壊れた約束
私的に、かなり過激なお話です。苦手な方は
読まない方がいいかもしれません(´;ω;`)
ミアが学園へ復帰してから、二週間が過ぎた。
その間、彼女は一度も問題を起こさなかった。
夜間部の授業には遅刻せず、血液パックも決められた量を飲み、アルベルトへの報告も欠かさない。ルシアに血をねだることもなくなり、二人きりになろうとする様子さえ見せなくなった。
以前のミアを知る者たちは、その変化を喜んだ。
エリーゼも、クレイドも、アルベルトも。
ただ一人、ゼノンだけは警戒を解かなかった。
あの面談で、ルシアの血を欲しくないと答えたとき。
ミアの心拍は、明らかに速くなっていた。
欲求がなくなったのではなく、欲しがっていることを隠すようになっただけだとしたら。
ゼノンは、そんな可能性を考えずにはいられなかった。
何よりも気がかりだったのは、ルシア自身がミアの変化を心から喜んでいることだった。
もう一度、友達として笑い合いたい。
その願いが、ルシアの判断を鈍らせてしまうのではないか。
ゼノンには、それが怖かった。
*
「ねえ、ルシア! 見て!」
夜間部の休憩時間。
ミアが差し出したのは、小さな花柄の包みだった。
「なあに、これ?」
「クッキー! 昨日、アルに教えてもらって焼いたんだ!」
「わあ! 可愛い!」
「でしょ? ルシアに一番に食べてほしくて!」
ルシアは嬉しそうに包みを受け取った。
「ありがとう、ミア!」
「えへへ!」
ミアは笑った。
その隣では、エリーゼが温かな紅茶を注いでいる。
窓の外には月が浮かび、学園の中庭を銀色に照らしていた。
「随分上達しましたね、ミア。以前は生地を焦がしてばかりでしたのに」
「もう! それ言わないでよ!」
「ふふ、失礼しました」
三人の笑い声が、静かな休憩室に響いた。
久しぶりに、何の不安もない時間だった。
少なくとも、ルシアにはそう思えた。
「ねえ、ルシア」
「なあに?」
「私、最近すっごく幸せなんだ」
ミアが柔らかく微笑んだ。
「学校に戻れたし、エリーゼとも勉強できるし、こうしてルシアとお茶もできるし!」
「うん!」
「三ヶ月前は、もう全部終わっちゃったと思ったんだよ」
その言葉に、ルシアの笑顔が少し曇った。
「ミア……」
「でもね、ルシアが友達でいてくれたから頑張れたの」
ミアはまっすぐルシアを見つめた。
「本当にありがとう」
ルシアは胸が熱くなった。
「私も、ミアとまたこうして過ごせて嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん!」
ミアは満面の笑みを浮かべた。
「よかったぁ!」
エリーゼも、二人を見て安心したように微笑んだ。
以前の事件を、ルシアが忘れたわけではない。
突然牙を向けられた恐怖も、身体から血を奪われる感覚も、今なお記憶に残っている。
それでも、ミアが少しずつ変わろうとしている姿を見て、もう一度信じたいと思っていた。
あの日までの二人に、完全に戻れるとは思わない。
けれど、これから新しい関係を築くことはできるかもしれない。
ルシアはそう願っていた。
そのときミアが何を考えていたのか、誰も知らなかった。
ルシアは、まだ自分を大切に思ってくれている。
こんなに優しく笑ってくれる。
だったら、きっと大丈夫。
少しくらい血を貰っても、最後には許してくれるはずだ。
ミアは紅茶を一口飲んだ。
甘い香りが口の中に広がる。
けれど、あの日の幸福感には遠く及ばなかった。
*
同じ夜。
夜間部の執務室では、ゼノンがアルベルトと向かい合っていた。
「ミアの監督を緩めるつもりはないよね?」
ゼノンの問いに、アルベルトは書類から顔を上げた。
「今のところはな。ただ、問題がなければ段階的に生活範囲を広げる予定だ」
「僕は反対だ」
「分かってる」
「アル。あの子はルシアの血を欲しがっていたことを隠していたんだよ」
