忍び寄る影
夕暮れの空が、ゆっくりと夜の色へ変わっていく。
ヴァルディエ家の本邸に広がる庭園では、昼間の鮮やかな花々が次第に輪郭を失い、代わりに淡い光を宿した花が目立ち始めていた。
「……わぁ、綺麗……」
ルシアは思わず足を止めた。
目の前の花壇では、淡い紫色の月鈴草が、まるで小さな星を散りばめたように光っていた。
「本当に光ってるんだね」
隣に立つゼノンが、嬉しそうな妹の顔を見て微笑む。
「気に入った?」
「うん。とても綺麗……」
ルシアは花壇の前にしゃがみ込み、花弁を覗き込んだ。
月鈴草は、昼の間に蓄えた熱によって、夜になると淡い光を放つ植物だった。日が沈むにつれて、花弁の奥から柔らかな光が浮かび上がり、周囲を幻想的に照らす。
「ねえ、お兄様。こっちのお花は、少し青く光ってるよ」
「本当だね」
「同じお花なのに、不思議だね」
ルシアは興味深そうに花を眺めていた。
ゼノンはその隣にしゃがみ、彼女が指差した花へ視線を向ける。
「月鈴草は、育った土や日当たりによって、光の色が少し変わるんだよ」
「そうなんだ……」
「母上は、この花が好きだったんだ」
その言葉に、ルシアが顔を上げた。
「……お母様が?」
「うん」
ゼノンは懐かしそうに微笑んだ。
「昔、母上がよく庭に植えていたんだ。夜になると、僕と君を連れて花を見に来ていたよ」
ルシアは静かに花壇へ視線を戻した。
十一年前。
自分がまだ六歳だった頃のこと。
幼い頃の記憶は、今でも曖昧な部分が多い。
時折、夢の中で誰かの声を聞くことはあった。
優しい女性の声。
大きな手で頭を撫でてくれた男性。
そして、いつも自分のそばにいてくれた兄。
けれど、幼い頃の出来事をはっきりと思い出そうとすると、記憶は霧の向こうへ隠れてしまう。
「……私も、見てたのかな」
ルシアが小さく呟いた。
「このお花」
「もちろん」
ゼノンは優しく答えた。
「君は特に、光っている花を触りたがっていたよ」
「……そうなの?」
「うん。まだ小さかったから、花が光っている理由なんて分からなかったんだろうね。何度も摘もうとして、母上に止められていた」
「……ふふっ」
ルシアは思わず笑った。
「私、そんなにお花が好きだったんだね」
「花も好きだったけど、どちらかというと光るものが好きだったのかな」
「光るもの?」
「うん。母上の髪飾りとか、父上の服についていた宝石とか」
ゼノンは楽しそうに笑った。
「気になるものがあると、すぐに手を伸ばしていたよ」
「……そうだったんだ」
ルシアは少し恥ずかしそうに笑った。
「何だか、恥ずかしいな……」
「ふふ。可愛かったよ」
「お兄様は、いつもそう言ってくれるね」
「本当のことだよ」
ゼノンは彼女の頭を撫でた。
ルシアは少し照れながらも、その手を嬉しそうに受け入れた。
しばらく二人で花を眺めていると、ルシアがふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、お兄様」
「なあに?」
「お母様って、どんな人だったの?」
ゼノンの手が止まった。
ルシアは少し遠慮がちに続ける。
「前にも聞いたことあるけど……もっと知りたいなって」
「……そうだね」
ゼノンは微笑んだ。
「母上は、とても優しい人だったよ」
その声には、懐かしさが滲んでいた。
「でも、優しいだけじゃなかった。自分が正しいと思ったことは、決して曲げない人だった」
「……そうなんだ」
「父上が困るくらい、頑固なところもあったんだよ」
「お父様が困るくらい?」
「うん」
ゼノンはくすりと笑った。
「父上は母上に弱かったからね」
ルシアは少し驚いたように目を丸くした。
「お父様って、とても強い人だったんでしょ?」
「もちろん。とても強い人だったよ」
ゼノンは静かに頷いた。
「でも、母上が怒ると、素直に謝っていた」
「……ふふ。ちょっと想像できないね」
「僕も小さい頃は不思議だったよ」
