退院、帰れない家と新しい居場所
ルシアが目を覚ましてから、七日が経った。
アストリア共生学園の医療棟には、柔らかな朝日が差し込んでいた。
「うん。問題ねぇな」
アルベルトは手元の検査結果を確認し、満足そうに頷いた。
「心臓の機能は正常。血液量もほぼ元に戻ってる。再生した傷の状態も良好だ」
「じゃあ!」
寝台の上に座っていたルシアが、ぱっと顔を輝かせる。
「もう、退院してもいいの!?」
「ああ」
アルベルトは微笑んだ。
「今日から、医療棟を出ていいぞ」
「やったぁ!」
ルシアは両手を上げて喜んだ。
その勢いで立ち上がろうとして、すぐにゼノンに肩を押さえられる。
「こら、ルシア」
「あっ」
「まだ無理は駄目だよ」
「はぁい」
ルシアは少しだけ頬を膨らませた。
ゼノンはくすりと笑い、彼女の頭を撫でる。
「元気になったのは嬉しいけど、急に動いたら心配するでしょう?」
「だって、嬉しかったんだもん」
「ふふ。分かってるよ」
アルベルトは二人のやり取りを見つめながら、静かに微笑んだ。
七日間、意識を失い続けた少女。
目覚めてからも、夜になるたびに悪夢にうなされ、何度も泣いていた。
それでも、少しずつ笑顔が戻ってきている。
こうして退院を喜ぶ姿を見ることができるなんて、あのときは想像もできなかった。
「ただし、条件がある」
アルベルトが言うと、ルシアはぴたりと動きを止めた。
「条件?」
「ああ。しばらく授業は休みだ。身体が完全に落ち着くまでは、無理な外出も禁止」
「ええっ……」
「それから、夜は一人で過ごさねぇこと」
ルシアが瞬きをする。
「一人で?」
「今のお前は、まだ眠ることに不安があるだろ」
ルシアは小さく俯いた。
悪夢は、今も続いていた。
眠るたびに、あの日の光景が蘇る。
ミアの笑顔。
胸を貫く刃。
首筋に食い込む牙。
どれだけ逃げようとしても、身体が動かない。
目を覚ましたあとも、しばらく呼吸が落ち着かないことがあった。
「うん……」
小さく頷くルシアの手を、ゼノンがそっと握った。
「大丈夫だよ」
ルシアが顔を上げる。
「お兄様?」
「僕が一緒にいるから」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「夜も、君が安心して眠れるまでそばにいるよ」
「本当?」
「もちろん」
ルシアは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、お兄様!」
アルベルトは小さく息を吐いた。
「ま、お前がそう言うと思ってたけどな」
「ふふ。アルも一緒にいてくれる?」
「俺も?」
「うん!」
ルシアはにこにこと笑った。
「みんなで一緒にいたい!」
アルベルトは一瞬、言葉を失った。
それから、困ったように笑う。
「ったく。仕方ねぇな」
ルシアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、アルベルトは少し迷ったあと、口を開いた。
「……ルシア。もう一つ、話しておきたいことがある」
「なあに?」
「退院したあとのことだ」
ルシアは不思議そうに首を傾げた。
「おうちに帰るんじゃないの?」
その言葉に、アルベルトとゼノンは一瞬だけ視線を交わした。
「お前が帰りたいなら、もちろん帰れる。だが……」
アルベルトは慎重に言葉を選んだ。
「今すぐ、あの家に戻らなくてもいいんだぞ」
「……え?」
「別の場所で、しばらく休むこともできる」
ルシアは瞬きをした。
自分の家。
アルとクレイドと暮らしてきた、大切な場所。
ミアが一緒に暮らすようになってからは、さらに賑やかになった。
朝になれば、誰かの声が聞こえて。
食事の時間には、みんなで食卓を囲んで。
ミアと並んでキッチンに立つことも、いつの間にか当たり前になっていた。
帰りたい。
そう思ったはずだった。
けれど、家の玄関を思い浮かべた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
キッチン。
お菓子の材料を並べた調理台。
ミアが楽しそうに笑っていた顔。