「ああ」
「欲求がなくなったんじゃない。欲しがっていることを言わなくなっただけかもしれない」
アルベルトは深く息を吐いた。
「俺だって、その可能性は考えてる」
「だったら――」
「だがな、ゼノン」
アルベルトは静かに言った。
「疑わしいからって、いつまでもミアから生活を取り上げるわけにはいかねぇ。回復を支えることも、俺の役目なんだ」
ゼノンは口を閉ざした。
「もちろん、ルシアを危険に晒すつもりもない。二人きりは禁止のままだ」
「……」
「ミアは人間からヴァンパイアになったばかりだ。慣れない身体で、必死に生活を覚えようとしてる。俺は、その努力まで否定したくねぇんだよ」
「努力していることと、危険がなくなったことは別だよ」
ゼノンの声は穏やかだった。
けれど、その赤い瞳は真剣だった。
「ルシアは、もう一度あの子を信じようとしている。もし裏切られたら、今度こそ……」
言いかけて、ゼノンは口を閉じた。
その先を想像することさえ、恐ろしかった。
アルベルトは深く息を吐いた。
「……分かってる」
しばらく沈黙が続いた。
ゼノンは窓の外へ目を向けた。
「ルシアは優しい」
「ああ」
「だから、ミアが困っていたら、きっと助けようとする」
その声には、わずかな苦しさが滲んでいた。
「僕は、その優しさが利用されるのが怖いんだ」
アルベルトは答えなかった。
ただ、机の上の報告書へ視線を落とした。
ミアの経過は良好。
吸血衝動の訴えなし。
精神状態、安定。
整った文字で並ぶ記録が、そのときばかりはひどく頼りなく見えた。
*
翌朝。
夜間部の授業を終えたルシアは、アルベルトの家の居間で読みかけの本を開いていた。
窓の外には柔らかな朝日が差し込み、庭の木々が風に揺れている。
「ルシア!」
階段からミアが降りてきた。
「ねえ、明日のお休み、何する予定?」
「明日?」
「うん!」
「午前中はお兄様と会う予定だけど、午後は特に決まってないかな」
「そっか!」
ミアは嬉しそうに手を合わせた。
「じゃあ、一緒にお菓子作ろうよ!」
「お菓子?」
「この前約束したでしょ? 今度はルシアと一緒に作りたいの!」
ルシアは微笑んだ。
「うん。アルに聞いてみようか」
「やったぁ!」
ミアは飛び跳ねた。
ルシアはその姿を見て、思わず笑みをこぼした。
少し前までは、ミアと二人で何かをすることなど考えられなかった。
けれど今は、こうして自然に笑い合える。
まだ怖さが完全になくなったわけではない。
それでも、もう一度信じてみたいと思っていた。
ミアが三ヶ月間頑張ったことを、ルシアは知っているから。
一方のミアは、明日の午後を思い浮かべていた。
ルシアと一緒に台所へ立つ。
甘いお菓子を作る。
昔みたいに、二人で笑う。
きっと、とても楽しい時間になる。
そして今度こそ、欲しかったものを貰うのだ。
*
翌朝。
「お菓子作り?」
アルベルトは新聞から顔を上げた。
「うん!」
ミアが元気よく頷く。
「ルシアと一緒にクッキー作りたいの!」
「……」
「ちゃんとアルがいるときにするから!」
アルベルトは少し考えた。
「まあ、俺が見てるなら構わねぇが」
「ほんと!?」
「ただし、勝手に二人きりになるなよ」
「分かってる!」
「それと、台所の片づけまでちゃんとやること」
「はーい!」
ミアは嬉しそうに笑った。
その隣で、ルシアもほっとしたように微笑む。
「ありがとう、アル!」
「まったく。二人揃って嬉しそうな顔しやがって」
アルベルトは苦笑した。
そのとき、クレイドが階段を降りてきた。
「何の話だ?」
「今日、ルシアとお菓子作るの!」
「ふーん」
クレイドはミアを見た。
「俺も食っていいのか?」
「もちろん!」
「じゃあ、焦がすんじゃねぇぞ」
「もう! またそれ!」
ミアが頬を膨らませる。
クレイドは呆れたように笑い、アルベルトは新聞を畳んだ。