二人の笑い声が、静かな庭園に溶けていく。
ルシアはしばらく笑っていたが、やがて少しだけ表情を曇らせた。
「……会ってみたかったな」
その声は、とても小さかった。
ゼノンは妹を見つめた。
「お父様にも、お母様にも……今の私を見てもらいたかった」
ルシアは月鈴草へ視線を落とした。
「私、二人のことをあまり覚えてないから……」
その言葉に、ゼノンの胸が痛んだ。
十一年前の夜、父と母を失った。
ルシアはまだ幼く、あれから長い年月が経っている。家族と過ごした日々の記憶が曖昧になってしまうのは、仕方のないことだった。
ルシアが覚えていないことを、ゼノンは覚えている。
母の笑顔も。
父の声も。
家族四人で過ごした、何気ない日々も。
「……ルシア」
ゼノンはそっと妹の手を取った。
「父上も母上も、君をとても愛していたよ」
ルシアが顔を上げる。
「……うん」
「君が生まれたとき、父上は本当に嬉しそうだった」
ゼノンは微笑んだ。
「母上なんて、君を抱いているときはずっと笑っていたよ」
「……本当?」
「本当だよ」
ルシアの瞳が潤んだ。
「……そっか」
ゼノンは彼女の頬へ手を添えた。
「君が二人のことをはっきり覚えていなくても、二人が君を愛していたことは変わらない」
ルシアは唇を噛んだ。
「……うん」
「それに、僕が覚えていることなら、何でも話してあげる」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「だから、知りたいことがあったら、いつでも聞いて」
ルシアは小さく頷いた。
「……ありがとう、お兄様」
そして、ゼノンの胸元へそっと身を寄せた。
ゼノンは驚くことなく、その身体を優しく抱き締めた。
夜風が、二人の髪を揺らす。
月鈴草の淡い光が、足元を静かに照らしていた。
「……お兄様」
「なあに?」
「私、いつか全部思い出せるかな」
ゼノンは少しだけ考えた。
「……分からない」
正直な答えだった。
「でも、無理に思い出さなくてもいいんだよ」
「……そうなの?」
「幼い頃の記憶が曖昧なのは、仕方のないことだからね」
ゼノンは彼女を抱き締める腕に、少しだけ力を込めた。
「君が覚えていることも、覚えていないことも、全部君の大切な時間だよ」
ルシアの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「……うん」
ゼノンはその涙を指先で拭った。
「それに、僕が覚えていることなら、いつでも話してあげる」
「……ありがとう」
ルシアは涙を浮かべたまま、柔らかく微笑んだ。
ゼノンも微笑んだ。
けれど、その胸の奥には、消えることのない痛みが残っていた。
十一年前の事件。
父と母を奪った男。
そして、今になって再び現れ始めた、不自然な暴走ヴァンパイアたち。
もし、それらが繋がっているのだとしたら。
ゼノンはルシアの髪を撫でながら、静かに目を細めた。
今度こそ、絶対に守る。
たとえ、何が起ころうとも。
◇
同じ夜。
王都の外縁部にある監視施設では、緊迫した空気が漂っていた。
「全員、下がって!」
ラビの声が響く。
鉄格子の向こうでは、拘束された男が激しく暴れていた。
床には亀裂が走り、壁に取り付けられた灯りが不規則に明滅している。
男の身体から噴き出す力は、明らかに通常の暴走ヴァンパイアのものとは異なっていた。
「……ったく、困ったなぁ」
ラビは小さく息を吐いた。
その表情に、いつもの軽薄さはない。
「せっかく話を聞けそうだったのに」
男が低い唸り声を上げる。
次の瞬間、拘束具の一つが弾け飛んだ。
「っ!」
監視員が身構える。
ラビは素早く銃を構えた。
「動かないで!」
乾いた銃声が響く。
放たれた弾丸は男の肩を撃ち抜き、動きを鈍らせた。
けれど、男は止まらなかった。
傷口から血を流しながら、壊れた拘束具を引きちぎろうとする。
「……痛みを感じてないのか」
