが立っていた。
淡い色のワンピースに、艶やかな黒髪。
以前より少し痩せているものの、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……おう」
クレイドは少しだけ目を見開き、それから小さく笑った。
「元気そうじゃねぇか」
「……うん」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「来てくれて、ありがとう」
「別に。暇だっただけだ」
「……ふふ」
ルシアは小さく笑った。
「クレイドは、いつもそう言うね」
「……うるせぇ」
クレイドは照れくさそうに視線を逸らした。
ルシアはその様子を見て、また小さく微笑んだ。
クレイドは、そんな彼女を見つめた。
前に会ったときより、ずっと表情が柔らかい。
頬にも、少しだけ血色が戻っている。
「……よかったな」
思わず呟いた。
「……え?」
「……何でもねぇ」
クレイドは視線を逸らした。
ルシアは不思議そうに首を傾げたが、すぐに微笑んだ。
「あのね、クレイド」
「ん?」
「見てもらいたいものがあるの」
「……何だよ」
「ふふ。まだ内緒」
ルシアはそっと手を差し出しかけた。
けれど、途中で指先が止まった。
身体が、ほんの少しだけ強張る。
クレイドはそれに気づいた。
けれど、何も言わず、自分から手を差し出した。
「……ほら」
ルシアが顔を上げる。
「……え?」
「案内してくれるんだろ」
クレイドはぶっきらぼうに言った。
「だったら、行こうぜ」
ルシアは少しだけ目を見開いた。
そして、そっとその手を握った。
「……うん」
クレイドは彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩き始めた。
◇
客間のテーブルには、焼きたてのクッキーが並べられていた。
丸いもの。
少し形が歪んだもの。
星の形をしたもの。
そして、一つだけ、妙に大きなものがあった。
「……何だこれ」
クレイドが大きなクッキーを指差した。
ルシアは少し照れたように微笑んだ。
「クレイドの分なの」
「……俺の?」
「うん」
ルシアは頷いた。
「クレイド、いつもたくさん食べてくれたでしょ?」
「まあ、そうだけどよ」
「だから、少し大きくしてみたの」
クレイドはしばらく大きなクッキーを見つめていた。
そして、そっと手に取る。
「……お前が作ったのか?」
「うん」
ルシアは微笑んだ。
「お兄様と一緒に作ったの」
「……あいつが?」
クレイドの眉がぴくりと動いた。
「ゼノンが菓子作り?」
「ふふ。そうなの」
ルシアは小さく笑った。
「お兄様、小麦粉を混ぜるときに少し失敗しちゃって……」
「……失敗?」
「お鼻が真っ白になっちゃったの」
クレイドは一瞬、呆気に取られた。
次の瞬間、思わず笑い声を上げた。
「…っ、ははっ! 何やってんだよ、あいつ!」
ルシアもつられるように笑った。
「ふふ。ちょっと可愛かったよ」
その様子を、少し離れた場所からゼノンが見守っていた。
「……楽しそうだね」
穏やかに声をかけると、クレイドが振り返った。
「おい、ゼノン」
「うん?」
「お前、料理下手なのか?」
ゼノンは少し考えた。
「得意とは言えないかな」
「ははっ! 意外だな!」
ルシアは少し困ったように微笑んだ。
「クレイド。お兄様、一生懸命だったんだよ」
「分かってるって」
クレイドは笑いながらクッキーを口に運んだ。
さくり、と軽い音がした。
バターの香りが広がる。
「……うまい」
その一言に、ルシアの表情が明るくなった。
「本当?」
「ああ」
クレイドはもう一口食べた。
「前に作ってたやつより、うまくなってんじゃねぇか?」
「ふふ。よかった」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
クレイドはその顔を見つめた。
ほんの少し前まで。
あの厨房で倒れていたルシアを、何度も思い出していた。
血に染まった服。
冷たくなった指先。
呼びかけても返ってこなかった声。
もし、自分があのとき扉を開けなければ。
もし、もっと早く戻っていれば。
そんな考えが、今でも頭から離れない。
けれど。
目の前のルシアは、笑っている。
自分のために焼いたクッキーを差し出し、嬉しそうに笑っている。
「……なあ、ルシア」
「なあに?」
クレイドは少しだけ言葉を探した。
「……無理してねぇか?」
ルシアは目を瞬かせた。
「え?」
「いや、その……」
クレイドは頭を掻いた。
「元気そうだから、いいんだけどよ」
ルシアはしばらく彼を見つめていた。
そして、小さく微笑んだ。
「……まだ、怖いときはあるの」
クレイドの表情が変わる。
「……そっか」
「今日もね、少し怖くなっちゃって……」
ルシアは膝の上で指を重ねた。
「でも、お兄様が一緒にいてくれたから……最後まで作れたの」
クレイドは静かに頷いた。
「……そうか」
ルシアは顔を上げた。
「……だからね、クレイド」
「ん?」
「私、少しずつ頑張ってみようと思うの」
その言葉に、クレイドは眉を寄せた。
「……頑張りすぎんなよ」
「え?」
「お前、昔からそういうとこあるだろ」
クレイドは少しだけ声を柔らかくした。
「怖いなら怖いって言え。嫌なら嫌って言え」
ルシアは黙って彼を見つめた。
「無理して笑う必要なんかねぇんだから」
その言葉に、ルシアの瞳が潤んだ。
「……うん」
クレイドは慌てたように視線を逸らした。
「……泣くなよ」
「……泣いてないよ」
「いや、泣きそうだろ」
「……クレイドが、優しいこと言うから……」
「何で俺のせいなんだよ」
ルシアは小さく笑った。
クレイドも、つられるように笑った。
ゼノンはその様子を見つめながら、静かに微笑んだ。
クレイドがルシアを大切に思っていることは、よく分かっている。
