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帰る場所、待っていた人たち



 ヴァルディエ家の本邸で暮らし始めて、数日が経った。


 ルシアは少しずつ、この屋敷での生活に慣れ始めていた。


 朝、目を覚ますと、窓の外には美しく整えられた庭園が広がっている。


 柔らかな陽光に照らされた花々。遠くから聞こえる鳥のさえずり。廊下を歩く使用人たちの静かな足音。


 アルベルトの屋敷とは、何もかもが違っていた。


 それでも、ここにはゼノンがいる。


 目を覚ませば、必ず自分の様子を見に来てくれる。


 夜、眠るのが怖くなれば、手を握って傍にいてくれる。


 その安心感が、ルシアにとって何よりも大きかった。


「……ん……」


 ルシアは寝台の上で小さく伸びをした。


 今日は、昨日よりもよく眠れた気がする。


 窓から差し込む光を眺めながら、ゆっくりと身体を起こした。


 すると、控えめなノックが響いた。


「姫様。お目覚めでしょうか」


「……はい!」


「朝のお支度をお手伝いしてもよろしいでしょうか」


「どうぞ!」


 扉が開き、二人の侍女が入ってきた。


 一人は落ち着いた雰囲気の年配の女性。


 もう一人は、ルシアより少し年上に見える若い女性だった。


「おはようございます、姫様」


「おはようございます!」


 ルシアが微笑むと、年配の侍女は嬉しそうに目を細めた。


「昨夜はよくお休みになれましたか?」


「うん。昨日より、ずっと!」


「それは何よりでございます」


 彼女の名はマルタ。


 長年ヴァルディエ家に仕えてきた侍女だった。


 十一年前までは、街から離れた別邸で幼いルシアの世話をしていたこともある。


 あの襲撃が起きた日、マルタは別の用事で屋敷を離れていた。


 戻ったときには、すべてが変わっていた。


 それ以来、姫君の行方を案じながら、ヴァルディエ家に仕え続けてきたのだった。


「本日は、どちらのお召し物になさいますか?」


「うーん……」


 ルシアは並べられた衣装を眺めた。


 淡い水色のワンピース。


 白いレースをあしらった薄桃色のドレス。


 そして、落ち着いたクリーム色のワンピース。


「これがいいな!」


 ルシアが選んだのは、クリーム色のワンピースだった。


「かしこまりました」


 マルタが微笑む。


 その隣で、若い侍女が緊張した様子で頭を下げた。


「本日からお支度のお手伝いをさせていただきます、アンナと申します」


「アンナね! よろしく!」


「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いいたします!」


 あまりにも勢いよく頭を下げたため、ルシアは思わず笑ってしまった。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」