『ねえ、ルシア。こっちも混ぜていい?』
あの日も、最初はいつもと変わらなかった。
一緒にお菓子を作っていた。
楽しかった。
それなのに。
『ルシアの血、本当においしい!』
「……っ!」
ルシアの呼吸が止まりかけた。
胸元を押さえ、身体を小さく丸める。
「ルシア!」
ゼノンがすぐに身体を支えた。
「大丈夫。ここは医療棟だよ」
その声に、ルシアははっと顔を上げた。
目の前にはゼノンがいる。
ミアはいない。
刃物も、血の匂いもない。
それなのに、心臓が激しく脈打っていた。
「ごめ……なさい……」
「謝らなくていい」
アルベルトが寝台のそばへ歩み寄った。
「家のことを考えたら、怖くなったか?」
ルシアは唇を噛み、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……帰りたいの」
涙が一粒、膝の上に落ちた。
「アルも、クレイドもいるし……私のお部屋もあるし……」
「ああ」
「でも……」
ルシアは震える手でゼノンの袖を掴んだ。
「あのキッチンに行ったら、ミアがいる気がする……」
声が途切れる。
「また、一緒にお菓子を作ろうって……笑ってる気がして……」
アルベルトは黙って聞いていた。
「でも、もう……いないんだよね」
ルシアの瞳から涙がこぼれた。
「怖いのに、会いたくなっちゃうの……」
自分でも、その気持ちが理解できなかった。
ミアは自分を殺そうとした。
あんなに痛くて、苦しくて、怖かった。
それなのに、思い出すのは恐ろしい顔だけではない。
笑いながらお菓子を作ったこと。
一緒に食事をしたこと。
何でもない話をして笑ったこと。
その全部が、今は胸を締めつけた。
「……私、変なのかな」
「変じゃねぇよ」
アルベルトは迷わず答えた。
「大切だった相手なんだ。そう簡単に気持ちを切り離せるもんじゃねぇ」
ルシアが顔を上げる。
「怖いなら、今は帰らなくていい。あの家が嫌いになったわけじゃねぇだろ?」
「……うん」
「だったら、また帰りたいと思える日まで待てばいい」
ゼノンも優しく頷いた。
「ルシア。しばらく僕の屋敷で暮らさない?」
「お兄様の……?」
「うん。君の部屋も用意できるし、僕もずっとそばにいられる」
ゼノンはルシアの頬を伝う涙を拭った。
「アルもクレイドも、いつでも会いに来られるよ」
「……でも、迷惑じゃない?」
「どうして?」
「私、夜も怖くなっちゃうし……」
「それなら、なおさら一緒にいよう」
ゼノンは微笑んだ。
「君に迷惑だなんて思うわけないでしょう?」
ルシアはしばらくゼノンを見つめていた。
「……お兄様のおうちなら、怖くないかな」
「少なくとも、君が安心できるように僕ができることは全部するよ」
アルベルトが頷いた。
「俺も、それがいいと思う」
「アルは……寂しくない?」
「寂しいに決まってるだろ」
アルベルトは苦笑した。
「でも、お前が安心して休めることのほうが大事だ」
「……うん」
「それに、会えなくなるわけじゃねぇ。俺もクレイドも、顔を出すさ」
ルシアは涙を拭い、小さく微笑んだ。
「じゃあ……しばらく、お兄様のおうちに行きたい」
ゼノンは嬉しそうに頷いた。
「もちろん。歓迎するよ」
ルシアは彼の手をぎゅっと握った。
自分の家に帰れないことは、やっぱり悲しかった。
けれど、今は無理をしなくていい。
そう言ってもらえたことが、少しだけ嬉しかった。
*
退院の準備が整ったのは、昼前だった。
ルシアは久しぶりに、医療棟の寝間着から私服へ着替えた。
フリルのついたブラウスに黒いスカート。
エリーゼが届けてくれたものだった。
「どうかな?」
ルシアは少し照れながら、ゼノンの前でくるりと回ろうとした。
「……っ」
けれど、急に動いたせいで、わずかによろめく。
「ルシア!」
ゼノンがすぐに支えた。
「あ、ごめんなさい……」
「もう」
ゼノンは小さくため息をついた。
「無理しないって約束したばかりでしょう?」
「うん……」
ルシアはしゅんと肩を落とした。
その姿が可愛らしくて、ゼノンは思わず微笑んだ。
「でも、すごく似合ってるよ」
ルシアが顔を上げる。
「本当?」
「うん。とても綺麗だよ」
