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許せない理由、許さなくていい理由



 ルシアが医療棟を退院した翌朝。


 アストリア共生学園の学園長室には、共生評議会から届いた新たな書類が置かれていた。


 アルベルトは封書の中身を確認すると、深いため息をついた。


「ようやくか」


 向かいに立っていたセドリックが顔を上げる。


「裁定の日程が決まったのですか?」


「ああ。今日の午後だ」


「随分と早いですね」


「本人が犯行を認めてるうえに、証拠も揃ってるからな。争う余地がほとんどねぇんだろ」


 アルベルトは書類を机に置いた。


 そこには、ミアがルシアに行った二度の襲撃について、詳細な記録が残されていた。


 最初の襲撃。


 そして、二度目の襲撃。


 特に二度目は、殺意の有無にかかわらず、命を奪う危険性が極めて高い行為だった。


 胸部への繰り返しの刺傷。


 心臓の損傷。


 大量の失血。


 七日間に及ぶ意識不明。


 これだけの重傷を負わされれば、純血以外のヴァンパイアなら死んでいただろう。


 アルベルトは書類から目を離した。


「何度読んでも、腹が立つ」


 セドリックは静かに頷いた。


「ルシアは、今日もお休みですか?」


「ああ。本人は授業に出たがってるけどな」


「まだ無理でしょうね」


「身体だけなら、だいぶ回復してる。問題はそっちじゃねぇ」


 アルベルトは窓の外を見た。


 庭園には、朝の光が降り注いでいる。


 昨日、ルシアは久しぶりにその庭園を歩いた。


 楽しそうに花を眺めていたと、ゼノンから聞いている。


 けれど、人の足音や笑い声に怯え、見慣れた菓子を前にして動けなくなったとも。


「判決が出たら、ゼノンにも知らせる」


「承知しました」


 セドリックは一礼した。


 扉へ向かいかけたところで、アルベルトが呼び止める。


「セドリック」


「はい?」


「ミアがヴァンパイアになった経緯についても、調査を続けるよう評議会に伝えてくれ」


「ベルフォート家の夜会ですね」


「ああ」


 アルベルトの表情が険しくなる。


「ミアが自分から望んだとしても、あの状況を作った奴がいる」


 レティシア・ドラクロワ。


 その名を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわついた。


「分かりました」


 セドリックが部屋を出ていく。


 アルベルトは再び書類へ視線を落とした。


 ルシアを苦しめた事件は、まだ終わっていない。


     *



 同じ頃。


ゼノンの屋敷で、ルシアは新しく用意された自室の窓辺に座っていた。


 膝の上には、エリーゼが貸してくれた本が開かれている。


 けれど、同じページを何度も読み返していた。


「ルシア」


 声をかけられ、顔を上げる。


「お兄様?」


 ゼノンが紅茶を載せた盆を持って入ってきた。


「少し休憩しようか」


「うん!」


 ルシアは本を閉じた。


 ゼノンは小さなテーブルにカップを並べ、彼女の向かいに座る。


「何を読んでいたの?」


「エリーゼが貸してくれた恋愛小説」


「へえ。面白い?」


「うん。まだ途中だけど」


 ルシアは本の表紙を見せた。


「主人公がね、幼馴染の男の子と婚約するお話なの」


「それは素敵だね」


「でも、その男の子がすごく意地悪なの!」


「意地悪?」


「主人公のことが好きなのに、わざと冷たいこと言うんだよ。変なの」


 ゼノンは楽しそうに笑った。


「僕には理解できないな」


「お兄様は優しいもんね」


「君にだけはね」


「え?」


「何でもないよ」


 ゼノンは微笑んだ。


 ルシアは首を傾げたが、すぐに紅茶へ手を伸ばした。


