七日間の祈り
ルシアが意識を失ってから、三日が経った。
アストリア共生学園の医療棟は、今日も静かだった。
窓には厚いカーテンが引かれ、柔らかな照明が白い寝台を照らしている。
その上で、ルシアは眠っていた。
長い黒髪が枕に広がり、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
胸元の深い傷は、純血種の再生能力によってほとんど塞がっていた。損傷していた心臓も、少しずつ本来の機能を取り戻しつつある。
けれど、失われた血液はあまりにも多かった。
ゼノンから採取した血を慎重に輸血しながら、身体の回復を待つしかない状態が続いている。
「ルシア」
ゼノンは寝台のそばに座り、少女の手を握っていた。
この三日間、彼はほとんど病室を離れていなかった。
アルベルトに休むよう言われても、首を横に振るばかりだった。
「今日はね、君が好きそうな花を持ってきたんだよ」
窓際には、小さな花瓶が置かれている。
淡い桃色の花が、静かに咲いていた。
「綺麗でしょう?」
返事はない。
「君なら、きっと喜んでくれると思ったんだけど」
ゼノンは小さく微笑んだ。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「早く、見てほしいな」
ルシアの指先をそっと撫でる。
数日前までは、こんなふうに手を握れば、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
自分の姿を見つけるだけで、赤い瞳を輝かせて駆け寄ってきた。
それが今は、名前を呼んでも、頬に触れても、何の反応もない。
「寂しいよ、ルシア」
ゼノンはその手を自分の頬へ寄せた。
あの日、ルシアは自分のためにクッキーを作ってくれると言っていた。
楽しみにしていた。
何の疑いもなく、また笑顔で会えると思っていた。
焼きたてのクッキーを持って、嬉しそうに会いに来てくれると信じていた。
だが、届いたのは、ルシアが重傷を負ったという知らせだった。
あのときの恐怖は、今でも忘れられない。
いや、恐怖は今も続いている。
こうして彼女の手を握っている間も、胸の奥から消えてくれない。
ゼノンは目を閉じた。
「もう一度、僕の名前を呼んでよ」
そのとき、病室の扉が控えめに叩かれた。
「入るぞ」
クレイドだった。
ゼノンは顔を上げた。
「クレイド」
「どうだ」
「まだ、目を覚まさない」
「……そうか」
クレイドは寝台へ近づいた。
事件のあと、何度も医療棟を訪れていた。
それでも、眠ったままのルシアを見ることには、どうしても慣れなかった。
あの日の光景が、頭から離れない。
血に染まった桜色のワンピース。
自分の腕の中で、弱々しく呼吸していたルシア。
名前を呼んでも返事がなく、頬に触れたときの、あの異様な冷たさ。
「ルシア」
クレイドは寝台の脇に立った。
「おい。いつまで寝てんだよ」
返事はない。
「もう三日だぞ」
いつもなら、軽口のひとつくらい返してくるはずだった。
『クレイド、そんな言い方しなくてもいいでしょ』
困ったように笑うルシアの顔が浮かぶ。
けれど、目の前の少女は微笑まなかった。
「なあ、ルシア」
クレイドは震える手を伸ばし、そっと頬に触れた。
「俺、ずっと考えてたんだ」
あの日。
ルシアとミアがキッチンでクッキーを作っていたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
来客に対応するため、クレイドは玄関へ向かった。
ほんの少しの間だった。
まさか、その短い時間に、あんなことが起きるなんて思いもしなかった。
「俺が、玄関に行かなきゃ……」
声が震えた。
「いや、行ったとしても、もう少し早く戻ってりゃ……」
クレイドは唇を噛みしめた。
何度も考えた。
あのとき、来客対応をもっと早く済ませていたら。
戻るのが、ほんの数分早かったら。
ルシアがあんなに血を失う前に、ミアを止められたのではないか。
「何で、気づかなかったんだよ……」
ミアは、少しずつ変わってきていた。
決められた量の血液パックで我慢し、ヴァンパイアとしての生活を学び、以前よりも落ち着いているように見えた。
クレイドも、近くでその変化を見ていた。
だから、まさか。
正気のまま、自分の意思でルシアを傷つけるなんて。
