↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/92

眠れない夜と、下される裁き



 ルシアが目を覚ましてから、三日が経った。


 医療棟の窓から差し込む午後の日差しが、白い寝台を柔らかく照らしている。


「うん。傷の再生は問題ねぇな」


 アルベルトは検査結果を確認し、ようやく安堵したように息を吐いた。


「心臓の機能も安定してる。血液量も順調に戻ってきてるし、身体の回復だけなら、あと数日で退院できるかもしれねぇ」


「本当?」


 ルシアの表情が、ぱっと明るくなった。


「ああ。ただし、無理は禁物だぞ」


「うん!」


「特に激しい運動は禁止。しばらくは授業も休め」


「ええっ……」


 ルシアは残念そうに眉を下げた。


 その様子を見て、ゼノンが小さく笑う。


「ルシア。今は勉強より、身体を治すことが大事だよ」


「でも、ずっと寝てるのも退屈なんだもん」


「だったら、僕が毎日遊びに来てあげる」


「お兄様は、もうずっとここにいるじゃない」


「ふふ。そうだったね」


 ゼノンは楽しそうに微笑んだ。


 アルベルトも、久しぶりに聞く二人のやり取りに頬を緩めた。


 ルシアは少しずつ、以前の明るさを取り戻していた。


 クレイドやエリーゼが訪れると嬉しそうに笑い、アルベルトには退院したいと何度もお願いしている。


 食事も少しずつ取れるようになった。


 身体の回復は、想像以上に順調だった。


 けれど。


「ルシア」


 アルベルトは検査記録を閉じ、静かに尋ねた。


「最近、ちゃんと眠れてるか?」


 その瞬間。


 ルシアの笑顔が、わずかに固まった。


「うん」


 小さな返事だった。


「眠れてるよ?」


 ゼノンの表情が変わった。


 アルベルトも、その言葉をすぐには信じなかった。


「本当に?」


「うん……」


 ルシアは視線を逸らした。


 ゼノンは何も言わず、その小さな手を握った。


 ルシアは困ったように笑った。


「ちょっと、夢を見るだけだから……」


 その言葉に、アルベルトの表情が曇った。


「どんな夢だ?」


「……」


 ルシアは俯いた。


「覚えてない……」


 けれど、その指先は震えていた。


 ゼノンは静かに息を吐いた。


 昨夜のことを、思い出していた。


     *


 前日の深夜。


 医療棟は、物音ひとつしないほど静まり返っていた。


 ゼノンは寝台のそばに置かれた椅子に座り、ルシアの寝顔を見つめていた。


 少女は穏やかな表情で眠っている。


 昼間、クレイドが持ってきた本を読んで、楽しそうに笑っていた。


 エリーゼとも、退院したら何をしようかと話していた。


 少しずつ元気になっている。


 そう思っていた。


「ん……」


 ルシアが小さく身じろぎした。


 ゼノンは顔を上げた。


「ルシア?」


 少女の眉が寄る。


「や……」


 掠れた声が漏れた。


「やめ……」


 ゼノンの表情が変わった。


「ルシア?」


 ルシアの呼吸が速くなる。


 閉じられた瞼の下で、瞳が激しく動いていた。


「いや……っ」


 毛布を握りしめる。


「痛い……!」


 ゼノンはすぐに身を乗り出した。


「ルシア、起きて」


 優しく肩へ触れようとする。


 けれど、その瞬間。


「――やめてっ!!」


 ルシアが悲鳴を上げた。


 勢いよく身体を起こし、両腕で自分を庇う。


「もう、やめて……!」


「ルシア!」


 ゼノンが呼びかける。


 けれど、ルシアは何も見えていないようだった。


「血……もう……!」


 その声は、恐怖で震えていた。


「お願い……刺さないで……!」


 ゼノンの胸が締めつけられた。


 夢の中で、またあの日の出来事を繰り返していたのだ。


「ルシア」


 ゼノンは寝台のそばに膝をついた。


「僕だよ」


 ルシアの呼吸は乱れたままだった。


「いや……!」


「ここは医療棟だよ。もう、あの日の場所じゃない」


 ゼノンはゆっくりと声をかけた。


「僕の声が聞こえる?」


 ルシアの瞳が揺れた。


「お……兄様……?」


「うん」


 ゼノンは微笑んだ。


「ここにいるよ」


 ルシアはしばらくゼノンを見つめていた。


 やがて、周囲を見回す。


 白い壁。


 窓際の花瓶。


 見慣れた医療棟の寝台。


 そして、自分の手を握っているゼノン。


「夢……?」


「うん」


 ゼノンは静かに頷いた。


「怖い夢を見たんだね」


 その瞬間、ルシアの瞳から涙がこぼれた。


「っ……」


 ゼノンがそっと手を伸ばすと、ルシアは自分からその胸へ飛び込んだ。


「お兄様……っ!」


「うん」


「また……ミアが……!」


 ルシアの声が震えた。


「何度も……何度も……!」


 ゼノンはそっと背中を撫でた。


「もう、大丈夫だよ」


「夢なのに……」


 ルシアは泣きながら続けた。


「本当に、痛かったの……!」


 ゼノンは目を閉じた。


 その言葉が、胸に突き刺さった。


「うん……」


「起きても……まだ、怖くて……」


「分かってるよ」