 温かい香りが鼻をくすぐる。


 こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。


 そう思った。


 けれど。


「お兄様」


「なあに?」


「ミアのこと……何か決まった?」


 ゼノンの手が止まった。


 ルシアはカップを見つめたまま続ける。


「昨日、アルが忙しそうだったから」


「今日、最終的な裁定が下される予定だよ」


「今日……?」


「うん」


 ルシアは小さく頷いた。


「そっか」


 それきり黙ってしまう。


 ゼノンはしばらく彼女を見つめていた。


「気になる?」


「うん……」


「何が一番気になるの?」


 ルシアは少し考えた。


「分からない」


 正直な答えだった。


「ミアがどうなるのか知りたい気もするし、知りたくない気もするの」


「そう」


「それに……」


 ルシアは自分の手を見た。


 白い指先。


 その皮膚の下には、ヴァルディエ家の血が流れている。


「私、ずっと考えてることがあるの」


 ゼノンは黙って続きを待った。


「お兄様、変なこと聞いてもいい?」


「もちろん」


 ルシアは少しだけ唇を噛んだ。


「私の血って、人をヴァンパイアに変えるだけじゃなくて、その人の性格まで変えちゃうことがあるのかな……?」


 ゼノンの表情が変わった。


「どうして、そう思ったの?」


「だって……」


 ルシアは俯いた。


「ミア、人間だった頃はあんなことしなかったもの」


 楽しかった日々を思い出す。


 昼間部で一緒に笑ったこと。


 休みの日に遊んだこと。


 ヴァンパイアの話を嬉しそうにしていたこと。


 少し強引で、わがままなところもあった。


 それでも、友達だった。


「私が変えたから、あんなふうになっちゃったのかなって」


 声が小さくなる。


「もし、お兄様の血で変えていたら……もっと違うミアになっていたかもしれないでしょう?」


「ルシア」


 ゼノンは静かに呼びかけた。


「僕たちが、ミアにヴァンパイアになりたいって頼まれた日のこと、覚えてる?」


「うん」


 忘れるはずがなかった。


 アルベルトの家。


 夜間部の授業を終えて帰ると、ミアが待っていた。


 クレイドの黒い制服を見て大騒ぎして。


 ルシアの左腕が一度なくなったと聞いて、もっと大騒ぎして。


 そのあと、みんなで居間に座って話した。


『私をヴァンパイアにしてくれない?』


 あの言葉を聞いたとき、ルシアはすぐに断れなかった。


 自分も、かつて同じことをゼノンに頼んだから。


「お兄様は、駄目だって言ったよね」


「うん。僕は、君にミアを変えちゃ駄目だと言った」


「アルも反対した」


「そうだね」


「クレイドは……向いてないって」


 ルシアの声が少し震えた。


「みんな、分かってたの……?」


 ゼノンはすぐには答えなかった。


 やがて、ゆっくり口を開く。


「将来、君を襲うと分かっていたわけじゃないよ」


「うん……」


「でも、危うさは感じていた」


 ゼノンはカップを置いた。


「ミアは好奇心が強くて、自分の気持ちに素直だったよね。欲しいと思ったものには、まっすぐ手を伸ばす」


「うん」


「それ自体が悪いこととは限らない。でも、ヴァンパイアになったら、欲しいと思うものの中に他人の血が加わるんだ」


 ルシアは顔を上げた。


「覚えてる? クレイドが何て言ったか」


 あの日の声が蘇る。


『お前、欲しいと思ったら一直線だろ』


『ヴァンパイアになったら、欲しいもんが血になる』


 ルシアの指先が震えた。


「覚えてる……」


「クレイドは、ミアを嫌っていたわけじゃない。自分がヴァンパイアになって、どれだけ大変だったか知っていたから、心配していたんだよ」


「うん……」


