守りたい人
アストリア共生学園を訪れた翌日。
ヴァルディエ家の本邸では、朝から穏やかな時間が流れていた。
ルシアは自室の窓際に置かれた長椅子に腰掛け、アルベルトが持ってきてくれた白いうさぎのぬいぐるみを膝に乗せていた。
開いた窓からは、庭園に咲く花の香りが運ばれてくる。
昨日は久しぶりに学園へ行った。
エリーゼに会い、夜間部のみんなと話し、ラビと簡単な練習もした。
楽しかった。
とても、楽しかった。
けれど、帰宅してからは思っていた以上に疲れてしまい、夕食も半分ほどしか食べられなかった。
ゼノンに付き添われて寝台に入ったあとは、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「……昨日、いっぱい笑ったなぁ」
ルシアは小さく微笑んだ。
エリーゼが泣きそうな顔で抱き締めてくれたこと。
クロードが相変わらず冗談ばかり言っていたこと。
ノエルが短い言葉で心配してくれたこと。
ルイスやセドリックが優しく迎えてくれたこと。
そして、ラビが教えてくれたこと。
『嫌なときは、嫌って言っていいんだよ』
ルシアは自分の手を見つめた。
昨日は、ラビに「止まってください」と言えた。
それだけのことなのに、少しだけ自信が持てた気がした。
けれど、もし相手がミアのように、言っても止まってくれなかったら。
そう考えた瞬間、胸の奥がひやりとした。
「……っ」
ルシアは慌てて首を振った。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「姫様、失礼いたします」
マルタの声だった。
「はーい!」
扉が開き、マルタが小さな盆を持って入ってくる。
「お加減はいかがですか?」
「うん! もう元気だよ!」
「それはようございました」
マルタは微笑みながら、卓へ温かな紅茶を置いた。
「昨日はお疲れになられたでしょう。ゼノン様から、本日はゆっくりお過ごしいただくようにと」
「……やっぱり?」
ルシアは少し頬を膨らませた。
「私、もう元気なのに」
マルタは困ったように笑った。
「ゼノン様は、姫様のことが心配でいらっしゃるのですよ」
「分かってるけど……」
ルシアは小さく息を吐いた。
「お兄様、私がちょっと歩くだけでも心配するんだもん」
「ふふ。昔からそうでございましたよ」
「……昔から?」
「ええ」
マルタは懐かしそうに目を細めた。
「幼い姫様が転ばれただけで、ゼノン様は大変な騒ぎでした」
「ええっ!?」
ルシアは目を丸くした。
「お兄様が?」
「はい。膝を少し擦りむいただけでしたのに、飛ぶように来て傷を治しておられました」
「……ふふっ!」
ルシアは思わず笑った。
「今と全然変わってない!」
「そうでございますね」
マルタも楽しそうに微笑んだ。
「ですが、それほど姫様を大切に思っていらっしゃるのでしょう」
ルシアは少し照れたように笑った。
「……うん。知ってる」
マルタはその笑顔を見つめ、静かに頭を下げた。
「何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「ありがとう、マルタ!」
扉が閉まると、ルシアは紅茶を一口飲んだ。
温かな香りが、胸の奥まで広がっていく。
昨日の疲れはまだ少し残っている。
けれど、今日は何をして過ごそうかと考えられることが、何だか嬉しかった。
◇
同じ頃。
アストリア共生学園の夜間部では、ゼノンが久しぶりに総代としての仕事に戻っていた。
執務室の机には、彼が不在の間に溜まった書類が積まれている。
「……思ったより多いね」
ゼノンが苦笑すると、向かいに座っていたセドリックが呆れたように肩をすくめた。
「そりゃそうだろ。お前、どれだけ休んでたと思ってるんだよ」
「ごめんね」
「別に責めてるわけじゃないけどな」
セドリックは書類を一枚差し出した。
「重要なものはルイスが処理してくれた。こっちはお前の確認待ちだ」
「助かるよ」
「礼ならルイスに言ってくれ。俺も手伝ったけど、あいつの仕事量は相当だったぞ」
ゼノンは小さく笑った。
「あとでちゃんとお礼を言うよ」
セドリックは頷いた。
