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目覚めた日、消えない恐怖


 


ルシアが目を覚ましたという知らせは、すぐに医療棟の職員たちへ伝えられた。


 アルベルトが呼んだ医師が病室へ駆けつけ、寝台のそばに診察器具を並べていく。


「ルシア、少しだけ診察させてくれ」


 アルベルトが優しく声をかけた。


 けれど、ルシアはゼノンの服を握りしめたまま、小さく首を横に振った。


「お兄様……」


「うん。ここにいるよ」


「行かないで……」


「行かないよ。診察が終わるまで、ずっと手を握ってるから」


 ゼノンが微笑むと、ルシアはようやく小さく頷いた。


 医師が近づく。


「ルシア様、胸の傷を確認させていただきますね」


「……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、ルシアの身体が強張った。


 胸。


 その場所には、何度も刃を突き立てられた記憶が残っている。


「いや……」


 ルシアは反射的に胸元を押さえた。


 医師が足を止める。


「……ルシア?」


 アルベルトが心配そうに覗き込んだ。


「触らないで……」


 ルシアの声が震える。


「また、痛いことするの……?」


 その場にいた全員が、言葉を失った。


 ゼノンはすぐにルシアの手を包み込んだ。


「違うよ」


 できる限り、穏やかな声で答える。


「君が元気になっているか、確かめるだけなんだ」


「でも……」


「痛いことはしないよ。嫌だったら、すぐにやめてもらおう」


 ルシアは不安そうに医師を見つめた。


 医師も静かに頷く。


「もちろんです。触れる前には必ずお声がけします」


 しばらくして、ルシアは小さく頷いた。


「うん……」


 診察は慎重に進められた。


 心臓の鼓動。


 呼吸。


 瞳の反応。


 再生した胸元の傷。


 どれも、七日前の危険な状態からは大きく改善していた。


 医師は検査結果を確認し、アルベルトへ向き直った。


「心臓の再生は順調です。循環状態も安定しています」


「……そうか」


「ただ、血液量はまだ完全には戻っていません。しばらくは安静が必要です」


 アルベルトは頷いた。


「分かった。引き続き頼む」


「承知しました」


 医師はルシアへ優しく微笑みかけた。


「ルシア様、今日はもう無理をなさらないでくださいね」


「はい……」


 診察が終わると、ルシアはすぐにゼノンへ手を伸ばした。


「お兄様……」


「おいで」


 ゼノンはその手を取り、そっと抱き寄せた。


 ルシアは安心したように胸元へ顔を埋める。


 アルベルトはその様子を見つめながら、静かに息を吐いた。


 身体は回復している。


 けれど、心の傷は想像以上に深い。


 診察で胸元に触れられることさえ、怖がっている。


 アルベルトは拳を握りしめた。


 あの明るく、人懐っこい少女が、こんなふうに怯える姿など見たくなかった。


「……ルシア」


 声をかけると、少女が顔を上げた。


「……アル?」


「腹、減ってねぇか?」


 ルシアは少し考えた。


「……分からない……」


「そっか。じゃあ、あとで何か食べられそうなものを持ってこさせる」


「……うん……」


「無理して食わなくていいからな」


 アルベルトは優しく頭を撫でた。


「今は、ゆっくり休め」


 ルシアは小さく頷いた。


 けれど、ゼノンの服を掴んだ手は、離れなかった。


     *


 昼過ぎ。


 学園の廊下を、クレイドが走っていた。


「――ルシアが起きたって、本当か!?」


 医療棟の受付に駆け込むなり、息を切らして尋ねる。


 職員が驚いたように顔を上げた。


「クレイドさん、落ち着いてください」


「落ち着いてられるかよ! 起きたんだろ!?」


「はい。今朝、意識が戻られました」


「……っ!」


 クレイドは息を呑んだ。


 七日間。


 何度呼んでも返事をしてくれなかったルシア。


 もう一度、あの笑顔が見られるのか。


 そんな不安に押し潰されそうになりながら、毎日病室へ通っていた。


「会えるか……?」


 声が震えた。


「少しだけでいいんだ……」


 職員は穏やかに頷いた。


「学園長に確認してまいります」


 その言葉を聞き終わるより早く、廊下の向こうからアルベルトが姿を現した。


「……クレイド」


「アル!」


 クレイドは駆け寄った。


「本当に……起きたのか……?」


「ああ」


 アルベルトは頷いた。


「今朝、目を覚ました」


「よかった……」


 クレイドは壁へ手をついた。


 胸の奥から、ようやく息が吐き出せた気がした。


