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失われかけた命



「ルシア、頼む……!」


 クレイドは腕の中の少女を抱きしめた。


 返事はない。


 いつもなら名前を呼ぶだけで振り返り、柔らかく微笑んでくれる幼馴染。


 幼い頃から、何度も自分の隣で笑っていた少女。


 そのルシアが、今は目を閉じたまま動かない。


「おい、起きろよ……」


 震える指で頬に触れる。


 冷たい。


 ヴァンパイアの身体は人間ほど温かくない。それでも、今のルシアの冷たさは明らかに異常だった。


『クレイド! 聞こえるか!』


 床に置いた小型通信機から、アルベルトの声が響いた。


「ああ……聞こえてる」


『ルシアの呼吸は!?』


「してる……けど、すげぇ弱い……!」


『傷はどうなってる!?』


 クレイドはルシアの身体を見下ろした。


 淡い桜色だったワンピースは、すっかり赤く染まっている。


 首元にも、腕にも、胸にも、いくつもの傷があった。


 純血種の再生能力によって、浅い傷は少しずつ塞がり始めている。


 けれど、胸元の深い傷だけは違った。


 そこからは、まだ血が滲み続けている。


「傷は、塞がりかけてる……でも……」


 クレイドの声が震えた。


「胸の傷が……全然、塞がんねぇ……!」


『胸だと?』


「ああ……深く刺されてる……」


 通信機の向こうで、アルベルトが息を呑む気配がした。


『クレイド、よく聞け。ルシアを無理に動かすな。今、救護班も向かわせてる』


「分かった……」


『俺もすぐ着く。絶対に一人にするな』


「ああ……!」


『それと、ミアは?』


 クレイドの表情が変わった。


 ゆっくりと顔を上げる。


 少し離れた場所で、ミアが床に座っていた。


 手には、花の形をしたクッキー。


 彼女はそれを少しずつ食べながら、こちらを見つめている。


「いる」


『近づけるな。絶対にだ』


「分かってる」


 クレイドは低く答えた。


 その声に、ミアが顔を上げた。


「ねえ、クレイド」


「黙ってろ」


「え?」


「今は、喋んな」


 ミアは不満そうに眉を寄せた。


「なんでそんなに怒ってるの?」


 クレイドは答えなかった。


「私、ルシアのこと嫌いになったわけじゃないよ?」


「……」


「むしろ、前よりもっと大好きになったの!」


 ミアは嬉しそうに微笑んだ。


「ルシアの血って、本当にすごいんだよ。胸の中があったかくなって、幸せでいっぱいになるの!」


「黙れ……」


「クレイドにも分けてあげたいくらい!」


「――黙れって言ってんだろ!!」


 怒鳴り声が響いた。


 ミアがびくりと肩を震わせる。


「な、何よ……」


 その瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。


「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃん……」


 クレイドは歯を食いしばった。


 怒りに任せて飛びかかりたかった。


 ルシアをこんな目に遭わせた相手が、何事もなかったように笑っている。


 それが許せなかった。


 けれど、今は。


 今だけは。


 ルシアのそばを離れるわけにはいかなかった。


「ルシア……」


 クレイドはもう一度、その小さな手を握った。


「頼むから……生きててくれ……!」


 その手は、握り返してくれなかった。


     *


 玄関の扉が勢いよく開いた。


「――ルシア!!」


 アルベルトだった。


 普段は余裕を崩さない学園長が、息を切らして駆け込んでくる。


 その後ろには、救護班の職員が二人続いていた。


「クレイド! どこだ!」


「台所!!」


 アルベルトは駆け込んだ瞬間、足を止めた。


 床に広がる血。


 割れた皿。


 散らばったクッキー。


 そして、クレイドの腕の中で動かないルシア。


「……っ!」


 一瞬、言葉を失った。


 けれど次の瞬間には、ルシアの傍らへ膝をついていた。


「ルシア! 聞こえるか!」


 頬に触れ、呼吸を確かめる。


