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44/92

壊れた約束

私的に、かなり過激なお話です。苦手な方は

読まない方がいいかもしれません(´;ω;`)



 ミアが学園へ復帰してから、二週間が過ぎた。


 その間、彼女は一度も問題を起こさなかった。


 夜間部の授業には遅刻せず、血液パックも決められた量を飲み、アルベルトへの報告も欠かさない。ルシアに血をねだることもなくなり、二人きりになろうとする様子さえ見せなくなった。


 以前のミアを知る者たちは、その変化を喜んだ。


 エリーゼも、クレイドも、アルベルトも。


 ただ一人、ゼノンだけは警戒を解かなかった。


 あの面談で、ルシアの血を欲しくないと答えたとき。


 ミアの心拍は、明らかに速くなっていた。


 欲求がなくなったのではなく、欲しがっていることを隠すようになっただけだとしたら。


 ゼノンは、そんな可能性を考えずにはいられなかった。


 何よりも気がかりだったのは、ルシア自身がミアの変化を心から喜んでいることだった。


 もう一度、友達として笑い合いたい。


 その願いが、ルシアの判断を鈍らせてしまうのではないか。


 ゼノンには、それが怖かった。


     *


「ねえ、ルシア! 見て!」


 夜間部の休憩時間。


 ミアが差し出したのは、小さな花柄の包みだった。


「なあに、これ?」


「クッキー! 昨日、アルに教えてもらって焼いたんだ!」


「わあ! 可愛い!」


「でしょ? ルシアに一番に食べてほしくて!」


 ルシアは嬉しそうに包みを受け取った。


「ありがとう、ミア!」


「えへへ!」


 ミアは笑った。


 その隣では、エリーゼが温かな紅茶を注いでいる。


 窓の外には月が浮かび、学園の中庭を銀色に照らしていた。


「随分上達しましたね、ミア。以前は生地を焦がしてばかりでしたのに」


「もう! それ言わないでよ!」


「ふふ、失礼しました」


 三人の笑い声が、静かな休憩室に響いた。


 久しぶりに、何の不安もない時間だった。


 少なくとも、ルシアにはそう思えた。


「ねえ、ルシア」


「なあに?」


「私、最近すっごく幸せなんだ」


 ミアが柔らかく微笑んだ。


「学校に戻れたし、エリーゼとも勉強できるし、こうしてルシアとお茶もできるし!」


「うん!」


「三ヶ月前は、もう全部終わっちゃったと思ったんだよ」


 その言葉に、ルシアの笑顔が少し曇った。


「ミア……」


「でもね、ルシアが友達でいてくれたから頑張れたの」


 ミアはまっすぐルシアを見つめた。


「本当にありがとう」


 ルシアは胸が熱くなった。


「私も、ミアとまたこうして過ごせて嬉しいよ」


「ほんと?」


「うん!」


 ミアは満面の笑みを浮かべた。


「よかったぁ!」


 エリーゼも、二人を見て安心したように微笑んだ。


 以前の事件を、ルシアが忘れたわけではない。


 突然牙を向けられた恐怖も、身体から血を奪われる感覚も、今なお記憶に残っている。


 それでも、ミアが少しずつ変わろうとしている姿を見て、もう一度信じたいと思っていた。


 あの日までの二人に、完全に戻れるとは思わない。


 けれど、これから新しい関係を築くことはできるかもしれない。


 ルシアはそう願っていた。


 そのときミアが何を考えていたのか、誰も知らなかった。


 ルシアは、まだ自分を大切に思ってくれている。


 こんなに優しく笑ってくれる。


 だったら、きっと大丈夫。


 少しくらい血を貰っても、最後には許してくれるはずだ。


 ミアは紅茶を一口飲んだ。


 甘い香りが口の中に広がる。


 けれど、あの日の幸福感には遠く及ばなかった。


     *


 同じ夜。


 夜間部の執務室では、ゼノンがアルベルトと向かい合っていた。


「ミアの監督を緩めるつもりはないよね?」


 ゼノンの問いに、アルベルトは書類から顔を上げた。


「今のところはな。ただ、問題がなければ段階的に生活範囲を広げる予定だ」


「僕は反対だ」


「分かってる」


「アル。あの子はルシアの血を欲しがっていたことを隠していたんだよ」


「ああ」


「欲求がなくなったんじゃない。欲しがっていることを言わなくなっただけかもしれない」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「俺だって、その可能性は考えてる」