ラビが呟いた。
男の口が動く。
「……ひめ……ぎみ……」
掠れた声。
「……くろい……かみの……」
「はいはい、それはもう聞いたよ」
ラビは銃口を下げずに答えた。
「僕が知りたいのは、誰に命じられたのかってことなんだけどね」
男は答えない。
代わりに、喉の奥から異様な音を漏らした。
その瞬間、ラビの姿が消えた。
男が虚ろな目で周囲を見回す。
直後、背後から銃声が響いた。
男の膝が崩れる。
ラビは再び姿を現し、素早く監視員へ指示を出した。
「今のうちに拘束を強化して! 力の暴走を抑える器具も追加して!」
「は、はい!」
監視員たちが動き出す。
ラビは男から目を離さなかった。
やがて、男の身体を包んでいた異様な力が少しずつ弱まっていく。
男は力なく床へ倒れ込んだ。
「……ふぅ」
ラビはようやく銃を下ろした。
「何とか落ち着いたかな」
監視員の一人が駆け寄る。
「ラビ様、ありがとうございます」
「いいよいいよ。怪我人は?」
「幸い、誰も負傷しておりません」
「それならよかった」
ラビは小さく笑った。
けれど、すぐに真剣な表情へ戻る。
「この男、詳しく調べたほうがいいね」
「と、申しますと?」
「普通の転化じゃない気がするんだ」
ラビは倒れた男を見つめた。
「身体の変化が不自然すぎる」
そのとき、奥から白衣を着た医師が姿を現した。
「ラビ様」
「ん?」
「先ほど採取した血液の検査について、少し気になる結果が出ました」
ラビの目が細められる。
「……聞かせて」
医師は書類を差し出した。
「この男の血液には、本人のものとは明らかに異なる、非常に濃いヴァンパイアの血が混在しています」
「……へえ」
「眷属化の際に血を与えられた可能性はあります。しかし……」
医師は言葉を濁した。
「通常なら、時間の経過とともに馴染んでいくはずの血が、まるで独立した意思を持っているかのように、男の身体へ干渉しているのです」
ラビは書類へ視線を落とした。
「……つまり?」
「断定はできません。ただ、何者かの血が、男の行動や身体の異常に影響している可能性があります」
ラビは黙り込んだ。
他者の血による影響。
不自然な転化。
そして、繰り返される言葉。
『黒い髪の姫君を、連れてこい』
偶然にしては、出来すぎている。
「……分かった」
ラビは書類を受け取った。
「この件は、僕から学園長とゼノンに報告するよ」
医師が頷く。
「それと、この男の血液は厳重に保管しておいて」
「承知しました」
ラビはもう一度、鉄格子の向こうを見た。
男は意識を失ったまま、動かない。
その姿を見つめながら、ラビは小さく呟いた。
「……誰が、こんなことをしてるんだろうね」
◇
翌日。
アストリア共生学園の学園長室には、重苦しい空気が漂っていた。
執務机の向こうにはアルベルト。
その前には、ゼノン、セドリック、ルイス、そしてラビが集まっている。
「……以上が、昨日の報告だよ」
ラビが説明を終えると、室内に沈黙が落ちた。
アルベルトは机の上に置かれた検査結果を見つめていた。
「……他人の血が、転化した個体の身体に干渉している、か」
「うん」
ラビは頷いた。
「普通の眷属化とは違うみたいなんだよね」
ルイスが腕を組んだ。
「血の供給者が分かれば、何か掴めるかもしれないな」
「問題は、その供給者が誰なのかだ」
セドリックが答える。
「今のところ、身元に繋がる情報は何もない」
ゼノンは静かに報告書を読んでいた。
そして、ある一文に視線を止める。
「……男は、暴走する直前に『あの方に捧げる』と言ったんだね」
「そう」
ラビが頷いた。
「誰のことか聞いたけど、答えてくれなかった」
ゼノンは書類を閉じた。
「……何者かに従っている可能性が高いね」
「俺もそう思う」
アルベルトが低い声で答えた。
「だが、現時点で誰かを黒幕と決めつけるわけにはいかねぇ」
ゼノンは頷いた。
「分かってる」
