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幸せな笑顔と、小さな1歩

ミアへの裁定が下された翌日、ルシアは朝から落ち着かない様子で鏡の前に立っていた。


 エリーゼから贈られた白いブラウスに黒いスカート。長い黒髪は丁寧に梳かし、胸元には小さな飾りをつけた。


 鏡に映る自分を見つめ、襟元を整える。


「……これで大丈夫かな」


 今日は、久しぶりに夜間部の校舎へ行く日だった。


 まだ授業への復帰を許されたわけではない。


 アルベルトからは、長時間の外出や身体に負担のかかることは禁止されている。それでも、ルシアがどうしてもみんなに会いたいと願ったため、ゼノンが付き添うことを条件に、短い時間だけ顔を出す許可が下りたのだ。


 楽しみだった。


 エリーゼにも、ラビにも、クロードにも、ノエルにも会える。


 ルイスやセドリックとも、久しぶりに話がしたかった。


 けれど、胸の奥には小さな不安もあった。


 誰かの足音を聞くだけで、身体が強張ってしまうことがある。突然声をかけられると、何も考えられなくなることもあった。


 以前は何とも思わなかったことが、今は怖い。


 そんな自分を、みんながどう思うだろう。


「ルシア?」


 扉の向こうからゼノンの声がした。


「準備はできた?」


「お兄様! 今行く!」


 慌てて扉を開けると、黒い制服を身につけたゼノンが立っていた。


 ルシアの姿を見た途端、彼の赤い瞳が柔らかく細められる。


「可愛いね」


「えっ、まだ何も言ってないよ?」


「見れば分かるよ。今日はずいぶんお洒落してる」


「だって、久しぶりにみんなに会うんだもん」


 ルシアは少し照れながら笑った。


「変じゃない?」


「全然。とても似合ってる」


「よかった!」


 嬉しそうに笑う妹を見つめ、ゼノンも微笑んだ。


「でも、無理はしないこと。少しでも疲れたら帰ろうね」


「うん。アルにもいっぱい言われたから、分かってるよ」


「それなら安心だ」


 ゼノンが手を差し出す。


 ルシアは迷わずその手を取った。


「行こうか」


「うん!」


 廊下へ出たルシアは、久しぶりの外出に胸を弾ませていた。


 しかし、階段を下りようとしたとき、背後から使用人の足音が聞こえ、思わず肩を震わせた。


「っ……」


 ゼノンが足を止める。


「ルシア?」


「……何でもない」


 そう答えたものの、握った手には力がこもっていた。


 ゼノンは何も言わず、彼女の手を包み直した。


「今日は急がなくていいからね」


「うん……」


 ルシアは小さく頷いた。


 ゼノンの隣なら大丈夫。


 そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと階段を下りた。


     *


 夕暮れのアストリア共生学園は、昼間とは違う静かな美しさに包まれていた。


 夜間部の校舎では、黒い制服を身につけた生徒たちが行き交っている。


 ルシアは久しぶりに見る光景に、思わず足を止めた。


「懐かしい……」


「そんなに長く離れていたわけじゃないんだけどね」


 ゼノンが微笑む。


「でも、すごく久しぶりな気がするの」


 ルシアは校舎を見上げた。


 大きな窓。磨き上げられた床。壁に飾られた古い絵画。


 何も変わっていない。


 それなのに、以前とは違う場所へ来たような気持ちになった。


「教室まで行けそう?」


「うん!」


 二人は並んで廊下を歩き始めた。


 途中、すれ違った生徒たちがゼノンへ挨拶をする。


「ゼノン様、ごきげんよう」


「こんばんは」


 ゼノンが穏やかに応じると、隣にいるルシアに気づいた生徒たちが驚いたように目を見開いた。


「ルシア様!」


「もうお身体は大丈夫なのですか?」


「ご心配をおかけしました。まだ授業には戻れないんですけど、今日は少しだけ顔を出しに来ました」


 ルシアが微笑むと、生徒たちは安心したように笑った。


 その様子を見て、ルシアの緊張も少しずつ解けていった。


 やがて、見慣れた教室の前に到着する。


 中からは楽しそうな話し声が聞こえていた。


「……お兄様」


「なあに?」


「なんだか、緊張してきちゃった」


「大丈夫だよ。みんな、君に会えるのを楽しみにしてたから」


「うん……!」


 ルシアが小さく頷いた、そのときだった。


