下された裁きと、消えない傷
ゼノンの屋敷で迎える、初めての朝だった。
薄いカーテンの向こうから差し込む光が、寝台の上を淡く照らしている。
ルシアはゆっくりと瞼を開いた。
見慣れない天井。
柔らかな色合いの壁紙。
窓際に飾られた白い花。
目を覚ましたばかりの頭では、ここがどこなのか、すぐには分からなかった。
「……あれ……?」
小さく呟いて、身体を起こしかける。
そのとき、寝台のそばから声がした。
「おはよう、ルシア」
振り向くと、ゼノンが椅子に腰掛けていた。
手には一冊の本を持っている。
「……お兄様?」
「うん。よく眠れた?」
ルシアは少し考えた。
昨夜、眠るのが怖くて、ゼノンの手を握っていたことを思い出す。
「……うん」
それから、少し照れたように笑った。
「お兄様がいてくれたから」
「それならよかった」
ゼノンは本を閉じ、寝台へ近づいた。
「身体はどう? どこか痛む?」
「痛くないよ」
「眩暈は?」
「ない!」
「本当に?」
「もう、お兄様!」
ルシアは頬を膨らませた。
「昨日から何回も聞いてる!」
ゼノンはくすりと笑う。
「心配なんだよ」
「分かってるけど……」
ルシアは小さく笑った。
その笑顔を見て、ゼノンも安心したように目を細めた。
昨夜は何度か寝返りを打ち、苦しそうに眉を寄せていたものの、激しく取り乱すことはなかった。
知らない場所で迎えた最初の夜。
それを無事に越えられたことに、ゼノンはひそかに安堵していた。
「朝食を用意してもらっているよ。食べられそう?」
「うん!」
ルシアは元気よく頷いた。
けれど、ゼノンが寝台から離れようとすると、その袖を掴んだ。
「……お兄様」
「なあに?」
「一緒に行ってくれる?」
ゼノンは振り返り、微笑んだ。
「もちろん」
ルシアは安心したように手を離した。
*
朝食は、屋敷の小さな食堂に用意されていた。
広い屋敷には立派な大食堂もあったが、ゼノンはルシアが落ち着けるよう、普段より小さな部屋を使わせていた。
白いテーブルクロス。
花を飾った小さな花瓶。
焼きたてのパンと、温かなスープ。
「わぁ……!」
ルシアは嬉しそうに席へ座った。
「おいしそう!」
「食べられる分だけでいいからね」
「はーい」
ゼノンが隣に座ると、使用人がスープを運んできた。
「失礼いたします」
その声とともに、背後から食器が置かれる。
「……っ!」
ルシアの肩が跳ねた。
反射的に身体を引き、椅子の背へぶつかりそうになる。
「ルシア!」
ゼノンがすぐに支えた。
使用人も驚いて動きを止める。
「申し訳ございません、ルシア様」
「……あ……」
ルシアは自分が何をしたのか気づき、慌てて首を横に振った。
「ち、違うの……!」
頬が赤くなる。
「私が、びっくりしただけで……」
使用人は深く頭を下げた。
「こちらこそ、驚かせてしまい申し訳ございません」
ゼノンは穏やかに告げた。
「次からは、近づく前に声をかけてもらえるかな」
「承知いたしました」
使用人が静かに下がると、ルシアは膝の上で手を握りしめた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
ゼノンは彼女の隣で微笑んだ。
「びっくりしたんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ、次から気をつけてもらおう。それでいいんだよ」
ルシアは俯いた。
「でも……私、変だよね」
「どうして?」
「ただスープを持ってきてくれただけなのに……」
ルシアは震える指先を見つめた。
「誰かが後ろに来ると、怖くなっちゃう……」
ゼノンはすぐには答えなかった。
彼女が何を思い出したのか、無理に尋ねるつもりはなかった。
「怖かったら、僕に言ってね」
「……うん」
「この屋敷では、君が安心できるように少しずつ変えていこう」