「だったら――」


「だがな、ゼノン」


 アルベルトは静かに言った。


「疑わしいからって、いつまでもミアから生活を取り上げるわけにはいかねぇ。回復を支えることも、俺の役目なんだ」


 ゼノンは口を閉ざした。


「もちろん、ルシアを危険に晒すつもりもない。二人きりは禁止のままだ」


「……」


「ミアは人間からヴァンパイアになったばかりだ。慣れない身体で、必死に生活を覚えようとしてる。俺は、その努力まで否定したくねぇんだよ」


「努力していることと、危険がなくなったことは別だよ」


 ゼノンの声は穏やかだった。


 けれど、その赤い瞳は真剣だった。


「ルシアは、もう一度あの子を信じようとしている。もし裏切られたら、今度こそ……」


 言いかけて、ゼノンは口を閉じた。


 その先を想像することさえ、恐ろしかった。


 アルベルトは深く息を吐いた。


「……分かってる」


 しばらく沈黙が続いた。


 ゼノンは窓の外へ目を向けた。


「ルシアは優しい」


「ああ」


「だから、ミアが困っていたら、きっと助けようとする」


 その声には、わずかな苦しさが滲んでいた。


「僕は、その優しさが利用されるのが怖いんだ」


 アルベルトは答えなかった。


 ただ、机の上の報告書へ視線を落とした。


 ミアの経過は良好。


 吸血衝動の訴えなし。


 精神状態、安定。


 整った文字で並ぶ記録が、そのときばかりはひどく頼りなく見えた。


     *


 翌朝。


 夜間部の授業を終えたルシアは、アルベルトの家の居間で読みかけの本を開いていた。


 窓の外には柔らかな朝日が差し込み、庭の木々が風に揺れている。


「ルシア!」


 階段からミアが降りてきた。


「ねえ、明日のお休み、何する予定?」


「明日?」


「うん!」


「午前中はお兄様と会う予定だけど、午後は特に決まってないかな」


「そっか!」


 ミアは嬉しそうに手を合わせた。


「じゃあ、一緒にお菓子作ろうよ!」


「お菓子?」


「この前約束したでしょ? 今度はルシアと一緒に作りたいの!」


 ルシアは微笑んだ。


「うん。アルに聞いてみようか」


「やったぁ!」


 ミアは飛び跳ねた。


 ルシアはその姿を見て、思わず笑みをこぼした。


 少し前までは、ミアと二人で何かをすることなど考えられなかった。


 けれど今は、こうして自然に笑い合える。


 まだ怖さが完全になくなったわけではない。


 それでも、もう一度信じてみたいと思っていた。


 ミアが三ヶ月間頑張ったことを、ルシアは知っているから。


 一方のミアは、明日の午後を思い浮かべていた。


 ルシアと一緒に台所へ立つ。


 甘いお菓子を作る。


 昔みたいに、二人で笑う。


 きっと、とても楽しい時間になる。


 そして今度こそ、欲しかったものを貰うのだ。


     *


 翌朝。


「お菓子作り?」


 アルベルトは新聞から顔を上げた。


「うん!」


 ミアが元気よく頷く。


「ルシアと一緒にクッキー作りたいの!」


「……」


「ちゃんとアルがいるときにするから!」


 アルベルトは少し考えた。


「まあ、俺が見てるなら構わねぇが」


「ほんと!?」


「ただし、勝手に二人きりになるなよ」


「分かってる!」


「それと、台所の片づけまでちゃんとやること」


「はーい!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


 その隣で、ルシアもほっとしたように微笑む。


「ありがとう、アル!」


「まったく。二人揃って嬉しそうな顔しやがって」


 アルベルトは苦笑した。


 そのとき、クレイドが階段を降りてきた。


「何の話だ?」


「今日、ルシアとお菓子作るの!」


「ふーん」


 クレイドはミアを見た。


「俺も食っていいのか?」


「もちろん!」


「じゃあ、焦がすんじゃねぇぞ」


「もう! またそれ!」


 ミアが頬を膨らませる。


 クレイドは呆れたように笑い、アルベルトは新聞を畳んだ。


 いつもの、何でもない朝。


 その穏やかな光景を、誰もが当たり前のものだと思っていた。


     *