それから、少しだけ表情を引き締める。
「……それと、昨日の件なんだけど」
ゼノンの手が止まった。
「暴走ヴァンパイアのこと?」
「ああ」
セドリックは声を落とした。
「捕縛された個体について、追加の報告が届いた」
机の上へ、一枚の書類が置かれる。
ゼノンはそれを手に取った。
「……身元が判明したんだね」
「ああ。王都の外れに住んでいた人間の男だ」
ゼノンの赤い瞳が細められる。
「人間?」
「少なくとも、少し前まではな」
セドリックは腕を組んだ。
「家族の証言では、数週間前に行方不明になっていたらしい。ヴァンパイアと関わりがあったという話もない」
「……」
「それが突然、ヴァンパイアとして現れた」
ゼノンは書類へ目を落とした。
身元。
年齢。
失踪した日付。
そして、捕縛された際の状態。
そこには、通常の転化とは異なる不自然な点がいくつも記されていた。
「……血の供給者は?」
「まだ分かっていない」
セドリックは首を横に振った。
「本人から話を聞こうとしても、まともな返答がないらしい。意識が混濁しているというより、同じ言葉を繰り返しているそうだ」
「……黒い髪の姫君」
「ああ」
ゼノンは書類を閉じた。
「ラビは?」
「現地へ向かった。ルイスも別の経路から情報を集めている」
ゼノンはしばらく考え込んだ。
十一年前の襲撃。
ルシアを狙ったエドモンド。
そして、今になって現れた不自然な暴走ヴァンパイア。
まだ、直接繋がる証拠はない。
けれど、偶然だと片づけるには気になることが多すぎた。
「……僕も一度、捕縛された個体を見ておきたい」
「そう言うと思った」
セドリックは頷いた。
「ただ、今すぐじゃなくてもいい。まずはラビの報告を待とう」
「うん」
ゼノンは窓の外へ視線を向けた。
ルシアは今頃、屋敷で休んでいるはずだ。
昨日、学園から帰ったあと、少し疲れた様子を見せていた。
今日は無理をさせたくない。
できることなら、あの子には何も知らずに笑っていてほしい。
そう思う一方で、守るためには知らなければならないこともある。
ゼノンは静かに息を吐いた。
◇
昼過ぎ。
ゼノンが執務室を出ると、廊下の壁にもたれかかるようにして、一人の青年が立っていた。
赤い髪。
鋭い瞳。
腕を組み、どこか不機嫌そうな表情を浮かべている。
「……クレイド?」
ゼノンが声をかけると、青年は顔を上げた。
「よう」
「どうしたの? 授業は?」
「もう終わった」
「そう」
ゼノンは微笑んだ。
「何か用かな?」
クレイドは少しだけ視線を逸らした。
「……話がある」
その声は、いつもより低かった。
ゼノンは彼を見つめた。
「ルシアのこと?」
クレイドの眉がぴくりと動いた。
「……何で分かんだよ」
「君が僕に話したいことなら、そうかなと思って」
「……ちっ」
クレイドは小さく舌打ちした。
「相変わらず、気に食わねぇな」
ゼノンはくすりと笑った。
「ごめんね」
「謝る気ねぇだろ」
「うん、あまり」
「……おい」
いつものようなやり取り。
けれど、クレイドはすぐに真剣な表情へ戻った。
「……ここじゃ話しにくい」
「分かった」
ゼノンは頷いた。
「場所を変えようか」
◇
二人が向かったのは、夜間部の校舎から少し離れた中庭だった。
授業の時間帯ということもあり、人影はほとんどない。
噴水の水音だけが、静かに響いている。
クレイドはしばらく黙っていた。
ゼノンも急かさず、彼が口を開くのを待った。
「……昨日さ」
やがて、クレイドが呟いた。
「ルシア、学園に来たんだろ」
「うん」
「エリーゼから聞いた」
ゼノンは頷いた。
「短い時間だったけど、楽しそうだったよ」
「……そうか」
クレイドは少しだけ安心したように息を吐いた。
「……あいつ、笑ってたか?」
「うん。何度も」
その答えに、クレイドの表情がわずかに緩んだ。
「……そっか」
けれど、すぐに俯く。
「……俺、あいつがあんなふうになるなんて思ってなかった」
ゼノンは黙って聞いていた。
「昔からさ、ルシアって変なところで無防備なんだよ」
クレイドは苦笑した。
「知らねぇ奴にもすぐ話しかけるし、困ってる奴がいたら放っとけねぇし」