いつもの、何でもない朝。
その穏やかな光景を、誰もが当たり前のものだと思っていた。
*
午後。
ゼノンとの約束を終えたルシアが帰宅すると、ミアはすでに台所で待っていた。
「ルシアー! おかえり!」
「ただいま、ミア!」
「準備できてるよ!」
調理台には、小麦粉や砂糖、バター、卵が綺麗に並べられていた。
その隣には、花の形をした小さな型がいくつも置かれている。
「わあ! 可愛い!」
「でしょ? アルに借りたの!」
ミアは得意げに笑った。
ルシアは淡い桜色のワンピースの上から、白いエプロンを身につけた。
柔らかな生地が膝のあたりでふんわりと広がり、袖口には小さなレースがあしらわれている。
午前中、ゼノンに会うために選んだお気に入りの一着だった。
「お兄様にもクッキーを持っていこうかな」
「えー! ゼノン先輩にも?」
「ふふ、駄目?」
「いいけど、私の分が減っちゃう!」
「じゃあ、たくさん作ろう?」
「それならいいよ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
アルベルトは隣で腕を組んでいた。
「俺は少し書類を片づけるが、居間にいる。何かあったらすぐ呼べよ」
「はーい!」
「ルシアも、無理するなよ」
「うん!」
アルベルトは二人の顔を見比べ、やがて台所を出ていった。
扉は開けたままだった。
居間からは、紙をめくる音が聞こえてくる。
二人は並んで作業を始めた。
ミアが粉をこぼして笑い、ルシアが慌てて布巾を取る。
生地が手にくっつけば、二人で顔を見合わせて笑った。
「ミア、ほっぺに粉ついてるよ」
「えっ、どこ!?」
「ここ!」
ルシアが自分の頬を指さす。
「えー、取って!」
「ふふ、しょうがないなぁ」
ルシアは布巾でミアの頬を拭った。
その距離が、少しだけ近づいた。
ミアはルシアの顔を見つめた。
白い肌。
柔らかな微笑み。
そして、首筋。
あの日の傷は、もうどこにも残っていない。
「ルシア」
「なあに?」
「本当に、綺麗に治ったんだね」
ルシアの手が止まった。
「……うん」
「すごいなぁ」
ミアは微笑んだ。
「純血種って、本当にすごいね」
ルシアは少し困ったように笑った。
「ミア、そろそろ生地を型抜きしよう?」
「うん!」
ミアは明るく返事をした。
けれど、その目はしばらくルシアの首元から離れなかった。
*
クッキーが焼き上がる頃、アルベルトのもとへ学園から連絡が入った。
書類の確認を求める、急ぎの用件だった。
「悪い、少し学園の執務室に戻る。クレイド!」
居間にいたクレイドが顔を上げた。
「何だよ?」
「俺が戻るまで、二人を頼む」
「ああ、分かった」
アルベルトはミアへ目を向けた。
「ミア。約束は覚えてるな?」
「もちろん!」
「ルシアと二人きりにならないこと」
「分かってるってば!」
ミアは笑った。
「もう、アルって本当に心配性!」
「心配させんなよ」
「はーい!」
アルベルトは少しだけ眉をひそめたが、やがて出ていった。
クレイドは居間のソファに腰掛け、本を開いた。
台所の扉は開いたままだった。
中からは、二人の楽しそうな声が聞こえてくる。
「ルシア、それ私の!」
「えっ? 同じ形だよ?」
「こっちのほうが綺麗にできたもん!」
「ふふ、じゃあ交換する?」
「やった!」
クレイドは小さく笑った。
まったく、子供かよ。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ん?」
クレイドは本を閉じた。
訪ねてきたのは、学園の使いだった。
アルベルト宛ての書類を届けに来たという。
「……ああ、俺が預かる」
クレイドは玄関先で書類を受け取った。
相手から確認事項をいくつか尋ねられ、短く答える。
ほんの数分。
それだけの時間だった。
*
「ねえ、ルシア」