「も、申し訳ございません……!」


「ふふっ。謝らなくていいのに」


 困ったように微笑むルシアを見て、マルタが小さく笑った。


「アンナは、姫様にお仕えできることを大変喜んでいるのですよ」


「そうなの?」


「は、はい!」


 アンナは頬を赤くした。


「その……ゼノン様に妹君がいらっしゃるなんて、存じ上げなかったものですから……」


 ルシアは少しだけ目を瞬かせた。


「そっか。知らなかったんだね」


「申し訳ございません!」


「だから、謝らなくていいってば」


 ルシアが笑うと、アンナもようやく小さく微笑んだ。


 マルタはそんな二人を見守りながら、懐かしそうに口を開いた。


「姫様の存在は、長い間、限られた者にしか知らされておりませんでしたから」


「……そうだよね」


「ですが、私どもはずっとお待ちしておりました」


 その言葉に、ルシアは顔を上げた。


「……待っててくれたの?」


「もちろんでございます」


 マルタは優しく微笑んだ。


「ヴァルディエ家にお仕えする者として、姫様がいつかお戻りになる日を、ずっと願っておりました」


 ルシアの胸が、じんわりと温かくなった。


「……ありがとう、マルタ」


「とんでもございません」


 マルタは深く頭を下げた。


「こうして姫様のお世話ができることが、何よりの幸せでございます」


 ルシアは照れくさそうに微笑んだ。


 まだ慣れないことばかりだった。


 姫様と呼ばれることも。


 自分のために用意された広い部屋も。


 誰かが当たり前のように身の回りの世話をしてくれることも。


 けれど、少しずつ。


 ここでの生活が、自分の日常になっていくのかもしれない。


     ◇


 朝食を終えたルシアは、庭園へ出ていた。


 ヴァルディエ家の本邸には、広大な庭園がある。


 丁寧に手入れされた花壇。


 白い石畳の小道。


 中央には、美しい噴水が設けられていた。


「……綺麗」


 ルシアはゆっくりと歩きながら、周囲を見渡した。


 まだ屋敷の中も、庭園も、知らない場所がたくさんある。


 幼い頃に暮らしていたのは、街から離れた別の屋敷だった。


 両親が、自分の存在を隠して育てるために用意した場所。


 だから、この本邸には幼い頃の記憶がほとんどない。


 それでも、ここはヴァルディエ家の屋敷。


 自分が生まれた家の、本来の居場所だった。


「あれ……?」


 花壇の前で、ルシアは足を止めた。


 白い小さな花が、風に揺れている。


「このお花……」


「姫様」


 背後から、穏やかな声がした。


 ルシアは一瞬、肩を震わせた。


 けれど、振り返ると、少し離れた場所に年配の庭師が立っていた。


 庭師はそれ以上近づかず、静かに頭を下げた。


「驚かせてしまいましたか。申し訳ございません」


「ううん、大丈夫!」


 ルシアは胸に手を当て、微笑んだ。


「ちょっとびっくりしただけだから」


「それならば、ようございました」


 庭師は安堵したように笑った。


「庭園をお気に召していただけましたでしょうか」


「うん! とっても綺麗!」


「それは何よりでございます」


 庭師は嬉しそうに目を細めた。


「……姫様は、昔から白い花がお好きでしたね」


「え?」


 ルシアは目を瞬かせた。


「私の小さい頃を知っているの?」


「はい。以前、街外れの別邸で庭師を務めておりました」


「……そうなの?」


「ええ。まだ姫様が幼かった頃でございます」


 庭師は懐かしそうに花壇を見つめた。


「よく庭にいらしては、花を摘んでおられました」


「私が?」


「はい。アルフォンス様やロザリア様に差し上げるのだと、嬉しそうに」


 ルシアの胸が、小さく震えた。


「……お父様と、お母様に?」


「ええ」


 庭師は優しく頷いた。


「ロザリア様は、姫様から花を受け取ると、いつも大切そうに胸元へ飾っておられました」


 ルシアは白い花を見つめた。


 記憶を取り戻した今でも、幼い頃の出来事をすべて鮮明に覚えているわけではない。


 けれど、庭師の話を聞いていると、胸の奥に懐かしい温もりが広がっていく。


「……お母様、喜んでくれてたんだ」


「もちろんでございます」


 庭師は微笑んだ。


「アルフォンス様も、姫様からいただいた花を大切にしておられましたよ」


「お父様も?」


「はい。ゼノン様が『僕にもくれる?』とお尋ねになると、姫様は『お兄さまには、こっち!』と、別の花を渡しておられました」


「ええっ!?」


 ルシアは頬を赤くした。


「そ、そんなことまで覚えてるの?」


「ふふ。とても微笑ましい光景でしたので」


 庭師の穏やかな笑顔を見つめながら、ルシアはもう一度、花壇に咲く白い花へ視線を落とした。


「……私、そんなにお花が好きだったんだね」


「ええ。それはもう。毎日のように庭へいらしては、今日はどなたに差し上げようかと悩んでおられました」