「おっ、来た来た!」


 教室の扉が開き、桃色の髪をした男性が顔を覗かせた。


「ルシアちゃーん! 久しぶり!」


「ひゃっ!」


 突然の声に驚き、ルシアはゼノンの腕にしがみついた。


 ラビは一瞬目を丸くしたが、すぐに状況を察した。


「あっ、ごめんごめん。驚かせちゃったね」


 それ以上近づかず、少し離れたところで笑う。


「いやぁ、久しぶりに会えるって聞いたからさ。嬉しくなっちゃったんだよ」


「ラビ先輩……!」


 ルシアはゼノンの腕から顔を上げた。


「久しぶり!」


「うん、久しぶり。元気そうで安心したよ」


 ラビはにっと笑った。


「それにしても、ずいぶん久しぶりだよね。僕のこと忘れてない?」


「忘れるわけないよ!」


「よかったぁ。忘れられてたら、さすがの僕もちょっと泣いちゃうところだった」


 ルシアがくすくすと笑う。


 ラビは嬉しそうに目を細めた。


「おっ、笑った笑った。やっぱりルシアちゃんはそうでなくちゃ」


「もう、ラビ先輩ったら!」


「ははっ! さあ、入って入って。みんな待ってるよ」


 ラビが扉を開ける。


 ルシアはゼノンの手を握り直し、ゆっくりと教室へ足を踏み入れた。


     *


「ルシア!」


 最初に駆け寄ってきたのはエリーゼだった。


「エリーゼ!」


「本当に来たのね!」


 エリーゼはルシアの手を取り、嬉しそうに笑った。


「昨日聞いてから、ずっと楽しみにしてたのよ」


「私も! エリーゼに会いたかった!」


「もう、心配したんだから……」


 エリーゼの瞳が少しだけ潤む。


 ルシアはその手をぎゅっと握った。


「ごめんね」


「謝らないで。こうしてまた会えたんだもの」


 エリーゼは微笑み、ルシアの髪を優しく撫でた。


「おかえり、ルシア」


「……ただいま!」


 その声に、周囲の生徒たちも笑顔を向けた。


「やあ、ルシアちゃん」


 クロードが椅子から立ち上がり、軽やかな足取りで近づいてくる。


「クロード先輩!」


「久しぶり。相変わらず可愛いね」


 クロードはいつものように甘い笑みを浮かべた。


「君がいない間、教室がずいぶん寂しかったんだよ。僕の目の保養が一つ減っちゃったからね」


「ふふっ! またそんなこと言って!」


「また、じゃないよ。本心だって」


 クロードが笑うと、隣にいたノエルが小さく呟いた。


「……いつも同じ」


「え?」


「口説き文句」


 ノエルは表情一つ変えず、クロードを見た。


「使い回し」


「ちょっと、ノエル。それはひどくない?」


「事実」


 短く返され、クロードは肩を落とした。


「君って本当に容赦ないよね」


 ルシアは思わず吹き出した。


「ふふっ!」


 ノエルはルシアへ視線を向ける。


「……久しぶり」


「ノエル先輩!」


「元気そう。よかった」


「ありがとう!」


「……無理、しないで」


 それだけ言うと、ノエルは再び自分の席へ戻っていった。


 言葉は少ない。


 表情もほとんど変わらない。


 けれど、その短い言葉に込められた優しさを、ルシアはちゃんと感じていた。


「お、ルシア」


 今度はセドリックが声をかけてきた。


「セドリック先輩!」


「久しぶりだな。顔色もよさそうで安心したよ」


「はい! まだ授業には戻れないんですけど……」


「焦る必要はないさ。今はしっかり休んでくれ」


 セドリックは微笑み、それからゼノンへ視線を向けた。


「それにしても、ゼノン。お前、随分久しぶりじゃないか」


「そうだね」


「こっちはお前がいない間、色々大変だったんだぞ」


「ごめんね」


「まあ、事情が事情だから仕方ないけどな」


 セドリックが苦笑する。


 そのとき、少し離れた場所から落ち着いた声がした。


「まったくだ」


 振り返ると、ルイス・ベルフォートがこちらへ歩いてきていた。


「ルイス先輩!」


 ルシアが嬉しそうに声を上げる。


 ルイスは彼女の前で足を止め、静かに微笑んだ。


「久しぶりだな、ルシア」


「はい!」


「……大変だったな」


 その声は、いつもより少し柔らかかった。


「話は聞いている。辛い思いをしただろう」


 ルシアは少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 ルイスはそれ以上、事件について尋ねなかった。