「なあに?」
焼き上がったクッキーを皿へ移していたルシアが振り返った。
ミアはいつものように笑っていた。
「私ね、最近ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「ルシアのこと!」
ミアは嬉しそうに答えた。
「私、ルシアが大好き!」
ルシアも微笑んだ。
「私もだよ、ミア」
「ほんと?」
「うん。大切な友達だもの」
ミアの表情がぱっと明るくなった。
「えへへ! 嬉しい!」
その笑顔は、ルシアが人間だった頃から何度も見てきたものだった。
少しわがままで、甘えん坊で、嬉しいことがあるとすぐに顔に出る。
大好きだった親友の笑顔。
だからルシアは、ミアがそっと近づいてきても、身構えなかった。
「ねえ、ルシア。お願いがあるの」
「なあに?」
「血、少しだけ分けて?」
ルシアの手が止まった。
「……ミア」
「ほんの少しでいいんだよ?」
ミアは指先で小さな隙間を作ってみせた。
「私、もうずっと我慢してるでしょ? 血液パックだってちゃんと飲んでるし、学校にも戻れたし!」
「うん。ミアが頑張ってることは知ってるよ」
「じゃあ、いいよね?」
ルシアは静かに首を横に振った。
「ごめんね。それはできない」
ミアが瞬きをした。
「……また?」
「うん」
「どうして?」
「前にも話したでしょう? 私は、ミアに血を飲まれるのが怖いの」
「でも、もう傷は治ったじゃん!」
「……そうだけど」
「それに、エリーゼが教えてくれたんだよ。愛する人の血は、心まで満たしてくれるんだって!」
ミアは胸に手を当てた。
「あのときね、私、本当に幸せだったの。身体がぽかぽかして、胸の中がいっぱいになって……ずっと寂しかったのが嘘みたいだった!」
ルシアは何も言えなかった。
自分が痛みと恐怖に震えていたあの時間を、ミアは幸せだったと語っている。
「ミア……」
「だから、もう一回だけ!」
「駄目だよ」
ルシアははっきりと答えた。
「私は嫌なの。お願いだから、もう血の話はしないで」
ミアの笑顔が消えた。
「……嫌?」
「うん」
「私のこと、大好きって言ったのに?」
「それとこれとは違うよ」
「どうして?」
ミアは本当に不思議そうだった。
「大好きな人の血を飲むと、すっごく幸せになるんだよ? だったら、友達同士でも分け合えばいいじゃん!」
「ミア……」
「私が幸せになるの、嫌なの?」
ルシアの胸が痛んだ。
「そんなことないよ」
「じゃあ、どうしてくれないの?」
「怖いから」
ルシアは小さな声で答えた。
「前に、ミアが止まってくれなかったとき、本当に怖かったの。もう二度と、あんな思いはしたくない……」
ミアはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「そっかぁ」
その声があまりに穏やかだったので、ルシアは少しだけ安心した。
「分かってくれた?」
「うん!」
ミアはにっこり笑った。
「ルシアは、私に血をくれないんだね!」
「……ミア?」
「何回お願いしても、くれないんだ」
ミアは少し寂しそうに眉を下げた。
「友達なのにね」
ルシアが何か言おうとしたとき、ミアは明るい声で続けた。
「でも、もう大丈夫!」
「え?」
「私、いいこと思いついたの!」
ミアは笑いながら、ルシアへ歩み寄った。
「ミア、何を……?」
「大好きだよ、ルシア!」
その声と同時に、ルシアの身体へ突然、強い衝撃が走った。
「……え?」
何が起きたのか分からなかった。
すぐ近くにいたミアが、いつの間にか調理台から包丁を手に取っていた。
ルシアは自分の身体へ視線を落とす。
淡い桜色のワンピースに、赤い染みが広がっていった。
「……あ……れ……?」
温かいものが流れ落ちていく。
床に赤い雫が落ちた。
一滴、二滴。
やがて、途切れることなく。
「ミ、ア……?」