 午後。


 ゼノンとの約束を終えたルシアが帰宅すると、ミアはすでに台所で待っていた。


「ルシアー! おかえり!」


「ただいま、ミア!」


「準備できてるよ!」


 調理台には、小麦粉や砂糖、バター、卵が綺麗に並べられていた。


 その隣には、花の形をした小さな型がいくつも置かれている。


「わあ! 可愛い!」


「でしょ? アルに借りたの!」


 ミアは得意げに笑った。


 ルシアは淡い桜色のワンピースの上から、白いエプロンを身につけた。


 柔らかな生地が膝のあたりでふんわりと広がり、袖口には小さなレースがあしらわれている。


 午前中、ゼノンに会うために選んだお気に入りの一着だった。


「お兄様にもクッキーを持っていこうかな」


「えー! ゼノン先輩にも?」


「ふふ、駄目?」


「いいけど、私の分が減っちゃう!」


「じゃあ、たくさん作ろう?」


「それならいいよ!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 アルベルトは隣で腕を組んでいた。


「俺は少し書類を片づけるが、居間にいる。何かあったらすぐ呼べよ」


「はーい!」


「ルシアも、無理するなよ」


「うん!」


 アルベルトは二人の顔を見比べ、やがて台所を出ていった。


 扉は開けたままだった。


 居間からは、紙をめくる音が聞こえてくる。


 二人は並んで作業を始めた。


 ミアが粉をこぼして笑い、ルシアが慌てて布巾を取る。


 生地が手にくっつけば、二人で顔を見合わせて笑った。


「ミア、ほっぺに粉ついてるよ」


「えっ、どこ!?」


「ここ!」


 ルシアが自分の頬を指さす。


「えー、取って!」


「ふふ、しょうがないなぁ」


 ルシアは布巾でミアの頬を拭った。


 その距離が、少しだけ近づいた。


 ミアはルシアの顔を見つめた。


 白い肌。


 柔らかな微笑み。


 そして、首筋。


 あの日の傷は、もうどこにも残っていない。


「ルシア」


「なあに?」


「本当に、綺麗に治ったんだね」


 ルシアの手が止まった。


「……うん」


「すごいなぁ」


 ミアは微笑んだ。


「純血種って、本当にすごいね」


 ルシアは少し困ったように笑った。


「ミア、そろそろ生地を型抜きしよう?」


「うん!」


 ミアは明るく返事をした。


 けれど、その目はしばらくルシアの首元から離れなかった。


     *


 クッキーが焼き上がる頃、アルベルトのもとへ学園から連絡が入った。


 書類の確認を求める、急ぎの用件だった。


「悪い、少し学園の執務室に戻る。クレイド!」


 居間にいたクレイドが顔を上げた。


「何だよ?」


「俺が戻るまで、二人を頼む」


「ああ、分かった」


 アルベルトはミアへ目を向けた。


「ミア。約束は覚えてるな?」


「もちろん!」


「ルシアと二人きりにならないこと」


「分かってるってば!」


 ミアは笑った。


「もう、アルって本当に心配性!」


「心配させんなよ」


「はーい!」


 アルベルトは少しだけ眉をひそめたが、やがて出ていった。


 クレイドは居間のソファに腰掛け、本を開いた。


 台所の扉は開いたままだった。


 中からは、二人の楽しそうな声が聞こえてくる。


「ルシア、それ私の!」


「えっ? 同じ形だよ?」


「こっちのほうが綺麗にできたもん!」


「ふふ、じゃあ交換する?」


「やった!」


 クレイドは小さく笑った。


 まったく、子供かよ。


 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。


「ん?」


 クレイドは本を閉じた。


 訪ねてきたのは、学園の使いだった。


 アルベルト宛ての書類を届けに来たという。


「……ああ、俺が預かる」


 クレイドは玄関先で書類を受け取った。


 相手から確認事項をいくつか尋ねられ、短く答える。


 ほんの数分。


 それだけの時間だった。


     *


「ねえ、ルシア」


「なあに?」


 焼き上がったクッキーを皿へ移していたルシアが振り返った。


 ミアはいつものように笑っていた。