 首元の傷を確認し、瞳の反応を見る。


 そして、胸元へ視線を落とした瞬間。


 アルベルトの表情が凍りついた。


「おい……」


 胸の傷は深かった。


 純血種の再生能力が働いているにもかかわらず、傷口は完全には塞がっていない。


 アルベルトは慎重に傷の状態を確認した。


 その位置。


 深さ。


 そして、ルシアの弱々しい鼓動。


「まさか……」


 アルベルトの顔から血の気が引いた。


「心臓まで……?」


「アル……?」


 クレイドが震える声で呼んだ。


「な、何だよ……?」


 アルベルトは答えなかった。


 救護班へ鋭く指示を飛ばす。


「緊急搬送だ! 心臓損傷の疑いがある! 医療棟に連絡しろ!」


「はい!」


「純血種用の血液製剤を可能な限り確保しろ! 輸血の準備も急げ!」


 職員たちが慌ただしく動き始めた。


 クレイドはアルベルトを見つめた。


「心臓……?」


 その言葉の意味を理解した瞬間、全身が冷たくなった。


 ヴァンパイアにとって、心臓は命そのものに関わる急所だ。


 純血種であっても、心臓を完全に破壊されれば命を落とす。


「嘘だろ……」


 クレイドの唇が震えた。


「アル……ルシアは……」


 アルベルトはルシアの顔を見下ろした。


 傷は再生しようとしている。


 鼓動も、かろうじて続いている。


 心臓が完全に破壊されたわけではない。


 だが、刃が心臓にまで達している可能性は高かった。


 そのうえ、身体からは大量の血液が失われている。


 再生能力が働いていることだけが、かろうじて彼女の命を繋ぎ止めていた。


「絶対に死なせねぇ」


 アルベルトは低く言った。


「俺が助ける」


 その言葉に、クレイドの目から涙がこぼれた。


「頼む……頼む、アル……!」


「ああ」


 アルベルトは救護班とともに、ルシアを慎重に搬送用の寝台へ移した。


「任せろ」


 そのときだった。


「アル!」


 明るい声が響いた。


 ミアだった。


「ルシア、どこに連れてくの?」


 アルベルトの足が止まった。


「ミア……」


「ねえ、私も一緒に行っていい?」


 ミアはにこにこしていた。


「ルシアが起きたら、さっきのクッキー食べてもらいたいの!」


 アルベルトはゆっくりと振り返った。


 その視線が、ミアの口元に向けられる。


 乾き始めた血の跡。


 服にも、手にも、ルシアの血がついていた。


「お前がやったのか」


 低い声だった。


 ミアはきょとんとした。


「え?」


「ルシアを、こんな目に遭わせたのはお前か」


「うん?」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「だって、血を分けてくれなかったんだもん」


 アルベルトの表情が凍りついた。


「何だと……?」


「ちゃんとお願いしたんだよ? でもルシアが嫌だって言うから……」


 ミアは少し困ったように笑った。


「だから、自分で血を貰うしかなかったの」


 沈黙が落ちた。


 アルベルトは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、救護班の職員へ向き直った。


「先に運べ。俺もすぐ行く」


「はい!」


 職員たちはルシアを慎重に運び出した。


 クレイドもそのそばについていこうとする。


「クレイド」


 アルベルトが呼び止めた。


「何だよ」


「ミアをここから出すな。今、学園の警備を呼ぶ」


 クレイドは一瞬だけミアを見た。


「……分かった」


 アルベルトはミアへ向き直った。


「ミア」


「なあに?」


「お前、ルシアが嫌がったのは分かってたんだな?」


「うん」


「痛がってたのも?」


「うん。でも、ルシアが暴れるから――」


「やめろ」


 アルベルトの声が震えた。


 ミアが口を閉じる。


「それ以上、喋るな」


「アル……?」


「俺は、お前を信じようとした」


 アルベルトは拳を握りしめた。


「人間からヴァンパイアになって、何もかも変わっちまって……苦しいだろうと思った。怖いだろうと思った。だから、時間をかけて教えていけば、きっと分かってくれると思ってた」