優しいルシアを、友達を、ミアが傷つけるなんて。
想像もしていなかった。
「反省してるって、思ってたんだ……」
クレイドは俯いた。
「もう、あんなことしねぇって……」
ルシアの頬から手が滑り落ちる。
「俺、ミアのこと何も分かってなかった……」
ぽたり、と。
白いシーツに涙が落ちた。
「くそっ……!」
クレイドは拳を握りしめた。
「俺が、そばにいたのに……」
声が詰まる。
「すぐ近くにいたのに……!」
幼い頃。
クレイドは、両親を失った。
目の前から、家族がいなくなった。
当たり前だった日常が、一瞬で壊れてしまった。
あの日のことは、今でも忘れられない。
どれだけ泣いても、どれだけ名前を呼んでも、もう二度と帰ってこなかった。
自分だけが取り残された。
そんなクレイドを引き取ってくれたのが、アルベルトだった。
そして、そこにはいつもルシアがいた。
最初は、どう接していいのか分からなかった。
誰かと一緒にいることが、怖かった。
また失うくらいなら、最初から大切にしなければいい。
そんなふうに思ったことさえあった。
けれど、ルシアは違った。
何度突き放しても、当たり前のように話しかけてきた。
不機嫌な顔をしていても、嫌な表情ひとつせず隣に座っていた。
笑わなくても、くだらない話をしてきた。
気がつけば、クレイドはまた笑えるようになっていた。
アルベルトの家で、ルシアと過ごす毎日。
それが、新しい家族になっていた。
「俺さ……」
クレイドの声が震えた。
「もう、家族なんていらねぇって……思ってたこともあったんだ……」
ルシアの手を握る。
「でも、お前がいたから……」
視界が滲む。
「アルがいて、お前がいて……」
唇が震えた。
「また、家族ができたって……思えたんだよ……」
涙が次々とこぼれ落ちる。
「なのに……」
クレイドは俯いた。
「また、いなくなんのかよ……?」
あの日と同じだった。
大切な人が、突然目の前からいなくなるかもしれない。
何もできず、ただ失うのを待つしかない。
あの恐怖が、再び胸を締めつけていた。
「嫌だ……」
クレイドは首を横に振った。
「もう、嫌なんだよ……!」
涙が止まらなかった。
「もう二度と、家族を失いたくねぇんだよ……!」
そのまま寝台のそばに膝をつく。
ルシアの手を両手で包み込み、額を押し当てた。
「頼む、ルシア……」
声を殺そうとしても、嗚咽が漏れる。
「帰ってきてくれ……!」
震える声が、静かな病室に響いた。
「次は、絶対に守るから……!」
クレイドは強く目を閉じた。
「もう、絶対に一人にしねぇから……!」
涙がシーツに落ちる。
「お前は……」
声が詰まった。
「俺にとって、大事な幼馴染で……家族なんだよ……!」
クレイドはとうとう、声を上げて泣いた。
「だから……頼む……!」
ゼノンは黙って、その姿を見つめていた。
クレイドが、こんなふうに感情をあらわにして泣くところを見たことがなかった。
いつも口が悪く、素直ではなく、意地を張って。
自分とは顔を合わせるたびに言い合いになる少年。
けれど、ルシアを大切に思う気持ちだけは、痛いほど伝わってきた。
「ゼノン……」
しばらくして、クレイドが顔を上げた。
涙で赤くなった目が、ゼノンを見つめる。
「こいつ……」
声が震える。
「こいつ、起きるよな……?」
ゼノンは息を呑んだ。
「なあ……」
クレイドは縋るように続けた。
「起きるって、言ってくれよ……」
ゼノンはルシアへ視線を向けた。
小さな胸が、ゆっくりと上下している。
鼓動は続いている。
それでも、いつ目覚めるのかは分からない。
目を覚ましたとき、自分たちを覚えているのだろうか。
あまりにも深い傷を負った彼女が、以前と同じように笑えるのだろうか。
もし、記憶に何か影響が残っていたら。
もし、あの恐怖によって、心まで変わってしまっていたら。
考えたくもない可能性が、次々と頭に浮かんでくる。
アルベルトでさえ、何も断言できなかった。
ただ、今は生きている。
「僕も……」
ゼノンは静かに口を開いた。
「僕も、そう信じてる」
「信じてる、じゃなくて……」
クレイドの顔が歪んだ。
「大丈夫だって、言ってくれよ……」
ゼノンは何も答えられなかった。
自分だって、その言葉を誰かに言ってほしかった。
必ず目を覚ます。
何も失われていない。