「よかった……本当に……」


 アルベルトはその肩へ手を置いた。


「会ってやってくれ」


 クレイドが顔を上げる。


「……いいのか?」


「ああ。ただ、まだ身体は弱ってる。それに……」


 アルベルトは少しだけ言葉を詰まらせた。


「事件のことを思い出して、ひどく取り乱した」


 クレイドの表情が変わった。


「ルシアが……?」


「ああ。今はゼノンがそばにいて落ち着いてるが、無理はさせられねぇ」


「……分かった」


 クレイドは強く頷いた。


「絶対、無理させねぇ」


     *


 病室の扉が、静かに開いた。


「……ルシア」


 聞き慣れた声に、寝台の上の少女が顔を上げた。


「……クレイド……?」


 クレイドは、その場で足を止めた。


 赤い瞳が、自分を見つめている。


 七日間、閉じられたままだった瞳。


 何度呼んでも返事をしなかった少女が、今、自分の名前を呼んでいる。


「お前……」


 クレイドの唇が震えた。


「ほんとに、起きたんだな……」


 ルシアは不思議そうに瞬きをした。


「うん……」


 それから、少しだけ微笑んだ。


「心配、かけちゃった……?」


 その笑顔を見た瞬間、クレイドの表情が歪んだ。


「馬鹿……」


 声が掠れる。


「心配なんてもんじゃねぇよ……」


 ルシアが目を丸くする。


「クレイド……?」


 クレイドは寝台へ近づいた。


 けれど、手を伸ばしかけて止まる。


 アルベルトから聞いた言葉が頭をよぎった。


 事件を思い出して、取り乱した。


 突然触れれば、また怖がらせてしまうかもしれない。


「……手、握っていいか?」


 ルシアは少し驚いた顔をした。


 いつものクレイドなら、そんなことは聞かない。


 けれど、すぐに小さく頷いた。


「……うん」


 クレイドはそっと手を握った。


 温かい。


 ヴァンパイアの身体は人間ほど温かくない。


 それでも、あの日とは違った。


 ちゃんと、生きている。


「よかった……」


 クレイドは俯いた。


「ほんとに……よかった……」


 ルシアの手に、ぽたりと涙が落ちた。


「クレイド……?」


「泣いてねぇ」


「泣いてるよ……」


「うるせぇ……」


 いつものやり取り。


 けれど、クレイドの声は震えていた。


 ルシアは困ったように笑った。


「ごめんね……」


 その言葉に、クレイドは顔を上げた。


「謝んな」


「でも……」


「お前が謝ることなんか、何もねぇよ」


 クレイドは強く言った。


 ルシアが驚いたように目を見開く。


「俺さ」


 クレイドは小さく息を吐いた。


「お前が起きなかったら、どうしようって……ずっと考えてた」


「……」


「また、家族を失うのかと思った……」


 ルシアの瞳が揺れた。


 クレイドが幼い頃に両親を失ったことを、彼女は知っている。


 そのあと、アルベルトの家で一緒に育ったことも。


 自分たちが、血の繋がりのない家族であることも。


「クレイド……」


「だから、もう……」


 クレイドは涙を拭った。


「二度と、こんな心配させんなよ……」


 ルシアはしばらく黙っていた。


 それから、そっとクレイドの手を握り返した。


「うん……」


 小さな声だった。


「ただいま、クレイド……」


 クレイドの目から、また涙がこぼれた。


「おう……」


 握った手を離さないまま、俯く。


「おかえり……ルシア……」


 ゼノンはその様子を、寝台の反対側から静かに見つめていた。


 クレイドが泣いている。


 けれど、今度の涙は、三日目とは違っていた。


 大切な家族が帰ってきた。


 その安堵が、ようやく溢れ出したのだ。


 ルシアはクレイドの顔を見つめながら、ふと、家で過ごした日々を思い出した。


 アルとクレイドと、ミア。


 四人で食卓を囲んだ夜。


 キッチンから聞こえてきた、ミアの笑い声。


 あんなに楽しかったはずなのに。


 その記憶を辿ろうとした途端、胸の奥が冷たくなった。


「……っ」


「ルシア?」


 クレイドが顔を覗き込む。


「……何でもない……」


 ルシアは小さく首を横に振った。


 けれど、クレイドの手を握る力は、無意識に強くなっていた。


 クレイドはその変化に気づいたが、何も尋ねなかった。


 ただ、握り返す手に少しだけ力を込めた。


     *


 クレイドが帰ったあと、ルシアは少し疲れたように枕へ頭を預けた。


 ゼノンが毛布を整える。


「疲れた?」


「少しだけ……」


「今日はもう、ゆっくり休もうね」


「うん……」


 ルシアは小さく頷いた。


 けれど、目を閉じようとして、ふと何かを思い出したようにゼノンを見つめた。


