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分けてくれないなら



 その日、ミアは朝から上機嫌だった。


「アル! 見て見て!」


 朝食を終えたアルベルトが振り返ると、ミアが一冊のノートを抱えて駆け寄ってきた。


「どうした?」


「昨日の記録! 今週、ずっと問題なしだったの!」


 差し出されたノートには、丁寧な文字が並んでいた。


 血液パックの摂取量。


 体調の変化。


 吸血衝動の有無。


 どの項目にも、異常を示す記録はない。


「……ああ。よく続けたな」


「でしょ!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


「ねえ、私、もう普通に学校行ける?」


「それは今日の面談次第だな」


「えー! まだ面談あるの?」


「当たり前だろ。三ヶ月頑張ったからって、確認なしに全部元どおりとはいかねぇよ」


「もう、アルってば心配性!」


 ミアは笑いながら椅子に腰掛けた。


 その様子を、クレイドが少し離れた場所から眺めていた。


「……お前、最近やけに機嫌いいな」


「そう?」


「ああ」


「だって、もうすぐ学校に戻れるんだよ? 嬉しいに決まってるじゃん!」


「……まあ、そうだな」


 クレイドはコーヒーカップを手に取った。


「でも、調子に乗るなよ」


「分かってるってば!」


 ミアは頬を膨らませた。


「クレイドまでアルみたいなこと言う!」


「誰がアルだ」


「俺みたいで悪かったな」


 アルベルトが横から口を挟むと、ミアは声を上げて笑った。


 その笑い声は、三ヶ月前と変わらない。


 明るくて、無邪気で、少し騒がしい。


 だからクレイドも、つい口元を緩めてしまった。


 以前のミアが戻ってきた。


 そう思いたかった。


     *


 午後の面談には、アルベルト、エリーゼ、そしてゼノンが同席した。


「では、ミア。最近、血を飲みたいと感じたことはありますか?」


 エリーゼが尋ねる。


「ないです!」


「誰かの血の匂いが気になったことは?」


「ううん。全然!」


「ルシアの血については?」


 ゼノンが静かに口を開いた。


 ミアの笑顔が、一瞬だけ止まった。


「……ルシア?」


「そう。以前、君は何度もルシアに血を求めていたよね」


「……ああ!」


 ミアは思い出したように笑った。


「もう言わないって約束したじゃないですか!」


「言わないことと、欲しくなくなったことは違うよ」


「……」


「今も欲しい?」


 ゼノンの赤い瞳が、まっすぐミアを見つめる。


 ミアは膝の上で指を組んだ。


「……欲しくないです」


 静かな返事だった。


「本当に?」


「はい!」


 ミアは顔を上げる。


「私、もう大丈夫ですから!」


 ゼノンはしばらく黙っていた。


 その沈黙に耐えきれなくなったように、ミアが笑う。


「もう、ゼノン先輩ってば! そんなに疑わなくてもいいのに!」


「……」


「私、ルシアのこと大好きですけど、もう困らせたりしません!」


 アルベルトが記録帳を閉じた。


「……分かった。通常授業への復帰は、まず短時間から始めよう」


「本当!?」


「ああ。ただし、しばらくはエリーゼか担当教員の監督下だ。ルシアとの二人きりの接触も、引き続き禁止」


「……はーい!」


 ミアは元気よく返事をした。


 アルベルトは苦笑する。


「返事だけはいいな、お前」