「私ね、最近ずっと考えてたんだ」


「何を?」


「ルシアのこと!」


 ミアは嬉しそうに答えた。


「私、ルシアが大好き!」


 ルシアも微笑んだ。


「私もだよ、ミア」


「ほんと?」


「うん。大切な友達だもの」


 ミアの表情がぱっと明るくなった。


「えへへ! 嬉しい!」


 その笑顔は、ルシアが人間だった頃から何度も見てきたものだった。


 少しわがままで、甘えん坊で、嬉しいことがあるとすぐに顔に出る。


 大好きだった親友の笑顔。


 だからルシアは、ミアがそっと近づいてきても、身構えなかった。


「ねえ、ルシア。お願いがあるの」


「なあに?」


「血、少しだけ分けて?」


 ルシアの手が止まった。


「……ミア」


「ほんの少しでいいんだよ?」


 ミアは指先で小さな隙間を作ってみせた。


「私、もうずっと我慢してるでしょ? 血液パックだってちゃんと飲んでるし、学校にも戻れたし!」


「うん。ミアが頑張ってることは知ってるよ」


「じゃあ、いいよね?」


 ルシアは静かに首を横に振った。


「ごめんね。それはできない」


 ミアが瞬きをした。


「……また?」


「うん」


「どうして?」


「前にも話したでしょう? 私は、ミアに血を飲まれるのが怖いの」


「でも、もう傷は治ったじゃん!」


「……そうだけど」


「それに、エリーゼが教えてくれたんだよ。愛する人の血は、心まで満たしてくれるんだって!」


 ミアは胸に手を当てた。


「あのときね、私、本当に幸せだったの。身体がぽかぽかして、胸の中がいっぱいになって……ずっと寂しかったのが嘘みたいだった!」


 ルシアは何も言えなかった。


 自分が痛みと恐怖に震えていたあの時間を、ミアは幸せだったと語っている。


「ミア……」


「だから、もう一回だけ!」


「駄目だよ」


 ルシアははっきりと答えた。


「私は嫌なの。お願いだから、もう血の話はしないで」


 ミアの笑顔が消えた。


「……嫌?」


「うん」


「私のこと、大好きって言ったのに?」


「それとこれとは違うよ」


「どうして?」


 ミアは本当に不思議そうだった。


「大好きな人の血を飲むと、すっごく幸せになるんだよ? だったら、友達同士でも分け合えばいいじゃん!」


「ミア……」


「私が幸せになるの、嫌なの?」


 ルシアの胸が痛んだ。


「そんなことないよ」


「じゃあ、どうしてくれないの?」


「怖いから」


 ルシアは小さな声で答えた。


「前に、ミアが止まってくれなかったとき、本当に怖かったの。もう二度と、あんな思いはしたくない……」


 ミアはしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと笑った。


「そっかぁ」


 その声があまりに穏やかだったので、ルシアは少しだけ安心した。


「分かってくれた?」


「うん!」


 ミアはにっこり笑った。


「ルシアは、私に血をくれないんだね!」


「……ミア?」


「何回お願いしても、くれないんだ」


 ミアは少し寂しそうに眉を下げた。


「友達なのにね」


 ルシアが何か言おうとしたとき、ミアは明るい声で続けた。


「でも、もう大丈夫!」


「え?」


「私、いいこと思いついたの!」


 ミアは笑いながら、ルシアへ歩み寄った。


「ミア、何を……?」


「大好きだよ、ルシア!」


 その声と同時に、ルシアの身体へ突然、強い衝撃が走った。


「……え?」


 何が起きたのか分からなかった。


 すぐ近くにいたミアが、いつの間にか調理台から包丁を手に取っていた。


 ルシアは自分の身体へ視線を落とす。


 淡い桜色のワンピースに、赤い染みが広がっていった。


「……あ……れ……?」


 温かいものが流れ落ちていく。


 床に赤い雫が落ちた。


 一滴、二滴。


 やがて、途切れることなく。


「ミ、ア……?」


 遅れて、激しい痛みが襲ってきた。


「――っ、あああっ!!」


 ルシアの膝が折れた。


 調理台に手をつこうとしたが、力が入らない。


 皿が落ち、焼き上がったばかりのクッキーが床へ散らばった。