「今は心を休めることだ。無理に元気になろうとする必要はない」


 ルシアは顔を上げた。


「ルイス先輩……」


「こうして顔を見せてくれただけで十分だ。焦らず、ゆっくり戻ってくればいい」


 その言葉に、胸の奥が温かくなる。


「……ありがとうございます!」


 ルイスは小さく頷き、それからゼノンへ向き直った。


「それと、ゼノン」


「何?」


「お前がいない間、こちらは随分と大変だったんだぞ」


 ゼノンは少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんね、ルイス」


「まあ、今回は許してやる」


 ルイスは軽く肩をすくめた。


「だから、今はしっかりルシアを支えてやれ」


 ゼノンの表情が柔らかくなる。


「……ありがとう」


「礼はいらん。お前に言われなくても、俺たちは自分の役目を果たす」


 ルイスはそう言って、少しだけ笑った。


 その様子を見ていたラビが、面白そうに口を挟む。


「いやぁ、ルイスって本当に面倒見がいいよねぇ」


「ラビ。余計なことを言うな」


「褒めてるんだって!」


 ラビは楽しそうに笑った。


「ほら、ゼノンもルイスに感謝しないと。君がいない間、結構頑張ってたんだから」


「それは分かってるよ」


 ゼノンが微笑む。


 ルイスは呆れたように息を吐いた。


「お前は少し黙っていろ」


「ええっ、僕だけ!?」


 ラビが大げさに驚くと、クロードが笑いながら言った。


「ラビ、日頃の行いじゃない?」


「ちょっと、クロードまで!」


「だって、そうだろ?」


「ひどいなぁ。僕、こんなにいい先輩なのに」


「自分で言う?」


 クロードが笑う。


 ノエルがぼそりと呟いた。


「……うるさい」


 一瞬の沈黙のあと、教室に笑い声が広がった。


 ルシアも声を上げて笑った。


 その光景を見ながら、ゼノンは安堵したように微笑んでいた。


 ふと、教室の奥に座るリリアと目が合った。


 リリアは一瞬だけゼノンへ視線を向け、それからルシアを見た。


「お身体は、もうよろしいの?」


「あ、はい。まだ完全には……」


「そう」


 リリアは短く答えた。


「無理をして、また倒れられても困りますものね」


 以前なら、もっと棘のある言葉が返ってきたかもしれない。


 けれど今日は、それ以上何も言わなかった。


 ルシアは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 リリアは答えず、窓の外へ顔を向けた。


 エリーゼがルシアの手を引く。


「ねえ、こっちに座りましょう!」


「うん!」


 教室の窓際。


 以前よく座っていた席に腰を下ろすと、懐かしさが込み上げてきた。


 何気ない会話。


 誰かが笑う声。


 机に置かれた教科書。


 当たり前だった景色が、今はとても大切に思えた。


 エリーゼはルシアの隣に座ると、楽しそうに話し始めた。


「そういえばね、ルシアが休んでいる間に、クロード先輩がまたラビに注意されたのよ」


「えっ、何があったの?」


「ちょっと、エリーゼちゃん。それは言わなくてもいい話じゃない?」


 クロードが慌てて口を挟む。


 エリーゼは楽しそうに笑った。


「実戦訓練で、説明が終わる前に勝手に炎を出したの」


「ああ、あれか」


 ラビが思い出したように笑う。


「いやぁ、びっくりしたよ。まだ訓練を始めるとも言ってないのに、いきなり的が燃え始めたんだから」


「だって、もう始まると思ったんだよ」


 クロードが言い訳すると、ラビは肩をすくめた。


「次はちゃんと合図を待ってよ? あのとき、隣に誰か立ってたら危なかったんだから」


 明るい口調のままだったが、その言葉にははっきりとした注意が含まれていた。


 クロードもそれを分かっているのか、素直に頷く。


「分かってるって。次は気をつけるよ」


「よし。それならいい」


 ラビはにっと笑った。


「まあ、的の交換はクロードに手伝ってもらうけどね」


「えっ、まだ終わってなかったの!?」


「当然だろ。三つも燃やしたんだから」


 セドリックが呆れたように言うと、教室に笑い声が広がった。


 ルシアも声を上げて笑った。


 久しぶりだった。


 こんなふうに、何も考えずに笑えたのは。


 ふと、ミアの顔が頭をよぎる。


 いつも一緒に笑っていた友人。


 その友人が、もうこの場所へ戻ってくることはない。


 胸が少しだけ痛んだ。


 けれど、ルシアは目の前のエリーゼを見た。