「えへへ!」


 ミアは嬉しそうに笑った。


 けれど、ゼノンだけは笑わなかった。


 面談が終わり、ミアが部屋を出ていったあと。


「……アル」


「何だ?」


「復帰を認めるのは、まだ早いと思う」


 アルベルトが溜息をつく。


「俺も全面的に安心してるわけじゃねぇ。だから段階的な復帰なんだ」


「……」


「だが、いつまでも閉じ込めておくわけにもいかねぇだろ」


 ゼノンは窓の外へ目を向けた。


「……あの子は、嘘をついた」


 エリーゼが顔を上げる。


「……ゼノンさん?」


「ルシアの血を欲しくないと言ったとき、一瞬だけ表情が変わったし、心拍が早くなった」


「……」


「確証はない。でも、僕は信じられない」


 アルベルトは腕を組んだ。


「……分かった。監督を強めよう」


 ゼノンは頷いた。


 けれど、その胸の奥にある不安は消えなかった。


     *


 学園への復帰が決まった翌日。


 ミアは久しぶりに制服へ袖を通した。


「……わあ!」


 鏡の前でくるりと回る。


「やっぱり制服っていいなぁ!」


 以前は、毎日着るのが当たり前だった。


 授業を受けて。


 友達と笑って。


 帰り道に寄り道をして。


 そんな何でもない日常が、今はとても眩しく感じられる。


「……ルシア、喜んでくれるかな」


 ミアは鏡の中の自分へ微笑んだ。


 きっと喜んでくれる。


 だって、自分たちは親友なのだから。


 ミアは鞄を持ち上げた。


 机の上には、三ヶ月間書き続けた記録帳が置かれている。


 最後のページには、昨日の面談について書かれていた。


『学校に戻れることになった! アルもエリーゼも褒めてくれた。ゼノン先輩はまだ心配してるみたいだけど、私、もう大丈夫だもん!』


 その下には、小さな花の絵。


 ミアは満足そうに頷いた。


 そして、部屋を出ていった。


     *


「ミア!」


 学園の廊下で、ルシアが嬉しそうに駆け寄ってきた。


「学校に戻れたんだね!」


「ルシアー!」


 ミアも両手を広げる。


 けれど、抱きつく直前で足を止めた。


「あ……」


 ルシアも、少しだけ身体を強張らせていた。


 ほんの一瞬。


 けれど、ミアは見逃さなかった。


「……ごめんね」


 ミアが小さく笑う。


「びっくりさせちゃった?」


「……ううん!」


 ルシアは慌てて首を振った。


「そうじゃなくて……」


「大丈夫!」


 ミアは一歩下がった。


「私、ちゃんと分かってるから!」


 その言葉に、ルシアはほっとしたように微笑んだ。


「……ありがとう、ミア」


「えへへ!」


 ミアは笑った。


 けれど、胸の奥には小さな棘が刺さっていた。


 まだ怖がられている。


 三ヶ月も頑張ったのに。


 まだ、抱きつくことすらできない。


 それでもミアは、笑顔を崩さなかった。


「ねえ、ルシア! 今日の授業終わったら、一緒にお茶しようよ!」


「うん!」


「やった!」


 ミアは嬉しそうに手を叩いた。


 その後ろから、エリーゼが歩いてくる。


「ミア。そろそろ教室へ向かいましょう」


「はーい!」


 ミアはルシアへ手を振った。


「またあとでね!」


「うん!」


 ルシアも笑顔で手を振り返した。


 ミアはその姿を見つめながら、胸の奥で小さく呟いた。


 やっぱり、ルシアは優しい。


 自分のことを大切に思ってくれている。


 だから。