また、以前と同じ日々が戻ってくる。
そう言い切ってほしかった。
けれど、誰にも未来は分からない。
「くそっ……」
クレイドは俯いた。
そのままルシアの手に額を押し当てる。
「頼む、ルシア……」
声を殺そうとしても、嗚咽が漏れた。
「俺を、置いてくなよ……」
ゼノンは静かに寝台の反対側へ回った。
ルシアの髪を優しく撫でる。
「クレイド」
その声も、かすかに震えていた。
「ルシアは、きっと戻ってくるよ」
クレイドが顔を上げる。
「僕たちを、こんなに心配させたままにはしない」
ゼノンは眠るルシアを見つめた。
「だから、一緒に待とう」
クレイドは何度も頷いた。
涙を拭いながら、ルシアの手を握り続けた。
ゼノンも、その場を離れなかった。
二人の願いは、ただひとつだった。
もう一度、ルシアの笑顔が見たい。
もう一度、あの声で名前を呼んでほしい。
*
四日目。
病室を訪れたのは、エリーゼだった。
いつも綺麗に整えられている紺色の髪は、今日も変わらず美しく結われていた。
けれど、その表情には疲れが滲んでいる。
「ゼノンさん」
「エリーゼ」
「ルシアの容体は、いかがですか?」
「昨日と大きくは変わらないよ」
「そう、ですか……」
エリーゼは小さく頷いた。
手には、花束を抱えていた。
白と淡い紫の花を束ねた、上品な花束だった。
「これ、ルシアに」
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
ゼノンが受け取ろうとすると、エリーゼは首を横に振った。
「私が、飾ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
エリーゼは窓際へ歩み寄り、空いている花瓶に花を生けた。
一本ずつ丁寧に整える。
その仕草は、いつもと変わらず落ち着いていた。
けれど、最後の一本を挿そうとしたとき、指先が震えた。
「あっ……」
花が病室の床に落ちた。
エリーゼは慌てて拾い上げた。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ」
ゼノンは静かに答えた。
エリーゼは花を飾り終えると、寝台へ近づいた。
「ルシア……」
眠る親友を見下ろす。
顔色は少し戻っていた。
それでも、いつも元気に笑っている彼女とは、あまりにも違っていた。
「私、怒っているのよ」
エリーゼは小さく呟いた。
「あなたに、じゃないわ」
そっとルシアの手を取る。
「もっと早く、気づいていればよかった……」
ミアがルシアに向けていた、異常な執着。
血への欲求。
そして、以前にもルシアを襲ったという事実。
危険だと分かっていたはずだった。
それなのに。
「私が、もっとそばにいれば……」
エリーゼの瞳が潤んだ。
「あなたを、一人にしなければ……」
「エリーゼ」
ゼノンが静かに呼んだ。
「君のせいじゃないよ」
「でも……」
「君は、ずっとルシアのことを守ってくれていた」
エリーゼは俯いた。
「守れていません」
その声は、かすかに震えていた。
「私は、ルシアを守るために……」
言葉が途切れる。
エリーゼは唇を噛みしめた。
グランヴェール家は、代々ヴァルディエ王家に仕えてきた。
アルベルトがアルフォンスとロザリアを支えていたように。
自分も、ルシアとゼノンを支えるのだと決めていた。
けれど、それは単なる家の務めではなかった。
十一年前。
ヴァルディエ王家が襲撃され、まだ幼かったルシアが純血種としての力と記憶を封じられた頃。
ゼノンは、エリーゼに一つの願いを託した。
『エリーゼ。これからは、ルシアを守ってくれないか?』
あのときのゼノンの顔を、今でも覚えている。
いつも落ち着いている彼が、ひどく疲れた表情をしていた。
『僕は、あの子のそばにずっといることができない』
ゼノンは静かに続けた。
『でも、ルシアには普通の女の子として生きてほしいんだ。何も知らずに、友達と笑って、学園に通って……』
その赤い瞳が、エリーゼを見つめた。
『だから、お願い。君がそばにいてあげてほしい』
エリーゼは迷わず頷いた。
『承知しました、ゼノンさん』
けれど、問題が一つあった。
エリーゼは生まれながらのヴァンパイアであり、当時すでにルシアよりも成長した外見をしていた。