 隣にはゼノンがいる。


 少し離れたところでは、クロードとセドリックがまだ言い合っていて、ラビが楽しそうに笑っている。


 自分には、まだ大切な人たちがいる。


 そのことが、今は何より嬉しかった。


     *


 しばらくして、ほかの生徒たちが教室を出始めた頃。


 ラビがルシアの席へやってきた。


「ルシアちゃん、ちょっといい?」


「はい?」


「少しだけ、僕に付き合ってくれない?」


 ルシアは首を傾げた。


「何をするんですか?」


「んー、そうだな。ちょっとした練習かな」


「練習?」


「大丈夫。走ったり戦ったりするわけじゃないよ」


 ラビは笑った。


「アルベルト様から、まだ無理はさせるなって言われてるからね。ちゃんと守るよ」


「アルが?」


「うん。ルシアちゃんが今日来るって聞いて、僕にも連絡をくれたんだ」


 ルシアは少し驚いた。


 アルベルトは何も言っていなかった。


 けれど、こうして自分の知らないところでも気にかけてくれていたのだと思うと、嬉しくなる。


「お兄様も一緒でいい?」


「もちろん」


 ラビはゼノンを見た。


「というか、ゼノンがいないと後で僕が怒られそうだしね」


「僕はそんなに怒らないよ」


「本当かなぁ?」


 ラビが疑わしそうに笑う。


 ゼノンは否定せず、ルシアへ向き直った。


「ルシアがやってみたいなら、僕も付き合うよ」


「うん! やってみたい!」


「よし、決まり!」


 ラビは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、行こうか」


 案内されたのは、教室から少し離れた小さな演習室だった。


 実戦訓練に使われる広い演習場とは違い、机と椅子が数脚置かれた静かな部屋だ。


 窓からは中庭が見える。


「ここなら、人の出入りも少ないからね」


 ラビはそう言って、扉を閉めた。


 それから、ルシアへ向き直る。


「ルシアちゃん。さっき廊下で、誰かの足音がしたときに驚いてただろ?」


 ルシアは少し俯いた。


「……見てたんですか?」


「うん。たまたまね」


 ラビは責めるでもなく、穏やかに答えた。


「最近、そういうことが多い?」


「はい……。誰かが急に近づいてきたり、後ろから声をかけられたりすると、びっくりしちゃって……」


「そっか」


 ラビは頷いた。


「じゃあ、今日は少しだけ、それに慣れるための練習をしてみよう」


「慣れるための?」


「そう。でも、無理に怖いことをするわけじゃないから安心して」


 ラビは部屋の中央へ移動した。


「まずは、僕が少しずつ近づいてみる。嫌だと思ったところで止めてほしいんだ」


 ルシアは瞬きをした。


「止める……?」


「うん。『そこまで』でも『近づかないで』でも、何でもいいよ」


「でも……」


「ん?」


「相手に、嫌な気持ちをさせちゃいませんか?」


 ラビは少し驚いたように目を丸くした。


 それから、困ったように笑う。


「ルシアちゃんらしいなぁ」


「え?」


「自分が怖い思いをしてるのに、先に相手の心配をするんだもん」


 ラビはルシアの前にしゃがみ、目線を合わせた。


「でもさ、ルシアちゃん。嫌なときは嫌って言っていいんだよ」


「……うん」


「相手が悪い人じゃなくても、今は近づいてほしくないってこと、あるだろ?」


 ルシアは頷いた。


「そういうときは、我慢しなくていいんだ」


 ラビは立ち上がり、少し離れた場所へ移動した。


「じゃあ、やってみようか」


「はい!」


 ゼノンは部屋の隅に置かれた椅子へ腰掛け、二人を見守っていた。


「それじゃ、始めるよ」


 ラビが一歩、近づく。


 ルシアはじっとその姿を見つめた。


 もう一歩。


 まだ、大丈夫。


 さらに一歩。


 ラビとの距離が近くたなった瞬間、胸の奥がざわついた。


 あのときのミアの顔が、頭をよぎる。


 ルシアの呼吸が浅くなった。


 ラビはそれに気づき、足を止めた。


「ルシアちゃん、どうする?」


 穏やかな声だった。


 ルシアは唇を開いた。


「……そこで、止まってください」


 小さな声だった。


 けれど、確かに言えた。


 ラビはすぐに両手を上げた。


「はい、止まった!」


 ルシアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「どう? もう少し離れたほうがいい?」


「……はい」


「了解!」