だからこそ、こうして会いに来てくれたことが嬉しかった。
「……クレイド」
ゼノンが声をかけた。
「ん?」
「今日は来てくれてありがとう」
クレイドは少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……別に」
そして、照れくさそうに視線を逸らす。
「こいつに会いたかっただけだ」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「……私も、会いたかったよ」
クレイドはその笑顔を見て、そっと息を吐いた。
あの日のことを、忘れることはできない。
けれど、ルシアがこうして笑ってくれるなら。
少しずつでも、前へ進んでいける気がした。
◇
その頃。
王都の外れにある、古い地下礼拝堂。
長い年月、誰にも使われていなかったはずのその場所に、ひとつの人影があった。
黒い外套を纏った男が、祭壇の前に跪いている。
その背後には、血のように赤い模様が刻まれた石棺が置かれていた。
男は静かに口を開いた。
「……ご報告申し上げます」
礼拝堂の奥から、低い声が響く。
「話せ」
「王都へ送り込んだ者たちのうち、一名が拘束されました」
短い沈黙。
「……そうか」
その声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、冷たい響きだけがあった。
「ですが、姫君の存在は確認できております」
「……ルシア」
低い声が、その名を口にした。
まるで、長い間待ち望んでいたものを確かめるように。
「黒髪と深紅の瞳。ヴァルディエの血を受け継ぐ、純血の姫君にございます」
礼拝堂の奥で、何かがゆっくりと動いた。
「……ようやくか」
男はさらに頭を垂れた。
「次のご命令を」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
「急ぐ必要はない」
低い声が告げた。
「十一年待ったのだ。あと少しの時間など、どうということはない」
男は頷いた。
「承知いたしました」
「ただし……」
その声が、わずかに低くなる。
「ゼノンには気をつけろ」
男が顔を上げた。
「ゼノン様、でございますか」
「あれは、アルフォンスの息子だ」
奥から、静かな笑い声が漏れた。
「父親によく似ている。邪魔なやつだ」
男は黙っていた。
「……だが、今度は逃がさん」
礼拝堂の空気が、冷たく沈んだ。
「次こそは手に入れる」
その言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。
黒い外套の男は深く頭を下げ、静かに礼拝堂をあとにした。
残された暗闇の中。
石棺の表面を、赤黒い血のようなものがゆっくりと伝っていた。
◇
夕方。
クレイドを見送ったあと、ルシアは庭園のベンチに腰掛けていた。
手には、小さな包み。
クレイドが帰り際に渡してくれたものだった。
『……ほら。お前に』
『……えっ?』
『開けりゃ分かる』
そんなぶっきらぼうな言葉とともに渡された包み。
ルシアはそっとリボンをほどいた。
中から現れたのは、小さな銀色の髪飾りだった。
花を模した繊細な飾り。
中心には、淡い紫色の石が埋め込まれている。
「……綺麗」
ルシアは思わず呟いた。
そのとき、背後から声がした。
「気に入った?」
「……お兄様」
振り返ると、ゼノンが立っていた。
「クレイドから?」
「うん」
ルシアは嬉しそうに髪飾りを見せた。
「とても綺麗でしょ?」
「うん。君によく似合いそうだ」
ゼノンは微笑んだ。
「つけてあげようか?」
「……いいの?」
「もちろん」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
ゼノンは髪飾りを受け取り、彼女の黒髪へそっと留めた。
淡い紫色の石が、夕日の光を受けて小さく輝く。
「……どう? 似合う?」
ルシアが振り返る。
ゼノンは一瞬、言葉を失った。
黒髪。
深紅の瞳。
そして、柔らかな微笑み。
幼い頃から変わらない、愛しい妹。
「……とても綺麗だよ」
ゼノンは優しく答えた。
ルシアは頬を赤らめた。
「……ありがとう、お兄様」
ゼノンは隣に腰掛けた。
しばらく、二人で夕暮れの庭園を眺める。
やがて、ルシアが小さく口を開いた。
「……ねえ、お兄様」
「なあに?」
「今日ね、少し怖いこともあったけど……楽しかったの」
ゼノンは静かに頷いた。
「うん」
「クレイドにも会えたし、お菓子も作れたし……」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「……また、こんな日が過ごせたら嬉しいな」
ゼノンはその横顔を見つめた。
「……過ごせるよ」
「……本当?」
「うん」
ゼノンはそっと彼女の手を取った。
「これから、もっとたくさん」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「……約束だよ?」
「もちろん」
ゼノンはその手を優しく握った。
夕日が沈み、空が少しずつ夜の色へ変わっていく。
やがて、庭園の月鈴草が淡い光を灯し始めた。
ルシアはその光を見つめながら、静かに微笑んだ。
十一年前、失われた家族との時間。
取り戻すことのできない日々。
けれど、これから新しく積み重ねていける時間がある。
ゼノンと。
アルベルトと。
クレイドと。
大切な人たちと。
ルシアはそっとゼノンの肩へ頭を預けた。
ゼノンは何も言わず、その身体を優しく抱き寄せる。
穏やかな夜が、二人を包み込んでいく。
その平穏が、いつまでも続くことを願いながら。
まだ誰も知らなかった。
十一年前に終わったはずの悲劇が、再びその扉を開こうとしていることを。