 きっと、もう少ししたら分かってくれるはず。


     *


 それから数日。


 ミアは模範的な生徒だった。


 授業には真面目に参加し、課題もきちんと提出した。


 血液パックの摂取量も守っている。


 誰かの血を欲しがる様子もない。


 エリーゼは、その変化を嬉しく思っていた。


「本当に頑張っていますね、ミア」


「えへへ!」


「この調子なら、少しずつ通常の生活に戻れるでしょう」


「ほんと!?」


「はい。ただし、焦らないことです」


「分かってる!」


 ミアは笑った。


 その日の放課後。


 ルシア、エリーゼ、ミアの三人は、学園の中庭でお茶を飲んでいた。


「ねえ、ルシア」


「なあに?」


「最近、お兄様とはどうなの?」


 ミアがにやにや笑う。


「えっ?」


 ルシアの頬が赤くなった。


「ど、どうって……」


「もう、分かってるくせに!」


「ミア!」


 エリーゼが小さく笑う。


「ミア、あまりからかわないであげてください」


「だって気になるんだもん!」


 ミアは楽しそうに笑った。


「ゼノン先輩って、ルシアのことになると本当にすごいよね!」


「……お兄様は、昔から優しいよ」


 ルシアが微笑む。


 その表情は、ミアが見たことのないほど柔らかかった。


「……へえ」


 ミアは頬杖をついた。


「……ねえ、ルシア」


「なあに?」


「ゼノン先輩って、ルシアの血を飲んだことあるの?」


 ルシアの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「……っ!?」


 エリーゼも目を見開く。


「ミア!」


「えー! だって気になるじゃん!」


 ミアは笑った。


「この前、エリーゼが教えてくれたんだよ! 愛する人の血って、すっごく特別なんでしょ?」


「……そ、それは……」


 ルシアは困ったように俯いた。


 ミアはその反応を見て、ますます興味を持った。


「ねえ、飲んだことあるの?」


「……ミア」


「一回くらい?」


「……」


「それとも、何回も?」


「ミア!」


 エリーゼが少し強い声を出した。


「そういうことは、あまり軽々しく聞くものではありません」


「えー!」


「とても親密な行為なのですから」


「……はーい」


 ミアは唇を尖らせた。


 けれど、すぐに笑顔に戻る。


「じゃあ、聞かない!」


 ルシアはほっとしたように息をついた。


 しかし。


 ミアの胸には、別の感情が芽生えていた。


 ゼノン先輩は、ルシアの血を飲んでもいいのかな。


 自分は駄目なのに。


 どうして?


 兄妹だから?


 婚約者だから?


 愛しているから?


 だったら。


 自分だって、ルシアのことが大好きなのに。


 親友だから、私もいいよね?


     *


 その夜。


 ミアはベッドの上で膝を抱えていた。


 昼間のルシアの表情を思い出す。


 ゼノンの話をしたときの、幸せそうな笑顔。


 血の話をしたときの、真っ赤な頬。


「……いいなぁ」


 ミアはぽつりと呟いた。


 ゼノン先輩は、ルシアの血を飲めるのかもしれない。


 ルシアも、それを嫌がらないのかもしれない。


 そう考えると、胸の奥がちくりと痛んだ。


「……ずるい」


 小さな声が漏れた。


「……私だって、ルシアのこと大好きなのに」


 ミアは枕を抱きしめた。


 恋人や兄妹じゃなければ、駄目なの?


 友達じゃ、駄目なの?