ルシアは顔を上げた。
「……いいの?」
「もちろん。君に我慢してもらうために、ここへ連れてきたわけじゃないから」
その言葉に、ルシアは小さく微笑んだ。
「ありがとう、お兄様」
ゼノンは彼女の頭を撫でた。
「どういたしまして」
ルシアはスプーンを手に取り、温かなスープを一口飲んだ。
「……おいしい」
ゼノンはほっとしたように笑った。
「よかった」
けれど、ルシアの視線はときおり食堂の扉へ向かっていた。
誰かが入ってくるたび、ほんの少しだけ肩が強張る。
その小さな変化を、ゼノンは見逃さなかった。
*
昼前。
屋敷を訪れたのは、アルベルトとクレイドだった。
「ルシアー、元気にしてるか?」
「アル!」
応接室にいたルシアが顔を輝かせた。
立ち上がろうとして、隣のゼノンに手を取られる。
「ゆっくりね」
「はぁい!」
アルベルトは苦笑した。
「ったく、退院したばかりだってのに元気だな」
「だって、アルが来てくれたんだもん!」
「そりゃ来るだろ」
アルベルトはルシアの頭を撫でた。
「昨日の今日で、顔を見に来ねぇわけがねぇ」
その後ろから、クレイドが顔を出した。
「おい。俺もいるんだけど」
「あっ、クレイド!」
「『あっ』じゃねぇよ」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「二人とも来てくれたんだね!」
クレイドは腕を組んだ。
「お前がちゃんと飯食ってるか、見に来ただけだ」
「食べたよ!」
「どんくらい?」
「スープとパン!」
「それだけかよ」
「ちゃんと果物も食べたもん!」
「だったら最初から言えよ」
ゼノンがくすりと笑った。
「相変わらずだね、二人とも」
「うるせぇ」
クレイドが顔をしかめる。
ルシアはそのやり取りを見て、声を立てて笑った。
その笑顔に、アルベルトはほっと息を吐いた。
医療棟にいたときより、顔色がいい。
けれど、まだ痩せた肩は頼りなく、突然の物音に視線を向ける癖も残っている。
「……ルシア」
「なあに?」
「ここでの暮らしはどうだ?」
「うん! お部屋がすっごく可愛いの!」
ルシアは嬉しそうに話し始めた。
「お花も飾ってあって、本もいっぱいあるんだよ!」
「そっか」
アルベルトは微笑んだ。
「気に入ったならよかった」
ルシアは頷いたあと、少しだけ表情を曇らせた。
「……ねえ、アル」
「ん?」
「私のお部屋、本当にそのまま?」
「ああ」
アルベルトは迷わず答えた。
「お前の部屋は、お前の部屋だ。誰にも使わせねぇよ」
「……うん」
「荷物が必要なら持ってくる。何が欲しい?」
ルシアは少し考えた。
「……あのね」
「ああ」
「窓際に置いてた、白いうさぎのぬいぐるみ……」
「分かった」
アルベルトは頷いた。
「今度持ってくる」
ルシアの顔が明るくなった。
「ありがとう!」
クレイドはそのやり取りを黙って聞いていた。
あの家のことを話すたび、ルシアの表情がほんの少し変わる。
帰りたい気持ちはあるのだろう。
けれど、まだ帰れない。
その理由を、クレイドは誰よりも痛いほど理解していた。
「……なあ、ルシア」
「なあに?」
「家のことは気にすんな」
ルシアが顔を上げる。
「俺とアルでちゃんとしとくから」
「……うん」
「お前はここで、ゆっくり休んでろ」
ぶっきらぼうな言葉。
けれど、その声はいつもより優しかった。
ルシアは小さく笑った。
「ありがとう、クレイド」
クレイドは照れくさそうに顔を逸らした。
「……別に」
*
ルシアが休憩のために部屋へ戻ったあと。
応接室には、ゼノンとアルベルト、クレイドの三人が残っていた。
先ほどまでの和やかな空気が、少しずつ変わる。
「……今朝も、突然近づかれて怯えたよ」
ゼノンが静かに告げた。
アルベルトは眉を寄せた。
「そうか」
「本人は謝っていたけどね。あの子が悪いわけじゃない」