 ラビは二歩後ろへ下がった。


「これなら大丈夫?」


「うん……大丈夫です」


 ルシアの肩から、少しだけ力が抜けた。


 ラビは嬉しそうに笑った。


「よし、上出来!」


「えっ、これだけで?」


「これだけって、大事なことだよ」


 ラビは近くの椅子に腰掛けた。


「怖いと思ったときに、自分の気持ちをちゃんと伝えられた。まずはそれで十分」


 ルシアは自分の手を見つめた。


 ミアに襲われたとき。


 自分は、何度もやめてほしいと願った。


 けれど、ミアは止まらなかった。


 その記憶が、今も身体に残っている。


「でも……」


 ルシアは小さく呟いた。


「言っても、止まってくれない人もいますよね」


 ラビの表情が、少しだけ真剣になった。


「うん。いるね」


 否定しない答えだった。


「だから、そういうときは逃げるんだ」


「逃げる……?」


「そう。距離を取って、助けを呼ぶ。無理に一人で何とかしようとしなくていい」


 ラビは穏やかに続けた。


「僕たちはヴァンパイアだから、戦う力を身につけることも大切だよ。でも、戦えることと、戦わなきゃいけないことは別だからね」


 ルシアは静かに聞いていた。


「自分を守るために逃げるのは、恥ずかしいことじゃない。誰かを頼るのだって、悪いことじゃないんだよ」


「誰かを頼る……」


「そう。ゼノンでも、アルベルト様でも、クレイドでも、エリーゼちゃんでも。もちろん、僕だっていい」


 ラビはにっと笑った。


「こう見えて、結構頼りになるんだから」


 ルシアはくすっと笑った。


「知ってます!」


「おっ、嬉しいね!」


 ラビはわざと得意げに胸を張った。


「それなら今度、クロードにも言ってやってよ。僕のありがたみをもっと知ってほしいんだ」


「ふふっ! クロード先輩、何か言ったの?」


「この前、僕の銃を見て『そんなに小さいのに役に立つの?』って言ったんだよ」


「ええっ!?」


「失礼だろ? まあ、実戦訓練でちゃんと見せてやったけどね」


 ラビは楽しそうに笑った。


 ルシアもつられて笑う。


 その様子を見ていたゼノンが、穏やかに口を開いた。


「ラビの言うとおりだよ、ルシア」


 ルシアが振り返る。


「君が怖いと思ったら、いつでも僕を呼んでいい。何度でも、迎えに行くから」


「……うん」


 ルシアは頷いた。


 ラビは二人を見て、優しく微笑んだ。


「じゃあ、最後にもう一回だけやってみようか」


 今度は、ラビが近づく途中で、ルシア自身が一歩後ろへ下がる練習だった。


 最初は少し戸惑ったものの、何度か繰り返すうちに、ルシアは自分の意思で距離を取れるようになっていった。


「はい、そこまで!」


 ラビが手を叩く。


「今日はこれでおしまい!」


「えっ、もうですか?」


「うん。今日はここまで」


 ラビは笑った。


「何でも一度にできるようになろうとしなくていいんだよ」


 ルシアは少し考えてから、頷いた。


「……はい!」


「それに、今日できたことが、明日も同じようにできるとは限らないからね」


「え?」


「また怖くなる日もあると思う。でも、それで落ち込まなくていいんだ」


 ラビは優しく微笑んだ。


「少しずつでいいよ。焦らなくていい」


 ルシアはしばらくラビを見つめていた。


 やがて、嬉しそうに笑う。


「ありがとうございました、ラビ先輩!」


「どういたしまして!」


 ラビは軽く手を振った。


「また何かあったら、いつでも声かけてね」


「はい!」


     *


 特別授業を終えたあと、ルシアはゼノンとともに演習室を出た。


 廊下では、ちょうどエリーゼが待っていた。


「あっ、ルシア!」


「エリーゼ!」


「もう帰るの?」


「うん。アルから、長居しちゃ駄目って言われてるから」


「そうよね……」


 エリーゼは少し残念そうにしたが、すぐに微笑んだ。


「じゃあ、今度はゆっくりお茶しましょう!」


「うん! 約束!」


 二人は笑顔で手を振り合った。


 ゼノンはその様子を見守りながら、ルシアへ声をかける。


「今日は楽しかった?」


「うん!」


 ルシアは大きく頷いた。


「みんなに会えて嬉しかったし、ラビ先輩とも久しぶりにお話できた!」


「それはよかった」


「ねえ、お兄様」


「なあに?」


「私、少しずつなら、また学校に来られるようになるかな?」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「もちろん。焦らずにね」