「……お兄様」


「なあに?」


「……ミアは……?」


 ゼノンの手が止まった。


 ルシアは不安そうに続けた。


「……今、どこにいるの……?」


 ゼノンは寝台のそばに腰を下ろした。


「学園にはいないよ」


「……え……?」


「今は、拘禁施設にいる」


 ルシアの瞳が揺れた。


「……拘禁……?」


「うん」


 ゼノンは優しく手を握った。


「君を傷つけたことについて、正式に調べられているんだ」


 ルシアは俯いた。


「……そっか……」


 しばらく、沈黙が続いた。


 ゼノンは何も言わず、ルシアの言葉を待った。


「……じゃあ……」


 ルシアは震える声で尋ねた。


「……おうちには、帰ってこない……?」


 ゼノンはその言葉に胸を締めつけられた。


 ルシアにとって、ミアはただの学友ではなかった。


 同じ家で暮らし、食事をし、何気ない毎日を一緒に過ごしてきた相手だった。


「今は帰ってこられないよ」


 ゼノンは慎重に答えた。


「拘禁施設にいる間は、外へ出ることもできない。君に近づけないようにするからね」


「……本当……?」


「うん。約束する」


 ルシアは小さく頷いた。


 けれど、その表情から不安が消えることはなかった。


 ミアが帰ってこないと分かっても、あの家には彼女と過ごした時間が残っている。


 ルシアはまだ、それを思い出すことさえ怖かった。


「……お兄様……」


「うん?」


「……ミア……どうして、あんなことしたのかな……」


 その声は、今にも泣き出しそうだった。


「……私、何か……悪いことしたのかな……」


 ゼノンの表情が変わった。


「ルシア」


「……だって……」


 ルシアの瞳から涙がこぼれた。


「……前は、あんなに仲良しだったのに……」


 ミアと過ごした日々が、頭に浮かぶ。


 昼間部で一緒に授業を受けたこと。


 くだらない話で笑い合ったこと。


 ヴァンパイアに憧れて、夜間部の生徒たちを眺めていたこと。


 同じ家へ帰り、食卓を囲んだこと。


 あの頃のミアは、確かに大切な友達だった。


「……私、ミアのこと……大好きだったのに……」


 涙が頬を伝う。


「……どうして……?」


 ゼノンはルシアの手を包み込んだ。


「君は、何も悪くないよ」


「……でも……」


「ルシア」


 ゼノンは優しく、けれどはっきりと言った。


「君が血をあげたくないと思ったことは、悪いことじゃない」


 ルシアが顔を上げる。


「嫌だって言ってよかったんだよ」


「……」


「痛いことをされたら、やめてって言っていい。怖かったら、逃げていい」


 ゼノンの声が少しだけ震えた。


「君の身体は、君のものなんだから」


 ルシアの瞳から、新しい涙が溢れた。


「……お兄様……」


「君は、十分頑張ったよ」


 ゼノンはそっと抱き寄せた。


「もう、頑張らなくていい」


 ルシアはその胸元へ顔を埋めた。


「……私……」


 声が詰まる。


「……ミアが、怖い……」


 ゼノンは目を閉じた。


「うん」


「……もう、会いたくない……」


 その言葉を聞いた瞬間、ゼノンの腕に力がこもった。


「分かった」


 ルシアが顔を上げる。


「会わなくていいよ」


「……ほんと……?」


「うん」


 ゼノンは微笑んだ。


「僕が、絶対に近づけさせない」


 ルシアは安心したように目を閉じた。


「……ありがとう……お兄様……」


 ゼノンはその髪を撫でながら、静かに答えた。


「どういたしまして」


 けれど、その赤い瞳には、冷たい決意が宿っていた。


 ルシアを二度も傷つけた少女。


 その罪を、なかったことにはしない。


 たとえルシアが優しさから許そうとしても。


 今度こそ、彼女を守る。


 そのためなら、どんな決断でも下すつもりだった。


     *


 その日の夕方。


 エリーゼが病室を訪れた。


「……ルシア!」


 扉が開いた瞬間、エリーゼの声が弾んだ。


 けれど、寝台の上のルシアを見た途端、足が止まった。


「……本当に……」


 ルシアは顔を上げた。


「……エリーゼ……」


 そして、小さく微笑んだ。


「……久しぶり……」


 エリーゼの瞳から、涙がこぼれた。


「……っ……!」


 慌てて口元を押さえる。


「……ごめんなさい……」


「……どうして謝るの……?」


「……だって……」


 エリーゼは寝台へ近づいた。


「……あなたが、もう目を覚まさないんじゃないかって……」


 声が震える。


「……本当に……怖かった……」


 ルシアはそっと手を伸ばした。


「……エリーゼ……」