ルシアの頬が赤くなった。
「えへへ」
ゼノンはその頭を優しく撫でた。
「さあ、行こうか」
「うん!」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
けれど、医療棟の出口が近づくにつれて、その足取りは少しずつ遅くなっていった。
廊下の向こうには、外へ続く大きな扉が見える。
そこを出れば、久しぶりの学園だ。
友達にも会える。
庭園を散歩することもできる。
ずっと楽しみにしていたはずだった。
それなのに。
「ルシア?」
ゼノンが足を止めた。
ルシアは扉を見つめたまま、動かなかった。
「どうしたの?」
「……」
ルシアは小さく首を横に振った。
「何でも……ない……」
けれど、その手は震えていた。
ゼノンは何も言わず、彼女の手を握り直した。
「怖い?」
ルシアの瞳が揺れた。
しばらくして、小さく頷く。
「うん……」
ゼノンは静かに微笑んだ。
「じゃあ、少し休もうか」
「でも……」
「急がなくていいよ」
ゼノンは廊下の椅子へルシアを座らせた。
その隣に腰を下ろす。
「退院するのが、怖い?」
ルシアは俯いた。
「医療棟にいると……」
小さな声だった。
「お兄様も、アルもいて……」
「うん」
「誰も、怖いことしないって……分かるの……」
ルシアは自分の手を握りしめた。
「でも、外に出たら……」
声が震えた。
「また、誰かに……」
それ以上、言葉にならなかった。
ゼノンは胸が締めつけられるのを感じた。
「ルシア」
そっと手を伸ばす。
「僕を見て」
ルシアが顔を上げる。
「怖かったら、いつでも戻ってきていいんだよ」
「え……?」
「今日は無理だと思ったら、また明日にしよう」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「君が安心できるまで、何度でも付き合うから」
ルシアの瞳が潤んだ。
「お兄様……」
「それに」
ゼノンは少しだけ笑った。
「僕がいるでしょう?」
ルシアは小さく頷いた。
「うん……」
「アルも、クレイドも、エリーゼもいる」
ゼノンはその手を包み込んだ。
「君は、一人じゃないよ」
ルシアはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「行ってみる……」
ゼノンは微笑んだ。
「うん」
ルシアはその手をぎゅっと握った。
「お兄様、一緒に来てね……?」
「もちろん」
二人はゆっくりと、医療棟の扉へ向かった。
*
久しぶりの外の空気は、少しだけ冷たかった。
庭園には色とりどりの花が咲き、木々の葉が風に揺れている。
「わぁ……」
ルシアは小さく声を上げた。
「綺麗……」
ゼノンは隣で微笑んだ。
「でしょう?」
「うん……!」
ルシアは嬉しそうに庭園を見渡した。
けれど、遠くから生徒たちの話し声が聞こえた瞬間、その身体が強張った。
「……っ」
ゼノンがすぐに気づく。
「ルシア?」
ルシアは反射的に、ゼノンの腕へしがみついた。
「誰か……」
震える声。
「誰か、いる……」
ゼノンは静かに周囲を見回した。
庭園の向こうには、数人の生徒たちが歩いている。
ただ、それだけだった。
けれど、ルシアにとっては違った。
誰かの足音。
誰かの笑い声。
それだけで、あの日の記憶が蘇ってしまう。
「大丈夫だよ」
ゼノンは優しく声をかけた。
「あの子たちは、ただ歩いているだけだよ」
「うん……」
ルシアは頷いた。
けれど、腕を掴む力は緩まなかった。
「怖かったら、僕だけ見ていて」
ゼノンはそっと微笑んだ。
「僕が、君の手を離さないから」
ルシアは小さく頷いた。
「うん……」
そのまま、ゼノンに寄り添いながら歩き始めた。
久しぶりの学園。
見慣れた景色。
けれど、以前とは少し違って見えた。
それでも、隣には大好きな兄がいる。
そのことだけが、ルシアの心を少しずつ落ち着かせていた。
*
「――ルシア!」
庭園の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、エリーゼがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