人間として暮らすルシアのそばで、同年代の友人として過ごすには、その姿を変える必要があった。
そこでエリーゼは、王家と縁のある異能者に協力を求めた。
その人物が持っていたのは、他者の身体年齢を変化させる異能だった。
エリーゼはその力によって、ルシアと同い年に見える姿へと変えてもらった。
こうして、彼女はルシアの前に現れた。
最初は、守るためだった。
ゼノンとの約束を果たすため。
王家の大切な姫君を、危険から遠ざけるため。
ルシアが気づかないところで様子を見守り、離れて過ごす時間には、姿を隠して後を追ったこともあった。
けれど、ルシアは何も知らなかった。
エリーゼが自分を守る役目を負っていることも。
目の前の友人が、実際には自分よりずっと長く生きていることも。
そんなルシアは、いつも無邪気に笑っていた。
『エリーゼ! 今日は一緒に帰ろう!』
『ねえ、これ見て! 可愛いでしょう?』
『エリーゼは、どんなお菓子が好き?』
初めは、少し戸惑った。
守るべき相手に、こんなにも気安く接していいのだろうか。
けれど、ルシアはそんな迷いなど知らず、当たり前のように手を引いてきた。
ある日、エリーゼが小さな失敗をして落ち込んでいたときのこと。
『エリーゼ、どうしたの?』
『何でもありません』
『本当に?』
『ええ。大丈夫ですよ』
そう答えたのに、ルシアは隣から離れなかった。
『じゃあ、元気になるまで一緒にいるね!』
そう言って、にっこり笑った。
そのとき、エリーゼは気づいた。
自分はもう、命令されたからこの少女のそばにいるのではない。
ルシアと一緒に笑う時間が、楽しかった。
ルシアが悲しめば、自分も悲しかった。
彼女の笑顔を見ると、自然と嬉しくなった。
いつの間にか、守るべき姫君は、かけがえのない親友になっていた。
「ゼノンさん……」
エリーゼは顔を上げた。
「覚えていらっしゃいますか? 私に、ルシアを守ってほしいと頼まれた日のことを」
ゼノンは静かに頷いた。
「もちろん、覚えているよ」
「私は、あの日からずっと、ルシアのそばにいました」
「うん」
「姿を変えて、同じ年頃の友人として接して……あの子が知らないところでも、できる限り見守ってきたつもりでした」
エリーゼはルシアの手を見つめた。
「最初は、あなたとの約束を守るためだったんです」
小さく息を吸う。
「でも、いつの間にか……そんな理由なんて、どうでもよくなっていました」
涙が頬を伝った。
「ルシアは、私の大切な友達なんです」
ゼノンは何も言わず、続きを待った。
「あの子、いつも私に笑いかけてくれるんです」
エリーゼはぽつりと言った。
「何でもないことを楽しそうに話して、私が少しでも元気がないと、すぐに気づいて……」
ルシアの手を握る力が強くなる。
「今度、一緒に街へ行こうって、約束したんです……」
声が震えた。
「まだ、行けていないのに……!」
エリーゼは俯いた。
「こんなことになるなら、もっと早く連れていってあげればよかった……」
ゼノンはそっと彼女の肩に手を置いた。
「エリーゼ」
「私は、ずっとそばにいたのに……!」
抑えていた涙が、次々とこぼれ落ちる。
「ルシアがあんなに怖い思いをしているとき、何もできなかった……!」
「君のせいじゃないよ」
「でも、私は……!」
「エリーゼ」
ゼノンは静かに、けれどはっきりと言った。
「僕は、君にルシアを守ってほしいと頼んだ。でも、君一人ですべての危険を防げるなんて、思っていないよ」
エリーゼは涙に濡れた瞳を上げた。
「君がいてくれたから、ルシアはたくさん笑えたんだ」
「ゼノンさん……」
「君と過ごした時間は、あの子にとって本当に幸せなものだったと思う」
エリーゼは唇を噛みしめた。
「だから、お願い。自分を責めるより、あの子が目を覚ましたときに、いつものように笑いかけてあげて」
その言葉に、エリーゼの表情が崩れた。
「ルシア……」
そっと額を寄せる。
「お願い……もう一度、私とお話しして……」
しばらく、病室にはエリーゼの小さな嗚咽だけが響いていた。
やがて、彼女は涙を拭った。
「すみません、ゼノンさん」
「謝らなくていいよ」
「こんなところを見せるつもりでは……」
「僕も、何度も泣いたよ」
エリーゼが顔を上げた。
ゼノンはルシアを見つめたまま、小さく微笑んだ。
「だから、君が泣くのも分かる」
エリーゼは再び目を伏せた。