遅れて、激しい痛みが襲ってきた。
「――っ、あああっ!!」
ルシアの膝が折れた。
調理台に手をつこうとしたが、力が入らない。
皿が落ち、焼き上がったばかりのクッキーが床へ散らばった。
「いた……っ、痛い……!」
ルシアは身体を丸めた。
何が起きたのか理解できない。
さっきまで笑っていたのに。
一緒にお菓子を作っていたのに。
ミアは、あんなに嬉しそうだったのに。
「ミア……どうして……?」
ミアは首を傾げた。
「え? だって、ルシアが悪いんだよ?」
その声には怒りも憎しみもなかった。
まるで、友達が約束を忘れたことを指摘するような口調だった。
「友達なのに、少しも血を分けてくれないんだもの!」
ルシアは必死に後ずさろうとした。
「や……やめて……」
「分けてくれないなら、貰うしかないよね?」
「お願い……ミア……!」
ルシアが逃れようとすると、ミアは困ったように笑った。
「もう、動かないでよ!」
再び、ルシアの身体に痛みが走った。
「――ああっ!!」
床に倒れ込んだルシアは、必死に身体をよじった。
逃げなければ。
誰かを呼ばなければ。
そう思うのに、身体が思うように動かない。
「やめ……て……!」
その懇願は、ミアには届かなかった。
ミアは何度もルシアを刃物で傷つけた。
ルシアが痛みにもがくたび、困ったように眉を下げながら。
「もう! ルシアったら、暴れるからいっぱい刺しちゃった!」
まるで、失敗したお菓子作りの話でもしているかのようだった。
「じっとしてくれたら、すぐ終わるのに!」
ルシアの頬を涙が伝った。
「いや……」
震える声。
「ミア……もう……やめて……」
「大丈夫だよ!」
ミアは笑った。
「ルシアは、つよ〜い純血種のヴァンパイアだもん!」
ルシアは首を横に振ろうとした。
けれど、もうその力さえ残っていなかった。
「死ん……じゃう……」
「えー? 死なないよ!」
ミアは心底おかしそうに笑った。
「だって、前もちゃんと治ったじゃん!」
ルシアの意識が揺らぐ。
視界がぼやけ、台所の天井が遠く感じられた。
そのとき、ミアの顔が近づいた。
「ねえ、ルシア」
優しい声。
「私ね、ずっとこの味が忘れられなかったんだ」
「や……」
「大好きだから、また許してくれるよね?」
ルシアが拒むより早く、ミアの牙が首筋へ食い込んだ。
ルシアの身体が大きく震えた。
声にならない悲鳴が漏れる。
ミアはそこから流れる血を飲み始めた。
「……あ……」
ひと口。
ミアは目を見開いた。
次の瞬間、うっとりと瞼を閉じる。
「おいしい……」
その声は、幸福に満ちていた。
「やっぱり……」
ミアは嬉しそうに笑った。
「やっぱり、ルシアの血が一番好き!」
身体の奥から、温かさが広がっていく。
満たされる。
ずっと欲しかったものが、ようやく手に入った。
血液パックでは決して感じられなかった、あの幸福感。
ミアは夢中になった。
ルシアの身体が小さく震えていることも。
その手が必死に床を掻いていることも。
自分の名前を呼ぶ声が、少しずつ弱くなっていることも。
ミアには、もうどうでもよかった。
ただ、幸せだった。
ルシアは薄れゆく意識の中で、ミアの姿を見つめていた。
自分の血を飲みながら、幸せそうに笑う親友。
その姿が、恐ろしかった。
痛みよりも。
失われていく力よりも。
何よりも。
大好きだったミアが、自分を傷つけながら笑っていることが。
「ミ……ア……」
かすれた声で名前を呼ぶ。
けれど、ミアは顔を上げなかった。
ルシアの瞳から、また涙がこぼれた。
どうして。
どうして、こんなことに。
もう一度だけ、親友に戻れると思ったのに。
その願いは、誰にも届かなかった。
*
「……ああ、分かった。アルに伝えとく」
玄関先で学園の使いを見送ったクレイドは、受け取った書類を確認した。
居間へ戻ろうとして、ふと足を止める。
静かだった。