その少し後ろには、クレイドもいた。
「エリーゼ!」
ルシアの表情が明るくなる。
エリーゼは二人の前で足を止めた。
「退院、おめでとう!」
「ありがとう!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
エリーゼはその笑顔を見て、ほっとしたように息を吐いた。
「本当に、よかった……」
「えへへ」
ルシアは少し照れたように笑った。
クレイドはその隣へ歩み寄った。
「お前、もう歩いて大丈夫なのかよ」
「うん!」
「無理してんじゃねぇだろうな」
「してないよ!」
ルシアは頬を膨らませた。
「クレイド、心配しすぎ!」
「当たり前だろ」
クレイドは即答した。
ルシアが瞬きをする。
「え?」
クレイドは少しだけ視線を逸らした。
「お前、あんなことになったんだから……」
言葉が詰まる。
「もう、無茶すんなよ」
ルシアはその表情を見つめた。
いつもなら、もっと乱暴な言い方をするはずだった。
けれど、今のクレイドはどこか慎重だった。
「うん……」
ルシアは小さく頷いた。
「心配してくれて、ありがとう」
クレイドは顔を逸らした。
「別に」
その耳が、少しだけ赤くなっていた。
ゼノンはくすりと笑った。
「素直じゃないね、クレイド」
「うるせぇよ」
いつもの言い合い。
ルシアはそのやり取りを見て、思わず笑った。
「ふふっ」
エリーゼも微笑んだ。
久しぶりに、四人で笑い合う時間だった。
その後、クレイドはルシアの隣へ歩み寄り、少し声を落とした。
「……なあ、ルシア」
「なあに?」
「アルから聞いた。しばらくゼノンのところに行くんだってな」
「……うん」
ルシアは少し申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんね、クレイド。私……」
「謝んな」
クレイドが遮った。
「え?」
「あの家に帰るのが怖いんだろ」
ルシアは驚いて顔を上げた。
クレイドは苦々しそうに唇を結んだ。
「あの日のこと、俺だって忘れられねぇ」
ルシアの瞳が揺れる。
「クレイド……」
「お前があんな目に遭った場所だ。今すぐ帰ってこいなんて言えるかよ」
その声には、怒りとも後悔ともつかない感情が滲んでいた。
ルシアはクレイドの袖をそっと掴んだ。
「……でも、また帰りたいよ」
クレイドは彼女を見た。
「アルとクレイドがいる、私のおうちだもん」
クレイドは一瞬、何かを言いかけた。
けれど、結局は小さく頷いた。
「……ああ」
そして、いつものぶっきらぼうな口調で続ける。
「お前の部屋は、そのままにしとく。帰りたくなったら帰ってこい」
「……うん!」
ルシアは涙を浮かべながら笑った。
クレイドはその顔を見て、少しだけ視線を逸らした。
「……泣くなよ」
「泣いてないもん」
「泣いてんだろ」
ルシアは小さく笑った。
ゼノンとエリーゼは、そんな二人を静かに見守っていた。
*
しばらく庭園を歩いたあと、ルシアたちは学園内の休憩室へ向かった。
窓際の席には、温かい紅茶と小さな焼き菓子が用意されていた。
「わぁ!」
ルシアが目を輝かせる。
「お菓子!」
「少しだけなら、食べてもいいってアルベルト様から許可をいただいているわ」
エリーゼが微笑んだ。
「本当!?」
「ええ」
ルシアは嬉しそうに席へ座った。
クレイドは向かいの椅子へ腰を下ろし、ゼノンはルシアの隣に座った。
エリーゼが紅茶を注ぐ。
穏やかな時間だった。
けれど、ルシアが焼き菓子へ手を伸ばした瞬間。
「……っ!」
その指先が止まった。
小さな花の形をしたクッキー。
あの日、ミアと一緒に作っていたものと、よく似ていた。
ルシアの顔から、血の気が引いた。
「ルシア?」
ゼノンが声をかける。
ルシアはクッキーを見つめたまま、動かなかった。
頭の奥で、あの声が蘇る。
『ルシアの血、本当においしい!』
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「いや……」
小さな声が漏れた。
クレイドが顔を上げる。