「……そうだね」
「俺が何回注意しても、全然聞かねぇ」
クレイドは噴水を見つめた。
「でも……」
その声が、少しだけ震えた。
「……あいつが誰かを信じることを、悪いことだなんて思いたくなかった」
ゼノンの表情が静かに変わる。
「ミアのことも、そうだった」
クレイドは拳を握った。
「ルシアがあいつを友達だって言うから、俺も信じてた」
あの日。
アルベルトの屋敷。
キッチンでは、ルシアとミアが楽しそうにお菓子を作っていた。
クレイドは二人の邪魔をしないよう、少し離れた場所にいた。
呼び鈴が鳴った。
玄関に来客があり、クレイドは応対するために席を外した。
ほんの短い時間。
それだけだった。
「……俺が戻ったときには、もう……」
クレイドは言葉を詰まらせた。
床に倒れたルシア。
血に染まった服。
何度呼びかけても返事をしない姿。
その光景が、今も頭から離れない。
「……俺が、あいつを一人にしなきゃ」
「クレイド」
ゼノンが静かに呼んだ。
「君のせいじゃないよ」
「分かってる!」
クレイドは思わず声を荒らげた。
けれど、すぐに唇を噛んだ。
「……分かってんだよ」
低い声で続ける。
「悪いのはミアだ。そんなこと、分かってる」
拳が震えていた。
「でも、俺があのとき玄関に行かなかったら、ルシアはあんな目に遭わなかっただろ」
ゼノンは何も言わなかった。
「……あいつ、俺が守るって決めてたんだよ」
クレイドは顔を上げた。
「昔から、ずっと」
十一年前。
アルベルトの屋敷で出会った、白金髪の少女。
自分と同じように、行き場を失っていた子供。
最初は何も知らず、ただ同じ屋根の下で暮らしていただけだった。
けれど、いつの間にか家族になっていた。
ルシアが笑えば、嬉しかった。
ルシアが泣けば、腹が立った。
誰かがルシアを傷つけようとすれば、許せなかった。
「……俺、ヴァンパイアなんか嫌いだ」
クレイドは吐き捨てるように言った。
「今でも、好きになれねぇ」
ゼノンは静かに頷いた。
「知ってるよ」
「でも、ルシアは違う」
クレイドはまっすぐゼノンを見た。
「純血種だろうが、ヴァルディエ家の姫だろうが、関係ねぇ」
その声には、迷いがなかった。
「俺にとっては、十一年間一緒に育ったルシアなんだよ」
ゼノンの赤い瞳が、柔らかく細められた。
「……うん」
クレイドは深く息を吸った。
そして、ゆっくりと言った。
「……俺に、ルシアを守らせてくれ」
ゼノンは目を瞬かせた。
「……守らせて?」
「ああ」
クレイドは拳を握った。
「お前があいつを守ってるのは分かってる。お前のほうが強ぇことも、分かってる」
悔しそうに唇を噛む。
「俺じゃ、ヴァンパイアを相手にするには、力不足かもしれない」
「……」
「でも、何もしないで待ってるなんて、もう嫌なんだよ」
クレイドの声が震えた。
「またあいつが傷つくくらいなら、俺が盾にでも何でもなる」
ゼノンはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……クレイド」
「何だよ」
「君がルシアを大切に思っていることは、よく分かってる」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「でも、一つだけ約束してほしい」
「……何だ?」
「自分の命を、簡単に差し出そうとしないで」
クレイドの表情が変わった。
「……は?」
「ルシアは、君が傷つくことを望まないよ」
ゼノンは静かに続けた。
「君が自分を犠牲にしたら、あの子はきっと悲しむ」
クレイドは言葉を失った。
「守るっていうのは、代わりに傷つくことだけじゃない」
ゼノンは穏やかに言った。
「そばにいて、話を聞いて、一緒に笑ってあげることも、あの子を守ることになるんだよ」
クレイドは俯いた。
「……」
「君は、ルシアにとって大切な家族だ」
ゼノンは微笑んだ。
「僕にはできないことも、君にならできるかもしれない」
クレイドが顔を上げる。
「……お前が、そんなこと言うのかよ」
「本当のことだからね」
ゼノンは小さく笑った。
「君とルシアが過ごした十一年間は、僕にはないものだから」