アルベルトは椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「……十一年前の件も、もう一度洗い直す必要がありそうだな」
その言葉に、ゼノンの表情が変わった。
「……父上と母上が襲われた事件?」
「ああ」
アルベルトは頷いた。
「当時の記録は、俺の手元にも残してある」
ルイスが静かに尋ねた。
「エドモンド・ヴァルディエの件ですか?」
アルベルトは頷いた。
「そうだ」
室内の空気が、さらに重くなる。
エドモンド・ヴァルディエ。
ヴァルディエ家の血を引く、古い純血種。
十一年前、ルシアを狙って秘密の屋敷を襲撃した男。
その戦いで、アルフォンスとロザリアは命を落とした。
けれど、エドモンドの遺体は発見されなかった。
「……父上は、確かにエドモンドの心臓を奪った」
ゼノンが静かに言った。
「僕も、あの戦いを見ていた」
アルベルトは頷いた。
「分かってる。普通なら、それで終わりのはずだった」
ヴァンパイアにとって、心臓を失うことは死を意味する。
純血種であっても例外ではない。
しかし、あの夜。
エドモンドの身体は、何者かによって持ち去られていた。
「……当時、俺たちはエドモンドの死を確認できなかった」
アルベルトは続けた。
「だからこそ、完全に死んだと断定せず、ずっと警戒してきた」
ゼノンは静かに頷いた。
「うん」
「ただ、十一年も経っている。今になって動きがあったとしても、不思議じゃねぇ」
セドリックが眉を寄せた。
「でも、心臓を失って生き延びるなんて、本当に可能なんですか?」
「普通なら不可能だ」
アルベルトは即答した。
「ヴァンパイアは心臓を失えば死ぬ。純血種であっても、それは変わらねぇ」
「……では、エドモンドはすでに死んでいる可能性のほうが高いのでは?」
ルイスが尋ねると、アルベルトは難しい表情を浮かべた。
「本来なら、そう考えるべきだろうな。だが、気になることがある」
アルベルトは机の引き出しを開け、一冊の古びた書物を取り出した。
黒い革で装丁されたその書物には、長い年月を経たような傷が刻まれている。
「これは、ヴァルディエ家に古くから伝わる禁術について記された文献の写しだ」
「……禁術?」
ラビが興味深そうに身を乗り出した。
「ああ。かつて純血種の一部が研究していた、生命そのものに干渉する術だ」
アルベルトは慎重にページをめくった。
「その中に、死の直前に自身の生命を肉体から切り離し、一時的に別の器へ繋ぎ留めるという記述がある」
セドリックが目を見開いた。
「……そんなことができるんですか?」
「実際に成功したという記録は残ってねぇ。そもそも、禁術として封じられた研究だ。どこまで実現できたのかも分からない」
アルベルトは書物を机の上へ置いた。
「だが、もしエドモンドがこの術を完成させていたとしたら……」
「心臓を失っても、死を免れた可能性がある」
ゼノンが静かに言葉を引き継いだ。
アルベルトは頷いた。
「そういうことだ」
室内に重い沈黙が落ちた。
ゼノンは古びた書物を見つめた。
十一年前、父アルフォンスは確かにエドモンドの心臓を奪った。
あの瞬間、エドモンドは致命傷を負ったはずだった。
しかし、その身体は何者かによって持ち去られ、遺体が確認されることはなかった。
「……もし禁術を使っていたなら、父上が心臓を奪うより前に、何らかの準備をしていたということになるね」
「その可能性はある」
アルベルトは答えた。
「死の瞬間に発動する術なのか、事前に別の器を用意する必要があるのか。それすら分かってねぇがな」
「それに、仮に生き延びたとしても、すぐに元の身体へ戻れるとは限らない」
ルイスが考え込むように言った。
「十一年間、姿を現さなかった理由にも繋がるかもしれないな」
「うん。身体を再生させるのに、それだけの時間が必要だった可能性もあるね」
ラビは腕を組んだ。