 ミアは黙って聞いていた。


「でも、お前は……」


 アルベルトは言葉を詰まらせた。


 怒りよりも先に、深い後悔が押し寄せていた。


 ゼノンは警告していた。


 何度も。


 それなのに、自分は。


「俺が、間違ってた……」


 アルベルトは顔を伏せた。


「アル?」


「お前は、もうルシアのそばにはいられねぇ」


 その言葉に、ミアは目を見開いた。


「え?」


 アルベルトは答えず、玄関へ向かった。


「ちょっと待ってよ!」


 ミアが声を上げる。


「なんで!? 私もルシアのところ行きたい!」


 アルベルトは振り返らなかった。


「駄目だ」


「どうして!」


「お前が、ルシアを殺しかけたからだ」


 その言葉に、ミアは息を呑んだ。


「ころ……?」


 アルベルトはそれ以上答えず、家を出ていった。


 残されたミアは、しばらく呆然としていた。


 それから、クレイドへ顔を向ける。


「ねえ」


「……」


「アル、何言ってるの?」


 クレイドは冷たい目でミアを見つめた。


「そのままの意味だ」


「でも、私たち友達だよ?」


「……」


「ルシアだって、私のこと大好きって言ってくれたもん!」


 ミアの声が震え始めた。


「ねえ、クレイド……?」


 クレイドは答えなかった。


 その沈黙が、ミアには何よりも不満だった。


 ほどなくして、警備員たちが到着した。


 ミアは連れていかれる直前まで、同じことを繰り返していた。


「ねえ、どうして? ルシアに会わせてよ!」


 クレイドは最後まで、彼女を見ようとしなかった。


     *


 学園の医療棟。


 緊急処置室の扉が閉まった。


 廊下には、慌ただしい足音が響いている。


 クレイドは壁に背を預け、両手を見つめていた。


 赤く染まった指先。


 何度拭っても、血の感触が消えない気がした。


 ルシアの血。


 自分の腕の中で、あんなにも弱々しくなっていたルシア。


「くそ……」


 クレイドは拳を握りしめた。


「俺が……」


 玄関に行かなければ。


 あのとき、少しでも早く戻っていれば。


 そもそも、ミアを信用しなければ。


「俺が、ちゃんと見てりゃ……」


 その声は、廊下に消えた。


「クレイド」


 聞き慣れた声がした。


 顔を上げる。


 そこには、セドリックが立っていた。


 いつもの軽い笑みはなかった。


「セドリック……」


「アルベルトから聞いた。ゼノンにも連絡が行ってる」


 クレイドは俯いた。


「俺……」


「今は自分を責めるな」


「でも……!」


「ルシアを刺したのは、お前じゃない」


 セドリックは静かに言った。


「悪いのは、やった奴だ」


 クレイドの唇が震えた。


「やった奴……」


 声が詰まる。


「ルシアに、また……あんなことするなんて……!」


 セドリックは何も言わず、その隣に立った。


「あいつ……前回みたいに、正気を失ってやった感じじゃなかった……」


 クレイドは震える手で頭を抱えた。


「普通に喋ってたんだよ……! ルシアが血をくれないから、自分で貰ったって……!」


「……」


「何でだよ……! あいつら、友達だったんだぞ……!」


 クレイドはその場にしゃがみ込んだ。


「ルシアは、ミアを助けたくて……あんなに頑張ってたのに……!」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 やがて、クレイドの肩に手を置いた。