その言葉に、クレイドは何も答えられなかった。
ゼノンは続けた。
「だから、これからもルシアのそばにいてあげてほしい」
クレイドの瞳が揺れる。
「……いいのか?」
「もちろん」
ゼノンは微笑んだ。
「ただし、あの子を守るために、君自身も大切にしてほしい」
クレイドはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐く。
「……分かったよ」
そして、少しだけ口元を緩めた。
「……お前、思ってたより話が分かるんだな」
「そう?」
「ああ。もっと面倒くせぇ奴だと思ってた」
ゼノンはくすりと笑った。
「それは少し傷つくな」
「嘘つけ」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
クレイドは噴水の向こうへ視線を向けた。
「……ルシア、今どうしてる?」
「今日は屋敷で休んでるよ」
「昨日、疲れたのか?」
「うん。少しね」
クレイドは眉を寄せた。
「……大丈夫なのかよ」
「大丈夫。今朝は元気だったよ」
「……ならいいけど」
** ゼノンはそんな彼を見て、微笑んだ。**
「そうだ。時間があるときは、また屋敷に顔を出してあげてよ」
** クレイドが顔を上げた。**
「……この前も行ったばっかだろ」
「ふふ。ルシアは何度でも喜ぶと思うよ」
「……そうかよ」
** クレイドは少し照れくさそうに視線を逸らした。**
「君が来てくれると、あの子は本当に嬉しそうだからね。遠慮しないで、いつでも会いにおいで」
** ゼノンが穏やかに微笑む。**
** クレイドはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。**
「……じゃあ、またそのうち行く」
「うん。ルシアにも伝えておくよ」
「……別に、わざわざ言わなくていいだろ」
「どうして? きっと楽しみにするよ」
「……ったく、お前は」
** クレイドは呆れたように呟いたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。**
** ゼノンも、それ以上からかうことはしなかった。**
◇
その日の夕方。
ヴァルディエ家の本邸では、ルシアが庭園を散歩していた。
隣にはアンナが付き添っている。
「姫様、こちらの花は最近咲き始めたばかりなのですよ」
「わぁ、綺麗!」
ルシアは嬉しそうに花壇を覗き込んだ。
淡い紫色の小さな花が、風に揺れている。
「何ていうお花?」
「月鈴草と申します」
「月鈴草……」
ルシアはその名前を繰り返した。
「可愛い名前だね!」
アンナは微笑んだ。
「夜になると、花弁が少しだけ光るのですよ」
「ええっ! 本当!?」
「はい。魔力を含んだ土壌で育つ花ですので」
「すごい!」
ルシアは目を輝かせた。
「夜にも見に来たいな!」
「では、ゼノン様にご相談してみましょうか」
「うん!」
そのとき、遠くから聞き慣れた声が響いた。
「ルシア!」
振り向くと、庭園の入口にゼノンが立っていた。
「お兄様!」
ルシアは嬉しそうに手を振った。
ゼノンが近づいてくる。
「今日は元気そうだね」
「うん! アンナにお花を見せてもらってたの!」
「そうなんだ」
ゼノンは花壇へ視線を向けた。
「月鈴草だね」
「知ってるの?」
「もちろん」
ゼノンは微笑んだ。
「昔、母上が好きだった花なんだ」
ルシアの表情が変わった。
「……お母様が?」
「うん」
ゼノンは静かに頷いた。
「夜になると、庭園でよく眺めていたよ」
ルシアは花壇を見つめた。
淡い紫色の花。
風に揺れる小さな花弁。
十一年前、母も同じ花を見ていたのだろうか。
「……そっか」
ルシアは優しく微笑んだ。
「じゃあ、私も好きになりそう」
ゼノンは彼女の頭を撫でた。
「ふふ。そうだね」
それから、思い出したように口を開く。
「そういえば、ルシア」
「なあに?」
「今日、クレイドに会ったよ」
「えっ!?」
ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「クレイドに!?」