「ルシア?」
「……っ……」
ルシアは慌てて手を引っ込めた。
「ごめん……!」
震える声。
「これ……食べられない……」
エリーゼはすぐに気づいた。
何が、ルシアを怖がらせたのか。
「ごめんなさい、ルシア」
エリーゼは静かに皿を下げた。
「私、気づかなくて……」
「違うの……!」
ルシアは慌てて首を横に振った。
「エリーゼは、悪くない……!」
けれど、その声は震えていた。
ゼノンはそっとルシアの肩を抱いた。
「大丈夫だよ」
ルシアは俯いた。
「私……」
涙がこぼれそうになる。
「こんなことで……」
「こんなこと、じゃないよ」
ゼノンは優しく言った。
「嫌だったら、食べなくていい」
クレイドも静かに頷いた。
「そうだぞ」
ルシアが顔を上げる。
「クレイド……」
「別に、クッキーなんか食わなくても死なねぇだろ」
いつものぶっきらぼうな口調だった。
けれど、その声は優しかった。
「別のもん食えばいいんだよ」
ルシアは小さく笑った。
「うん……」
エリーゼは別の皿を用意した。
今度は、小さな果物の盛り合わせだった。
「こちらなら、どうかしら?」
ルシアは少し考えてから、頷いた。
「食べたい……」
エリーゼは微笑んだ。
「よかった」
ゼノンはルシアの手を握った。
クレイドも、何も言わずにその様子を見守っていた。
ルシアが再び笑顔を見せるまで、誰も急かさなかった。
*
その頃。
共生評議会の審理室では、ミアの事件に関する正式な手続きが始まっていた。
広い室内には、人間側とヴァンパイア側の代表者たちが集まっている。
中央の席には、拘禁施設から連れてこられたミアが座っていた。
両手には、拘束具が取り付けられている。
「被審理者、ミア」
議長の声が響いた。
「あなたには、ルシア・ヴァルディエに対する重大な傷害行為、および殺人未遂の疑いがかけられています」
ミアは退屈そうに瞬きをした。
「うん。それ、もう何回も聞いたよ」
室内がざわめく。
議長は表情を変えなかった。
「あなたは、被害者が拒絶しているにもかかわらず、繰り返し血液を摂取しようとしたとされています」
「だって、欲しかったんだもん」
ミアは当然のように答えた。
「ルシアの血、すごくおいしいんだよ?」
人間側の代表者が眉をひそめた。
「あなたは、被害者の命を奪いかけたことを理解していますか?」
「でも、生きてるんでしょ?」
ミアは首を傾げた。
「純血種なんだから、治るじゃない」
その言葉に、室内の空気が変わった。
議長は静かに書類へ視線を落とした。
「被害者は、全血液量のおよそ八割を失い、心臓にも重大な損傷を負いました」
「うん」
「意識を失い、七日間も目を覚まさなかったのです」
「そうなんだ」
ミアは興味なさそうに答えた。
「でも、もう起きたんでしょ?」
議長はしばらく黙っていた。
「あなたは、被害者に謝罪する意思がありますか?」
ミアは少し考えた。
「謝れば、会わせてくれる?」
議長の眉が動いた。
「面会は認められていません」
「えー」
ミアは不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、謝っても意味ないじゃん」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
議長は深く息を吐いた。
「本日の審理は、ここまでとします」
ミアは立ち上がりながら、小さく呟いた。
「早く帰りたいなぁ……」
その言葉には、自分が犯した罪の重さを理解している様子がなかった。
*
同じ頃。
学園長室では、アルベルトが報告書を読んでいた。
机の上には、ミアの審理に関する書類が積まれている。
「まったく……」
アルベルトは深く息を吐いた。
事件の内容を読むたびに、胸の奥が苦しくなる。
ルシアがどれほど怖い思いをしたのか。
どれほど痛かったのか。
そのすべてが、記録として残されていた。
「アルベルト様」
扉が叩かれた。
「入れ」
現れたのは、セドリックだった。
「審理の報告が届きました」
「ああ。今、読んでいる」
セドリックは机の前で足を止めた。
「いかがでしたか?」
アルベルトは書類を閉じた。