「いた……っ、痛い……!」


 ルシアは身体を丸めた。


 何が起きたのか理解できない。


 さっきまで笑っていたのに。


 一緒にお菓子を作っていたのに。


 ミアは、あんなに嬉しそうだったのに。


「ミア……どうして……?」


 ミアは首を傾げた。


「え? だって、ルシアが悪いんだよ?」


 その声には怒りも憎しみもなかった。


 まるで、友達が約束を忘れたことを指摘するような口調だった。


「友達なのに、少しも血を分けてくれないんだもの!」


 ルシアは必死に後ずさろうとした。


「や……やめて……」


「分けてくれないなら、貰うしかないよね?」


「お願い……ミア……!」


 ルシアが逃れようとすると、ミアは困ったように笑った。


「もう、動かないでよ!」


 再び、ルシアの身体に痛みが走った。


「――ああっ!!」


 床に倒れ込んだルシアは、必死に身体をよじった。


 逃げなければ。


 誰かを呼ばなければ。


 そう思うのに、身体が思うように動かない。


「やめ……て……!」


 その懇願は、ミアには届かなかった。


 ミアは何度もルシアを刃物で傷つけた。


 ルシアが痛みにもがくたび、困ったように眉を下げながら。


「もう! ルシアったら、暴れるからいっぱい刺しちゃった!」


 まるで、失敗したお菓子作りの話でもしているかのようだった。


「じっとしてくれたら、すぐ終わるのに!」


 ルシアの頬を涙が伝った。


「いや……」


 震える声。


「ミア……もう……やめて……」


「大丈夫だよ!」


 ミアは笑った。


「ルシアは、つよ〜い純血種のヴァンパイアだもん!」


 ルシアは首を横に振ろうとした。


 けれど、もうその力さえ残っていなかった。


「死ん……じゃう……」


「えー? 死なないよ!」


 ミアは心底おかしそうに笑った。


「だって、前もちゃんと治ったじゃん!」


 ルシアの意識が揺らぐ。


 視界がぼやけ、台所の天井が遠く感じられた。


 そのとき、ミアの顔が近づいた。


「ねえ、ルシア」


 優しい声。


「私ね、ずっとこの味が忘れられなかったんだ」


「や……」


「大好きだから、また許してくれるよね?」


 ルシアが拒むより早く、ミアの牙が首筋へ食い込んだ。


 ルシアの身体が大きく震えた。


 声にならない悲鳴が漏れる。


 ミアはそこから流れる血を飲み始めた。


「……あ……」


 ひと口。


 ミアは目を見開いた。


 次の瞬間、うっとりと瞼を閉じる。


「おいしい……」


 その声は、幸福に満ちていた。


「やっぱり……」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「やっぱり、ルシアの血が一番好き!」


 身体の奥から、温かさが広がっていく。


 満たされる。


 ずっと欲しかったものが、ようやく手に入った。


 血液パックでは決して感じられなかった、あの幸福感。


 ミアは夢中になった。


 ルシアの身体が小さく震えていることも。


 その手が必死に床を掻いていることも。


 自分の名前を呼ぶ声が、少しずつ弱くなっていることも。


 ミアには、もうどうでもよかった。


 ただ、幸せだった。


 ルシアは薄れゆく意識の中で、ミアの姿を見つめていた。


 自分の血を飲みながら、幸せそうに笑う親友。


 その姿が、恐ろしかった。


 痛みよりも。


 失われていく力よりも。


 何よりも。


 大好きだったミアが、自分を傷つけながら笑っていることが。


「ミ……ア……」


 かすれた声で名前を呼ぶ。


 けれど、ミアは顔を上げなかった。


 ルシアの瞳から、また涙がこぼれた。


 どうして。


 どうして、こんなことに。


 もう一度だけ、親友に戻れると思ったのに。


 その願いは、誰にも届かなかった。


     *


「……ああ、分かった。アルに伝えとく」


 玄関先で学園の使いを見送ったクレイドは、受け取った書類を確認した。


 居間へ戻ろうとして、ふと足を止める。


 静かだった。


 さっきまで聞こえていた、二人の笑い声がない。


「……?」


 クレイドは眉をひそめた。


