眠れない夜と、下される裁き
ルシアが目を覚ましてから、三日が経った。
医療棟の窓から差し込む午後の日差しが、白い寝台を柔らかく照らしている。
「うん。傷の再生は問題ねぇな」
アルベルトは検査結果を確認し、ようやく安堵したように息を吐いた。
「心臓の機能も安定してる。血液量も順調に戻ってきてるし、身体の回復だけなら、あと数日で退院できるかもしれねぇ」
「本当?」
ルシアの表情が、ぱっと明るくなった。
「ああ。ただし、無理は禁物だぞ」
「うん!」
「特に激しい運動は禁止。しばらくは授業も休め」
「ええっ……」
ルシアは残念そうに眉を下げた。
その様子を見て、ゼノンが小さく笑う。
「ルシア。今は勉強より、身体を治すことが大事だよ」
「でも、ずっと寝てるのも退屈なんだもん」
「だったら、僕が毎日遊びに来てあげる」
「お兄様は、もうずっとここにいるじゃない」
「ふふ。そうだったね」
ゼノンは楽しそうに微笑んだ。
アルベルトも、久しぶりに聞く二人のやり取りに頬を緩めた。
ルシアは少しずつ、以前の明るさを取り戻していた。
クレイドやエリーゼが訪れると嬉しそうに笑い、アルベルトには退院したいと何度もお願いしている。
食事も少しずつ取れるようになった。
身体の回復は、想像以上に順調だった。
けれど。
「ルシア」
アルベルトは検査記録を閉じ、静かに尋ねた。
「最近、ちゃんと眠れてるか?」
その瞬間。
ルシアの笑顔が、わずかに固まった。
「うん」
小さな返事だった。
「眠れてるよ?」
ゼノンの表情が変わった。
アルベルトも、その言葉をすぐには信じなかった。
「本当に?」
「うん……」
ルシアは視線を逸らした。
ゼノンは何も言わず、その小さな手を握った。
ルシアは困ったように笑った。
「ちょっと、夢を見るだけだから……」
その言葉に、アルベルトの表情が曇った。
「どんな夢だ?」
「……」
ルシアは俯いた。
「覚えてない……」
けれど、その指先は震えていた。
ゼノンは静かに息を吐いた。
昨夜のことを、思い出していた。
*
前日の深夜。
医療棟は、物音ひとつしないほど静まり返っていた。
ゼノンは寝台のそばに置かれた椅子に座り、ルシアの寝顔を見つめていた。
少女は穏やかな表情で眠っている。
昼間、クレイドが持ってきた本を読んで、楽しそうに笑っていた。
エリーゼとも、退院したら何をしようかと話していた。
少しずつ元気になっている。
そう思っていた。
「ん……」
ルシアが小さく身じろぎした。
ゼノンは顔を上げた。
「ルシア?」
少女の眉が寄る。
「や……」
掠れた声が漏れた。
「やめ……」
ゼノンの表情が変わった。
「ルシア?」
ルシアの呼吸が速くなる。
閉じられた瞼の下で、瞳が激しく動いていた。
「いや……っ」
毛布を握りしめる。
「痛い……!」
ゼノンはすぐに身を乗り出した。
「ルシア、起きて」
優しく肩へ触れようとする。
けれど、その瞬間。
「――やめてっ!!」
ルシアが悲鳴を上げた。
勢いよく身体を起こし、両腕で自分を庇う。
「もう、やめて……!」
「ルシア!」
ゼノンが呼びかける。
けれど、ルシアは何も見えていないようだった。
「血……もう……!」
その声は、恐怖で震えていた。
「お願い……刺さないで……!」
ゼノンの胸が締めつけられた。
夢の中で、またあの日の出来事を繰り返していたのだ。
「ルシア」
ゼノンは寝台のそばに膝をついた。
「僕だよ」
ルシアの呼吸は乱れたままだった。
「いや……!」
「ここは医療棟だよ。もう、あの日の場所じゃない」
ゼノンはゆっくりと声をかけた。
「僕の声が聞こえる?」
ルシアの瞳が揺れた。
「お……兄様……?」
「うん」
ゼノンは微笑んだ。
「ここにいるよ」
ルシアはしばらくゼノンを見つめていた。
やがて、周囲を見回す。
白い壁。
窓際の花瓶。
見慣れた医療棟の寝台。
そして、自分の手を握っているゼノン。
「夢……?」
「うん」
ゼノンは静かに頷いた。
「怖い夢を見たんだね」
その瞬間、ルシアの瞳から涙がこぼれた。
「っ……」
ゼノンがそっと手を伸ばすと、ルシアは自分からその胸へ飛び込んだ。
「お兄様……っ!」
「うん」
「また……ミアが……!」
ルシアの声が震えた。
「何度も……何度も……!」
ゼノンはそっと背中を撫でた。
「もう、大丈夫だよ」
「夢なのに……」
ルシアは泣きながら続けた。
「本当に、痛かったの……!」
ゼノンは目を閉じた。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「うん……」
「起きても……まだ、怖くて……」
「分かってるよ」
ゼノンは優しく抱きしめた。