 ゼノンは優しく抱きしめた。


「今夜は、僕がずっと起きてるから」


 ルシアが顔を上げる。


「お兄様、眠らないの……?」


「君が安心して眠れるまで、そばにいるよ」


「でも……」


「大丈夫」


 ゼノンは微笑んだ。


「僕は、君の寝顔を見ているだけでも幸せだから」


 ルシアは少しだけ頬を赤くした。


 けれど、すぐに不安そうな顔になる。


「また、夢を見たら……?」


「何度でも起こしてあげる」


 ゼノンは額へ口づけた。


「何度でも、ここは安全だって教えてあげるよ」


 ルシアは小さく頷いた。


 その夜、彼女はゼノンの手を握ったまま、ようやく眠りについた。


     *


「ルシア」


 アルベルトの声に、少女は顔を上げた。


「怖い夢を見ることは、恥ずかしいことじゃねぇぞ」


「……」


「無理して、平気なふりをする必要もねぇ」


 ルシアは俯いた。


「だって……」


 小さな声だった。


「みんな、いっぱい心配してくれたから……」


 アルベルトは黙って聞いていた。


「もう、元気になったって……思ってほしくて……」


 ルシアの瞳が潤む。


「なのに……」


 声が震えた。


「眠るのが、怖いの……」


 ゼノンはその手を握り直した。


「ルシア」


「目を閉じると……また、あのときのことが……」


 ルシアは胸元を押さえた。


「痛かったの、思い出しちゃう……」


 アルベルトは寝台のそばに腰を下ろした。


「そっか」


 優しく頭を撫でる。


「話してくれて、ありがとな」


 ルシアが顔を上げる。


「怒らないの……?」


「何で怒るんだよ」


 アルベルトは苦笑した。


「怖いもんは、怖いだろ」


 その言葉に、ルシアの瞳から涙がこぼれた。


「アル……」


「身体が治ったからって、すぐに全部元通りになるわけじゃねぇ」


 アルベルトは静かに続けた。


「だから、焦るな」


 ルシアは何度も頷いた。


「うん……」


 ゼノンはその姿を見つめながら、そっとルシアの髪を撫でた。


 彼女が再び安心して眠れるようになるまで、どれほど時間がかかるのだろう。


 それでも、待つつもりだった。


 何日でも。


 何ヶ月でも。


 必要なら、何年でも。


     *


 同じ日の夕方。


 学園長室には、重苦しい空気が漂っていた。


 机の上には、一通の封書が置かれている。


 封蝋には、人間とヴァンパイアの共生を象徴する紋章が刻まれていた。


「正式な通知が届いた」


 アルベルトが口を開いた。


 向かいの椅子には、ゼノンが座っている。


 その隣には、セドリックの姿もあった。


「ミアの件か」


 ゼノンの声は冷たかった。


「ああ」


 アルベルトは封書を開いた。


「今回の事件について、正式な審理が行われることになった」


 セドリックが眉を寄せる。


「当然だろうな」


「ルシアへの殺人未遂。それに、過去の襲撃についても調査対象になってる」


 アルベルトは書類を机に置いた。


「ミアは、現在も拘禁施設に収容されてる」


 ゼノンは黙っていた。


 赤い瞳が、書類を見つめている。


「本人は?」


 静かな声だった。


「何か言ってる?」


 アルベルトは少しだけ眉を寄せた。


「自分は、ただ血が欲しかっただけだと言ってるらしい」


 ゼノンの指先が、ぴくりと動いた。


「それだけ?」


「ああ」


 アルベルトは苦々しく答えた。


「ルシアが死にかけたことについても、重大なことだと理解している様子がねぇ」


 室内の空気が、一瞬で冷えた。


「そう」


 ゼノンは静かに微笑んだ。


 けれど、その笑みには温かさがなかった。


「やっぱり、あのとき殺しておけばよかったかな」


「ゼノン」


 セドリックがすぐに声をかけた。


「冗談でも言うな」


「冗談に聞こえた?」


 ゼノンが顔を上げる。


 その赤い瞳には、冷たい光が宿っていた。


 セドリックはため息をついた。


「お前な」


「ルシアは、今でも眠るたびに怯えてるんだ」


 ゼノンの声が低くなる。


「目を閉じるだけで、あの日のことを思い出す」


 拳を握りしめた。


「あの子が、どれだけ怖い思いをしたと思ってる?」


 アルベルトも、セドリックも答えられなかった。


「それなのに、ミアは……」


 ゼノンは目を閉じた。


「ただ、血が欲しかっただけ?」


 その声は、怒りで震えていた。


「ふざけないでほしいな」


 セドリックは静かに息を吐いた。


「気持ちは分かる」


「……」


「だが、今のお前がやるべきことは、ミアを殺すことじゃないだろ」


 ゼノンが顔を上げた。


「ルシアのそばにいてやれ」


 セドリックは真剣な表情で続けた。


「あいつ、今のお前がいなくなったら、また不安になるぞ」


 ゼノンは黙り込んだ。


 しばらくして、小さく息を吐いた。


「分かってるよ」


 アルベルトは静かに頷いた。


「ミアの処遇については、正式な審理で決める」


「うん」


「ただし、ルシアへの接触は禁止だ。面会も、手紙も、連絡も認めねぇ」


 ゼノンの瞳が細められた。


「当然だね」