「ふふっ。お兄様にもあげてたんだ」


「ゼノン様は、姫様からいただいたものなら何でも大切になさっておりましたよ」


「……今も変わらないかも」


 思わず笑みがこぼれた。


 ゼノンは今でも、ルシアが何気なく渡したものを大切にしてくれる。


 まさか、幼い頃からそうだったなんて。


「……あの」


 ルシアはふと顔を上げた。


「庭師さんは、ずっとヴァルディエ家にいるの?」


「はい。長いことお仕えしております」


「じゃあ、十一年前も……?」


 そこまで言って、ルシアは口を閉じた。


 庭師の表情が、ほんの少しだけ変わったからだ。


 穏やかな笑顔の奥に、深い悲しみがよぎった。


「……あの日は、私も別邸におりました」


 庭師は静かに答えた。


「庭の奥で作業をしていたのですが、突然、屋敷の方から大きな音が聞こえまして……」


 ルシアは息を呑んだ。


「……」


「何が起きたのかも分からぬまま、屋敷の者に逃げるよう言われました。私は裏門から、どうにか逃げ延びることができたのです」


 庭師はゆっくりと目を伏せた。


「ですが、逃げられなかった者も、大勢おりました」


「……そう、だったんだ」


 ルシアの声が小さくなる。


 庭師は慌てたように顔を上げた。


「申し訳ございません。姫様に、このようなお話を……」


「ううん」


 ルシアは首を横に振った。


「話してくれて、ありがとう」


 庭師は驚いたように目を瞬かせた。


「……姫様」


「怖かったよね……」


 ルシアは白い花を見つめながら呟いた。


「それなのに、今もヴァルディエ家にいてくれるんだね」


 庭師はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと微笑んだ。


「……私は、アルフォンス様とロザリア様に大変よくしていただきました」


 その声には、懐かしさが滲んでいた。


「お二人のことを、今でも心から尊敬しております」


 ルシアは静かに耳を傾けた。


「ですから、こうして姫様が戻ってこられたことが、本当に嬉しいのです」


 庭師は深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ、ルシア様」


 ルシアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 十一年前。


 自分が失ったものは、家族だけではなかった。


 あの屋敷で働いていた人たち。


 自分を可愛がってくれた人たち。


 幼い頃の自分を知っている、たくさんの人たち。


 その中には、もう二度と会えない人もいる。


 けれど、こうして生きていてくれた人もいるのだ。


「……ただいま」


 ルシアは小さく微笑んだ。


「帰ってきたよ」


 庭師は目元を押さえながら、何度も頷いた。


「……はい。お待ちしておりました」


 しばらくして、ルシアは花壇の前にしゃがみ込んだ。


「ねえ、このお花……一本だけ摘んでもいい?」


「もちろんでございます」


「ありがとう!」


 ルシアは白い花を一本だけ摘み、嬉しそうに立ち上がった。


「お兄様にあげようかな」


 庭師は目を細めた。


「きっと、お喜びになりますよ」


「ふふっ。そうだといいな!」


 ルシアが笑うと、庭師も穏やかに微笑んだ。


 その笑顔は、十一年前の別邸で見た幼い姫君の姿を思い出させるものだった。


     ◇


 屋敷へ戻る途中、ルシアは廊下の向こうから聞こえてきた話し声に足を止めた。


「……本当に、あの方が?」


「ええ。ゼノン様の妹君でいらっしゃるそうよ」


「でも、今まで一度もお聞きしたことがなかったわ」


「事情があって、ずっとお隠しになっていたんですって」


 若い侍女たちの声だった。


 どうやら、自分の話をしているらしい。


「それにしても、驚いたわ。あんなにお綺麗な方がいらっしゃったなんて」


「ゼノン様と同じ黒髪に赤い瞳……本当にそっくりよね」


「でも、どうして今まで……」


「こら、あなたたち!」


 突然、別の女性の声が響いた。


 マルタだった。


「廊下で何を話しているのです。姫様のことを軽々しく噂するものではありません」


「も、申し訳ございません!」


 慌てて頭を下げる侍女たち。


 ルシアは少し迷ったあと、廊下の角から顔を出した。


「あの……」


「ひ、姫様!?」


 三人が一斉に振り返る。


 若い侍女たちの顔が、みるみる青ざめた。


「申し訳ございません! 決して悪気があったわけでは……!」


「ううん、大丈夫だよ」


 ルシアは慌てて首を振った。


「私が急に来たから、びっくりするよね」


「ですが……」


「それに、私だってまだ知らないことばっかりなの」


 ルシアは困ったように笑った。


「このお屋敷のことも、ヴァルディエ家のことも。だから、みんなと少しずつ仲良くなれたら嬉しいな」