「……ああ」


 それ以上、何も言えなかった。


 しばらくして、廊下の向こうから足音が響いた。


 速い。


 迷いのない足取りだった。


 セドリックが顔を上げる。


「ゼノン」


 黒髪の青年が、廊下の奥に立っていた。


 その赤い瞳には、普段の穏やかさが欠片もなかった。


「ルシアは?」


 声は静かだった。


 静かすぎて、顔を上げたクレイドは思わず息を呑んだ。


「処置中だ」


 セドリックが答える。


「状態は?」


「かなり悪い」


 ゼノンの表情は変わらなかった。


「どのくらい?」


 クレイドが唇を噛みしめる。


「血が……ありえねぇくらい出てて……」


 声が震えた。


「それに……」


「何?」


 クレイドは俯いた。


「胸の傷が深くて……アルが、心臓まで刺されたかもしれねぇって……」


 その瞬間。


 ゼノンの表情が凍りついた。


「心臓……?」


 クレイドは頷いた。


「アルが、助けるって……」


 ゼノンは目を閉じた。


 ほんの数秒。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「ミアは?」


 セドリックの表情が険しくなる。


「学園の警備が拘束してる」


「どこに?」


「ゼノン」


「どこにいるの?」


 その声に、セドリックは息を吐いた。


「拘束室だ」


 ゼノンは踵を返した。


「待て、ゼノン!」


 セドリックが腕を掴む。


「今のお前が行ったら、何するか分かんねぇだろ!」


 ゼノンは振り返った。


 その瞳を見た瞬間、セドリックの背筋に冷たいものが走った。


「離して」


「ゼノン」


「僕は、あの子を殺す」


 あまりにも静かな宣言だった。


「ルシアを傷つけたんだ。しかも、一度じゃない」


 ゼノンの声が低くなる。


「僕が何度も警告したのに……」


 その手が、ゆっくりと握りしめられた。


「僕のルシアを……」


 セドリックは腕を離さなかった。


「まずはルシアのそばにいてやれ」


「……」


「目を覚ましたとき、お前がいなかったらどうする」


 迷うように、ゼノンの動きが止まった。


「呼んでたんだ……」


 クレイドが小さく呟いた。


 ゼノンが振り返る。


「意識がなくなる前……」


 クレイドの目から涙が次々とこぼれた。


「お兄様って……呼んでた……」


 ゼノンの表情が、初めて崩れた。


「……そう」


 震えた声で小さく呟く。


 それから、緊急処置室の扉へ視線を向けた。


「ルシア……」


 その声には、深い苦しみが滲んでいた。


     *


 数時間後。


 緊急処置室の扉が開いた。


 アルベルトが姿を現した。


 白い上着には血がつき、顔には疲労が色濃く浮かんでいる。


「アル!」


 ゼノンが立ち上がった。


「ルシアは?」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「命は繋いだ」