「今夜は、僕がずっと起きてるから」
ルシアが顔を上げる。
「お兄様、眠らないの……?」
「君が安心して眠れるまで、そばにいるよ」
「でも……」
「大丈夫」
ゼノンは微笑んだ。
「僕は、君の寝顔を見ているだけでも幸せだから」
ルシアは少しだけ頬を赤くした。
けれど、すぐに不安そうな顔になる。
「また、夢を見たら……?」
「何度でも起こしてあげる」
ゼノンは額へ口づけた。
「何度でも、ここは安全だって教えてあげるよ」
ルシアは小さく頷いた。
その夜、彼女はゼノンの手を握ったまま、ようやく眠りについた。
*
「ルシア」
アルベルトの声に、少女は顔を上げた。
「怖い夢を見ることは、恥ずかしいことじゃねぇぞ」
「……」
「無理して、平気なふりをする必要もねぇ」
ルシアは俯いた。
「だって……」
小さな声だった。
「みんな、いっぱい心配してくれたから……」
アルベルトは黙って聞いていた。
「もう、元気になったって……思ってほしくて……」
ルシアの瞳が潤む。
「なのに……」
声が震えた。
「眠るのが、怖いの……」
ゼノンはその手を握り直した。
「ルシア」
「目を閉じると……また、あのときのことが……」
ルシアは胸元を押さえた。
「痛かったの、思い出しちゃう……」
アルベルトは寝台のそばに腰を下ろした。
「そっか」
優しく頭を撫でる。
「話してくれて、ありがとな」
ルシアが顔を上げる。
「怒らないの……?」
「何で怒るんだよ」
アルベルトは苦笑した。
「怖いもんは、怖いだろ」
その言葉に、ルシアの瞳から涙がこぼれた。
「アル……」
「身体が治ったからって、すぐに全部元通りになるわけじゃねぇ」
アルベルトは静かに続けた。
「だから、焦るな」
ルシアは何度も頷いた。
「うん……」
ゼノンはその姿を見つめながら、そっとルシアの髪を撫でた。
彼女が再び安心して眠れるようになるまで、どれほど時間がかかるのだろう。
それでも、待つつもりだった。
何日でも。
何ヶ月でも。
必要なら、何年でも。
*
同じ日の夕方。
学園長室には、重苦しい空気が漂っていた。
机の上には、一通の封書が置かれている。
封蝋には、人間とヴァンパイアの共生を象徴する紋章が刻まれていた。
「正式な通知が届いた」
アルベルトが口を開いた。
向かいの椅子には、ゼノンが座っている。
その隣には、セドリックの姿もあった。
「ミアの件か」
ゼノンの声は冷たかった。
「ああ」
アルベルトは封書を開いた。
「今回の事件について、正式な審理が行われることになった」
セドリックが眉を寄せる。
「当然だろうな」
「ルシアへの殺人未遂。それに、過去の襲撃についても調査対象になってる」
アルベルトは書類を机に置いた。
「ミアは、現在も拘禁施設に収容されてる」
ゼノンは黙っていた。
赤い瞳が、書類を見つめている。
「本人は?」
静かな声だった。
「何か言ってる?」
アルベルトは少しだけ眉を寄せた。
「自分は、ただ血が欲しかっただけだと言ってるらしい」
ゼノンの指先が、ぴくりと動いた。
「それだけ?」
「ああ」
アルベルトは苦々しく答えた。
「ルシアが死にかけたことについても、重大なことだと理解している様子がねぇ」
室内の空気が、一瞬で冷えた。
「そう」
ゼノンは静かに微笑んだ。
けれど、その笑みには温かさがなかった。
「やっぱり、あのとき殺しておけばよかったかな」
「ゼノン」
セドリックがすぐに声をかけた。
「冗談でも言うな」
「冗談に聞こえた?」
ゼノンが顔を上げる。
その赤い瞳には、冷たい光が宿っていた。
セドリックはため息をついた。
「お前な」
「ルシアは、今でも眠るたびに怯えてるんだ」
ゼノンの声が低くなる。
「目を閉じるだけで、あの日のことを思い出す」
拳を握りしめた。
「あの子が、どれだけ怖い思いをしたと思ってる?」
アルベルトも、セドリックも答えられなかった。
「それなのに、ミアは……」
ゼノンは目を閉じた。
「ただ、血が欲しかっただけ?」
その声は、怒りで震えていた。
「ふざけないでほしいな」
セドリックは静かに息を吐いた。
「気持ちは分かる」
「……」
「だが、今のお前がやるべきことは、ミアを殺すことじゃないだろ」
ゼノンが顔を上げた。
「ルシアのそばにいてやれ」
セドリックは真剣な表情で続けた。
「あいつ、今のお前がいなくなったら、また不安になるぞ」
ゼノンは黙り込んだ。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「分かってるよ」
アルベルトは静かに頷いた。
「ミアの処遇については、正式な審理で決める」
「うん」