 侍女たちは驚いたように顔を見合わせた。


 やがて、一人が小さく微笑む。


「……ありがとうございます、姫様」


「こちらこそ、よろしくね!」


 ルシアが笑うと、張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。


 マルタはそんな様子を見守りながら、静かに微笑んだ。


「姫様は、本当にお優しいですね」


「えっ? そんなことないよ?」


「いいえ。昔から、少しもお変わりになりません」


「……マルタも、私の小さい頃を知ってるんだよね?」


「もちろんでございます」


 マルタは懐かしそうに目を細めた。


「私も、あちらのお屋敷でお仕えしておりましたから」


「そうだったんだ!」


「ええ。姫様がお生まれになった頃から、お世話をさせていただいておりました」


 ルシアは驚いて目を丸くした。


「じゃあ、赤ちゃんの頃の私も知ってるの?」


「はい。それはもう、よく覚えておりますよ」


「ええっ! なんだか恥ずかしい……!」


 頬を赤らめるルシアに、マルタは楽しそうに笑った。


「ふふ。ゼノン様も、幼い姫様をそれは大切にしておられました」


「……お兄様が?」


「はい。姫様がお泣きになると、誰よりも早く駆けつけていらっしゃいました」


「……今と同じだね」


 ルシアが呟くと、マルタは静かに頷いた。


「ええ。今も昔も、ゼノン様にとって姫様は何より大切な方なのでしょう」


 その言葉に、ルシアは照れくさそうに微笑んだ。


     ◇


 午後。


 ゼノンは書斎で書類に目を通していた。


 机の上には、学園から届けられた報告書や、ベルフォート家からの書簡が並んでいる。


 ルシアが夜間部へ戻るための調整も、少しずつ進めていた。


 ただし、まだ無理はさせられない。


 アルベルトからも、当分は短時間の登校に留めるよう言われている。


 ゼノン自身も、そのつもりだった。


 そんなとき、控えめなノックが響いた。


「お兄様、入ってもいい?」


 その声を聞いた瞬間、ゼノンの表情が柔らかくなる。


「もちろん。おいで、ルシア」


 扉が開き、ルシアが顔を覗かせた。


「お仕事中だった?」


「うん。でも、ちょうど休憩しようと思っていたところだよ」


「本当?」


「本当だよ」


 ゼノンが微笑むと、ルシアは嬉しそうに書斎へ入ってきた。


 その手には、小さな白い花が握られている。


「ねえ、お兄様」


「何?」


「これ、あげる!」


 差し出された花を見て、ゼノンは一瞬だけ目を見開いた。


「……僕に?」


「うん!」


 ルシアはにっこり笑った。


「さっき庭師さんに聞いたの。私、小さい頃もお兄様にお花をあげてたんだって」


 ゼノンの赤い瞳が、懐かしそうに細められた。


「……そうだね」


「覚えてる?」


「もちろん」


 ゼノンは花を受け取ると、指先でそっと茎を支えた。


「ルシアはよく、庭で見つけた花を僕にくれたんだ」


「ふふっ。やっぱりそうなんだ」


「うん。僕のために選んだって、いつも嬉しそうに渡してくれた」


 ゼノンは静かに微笑んだ。


「……今日も、僕のために選んでくれたの?」


「もちろん!」


 ルシアは少し照れながら頷いた。


「お兄様、いつも私のことを大切にしてくれるから。私も何かあげたいなって」


 ゼノンはしばらく花を見つめていた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


「……ありがとう、ルシア」


 その声は、いつもより少しだけ優しかった。


「大切にするよ」


「ふふっ。お花だから、いつか枯れちゃうよ?」


「それでも、大切にする」


 ゼノンは微笑んだ。


「君が僕にくれたものだからね」


 ルシアは頬を赤らめた。


 そんな妹を見つめながら、ゼノンは静かに思う。


 十一年前。


 もう二度と、こんな日が来ないかもしれないと思っていた。


 幼い妹が笑いながら自分の名前を呼ぶことも。


 何気ない贈り物をしてくれることも。


 同じ屋敷で、穏やかな時間を過ごすことも。


 すべて失われたのだと思っていた。


 けれど、今。


 ルシアは目の前にいる。


「……ルシア」


「なあに?」


「ここでの暮らしは、どう?」


 ルシアは少し考えた。


「……まだ、慣れないこともあるかな」


「うん」


「でもね、今日はいろんな人とお話ししたの」


 ルシアは嬉しそうに続けた。


「私の小さい頃を知ってる人もいて、お父様とお母様のお話も聞けたんだよ」


「……そう」


「みんな、私が帰ってきたことを喜んでくれてるんだって」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「当然だよ。君はヴァルディエ家の大切な姫君なんだから」