 その言葉に、クレイドが壁へ手をついた。


「よかった……!」


 けれど、アルベルトの表情は晴れなかった。


「ただし、まだ安心はできねぇ」


 ゼノンの瞳が細くなる。


「どういうこと?」


「出血量が異常だった」


 アルベルトは静かに答えた。


「推定だが、全血液量の八割近くを失っていた可能性がある」


 セドリックが息を呑んだ。


「八割……?」


「ああ。それだけじゃねぇ」


 アルベルトは苦しげに眉を寄せた。


「心臓も傷ついていた」


 ゼノンの表情が凍りついた。


「心臓……?」


「刃が達していた。完全に破壊されていなかったのが、せめてもの救いだ」


 アルベルトは拳を握りしめた。


「普通のヴァンパイアなら、まず助からなかっただろう。純血種の再生能力があったからこそ、どうにか命を繋ぎ止められた」


「……」


「心臓の損傷自体は少しずつ再生し始めてる。だが、失った血液が多すぎる。身体への負担も尋常じゃねぇ」


 アルベルトは言葉を区切った。


「意識が戻らねぇ」


 廊下に沈黙が落ちた。


「いつ、目を覚ますの?」


 ゼノンが尋ねた。


 アルベルトは首を横に振った。


「分からねぇ。数日かもしれねぇし、もっと長くなるかもしれない」


 アルベルトは苦しげに続けた。


「これだけの損傷だ。目を覚ましたあと、記憶や心にどんな影響が残るかも、今は分からねぇ」


 ゼノンは俯いた。


 その手が、ゆっくりと握りしめられた。


「会える?」


「ああ。だが、刺激は避けてやれ」


 ゼノンは静かに頷いた。


「アル」


「ん?」


 ゼノンは一度、病室の扉へ視線を向けた。


「僕の血を、ルシアに輸血できない?」


 アルベルトは黙って彼を見つめた。


「僕も純血種だ。ルシアの身体に合うなら、少しでも早く回復できるかもしれない」


 ゼノンの声は落ち着いていたが、その指先は震えていた。


「頼む。僕の血を使って」


 アルベルトはしばらく考え込んだ。


「俺も考えてた。お前ら兄妹はアルフォンスとロザリアの子だ。適合する可能性は高い」


 ゼノンの瞳に、わずかな光が戻る。


「なら、すぐに採ってくれ」


「ただし、きちんと適合を確認してからだ。心臓を傷つけた直後の身体に、急に大量の血を入れるのは危険だからな」


「分かってる」


「心臓の修復もまだ終わってねぇ。ルシアの状態を見ながら、少しずつ入れていく必要がある」


「それでもいい」


 ゼノンは即答した。


「僕の血を全部使ってもいい。足りないなら、何度でも採ればいい」


「ゼノン、聞いてたか? 無茶を言うな」


 セドリックが口を挟んだ。


「お前まで倒れたら、ルシアが悲しむぞ」


「僕は平気だよ」


 ゼノンは病室の扉を見つめた。


「ルシアが苦しんでいるのに、僕には何もできない」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「分かった。だが、採血量は俺が決める。お前の命まで削るつもりはねぇからな」