「ルシア?」


 返事はなかった。


 台所へ近づくと、何かが床に散らばっているのが見えた。


 割れた皿。


 クッキー。


 そして、その先に広がる赤いもの。


「……は?」


 クレイドの足が止まった。


 その赤が何なのか、理解するのに一瞬かかった。


 血。


 大量の血だった。


 台所の奥で、誰かが床に膝をついている。


 ミアだった。


 彼女はルシアの身体に覆いかぶさるようにして、その首元から血を飲んでいた。


 傍らには、赤く染まった包丁が落ちている。


 ミアは夢中だった。


 クレイドが近づいてきたことにも気づかない。


「おい……」


 掠れた声が漏れた。


「何……して……」


 ミアがようやく顔を上げた。


 口元を赤く染めたまま、ぱっと笑う。


「あ! クレイド!」


 その笑顔は、いつもと同じだった。


「ねえ、聞いて!」


 ミアは嬉しそうに言った。


「ルシアの血、やっぱりすっごく美味しいの!」


 クレイドは息を呑んだ。


 ミアの下で、ルシアがかすかに身じろぎした。


「クレ……イド……」


 その声で、クレイドは我に返った。


「――ルシア!!」


 駆け寄り、ミアを引き離す。


「何してんだ、お前!!」


「きゃっ!」


 ミアは驚いたように目を丸くした。


「もう! クレイドまで!」


 クレイドは答えなかった。


 ルシアの傍らに膝をつく。


「ルシア……?」


 身体が冷たかった。


 顔色はひどく青白く、呼吸も弱い。


 血に濡れた桜色のワンピース。


 床に広がる赤。


 その光景が、クレイドの頭を真っ白にした。


「おい……嘘だろ……」


 ルシアの瞳が、わずかに動いた。


「クレイ……ド……」


「喋るな! 今、アルを呼ぶ!」


 クレイドは震える手で、ポケットから小型通信機を取り出した。


 アルベルトの通信番号を呼び出す。


 呼び出し音が、一度。


 二度。


 その短い時間さえ、ひどく長く感じられた。


『クレイド? どうした?』


「――アル!! 今すぐ戻ってこい!!」


『何だ!? 何があった!』


「ルシアが……ミアに……!!」


 言葉が続かない。


 クレイドはルシアの顔を見下ろした。


 今にも消えてしまいそうな呼吸。


 震える指先。


 何度呼びかけても、焦点の合わない瞳。


「頼む……早く……!!」


『クレイド、落ち着け! ルシアは今どうなってる!?』


「血が……止まらねぇ……!」


 クレイドの声が震えた。


「アル……頼む……!」


 通信機の向こうで、椅子が倒れるような音がした。


『今すぐ戻る! 通信は切るな! 俺の指示を聞け!』


 アルベルトの声は、いつになく切迫していた。


 クレイドは震える手で通信機を握りしめた。


 その背後で、ミアが笑った。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ?」


 クレイドの手が止まる。


「……何?」


「だって、ルシアは純血種でしょ?」


 ミアは不思議そうに首を傾げた。


「前もちゃんと治ったんだから、今回も大丈夫だよ!」


「……」


「それに、私、ちゃんとお願いしたんだよ?」


 ミアは少し不満そうに頬を膨らませた。


「なのにルシアが嫌だって言うから、仕方なかったんだもん!」


 クレイドはゆっくり振り返った。


「仕方なかった……?」


「うん!」


「お前……」


 怒りで声が震える。


「ルシアが、どんな思いをしたか……」


「えー? でも、私だってずっと我慢してたんだよ?」


 ミアは明るく言った。


「三ヶ月以上も頑張ったんだもん! 少しくらい、ご褒美があってもいいじゃん!」


 クレイドの顔が歪んだ。


「――ふざけんな!!」


 怒鳴り声が家中に響いた。


 ミアがびくりと肩を揺らす。


「え?」


「これが……これが少しだって言うのかよ!!」


 クレイドはルシアを指さした。


「見ろよ!! ルシアを見ろ!!」


 ミアは床へ目を向けた。


 ルシアは動かなかった。


 呼吸は弱く、瞳も閉じかけている。


 ミアは少し考えた。