さっきまで聞こえていた、二人の笑い声がない。
「……?」
クレイドは眉をひそめた。
「ルシア?」
返事はなかった。
台所へ近づくと、何かが床に散らばっているのが見えた。
割れた皿。
クッキー。
そして、その先に広がる赤いもの。
「……は?」
クレイドの足が止まった。
その赤が何なのか、理解するのに一瞬かかった。
血。
大量の血だった。
台所の奥で、誰かが床に膝をついている。
ミアだった。
彼女はルシアの身体に覆いかぶさるようにして、その首元から血を飲んでいた。
傍らには、赤く染まった包丁が落ちている。
ミアは夢中だった。
クレイドが近づいてきたことにも気づかない。
「おい……」
掠れた声が漏れた。
「何……して……」
ミアがようやく顔を上げた。
口元を赤く染めたまま、ぱっと笑う。
「あ! クレイド!」
その笑顔は、いつもと同じだった。
「ねえ、聞いて!」
ミアは嬉しそうに言った。
「ルシアの血、やっぱりすっごく美味しいの!」
クレイドは息を呑んだ。
ミアの下で、ルシアがかすかに身じろぎした。
「クレ……イド……」
その声で、クレイドは我に返った。
「――ルシア!!」
駆け寄り、ミアを引き離す。
「何してんだ、お前!!」
「きゃっ!」
ミアは驚いたように目を丸くした。
「もう! クレイドまで!」
クレイドは答えなかった。
ルシアの傍らに膝をつく。
「ルシア……?」
身体が冷たかった。
顔色はひどく青白く、呼吸も弱い。
血に濡れた桜色のワンピース。
床に広がる赤。
その光景が、クレイドの頭を真っ白にした。
「おい……嘘だろ……」
ルシアの瞳が、わずかに動いた。
「クレイ……ド……」
「喋るな! 今、アルを呼ぶ!」
クレイドは震える手で、ポケットから小型通信機を取り出した。
アルベルトの通信番号を呼び出す。
呼び出し音が、一度。
二度。
その短い時間さえ、ひどく長く感じられた。
『クレイド? どうした?』
「――アル!! 今すぐ戻ってこい!!」
『何だ!? 何があった!』
「ルシアが……ミアに……!!」
言葉が続かない。
クレイドはルシアの顔を見下ろした。
今にも消えてしまいそうな呼吸。
震える指先。
何度呼びかけても、焦点の合わない瞳。
「頼む……早く……!!」
『クレイド、落ち着け! ルシアは今どうなってる!?』
「血が……止まらねぇ……!」
クレイドの声が震えた。
「アル……頼む……!」
通信機の向こうで、椅子が倒れるような音がした。
『今すぐ戻る! 通信は切るな! 俺の指示を聞け!』
アルベルトの声は、いつになく切迫していた。
クレイドは震える手で通信機を握りしめた。
その背後で、ミアが笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ?」
クレイドの手が止まる。
「……何?」
「だって、ルシアは純血種でしょ?」
ミアは不思議そうに首を傾げた。
「前もちゃんと治ったんだから、今回も大丈夫だよ!」
「……」
「それに、私、ちゃんとお願いしたんだよ?」
ミアは少し不満そうに頬を膨らませた。
「なのにルシアが嫌だって言うから、仕方なかったんだもん!」
クレイドはゆっくり振り返った。
「仕方なかった……?」
「うん!」
「お前……」
怒りで声が震える。
「ルシアが、どんな思いをしたか……」
「えー? でも、私だってずっと我慢してたんだよ?」
ミアは明るく言った。
「三ヶ月以上も頑張ったんだもん! 少しくらい、ご褒美があってもいいじゃん!」
クレイドの顔が歪んだ。
「――ふざけんな!!」
怒鳴り声が家中に響いた。
ミアがびくりと肩を揺らす。
「え?」
「これが……これが少しだって言うのかよ!!」
クレイドはルシアを指さした。
「見ろよ!! ルシアを見ろ!!」
ミアは床へ目を向けた。
ルシアは動かなかった。