「ありがとう」


「礼を言うのは、ルシアが目を覚ましてからにしろ」


 アルベルトは救護班へ声をかけた。


「ゼノンの血液の適合を確認する。問題がなければ輸血の準備を進めろ」


「はい!」


 救護班の職員が駆けていく。


 ゼノンは病室の扉を見つめたまま、静かに呟いた。


「ルシア……」


 その声には、切実な願いが込められていた。


「戻ってきて。君がいないと、僕は……」


 最後まで言葉にすることはできなかった。


     *


 病室は静かだった。


 窓には厚いカーテンが引かれ、柔らかな照明だけが室内を照らしている。


 白い寝台の上で、ルシアが眠っていた。


 着替えさせられた寝間着。


 整えられた黒髪。


 傷はほとんど見えなくなっていた。


 けれど、その顔色はひどく青白い。


 寝台の脇には、透明な管が伸びていた。


 その先には、深紅の血液が満たされた輸血袋が吊るされている。


 適合を確認したうえで採取された、ゼノンの血だった。


 アルベルトの指示で、少量ずつルシアの身体へ送り込まれている。


「ルシア」


 ゼノンは寝台のそばへ歩み寄った。


 小さな手を取る。


 冷たい。


 あの子がいつも、自分を見つけると嬉しそうに握ってくれた手。


「僕の血、届いてるかな」


 返事はない。


「僕の血なら、きっと君を治すために頑張ってくれると思うんだ」


 輸血の管を流れる血が、少しずつルシアの身体へ入っていく。


「今日、楽しかった?」


 ゼノンは静かに語りかけた。


「クッキーを作るんだって、すごく嬉しそうに話してくれたよね」


 返事はない。


「僕の分も作ってくれるって……」


 ゼノンは微笑もうとした。


 けれど、うまくできなかった。


「君が作ったクッキーを、楽しみにしてたんだよ……」


 ゼノンはルシアの手を額へ押し当てた。


 瞳を閉じる。


「ごめんね……」


 誰にも聞こえないほど、小さな声だった。


「僕が、もっと早く……」


 警告するだけでは足りなかった。


 危険だと分かっていたのに。


 ルシアをミアから完全に引き離すべきだった。


「僕が守るって、約束したのに……」


 ゼノンの頬を、一筋の涙が伝った。


 六歳のあの日。


 大切な妹を失ったと思った。


 十年以上かけてようやく、本当の兄妹として、婚約者として、もう一度抱きしめることができた。


 なのに。


「また、僕からいなくなるの……?」


 その問いに答える声はなかった。


 ゼノンはルシアの手を強く握った。


「駄目だよ……」


 震える声。


「今度こそ、絶対に離さないって決めたんだから……」


 しばらくして、ゼノンは顔を上げた。


 赤い瞳に、強い決意が宿っていた。


「待ってて、ルシア」


 優しく頬を撫でる。


「僕の血をあげるから。だから、絶対に戻ってきて」


     *


 学園の地下にある拘束室。


 ミアは椅子に座り、不満そうに足を揺らしていた。


「もう、いつまでここにいなきゃいけないの?」


 扉の外に立つ警備員へ声をかける。


「ねえ! 聞いてる?」


 返事はなかった。


「私、何も悪いことしてないのに! 刺したことが悪かったの? だってルシアが暴れるから仕方なかったんだもん」


 ミアは頬を膨らませた。


 ルシアは純血種だ。


 傷なんてすぐ治る。


 実際、三ヶ月前だってちゃんと元気になった。


 今回も、少し血を貰っただけ。


 なのに、みんな怒っている。


 アルも。


 クレイドも。


 どうして誰も、自分の頑張りを褒めてくれないのだろう。


「ルシアなら、分かってくれる。絶対許してくれるのに……」


 ミアは小さく呟いた。


 そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 警備員たちが、慌てて姿勢を正す。


 扉が開いた。


「あ!」


 ミアの顔が明るくなる。


「ゼノン先輩!」


 黒髪の青年が立っていた。


 その背後には、セドリックとアルベルトの姿もある。


「ねえ、ゼノン先輩! 聞いてよ!」


 ミアは勢いよく立ち上がった。


「みんなひどいんだよ! 私をこんなところに閉じ込めて――」


「座って」


 ゼノンが静かに言った。


 その瞬間。


 ミアの身体が、本人の意思とは無関係に動いた。


「え……?」


 椅子へ座らされる。


 立ち上がろうとしても、身体が動かない。


「な、何これ……?」