「でも、それって相当危険な術じゃない? 死を回避する代わりに、何か大きな代償がありそうだけど」
「だろうな」
アルベルトは低い声で答えた。
「禁術には必ず、相応の危険が伴う。エドモンドが何を犠牲にしたのか、あるいは何を利用したのか……そこも調べる必要がある」
ゼノンはしばらく黙っていた。
もし、エドモンドが生きているのなら。
十一年前、父と母の命を奪い、幼いルシアを狙った男が、今もどこかで息を潜めているのなら。
「……アル」
ゼノンが静かに口を開いた。
「この禁術について、もっと詳しく調べられる?」
「ああ。古い文献を当たってみるつもりだ」
アルベルトは頷いた。
「ただし、まだエドモンドが使ったと決まったわけじゃねぇ。今は可能性の一つとして考えておこう」
「……分かった」
ゼノンは小さく頷いた。
アルベルトは書物を閉じ、今度は別の引き出しから一冊の記録帳を取り出した。
「それと、もう一つ確認しておきたいことがある」
表紙には、十一年前の日付が記されていた。
「当時の襲撃事件の調査記録だ」
ゼノンはその記録帳を見つめた。
あの夜の記憶が、胸の奥で疼く。
燃え上がる屋敷。
血の匂い。
母の声。
父が最後まで自分たちを守ろうとしていた姿。
そして、幼いルシアを抱き上げ、必死に安全な場所へ連れていこうとした自分の姿。
ゼノンは静かに拳を握った。
「……僕にも見せて」
アルベルトは頷き、記録帳を差し出した。
ゼノンはゆっくりとページを開いた。
そこには、当時の屋敷の見取り図や、襲撃後の調査結果が記されていた。
亡くなった使用人たちの名前。
現場に残されていた血痕。
破壊された建物の状況。
そして、事件後に寄せられた目撃証言。
ゼノンはある項目に目を止めた。
「……これは?」
アルベルトが覗き込む。
「どれだ?」
「事件の翌朝、屋敷から離れた街道で、不審な馬車が目撃されている」
セドリックが身を乗り出した。
「馬車?」
「うん」
ゼノンは記録を読み上げた。
「窓を黒い布で覆った大型の馬車。御者の顔は確認できず、荷台から異様な血の匂いがした……」
ラビが眉を上げた。
「へえ。それ、結構気になるね」
アルベルトは頷いた。
「当時も調べた。だが、馬車の行方は分からなかった」
「……」
「王都を出た記録もなく、目撃者も一人だけだったからな」
ゼノンは記録帳を見つめた。
「……今なら、何か分かるかもしれない」
ルイスが頷く。
「当時の街道を調べ直す価値はありそうだ」
「そうだな」
アルベルトは静かに答えた。
「ただし、慎重に進めるぞ。まだエドモンドが関わっていると決まったわけじゃねぇ」
ゼノンは頷いた。
「分かってる」
そして、ゆっくりと記録帳を閉じた。
「……ルシアには、まだ話さないほうがいいね」
アルベルトは少し考えた。
「ああ。今の段階で不確かな話を聞かせる必要はねぇ」
ラビも頷く。
「僕もそう思う。ルシアちゃん、やっと少しずつ元気になってきたところだしね」
セドリックが腕を組んだ。
「ただ、警戒は強めたほうがいいだろうな」
「うん」
ゼノンは静かに答えた。
「屋敷の警備も見直すよ」
アルベルトはそんなゼノンを見つめた。
「……お前も、無理するなよ」
ゼノンが顔を上げる。
「僕?」
「ああ」
アルベルトは真剣な表情で言った。
「ルシアを守りたいのは分かる。だが、お前が一人で全部背負う必要はねぇ」
ゼノンは少し驚いたように目を瞬かせた。
その言葉は、昨日クレイドに伝えたものとよく似ていた。
ゼノンは小さく笑った。
「……そうだね」
「俺もいる。クレイドもいる。こいつらだっているだろ」
アルベルトがラビたちへ視線を向ける。
「もちろん!」
ラビがにっと笑った。
「僕たちだって、ルシアちゃんのこと大好きだからね」
「お前は少し言い方を考えろ」
セドリックが呆れたように言う。
「ええっ、何で!?」
「誤解を招くだろ」
「そんなつもりないって!」
ラビが大げさに肩をすくめる。
その様子に、ルイスが小さく息を吐いた。