「ただし、ルシアへの接触は禁止だ。面会も、手紙も、連絡も認めねぇ」
ゼノンの瞳が細められた。
「当然だね」
アルベルトは書類を閉じた。
「ルシアには、今すぐ全部を話す必要はねぇ」
「僕も、そう思う」
ゼノンは立ち上がった。
「あの子には、今は休んでいてほしいから」
その声は、少しだけ柔らかくなっていた。
*
その夜。
ルシアは寝台の上で、窓の外を眺めていた。
月明かりが、黒い髪を淡く照らしている。
「お兄様」
ゼノンが顔を上げた。
「なあに?」
「今日、アルとお話ししてた?」
「うん」
「ミアのこと……?」
ゼノンの表情が、わずかに変わった。
「どうして?」
ルシアは俯いた。
「何となく……」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ルシアが小さく口を開く。
「ミア、どうなるのかな……」
ゼノンは寝台のそばに座った。
「これから、正式に決められるよ」
「そっか……」
ルシアは膝の上で手を握りしめた。
「私……」
声が震える。
「ミアが、怖い……」
「うん」
「もう、会いたくない……」
「会わなくていいよ」
ゼノンは優しく答えた。
ルシアは顔を上げた。
「でも……」
瞳が揺れる。
「あの子が、どうなっちゃうのか……気になって……」
ゼノンは静かにルシアを見つめた。
傷つけられても、なお相手のことを考えてしまう。
それが、ルシアだった。
「ルシア」
「うん?」
「君は、ミアを許したい?」
ルシアは目を見開いた。
そして、すぐには答えられなかった。
長い沈黙。
やがて、小さく首を横に振った。
「分からない……」
声が震えた。
「前みたいに、仲良くしたかった……」
涙が頬を伝う。
「でも……」
ルシアは胸元を押さえた。
「思い出すと、怖くて……」
ゼノンはその手を包み込んだ。
「それでいいんだよ」
ルシアが顔を上げる。
「今、答えを出さなくてもいい」
「……」
「許さなくてもいいし、許したくなったとしても、会う必要はない」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「君が、どうしたいか。それが一番大切なんだ」
ルシアはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「うん……」
ゼノンはそっと抱き寄せた。
「今日はもう、休もうか」
「うん……」
ルシアはゼノンの胸元へ顔を埋めた。
けれど、しばらくして、また小さく呟いた。
「お兄様……」
「なあに?」
「今日も……そばにいて……?」
ゼノンは優しく微笑んだ。
「もちろん」
その髪へ口づける。
「君が安心して眠れるまで、ずっとそばにいるよ」
ルシアは小さく頷いた。
そして、ゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
ゼノンはその寝顔を見つめていた。
穏やかに眠っているように見える。
けれど、いつ悪夢にうなされるか分からない。
だから、手を離さなかった。
「おやすみ、ルシア」
小さく囁く。
「今夜は、いい夢が見られるといいね」
その声は、静かな病室に溶けていった。
*
一方、学園から離れた拘禁施設。
厚い扉に囲まれた一室で、ミアは椅子に座っていた。
目の前には、事件の調書が置かれている。
「だから、何度も言ってるじゃない」
ミアは不満そうに頬を膨らませた。
「私は、ルシアの血が欲しかっただけなの」
向かいに座る調査官は、表情を変えなかった。
「そのために、刃物で何度も刺したのですか?」
「だって、逃げようとするんだもん」
ミアは当然のように答えた。
「少しだけって言ったのに、全然くれないんだよ?」
調査官の眉が、わずかに動いた。
「被害者は、生命の危険に晒されました」
「でも、生きてるんでしょ?」
ミアは首を傾げた。
「純血種なんだから、治るじゃない」
調査官は静かに息を吐いた。
「あなたは、自分が何をしたのか理解していますか?」
ミアは不思議そうに瞬きをした。
「だから、血をもらおうとしただけだってば」
その声には、罪悪感がなかった。
調査官は記録を閉じた。
「本日の聴取は、ここまでにします」
「えー、もう?」
ミアは退屈そうに背もたれへ寄りかかった。
「ねえ、ルシアに会わせてよ」
調査官の手が止まる。
「面会は禁止されています」
「どうして?」
ミアは不満そうに眉を寄せた。
「私たち、友達なのに」
調査官は何も答えなかった。
厚い扉が閉じられる。
その向こうで、ミアは小さく呟いた。
「ルシアの血……」
唇を舐める。
「また、飲みたいな……」
薄暗い部屋に、その声だけが静かに響いた。