「予想以上に、ひどい」
セドリックが眉を寄せる。
「反省していないのですか?」
「ああ」
アルベルトは苦々しく答えた。
「自分が何をしたのか、理解しようともしてねぇ」
セドリックは静かに息を吐いた。
「ゼノンには、もうお伝えになりましたか?」
「まだ話してねぇ」
「そうですか」
セドリックは窓の外へ視線を向けた。
「今、ルシアと一緒にいるのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、もう少し待った方がよいかもしれません」
アルベルトは頷いた。
「俺も、そう思ってる」
机の上には、ミアの処遇に関する今後の予定が記されていた。
正式な裁定が下されるまで、まだ時間がかかる。
けれど、アルベルトには分かっていた。
この事件は、簡単には終わらない。
ルシアの身体に刻まれた傷が癒えても。
彼女の心に残された恐怖が消えるとは限らないのだから。
*
夕方。
ルシアを乗せた馬車は、ゼノンの屋敷へ到着した。
高い門の向こうには、美しく整えられた庭園と、白い石造りの大きな屋敷が広がっている。
ルシアは窓から外を眺め、小さく息を呑んだ。
「わぁ……」
ゼノンが微笑む。
「久しぶりでしょう?」
「うん……!」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
以前にも訪れたことはあった。
けれど、こうしてしばらく暮らすことになるなんて、思ってもみなかった。
「本当に、ここにいていいの?」
「もちろん」
ゼノンは迷わず答えた。
「ここは君の家でもあるんだから」
その言葉に、ルシアは少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとう、お兄様」
馬車を降りると、屋敷の使用人たちが出迎えてくれた。
皆、ルシアの身体を気遣い、必要以上に近づかないよう配慮していた。
ゼノンに手を引かれ、ルシアはゆっくりと屋敷へ入る。
広い玄関。
長い廊下。
磨き上げられた階段。
どこも綺麗で、静かだった。
けれど、廊下の奥から食器の触れ合う音が聞こえた瞬間、ルシアの足が止まった。
「……っ」
ゼノンが振り返る。
「ルシア?」
ルシアは廊下の先を見つめていた。
食器の音。
誰かが何かを準備している気配。
それだけで、あの日のキッチンが頭に浮かんでしまった。
ミアと並んで、お菓子の材料を混ぜていた。
笑い声が聞こえていた。
そして、そのあとに起きたこと。
「……ごめんなさい」
ルシアは小さく呟いた。
「何でもないの……」
ゼノンは彼女の手を握り直した。
「大丈夫。無理に説明しなくていいよ」
ルシアは唇を噛んだ。
「……ここ、ミアはいないよね?」
ゼノンの胸が痛んだ。
「いないよ」
優しく、けれどはっきりと答える。
「ここにはいない。君が怖がる相手を、勝手に近づけたりしないよ」
ルシアは小さく頷いた。
「……うん」
ゼノンは少しだけ屈み、彼女と目線を合わせた。
「部屋まで行けそう?」
「……うん。お兄様と一緒なら」
「もちろん」
二人はゆっくりと階段を上がった。
案内されたのは、ゼノンの私室からほど近い部屋だった。
柔らかな色合いの家具。
大きな寝台。
窓際には、小さな花が飾られている。
棚には、ルシアが好きそうな本や、可愛らしい小物が並べられていた。
「わぁ……!」
ルシアは思わず声を上げた。
「可愛い!」
ゼノンは嬉しそうに微笑んだ。
「気に入ってくれた?」
「うん! すっごく!」
ルシアは部屋を見回した。
「これ、全部お兄様が用意してくれたの?」
「使用人たちにも手伝ってもらったけどね。君が落ち着ける部屋にしたかったんだ」
「ありがとう!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
けれど、棚に置かれた小さなぬいぐるみを見つけたとき、ふと表情が曇った。
元の家の、自分の部屋。
お気に入りのぬいぐるみ。
窓際に飾っていた花。
そのすべてを置いてきた。
「……お兄様」
「なあに?」
「私のお部屋……」