 ルシアのことを大切に思っているのは、自分だって同じなのに。


「……なんで?」


 ミアは天井を見上げた。


「……なんで、私だけ駄目なの?」


 答えは返ってこなかった。


 けれど、ミアの中では少しずつ、別の答えが形になっていた。


 ルシアが意地悪をしているから。


 ゼノン先輩が邪魔をするから。


 みんなが、自分の気持ちを分かってくれないから。


 そう考えると、不思議と胸が軽くなった。


 自分が悪いわけじゃない。


 ただ、周りが分かってくれないだけ。


「……そうだよね」


 ミアは小さく笑った。


 そして、ふと思い出した。


 エリーゼの言葉。


『愛する者の血を飲むと、心に空いていた隙間が埋まっていくような感覚になるのです』


 ミアは目を閉じた。


 あの日の血の味が蘇る。


 温かくて。


 甘くて。


 身体の奥まで幸福で満たされるような、忘れられない感覚。


「……ああ」


 ミアは胸に手を当てた。


「……また、飲みたいなぁ」


 その声は、恋する少女のように柔らかかった。


 けれど、そこにあるのは恋ではなかった。


 友情でもなかった。


 愛情の形を借りた、歪んだ執着だった。


     *


 数日後。


 アルベルトは学園から帰宅すると、居間でルシアとクレイドが話しているのを見つけた。


「お、二人とも帰ってたか」


「アル!」


 ルシアが顔を上げる。


「おかえりなさい!」


「ああ、ただいま」


 アルベルトは上着を脱ぎながら尋ねた。


「ミアは?」


「部屋にいる」


 クレイドが答える。


「さっきまで記録帳つけてた」


「そうか」


 アルベルトは頷いた。


「……ルシア」


「なあに?」


「ミアのことで、何か気になることはないか?」


 ルシアは少し考えた。


「……うーん」


「遠慮しなくていいぞ」


「……最近、ちょっとだけ」


 ルシアが俯く。


「血の話をすることが増えたかも……」


 アルベルトの表情が変わった。


「……どんな話だ?」


「この前は、お兄様が私の血を飲んだことがあるかって聞かれて……」


「……」


「でも、エリーゼが止めてくれたし、それ以上は聞かれなかったよ」


 クレイドが眉をひそめる。


「……おい、それ、アルに言ったのか?」


「……今、初めて」


「何で黙ってたんだよ」


「だって……」


 ルシアは困ったように笑った。


「ミア、すごく頑張ってるから……」


 アルベルトは深く息を吐いた。


「……ルシア」


「……うん」


「お前がミアを応援したい気持ちは分かる。だが、気になることは全部話してくれ」


「……」


「ミアを疑うためじゃない。ミア自身を守るためでもあるんだ」


 ルシアは小さく頷いた。


「……分かった」


 アルベルトはクレイドへ目を向けた。


「ミアの記録帳、あとで確認する」


「ああ」


「それと、しばらくは監督を強める」


 クレイドが頷いた。


「……俺も気をつける」


 ルシアは二人を見つめた。


 胸の奥に、小さな不安が広がる。


 ミアは、あんなに頑張っているのに。


 どうして、またこんなことになってしまうのだろう。


     *


 その夜。


 アルベルトはミアの部屋を訪れた。


「ミア、少しいいか?」


「はーい!」


 扉を開けると、ミアは机に向かっていた。


「記録帳?」


「うん!」


「ちょっと見せてくれ」


「いいよ!」


 ミアは何のためらいもなくノートを差し出した。


 アルベルトはページをめくる。


 血液パックの摂取量は正常。


 体調にも問題なし。


 吸血衝動は、ここ数週間ずっとゼロ。


「……ミア」


「なあに?」


「最近、ルシアの血について考えたことはあるか?」


 ミアは瞬きをした。


「……ルシアの血?」


「ああ」


「……ううん!」


 にっこり笑う。


「もう欲しくないよ!」


 アルベルトはミアを見つめた。


「……本当に?」


「本当!」


「ルシアに血をねだったことは?」


「……」


 ミアの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


 けれど、すぐに元へ戻る。


「……前にちょっと言ったけど、ゼノン先輩に怒られたから、もう言ってないよ!」


「……そうか」


 アルベルトは記録帳を閉じた。


「ミア。欲しくなること自体を責めるつもりはねぇんだ」


「……」


「だが、隠すのは駄目だ。自分でも気づかないうちに、欲求が強くなることがある」


「……うん」


「何かあったら、必ず言えよ」


「……分かった!」


 ミアは元気よく頷いた。


 アルベルトはしばらくその顔を見つめていたが、やがて立ち上がった。


「……じゃあ、今日はもう休め」


「はーい! おやすみ、アル!」


「ああ。おやすみ」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 ミアはしばらく、扉を見つめていた。


 そして。


「……もう」


 小さく頬を膨らませた。


「みんな、心配しすぎなんだから」


 記録帳を机へ戻す。


「……私、ちゃんと分かってるのに」


 ミアは窓の外を見た。


 夜空には、綺麗な月が浮かんでいた。


 ルシアの血を欲しがること。


 それが、いけないことだと教えられた。


 でも、エリーゼは言った。


 愛する者の血は、心を満たしてくれる。


 だったら。


 自分がルシアの血を欲しいと思うのは、自然なことではないのだろうか。


「……そうだよね」


 ミアは小さく笑った。


「私、ルシアのこと大好きだもん」


 だから、欲しい。


 それだけなのに。


 誰も分かってくれない。


 ミアはベッドへ横になった。


 目を閉じる。


 頭の中には、ルシアの笑顔が浮かんでいた。


 その白い首筋。


 傷跡ひとつ残っていない、綺麗な肌。


 あの日の血の味。


「……ルシア」


 ミアは小さく呟いた。


「……もう、意地悪しないでね」


 その声は、どこまでも優しかった。


 けれど。


 その優しさの奥で、何かが静かに壊れ始めていた。

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