 エリーゼはその手を握った。


「……おかえりなさい……ルシア……」


 ルシアは小さく頷いた。


「……ただいま……」


 エリーゼは涙を拭い、少しだけ微笑んだ。


「……あのね、ルシア」


「……なあに?」


「……あなたが目を覚ましたら、一緒に街へ行こうって……ずっと考えていたの」


 ルシアの瞳が少し明るくなった。


「……街……?」


「ええ。前に約束したでしょう?」


「……うん……」


「だから、元気になったら、必ず行きましょう」


 ルシアは小さく微笑んだ。


「……約束……」


「ええ。約束よ」


 エリーゼはその手を優しく握った。


 ゼノンは二人を見つめながら、静かに微笑んでいた。


 けれど、ルシアの表情がふと曇った。


「……エリーゼ……」


「……どうしたの?」


「……私……」


 ルシアは俯いた。


「……また、怖くなっちゃった……」


 エリーゼの表情が変わった。


「……怖い……?」


「……うん……」


 ルシアは小さく頷いた。


「……ミアのこと……思い出すと……」


 声が震える。


「……身体が、勝手に……」


 ルシアは自分の腕を抱きしめた。


「……怖くなるの……」


 エリーゼはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりとルシアの手を握り直した。


「……ルシア」


「……うん……?」


「……怖くても、いいのよ」


 ルシアが顔を上げる。


「無理に、元気になろうとしなくてもいい」


 エリーゼは優しく微笑んだ。


「あなたがまた笑えるようになるまで、私たちはずっとそばにいるわ」


 ルシアの瞳が潤んだ。


「……エリーゼ……」


「だから、今はゆっくり休んで」


 エリーゼはそっと頭を撫でた。


「あなたが帰ってきてくれただけで、私は十分嬉しいの」


 ルシアは涙を流しながら、小さく頷いた。


「……ありがとう……」


 エリーゼも微笑んだ。


「どういたしまして」


     *


 夜。


 病室には、ゼノンとルシアだけが残っていた。


 窓の外には、静かな月が浮かんでいる。


 ルシアは寝台に横になり、ゼノンの手を握っていた。


「……お兄様」


「なあに?」


「今日、みんな来てくれたね……」


「うん」


「クレイド、泣いてた……」


 ゼノンは小さく微笑んだ。


「そうだね」


「エリーゼも……」


「うん」


 ルシアは少しだけ目を伏せた。


「私、みんなに心配かけちゃった……」


「ルシア」


 ゼノンは優しく呼んだ。


「みんな、君が大好きなんだよ」


 ルシアが顔を上げる。


「だから、心配するのは当たり前なんだ」


「……」


「君だって、僕たちが怪我をしたら心配するでしょう?」


 ルシアは小さく頷いた。


「うん……」


「それと同じだよ」


 ゼノンは微笑んだ。


「だから、謝らなくていい」


 ルシアはしばらく考えていた。


 それから、小さく笑った。


「……うん……」


 ゼノンはその笑顔を見つめた。


 七日間。


 ずっと待ち続けていた笑顔だった。


 まだ弱々しく、どこか寂しげではあったけれど。


 確かに、ルシアが笑っている。


「ルシア」


「なあに?」


「おかえり」


 ルシアは少し驚いたように瞬きをした。


「朝も言ってくれたよ……?」


「何度でも言いたいんだ」


 ゼノンは微笑んだ。


「君が帰ってきてくれて、本当に嬉しいから」


 ルシアの頬が、少しだけ赤くなった。


「お兄様……」


 ゼノンはそっと額へ口づけた。


「大好きだよ、ルシア」


 ルシアは嬉しそうに目を細めた。


「私も……大好き……」


 ゼノンはその手を握り直した。


 夜は静かに更けていく。


 ルシアはまだ、事件の恐怖から抜け出せていない。


 これから先、眠れない夜もあるかもしれない。


 突然、あの日の記憶が蘇ることもあるだろう。


 それでも。


 彼女はもう、一人ではなかった。


 ゼノンがいる。


 アルベルトがいる。


 クレイドも、エリーゼもいる。


 大切な家族と友人たちが、彼女の帰りを待っていた。


 ルシアはゼノンの手を握ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。


「おやすみ……お兄様……」


「おやすみ、ルシア」


 ゼノンは優しく微笑んだ。


 その夜、ルシアは七日ぶりに、自分の意思で眠りについた。


 けれど、彼女の心に刻まれた恐怖が、本当に姿を現すのは、まだこれからだった。

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