 ミアの顔から笑みが消えた。


 ゼノンはゆっくりと歩み寄った。


「王家の命令だよ」


 赤い瞳が、ミアを見下ろす。


「僕が許可するまで、そこから動くな」


「……っ!」


 ミアは必死に身体を動かそうとした。


 けれど、指一本動かせなかった。


 純血種。


 それも、ヴァルディエ王家の血を引く者が持つ絶対服従の力。


 格下のヴァンパイアには、逆らうことすら許されない。


「ゼノン先輩……?」


 ミアの声が震えた。


「どうして……?」


 ゼノンは答えなかった。


 ただ、静かに問いかけた。


「ルシアを刺したのは、君だね?」


「え?」


「答えて」


 ミアは戸惑いながら頷いた。


「うん。でも――」


「何度も?」


「うん……」


「嫌がっていたのに?」


「だって……」


 ゼノンの瞳が細くなった。


「答えて」


「嫌がってた、けど……」


 ミアは小さく答えた。


「ルシアが、血をくれなかったから……」


 沈黙。


 ゼノンは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「そう」


 その声は、恐ろしいほど穏やかだった。


「君は、ルシアが嫌がっていることを知っていたんだね」


「でも、ゼノン先輩!」


 ミアは必死に言った。


「ルシアは純血種なんだよ!? 傷なんてすぐ治るじゃん!」


「……」


「私、三ヶ月以上も我慢したんだよ! ちゃんと血液パックだって決められた量だけ飲んだし、勉強もしたし!」


 ミアの瞳に涙が浮かぶ。


「なのに、ルシアは少しも血をくれなかったの!」


 ゼノンは黙って聞いていた。


「私、ルシアが大好きなのに……」


 ミアは泣きそうな声で続けた。


「大好きな友達の血を少し貰うくらい、いいじゃん……」


 その瞬間。


 ゼノンの表情から、最後の温度が消えた。


「少し?」


 低い声だった。


「君は、あれを少しだと思っているの?」


 ミアは瞬きをした。


「え?」


「ルシアは、全身の血のほとんどを失ったんだよ」


「……」


「心臓まで傷つけられて、今も意識が戻らない」


 ミアの顔がわずかに強張った。


「え……?」


「死にかけたんだ」


 ゼノンは一歩近づいた。


「君が、殺しかけたんだよ」


「う、嘘……」


 ミアは首を横に振ろうとした。


 けれど、身体は動かなかった。


「だって……純血種は……」


「純血種なら、何をしてもいいと思った?」


「……」


「傷が治るなら、痛みも恐怖もなかったことになると思った?」


 ゼノンの声が低くなる。


「ルシアが泣いていたことも、君にはどうでもよかったんだね」


「ち、違う……!」


 ミアの声が震えた。


「私、ルシアのこと大好きだもん!」


「それなら」


 ゼノンは静かに言った。


「どうして、やめてと言われたときにやめなかったの?」


 ミアは答えられなかった。


「どうして、痛がっているルシアを助けなかったの?」


「だって……」


「どうして、あの子の命より、自分の幸せを優先したの?」


 ミアの瞳から涙がこぼれた。


「だって……私だって……」


 ゼノンは、その言葉を遮った。


「もういい」


 その声には、何の感情もなかった。


「君には、何を言っても無駄みたいだ」


 ゼノンはミアを見下ろした。


「処刑する」


 その言葉に、ミアの呼吸が止まった。


「え……?」


「ルシアを殺しかけた罪だ」


「しょ……けい……?」


 ミアの顔から血の気が引いた。


「ま、待って……」


 初めて、明確な恐怖が浮かんだ。


「私、死ぬの……?」


 ゼノンは答えなかった。


「嫌……」


 ミアの瞳から涙が溢れた。


「嫌だよ……!」


 必死に身体を動かそうとする。


 けれど、王家の命令に逆らうことはできない。


「ゼノン先輩……!」


 震える声。


「お願い……!」


 ゼノンは静かに見つめていた。


「私、まだ死にたくない……!」


 ミアは泣き叫んだ。


「ルシアは、そんなこと望まないよ!!」


 その言葉に、ゼノンの瞳が鋭く細められた。


「ルシアの名前を出さないで」


 ミアが息を呑む。


「君が、あの子の気持ちを語る資格はない」


「……っ!」


「あの子は、最後まで君を信じようとしていた」


 ゼノンの声が震えた。


「怖い思いをしたのに、それでも友達でいようとしたんだ」


 ミアは何も言えなかった。