「……なんだか、まだ不思議」


 ルシアは小さく笑った。


「アルの家も、私にとっては大切なお家なの。でも、今はまだ……」


 言葉が途切れる。


 ゼノンは何も急かさず、続きを待った。


「……帰るのが、怖い」


 ルシアは俯いた。


「アルにもクレイドにも会いたいし、あのお家が嫌いになったわけじゃないのに……」


「うん」


「思い出しちゃうの。ミアのこと……」


 ゼノンは椅子から立ち上がり、ルシアの傍へ歩み寄った。


「……ルシア」


 そっと手を差し出す。


「おいで」


 ルシアは迷わず、その胸に身体を預けた。


 ゼノンは優しく抱き締める。


「無理に帰らなくていいんだよ」


「……でも」


「アルもクレイドも、君が帰ってこないからって、家族じゃなくなるわけじゃない」


 ルシアの黒い髪を、ゆっくりと撫でた。


「君が安心できるようになるまで、ここにいればいい」


「……うん」


「それに、ここも君の家なんだから」


 ルシアは顔を上げた。


「……私のお家?」


「そうだよ」


 ゼノンは微笑んだ。


「君はヴァルディエ家の娘なんだ。ここにいることに、遠慮なんていらない」


 ルシアは少しだけ目を潤ませた。


「……お兄様」


「何?」


「私、ここに来てよかった」


 ゼノンの瞳が、柔らかく細められた。


「……僕もだよ」


 彼はもう一度、ルシアを抱き締めた。


「おかえり、ルシア」


 その言葉に、ルシアは小さく微笑んだ。


「……ただいま、お兄様」


 窓の外では、穏やかな風が庭園の花々を揺らしていた。


 失われた十一年間を、取り戻すことはできない。


 けれど、これから先の時間を、一緒に過ごすことはできる。


 ルシアにとって、アルベルトの屋敷は大切な家族と過ごした場所。


 そしてヴァルディエ家の本邸は、これから新しい思い出を重ねていく場所だった。


 少しずつ。


 本当に、少しずつ。


 ルシアの日常は、穏やかな色を取り戻し始めていた。



   ◇



 午後の柔らかな陽光が、ヴァルディエ家の本邸を照らしていた。


 ルシアは自室の窓際に腰掛け、読みかけの本を膝に広げていた。


 庭園を散歩し、昔の自分を知る使用人たちと話をして、ゼノンに白い花を贈った。


 楽しい一日だったけれど、思っていた以上に疲れていたらしい。


「……ふぁ……」


 小さな欠伸がこぼれる。


 そろそろ少し休もうかと思った、そのときだった。


 控えめなノックが響いた。


「姫様、お客様がお見えになりました」


「お客様?」


 ルシアは顔を上げた。


「どなた?」


「アルベルト・グランヴェール様でございます」


「……アル!?」


 ルシアの顔がぱっと輝いた。


「本当!? アルが来たの!?」


「はい。ゼノン様と応接室でお待ちでございます」


「すぐ行く!」


 勢いよく立ち上がろうとして、ルシアは慌てて動きを緩めた。


 昨日も今朝も、ゼノンから何度も無理をしないようにと言われていたことを思い出したのだ。


「……ゆっくり、だよね」


 小さく呟くと、侍女のアンナが微笑んだ。


「はい。私がご案内いたします」


「ありがとう!」


     ◇


「アル!」


 応接室の扉が開くと、ルシアは嬉しそうに声を上げた。


「おう、ルシア」


 長椅子に座っていたアルベルトが顔を上げる。


「元気にしてたか?」


「うん!」


 ルシアは笑顔で近づいた。


 アルベルトはそんな彼女を見て、安心したように目を細めた。


「昨日より顔色がいいな」


「本当?」


「ああ。ちゃんと飯も食ってるか?」


「食べてるよ!」


「ならよし」


 アルベルトは立ち上がると、ルシアの頭をくしゃりと撫でた。


「……よかった」


 その小さな呟きに、ルシアは首を傾げた。


「アル?」


「ん? 何でもねぇよ」


 アルベルトはいつものように笑った。


 けれど、ゼノンには分かっていた。


 アルベルトがどれほどルシアを心配しているのか。


 昨日も訪ねてきたばかりだというのに、今日もこうして顔を見に来た。


 それほど、娘の様子が気がかりなのだろう。


「そうだ、ルシア」


 アルベルトは思い出したように口を開いた。


「今日はお前に持ってきたもんがある」


「え?」


 ルシアが目を瞬かせる。


「何?」


「昨日、頼まれただろ?」


 アルベルトは長椅子の横に置いていた小さな紙袋を手に取った。


「ほら」


 中から取り出したのは、白いうさぎのぬいぐるみだった。


 長い耳。


 丸い黒い瞳。


 首元には、淡い桃色のリボンが結ばれている。


「……あっ!」


 ルシアの瞳が大きく見開かれた。


「私のうさぎさん!」