「僕も同じだった。血を欲しがる気持ちは、簡単に消せるものじゃない。だから、自分で止まれるかどうかが大切なんだ」


 ゼノンはルシアを見つめた。


「ミアは、人間だった頃から、自分が欲しいものを手に入れられないと、なかなか諦められなかった。僕たちが心配したのは、そこだよ」


「じゃあ……」


「君の血がミアの性格を変えたわけじゃない」


 はっきりとした声だった。


「僕の血で変えていたとしても、ミア自身が変わろうとしなければ、結果は変わらなかったと思う」


 ルシアの瞳が揺れる。


「でも、私……」


「うん」


「一度は、ちゃんと断ったの」


「知ってるよ」


「お兄様たちの話を聞いて、私にはできないって……ミアに言ったの」


「そうだったね」


「なのに、結局……」


 ルシアの声が詰まった。


「私が変えちゃった……」


 ゼノンは席を立ち、ルシアの隣へ移動した。


「ルシア。あの夜会で、君に何ができたと思う?」


「え……?」


「ミアは、人間のままでは助からないほどの傷を負っていた」


 ルシアは頷いた。


 あのときの光景は、今でも鮮明だった。


 大量の血。


 冷たくなっていく手。


 弱くなる呼吸。


 必死に名前を呼んだ。


 何度も。


「君が選べたのは、ミアを人間として死なせるか、ヴァンパイアにして生かすか。その二つだけだった」


「うん……」


「もし君が変えずに、ミアが死んでいたら?」


 ルシアの瞳から涙がこぼれた。


「きっと……後悔したと思う」


「そうだね」


「私が助けられたのにって、ずっと思ったと思う……」


 ゼノンはそっと彼女の手を握った。


「だから、君は助けたんだよ」


「でも、そのせいで……」


「違うよ」


 ゼノンの声は優しかった。


 けれど、曖昧さはなかった。


「君がミアを生かしたことと、ミアがそのあと自分の意思で君を傷つけたことは、別の話なんだ」


 ルシアは黙っていた。


「君はミアに、人を襲えと教えた?」


「ううん……」


「血が欲しかったら、相手が嫌がっても飲んでいいと言った?」


「言ってない……」


「じゃあ、ミアがしたことまで、君の責任にする必要はないよ」


 ルシアは俯いた。


 分かりたい。


 そう思うのに、胸の奥に残った罪悪感は簡単には消えてくれなかった。


「お兄様……」


「なあに?」


「私、ミアのことが嫌いなのかも、よく分からないの」


 ゼノンは静かに頷いた。


「うん」


「でも、もう友達に戻りたいとも思えないし……戻れるとも思えない」


 涙が頬を伝う。


「昔みたいに笑って、一緒に遊んで……そんなこと、もう考えられないの」


 ルシアは胸元を押さえた。


「ミアのことを思い出すと、怖いの。楽しかったこともいっぱいあるはずなのに、最後には、あのときの顔ばっかり浮かんできて……」


 ゼノンはそっと彼女の背中を撫でた。


「それでいいんだよ」


「でも、友達だったのに……」


「友達だったからこそ、傷ついたんでしょう?」


 ルシアは顔を上げた。


「信じていた相手に裏切られたんだ。簡単に元通りになれるわけがないよ」


「……うん」


「それにね」


 ゼノンは少しだけ表情を引き締めた。


「僕は、ミアを許せないからね」


 ルシアが瞬きをする。


「お兄様……」


「君が七日間も目を覚まさなかった間、僕が何を考えていたと思う?」


 ゼノンの赤い瞳が、静かに揺れた。


「もし君が二度と目を覚まさなかったら。もし僕の血でも心臓が再生しなかったら。そんなことばかり考えていた」


 ルシアの胸が痛んだ。


「ごめんなさい……」


「謝らないで」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「君に謝ってほしくて話してるんじゃないよ」