 アルベルトは書類を閉じた。


「ルシアには、今すぐ全部を話す必要はねぇ」


「僕も、そう思う」


 ゼノンは立ち上がった。


「あの子には、今は休んでいてほしいから」


 その声は、少しだけ柔らかくなっていた。


     *


 その夜。


 ルシアは寝台の上で、窓の外を眺めていた。


 月明かりが、黒い髪を淡く照らしている。


「お兄様」


 ゼノンが顔を上げた。


「なあに?」


「今日、アルとお話ししてた?」


「うん」


「ミアのこと……?」


 ゼノンの表情が、わずかに変わった。


「どうして?」


 ルシアは俯いた。


「何となく……」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、ルシアが小さく口を開く。


「ミア、どうなるのかな……」


 ゼノンは寝台のそばに座った。


「これから、正式に決められるよ」


「そっか……」


 ルシアは膝の上で手を握りしめた。


「私……」


 声が震える。


「ミアが、怖い……」


「うん」


「もう、会いたくない……」


「会わなくていいよ」


 ゼノンは優しく答えた。


 ルシアは顔を上げた。


「でも……」


 瞳が揺れる。


「あの子が、どうなっちゃうのか……気になって……」


 ゼノンは静かにルシアを見つめた。


 傷つけられても、なお相手のことを考えてしまう。


 それが、ルシアだった。


「ルシア」


「うん?」


「君は、ミアを許したい?」


 ルシアは目を見開いた。


 そして、すぐには答えられなかった。


 長い沈黙。


 やがて、小さく首を横に振った。


「分からない……」


 声が震えた。


「前みたいに、仲良くしたかった……」


 涙が頬を伝う。


「でも……」


 ルシアは胸元を押さえた。


「思い出すと、怖くて……」


 ゼノンはその手を包み込んだ。


「それでいいんだよ」


 ルシアが顔を上げる。


「今、答えを出さなくてもいい」


「……」


「許さなくてもいいし、許したくなったとしても、会う必要はない」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「君が、どうしたいか。それが一番大切なんだ」


 ルシアはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「うん……」


 ゼノンはそっと抱き寄せた。


「今日はもう、休もうか」


「うん……」


 ルシアはゼノンの胸元へ顔を埋めた。


 けれど、しばらくして、また小さく呟いた。


「お兄様……」


「なあに?」


「今日も……そばにいて……?」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


「もちろん」


 その髪へ口づける。


「君が安心して眠れるまで、ずっとそばにいるよ」


 ルシアは小さく頷いた。


 そして、ゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。


 ゼノンはその寝顔を見つめていた。


 穏やかに眠っているように見える。


 けれど、いつ悪夢にうなされるか分からない。


 だから、手を離さなかった。


「おやすみ、ルシア」


 小さく囁く。


「今夜は、いい夢が見られるといいね」


 その声は、静かな病室に溶けていった。


     *


 一方、学園から離れた拘禁施設。


 厚い扉に囲まれた一室で、ミアは椅子に座っていた。


 目の前には、事件の調書が置かれている。


「だから、何度も言ってるじゃない」


 ミアは不満そうに頬を膨らませた。


「私は、ルシアの血が欲しかっただけなの」


 向かいに座る調査官は、表情を変えなかった。


「そのために、刃物で何度も刺したのですか?」


「だって、逃げようとするんだもん」


 ミアは当然のように答えた。


「少しだけって言ったのに、全然くれないんだよ?」


 調査官の眉が、わずかに動いた。


「被害者は、生命の危険に晒されました」


「でも、生きてるんでしょ?」


 ミアは首を傾げた。


「純血種なんだから、治るじゃない」


 調査官は静かに息を吐いた。


「あなたは、自分が何をしたのか理解していますか?」


 ミアは不思議そうに瞬きをした。


「だから、血をもらおうとしただけだってば」


 その声には、罪悪感がなかった。


 調査官は記録を閉じた。


「本日の聴取は、ここまでにします」


「えー、もう?」


 ミアは退屈そうに背もたれへ寄りかかった。


「ねえ、ルシアに会わせてよ」


 調査官の手が止まる。


「面会は禁止されています」


「どうして?」


 ミアは不満そうに眉を寄せた。


「私たち、友達なのに」


 調査官は何も答えなかった。


 厚い扉が閉じられる。


 その向こうで、ミアは小さく呟いた。


「ルシアの血……」


 唇を舐める。


「また、飲みたいな……」


 薄暗い部屋に、その声だけが静かに響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。