 アルベルトは笑った。


「ちゃんと窓際にいたぞ」


「わぁ……!」


 ルシアは両手でぬいぐるみを受け取った。


 そして、嬉しそうに胸へ抱き締める。


「ありがとう、アル!」


「おう」


 アルベルトは優しく微笑んだ。


「これがないと落ち着かねぇかと思ってな」


 ルシアはぬいぐるみの頭をそっと撫でた。


「……懐かしい」


 柔らかな手触り。


 少しくたびれた耳。


 何度も抱き締めたせいで、首元のリボンは少しだけ形が崩れている。


 十一年間暮らした、アルベルトの屋敷。


 その部屋の窓際に、いつも置いていたものだった。


「……本当に、持ってきてくれたんだね」


「当たり前だろ」


 アルベルトは笑った。


「約束したからな」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


 けれど、しばらくぬいぐるみを見つめているうちに、その表情が少しだけ曇った。


「……ねえ、アル」


「ん?」


「私のお部屋……本当に、そのまま?」


 アルベルトは迷わず頷いた。


「ああ。そのままだ」


「……」


「本棚も、机も、ベッドも。何にも変えてねぇよ」


 ルシアは小さく息を吐いた。


「……そっか」


「クレイドなんか、お前の部屋に勝手に入ろうとしたら怒るくらいだぞ」


「えっ?」


 ルシアが顔を上げる。


「クレイドが?」


「ああ。掃除に入る使用人にまで『物の位置を変えるな』って言ってた」


「……ふふっ」


 ルシアは思わず笑った。


「クレイドらしいね」


「だろ?」


 アルベルトも笑った。


 ゼノンはそんな二人を、穏やかな表情で見守っていた。


「……アル」


 ルシアは白いうさぎを抱き締めたまま、小さく呟いた。


「私ね、あのお家が嫌いになったわけじゃないの」


 アルベルトの表情が、少しだけ変わった。


「……ああ」


「アルも、クレイドも、大好きだよ」


「知ってる」


 アルベルトは優しく答えた。


「……でも、まだ怖くて」


 ルシアの指先が、ぬいぐるみの耳を握った。


「キッチンのこととか……思い出しちゃうから……」


 アルベルトはゆっくりと彼女の前にしゃがみ込んだ。


「ルシア」


 ルシアが顔を上げる。


「無理して帰ってこなくていい」


「……でも」


「いいんだよ」


 アルベルトは穏やかに微笑んだ。


「お前の部屋は、いつでもそこにある。俺もクレイドも、いなくなったりしねぇ」


 ルシアの瞳が潤んだ。


「……うん」


「だから、帰りたいと思えるようになるまで、ここでゆっくり休んでろ」


 アルベルトは彼女の頭を撫でた。


「それに、俺がこうして会いに来りゃいいんだからな」


 ルシアは顔を上げた。


「……また来てくれる?」


「当たり前だろ」


 アルベルトは笑った。


「明日だって、明後日だって、時間があれば来るぞ」


「……本当?」


「ああ。娘の顔を見に来るのに、遠慮する必要なんかねぇだろ?」


 ルシアは少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「……ありがとう、アル」


「おう」


 アルベルトは彼女をそっと抱き締めた。


 ルシアも、片手で白いうさぎを抱えたまま、もう片方の手でアルベルトの服を掴む。


 その姿を見て、ゼノンは静かに微笑んだ。


 ルシアにとって、アルベルトは十一年間、自分を育ててくれた父親だ。


 その絆は、ヴァルディエ家へ戻ったからといって消えるものではない。


 むしろ、これからも大切にしてほしいと、ゼノンは思っていた。


「……ねえ、お兄様」


 ルシアが顔を上げる。


「なあに?」


「このうさぎさん、私のお部屋に置いてもいい?」


 ゼノンは微笑んだ。


「もちろん。君の部屋なんだから、好きな場所に置いていいんだよ」


「やった!」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、窓際に置こうかな!」


 アルベルトがくすりと笑う。


「結局、同じ場所かよ」


「だって、そこが一番落ち着くんだもん!」


「そうかそうか」


 三人の笑い声が、応接室に柔らかく響いた。


 ルシアはもう一度、白いうさぎを抱き締めた。


 新しい部屋。


 新しい暮らし。


 まだ慣れないことは、たくさんある。


 けれど、懐かしいぬいぐるみを抱えていると、少しだけ安心できた。


 アルベルトの屋敷で過ごした十一年間も。


 ゼノンとこれから過ごす日々も。


 どちらも、ルシアにとって大切なものだった。



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