「当たり前だ」
クレイドが低い声で答えた。
ゼノンは彼を見た。
「クレイド」
「……何だよ」
「君も、自分を責めすぎないで」
クレイドの表情が強張った。
「……別に、責めてねぇよ」
「そう?」
「……」
沈黙が落ちる。
やがて、クレイドは拳を握りしめた。
「あの日、俺が玄関に出なきゃ……」
声が低くなる。
「ほんの少し、目を離しただけだった」
ルシアとミアは、キッチンでお菓子を作っていた。
クレイドは二人の邪魔をしないようにしていたが、呼び鈴が鳴り、玄関へ向かった。
ほんの短い時間だった。
戻ってきたときには、すべてが変わっていた。
「……俺が、あいつを一人にしなきゃ」
「クレイド」
アルベルトが静かに呼んだ。
「何度も言っただろ。悪いのはミアだ」
「分かってるよ!」
クレイドは思わず声を荒らげた。
それから、はっとして口を閉じる。
ルシアの部屋は、廊下の向こうにある。
聞こえてしまったかもしれない。
「……悪い」
クレイドは俯いた。
アルベルトは深く息を吐いた。
「お前まで潰れたら、ルシアが悲しむ」
「……」
「今できることを考えろ」
クレイドはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かってる」
ゼノンは窓の外へ視線を向けた。
「ルシアは、まだ家に帰れないと思う」
「ああ」
アルベルトも頷いた。
「しばらく頼むぞ、ゼノン」
「もちろん」
ゼノンは穏やかに微笑んだ。
「僕にとっても、大切な家族だからね」
*
同じ頃。
共生評議会の審理室では、ミアに対する最終審理が行われていた。
重厚な扉が閉ざされ、室内には緊張した空気が漂っている。
中央に座らされたミアは、退屈そうに指先を動かしていた。
両手には、前日と同じ拘束具が取り付けられている。
「被審理者、ミア」
議長の声が響いた。
「本日は、あなたに対する処遇を決定します」
「やっと?」
ミアは顔を上げた。
「もう帰っていいの?」
人間側の代表者が厳しい表情を浮かべた。
「あなたは、被害者を殺害しかけたのですよ」
「だから、死んでないんでしょ?」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
「ルシアって純血種なんだよ? すぐ治るじゃん」
室内が静まり返った。
議長は書類を確認した。
「被害者の心臓には、繰り返し刃物による損傷が加えられています。さらに、血液量のおよそ八割が失われました」
「うん。それは昨日も聞いた」
「被害者は七日間、意識不明の状態にありました」
「でも、起きたんでしょ?」
ミアはあっさりと答えた。
「だったら、もういいじゃん」
議長の表情が険しくなった。
「あなたは、自分の行為がどれほど危険だったか、理解していないようですね」
「だって……」
ミアは唇を尖らせた。
「私、ルシアの血が欲しかっただけだもん」
「被害者は拒絶していました」
「友達なのに?」
ミアは不満そうに言った。
「少しくらい、くれたっていいじゃん」
その言葉に、ヴァンパイア側の代表者が口を開いた。
「血液を与えるかどうかは、本人の意思によって決まる。友人であることは、拒絶を無視してよい理由にはならない」
ミアは興味なさそうに視線を逸らした。
「……難しいことばっかり」
議長は深く息を吐いた。
「あなたは以前にも、同じ被害者に対して危害を加えています。今回の事件は、偶発的なものとは認められません」
「……」
「被害者の生命を著しく危険にさらし、現在も反省の意思が確認できないことから、共生評議会は以下の裁定を下します」
ミアが顔を上げた。
「裁定?」
「被審理者ミアに対し、長期の拘禁処分を命じます」
「……え?」
「また、アストリア共生学園からの永久除籍を決定します」
ミアの表情が変わった。
「ちょっと待って!」