「ルシアが目を覚ましたら」
ゼノンが続ける。
「また、一緒に街へ行ってあげて」
「はい」
「きっと、大好きな君と出かけるのを、すごく喜ぶから」
「はい……!」
エリーゼは涙を拭いながら頷いた。
そして、ルシアの手をもう一度握った。
「約束よ、ルシア」
小さく微笑む。
「目が覚めたら、今度こそ一緒にお出かけしましょうね」
*
その日の夜。
病室の扉が静かに開いた。
「ゼノン」
アルベルトだった。
ゼノンは寝台のそばから顔を上げた。
「アル」
「少し、話せるか」
「ルシアのこと?」
「ああ」
ゼノンはルシアの手をそっと寝台へ戻した。
毛布を整え、立ち上がる。
「すぐ戻るからね」
眠る少女へ囁き、アルベルトとともに廊下へ出た。
医療棟の廊下は、夜になると一層静かだった。
アルベルトは窓際に立ち、深く息を吐いた。
「検査の結果が出た」
ゼノンの表情が引き締まる。
「どうだった?」
「心臓の損傷は、ほぼ修復されてる。再生能力も正常に働いてるし、輸血による拒否反応も今のところ見られねぇ」
「じゃあ……」
「ああ。身体は確実に回復してる」
ゼノンの肩から、わずかに力が抜けた。
けれど、アルベルトの表情は晴れなかった。
「ただ、意識が戻らない理由が分からねぇ」
「……」
「これだけの血を失ったんだ。身体が回復するために、長い休眠状態に入ってる可能性はある」
アルベルトは言葉を区切った。
「だが、それだけとは限らねぇ」
「どういうこと?」
「精神的な負担だ」
ゼノンの瞳が揺れた。
「ミアに襲われたこと?」
「ああ」
アルベルトは頷いた。
「ルシアは、あいつを友達だと思ってた。前にも襲われて、それでも信じようとしてただろ?」
「うん」
「その相手に、また命を奪われかけた」
アルベルトは苦しげに眉を寄せた。
「身体が治っても、心まで簡単に元通りになるとは思えねぇ」
ゼノンは黙り込んだ。
あの日。
ルシアは最後に、自分の名前を呼んだという。
どれほど怖かったのだろう。
どれほど痛かったのだろう。
どれほど、助けを求めていたのだろう。
「アル」
「ん?」
「僕は、間違ってたのかな」
アルベルトは顔を上げた。
「何がだ」
「ルシアがミアを信じたいって言ったとき、僕は反対した」
ゼノンは俯いた。
「でも、最後には許してしまった」
「……」
「あの子が悲しむのを見たくなかったんだ」
声が震える。
「僕が嫌われても、無理やり引き離すべきだったのに……」
アルベルトはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「俺も同じだ」
ゼノンが顔を上げた。
「俺は、ミアを信じようとした」
アルベルトは拳を握りしめた。
「人間からヴァンパイアになって、何もかも変わっちまったあいつを、どうにか支えてやりたかった」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
「時間をかければ、きっと分かってくれると思ってた」
「アル……」
「だが、結果はこれだ」
アルベルトは目を閉じた。
「俺がルシアを、死なせかけた」
長い沈黙が落ちた。
ゼノンは窓の外へ視線を向けた。
月が、静かに浮かんでいる。
「僕ね」
ゼノンは小さく呟いた。
「ルシアが目を覚ましたら、何て言えばいいのか分からないんだ」
アルベルトは黙って聞いていた。
「謝りたい。でも、謝ったところで、あの子が受けた痛みは消えない」
ゼノンの手が震えた。
「それに、怖いんだ」
「何がだ」
「目を覚ましても、僕のことを呼んでくれなかったらどうしようって」
アルベルトの表情が変わった。
「ゼノン」
「もし、僕のことを忘れていたら……」
ゼノンは唇を噛みしめた。
「もし、僕の顔を見ても、何も思い出せなかったら……」
「……」
「それでも、僕はあの子のそばにいたい」
ゼノンの赤い瞳が揺れた。
「何度でも名前を教えるし、何度でも僕たちのことを話す。あの子が僕を知らないと言うなら、もう一度、僕を知ってもらえばいい」
声がかすかに震える。
「でも、本当は怖いんだよ」
ゼノンは俯いた。
「僕たちが過ごした時間を、あの子が全部忘れてしまっていたらと思うと……」
アルベルトは静かにゼノンの肩へ手を置いた。
「まだ、そうなると決まったわけじゃねぇ」
「分かってる」