ルシアは小さく呟いた。
「アルのおうちのお部屋、なくならないよね?」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「なくならないよ」
「本当?」
「うん。アルもクレイドも、君が帰りたくなるまでそのままにしておくって」
ルシアは安心したように息を吐いた。
「……よかった」
ゼノンは彼女の頭を撫でた。
「ここにいる間も、向こうの家がなくなるわけじゃないからね」
「うん……」
ルシアは小さく頷いた。
それから、もう一度部屋を見回す。
「ここも、好きになれそう」
ゼノンは嬉しそうに微笑んだ。
「それならよかった」
*
夜。
ルシアは新しく用意された部屋の寝台に腰掛けていた。
窓の外には、美しい月が浮かんでいる。
部屋は静かだった。
あの家とは違う。
ミアが廊下を歩く音も、隣の部屋から聞こえてくる声もない。
それなのに、静かすぎることが、少しだけ怖かった。
ルシアは膝の上で手を握りしめた。
眠ったら、また夢を見るかもしれない。
目を閉じたら、あの日のミアが現れるかもしれない。
そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「ルシア、入ってもいい?」
「お兄様!」
ルシアの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
ゼノンが部屋へ入ってきた。
「眠れそう?」
ルシアは少し迷ってから、首を横に振った。
「……まだ、ちょっと怖い」
「そっか」
ゼノンは寝台のそばへ歩み寄った。
「隣にいてもいい?」
「……うん」
ゼノンが腰掛けると、ルシアはそっと彼の袖を掴んだ。
「お兄様……」
「なあに?」
「今日も、一緒にいてくれる……?」
「もちろん」
ゼノンは迷わず答えた。
「君が安心して眠れるまで、そばにいるよ」
「……ずっと?」
「うん」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「眠っている間も、ここにいる」
ルシアの瞳が潤んだ。
「ありがとう……」
ゼノンはその髪を撫でた。
「どういたしまして」
ルシアはゆっくりと横になった。
けれど、しばらくして小さく呟いた。
「……ねえ、お兄様」
「なあに?」
「私、いつか……帰れるかな」
ゼノンは彼女を見つめた。
「アルとクレイドのおうちに……」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「帰りたいって思うのに、考えるだけで怖くなっちゃうの……」
ゼノンは少しだけ考えてから、答えた。
「今、決めなくていいよ」
「……え?」
「明日帰らなきゃいけないわけでも、一週間後に帰らなきゃいけないわけでもない」
ゼノンはルシアの手を包み込んだ。
「帰りたいと思えたときに、一緒に考えよう」
「……うん」
「そのときも、僕が一緒に行くよ」
ルシアは小さく微笑んだ。
「約束?」
「約束」
ゼノンは彼女の額にそっと口づけた。
ルシアは安心したように目を細めた。
「……お兄様」
「なあに?」
「明日は、何をしようか」
ゼノンは微笑んだ。
「何がしたい?」
「お散歩したい……」
「うん。体調がよければ、庭を少し歩こうか」
「それから、クレイドとエリーゼにも会いたい……」
「もちろん。二人にも声をかけておくよ」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん!」
ゼノンはその笑顔を見つめながら、心の中で静かに誓った。
もう二度と、ルシアを一人で苦しませない。
どれほど時間がかかっても。
どれほど遠回りになっても。
彼女が再び、心から笑えるようになるまで。
ずっと、そばにいる。
その夜、ルシアはゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
窓の外では、静かな月が輝いていた。
失われかけた日常が、少しずつ戻り始めていた。
けれど、その裏側では。
ミアの罪に対する裁きが、確実に近づいていた。