 その手を、少しだけ強く握る。


「ねえ、ルシア。逆に僕を殺しかけた奴がいたら、君はどう思う?」


「えっ?」


「僕が誰かに何度も刺されて、血を奪われて、七日間も目を覚まさなかったら?」


 ルシアの顔色が変わった。


「嫌……!」


 反射的にゼノンの服を掴む。


「そんなの、絶対に嫌!」


「うん」


「お兄様がそんな目に遭うなんて、考えたくもない……!」


 ルシアの声が震えた。


「もし誰かがお兄様を傷つけたら……私、その人を許せないと思う……」


 ゼノンは静かに頷いた。


「僕も同じだよ」


 ルシアは顔を上げた。


「君が大切だから、君を傷つけた相手を許せないんだ」


「お兄様……」


「だからって、君にもミアを憎めと言うつもりはないよ。君がどう感じるかは、君自身が決めていい」


 ゼノンはルシアの頬に触れた。


「ただ、もう友達に戻りたくないと思う自分を、責めないでほしいんだ」


 ルシアの瞳から、また涙がこぼれた。


「私……もう、ミアの友達じゃなくてもいいのかな……」


「もちろん」


 ゼノンは迷わず答えた。


「君を傷つける相手と、無理に一緒にいる必要はないよ」


 ルシアはゼノンの胸に顔を埋めた。


「お兄様……っ」


「うん」


「私、本当は……すごく悲しかった……!」


 ゼノンは何も言わず、抱きしめた。


「ミアのこと、信じてたのに……!」


 声を上げて泣くルシアの背中を、ゆっくりと撫でる。


 彼女が自分の気持ちを言葉にするまで、待っていた。


 やがて涙が落ち着くと、ルシアは小さく呟いた。


「私、まだ怖いけど……」


「うん」


「少しずつ、前に進みたい」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「そうだね」


 ルシアは顔を上げた。


「お兄様も、一緒にいてくれる?」


「もちろん」


 その額へ、そっと口づける。


「君が望む限り、ずっと」


     *


 共生評議会の審理室には、再び人間側とヴァンパイア側の代表者たちが集まっていた。


 中央には、拘束されたミアが座っている。


「それでは、最終裁定を言い渡します」


 議長の声が響いた。


 ミアは退屈そうに頬杖をつこうとして、手首の拘束具に邪魔され、不満そうに顔をしかめた。


「まだ終わらないの?」


「静粛に」


 議長は書類を読み上げた。


「被審理者ミア。あなたはルシア・ヴァルディエに対し、二度にわたって本人の意思に反する吸血行為を行い、二度目の事件では刃物を用いて重大な傷害を負わせました」


「だから、血が欲しかっただけだってば」


「被害者は生命の危機に陥り、七日間意識を失いました」


「でも、助かったんでしょ?」


 議長は言葉を止めた。


「あなたは今なお、同じ行為を繰り返す意思がありますか?」


「ルシアが血をくれるなら、刺したりしないよ?」


 室内が静まり返った。


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「だって、くれないからああなったんじゃん」


 人間側の代表者が目を伏せる。


 ヴァンパイア側の代表者は、険しい表情で記録を閉じた。


 議長は静かに告げた。


「あなたには、他者の生命を尊重する意思が認められず、再犯の危険性が極めて高いと判断されました」


「え?」


「よって、長期の拘禁処分を命じます。また、アストリア共生学園からは永久追放とします」


 ミアの顔から笑顔が消えた。


「……は?」


「処分期間中は、監督下での生活と吸血衝動の管理を義務づけます。再審査は、定められた期間の経過後に行われます」


「ちょっと待ってよ!」


 ミアが椅子から立ち上がろうとした。


 拘束具が音を立てる。


「学校に戻れないってこと!?」


「そのとおりです」


「ルシアにも会えないの!?」


「被害者への接触は禁止されています」


「なんで!?」


 ミアの声が室内に響いた。


「私、ルシアの友達なのに!」


 議長は静かに答えた。


「被害者があなたとの接触を望んでいないためです」


 ミアは口を開けたまま固まった。


「……ルシアが?」


「はい」


「そんなの、おかしいよ……」


 ミアは俯いた。


 しばらくして、小さく呟く。


「私、ルシアの血が好きなだけなのに……」


 その言葉に、誰も答えなかった。


 やがて係官が近づき、ミアを立たせる。


「待って! ルシアに会わせてよ!」


 扉へ連れていかれながら、ミアは何度も振り返った。


「私たち、友達なんだよ!?」