「……緊張感がないな」
「ルイスまで!」
思わずゼノンが笑った。
ほんの少しだけ、室内の空気が和らぐ。
アルベルトはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
十一年前。
守りきれなかったものがある。
失ってしまったものがある。
けれど、今は違う。
ルシアはここにいる。
そして、彼女を守りたいと願う者たちが、こうして集まっている。
同じ悲劇を、二度と繰り返すわけにはいかなかった。
◇
その日の夜。
王都の一角にある、古い貴族の屋敷。
人目につかない裏庭へ、一台の馬車が静かに滑り込んだ。
馬車から降りたのは、レティシア・ドラクロワだった。
美しく整えられた髪。
優雅な身のこなし。
その表情には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。
彼女は周囲を一度見回してから、屋敷の裏口へ向かった。
扉の前には、一人の使用人が待っていた。
「お待ちしておりました、レティシア様」
「ご苦労様」
レティシアは微笑んだ。
「例のものは?」
「こちらに」
使用人が差し出したのは、黒い封蝋で閉じられた一通の手紙だった。
レティシアはそれを受け取る。
「……ありがとう。もう下がっていいわ」
「かしこまりました」
使用人が姿を消すと、レティシアは一人で屋敷の奥へ進んだ。
薄暗い部屋。
窓には厚いカーテンが掛けられ、卓上の燭台だけが静かに揺れている。
レティシアは椅子に腰掛け、封を切った。
手紙には、短い文章が記されていた。
『王都周辺での活動は予定どおり進行している。
姫君の存在は、すでに複数の者が把握した。
次の指示があるまで、余計な行動は控えること。』
レティシアは静かに読み終えた。
「……余計な行動、ね」
その唇に、薄い笑みが浮かぶ。
ルシア・ヴァルディエ。
十一年前、死んだと思われていた純血の姫君。
あの夜、レティシアはエドモンドの襲撃に加担していた。
直接刃を振るったわけではない。
けれど、変身能力で内部に潜入し、使用人の配置や屋敷の警備、アルフォンスとゼノンの行動を調べ、逃走用の馬車を手配したのは彼女だった。
アルフォンスとロザリアが命を落としたことも、幼いルシアが襲撃の中で姿を消したことも、すべて知っていた。
それでも、レティシアは一度も罪悪感を抱かなかった。
彼女にとって、何より大切なのはゼノン・ヴァルディエを手に入れることだった。
初めて彼を見た日のことを、レティシアは今でも鮮明に覚えている。
それは、ヴァルディエ家が主催した夜会でのことだった。
煌びやかなシャンデリアが広間を照らし、名だたる貴族たちが優雅に談笑していた。
レティシアもまた、招待客の一人としてその場にいた。
退屈な挨拶を終え、何気なく広間へ視線を向けたときだった。
人々の輪の向こうに、一人の青年が立っていた。
艶やかな黒髪に、深紅の瞳。
端正な顔立ちと、自然と人の目を引く気品。
青年は招待客と言葉を交わし、穏やかな微笑みを浮かべていた。
その姿を見た瞬間、レティシアは息を呑んだ。
――なんて、美しい人なのかしら。
気づけば、彼から目が離せなくなっていた。
「あの方は……?」
隣にいた令嬢へ尋ねると、相手は驚いたように目を丸くした。
「ご存じないの? ヴァルディエ王家のゼノン様よ」
「……ゼノン様」
レティシアは、その名を小さく繰り返した。
ゼノン・ヴァルディエ。
その名前を知った瞬間から、彼女の心は彼でいっぱいになった。
もう一度、彼の微笑みが見たい。
あの深紅の瞳に、自分を映してほしい。
できることなら、あの優しい眼差しを自分だけに向けてほしい。
それは、レティシアにとって初めての恋だった。
夜会が終わってからも、ゼノンの姿が頭から離れなかった。
彼が出席する社交の場を調べ、同じ夜会に招かれる機会があれば、必ず足を運んだ。