「ルシアが目を覚まして、どんな状態なのか確かめるまでは、誰にも分からねぇんだ」
ゼノンは小さく頷いた。
「うん……」
「それに、お前は十分やってる」
「でも……」
「ルシアが今、生きてるのは、お前が血を分けてくれたからでもある。お前の血を入れ始めて、身体の回復は早まった」
ゼノンは俯いた。
「それでも、僕は……」
「ゼノン」
アルベルトは少しだけ強い声で呼んだ。
「あいつが目を覚ましたら、まず名前を呼んでやれ」
ゼノンが顔を上げる。
「ちゃんと顔を見せて、そばにいるって伝えてやれ。抱きしめるのは、あいつが望んだらでいい」
「……」
「難しいことを考えるのは、そのあとだ」
アルベルトは静かに続けた。
「ルシアは、ずっとお前に会いたがってたんだろ」
ゼノンの瞳が揺れた。
「だったら、目を覚ましたときに、お前がそばにいてやれ」
アルベルトは少し笑った。
「きっと、安心するはずだ」
ゼノンはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「うん」
アルベルトはその頭を、幼い頃と同じように軽く撫でた。
「お前も少し休め」
「ルシアのそばで休むよ」
「ったく」
アルベルトは苦笑した。
「昔から、あいつのことになると頑固だな」
「アルに似たんじゃない?」
「どっちかと言うと、お前の父親、アルフォンスの方のアルだな」
二人は小さく笑った。
けれど、その笑みの奥には、まだ消えない不安が残っていた。
*
五日目。
六日目。
ルシアは、まだ目を覚まさなかった。
それでも、身体は少しずつ回復していた。
青白かった頬には、わずかに色が戻り始めている。
呼吸も安定し、心臓の鼓動も力強くなってきた。
アルベルトは毎日、何度も病室を訪れた。
クレイドも、授業が終わるたびに顔を出した。
エリーゼは新しい花を持ってきたり、ルシアが目を覚ましたときに退屈しないよう、本を置いていったりした。
セドリックも時折訪れ、ゼノンに休むよう声をかけた。
けれど、ゼノンはほとんど病室を離れなかった。
ルシアの髪を梳かし、手を握り、毎日話しかけた。
今日の学園のこと。
エリーゼが持ってきた花のこと。
クレイドが相変わらず素直じゃないこと。
ルシアが好きな街の菓子店のこと。
そして、目を覚ましたら一緒にしたいこと。
「ねえ、ルシア」
六日目の夜。
ゼノンは寝台のそばで、小さく囁いた。
「君が起きたら、どこへ行こうか」
返事はない。
「街でもいいし、庭園でもいい」
そっと手を握る。
「君が行きたいところなら、どこでも連れていくよ」
ゼノンは微笑んだ。
「だから、早く教えてね」
その声は、静かな病室に消えていった。
*
七日目。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ゼノンはいつものように、ルシアの寝台のそばに座っていた。
手には、小さな本を持っている。
ルシアが以前、続きを読みたいと言っていた物語だった。
「それでね」
ゼノンは本を閉じた。
「主人公は、ようやく探していた人に会えたんだ」
眠るルシアへ微笑みかける。
「よかったね」
返事はない。
「でも、ただ会うだけじゃ足りないな」
ゼノンはルシアの手を握った。
「僕も、こうして君のそばにいるけど……やっぱり、君と話したいよ」
小さく息を吐く。
「ねえ、ルシア。もし君が僕を覚えていなくても、僕は君を覚えているからね」
その指先を撫でる。
「何度でも、君に僕のことを知ってもらうよ」
ゼノンは窓の外へ視線を向けた。
「今日は、いい天気だよ」
青い空が広がっている。
「君が起きたら、一緒に庭園を散歩しようか」
ゼノンは静かに微笑んだ。
「ああ、でも、まだ無理はさせられないね」
少し考える。
「じゃあ、僕が抱っこして連れていこうかな」
いつもなら、ルシアはきっと頬を赤くして抗議するだろう。
『もう、お兄様! 自分で歩けるよ!』
そんな姿を想像して、ゼノンは小さく笑った。
「嫌だって言われても、しばらくは僕が運んであげるからね」
そのときだった。
握っていた手が、ほんのわずかに動いた。
「……?」
ゼノンは言葉を止めた。
ルシアの指先が、かすかに震えている。
「ルシア?」
そっと顔を覗き込む。
閉じられていた瞼が、小さく動いた。
ゼノンの心臓が大きく跳ねた。
「ルシア……?」