椅子から身を乗り出す。
「学園に戻れないってこと!?」
「そのとおりです」
「そんなの嫌!」
ミアは声を荒らげた。
「私、夜間部に行けるようになったのに!」
議長は表情を変えなかった。
「さらに、被害者ルシア・ヴァルディエへの接触を禁止します」
ミアは目を見開いた。
「……は?」
「直接の面会、手紙、伝言、第三者を通じた接触を含め、すべて禁止します」
「何で!?」
ミアは立ち上がろうとした。
拘束具が音を立てる。
「ルシアに会えないの!?」
「認められません」
「謝ればいいんでしょ!? だったら謝るから!」
議長は静かに答えた。
「謝罪は、面会を認める条件ではありません」
「そんな……!」
ミアは唇を噛んだ。
けれど、その表情に浮かんでいたのは、自分の行為への後悔ではなかった。
ルシアに会えないこと。
もう一度、あの血を味わえないこと。
自分の望みが叶わないことへの、不満だった。
「……ひどい」
ミアは小さく呟いた。
「みんな、私ばっかり悪者にして……」
議長はそれ以上、何も答えなかった。
拘束されたミアが連行されていく。
重い扉が閉じられると、審理室には深い沈黙が残った。
*
午後。
ゼノンの屋敷に、アルベルトから連絡が届いた。
ルシアは昼食を終え、部屋で休んでいる。
ゼノンは書斎へ移り、報告書に目を通した。
長期拘禁。
永久除籍。
ルシアへの接触禁止。
すべて、予想していた処分だった。
けれど、報告書の最後に記されたミアの発言を読んだとき、ゼノンの表情が冷えた。
『ルシアに会えないの?』
『謝ればいいんでしょ!?』
ゼノンは静かに書類を閉じた。
「……最後まで、あの子のことを考えなかったんだね」
低い声が書斎に落ちる。
怒りはあった。
けれど、今すぐミアをどうにかしたいとは思わなかった。
裁定は下された。
これ以上、彼女のために時間を使う必要はない。
今、守るべきなのはルシアの穏やかな日常だった。
ゼノンは立ち上がり、書斎を出た。
*
「……お兄様?」
ルシアは部屋の寝台に腰掛けていた。
ゼノンが入ってくると、嬉しそうに顔を上げる。
「お仕事、終わったの?」
「うん。少しだけね」
ゼノンは彼女のそばに座った。
「ルシア、話しておきたいことがあるんだ」
その声に、ルシアの表情が少し曇る。
「……なあに?」
「ミアのことだよ」
ルシアの指先が、毛布を掴んだ。
ゼノンはそれに気づき、少し間を置いた。
「今日、正式な裁定が下された」
「……裁定……」
「うん。ミアは長い間、拘禁施設から出られなくなった。学園にも戻れない」
ルシアは黙って聞いていた。
「それから、君に連絡したり、会いに来たりすることも禁止されたよ」
「……本当?」
「本当だよ」
ルシアはゆっくりと息を吐いた。
安心したようにも見えた。
けれど、同時に寂しそうでもあった。
「……もう、会わないんだね」
ゼノンは静かに頷いた。
「君が望まない限り、会わせることはないよ」
「……うん」
ルシアは俯いた。
しばらくして、小さく呟く。
「……よかったって、思ってるの」
「うん」
「もう怖いことされないって……安心してる」
ゼノンは黙って聞いていた。
「でも……」
ルシアの声が震えた。
「もう、一緒に笑ったりできないんだなって思ったら……」
涙が一粒、毛布に落ちた。
「……悲しいの」
ゼノンはそっと彼女の手を取った。
「うん」
「ミアは、私のこと……友達だと思ってなかったのかな」
その問いに、ゼノンはすぐには答えられなかった。
ミアが何を考えていたのか。
いつからルシアの血を欲しがるようになったのか。
かつての友情に、どれほど本当の気持ちがあったのか。
ゼノンにも分からない。
「……それは、僕にも分からないよ」
ゼノンは静かに答えた。
「でも、君がミアを大切に思っていたことは、本当でしょう?」
ルシアは頷いた。
「……うん」