やがて顔を覚えてもらい、言葉を交わすようにもなった。
ゼノンはいつも穏やかだった。
レティシアが話しかければ丁寧に応じ、微笑みを向けてくれる。
けれど、その優しさは誰に対しても変わらなかった。
自分だけが特別なのではない。
それが、レティシアには物足りなかった。
それでも彼女は諦めなかった。
いつかゼノンが、自分だけを見てくれる日が来ると信じていた。
そんなある日、レティシアの前に一人の男が現れた。
エドモンド・ヴァルディエ。
ゼノンと同じ、ヴァルディエ家の血を引く純血種だった。
「君はゼノンが好きなのだろう?」
突然の問いに、レティシアは驚いた。
「……何のお話でしょう?」
エドモンドは薄く笑った。
「隠す必要はない。君があの子を見つめる目を見れば分かる」
レティシアは警戒しながらも、否定できなかった。
エドモンドはそんな彼女へ、静かに告げた。
「だが、残念なことに、ゼノンの心にはすでに特別な存在がいる」
レティシアの表情が強張った。
「……どなたですの?」
「知りたいか?」
エドモンドは愉快そうに微笑んだ。
「アルフォンスとロザリアが、誰にも知られぬよう隠して育てている娘だ」
「……娘?」
レティシアは思わず聞き返した。
アルフォンスとロザリアに娘がいるなど、聞いたことがなかった。
ヴァルディエ家の姫君が生まれたという発表もない。
社交界で、その存在が噂になったことすらなかった。
「……そんな方が、本当に?」
「ああ。ゼノンの妹でヴァルディエは血を守っている家だからね。婚約者だよ」
エドモンドは静かに続けた。
「アルフォンスたちは、あの娘の存在を徹底して隠している。ごく限られた者しか知らぬ秘密だ」
レティシアは言葉を失った。
「ゼノンは、あの娘を溺愛している。あれほど大切にしている相手は、ほかにいないだろうな」
「……妹君を?」
「そうだ」
エドモンドは彼女の反応を楽しむように目を細めた。
「純血の王族にとって、兄妹の婚姻は珍しいことではない。いずれ、あの二人が結ばれることも十分に考えられる」
その言葉に、レティシアの胸が冷たくなった。
ゼノンの隣に立つ未来。
ずっと夢見ていたその場所には、最初から別の少女がいたのかもしれない。
「……そんな」
レティシアは小さく呟いた。
まだ顔も知らない少女。
名前を聞いたばかりの、秘密の姫君。
けれど、その存在を知った瞬間から、彼女の心には暗い感情が芽生え始めた。
「君は、ゼノンを手に入れたいのだろう?」
エドモンドが囁く。
レティシアは顔を上げた。
「……ええ」
その答えに、エドモンドは満足そうに微笑んだ。
「ならば、私と手を組まないか」
レティシアはしばらく黙っていた。
相手が何を企んでいるのか、まだ分からなかった。
それでも、ゼノンを手に入れられるかもしれないという期待が、彼女の警戒心を少しずつ鈍らせていった。
「……何をすればよろしいのですか?」
エドモンドの唇が、ゆっくりと吊り上がった。
その日を境に、レティシアは取り返しのつかない道へと足を踏み入れた。
そして十一年前。
彼女はエドモンドの計画に協力し、アルフォンスとロザリアが娘を隠して暮らす屋敷への襲撃に加担した。
けれど、すべてが終わっても、ゼノンは彼女のものにはならなかった。
ゼノンは姿を消したルシアを探し続けた。
何年も。
決して諦めることなく。
いや、最初から居場所など、ゼノンは知っていたのかもしれない。
そして今、ルシアはゼノンのもとへ帰ってきた。
レティシアは燭台の炎を見つめながら、目を細めた。
ベルフォート家の舞踏会では、ルシアが完全な純血種として覚醒していることも、自分の目で確かめている。
秘密の屋敷に隠されていた幼い姫君は、黒髪と深紅の瞳を持つ、美しい少女へと成長していた。
しかも、ゼノンは以前にも増して彼女を大切にしている。
「……どうして、あの子ばかり」
レティシアは小さく呟いた。