呼吸は弱く、瞳も閉じかけている。
ミアは少し考えた。
それから、困ったように笑った。
「あれ?」
首を傾げる。
「ちょっと、貰いすぎちゃったかな?」
クレイドは言葉を失った。
ミアは、もう一度ルシアを見つめた。
「でも、大丈夫だよね?」
その声は、どこまでも無邪気だった。
「ルシア、すぐ治るもん!」
クレイドは、目の前の少女が恐ろしくなった。
ミアは自分が何をしたのか、見えていないわけではない。
ルシアが痛がっていたことも、嫌がっていたことも、きっと分かっていた。
それでも、自分が欲しいものを手に入れることのほうが大切だった。
クレイドはルシアの手を握った。
「ルシア……」
かすかに、指が動いた。
「クレ……イド……」
「ああ、いる。俺がいるから……!」
ルシアの瞳から涙が流れた。
「こわ……かった……」
クレイドは唇を噛みしめた。
「分かってる……」
その手を強く握る。
「もう、絶対に近づけねぇから……!」
ルシアの唇が、かすかに動いた。
「お兄……様……」
その声を聞いた瞬間、クレイドの胸が締めつけられた。
「ああ。ゼノンも呼ぶ。だから、頼む……!」
クレイドは通信機へ向かって叫んだ。
「アル!! ゼノンにも連絡してくれ!!」
『分かった! すぐに知らせる!』
クレイドはルシアへ視線を戻した。
「ルシア?」
その手から、ゆっくりと力が抜けていった。
「おい……」
呼びかけても、返事がない。
「ルシア……?」
何度呼んでも、瞳は開かない。
「――ルシア!!」
悲痛な叫びが響いた。
通信機の向こうから、アルベルトの声が聞こえる。
『クレイド! どうした!? 返事をしろ!』
けれど、クレイドは答えられなかった。
目の前で、大切な幼馴染が動かなくなってしまった。
それが、ただ恐ろしかった。
その背後で、ミアが小さく笑った。
「ねえ、クレイド」
クレイドは振り返らなかった。
「私、やっと幸せになれたんだよ?」
ミアは自分の胸に手を当てた。
「ずっと寂しかったのに、ルシアの血を飲んだら、全部満たされたの!」
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、ルシアは私の大切な友達なんだね!」
クレイドは、その声を聞きながら思った。
もう、元には戻れない。
三ヶ月間の努力も。
みんなが信じようとした気持ちも。
ルシアが差し伸べ続けた手も。
すべてが、たった今、踏みにじられた。
ミアは親友の血を飲みながら幸福を感じ、親友が死にかけていることさえ、自分の幸せの前では些細なことだと思っていた。
クレイドの腕の中で、ルシアは静かに意識を失った。
窓の外では、午後の陽射しが庭を照らしていた。
台所には、焼きたてのクッキーの甘い香りが、まだ残っていた。
ほんの少し前まで、二人で笑いながら作っていたクッキー。
ゼノンにも食べてもらおうと、ルシアが嬉しそうに話していたクッキー。
そのひとつが、ルシアの手のすぐそばに落ちていた。
小さな、花の形をしたクッキーだった。
クレイドは唇を噛みしめ、ルシアを抱き寄せた。
「頼むから……」
その声は、ほとんど祈りだった。
「死ぬなよ、ルシア……」
ミアはそんな二人を眺めながら、床に落ちていたクッキーをひとつ拾い上げた。
「あ、これ綺麗に焼けたやつだ!」
嬉しそうに笑う。
「ねえ、クレイド。あとでみんなで食べようね!」
返事はなかった。
ミアは少しだけ頬を膨らませた。
「もう、みんな変なの」
それから、眠っているように動かないルシアへ微笑みかけた。
「早く元気になってね、ルシア!」
いつもの明るい声だった。
「また一緒に、お菓子作ろうね!」
その言葉に答える者は、誰もいなかった。
クレイドはただ、ルシアのかすかな呼吸を確かめながら、アルベルトが戻ってくるのを待ち続けた。
もう二度と、彼女の手を離さないと誓いながら。