「君は、その優しさを踏みにじった」


 ゼノンはゆっくりと手を上げた。


 ミアの身体に、目に見えない重圧がかかる。


「ゼノン!」


 セドリックが声を上げた。


「やめろ!」


 ゼノンは振り返らなかった。


「邪魔しないで」


「落ち着け! 今ここで殺したら、取り返しがつかねぇ!」


「もう、取り返しはつかないよ」


 ゼノンの声は静かだった。


「ルシアが受けた痛みも、恐怖も……消えない」


「分かってる!」


 セドリックは一歩踏み出した。


「でも、ルシアが目を覚ましたとき、お前が勝手にミアを殺してたらどう思う!?」


 ゼノンの手が止まった。


「……」


「ルシアは優しい。だからこそ、きっと自分を責める!」


 セドリックは真剣な目でゼノンを見つめた。


「お前だって、それは分かってるだろ!」


 長い沈黙が続いた。


 やがて、アルベルトが口を開いた。


「ゼノン」


 その声は、疲れ切っていた。


「俺も、ミアを許せねぇ」


 ミアがびくりと肩を震わせる。


「アル……」


「だが、今ここで決着をつけるのはやめてくれ」


 ゼノンはゆっくりと振り返った。


「アルまで、この子を庇うの?」


「違う」


 アルベルトは首を横に振った。


「俺は、ルシアを守りたいだけだ」


 ゼノンは何も言わなかった。


「ルシアが目を覚ましたとき、これ以上もう傷つけたくねぇんだ」


 アルベルトは一歩近づいた。


「それに、こいつが何をしたのか、正式に裁かせる必要がある」


 沈黙。


 ゼノンは目を閉じた。


 しばらくして、ゆっくりと手を下ろす。


「分かった」


 ミアが安堵の息を漏らした。


「ゼノン先輩……」


 けれど、次の言葉で、その表情は凍りついた。


「ただし、君がルシアに近づくことは、二度と許さない」


「え?」


「今この瞬間から、面会も、手紙も、通信も認めない」


 ゼノンは冷たく告げた。


「学園への復帰も、僕は認めるつもりはない。正式な処分は審理で決まるけれど、それまでは拘束を続けてもらう」


「待って……」


 ミアの声が震えた。


「ルシアに、会えないの……?」


「会わせない」


「そんな……」


 ミアの瞳から涙が溢れた。


「嫌だよ……!」


 ゼノンは背を向けた。


「僕は、君を許さない」


 その声は、どこまでも冷たかった。


「たとえルシアが許したとしても」


 ミアは泣き叫んだ。


「待ってよ!!」


 ゼノンは振り返らなかった。


「私たち、友達なんだよ!? 親友なんだよ!?」


 扉が閉まる。


「ルシアは、私の大切な友達なのに!!」


 その叫びは、厚い扉の向こうへ消えていった。


     *


 深夜。


 ゼノンは再びルシアの病室へ戻っていた。


 寝台のそばに椅子を置き、静かに座る。


 ルシアは眠ったままだった。


 呼吸は少しずつ安定している。


 けれど、瞳が開く気配はない。


「ルシア」


 ゼノンは小さな手を握った。


「ごめんね」


 何度謝っても、足りなかった。


 もっと早く気づいていれば。


 もっと強く反対していれば。


 今日、ルシアをミアのそばに残さなければ。


 そんな後悔ばかりが、頭の中を巡っていた。


 ゼノンはそっと身を屈め、ルシアの額へ口づけた。


「もう、怖い思いはさせたくない……」


 そのとき。


 ルシアの指先が、ほんのわずかに動いた。


「……っ!」


 ゼノンが顔を上げる。


「ルシア?」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「ルシア、聞こえる?」


 返事はなかった。


 瞳も閉じたまま。


 けれど、握っていた手が、かすかに握り返された気がした。


「ルシア……」


 ゼノンの瞳に涙が浮かぶ。


 その手を両手で包み込む。


「大丈夫だよ……」


 震える声で囁いた。


「僕はここにいる……」


 静かな病室に、ゼノンの声だけが響いた。


「だから、お願い……」


 額を寄せる。


「もう一度、僕の名前を呼んで……」


 ルシアは目を覚まさなかった。


 けれど、ゼノンはその手を離さなかった。


「ずっとそばにいるからね」


 長い夜が明けても。


 窓の向こうに朝日が差し込んでも。


 ただ、愛しい妹が再び微笑んでくれる日を待ち続けた。

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