 厚い扉が閉まった。


 審理室に、重い沈黙が残された。


     *


 裁定が終わったあと、評議会では別の調査が続けられていた。


 ミアがヴァンパイアになった経緯についてだった。


「ベルフォート家の夜会で、あなたは致命傷を負ったと記録されていますね」


 調査官が尋ねる。


 別室に移されたミアは、不機嫌そうに答えた。


「そうだよ」


「夜会には、誰の付き添いとして参加したのですか?」


「レティシア様」


「レティシア・ドラクロワですね?」


「うん」


 ミアは少しだけ表情を明るくした。


「すごく綺麗な人なんだよ!」


「最初に招待された夜会では、友人を連れてくるよう指定されていたそうですね」


「そうそう!」


 ミアは頷いた。


「だからルシアを連れていったの!」


 調査官は記録を確認した。


「その後、レティシア様からもう一度招待を受けたのですね」


「うん。前回のお詫びをしたいって」


「そして、ベルフォート家主催の夜会へ、レティシア様の付き添いとして参加した」


「そうだよ!」


「その際、レティシア様にヴァンパイアにしてほしいと頼みましたか?」


「頼んだよ!」


 ミアは当然のように答えた。


「だって、ルシアたちはみんな反対するんだもん」


「レティシア様は、何と?」


「どうして友達に頼まないのって聞かれたから、ちゃんと説明したよ」


「それから?」


 ミアは首を傾げた。


「それから……いろいろあって、怪我しちゃった」


「誰に傷つけられたのですか?」


「分かんない」


 ミアは少し考えた。


「気づいたらすごく痛くて、血がいっぱい出てて……」


「レティシア様は、そのときどこに?」


「覚えてない」


 調査官は静かに記録へ書き込んだ。


「その後、ルシア様があなたをヴァンパイアに変えたのですね」


「うん!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「だから、ルシアには感謝してるよ!」


 その笑顔を見て、調査官はしばらく黙っていた。


 感謝している。


 そう言いながら、命の恩人を殺しかけた。


 この少女は、最後まで自分の行為の矛盾を理解していないようだった。


     *


 夕方。


ルシアが屋敷で休んでいる間、ゼノンは使用人たちに彼女の様子を気にかけるよう頼み、学園へ向かっていた。」


 学園長室に戻ったアルベルトは、評議会からの報告書を読んでいた。


 扉が叩かれる。


「入れ」


 ゼノンが姿を現した。


「呼んだ?」


「ああ。ミアの裁定が出た」


 ゼノンは机の前に立った。


「どうなったの?」


「長期拘禁と学園からの永久追放だ。ルシアへの接触も引き続き禁止される」


「そう」


 ゼノンは静かに答えた。


「それで?」


「それで、とは?」


「僕は、二度とルシアに近づけないようにしてほしいんだ」


 赤い瞳が細められる。


「期間が過ぎたからって、また会いに来られたら困るよ」


「分かってる。接触禁止は別に継続させるよう求めてある」


「なら、いい」


 ゼノンは小さく息を吐いた。


 アルベルトは別の書類を差し出した。


「それと、気になることがある」


「何?」


「ミアがヴァンパイアになった夜会のことだ」


 ゼノンは書類を受け取った。


 読み進めるにつれて、その表情が変わっていく。


「レティシア・ドラクロワ……」


「ああ」


「最初の夜会にルシアを連れてこさせたのも、二度目の招待を送ったのも、あの女だったね」


「そうだ」


 アルベルトは腕を組んだ。


「ミアが自分からヴァンパイアになりたいと言い出したのは事実だろう。だが、二度目の夜会で致命傷を負った経緯が曖昧すぎる」


 ゼノンは書類を机へ戻した。


「僕たちがミアの転化に反対したことも、レティシアに話していたんだね」


「ああ」


「だったら、あの女はミアがヴァンパイアに向いていない理由まで聞いていたはずだ」


 ゼノンの声が冷たくなる。


「それを知ったうえで、ルシアに変えさせる状況を作ったとしたら……」


「まだ証拠はねぇ」


 アルベルトは遮った。


「だが、調べる価値はある」


 ゼノンは頷いた。


「ルイスにも話してみるよ」


「ベルフォート家の内部事情か」


「うん。夜会の主催はルイスの家だからね。招待客の記録や、当日のレティシアの行動について、何か分かるかもしれない」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「ルシアには、まだ話すなよ」