「うん!」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


 そのとき、廊下の向こうからラビが姿を現した。


「ゼノン、ちょっといい?」


 先ほどまでとは違う、少し落ち着いた声だった。


 ゼノンが振り返る。


「どうしたの?」


「話しておきたいことがあるんだ。セドリックも待ってる」


 ラビの表情を見て、ゼノンは小さく頷いた。


「分かった」


 そして、ルシアへ向き直る。


「ルシア。少しだけエリーゼと待っていてくれる?」


「うん!」


「すぐ戻るからね」


「分かった!」


 エリーゼがルシアの隣へ歩み寄る。


「じゃあ、私とお話して待ってましょう!」


「うん!」


 ルシアが笑顔で答えるのを見届け、ゼノンはラビの後を追った。


     *


 二人が入ったのは、教員用の小さな会議室だった。


 室内では、セドリックが机の上に書類を広げていた。


「来たか、ゼノン」


「何かあったの?」


 ゼノンが尋ねると、ラビは扉を閉めた。


「ちょっと気になる報告が入ったんだ」


 先ほどまでの陽気な雰囲気は消えていた。


 ラビは机の上の書類を一枚取り上げる。


「最近、王都の外縁部で暴走ヴァンパイアの目撃が増えてるのは知ってる?」


「報告は受けてるよ」


「その件なんだけど、どうも様子がおかしいんだ」


 セドリックが説明を引き継いだ。


「普通の暴走個体とは行動が違う。血を求めて無差別に人を襲うわけでもなく、何かを探しているように同じ場所をうろついていたらしい」


「何かを探している?」


 ゼノンが眉を寄せる。


「それだけなら、まだ偶然とも考えられるんだけどね」


 ラビは書類を机へ置いた。


「昨日、一体が捕縛されたんだ。捕まる直前、妙なことを口にしたらしい」


「何て?」


 ラビはゼノンをまっすぐ見つめた。


「『黒い髪の姫君を、連れてこい』って」


 室内の空気が変わった。


 ゼノンの赤い瞳が、わずかに細められる。


「黒い髪の姫君……?」


「うん」


 ラビは頷いた。


「もちろん、それだけでルシアちゃんのことだとは断定できない。でも、気になるだろ?」


 ゼノンはしばらく黙っていた。


 ヴァルディエ家の黒髪は、ほかのヴァンパイアとは異なる特別な特徴だった。


 そして、ルシアはそのヴァルディエ家の娘だ。


「捕縛した個体は、今どこに?」


「監視下に置かれてる。事情を聞こうとしてるけど、まともに話せる状態じゃないらしい」


 セドリックが答えた。


「ただの暴走なのか、それとも誰かの指示で動いていたのか。そこもまだ分かってない」


 ゼノンは机の上の報告書を手に取った。


「分かった。僕も調べるよ」


「助かる」


 ラビは頷いた。


「ただ、ルシアちゃんには今すぐ話さなくてもいいと思うんだ」


「もちろん」


 ゼノンは即答した。


「まだ何も分かっていない段階で、あの子を不安にさせたくない」


「僕も同じ考えだよ」


 ラビは小さく息を吐いた。


「せっかく、あんなふうに笑えるようになったんだからね」


 セドリックが腕を組む。


「ミアの事件が終わったばかりだってのに、次から次へと……」