指先に力がこもり、手紙の端がわずかに折れ曲がる。
やがて、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
手紙を燭台の炎へ近づける。
黒い封蝋が溶け、紙の端から炎が広がった。
「今は、言われたとおりにしてあげる」
燃え落ちる紙を、銀の皿へ落とす。
炎が文字を飲み込み、やがて灰だけが残った。
レティシアは窓の外へ視線を向けた。
遠くに見える王都の灯り。
その向こうには、ヴァルディエ家の本邸がある。
「……でも、ゼノン様」
彼女は静かに微笑んだ。
「いつまでも、あの子のそばにいられると思わないことね」
その声は、誰にも届かなかった。
◇
ヴァルディエ家の本邸。
ルシアは自室の寝台に腰掛け、膝の上にシロちゃんを乗せていた。
窓の外には、夜の庭園が広がっている。
月鈴草の淡い光が、遠くから小さく瞬いていた。
「……綺麗だったな」
ルシアは嬉しそうに呟いた。
お母様が好きだった花。
お兄様と一緒に見た花。
今日のことは、きっと忘れない。
そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「ルシア、まだ起きてる?」
「お兄様?」
ルシアは顔を上げた。
「うん、起きてるよ」
扉が開き、ゼノンが姿を現した。
「眠れない?」
「ううん。今日のお花のこと考えてたの」
「月鈴草?」
「うん」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「お母様が好きだったって聞いたら、もっと好きになったよ」
ゼノンは優しく笑った。
「そう」
そして、寝台の隣に腰掛ける。
「今日は楽しかった?」
「うん」
ルシアは頷いた。
「お兄様とお話できて、嬉しかった」
ゼノンの表情が柔らかくなる。
「僕もだよ」
ルシアは少しだけ照れながら、ゼノンの袖をつまんだ。
「……ねえ、お兄様」
「なあに?」
「また、お父様とお母様のお話を聞かせてね」
「もちろん」
ゼノンは優しく答えた。
「何度でも話してあげるよ」
「……約束だよ?」
「うん。約束」
ルシアは嬉しそうに笑った。
ゼノンはそっと彼女の髪を撫でる。
「そろそろ眠ろうか」
「……うん」
ルシアはシロちゃんを抱き締め、寝台へ横になった。
ゼノンが掛け布を整える。
「おやすみ、ルシア」
「おやすみ、お兄様」
ゼノンが立ち上がろうとした、そのとき。
ルシアが彼の手を掴んだ。
「……お兄様」
ゼノンが振り返る。
「どうしたの?」
ルシアは少しだけ俯いた。
「……もう少し、ここにいて?」
その声は、とても小さかった。
ゼノンはすぐに腰を下ろした。
「もちろん」
ルシアの表情が、ほっと緩む。
「……ありがとう」
ゼノンは彼女の手を握った。
「眠るまで、ここにいるよ」
「……うん」
ルシアは安心したように目を閉じた。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえ始める。
ゼノンはその寝顔を見つめていた。
昨日より、少しだけ穏やかな表情。
以前より、少しだけ安心して眠れるようになった妹。
その小さな変化が、何より嬉しかった。
けれど、ゼノンの脳裏には、昼間見た報告書が残っていた。
黒い髪の姫君。
不自然な血。
十一年前の事件。
そして、姿を消したままのエドモンド。
まだ、何も確かなことは分からない。
けれど、確実に何かが動き始めている。
ゼノンはルシアの手をそっと握り直した。
「……大丈夫だよ」
眠る妹へ、小さく囁く。
「これからも、ずっとそばにいるから」
ルシアは眠ったまま、わずかに指を動かした。
その手を、ゼノンは優しく包み込んだ。
窓の外では、月鈴草が静かに光っていた。
穏やかな夜。
愛する人の寝息。
家族と過ごす、かけがえのない時間。
けれど、その平穏の裏側で、十一年前から続く悪意が、再び王都へと近づいていた。