「だったら、その気持ちまで否定しなくていいんだよ」
ルシアは顔を上げた。
「……いいの?」
「もちろん」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「楽しかった思い出があってもいい。今は怖いと思っていてもいい」
ルシアの瞳が潤んだ。
「……お兄様」
「無理に、どちらか一つに決めなくていいからね」
ルシアはしばらく黙っていた。
やがて、ゼノンの肩にそっと寄りかかる。
「……ありがとう」
ゼノンはその頭を撫でた。
「どういたしまして」
窓の外では、庭園の木々が風に揺れていた。
ルシアはしばらく、その景色を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……ねえ、お兄様」
「なあに?」
「いつか、またお菓子を作れるかな」
ゼノンの手が止まった。
ルシアは俯いたまま続ける。
「作るの、好きだったの」
「うん」
「でも、今は……キッチンを思い出すと怖い」
ゼノンは彼女の手を包み込んだ。
「だったら、今は作らなくていいよ」
「……うん」
「いつか作りたいと思ったら、そのときは僕も一緒に作ろうか」
ルシアは驚いたように顔を上げた。
「お兄様、お菓子作れるの?」
ゼノンは少し考えた。
「……上手とは言えないかな」
ルシアは思わず笑った。
「ふふっ」
「でも、君に教えてもらえたら、できるようになるかもしれない」
「じゃあ、私が先生だね!」
「うん。よろしくお願いします、先生」
ゼノンがわざと丁寧に頭を下げると、ルシアは声を立てて笑った。
その笑顔を見て、ゼノンも微笑んだ。
まだ、キッチンに立つことはできない。
けれど、いつかまたお菓子を作りたいと思えている。
その小さな願いを、ゼノンは大切にしたかった。
*
その日の夕刻。
アストリア共生学園の学園長室では、アルベルトが別の報告書を広げていた。
机の前には、セドリックが立っている。
「……レティシア・ドラクロワ、か」
アルベルトが低く呟いた。
「はい」
セドリックは頷いた。
「ミアがヴァンパイアへ転化することになった、ベルフォート家の夜会。その直前に接触していた人物として、名前が挙がっています」
アルベルトは書類に目を落とした。
レティシア・ドラクロワ。
社交界では優雅で物腰の柔らかな女性として知られている。
だが、アルベルトは以前から彼女を警戒していた。
「ミアを二度目の夜会に招いたのも、レティシアだったな」
「はい。出席記録から確認されています」
「……偶然にしちゃ、出来すぎてる」
セドリックは慎重に言葉を選んだ。
「ただし、ミアがルシアを襲った件について、レティシアから指示があったという証拠はありません」
「ああ。それは分かってる」
アルベルトは頷いた。
「ミアがやったことは、ミア自身の意思によるものだ」
報告書を閉じる。
「だが、そもそもミアが転化することになった経緯には、まだ分からねぇことが多い」
セドリックの表情が引き締まった。
「特に、夜会で負った傷ですね」
「ああ」
アルベルトは椅子の背にもたれた。
「誰が、どうやって、あそこまで深い傷を負わせたのか」
ミアはあの夜、命を落としかけた。
ルシアが自分の血を与えなければ、助からなかっただろう。
けれど、その状況に至るまでの経緯は、まだ完全には解明されていなかった。
「レティシアが何かを知ってる可能性は高い」
アルベルトは窓の外を見た。
「だが、疑いだけで動くわけにはいかねぇ」
「引き続き、夜会の関係者から情報を集めます」
「頼む」
セドリックが一礼した。
そのとき、アルベルトがふと口を開いた。
「……ゼノンには、俺から話す」
「承知しました」
「今はルシアのそばにいる。余計な不安を与えたくねぇからな」
セドリックは頷いた。
だが、二人とも理解していた。