「本当だよなぁ」


 ラビは苦笑した。


 けれど、その目は笑っていなかった。


「もし誰かが意図的に暴走ヴァンパイアを動かしてるなら、早めに手を打たないと」


「そうだね」


 ゼノンは報告書を閉じた。


「まずは捕縛された個体について、詳しい情報を集めよう」


「了解」


 ラビは頷いた。


 その表情には、普段のふざけた雰囲気は微塵もなかった。


     *


 会議室を出ると、廊下の向こうからルシアの笑い声が聞こえてきた。


「それでね、クレイドったら……!」


「ふふっ! 本当に?」


 エリーゼと並んで座り、楽しそうに話している。


 ゼノンはその姿を見つけ、表情を和らげた。


「ルシア」


「あっ、お兄様!」


 ルシアが嬉しそうに立ち上がる。


「お話、終わった?」


「うん。待たせたね」


「全然!」


 ルシアは笑顔で答えた。


「エリーゼといっぱいお話できたから!」


 ゼノンは微笑み、手を差し出した。


「じゃあ、帰ろうか」


「うん!」


 ルシアはその手を取った。


 校舎を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 夜風が頬を撫で、庭園の花々が静かに揺れている。


「お兄様」


「なあに?」


「今日、来てよかった」


 ゼノンは隣を歩くルシアを見つめた。


「そう?」


「うん。最初は怖かったけど、みんなに会えたし、ラビ先輩ともお話できたし……」


 ルシアは少し照れくさそうに笑った。


「私、また学校が好きだなって思えたの」


 ゼノンは足を止めた。


 そして、優しく彼女の頭を撫でる。


「それは、よかった」


「ふふっ」


 ルシアは嬉しそうに目を細めた。


「明日は、クレイドにも今日のことを話すんだ!」


「きっと喜ぶよ」


「そうかな?」


「うん。口では何か文句を言うかもしれないけどね」


「ふふっ! 言いそう!」


 二人は笑いながら、夜の庭園を歩いていった。


 その背中を、校舎の窓から見つめる人物がいた。


 ラビだった。


 隣にはセドリックが立っている。


「楽しそうだな、ルシアちゃん」


 ラビが小さく呟いた。


「そうですね」


 セドリックは頷いた。


「さっきの報告、やっぱり気になりますか?」


「そりゃあね」


 ラビは窓の外へ視線を向けたまま答えた。


「ただの暴走ヴァンパイアなら、僕たちで捕まえれば済む話だ。でも、誰かが意図的に動かしてるとしたら……」


 言葉を途中で止める。


 セドリックも表情を引き締めた。


「面倒なことになりますね」


「うん」


 ラビは小さく息を吐いた。


「できれば、ルシアちゃんにはもう少し、普通の学園生活を楽しんでほしいんだけどね」


 窓の外では、ゼノンとルシアが仲睦まじく歩いている。


 その姿を見つめながら、ラビは静かに呟いた。


「……嫌な予感がするな」


 夜の風が、庭園の木々を揺らした。


 ルシアがようやく取り戻し始めた、穏やかな日常。


 そのすぐ近くまで、新たな影が忍び寄ろうとしていた。

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