 それから、困ったように笑った。


「あれ?」


 首を傾げる。


「ちょっと、貰いすぎちゃったかな?」


 クレイドは言葉を失った。


 ミアは、もう一度ルシアを見つめた。


「でも、大丈夫だよね?」


 その声は、どこまでも無邪気だった。


「ルシア、すぐ治るもん!」


 クレイドは、目の前の少女が恐ろしくなった。


 ミアは自分が何をしたのか、見えていないわけではない。


 ルシアが痛がっていたことも、嫌がっていたことも、きっと分かっていた。


 それでも、自分が欲しいものを手に入れることのほうが大切だった。


 クレイドはルシアの手を握った。


「ルシア……」


 かすかに、指が動いた。


「クレ……イド……」


「ああ、いる。俺がいるから……!」


 ルシアの瞳から涙が流れた。


「こわ……かった……」


 クレイドは唇を噛みしめた。


「分かってる……」


 その手を強く握る。


「もう、絶対に近づけねぇから……!」


 ルシアの唇が、かすかに動いた。


「お兄……様……」


 その声を聞いた瞬間、クレイドの胸が締めつけられた。


「ああ。ゼノンも呼ぶ。だから、頼む……!」


 クレイドは通信機へ向かって叫んだ。


「アル!! ゼノンにも連絡してくれ!!」


『分かった! すぐに知らせる!』


 クレイドはルシアへ視線を戻した。


「ルシア?」


 その手から、ゆっくりと力が抜けていった。


「おい……」


 呼びかけても、返事がない。


「ルシア……?」


 何度呼んでも、瞳は開かない。


「――ルシア!!」


 悲痛な叫びが響いた。


 通信機の向こうから、アルベルトの声が聞こえる。


『クレイド! どうした!? 返事をしろ!』


 けれど、クレイドは答えられなかった。


 目の前で、大切な幼馴染が動かなくなってしまった。


 それが、ただ恐ろしかった。


 その背後で、ミアが小さく笑った。


「ねえ、クレイド」


 クレイドは振り返らなかった。


「私、やっと幸せになれたんだよ?」


 ミアは自分の胸に手を当てた。


「ずっと寂しかったのに、ルシアの血を飲んだら、全部満たされたの!」


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「やっぱり、ルシアは私の大切な友達なんだね!」


 クレイドは、その声を聞きながら思った。


 もう、元には戻れない。


 三ヶ月間の努力も。


 みんなが信じようとした気持ちも。


 ルシアが差し伸べ続けた手も。


 すべてが、たった今、踏みにじられた。


 ミアは親友の血を飲みながら幸福を感じ、親友が死にかけていることさえ、自分の幸せの前では些細なことだと思っていた。


 クレイドの腕の中で、ルシアは静かに意識を失った。


 窓の外では、午後の陽射しが庭を照らしていた。


 台所には、焼きたてのクッキーの甘い香りが、まだ残っていた。


 ほんの少し前まで、二人で笑いながら作っていたクッキー。


 ゼノンにも食べてもらおうと、ルシアが嬉しそうに話していたクッキー。


 そのひとつが、ルシアの手のすぐそばに落ちていた。


 小さな、花の形をしたクッキーだった。


 クレイドは唇を噛みしめ、ルシアを抱き寄せた。


「頼むから……」


 その声は、ほとんど祈りだった。


「死ぬなよ、ルシア……」


 ミアはそんな二人を眺めながら、床に落ちていたクッキーをひとつ拾い上げた。


「あ、これ綺麗に焼けたやつだ!」


 嬉しそうに笑う。


「ねえ、クレイド。あとでみんなで食べようね!」


 返事はなかった。


 ミアは少しだけ頬を膨らませた。


「もう、みんな変なの」


 それから、眠っているように動かないルシアへ微笑みかけた。


「早く元気になってね、ルシア!」


 いつもの明るい声だった。


「また一緒に、お菓子作ろうね!」


 その言葉に答える者は、誰もいなかった。


 クレイドはただ、ルシアのかすかな呼吸を確かめながら、アルベルトが戻ってくるのを待ち続けた。


 もう二度と、彼女の手を離さないと誓いながら。

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