ミアへの裁定が下されたからといって、すべてが終わったわけではない。
事件の背後には、まだ見えていない何かがある。
*
夜。
ゼノンの屋敷では、夕食を終えたルシアが部屋で本を読んでいた。
ゼノンはその隣で、アルベルトから届いた手紙に目を通している。
ミアへの裁定。
レティシアに関する調査。
夜会で起きた出来事への疑念。
読み進めるうちに、ゼノンの表情がわずかに険しくなった。
「……お兄様?」
ルシアが顔を上げる。
「どうしたの?」
ゼノンは手紙を伏せ、微笑んだ。
「何でもないよ」
「……本当?」
「うん。少し考え事をしていただけ」
ルシアはじっと彼を見つめた。
「お兄様、疲れてる?」
ゼノンは少し驚いたように瞬きをした。
「僕が?」
「うん」
ルシアは本を閉じた。
「ずっと私のそばにいてくれるから……ちゃんと休めてるのかなって」
ゼノンは思わず微笑んだ。
「心配してくれるの?」
「当たり前だよ!」
ルシアは頬を膨らませた。
「お兄様だって、無理しちゃ駄目なんだから!」
「ふふ。そうだね」
ゼノンは彼女の頭を撫でた。
「ありがとう、ルシア」
ルシアは満足そうに笑った。
けれど、少ししてから視線を落とした。
「……私ね」
「うん?」
「明日、少しだけ学園に行ってみたい」
ゼノンの手が止まった。
「学園に?」
「うん……」
ルシアは膝の上で指を組んだ。
「まだ授業には出られないの、分かってるよ」
「うん」
「でも、エリーゼに会いたいし……みんなにも、元気になったって伝えたい」
ゼノンは静かに彼女を見つめた。
「……怖くない?」
ルシアは少し考えた。
「……怖い」
正直な答えだった。
「知らない人が近くに来ると、びっくりしちゃうし……」
ルシアは自分の手を見つめた。
「でも、ずっとお部屋にいるのも、ちょっと寂しいの」
ゼノンは頷いた。
「そっか」
「お兄様と一緒なら、行けるかなって……」
その言葉に、ゼノンは優しく微笑んだ。
「じゃあ、アルに相談してみようか」
ルシアの顔が明るくなった。
「いいの!?」
「体調がよければ、短い時間だけね」
「やったぁ!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
けれど、すぐに思い出したように付け加える。
「……あっ。でも、無理はしないよ!」
「ふふ。偉いね」
「もう、子供扱いしないで!」
「ごめん、ごめん」
ゼノンは楽しそうに笑った。
ルシアもつられて笑う。
屋敷の静かな部屋に、久しぶりの明るい声が響いた。
そのあと、ゼノンはルシアの寝支度を手伝い、寝台のそばに椅子を寄せた。
「今日も、ここにいるよ」
「……ありがとう、お兄様」
ルシアは毛布を胸元まで引き上げた。
少しだけ迷ってから、手を伸ばす。
「……手、握っててもいい?」
「もちろん」
ゼノンはその手を取った。
ルシアは安心したように微笑んだ。
「明日、エリーゼに会えるといいな……」
「うん。きっと喜ぶよ」
「クレイドも来てくれるかな」
「声をかけてみようか」
「……うん」
ルシアは目を閉じた。
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始める。
ゼノンはしばらく、その寝顔を見つめていた。
ミアへの裁きは下された。
けれど、ルシアの恐怖が消えたわけではない。
元の家に帰ることも、まだできない。
それでも、明日は学園へ行ってみたいと、自分から言ってくれた。
ゼノンは彼女の手をそっと握り直した。
「……おやすみ、ルシア」
静かに囁く。
窓の外では、月が雲の間から顔を覗かせていた。
その穏やかな夜の裏側で、レティシア・ドラクロワに向けられた疑念は、少しずつ形を持ち始めていた。
ミアの事件は、一つの結末を迎えた。
けれど、ルシアを取り巻く危険が、すべて去ったわけではなかった。