「うん。学園でね」
「元気だった?」
「元気だったよ」
「そっか!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「クレイド、最近あんまり会えてないから……」
その声が、少しだけ寂しそうになる。
ゼノンは優しく微笑んだ。
「近いうちに、会いに来るって」
「本当!?」
「うん」
「やったぁ!」
ルシアは嬉しそうに両手を合わせた。
「じゃあ、お菓子を用意してもらおうかな!」
ゼノンは小さく笑った。
「きっと喜ぶよ」
「ふふっ! クレイド、甘いもの好きだもんね!」
ルシアは楽しそうに笑った。
その笑顔を見つめながら、ゼノンは昼間のクレイドの言葉を思い出していた。
『俺に、ルシアを守らせてくれ』
不器用で、口が悪くて。
それでも、誰よりも真剣にルシアを思っている青年。
ゼノンは静かに微笑んだ。
ルシアを守りたいと願うのは、自分だけではない。
アルベルトも。
クレイドも。
エリーゼも。
ラビやセドリックたちも。
それぞれの形で、ルシアを大切に思っている。
だからこそ、自分一人で何もかも抱え込む必要はないのだと、ゼノンは改めて感じていた。
「……お兄様?」
ルシアが首を傾げた。
「どうしたの?」
「ううん。何でもないよ」
ゼノンは微笑んだ。
「今日は、少しだけ夜の庭園も見てみようか」
「えっ、いいの!?」
「うん。寒くならないうちにね」
「やったぁ!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
その手を、ゼノンが優しく取る。
二人は並んで、夕暮れの庭園を歩き始めた。
◇
一方、その頃。
王都の外縁部にある監視施設では、ラビが捕縛された暴走ヴァンパイアの様子を確認していた。
厚い鉄格子の向こう。
拘束された男は、床に座り込んだまま、虚ろな目で前を見つめている。
かつて人間だったという男。
その身体からは、不自然に濃い血の気配が漂っていた。
「……ねえ、君」
ラビが静かに声をかけた。
男は反応しない。
「少し、話を聞かせてくれないかな」
沈黙。
ラビは小さく息を吐いた。
「……困ったなぁ」
そのとき。
男の唇が、わずかに動いた。
「……ひめ……」
ラビの目が細められる。
「……何?」
「……くろい……かみ……」
男は虚ろな目のまま呟いた。
「……ひめぎみ……」
ラビは黙って聞いていた。
「……つれて……こい……」
低く、掠れた声。
それはまるで、誰かに命じられた言葉を繰り返しているようだった。
ラビは静かに問いかけた。
「……誰に言われたの?」
男は答えない。
「黒い髪の姫君って、誰のこと?」
沈黙。
やがて、男の唇が再び動いた。
「……あの……かた……に……」
ラビの表情が変わった。
「……あの方?」
男はゆっくりと顔を上げた。
その赤い瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「……ささげる……」
次の瞬間。
男の身体が、激しく痙攣した。
「……っ!?」
ラビが一歩下がる。
拘束具が大きな音を立てた。
男の口から、苦しげな呻き声が漏れる。
「おい、どうした!?」
監視員が駆け寄った。
ラビは素早く手を上げる。
「近づかないで!」
その声と同時に、男の身体から異様な魔力が噴き上がった。
鉄格子が軋む。
床に亀裂が走る。
ラビは一瞬で腰の銃を抜いた。
「……これは、まずいね」
普段の軽い口調は消えていた。
男の赤い瞳が、ゆっくりとラビを捉える。
そして、掠れた声で呟いた。
「……ひめぎみ……」
ラビは銃口を向けたまま、静かに息を吐いた。
「……君たち、一体誰に操られてるんだい?」
その問いに、男は答えなかった。
ただ、壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返す。
「……くろい……かみの……ひめぎみ……」
王都の外れに、不穏な気配が広がっていく。
ルシアがようやく取り戻し始めた穏やかな日常。
その裏側で、十一年前から続く悪意が、再び動き始めようとしていた。