もう一度、名前を呼ぶ。
少女の眉が、わずかに寄った。
長い睫毛が震える。
ゆっくりと、赤い瞳が開いた。
「……ぁ……」
かすかな声が漏れた。
ゼノンは息を呑んだ。
「ルシア……!」
七日間。
ずっと待ち続けていた瞳が、今、自分を見つめている。
「よかった……!」
ゼノンの声が震えた。
「ルシア、目が覚めたんだね……!」
少女はぼんやりと天井を見つめていた。
何度か瞬きをする。
「……ここ……」
掠れた声だった。
「どこ……?」
「医療棟だよ」
ゼノンは優しく答えた。
「大丈夫。僕がいるよ」
ルシアの瞳が、ゆっくりと動いた。
ゼノンの顔を捉える。
「お……にい……さま……?」
「うん……!」
何度も頷き、ゼノンは微笑んだ。
瞳から涙が溢れ、こぼれ落ちる。
「そうだよ。お兄様だよ」
ルシアはしばらく、ぼんやりとゼノンを見つめていた。
けれど、次の瞬間。
「……っ!」
その表情が、突然変わった。
赤い瞳が大きく見開かれる。
呼吸が乱れた。
「や……」
「ルシア?」
「いや……っ」
ルシアは震える手で、自分の胸元に触れた。
傷は塞がっている。
けれど、あの痛みが鮮明に蘇った。
何度も身体を貫いた刃。
首筋に食い込んだ牙。
身体から血が抜けていく感覚。
何度も、やめてと叫んだ。
痛いと訴えた。
それなのに、ミアは笑っていた。
『ルシアの血、本当においしい!』
『もう少しだけ、ちょうだい?』
あの声が、耳の奥で響いた。
「いやぁっ!!」
ルシアが悲鳴を上げた。
「ルシア!?」
ゼノンが身を乗り出す。
けれど、ルシアはその手を振り払った。
「やめて!!」
寝台の上で身体を起こそうとする。
しかし、まだ回復しきっていない身体は、思うように動かなかった。
「いや……来ないで……!」
ルシアの瞳から涙が溢れた。
「もう……血、あげられない……!」
ゼノンの表情が凍りついた。
「ルシア……」
「お願い……!」
ルシアは必死に上半身を起こした。
逃げようとした腕が、点滴の管に引っかかる。
次の瞬間、腕に刺さっていた針が抜け、シーツに小さな血の染みが広がった。
「痛いの……もう、嫌……!」
呼吸が速くなる。
肩が激しく上下する。
目の前にいるのがゼノンだということさえ、分からなくなっているようだった。
「助けて……!」
震える声。
「お兄様……!」
ゼノンの胸が締めつけられた。
自分の名前を呼んでいる。
けれど、目の前にいる自分を認識できないほど、彼女はあの日の恐怖に囚われていた。
「ルシア」
できる限り、優しい声で呼びかける。
「僕だよ」
けれど、ルシアは首を横に振った。
「いや……っ」
「ルシア、聞いて」
ゼノンは無理に触れようとはしなかった。
寝台のそばに膝をつき、ルシアと目線を合わせる。
「もう、あの場所じゃないよ」
ルシアの呼吸は乱れたままだった。
「ここは学園の医療棟。君は助かったんだ」
ゼノンは静かに続けた。
「ミアは、ここにはいない」
その名前を聞いた瞬間、ルシアの身体がびくりと震えた。
「……っ!」
「大丈夫。あの子は、君に近づけない場所にいるよ」
「ほん……と……?」
かすかな声だった。
「うん。本当だよ」
ゼノンはゆっくりと手を差し出した。
「僕を見て、ルシア」
少女の瞳が揺れる。
「僕は、ゼノンだよ」
「ぜ……のん……」
「そう。君のお兄様」
ゼノンは微笑もうとした。
「君を傷つけたりしない」
ルシアは震えながら、ゼノンを見つめた。
黒い髪。
赤い瞳。
優しい声。
大好きな兄。
「お兄……様……?」
「うん」
ゼノンの瞳に涙が浮かんだ。
「ここにいるよ」
ルシアの唇が震えた。
「私……」
声が詰まる。
「怖かったの……」
その言葉を聞いた瞬間、ゼノンの表情が崩れた。
「うん……」
「すごく……痛くて……」
「うん」
「やめてって……言ったのに……」
ルシアの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「何回も……言ったのに……!」
ゼノンは唇を噛みしめた。
胸の奥で、怒りと悲しみが入り混じる。
けれど、今はルシアを安心させることだけを考えた。
「もう、あの子はここにいないよ」
そっと手を伸ばす。
「触っても、いい?」
ルシアは涙を流しながら、小さく頷いた。
ゼノンはゆっくりと、その身体を抱き寄せた。