「分かってる」


 ゼノンは窓の外へ視線を向けた。


「今のあの子に、これ以上背負わせたくないから」


     *


 その夜。


 ルシアは寝台に腰掛け、ゼノンの帰りを待っていた。


 扉が開くと、すぐに顔を上げる。


「お兄様!」


「ただいま、ルシア」


「おかえりなさい!」


 ゼノンは微笑み、彼女の隣へ座った。


「いい子にしてた?」


「もう、子供じゃないよ!」


「ふふ。そうだったね」


 ルシアは頬を膨らませた。


 けれど、すぐに表情を曇らせる。


「お兄様……ミアのこと、決まった?」


 ゼノンは静かに頷いた。


「うん」


 そして、判決について簡潔に説明した。


 長い間、拘禁施設で過ごすこと。


 学園には戻れないこと。


 ルシアへの接触は禁止されていること。


 ルシアは黙って聞いていた。


「そっか……」


 やがて、小さく呟く。


「もう、学校で会うこともないんだね」


「そうだよ」


「……うん」


 ルシアは膝の上で手を握った。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 けれど。


 会えなくなることを、寂しいとは思えなかった。


 むしろ、もう突然現れることはないのだと知って、ほっとしている自分がいた。


「お兄様」


「なあに?」


「私、ひどい子なのかな」


「どうして?」


「ミアがいなくなるって聞いて……安心しちゃった」


 ゼノンは優しく首を横に振った。


「それは、ひどいことじゃないよ」


「でも……」


「君が安心して暮らせるようになるなら、僕はそれが一番嬉しい」


 ルシアは顔を上げた。


 ゼノンは静かに微笑んだ。


「明日は、エリーゼとお茶でもしようか」


「……うん」


「クレイドも呼ぼう」


「また文句言うかな?」


「きっと言うね」


 ルシアは小さく笑った。


「ふふっ」


 ゼノンも微笑んだ。


 その夜、ルシアは久しぶりに、自分から明日の予定を話した。


 まだ怖いものはたくさんある。


 眠れば、また悪夢を見るかもしれない。


 それでも。


 明日を楽しみに思える瞬間が、少しずつ戻ってきていた。


     *


 一方、その頃。


 ドラクロワ家の屋敷では、一人の女性が長椅子に腰掛けていた。


 美しい衣装を纏い、優雅に紅茶を口へ運ぶ。


 レティシア・ドラクロワ。


 その手元には、共生評議会で下された裁定についての報告があった。


「まあ」


 レティシアは書類を読みながら、楽しそうに目を細めた。


「永久追放ですって」


 くすくすと笑う。


「可哀想なミア。あんなにヴァンパイアになりたがっていたのに」


 言葉とは裏腹に、その声には同情の欠片もなかった。


 ふと、あの少女の顔を思い出す。


『お願いです、レティシア様! 私をヴァンパイアにしてください!』


 あのときは、少し驚いた。


 前回の夜会で利用した少女。


 再び招待したのは、別の目的があったからだ。


 ミアを殺し、その姿を借りる。


 自分の異能なら、外見を変えることなど難しくない。


 ルシアの親友として近づけば、警戒されることも少ないだろう。


 それが、最も確実な方法だった。


 けれど。


『どうして、お友達に頼まないの?』


『頼んだんです! でも、ゼノンさんにもアルにも反対されて、クレイドには向いてないって言われて……!』


 その話を聞いたとき。


 レティシアは、ふと興味を抱いた。


 欲しいものがあれば、手に入れたい。


 自分が望むことを、周囲が反対する理由が分からない。


 ヴァンパイアの美しさと強さには憧れるのに、その渇きの恐ろしさを理解しようとしない。


 なるほど。


 確かに、この子は向いていない。


 だからこそ。


「面白そうだったのよねぇ」


 レティシアは小さく笑った。


 もし、そんな少女がヴァンパイアになったら。


 血が欲しくなったとき、我慢できるのかしら。


 それとも、欲望のままに誰かを襲うのかしら。


 もし暴走すれば、ルシアはきっと苦しむ。


 自分の血で変えた友達が、人を傷つけるのだから。


 危険なヴァンパイアが騒ぎを起こせば、学園も評議会もそちらへ注意を向けるだろう。


 そうなれば、エドモンドも動きやすくなる。


 もちろん、ルシアがミアを変えられず、そのまま死んでしまっても構わなかった。


 所詮、ただの人間の少女。


 失ったところで、何も惜しくはない。


 だから、少し遊んでみることにした。


 ベルフォート家が主催する夜会へ、ミアを自分の付き添いとして連れていった。


 そして、人間なら助からないほどの傷を負わせて、ルシアがどうするのか試してみたのだ。


 結果は、期待どおりだった。


 ルシアは友達を見捨てられず、自分の血でヴァンパイアに変えた。


 そこまでは、レティシアの予想の範囲内だった。


 けれど。


「まさか、自分からルシアを襲うなんてね」


 レティシアは報告書をもう一度開いた。


 二度の襲撃。


 心臓への刺傷。


 大量の失血。


 七日間の意識不明。


「ふふっ……!」


 思わず笑いがこぼれた。


「私、何も命じていないのに」


 肩を震わせる。


「本当に、面白い子」


 長く生きていると、大抵のことには驚かなくなる。


 人間もヴァンパイアも、同じような欲望を抱き、同じような過ちを繰り返す。


 そんな退屈な日々の中で、ミアは予想以上の見世物を披露してくれた。


「殺さなくて正解だったわ」


 レティシアは楽しそうに呟いた。


 けれど、報告書の最後の一文を読んだところで、笑みが少しだけ薄れた。


 ルシア・ヴァルディエ。


 一時、生命の危機に陥る。


「それにしても……」


 レティシアは紅茶のカップを置いた。


「本当に殺してしまったら、困るところだったわね」


 エドモンドが求めているのは、ルシアだ。


 その命を奪われてしまえば、計画そのものに支障が出る。


 ミアがルシアを傷つけることは面白い。


 けれど、死なせるわけにはいかない。


「まったく。あの子ったら、加減というものを知らないのね」


 まるで、少し行儀の悪い子供の話でもするような口調だった。


 レティシアは報告書を閉じた。


「でも、これで終わりだなんて、つまらないわ」


 窓の外には、夜の庭園が広がっている。


 月明かりを受けた花々が、静かに揺れていた。


 レティシアは微笑んだ。


「次は、何をして遊ぼうかしら」


 その声は、誰もいない部屋に柔らかく響いた。


 ルシアがようやく取り戻し始めた穏やかな日々。


 その裏側で。


 彼女を狙う者たちは、まだ何一つ諦めていなかった。

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