「……っ!」
一瞬、ルシアの身体が強張った。
けれど、すぐにゼノンの服を掴んだ。
「お兄様……っ!」
そのまま、胸元へ顔を埋める。
「怖かった……!」
「うん……」
「死んじゃうかと……思った……!」
ゼノンの腕に力がこもった。
「ごめんね……」
声が震える。
「もう、お兄様にも……みんなにも会えないと思った……!」
「守れなくて、ごめん……」
「お兄様……」
「もう、あんな思いをさせたくない」
ゼノンはルシアの髪を優しく撫でた。
「僕が、ずっとそばにいるからね」
ルシアは声を上げて泣いた。
七日間、眠り続けていた少女。
ようやく目を覚ましたその瞳には、まだ深い恐怖が残っていた。
けれど、ゼノンの腕の中で、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
「お兄様……」
「なあに?」
「離れないで……一緒にいて……?」
ゼノンの瞳から、涙がこぼれた。
「離れないよ」
ルシアの額へ、そっと唇を寄せる。
「君が安心できるまで、ずっと一緒にいる」
そのとき、病室の扉が開いた。
「ゼノン?」
アルベルトだった。
何かを言いかけた彼は、寝台の上の光景を見て足を止めた。
ゼノンの腕の中で泣いているルシア。
開かれた赤い瞳。
「ルシア……?」
アルベルトの声が震えた。
ルシアがゆっくりと顔を上げる。
「アル……?」
その瞬間、アルベルトの表情がくしゃりと歪んだ。
「……っ」
駆け寄ろうとして、足を止める。
ルシアが怯えないように。
ゼノンが小さく頷いた。
「目が覚めたんだ」
アルベルトは何度も頷いた。
「ああ……」
声が掠れる。
「よかった……!」
けれど、彼はすぐに、シーツについた血と外れた点滴に気づいた。
「ゼノン、ルシアを支えててくれ。医療担当を呼ぶ」
ゼノンが頷くと、アルベルトは扉の外へ声をかけた。
ほどなくして医療担当者が駆けつけた。
ルシアは知らない人物が近づいてくるのを見て、びくりと身体を震わせた。
「……いや……」
「大丈夫だよ、ルシア」
ゼノンが優しく声をかける。
「腕のところを診てもらうだけ。僕もアルも、ここにいるからね」
医療担当者も足を止めた。
「ルシア様。腕から少し出血しています。確認してもよろしいですか?」
ルシアはゼノンの服を握りしめたまま、ためらいがちに頷いた。
処置は短時間で終わった。
外れた点滴の部分を手当てし、身体の状態を確認する。
アルベルトは医療担当者と小声で話したあと、寝台のそばへ戻ってきた。
「ルシア」
大きな手を差し出す。
「俺のこと、分かるか?」
ルシアは涙に濡れた顔を上げた。
「……アル」
「おう」
アルベルトは笑おうとした。
けれど、上手く笑えなかった。
「ここにいるぞ」
ルシアは震える手を伸ばした。
アルベルトがその手を握る。
「ごめん……なさい……」
その言葉に、アルベルトの表情が変わった。
「何で謝るんだ」
「私……また……」
ルシアは俯いた。
「心配、かけちゃった……よね……?」
アルベルトは息を呑んだ。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「馬鹿野郎……」
声が震える。
「そんなこと、どうでもいいんだよ……」
大きな手が、ルシアの頭を優しく撫でた。
「生きててくれりゃ、それでいい……」
アルベルトの頬を、一筋の涙が伝った。
「本当に、よかった……」
ルシアの瞳から、また涙がこぼれた。
「アル……」
「おう」
「私……帰ってきたよ……」
アルベルトは唇を噛みしめた。
それから、何度も頷いた。
「ああ。ちゃんと帰ってきたな」
ルシアの手を包み込む。
「おかえり、ルシア」
ゼノンも、ルシアを支えながら目を閉じた。
七日間。
長い、長い七日間だった。
けれど、ようやく愛しい少女が帰ってきた。
その身体には、まだ傷が残っている。
心にも、簡単には消えない恐怖が刻まれている。
それでも、もう一度名前を呼んでくれた。
もう一度、その瞳で見つめてくれた。
ゼノンはルシアの髪へ頬を寄せ、小さく囁いた。
「おかえり、ルシア」
ルシアは涙を流しながら、ゼノンの服を握りしめた。
「ただいま……お兄様……」
窓の外では、柔らかな朝の光が庭園を照らしていた。
七日間止まっていた時間が、ようやく動き始めた。




